Re:CREATORS全話感想/考察

はじめに

人生で見た中で最高のアニメ、『Re:CREATORS』を見返して何か書き残したくなったので一話ずつ感想や考察を書いていく。 ざっくり本作の概要を説明すると、原作に広江礼威、監督にあおきえい、音楽に澤野弘之、その他著名な製作陣が揃い踏みで2017年(3年前!)に放送されたシリーズアニメ作品。全22話でスッキリ完結。

recreators.tv

内容は様々な作中作のキャラクターたちがその創作者が存在する一段上のレイヤーの世界に現れて大騒ぎするメタフィクショナルな要素と、創作者たちが色々悩んだりする創作論的なエッセンスを盛り込んでぎりぎりエンターテイメント作品として成立させたようなアニメである。 ただ、こうした設置を扱う上で避けて通れない内容の複雑化もあり、かなり評価の分かれる作品であった。個人的には2010年代後半を象徴する作品と位置付けていて、本稿ではその辺りも伝えられると嬉しい。 またネタバレに配慮しないため、これから視聴する予定の方は注意してほしい。

各話感想/考察

#01 素晴らしき航海

"I will remember everything that happened to me."

アルタイルの作者=創造主であるシマザキセツナが自殺するシーンから物語が始まる。 自分を拒絶した世界に絶望したセツナから生み出されたアルタイルはその絶望を受け継ぎ、「享楽の神々共の恐るべき世界」「胡乱な創造主のひしめき合うおぞましい別天地」を崩壊させるべく行動を始める。

そんなアルタイルに呼び出されてセツナの生前の友人、水篠颯太の前に今期アニメ放送中(劇中)のライトノベルからセレジアが現れる。 セレジアとアルタイルのドタバタ戦闘(劇伴:澤野弘之)で大変盛り上がったのち、さらなるキャラクターが登場、そして今後も颯太が今後も巻き込まれていく予感で締めるとてもよくまとまった1話の構成だと思う。

あおきえい監督作品のパターンとして、毎話のサブタイトルとともに各話のセリフの一つが英訳されて引用される。 1話のそれは冒頭の颯太のモノローグから「記憶しておこうと思う。僕の身に起きた出来事を。」

#02 ダイナマイトとクールガイ

"...... that wasn't funny."

Aパートはメテオラによって設定と現時点で推定されるアルタイルの行動の意図が語られる。アルタイルによって様々な創作物のキャラクター、被造物たちが颯太のいる世界(=Re:CREATORSの世界)に呼び寄せられている。アルタイルはそうした作中作のキャラクターが創作者に影響を与えて、彼らが元いた世界を改変することを呼びかけている。

アルタイルがこうして作中作のキャラクターを呼び寄せることのできる理由は作中を通してあまり明示されていない。彼女は二次創作物という出自を持ち、さらに三次、四次創作と集合知的にそのキャラクターが作られたために確固とした土台となる物語文脈を持っていない。それゆえ例えば様々な作品世界とコラボする障壁が少ないということが考えられるだろうか。ざっくりと「そういう設定」が創作のネットワークの中で付け加えられたと解釈することもできる(だたしその設定を受け入れる素地があるのは前述の理由からだろう)。

Bパートはセレジアの原作者や、また新たに魔法少女のまみかが登場して再びドンパチが始まる。面白いのがまみかの世界では人に怪我をさせたり物を破壊したりすることのなかった彼女の能力が、創作者たちの世界では破壊的になってしまうところだ。そうした違いが彼女に「特定の物語文脈に組み込まれていたこと」の認識を強く促し、被造物たちの中で最初に自分のあり方を問い直し始める。

#03 平凡にして非凡なる日常

"Don't worry about what others said. Just be yourself."

メテオラたち一行はセレジアの原作者と、アルタイルが言っていたように創作者に働きかけて作品に設定を付け加えることで、その作品世界が改変可能かを検証する。作品世界が変化すれば現界している被造物の能力も変更可能で、つまりパワーアップできるというのが仮説である。しかしながら、小説を書いてイラストをつけただけでは被造物の能力は改変されない。作品世界を構成するために必要なのは、創作物に加えてそれが多くの人に承認されることなのである。

この「承認力」がこの作品全体を通して重要な要素となる。いかに優れた物語でも、それが多くの人に承認されなければ現実世界への影響を持ち得ない。物語は創作者が作り出し受けてがそれを認識し承認する共同作業によって作り出されるというのが本作での創作観である。

この回で引用されるセリフは、プロのイラストレーターの仕事を間近で見てビビる颯太へセレジアが言う「何を言われても気にしないでいい。君の歩幅でやればいいの」。『Re:CREATORS』はセツナを死に追いやってしまったという自責から創作できなくなってしまった彼が、再び何かを作り出すまでの物語でもある。

f:id:Re_venant:20200628234431j:plain

#04 そのときは彼によろしく

"If so, I want to protect what he loved."

メテオラは自分の出身作であるゲームの製作者に会いに行くが、既に亡くなっていた。自分の世界が真摯な思いで作られたのかを知りたい彼女は、それならと一晩かけて自分が登場するゲームをクリアする。そして彼女は、創造主の作品やそのプレイヤーへの愛情を感じ取り、自分に与えられた作品内での役割を受け入れる。また創造主が愛したそれらを含むこの現実世界を守ることを決意する。「ならば、私は彼の愛した物を守りたい」

またメテオラによって、様々な被造物が現実世界で活動することによって世界が崩壊してしまう可能性が指摘される。世界には辻褄を合わせる「修正力」があり、作品世界のキャラクターが現実に現れるといった普通考えられない自体を修正しようとするが、その自体があまりに複雑化すると世界の方が耐えられないというのだ。

この修正力というものを、超常的な力だと考える必要はない。ここでいう世界はあくまで『Re:CREATORS』という作品の世界である。その作品に普通あり得ないような設定をなんの説明もなく詰め込み続けて物語を進行させて行くとどうなるだろうか。私たち受け手はそんな物語は成り立っていないと感じ、それを物語として承認することはないだろう。そして承認されなければ、この作品は作品として成立しない。作品世界が消えてしまう。つまりそれがメテオラのいう世界の「大崩壊」なのである。

創造主が作り出し、受け手が承認する物語の構造は『Re:CREATORS』自体にも当てはまる。それゆえにこの「修正力」は私たち受け手が物語に「合理的な筋書き」を期待することだと言える。その期待に沿わない物語は承認されず、物語として成立しない。この合理的な筋書きへの期待を私たちは本能的に持っている。もちろん合理的な筋書きを持たない物語も存在するが、それは「非合理的」なものとして作り出されたことが承認されなければ成立しない。『Re:CREATORS』のようなアニメ作品がそうしたものとして製作されているという想定は持ち得ず、それゆえにこの物語は合理的であることを要請されている。

#05 どこよりも冷たいこの水の底

"So, why don't we have ourselves a guys' night out?"

さらに増えた被造物と創造主一行が話し合っていると自衛隊が突入してくるシーンがかなりお気に入りの回。ここまでの話で公的機関の関与が全くなかったので、当事者たちだけで完結するタイプの物語かと思わせておいて一気に関わってくる力学の規模が大きくなる。考えてみれば1話ではメテオラがどこか(自衛隊)から拝借してきたミサイルを撃ったりしている訳で、政府が対処しないわけがない事態ではある。

これほどややこしいメタ設定に政府の介入まで発生すると話が複雑になりすぎるのではないかと心配になるが、この作品の日本国政府の権力はほぼ菊地原という官僚一人に擬人化されている。そのあたりの構成の上手さは流石。

#06 いのち短し恋せよ乙女

"You are the one who knows where justice lies."

伝奇もの小説から嘘を否定させることで本当にする能力を持った築城院真鍳が登場する。これまで登場した被造物たちはある程度以上の道徳をわきまえていたが、彼女はそんなこともなく野放しにすると大変なのでメテオラ陣営が、シンプルに仲間を増やすためアルタイル陣営の被造物たちがそれぞれ大急ぎで接触を試みる。

真鍳に出会う前、まみかはこれから出会う相手が目的を違えども「いい人」であることを願う。引用セリフはそれに対してアリステリアの「其処元は正しさの在処を知っている」。単に人の善性を盲目的に信じるだけではないまみかのスタンスは、彼女が元の設定より複雑な自我を獲得しつつあることを示唆しているだろう。

その一方でアリステリアは「自身の世界を救済する」という目的に固執するあまり、メテオラと話し合うことができない。この辺りは設定や性格もあるが、あまりに重いものを背負った彼女の余裕のなさの表れであると思う。ところでおそらくアリステリアは単騎の戦闘能力なら作中作高レベルにあるが、それが自身の精神状態によって正しく発揮できないところに筋書きの妙がある。

まみかは自身の能力が他者を傷つける可能性を恐れてそれを使えないでいたが、今回の最後にはまみかがついにその力で戦いを止めることを決意する。元いた魔法少女ものアニメで当たり前に使っていたものを、悩んだ末に「自分」の意志で使う。それは彼女がこの世界において自分の信じる正義を改めて確立したからであり、また書き割られた役割を離れた「自分」の確立でもある。

#07 世界の小さな終末

"I don't want to make a mistake for the sake of the people who are in my story."

まみかは少し前に気づいていた颯太から聞き出し、メテオラたちはネットサーフィンの末にアルタイルの正体にたどり着く。彼女はソーシャルゲームのキャラクターをアレンジした二次創作キャラクターであり、ニコニコ動画的な動画投稿サイトを中心にアマチュアの創作者たちの間で発展していって生み出されていた。

まみかは自分が信じられるものを自分で見定めるため、敵側にいる颯太に単身話を聞きにきている。それは自分がこの世界においても、元いた世界の人々に認められた「魔法少女」として正しい行動を取りたいという思いからである。「私は間違いたくないの。私の物語の人達のために」

一方どちらの陣営にも属さず単身行動する真鍳は創造主だけの力では自身の設定を改変できないと知るや否やサクッと創造主を殺害してしまう。仮に彼女の立場にあったとして、自分の運命を好きに書き換えられる存在が手の届く場所にいたらとりあえず活動できなくしたくなるかもしれない(殺してしまうのはやりすぎだが)。

#08 わたしにできるすべてのこと

"I CHOSE this way of life."

颯太からアルタイルの出自を聞いたまみかは彼女の真意を問いただす。アルタイルが復讐を企てていることを確認した上で、まみかはそれでも彼女を助けたいという。アルタイルはそのスタンスを物語によって割り当てられた「偽善者」の仮面を被り続けていると非難する。しかしながらそれは、まみかが自分の意志で改めて選んだ生き方なのだ。「私はこの生き方を選んだんだよ」

f:id:Re_venant:20200628233642j:plain

それに対してアルタイルは自身もまみかと同じように、世界への復讐を自らの意志で決めたという。

余もそうだ。この世にうち捨てられた彼女、そのような役割に彼女を振った無慈悲な物語をこそ余は決して許さない。筋書きごときに忠義を尽くしてるのではない。余が決めた事だ。

この「そのような役割に彼女を振った無慈悲な物語をこそ余は決して許さない」というセリフから、アルタイルが目指す復讐がこの『Re:CREATORS』という物語自体であることがわかるだろう。セツナを死に追いやったのは、本作の世界の人々であるのと同時に本作の制作者たちが「そのような役割に彼女を振った」からだ。

アルタイルは『Re:CREATORS』の世界に様々な作中作のキャラクターを登場させ、メタ的で複雑な状況を作り出すことでこの物語自体の崩壊を狙っている。その引き金となるのは被造物たちの行動によって、私たち視聴者が『Re:CREATORS』という物語が合理的に成り立っていないと感じること、つまり「修正力」である。そしてこの『Re:CREATORS』という物語の崩壊は、様々な準備や労力を以ってこの物語を製作している人々への彼女ができる最大の復讐だと言える。

アルタイルと決別したまみかはこれまで抑えてきた自身の能力を最大出力で放ち、この回は幕引きとなる。アルタイルの攻撃によってまみかにサーベルが突き刺さるシーンの衝撃や、まみか本来の能力の威力も合わさって本作屈指の引きの演出が素晴らしい回。

#09 花咲く乙女よ穴を掘れ

"The world requires choice and resolution."

まみかの死に際に立ち会った真鍳は、彼女の遺言の順序を並び替えてアリステリアに全く逆の事態を誤認させてしまう。まみかを殺したのはメテオラであり、彼女たち一行は世界の崩壊を狙っているのだと。というわけでアリステリアはまみかの仇を取るためメテオラたちと敵対することになる。

物語=フィクションと「嘘」は同じカテゴリにある。そんな物語の中で真鍳が嘘をつくことそれ自体が「嘘の嘘」と言える。「嘘の嘘」が実現するというのは、フィクションだから(ある程度)何でもあり得るということの言い換えなのかもしれない。物語には合理性が求められる一方で、現実とは違った世界であることも可能である。この合理性は、あくまで私たちの世界での合理性ではなく「フィクションの世界」での合理性だからだ。だからその合理性を納得させることさえできてしまえば、本来あり得ないことでも起こすことができる。

真鍳の能力はその合理性の承認という過程をスキップしてしまうものなのだ。もちろんその裏側にはきちんとした承認のシステムがある。彼女の装いや言動、出自から私たちは彼女に過去にあった他作品(西尾維新とか)の文脈を重ねて見ている。その文脈のために私たちはこういうキャラクターはこういう能力を使うよね、と想定し、実際に使われても納得できる。こうした文脈が彼女の能力を成り立たせているのである。

颯太からセツナのことを明かされたメテオラは「世界は選択と覚悟を要求する」、目をそらしてはいけないと諭す。現実世界なら別に目をそらして逃避し続けても誰も文句を言わないが、残念ながら彼らは物語世界の住人である。だから「世界」は、「私たち」は彼に選択と覚悟を要求してしまう。過去を直視し、それを乗り越える筋書きが「物語」の常だからだ。

#10 動くな、死ね、甦れ!

"We know exactly how you think and how you're fighting !"

腕力で勝るアリステリアに頭脳派のメテオラはやはり敵わない、といったところで颯太がアリステリアの前に立ちはだかる。颯太は彼女の物語の話を始める。彼女の物語を読み、彼女のあり方を知っている颯太がメテオラと敵対するのは間違っていると彼は考える。「あなたがどう思ってどう戦っているかを、僕らはちゃんと知っている!」アリステリアの悲惨な物語を読んで彼らは彼女の戦いに背中を押され、その正しさに憧れていると言う。しかしながらアリステリアは、颯太たちにとっての自分の物語は、ただの「物語」にすぎないではないかと指摘する。それに対して颯太はこう言い切ってしまう。

お話なんて言うなら僕の目の前で起きなかった全てが僕にとってはただのお話だ!現実だの物語だのそんなの関係ない!

f:id:Re_venant:20200628233302j:plain

このセリフはこの物語が「現実」と「物語」をどう捉えているかを表しているだろう。物語に感動することと、現実のどこか遠くで起こった出来事に感動することの間に認識論的な違いはない。その違いは、多くの人が現実だと承認したかどうかでしかないのである。

その後、久しぶりに登場したセレジアがアリステリアの槍に貫かれてしまう。セレジアの創造主、松原は3話で試した設定改変によるパワーアップをSNSで承認を得ることで実現する策に出る。その際の彼の自身の創作したキャラクターに対する思いがとても良い。

俺がお前の作者な限りお前にそんな間抜けな死に方絶対させねぇぞ!絶対にだ!

プロの作家として自身が作り出したものへの矜持と信頼が、彼の自分の仕事への思い入れを感じさせる。

#11 軒下のモンスター

"We cannot decide where we go but you can."

Aパートはセツナとの過去を打ち明けられなかったことを悩む颯太と鹿屋の会話。鹿屋は役割や目的を決められている自分たち物語のキャラクターはある意味で楽だと言う。その一方で颯太たちこの世界の住人は自分たちで自分の進む道を決めなくてはならない。「君らは僕らと違って自分のいる場所は自分で決められるってこと。」そしてそれは困難ではあるが、「世界を救う以外の能はない」自分たちにに比べて素晴らしいことだと言う。

この会話が颯太が自分の過去に向き合い再び創作を始めるきっかけになる。またそれと合わせて、曇天を突き抜けて上空に出てそれが晴れる演出が良い。

Bパートではセツナと颯太の過去が語られる。才能を開花させていくセツナに対して彼は自分が置いていかれるような感覚を持っていた。そんなセツナがインターネットで炎上するのを見て、彼はセツナがこれ以上自分を置いてくことがなくなると安心してしまう。そして助けを求めてきた彼女を突き放したのちに、彼女が自殺してしまったことに罪の意識を感じていた。そんな彼が自身と彼女の確執の原因でもあった「創作」のキャラクターたちと関わることでその過去に向き合うことができるようになる。

#12 エンドロールには早すぎる

"Be desperate and draw something fascinating."

アルタイルはインターネット上での誹謗中傷で自身が世界に拒絶されたと感じたセツナの遺作として生み出された。そんな彼女は自身の創造主の死後も二次創作という形で設定に厚みを増し、多くの人の承認を得てキャラクターとして成立するに至った。これまでのアルタイルはそういった二次創作で付与された能力をフルに使うことはできなかった。それはまだ私たち視聴者にこの設定が明かされておらず、あまりに多彩な能力を合理的だと感じられなかったからだ。しかし二次創作の集合体であるとわかった今、彼女がどんな能力を持っていてもある程度合理的だと感じるようになるだろう。それゆえに、こうしてアルタイルの謎を解くことは彼女の能力を強化することにも繋がってしまう。

メテオラたちはアルタイルを倒すために、今現界しているキャラクターがクロスオーバーして世界の危機に立ち向かう話を作り、それをイベントという形で多くの人に承認させる作戦を考える。その中でメテオラたちの能力を高めてアルタイルを上回ることができればなんとか世界は崩壊を免れる。それはある意味で、アルタイルを生み出した二次創作のネットワークと松原たちプロの創作者たちの作品のどちらがより強い承認を得られるかという戦いでもある。

颯太との会話で人々がどんな思いで自身の物語を見ているのかを知ったアリステリアは、改めて自身の創造主の高良田(監禁中)に自分の世界への思いを問い直す。もちろん、誰かを力づけたり勇気を与えたりするため以外に悲惨な物語を書いているわけがないと高良田は答える。それに納得したアリステリアは彼を解放して「うんと面白いものを死ぬ気で描け」と言う。ここに至ってようやく彼女は自身の世界が悲惨な物語であることに意味を見出せたのだろう。

#13 いつものより道もどり道

"An unpredictable story that no one knows where it's leading to."

登場人物がこれまでの物語を好き勝手に改変しながら語り直すという前代未聞の総集編。改変する以外にも語り手であるメテオラの偏見と感想が多分に含まれていて面白い。

単に変わった総集編であると同時に、メテオラが最終的にこの世界に残って『Re:CREATORS』という物語を創作することの伏線でもある。だからこそ創造主でもある彼女が自由にこの物語を語り直すことができる。 つまりこの『Re:CREATORS』という物語は出来事をメテオラが再構成した作中作でもあるのだ。

#14 ぼくらが旅に出る理由

"I feel painful and so useless that I want to cry but it's fun nevertheless."

総集編を挟んで後半に突入。エンディングテーマの『ルビコン』の曲と映像がとても良い。実写の制作現場と作品のキャラクターが共存する映像は、やはり本作が自身のメタ的構造にこの作品自体も含まれていることに自覚的だということが現れているだろう。

f:id:Re_venant:20200628233425j:plain

この回はこれまでのドンパチとは打って変わって創作者たちの話になる。会社に所属する人と個人で製作する人、筆の早い人と遅い人が入り混じってプロジェクトを進めるわけで、様々な軋轢を生みつつもなんとか擦り合わせて形にしていかなければならない。またそれぞれの作品をクロスオーバーするにしても、各々曲げられない設定があってぶつかり合う。なぜならその曲げられないものにはクリエイターとしての矜持がかかっているからだ。

セレジアのイラストレーターのまりねが、ブリッツの登場する漫画を描いている駿河があんまり筆が速くて上手いので凹んでしまうシーンがある。彼女を追いかけてきた颯太との会話で、自分に自信がなかったとしても自分自身を認めるために描き続けるしかないと語る。そしてそれは「楽しいこと」なのだとも。「辛くて不甲斐なくて泣きたくて…でもやっぱり楽しい事なんです。」このシーンは颯太が再び創作というものに向き合うための、大きな契機の一つだろう。

f:id:Re_venant:20200628233403j:plain

ところでこの回のサブタイトル「ぼくらが旅に出る理由」が小沢健二の曲名であることに気づいてようやく、各回のサブタイトルが映画や音楽といった創作物から引用されているのがわかった。このサブタイトルの引用は全22話の21話まで続く。

#15 さまよいの果て波は寄せる

"This is perfect! She couldn't have been any more perfect!"

アリステリアは真鍳を見つけ出し、アルタイルを止めるために状況を「面白くする」ことを要請する。それによって真鍳が動き出し、アルタイルとの決戦のための颯太の最後の仕込みに関わることになる。主人公である颯太によって変わったアリステリアの行動が間接的にではあるが物語の核心部分に関わることになり、筋書きの上手さが感じられる。

ブリッツの作品での彼と娘の間に起こったことの顛末が語られ、彼がアルタイルの側につく理由が明らかになる。最終決戦に臨むアルタイルは彼を一度自由にし、創造主に会いにいくことを勧める。ブリッツと創造主の駿河の出会いは17話で描かれることになる。

#16 すばらしい日々

"This is the actual beginning, isn't it?"

時系列的にはアルタイルとの決戦のためのフェスの準備が終わり、ひとまずの壮行会が行われる大江戸温泉物語へとセレジアと颯太が向かう車中からこの回は始まる。覚悟を決めて創造主たちに加わった颯太は「世界とかじゃなく僕が決めた事の為に」、「大失敗するかもしれない。愚にもつかないものになるかもしれない。頑張ったのに何の意味もないまま終わるかもしれない」が創作に立ち向かうことをセレジアに語る。それに対してのセレジアの「楽しんで荒野を歩みなさい」というセリフが14話でまりねが語ったことにも通じていて、創造主と被造物のつながりを感じさせる。そしてここが颯太にとっての創作者として道の、またアルタイルと対する創造主たちの戦いの始まりである。「ここからが本当の始まりなんですよね。」

そしてついにアルタイルを倒すための承認力を稼ぐイベント、「エリミネーション・チャンバー・フェス」が始まる。声優がそのまま登場したりしてメタ構造が一段とややこしくなって面白い。

#17 世界の屋根を撃つ雨のリズム

"I mean I'm the CREATOR."

アルタイルとの戦いをアニメーションとして観客たちに承認させることで、それを現実の出来事ではないことにして世界の修正力が働くのを防ぐ仕組みになっている。もう少し深く考えると、世界の修正力の行使者は作中の観客ではなく私たちこの作品自体の視聴者なので「作中の観客が現実ではないと認識したこと」を私たちが承認することでこの仕掛けが成り立っている。

ブリッツの創造主である駿河は、彼の思考を読んでアルタイルを裏切らせるための策を打っていた。「うちはあんたの神様や。」こっそりと彼の娘を生き返らせて現界させていたのだ。それはその方が物語が「面白くなるから」だと彼女はいう。「面白さ」のためなら命の価値を弄ぶことすら厭わない創作者としてのスタンスに凄みがある。一方で創作された側からはそれは狂気にしか見えない。「君らはある種の狂人だ」 この仕掛けがブリッツの世界とメテオラの世界がクロスオーバーしたから成り立ったというのも面白い。

f:id:Re_venant:20200628234648j:plain

またこの辺りは颯太が最後にセツナを現界させてしまうことの伏線にもなっている。同じ構造をあらかじめ使っておくことで、「死者を創作する」構造を私たちが承認しやすくするためかもしれない。

#18 すべて不完全な僕たちは

"As long as we're alive, we have to enjoy our lives to the fullest."

アリステリアに「面白くする」ことを依頼された真鍳が、「折角生きてるなら力の限りエンジョイしなくちゃなのだよ」と颯太の前に現れる。創作に向き合うことを決意した颯太に、真鍳は道徳を踏みこえる覚悟を問いかける。「悪いとかいいとかどうでもいいんだ…それがもし叶うなら他の事なんて全部どうでもいい!」彼もまた、プロの創作者たちと関わる中で何かを作り出して世に問うことへの勇気と、創作の抱える業を受け入れる覚悟を得たのだろう。

真鍳は承認力の存在をあえて否定して、それを颯太に否定させることで承認力なしで颯太の仕掛け(=セツナの現界)が動き出すようにしてしまう。一見すると真鍳が承認力のシステムを曲げてしまっているようだが、実はそうでもない。依然として「承認力は絶対の鍵」のままである。なぜなら、「真鍳によって承認力のシステムが無効化された」と私たちが承認することでこの仕組みが成立するからだ。

#19 やさしさに包まれたなら

"The story continues, as long as there is someone out there, who believes in my existence."

アリステリアはまみかの仇であるアルタイルと相対する。彼女は自身の物語の主人公であることと、「まみかの信じるアリステリアである」ことの二つを両立させるため、アルタイルに挑むのである。しかし、彼女の力はアルタイルに及ばない。アルタイルの言う通り、彼女はこの物語(=Re:CREATORS)においては脇役でしかなかったからだ。それでもアリステリアは自分を信じる者たち(読者/まみか)を信じて、物語から退場する。「私を信じた者がいる限り、物語は終わらない!」

セレジアの前には自身の物語の主人公、カロンが立ちはだかる。彼は自身の世界を自力で救うことを諦め、アルタイルの言う創造主による改変によってそれをなそうとする。主人公であることを恐れ、逃避しようとするカロンと、自身の物語を受け入れて自分の意志で選択して進んでいこうとするセレジアが対比的に描かれる。セレジアは敬愛するカロンと戦うことを選べるまでに自身の意志を獲得したのである。

カロンと相打ちに持ち込もうとするセレジアに、松原は「逃げろセレジア!もういい!ヒロインも物語もやめちまえ!」と叫ぶ。彼がセレジアを、被造物ではなく一人の人間であることを認めていること、そしてそうあってほしいという願いが現れたとても良いシーン。

#20 残響が消えるその前に

"Somebody receives the power of creation, and the spirit is redeveloped from their passion."

創造主たちの隠し玉、アルタイルと同じ能力を持ったシリウスが現れる。そのための伏線を貼った、と登場人物に言わせることで描かれていない伏線が張られたことになる発想の転換が面白い。(実際その伏線は作中作のものでこの作品自体のものではないけれども。)

アルタイルを取り込もうとしたシリウスを逆に乗っ取ったアルタイルが、自身の存在の成り立ちを語る。彼女は定まった物語を持たず、二次創作のネットワークの中で生み出された。「創造の力は誰かに受け取られ、感じ、思いを馳せその思いを糧に再び生み出される。」そこに表現されるのはむき出しの欲望であり、シリウスを生み出したような創造主たちの策謀はそれに及ばないと語る。ある意味で自身の情熱のみで創作するアマチュアが、お金を稼ぐことを考える必要のあるプロの作品を凌駕する(こともある)現代の創作事情を表現しているとも言える。

#21 世界は二人のために

"I love you too."

颯太の仕掛けた伏線を、真鍳が「嘘の嘘」とすることで実現する。現れたのはアルタイルを最初に生み出した颯太の友人であるシマザキセツナと、彼女が自殺した場所である駅のホームだった。ここでこの作品は明確な一線を越える。それは「被造物」と「現実世界の人間」の境である。現実世界の人間であるはずのセツナを、物語のキャラクターと同様の方法で存在たらしめたからだ。このRe:CREATORSという物語の登場人物と、その作中作のキャラクターが同様に被造物であることが自覚的に描かれている。12話で颯太が

お話なんて言うなら僕の目の前で起きなかった全てが僕にとってはただのお話だ!現実だの物語だのそんなの関係ない!

と言っていたことがここにつながる。目の前で起きなかったこと(セツナについての出来事)と物語は等価であり、共に承認力という鍵次第で現実になりうるのである。

もちろん物語において死人がよみがえることは基本的にはありえない。しかし、物語は読者の承認を得られる限りで「嘘の嘘」を許容することができる。Re:CREATORSはこの承認力というシステム、ブリッツの娘を蘇らせるという伏線、そして真鍳の「嘘の嘘」を現実にする能力という変化球を交えてこれを実現する準備を行ってきていた。そして現れたセツナの振る舞いが「本物らしい」ということを私たちに承認させるため、生前のセツナと颯太の交流を描いてきていたのである。

セツナはアルタイルに自身の呪いを込めてしまったと言う。それに対してアルタイルは、自分の意志でセツナを排斥した世界を憎んだと言う。アルタイルは弱いもののために怒り、弱いものの代わりに憎む、そんなキャラクターだからだ。

あなたは悪なのかもしれない。世界を滅ぼす悪者。でもあなたは同時に弱き者の王様。弱き者の騎士。そうやってあなたを見る人がたくさんいたのです。

だからこそ彼女は多くの弱者の心に寄り添い、そんな人々が創作のネットワークを作ってアルタイルという存在を作り出していった。彼女の力は弱いものの願いを叶えるためのものだったのである。そしてそれこそが創造主という絶対的強者によって悲劇へと導かれる被造物たちを代表してこの物語そのものへと反逆するに至った理由でもある。

自身を含めて、弱いものに寄り添ってくれるアルタイルの姿を確認して、自身が作り出すことのできた者への愛を語ってセツナは再び消えていこうとする。

私もあなたが大好きです。

しかし、アルタイルはそれを拒絶する。アルタイル自身がシマザキセツナという物語を創造することで、彼女を世界に留めようというのだ。そしてここまでで描かれた彼女の能力の万能性が、「無から有を構成」して世界を作り出すことが可能であるとすら観客/私たちに承認させる。アルタイルが創造した世界でセツナは生き、その中でアルタイルの物語を描くことで生まれる無限の円環の中で彼女たちは生き続ける。

セツナは創作は孤独なことだと言う。しかし作り出した物語のキャラクターが創作者と同じように存在しているとすれば、その孤独は乗り越えられる。Re:CREATORSが描くメタ構造は孤独な創作者たちへのメッセージでもあるのだろう。被造物の実存は創造主にとっての罪であると同時に、救いでもあるのだ。

f:id:Re_venant:20200628235830p:plain

#22 Re:CREATORS

戦いを終えた被造物たちは自身の世界へと帰っていく。メテオラだけは帰還できず、普通の人間として現実世界で生きていくことになる。そんな彼女は出会ってきた創作者たちと同じように、物語を綴ることにする。メテオラがこれまでの出来事を物語にしたものに、颯太は「Re:CREATORS」というタイトルを提案する。つまり、この作品自体がメテオラによる作中作だとも解釈できる終わり方になっている。(14話の総集編は確実にそうだろう)

最終回のサブタイトルは通例の引用ではなくオリジナルの「Re:CREATORS」となっている。これはこの作品を作り上げた人々が、過去様々な創作物に一つ新しいものを付け加えたのだという自負の現れだと思う。

f:id:Re_venant:20200628233501j:plain

作中の創作者たちも、そしてこの作品を作った人々もこれからも創作を続けていくだろう。それは「そうやって生まれた沢山の物語が時に誰かの心に届きそしてその人の日常を違うものに変えてくれること」知っているからだ。そしてこの作品は私の心に届き、創作とキャラクターというもののあり方についての見方を変えてくれている。そのことこうして書き残すことで、創作する誰かの力となれることを願う。

参考

Re:CREATORS : あにこ便

水篠颯太 | CHARACTER | Re:CREATORS(レクリエイターズ)

Re:CREATORS - Wikipedia

画像、セリフなど全て© 2017 広江礼威小学館アニプレックス

2018年のアニメ10選(単話)

『衛宮さんちの今日のごはん』第1話 年越しそば

emiya-gohan.com
どの選択肢をどうやったらこんな世界に行き着くのかというFate stay/nightの派生作品。1話の年越しそばに込められた意味、「末長くそばにいられますように」という願いは、「セイバーがサーヴァントにならないこと」=「もう二度と会えないこと」がセイバーを本当に愛することの答えだったstay/nightのセイバールートでは決して叶わないもので、それが叶うこの世界の優しさが沁みる。

DEVILMAN crybaby』X 泣き虫

devilman-crybaby.com

10話は特にクライマックスの場面のバトンを渡そうとし続ける描写が素晴らしかった。

「大嫌いだけど大好き」/「悪魔だけど信じる」/「お前のために泣いてやりたいけど、涙も枯れ果てた」/「殺したけどどこかにいて欲しかった」 というようにこの作品は悪魔でありながら人間でもあるという「矛盾」した存在であるデビルマンを象徴として、様々なキャラクターの矛盾した心が描かれていたように思う。 しかしそれは批判ではなく、矛盾を含めて受け入れるという優しさに満ちた描かれ方であったように感じる。

宇宙よりも遠い場所』STAGE10 パーシャル友情

yorimoi.com

どの話も良かったので一つ選ぶのが難しい。10話は個人的な共感があって心に残っている。詳しくは以下の記事に書いてある。
re-venant.hatenablog.com

グランクレスト戦記』第11話 一角獣城、落つ

grancrest-anime.jp

戦記ものなので人が死ぬ。その死に方に物語の焦点が当たるといってもいい。11話ではアルトゥーク陣営のそれぞれの負け方、死に様が1話に凝縮して描かれていて、そのどれもがかっこいい。

ダーリン・イン・ザ・フランキス』最終話 わたしを離さないで

darli-fra.jp

この話の少し前にヘラクレイトスの「同じ川に二度入ることはできない」を引いておいて、それでも川が流れ続けていれば宇宙のどこかでまた同じ川が現れるかもしれない、つまり世界が変化し続けるならまた出会えるかもしれないというラストに持っていくのがすごく良い。永遠の停滞に対する生成変化の肯定、だからこそここで終わるとしても「生まれてきてよかった」。

このラストはトップをねらえ!の変奏ではあるけど「帰還」を「回帰」に読み替えて本作のテーマを貫いているのも素晴らしい。

ところでこのサブタイトル『わたしを離さないで』はノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの同名作品から来ている。この話から興味が出て元ネタの方を読んで見たところ、とても良くできた作品だったので二重にこの話が印象に残っている。

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』最終話 真贋対戦

isekaimaou-anime.com

お色気面で話題になっていた様子なこの作品だが、話自体も非常に良く練られている。特に最終話で奴隷魔術を活用した問題の解決があったり、転生前は独りだったディアヴロがこの世界で居場所を得られたことがアリシアに救いの道を示すことになったりと無駄がない。「転生」や「チート能力」が本人だけでなくその異世界の人間も救っていく展開が好きなので満足感が高かった。

『プラネット・ウィズ』第12話 見ろ、宇宙は祝福に満ちている

planet-with.com

11話の予告時点でこの「見ろ、宇宙は祝福に満ちている」というセリフがこう回収されるんだろうなぁ……と想像していた最高の展開が実際にやって来て、そしてその上でもう一段階超えていった感じだった。竜の行いはシリウス人にとっては災厄でもリエル人にとっては救いであり、「愛」の視点からそうして見る側面を変えることで全てに祝福を見出すことができる。そうした信念を証明するために戦い抜いた先生がかっこいい。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』第12話 レヴュースタァライト

revuestarlight.com

これも1話選ぶのが難しい作品。あえて選ぶとすれば、個人的に待ち望んでいた「台本」を超えていく展開にたどり着いた最終話だろうか。舞台に立つたびに「再生産」されていく「アタシ」が「スタァライト」を超えていくから「レヴュースタァライト」。台本が決められた舞台の上でも、彼女たちはそれを超えて自由にスタァライトする(?)ことができる。

キリンがこちらに語りかけてくる展開もメタ性があり、物語の登場人物とそれを見る私たちという構図が2017年の『Re:CREATORS』からの流れが感じられて嬉しい(ちょっと牽強付会な気もするけど)。

あと英語版の台本を読んで新しい解釈を思いつく展開から、やっぱり哲学書とかも翻訳じゃなくて原著を読まなきゃダメだなぁと思ったりした。

ハイスコアガール』ROUND2

hi-score-girl.com

ハイスコアガールはとても心に残るラブコメだった。特に2話で大野が春雄の自転車の後ろに乗って遠くの変なゲーセンまで行き、帰りには二人で河川敷を歩いてメンチカツを食べたりした思い出が彼女の心にずっと残り続けることを考えて感動していた。大野が一切喋らないので、その表情の細かな変化で心情が上手く表現されていたのも良かった。

やがて君になる』第13話 終着駅まで/灯台

yagakimi.com

このアニメ化は非常に素晴らしい出来栄えだった。特にオープニングの映像が美しい。

13話の前半では、「終着駅まで」というサブタイトル、墓、川を流れて行く蝉の羽、通過する電車に向かって一歩踏み出す橙子など「死」のモチーフが繰り返し現れる。生徒会劇が終わって姉のやり残したことを終えてしまったら、その姉「として」生きて来た橙子は行き場を失って死んでしまう。その行き詰まりの転機となるが侑の存在だ。彼女は橙子の手を引いて明るい場所へと連れていってくれる。勝手に『やがて君になる』のテーマソングに脳内設定しているKalafinaの『君が光に変えて行く』の「こんなに明るい世界に 君が私を連れて行く」という歌詞まんまのシーンがあって感動した。

そしてアニメの最後の水族館から二人で電車で帰るシーンでは侑が橙子に「乗り換え」を告げる。つまり彼女と一緒なら「終着駅」ではない別の場所へと行けることが示されている。姉として生きる橙子からやがて「君」、すなわち橙子自身になり、他でもない自分として生きる彼女へと乗り換えていくことができるのだ。

ところでこうした自己の非自己性、つまり人が通常は他の誰かとして生きていることはハイデガー的な論点かもしれないと思った。「やがて君になる」とは他者へと頽落した現存在が本来的な自己を取り戻すことだ、とか言ってみると面白いかもしれない。

ソードアート・オンラインの感想(1期〜劇場版) / 仮想世界の実在論

アニメ『ソードアート・オンライン』の1期〜映画までを一気に見た。今までに見たアニメのオールタイムベストに食い込むほど感動したので感想を書き残しておきたい。

1. 本編感想 / 仮想世界のリアリティ

ソードアート・オンラインという作品が伝えたいことは

「仮想世界におけるXは本当のものだ」

という命題に集約される。このテーマは例えば『これはゲームであっても、遊びではない』というフレーズにも表れている。

このXに「時間」「愛情」(アインクラッド編)、「罪」「強さ」(ファントム・バレット編)、「生」(マザーズ・ロザリオ編)、「記憶」(オーディナル・スケール)という風に要素を代入していくことで物語が構成されている。

「仮想世界」はもちろん偽物の世界である。しかしそこを生きた人、生まれた感情、得られたものや残されたものは本物なのだ、ということを伝える物語だと私は考えている。

まずはアニメ1期から映画に至るまで、この「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマを軸として読解しながら感想を書いていきたい。そしてそこからこのテーマをどう考えられるのかという考察に進んでいく。

1.1 アインクラッド

アインクラッド編はデスゲームである。茅場晶彦ソードアート・オンライン(SAO)というゲームのプレイヤーに自らの命をベットさせることで、ゲームの世界を本物にしようとした。命がけのゲームなら、それは人生と変わらないだろう?というわけだ。

アニメではエピソードが時系列順に再構成されて、3話でキリトとサチの関わりが描かれる。ここでキリトはサチを「守れなかった罪」を背負うことになる。彼がパーティメンバーを過度に守ろうとするのはこの罪のためだ。

この「守れなかった罪」と、そして「二刀流」という特別なスキルを与えられてしまったことが彼を「英雄」へと変えていく(もともと背負いこみがちな体質というのもあるが)。彼はその英雄性によって、誰かを守るために他の誰かの命を奪うというさらなる罪を背負うことになる。この点は「罪」をテーマとしたファントム・バレット編に繋がっていく。

その一方でSAOでの生活におけるキリトのスタンスは割と楽観的で、気候のいい日には外で昼寝をしたりして楽しんでいる。それに対してアスナは「現実の時間が失われている」と反発する。そんなアスナもキリトとの生活を楽しむようになるのは、彼女もまた仮想世界での生活はある意味で現実なのだと受け入れられたからだろう。そしてアインクラッド編以降で描かれるように、そうした生活は彼女の中でかけがえのないものになっていく。

アインクラッド編の後半で特に印象深いのはキリトとアスナ、そしてユイの関わりだ。彼らは(システム上の)結婚をしたり、ユイを子供として扱ったりするが、それらは仮想的なことに過ぎない。キリトとアスナは16、7歳で、ユイはAIなので彼らの子供ではない。こうして仮想的な関係を作り出すことで、「仮想世界における愛情は本当のものなのか?」という問いが前景に現れてくる。

仮想的な家族において交わされた愛情は本物なのだろうか。SAOにおけるプレイヤーのメンタルヘルスケアを担うAIであるユイは、デスゲームにおけるプレイヤー達のネガティブな感情を観測し続け、崩壊しかかっていた。そんなユイにとってキリトとアスナの間に、そしてユイとの間に生まれた愛情は、仮想世界における仮想的な関係であっても確かな救いだったのだ。

ここで救われるユイの心もまたAIである以上仮想的である。それゆえに仮想世界における愛情が仮想的な心を救った(ように見える)に過ぎない。それでも、この愛情は本物だと言い切れる。そうでなければ、ユイと別れるキリトとアスナに、そしてそのシーンを見る私たちの心にこんなに深い悲しみが現れることはないだろうから。

1.2 フェアリィ・ダンス

ここで描かれるのはアインクラッド編のような仮想世界において絆が生まれることというより、そうした絆を再確認することである。物語の基本構造は、キリトがアスナを取り戻すことと、リーファとの関係を修復することにある。

ここで面白いのはキリトとリーファの兄妹関係もまた本物ではないという点だ。仮想世界であるアインクラッドで様々な絆を肯定することができたキリトは、現実における仮想的な兄妹関係もまた本物だと肯定できる強さを備えたと言える。

それゆえに彼は、本当の妹でないことを知ってから距離を置いていた直葉との関係を修復することができたのだろう。またそうした修復が行われる場もまた仮想世界であるという点で一貫している。

反対に須郷伸之とその関係者は実験体に与えていた神経刺激による仮想的な経験を本物ではないと考えてたり、仮想的な記憶を植えつけて相手を操ろうとしていた点で対照的である。彼らは「仮想的なものは本当ではない」という立ち位置で、物語のテーマに対してアンチテーゼをなしている。そうした彼らが打ち破られることに、本作のテーマを読み取ることができるだろう。

1.3 ファントム・バレット

ファントム・バレット編は主人公とヒロインというよりは、キリトとシノンのダブル主人公と言っていいような構成になっている。おそらくは考えすぎだが、ガンゲイル・オンライン(GGO)でのキリトのアバターが女性に見えるのは、男女のペアで主人公/ヒロインの構図に見えてしまうことを防ぎたかったからではないかとも思える。

この章のテーマの一つは「仮想世界における罪、責任」だ。キリトはSAOで殺人ギルト「ラフィン・コフィン」に襲撃されて返り討ちにした罪(デスゲームなので死んでしまう)に悩み続けている。キリトの殺人は仮想世界におけるものであり、法的に罪に問われているわけではない。それゆえに彼の罪は自分自身に課しているだけのものだと言えるだろう。

キリトがこの罪に対して忘れることを自分に許さず、真剣に向き合うことが仮想世界であっても犯した罪は本物であるというテーマを反映している。ソードアート・オンラインという物語が誠実なのは、こうして仮想世界におけるネガティブな産物も本当のものとして引き受けている点だ。ここまでで描かれた仮想世界における「本当のもの」は、愛情などポジティブなものであった。それゆえにこのファントム・バレット編は全体から見ても特異なパートであり、またこの章が存在することで「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマに深みと説得力が生まれている。

この章のもう一つのテーマは仮想世界で得た「強さ」である。その強さは本物であるがゆえに、シノンのトラウマからの脱却を後押しもするし、デス・ガン(弟)を狂わせもする。そしてデス・ガン(兄)はSAOで得た「人を殺せる強さ」を忘れられないがゆえに込み入ったトリックを用意してまで本当の殺人を続けている。

本章のもう一人の主人公であるシノンもキリトと同様に罪を抱えている。彼女は幼少期に強盗を射殺したトラウマによって銃の形をしたものに怯える暮らしを送ることになる。彼女がそれを乗り越える方法として思いついたのが、銃が大量に出て来るGGOで強くなることだった。GGOもまた仮想世界であるから、そこで得られた強さは本物でないように思われる。しかしシノンはBoB大会後に実際に現実世界で銃(エアガン)を操ることができるようになる。つまり仮想世界で得られた強さは、現実の彼女を一歩前に進ませる力を持っていたのだ。オープニングやエンディングにゲームのアバターであるシノンが現実の朝田詩乃を見つめるカットが印象深く描かれているのはこのテーマの一つの表れだろう。

キリトとシノンの罪悪感は、それを負うことによって救われた人がいるということに気づくことで少しだけ和らげられる。キリトはラフィン・コフィンに襲撃されたプレイヤーを、シノンは強盗に襲われた郵便局員とその子供を救っている。

キリトたちの導きでシノンがその職員に再開するシーンがファントム・バレット編の最後に描かれていて、非常に感慨深いものとなっている。そのシーンが感動的だと感じられるのは、その罪に立ち向かい続けた彼女の強さへの戦いが、仮想世界におけるものでも本物だという証拠でもある。

ファントム・バレット(幻の銃弾)というサブタイトルは一つにはデス・ガンとの決着シーンにおいて回収される。シノンがスコープなしでバレットライン(GGO内で可視化された照準線)をデスガンに当てて牽制、それがキリトとデス・ガンの勝負の決め手になる。もう一つはデス・ガンの使う拳銃の弾で、本来それ自体には人を殺す力はないもののそう錯覚させるようにトリックが組まれている。幻=本物でないものが本当の力を持つ、という点でこれら幻の銃弾は仮想性と現実性に関する本作のテーマの変奏だと言えるだろう。

1.4 マザーズ・ロザリオ

この章のテーマは仮想世界で「生きること」と、そうして「生きた証」だと思われる。ユウキ達のギルド『スリーピングナイツ』はターミナルケアとして仮想世界に接続している。ユウキに至っては無菌室から出られない状態で、彼女の生はもはや仮想世界にしかないと言える。

アインクラッドにおけるデスゲームが「死なないため」の戦いであるとすれば、彼らの戦いは仮想世界で「生きること」だ。これまで「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマを誠実に描いてきたソードアートオンラインという作品だからこそ、死に際に見る夢のような彼らの仮想世界における生を本物だと肯定できる。

アスナは単一パーティでのボス攻略によって記録に名前を残すという形で「生きた証」を残そうとするスリーピングナイツに協力することになる。本気で泣いたり笑ったりしながらそれを目指す彼らの姿が、仮想世界におけるその証もまた本当の生の証たりうるということを示している。

原作者のツイートに以下のような言葉があった。

彼らにとっては、《現実世界は数多ある世界のうちのたった一つ》であり、《現実世界での死は次の世界への旅立ち》なのです。全員が難しい病と闘う彼らには、それは救いでもあるのだと思います。*1

この言葉が示すように、仮想世界を本当に生きることは、現実世界を「たくさんの世界のうちの一つ」として相対化することにもつながる。それゆえに「仮想世界における生は本物だ」という信念は現実世界における救いともなるのだ。

ユウキ達に対して物語のもう一つの軸として描かれるのがアスナの家庭環境である。残された生を全力で生きようとするユウキの生き方から、母親に本気でぶつかる「強さ」を得てアスナは家庭における不和から一歩前進することができた。そうした意味でユウキの生きた証はアスナの中にもあると言える。だから本章のエンディングテーマ『シルシ』の

じっと見つめた キミの瞳に写ったボクが生きたシルシ
(LiSA『シルシ』)*2

この「キミ」と「ボク」はアスナとユウキを指しているのだろう。『シルシ』の歌詞では他に

何度も途切れそうな鼓動 強く強くならした 今日を越えてみたいんだ
(ibid)

という部分が、アスナと少しでも一緒に生きるために、宣告された余命以上に生き続けたユウキとリンクすることに最後に気づいて涙が溢れてきた。

ユウキのオリジナル・ソードスキルである「マザーズ・ロザリオ」は最期にアスナへと受け継がれて、例えば劇場版でも彼女を助けている。これもまた彼女の「生きた証」で、それが受け継がれていくことで彼女の剣は「絶剣」=「絶えることのない剣」となる。

アスナの判断で再び仮想世界に繋がれたユウキの最期には、アスナとスリーピングナイツ、そしてたくさんのALOプレイヤーが駆けつけてくれる。このシーンには以下のような意味もあるそうだ。

不特定多数の人間たちから浴びせられた悪意がAIDS発症のきっかけになったのかもしれないと倉橋医師は言っています。そんなユウキを、最後は数え切れないほどたくさんの人間たちの善意で見送りたいがためにこの展開となりました。*3

物語の登場人物に対する深い愛情を感じられる背景設定だと思う。仮想世界とそこにおける様々な感情という「本物でないもの」に対してここまで誠実に描くことのできる作者だからこそ、こうした架空のキャラクターに対する強い思入れは必然のようにも思われる。

そしてこのシーンでユウキは、ただ死を待つだけだった自分の人生を肯定することができた。

ずっと…ずっと考えてた。死ぬために生まれた僕がこの世界に存在する意味は何だろうって / 何も生み出すことも、与えることもせず、沢山の薬や機械を無駄遣いして、周りの人達を困らせて… / でも…でもね、ようやく答えが見つかった気がするよ…。意味なんてなくても、生きてていいんだって / だって最後の瞬間がこんなにも満たされているんだから…。こんなにたくさんの人に囲まれて、大好きな人の腕の中で旅を終えられるんだから…
ソードアート・オンラインⅡ 24話『マザーズ・ロザリオ』)

彼女のように仮想世界で生きることには意味がないかもしれない。それでも彼女の人生は本当に満たされていた。それ以上に何が必要なのだろうか。

ユウキが息を引き取った後にはこんなカットが挿入されている。

f:id:Re_venant:20181123014925j:plain *4

このVサインは、本章の中でスリーピングナイツがボスを攻略した後に、それを横取りしようとしていたプレイヤーに向けたのと同じものだ。つまりユウキは最期に、自身の人生に勝利したのだ。

少し余談だが、ユウキの病名が架空のものではなくAIDSという現実にある病名である理由について

ユウキが物語の中で短い時間を生き、そして去っていったことに意味が生まれるのではないか。そう考え、現実の病名を用いました。*5

とある。テーマに即して言い換えれば、架空のキャラクターの生でも現実の私たちを動かすことができる本当の力を持っていると信じてこうした設定がつけられたのだろう。

1.5 オーディナル・スケール

劇場版は「記憶」の物語である。重村教授はSAOで死亡した娘のユナに関する記憶をSAOプレイヤーから集めて、それを学習させたAIとして彼女を復活されることを目論む。その過程で記憶をスキャンされたプレイヤーはSAOに関する記憶を思い出せなくなってしまう。アスナがその被害にあうことでSAOにおけるキリトとの思い出も失われてしまうことになる。

記憶を思い出せなくなる原因は、SAOにおける死の恐怖を増幅されたことにある。つまり思い出せないのではなく、思い出したくなくなるということだ。重村教授や、アスナと同様の状況に陥ったクラインは「思い出さないほうがいいのかもしれない」と言う。確かに仮想世界でのデスゲームの記憶など、本当の経験でもないし辛いだけのものだから無いほうがいいのかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか。

SAOを生存した者たちは、その事件を忘れて生きていくことができる。しかし生存できなかった者たちはどうだろうか。ユナはSAOにおける敗者である。彼女たち敗者もまた、SAOという仮想世界を生きていたことは誰にも否定できない(ユウキの生がそうであったように)。SAOをクリアできたのは生存者たちだけの功績ではない。彼女のようなたくさんの敗者たちもまたゲームをクリアし、プレイヤー達が生きて帰るために戦っていたのだ。

生存者たちがSAOでの記憶を忘れて生きていくということは、そうした敗者たちの戦いをなかったことにしてしまうことに他ならない。仮想世界での偽物の記憶であっても、それはなかったことにはできない重み=実在性を持っている。

そしてアスナにとってのSAOの記憶は、キリトとの絆そのものでもある。だから彼女にとってのそれは死の恐怖を乗り越えてでも取り戻したい記憶だったのだ。そしてその恐怖を乗り越えるきっかけは、ユナが「圏外に出て」、つまり恐怖を乗り越えて戦って死んだという事実であった。だから仮想世界で死んでしまったユナの戦いの記録も、いま現実で生きている人を勇気付ける力を持っている。

重村教授の計画が破綻し、AIとしてユナを復活させることはできなかった。失意の彼の前にユナの幻が現れて、「私は記憶の中で生きている」と言う。このような結末は黒い方のYUNA(本来のユナとは別物)が歌う『Ubiquitous dB』の歌詞にすでに暗示されていたと言えるかもしれない。

だから“会いたい”なんてナンセンス
ユビキタするよ君のメモリー
(ユナ『Ubiquitous dB』)*6

わざわざAIとして復活させて「会う」ことをしなくても、彼女は記憶の中に偏在している。確かに記憶は過去のもので、SAOの場合それはさらに仮想世界での記憶ということになってしまうため、二重に偽物である。しかし以上に見たように仮想世界を生きた彼女の生は本物であり、またその記憶は本当の力を持っている。

劇場版にはエイジというキリトに対置されるアンチヒーローのようなキャラクターが登場する。彼はSAOにおいてユナを守れなかったことを後悔している。これはキリトがアインクラッド編で背負った「守れなかった罪」の物語の再話である。彼はユナを現実世界に帰すという約束を果たすために重村教授の計画に加担していた。

ユナ(白)は結局のところ機械学習によってオリジナルのユナの振る舞いを模倣するAIでしかない。エイジはユナとの約束を果たすことができたのだろうか。それでもこのソードアート・オンラインという物語なら、「できた」と答えられるのではないかと思う。なぜならこれは、偽物から本物が生まれる物語だからだ。

一方でYUNA(黒)はユナの記憶を集めるためのAIでしかない。つまり彼女はユナであることすら意図されておらず、その実存そのものが仮想であると言えるだろう。そんな彼女が

仮想(ゆめ)も現実(リアル)も真実(ほんと)だよ
(ユナ『Ubiquitous dB』)

と歌うのは、本作のテーマを端的に象徴しているように思われる。

YUNAは最後のステージで歌い終えて、そのことに満足して笑顔でステージの照明が消えるように一瞬で消えてしまう。私には(そしてこの作品のテーマに共感している人にもそうであれば嬉しいのだが)それが本当の生の重みを備えた彼女の死であるように感じられる。あまりにあっけなく消えてしまうことが、かえってその重みを際立たせる。彼女をただ道具として使い捨ててしまうことは、一つの罪なのではないか。それもまたこの作品が発する問いの一つだろう。

2. 考察 / 仮想世界の実在論

2.1 仮想と現実

1章ではソードアート・オンラインのテーマが「仮想世界におけるXは本当のものだ」であることを見た。そのテーマは物語の中核として、文句のつけようがないくらい綺麗に描かれていたように思う。この章では少し視点を変えて、理論的な面からこのテーマについて考えてみたい。

仮想世界は偽物の世界である。それは計算機プログラムによって構成され、そこでの経験は電気的に脳に書き込まれているに過ぎない。では現実世界はどうだろうか。現実世界は基礎物理学的な素粒子によって構成され、そこでの経験もやはり電気的に脳に書き込まれる。両者に大きな違いはないのだ。

プログラムによって情報的に構成されていることと、素粒子によって物理的に構成されていることの違いが重要だと考えることもできるかもしれない。しかし計算機もまた物理的に構成されていることに変わりはない。それらの違いは抽象化のレベルの違いである。プログラムは情報的な構造(要はソフトウェア)として、物理的な回路より抽象度が一段高い。

しかしその一方で、物理的な素粒子から構成される私たちの現実世界も抽象的なものである。この世界における「もの」は素粒子の世界には存在しない。それらは私たちが素粒子の大規模な集まりを抽象化することで初めて存在する。純粋な素粒子だけの世界では例えば机とラップトップの間の境界線は存在しない。そこにあるのは素粒子の雲で、それらを区別するのは私たちが持っている「机」や「素粒子」という概念なのだ。

すなわち仮想世界も現実も、物理的なものを実在するものと考える視点からはどちらも抽象物でしかない。それゆえに、両者は同質のものとして扱うことができる。このような視点は、スリーピングナイツにとって「《現実世界は数多ある世界のうちのたった一つ》」だったことを裏打ちしうるものだろう。

もう一つの要素、脳への電気信号に入力プロセスの違いに注目することもできるかもしれない。仮想世界での経験はフルダイブ機器によって脳へ入力され、現実世界での経験は身体の感覚器官から入力される。

これはいわゆる「水槽の中の脳*7」という思考実験と似た状況だと言えるだろう。この思考実験をここでの話題に即して換言すると、私たちは仮想世界に接続しているという自覚なしに、そのような状況に陥っている可能性を否定できない。

このような思考実験についての哲学的見解として、私が気に入っているものを一つ紹介しよう。それは私たちの「知る」とか「知覚する」という言葉は、こうした状況を想定して作られているわけではない、というものだ*8。確かに私たちは水槽の中の脳もしれないし、誰かが設計した「現実世界」というデスゲームをプレイしているのかもしれない。

私たちは現在置かれている状況がそのどちらにあるかを知ることはできない。なぜなら私たちの知識を得る能力はそうしたことを知るための能力ではないからだ。しかし仮にそうであったとしても、私たちの知識や知覚に問題が生じるわけではない。つまりどちらでも問題はないのだ。

そうした意味で、経験がフルダイブ機器によって入力されているか感覚器官から入力されているかは大きな問題ではない。なぜなら私たちはそのどちらの状況にあるかを知り得る立場にないからだ。

以上の二つの論点から、仮想世界は現実世界と理論的な違いを有していないと考えられる。そしてそれならば、現実世界における様々な思いが本物であるように、仮想世界におけるそれも本当のものだと言えるのではないだろうか。

2.2 拡張実在論

仮想世界が実在するということは、そこにおける出来事や経験もまた実在するということだ。こうした観点に立った上で、「何が実在するのか」という問いを問い直してみるならば、その答えは物理世界だけを本物だと扱う立場よりもはるかに拡張されたものとなるだろう。そこには仮想世界における絆、出会いや別れ、記憶などが「実在物」として含まれている。ソードアート・オンラインという物語を経た私たちにとっては、むしろこうした感覚の方が実感に近いと言えるのではないだろうか。

他にも例えば、物語を読む(見る、聞く)ことは仮想的な体験だと考えることもできる。それゆえに仮想世界における経験が実在するなら、物語によって仮想的に経験したことも実在する。そのことは、私たちがこのソードアート・オンラインという物語を享受することにも当てはまる。この作品によって動いた私たちの心や、その中で考えたこともまた本物なのだ。

そしてこの拡張された実在論を、仮想世界以外にも「偽物」だとされているものに広げていける可能性がある。

例えばユイやユナなどのAIについて。私たち自身の存在を考えてみるなら、それは物理的な身体とは一致しない。「わたし」という概念はその身体の振る舞いをある視点から抽象化した上で見えてくる主体なのだ。*9おおざっぱに言うと、「わたし」とはそうした振る舞いのパターンを説明するために置かれた「主語」のようなものということになる。

ソードアート・オンラインにおいて登場するような、人間と変わらない振る舞いをするAIを「彼女」という主語を使って記述することは可能である。だから「彼女」達もまた「わたし」達と同じように実在物として扱うことができる。この観点からは物理的な身体を持っているかどうかはあまり関係ない。

アニメ3期(アリシゼーション編)ではどうやらこのAIがメインテーマとしてフィーチャーされてくるようだ。本作のテーマは仮想世界における「命」もまた本物だと言えるほどの懐の深さを持っている。それゆえそれゆえにこの拡張された実在論は、そうしたAIも含むことのできるものへと成長していくだろう。

そしてまたこうした思考は物語のキャラクターへも向かいうるものだ。すなわちキャラクターの振る舞いも私たち人間のそれと同様に記述できるために、「彼ら」も実在物として扱うことができる。それゆえに本作のテーマをさらに広げて、本作の登場人物やその生が現実に劣らず本物だという主張を読み取ることも可能だろう。原作者がユウキの人生に少しでも意味を見出してあげたいと願ったことも、この点に一致するのではないかと思っている。

このように実在の範囲を広げることで、「偽物」だとされているものを「本物」へと引き上げていくことはそれ自体ドラマチックなものである。これがソードアート・オンラインという作品が持つ大きな魅力の一つであると私は考えている。そしてまた、この物語を経ることによって私たちの世界そのものが広がり、豊かになっていく。

しかしそこにはキリトが背負ったような責任の重さや罪も含まれることになる。だからこの作品は、そうして広がった世界の豊かさを享受するために引き受けなくてはならない重荷もあるということを伝えるものでもある。そうした意味でこれは未来への希望にあふれ、それでもそれに対する誠実さを失わない作品だと言えるだろう。


(2018/11/27 2.1の脚注と2.2の本文に追記)

*1:

*2:https://itunes.apple.com/jp/album/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%B7/943324708?i=943324713&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

*3:

*4:©2014 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-Ⅱ Project

*5:

*6:https://itunes.apple.com/jp/album/ubiquitous-db/1202777963?i=1202778052&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

*7:水槽の脳 - Wikipedia

*8:例えば「文脈主義」と呼ばれる。( Epistemic Contextualism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)) 個人的な参照元はこれ。

*9:この点について詳しくはre-venant.hatenablog.com

他者、AI、虚構 / 「志向姿勢」入門

An introduction to “intentional stance”

1. はじめに

 他者の振る舞いを予想することができるのはどうしてだろうか?AIは考えることができるのだろうか?フィクションの登場人物と実在の他者の間にはどういった違いがあるのだろうか?こうした一見関わりのない問いのそれぞれに対して、哲学者ダニエル・デネットの思考ツール「志向姿勢 (intentional stance)」は一定の答えを与えてくれる。この記事はあまり日本語の文献のアクセシビリティが良くない志向姿勢という考え方について簡単に説明し、デネットのその他の文献の読解の助けとなることを意図している。デネットというと『解明される意識 (1991)』『ダーウィンの危険な思想 (1995)』などが有名でそれから読み始める人が多い(自分を含む)のだが、これらの著書の哲学的なフレームワークを理解するためには実は志向姿勢というものについて知っている必要がある。私は最近になってデネットの70年代から80年代の本や論文を読んでこの重要性が理解でき、また『解明される意識』などを読んでいた時に感じたモヤモヤが解消されたのでこの記事によって同じ轍を踏む人が少しでも少なくなれば幸いである。

2. チェスプログラムと志向姿勢

 デネットがしばしば用いる例にチェスを行うプログラムとチェスを指すという状況がある。こうした状況において、私たちは普通どんなことをしているだろうか。もし指し手が計算機プログラミングの専門家(かつチェスが上手い)でチェスプログラムの書き方を熟知しているなら、対戦相手(プログラム)の実装を脳内で想像しながらチェスを指すかもしれない。しかしながら我々一般人には対戦相手の内部で動いているプログラムを想像することは不可能と言っていい。こうした場合でも私たちはそのプログラムとチェスを指すことができる。なぜだろうか?それは私たちがチェスプログラムが何を「考えて」次にどの手を指すかを予想することができるからだ。この時私たちはプログラム内部の細部について熟知している必要は全くない。ただチェスのルール、現在の盤面の状況、その盤面からのチェックメイトへの道筋とそこから逆算した次の手の最適解を知っていれば予想が可能なのだ。こうした予想を行う視点をデネットは「志向姿勢」と呼ぶ。相手がどんな振る舞いを「志向」(意図 intention)しているか、つまり何を考えているかを読む「姿勢 (stance)」、それが志向姿勢である。そしてこの志向姿勢はこのチェスプログラムの例に限らず私たちが他者の振る舞いを予想する際の一般的な視点でもある。私たちが他者の行動を予測する時、その振る舞いを発生させる中枢神経の細部を知っている脳神経学者である必要は全くない。むしろそうした神経の状態を詳細に見る視点は余計に時間がかかって邪魔だとさえ言えるだろう。
 ただし、相手が上で述べたような(例えばチェックメイトへの)最適解を取るという合理的な選択を行うという前提なしには志向姿勢による予想は成り立たない。ルール上最適解以外の手は無数に存在するし、対戦相手はそれを取ることが可能ではある。しかしそこまで思考の枠を広げてしまうと制限時間内の予想は不可能となってしまう。こうした選択肢の刈り込みを行うのが「合理性(rationality)」という前提なのだ。想定する必要のある選択肢の幅をあえて狭めることでシンプルでスピーディな予想を可能にするのが志向姿勢の重要な役割だと言えるだろう。言い換えると志向姿勢は予想の精度を少し落とす代わりに結果を出す速度を高め、また私たちの脳の限られた計算力でも予想が可能なようにしているのだ。反対に志向姿勢をとらない予測の方法(プログラム自体や脳神経を見る視点)は志向姿勢よりも精度が高い代わりに結果が出るのが遅いし、私たちの脳が持ち得ないような膨大な計算力を必要とする。また予想の速度(とそれに伴う意思決定の速度)は自然界における生存や繁殖において非常に重要なファクターである。なぜならどれだけ正確に予想を出すことができるとしてもその結果が捕食者に食べられてから出るのでは意味がないからだ。デネットは進化論を強く信奉しているので、こうした意味で私たちは志向姿勢を持つように進化してきたのだと論じる。(詳しくは『ダーウィンの危険な思想』『心の進化を解明する (2017)』)

3. 志向姿勢と他者

 こうした志向姿勢を用いると、他者は「信念」「願望」などを持って振る舞う主体として解釈されることになる。反対にいえば主体としての他者は合理性を持っているという前提のもとで解釈された「パターン」に過ぎない。(このパターンという語は解釈が難しいが単に信念、願望、行動という一連の流れを指していると考えてもらっていい。)志向姿勢を用いないで他者を見た時、それは物理的な原子の塊であるかもしれないし、様々な機能を持った器官の集合体であるかもしれない。そうしたシステムが真に主体として存在するためには、志向姿勢によって解釈されなければならないのだ。*1いやいや、解釈されようがされまいが他者は「魂」を持っているではないか、「主観的な経験」を、そうした記述に還元され得ない「クオリア」を持っているではないか、といった反論が出ることはそれこそ容易に「予想」できる。こうした批判にデネットは様々な本、論文で様々な形を取りながら答えている。簡単にいえばデネットは「物理主義」とか「自然主義」といった立場をとっていて、物理的なもの以外の存在を認めない。それゆえに魂やクオリアは「デカルト負の遺産」として否定される。この議論について詳しくは『解明される意識』や『スウィート・ドリームズ (2005)』などが参考になるだろう。

4. 志向姿勢と自己、意識

 そしてこうした志向姿勢に関する議論は「他者」に止まらず「自己」にも適用できる。結論からいえば、「自己」すらも志向姿勢によって解釈されたパターンにすぎない。世界の成り行きを正確に予想するためには他者や環境の振る舞いだけでなく自身の振る舞いもまた予想のうちに組み込まなければならない。それゆえに並列処理システムである私たちの脳は自分を含めたシステムの振る舞いを志向姿勢を用いて観察し予想している。そうして自分自身に対する志向姿勢によって出力されたパターンが、例えば「私はいま赤いリンゴを見ている」といった形で現れて「思考」や「意識」と呼ばれるのである。そしてこの「私はいま赤いリンゴを見ている」の主語である「私」が「自己」の正体、デネットが「物語的重力の中心」と呼ぶものなのだ。ちょっと待った、「私はいま赤いリンゴを見ている」と考えている「私」がいるじゃないか、それこそが自己なのではないか?という疑問が出てくるのは当然だと思う。しかしながらその考え方は「「「私はいま赤いリンゴを見ている」と考えている「私」」と考えている「私」」……と無限に遡ることができてあまり良いやり方とは言えない。そうではなくて「物語的重力の中心」としての自己が現れる前、つまり志向姿勢を用いて解釈している主体はまだ「私」ではないのだ。なぜなら他者と同様に自己にも魂はなく、解釈されて初めて主体として確立されるからだ。

5. 志向姿勢とAI

 こうして他者や自己といった思考と振る舞いの主体を再定義してみると、人間とAIの違いについての新しい見方が可能になる。最初のチェスプログラムの例でも示唆されているが、AIの振る舞いもまた志向姿勢によって解釈することができる。そして、主体であるとは志向姿勢によって解釈されることである。それゆえにAIもまた人間と同様に思考と振る舞いの主体たり得るのだ。こうした意味でデネットは「強いAI」を肯定する論者だと言われる。チェスプログラムの例では志向姿勢をとらなくても、プログラムの内容を詳細に検討すればその振る舞いを予想することは可能ではあった。しかしながらデネットが「ポスト知性的デザイン」と呼ぶような機械学習型のAIはそうはいかない。なぜなら例えばニューラルネットの詳細を見たとしてもAIがどのように考えて振る舞っているのかを理解することが不可能だからだ。それゆえにAIの振る舞いを志向姿勢を用いて解釈せざるを得ない、つまりはAIを思考する主体として扱わざるを得ない時代が来る可能性は大いにある。このことに対してデネットはAIを志向的な主体としてむしろ「過大に評価しすぎる」ことに警鐘を鳴らしている。私たちは無意識に志向姿勢を用いてAIの振る舞いも解釈してしまう。それゆえに本来AIに備わっていないような「合理性」をAIに対して前提して行動してしまうのだ。現行のAIはまだ人間と同じような合理性を持っているとは言えない。しかしこの合理性をいう志向姿勢による解釈の前提は無意識に働いてしまうために、AIが人間と同じように「普通こうするだろう」という前提を持って考えてしまい、重大な過ちが起こる可能性がある。さらに詳しくは『心の進化を解明する 』の最終章とこの記事"Daniel C. Dennett "The Singularity—an Urban Legend?" 和訳 - Revenantのブログ"。

6. 虚構、ヘテロ現象学的テキスト

 このように解釈されたものとしての主体や自己は、ある意味でフィクションの登場人物に近いしいものとなっている。なぜならあるシステムから志向姿勢によって解釈されたものとしての自己や他者と、文章から読み出されたフィクションの登場人物は、志向的なパターンという点で同様のものだからだ。デネットがしばしばフィクションを例として用いて意識や日常的な視点を説明しているのはこうした事情による。例えば『解明される意識』ではそれぞれの人間の発話行為コナン・ドイルの小説のようなある種のフィクションのテキストとして扱い、それを意識現象の探求の一つのリソースにしようという発想が登場する。こうしたテキストをデネットは「ヘテロ現象学的テキスト」と呼ぶ。このヘテロ現象学的テキストは志向姿勢によって解釈された、自分や他者の振る舞いを記述した物語だと言える。「自己」や「他者」というものはこのヘテロ現象学的テキストという一種のフィクション(「私はいま赤いリンゴを見ている」)の登場人物、すなわち先に述べた「物語的重力の中心」なのだ。こうした意味でデネットは「物語」という言葉をこの用語に取り入れている。
 そしてデネットは自己の振る舞いを観察し予想するために用いられるこのような志向的パターン/意識を「便利なフィクション」や「ユーザーイリュージョン」と呼んだりする。これらは例えばスマートフォンのホーム画面に並んだアイコンのように自分というシステムを簡単に把握するのに役立つ。しかしながらそのユーザーインターフェースは実際に脳内で行われている計算を厳密に表現したものではない。そうした意味で志向的パターン/意識はフィクションに近いのである。
 ただしデネットは物理的に存在する人間とそうでないフィクションのキャラクターは違っていることは認めている。以下は私の解釈になるが、そうした意味での違いは志向姿勢とは別の物の見方で発見される物理的な世界での違いである。逆に言えば、純粋に志向姿勢の枠内で考えるときにはそのような違いは現れてこない。例えば小説に熱中して読んでいる時、目の前にあるものが紙(もしくはKindle端末)に書かれた文字であることを意識するだろうか?純粋に志向姿勢によって登場人物の振る舞いを観察し、予想している状態においては彼らは私たち実在の主体と同様に解釈されている。こうした意味で志向姿勢の哲学において私たちはフィクションの登場人物は限りなく接近しているのだ。*2

7. おわりに

 はじめに立てた問い、「他者の振る舞いを予想することができるのはどうしてだろうか?AIは考えることができるのだろうか?フィクションの登場人物と実在の他者の間にはどういった違いがあるのだろうか?」にそれぞれ答えてこの記事を終えよう。まず他者の振る舞いを予想できるのは、他者が合理的に振る舞いという前提のもとで選択肢を限定しているからだ。そしてAIはこうした予想の枠組み内で扱われる限りで思考し行動する主体として扱われうる。最後に私たち実在の人物は解釈されたパターンであるという意味でフィクションの登場人物と同列に語ることができる。 
 この記事で志向姿勢という思想の持つ広い含意のいくつかは紹介できたと思う。ただし志向姿勢と倫理の関係など自分がまだうまく消化できていない部分については紹介できていないので、また成長したら書き加えたい。またデネットが構想する「姿勢」は志向姿勢だけでなく「物理姿勢 (physical stance)」「設計姿勢 (design stance)」を含めた三つである。この三つの姿勢の内容と関係性も非常に重要なトピックなので、機会があったらそちらも紹介したいと思う。

文献案内

1981年に出た論文集。特に最初の論文"Intentional Systems"が志向姿勢や三つの姿勢の導入としてわかりやすい。ただし和訳がない。

1989年に出た論文集。最初の二つの論文"True Believers"と"Three Kinds of Intentional Psychology"で志向姿勢について論じられている。ただしやや論争的なので個人的には"Intentional Systems"の方がわかりやすいと思う。和訳があるが当然本屋では見かけないので図書館などを探すしかない。

最初に読んだデネットの本として思い出深い。和訳にして上下二段組が600ページぐらいあって辟易とするかもしれないが、様々な分野の知識を総動員して意識という問題に立ち向かう冒険はなかなか得難い経験となるだろう。この記事で紹介した「ヘテロ現象学」「物語的重力の中心」については前者が先に登場するのだが、説明の順番として志向姿勢→「物語的重力の中心」→「ヘテロ現象学」が正しいと思う。そうした意味で哲学的に読むとわかりづらい本。

進化論を論じた本で志向姿勢の話は直接は出てこないが、その成り立ちが進化のプロセスにあると想定していることが読み取れる。グールドとの論争部分がややかったるいが「メンデルの図書館」などの考え方のモデル構築の手腕が遺憾無く発揮されていてそうした部分は感動する。

これも論文集。特に"Real Patterns"という論文はよく引用される重要な論文。コンウェイライフゲームなどを例に用いながら、三つの姿勢が説明されている。志向姿勢について知る上でも役立つだろう。これも和訳はない。

『解明された意識』に対する反論や、それ以前からある批判に対して答えることが目的の本なのでこれだけ読んでもよくわからない気がする。背景となる論争をある程度知ってから読むと面白いかもしれない。

最近出た本。個人的にはデネットの著作の中で一番おすすめ。彼の思想の大部分をカバーしていて、また論争的な部分が少ないので読みやすい。最近和訳も出た。志向姿勢の話も登場する。

個人的に訳したもの1。AIについて書かれたウェブ上の記事で、『心の進化を解明する』のAIについての記述も含めて解説してある。

個人的に訳したもの2。クオリアについて論駁した論文。志向姿勢にはあまり関わりがない。

*1:もしかすると「志向姿勢によって解釈されることが「可能」でなければならない。」つまりパターンとしてはアプリオリに存在していて解釈される「可能性」のみが主体である条件かもしれない。この点については目下研究中であるし、また存在論のややこしい議論に踏み入ってしまうので割愛する。

*2:例えばフィクションの登場人物に対して「こうすべきだ」「この振る舞いは許されない」といった判断をすることはこうした見方を裏打ちするものではないだろうか。

研究発表『日常的イメージにおける構造実在論』

www.academia.edu

0. Abstract

 本稿では科学哲学における「構造実在論(structural realism:SR)」を日常的な思考のフレームワークに応用することを目指す。この応用によってダニエル・デネットがしばしば用いるウィルフリッド・セラーズの概念「日常的イメージ(manifest image)」の内容が明確になることが期待される。この分析は日常的イメージと科学的イメージ(scientific image)との関係というさらに包括的な関心に導かれている。SRはLadyman & Ross(2007)で指摘されているようにデネットの実在的パターン(real patterns)という論点と(厳密に一致するわけではないが)相性が良い。この議論を起点にしつつ日常的イメージ上でSRを取ることの可否を論じ、その上でSRを採用することのメリットを検討する。

1. introduction

 まずはじめに構造実在論(structural realism:SR)について概観する。特に焦点を当てたいのが構造実在論を取る二つの主要な動機と、経験的構造実在論(epistemic structural realism:ESR)と存在的構造実在論(ontic structural realism:OSR)の対立軸である。次に基本的に物理学の領域において議論されるSRをそれ以外の領域、特に生物学(French 2011)と心の哲学(McCabe 2006)へと応用していく研究を紹介、分析する。その上でそれらを包括する日常的イメージへのSRの応用について議論する。ここではLadyman et. al. (2007)でデネットの”Real patterns (1995)”に即して展開されるOSRのバリエーション、情報理論的構造実在論(Information-Theoretic Structural Realism:ITSR)を用いるのが良いだろう。この分析においては日常的イメージに含まれる対象は(第一義的には)個物ではなく構造であるという結論に至る。しかしながらデネットの議論を詳細に分析すると、ITSRをそのままデネットの思想の発展系とするには不備があることがわかる。その点について論じながら、ITSRの立場を修正することで日常的イメージにおけるSRがどういったものになるかを考察する。そして最後に日常的イメージにおいてSRを採用するメリットを、SRという立場が生まれるに至ったそもそもの動機に即して提示する。

2.構造実在論

2.1 科学的実在論

 SRは広く科学的実在論の一種である。科学的実在論を採用する根拠として第一に挙げられるものに「奇跡論法(no-miracle argument)」がある。これは科学の措定する観察不能な対象がもし存在しないならその科学の成功が奇跡となってしまい、また奇跡を信じるよりもその対象の実在性を信じる方が良いという論法を指す。特に予想という側面について、科学の想定する対象が自然種として存在するならその予想は理論の「投射可能性(projectabil-ity)」として正当化されることになる。(Boyd 1990)
 また単に科学の措定する対象は私たちの活動(説明、予想など)において有用であるというプラグマティックな観点からその実在性を主張することもできる。本稿のメインターゲットであるダニエル・デネットもそうした立場にあると言えるだろう。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。時折発生する誤解とその結果として生まれる誤った予測を受容することになるほどに単純な判別システムを科学において採用することは許されるのだろうか?それは往往にして起こっている。(Dennett 1991b)

2.2 構造実在論

 この科学的実在論は基本的に個物を科学の対象として想定している。そのような科学的実在論に対して様々な批判が考えられるが、本稿では構造実在論の議論に関わるそのうちの二つを扱う。一つは「悲観的帰納法(pessimistic meta-induction)」で、もう一つは量子力学における過少決定の議論である。悲観的帰納法とは、理論変化の前後で例えばフロギストンという対象へのコミットメントは停止されるが、こうした事例から帰納的に推論すると現在私たちがコミットしている科学の対象についても将来その実在性が認められなくなるだろうと予想できる。本稿ではこの問題を理論変化における存在論的不連続の問題として扱うことにする。なぜなら理論変化前後で存在論的な不連続がないなら、悲観的帰納法は成り立たないからだ。
 次に量子力学における過少決定の問題について、これは特に科学的実在論が対象を個物として扱う場合に発生する。

実際に特定の条件下で量子的な対象は個物だと主張することもでき、このことは物理学が個物としての粒子と非-個物として粒子という二つの異なった存在論的「パッケージ」を支持するというある種の形而上学的過少決定を生じさせる。(French & Ladyman 2011)

 こうした点から、個物ではなく例えば数式で記述されるような構造を対象とした構造実在論(SR)が提唱されるようになった。その構造は例えばニュートン力学相対性理論の近似として保存されているように、理論変化の前後でも同じようにコミットされている。それゆえにSRでは存在論的な不連続は発生しない。そして個物を対象としない以上、量子論における対象の過少決定という問題は生じない。なぜならそれを記述する数式こそが実在的な構造であり、その数式が含意する対象は個物でもそうでなくても構わないからだ。
 以上からSRを採用するメリットはFrench(2011)でまとめられているように二つあると言える。

構造実在論は二つの動機を持っているおおまかに理解することができる。第一には科学におけるしばしば劇的な存在論的変化という明白な歴史的事実に立ち向かうという問題を提示する、いわゆる悲観的帰納法を乗り越えること、そして第二には現代科学(特に量子物理学)の対象の存在論的な地位に関する形而上学的な含意に対応することである。(French 2011)

2.3 ESR/OSR

 このSRについて、大きく分けてさらに二つの立場がある。それぞれ経験的構造実在論(ESR)と存在的構造実在論(OSR)と呼ばれる。簡単に言って、SRが対象とする構造が認識上私たちの前に現れるものであるという立場がESRであり、反対にそのような構造が世界のあり方そのものであるという立場がOSRとなる。

ESRの大雑把な主張は私たちが知りうるすべてはもの間の関係の構造でありそのもの自体ではない、というものでそれに対応したOSRの大雑把な主張は「もの」は存在せず構造こそが存在するすべてであるというものだ。(Ladyman 2014)

さらにESRでは構造の実在性について私たちの認識の制約上の限界として認められ、実際の世界のあり方については個物であると主張するか、不可知論を取るかで分かれている。

二つのバージョンのESRが考えられる。ESR1ではそのような対象[観察不能な個物]は存在するがそれを知ることはできない、またESR2ではそのような対象が存在するかもしれないししないかもしれないが、どちらとも知ることはできないしそのような対象が存在してもそれを知ることはできないと主張される。
(French & Ladyman 2011)

OSRについても、構造の実在性を認めた上でそこから定義される個物の実在性も二次的に認めるかどうかで立場が分かれている。

従って二つの型のOSRが考えられる。一つは文脈から個別化された「薄い」対象の概念を残すものであり、もう一つは完全に対象なしで済ませるものである。この二つの違いを明確化することは現行の議論の課題ではあるが、後者の「結節点」が前者の「薄い」対象に他ならないと論じることもできる。(French & Ladyman 2011)

ここで言われているように、OSRにおいては構造同士のつなぎ目である「結節点」はどちらにせよ存在しているため二つの立場のどちらを取ってもあまり変わりはない。それゆえに本稿ではOSRとしてまとめてしまうこととする。本稿ではこのOSRを応用した一形態をデネットの思想を元に組み立てた立場をのちに見ることにする。次節ではSRの特殊科学への応用例を二つ見ることにする。これらは本稿の目的であるSRの日常的イメージの応用に関わっている。その点については4章で詳しく見る。
 

3. 構造実在論の応用

3.1 生物学

 Steven Frenchの“Shifting to Structures in Physics and Biology- A Prophylactic for Promiscuous Realism(2011)”ではOSRを生物学に応用することが試みられている。特に生物学におけるモデルが物理学における物理法則と同じように実在する構造と捉えられる点、また生物学においてSRを取ることで「⑴遺伝子の同一性、⑵遺伝子多元論と階層的アプローチの論争、⑶メタジェノミクスと生物学的個体の一般的問題」に一つの解釈が可能である点がトピックとなっている。
 これらの論点について重要な点は、SRにおいては遺伝子の存在はその機能から考えられるという点である。

機能的な同一性を上記のようにOSRの信奉者の一部が採用する「薄い」または関係性から定義された個別性の一形態に等しいと捉えることができるだろう。そのような説明において、生物学的な物質としての「遺伝子」は(多面的な)生物学的な関係性の結合という言葉において構造として再定義され、その関係性によってか、言い換えるとおそらくそれが持つ役割によって機能的に定義されることを通じて「薄い」やり方で個別化される。(French 2011)

それゆえに遺伝子がメンデルにおいて考えられたのと違う形(DNA)で考えられるようになったとしても理論変化の前後で遺伝子について存在論的な不連続はないことになる。なぜなら機能的に定義されている以上、それがどのような物質によって例化されているかは問題にならないからだ。
 またフレンチが指摘する構造実在論の二つ目の動機、つまり過少決定についても、適応の単位においてそれが起こっていると述べられている。これは自然淘汰の単位が遺伝子なのか、個体なのか、それともより上位のカテゴリーである群なのかという論争である。例えばSterelny & Griffiths(1999)で「粒度問題(grain problem)」として扱われており、生物学の哲学上の問題となっている。それについて彼はSRを採用することで解決の道が開かれるとしている。

もし代替案同士の間の区別を根本的に形而上学的なものと捉えるなら、この論争を選択の単位を構造的に理解する道を開くものと見ることができるかもしれない。この姿勢を取ることによって選択の基礎となる物質についての形而上学的な問題から離れることができるだろう。(French 2011)

3.2 心の哲学

 McCabe “Structural realism and the mind(2006)”では心の哲学においてSRを採用する可能性について論じられている。彼の出す結論は、機能主義的に考えられた心の概念、特に命題的態度の表象内容はSRから捉えることができるというものだ。

心理の表象説の支持者の多くは信念、願望その他の志向的状態の内容を提供する精神の表象は内的な構造を持っていると主張している。彼らは表象の内的システムは集合的に思考の言語と呼ばれる記号、構文、意味論を持っていると考える。(McCabe 2006)

またここでESRはこうした表象の背後に(一階の)無意識的な心理的性質の存在を認めるが、それに対してOSRはこうした構造が実在し、またそれだけが実在物であると考える。

ESRは無意識の精神の二階の構造が私たちに知りうるすべてだと主張し、OSRはその二階の構造が無意識の精神について存在するすべてだと主張する。(McCabe 2006)

 心の哲学におけるSRについてもフレンチのいうSRの二つのモチベーションを見いだすことができるだろう。第一の悲観的帰納法への論駁という点について、私たちの心理の表象という一つの説明のフレームワークの変化に伴って存在論的な不連続が発生することを回避できる。また第二の過少決定について、例えば「逆転クオリア」の思考実験を考えてみたい。この実験からは概ね以下のような帰結が得られるとされている。

私のクオリアは私の性向の全てを逆転させることなしに逆転させることができる。私がいま緑色に対して持っている反応や連想の全てをいま赤色に対して持っているクオリアに伴わせることができるし、逆も可能である。(Dennett 1991a)

この逆転によって生じる問題は経験的に計測可能な振る舞いや反応から主観的なクオリアを特定することができないという点だと言える。ここにある意味で過少決定が生じていると考えられないだろうか。つまり経験的なデータからは感覚内容(クオリア)を一意的に決定することができない。心の哲学にSRを導入することで、この感覚内容を関係的な性質から定義することにすればこの過少決定は回避できる。

4. 日常的イメージにおけるSR

4.1 日常的イメージ

 以上の研究からデネットのいう「実在的パターン(real patterns)」や「日常的イメージ(manifest iamge)」に話を移したい。実在的パターンはDennett(1991b)で導入された概念で「物理的(physical)」「設計的(design)」「志向的(intentional)」の三種類の「姿勢(stance)」に対してそれぞれのレベルのパターンが想定されている。また日常的イメージはデネットの用法ではこの実在的パターンから構成されたイメージを指す。本稿の目的はこの実在的パターンをSRから捉え、日常的イメージという語の意味を詳細に検討することである。前節ではSRの生物学と心の哲学への応用を見た。設計姿勢は「リバースエンジニアリング」としての生物学(Dennett 1995)に、志向姿勢は命題的態度に関わっている。それゆえにこれら二つの応用例は日常的イメージにおけるSRの特殊例として見ることができるだろう。それゆえにSRを日常的イメージに応用することは可能だと思われる。次の問題はこの日常的イメージにおけるSRのフレームワーク全体を定義することができるかどうかという点になる。その定義の一つの例として用いられるのが、次に紹介する「情報理論的構造実在論」である。
 

4.2 情報理論的構造実在論

 デネットの実在的パターンをOSRの観点から捉える試みにLadyman & Ross(2007)の情報理論的構造実在論(Information-Theoretic Structural Realism:ITSR)がある。

存在するとは実在的パターンであることであり、x → yというパターンが実在的であるということの必要十分条件
(1)それは投射可能である。そして
(2)それは少なくとも一つのパターンPについての情報を担ったモデルであり、符号化の際にPのビットマップの符号化よりも低い論理深度を持つ。そしてPはx → yよりも低い他の実在的パターンについての情報を処理する物理的に可能な装置によって投射可能でない。(Ladyman & Ross 2007)

このITSRのOSRとの違いは、構造を投射の際の情報の圧縮可能性から定義している点である。「投射」は同じパターンを別の時空で見つけることを言う。そしてビットマップ(非圧縮の投射)よりも効率的に情報を伝達できることが「論理深度が低い」と表現されている。この定義においては物理学の方程式以外にも上で見た生物学のモデルや志向的なパターンも(それらが最も低い論理深度を持つ限りで)存在すると言える。このような事態を彼らは「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼んでいる。このような相対性を許容できる点は、デネットの思考をサポートする上での大きなメリットだと言える。なぜなら彼は三種類の実在的パターンがそれぞれ実在物だと述べているからだ。 

4.3 ITSR vs Dennett

 しかしながらITSRはデネットの立場と完全に同じものだとは言い難い。デネット(1991b)では抽象化されたものとその抽象化の対象、abstractaとillataが区別されている。abstractaは例えば志向的パターンなどを指し、illataは物理的パターンを指す(Ladyman & Ross 2007)。ただしここでいう物理的パターンが「物理姿勢」によって見出されるものかどうかは一つの問題である。物理姿勢はあくまで「民間物理学」を構成するもので、レディマンたちが想定する現代の物理学には相当しない。それゆえにここでのillataは物理姿勢で見出されるパターンではないと言える。
 ITSRの叩き台であるRoss ”Rainforest Realism”(2000)ではデネットにおけるこのabstracta/illataの区別は廃止されるべきだと述べられている。

私はabstracta-illataの区別を廃止するという小さいコストによって彼[デネット]は自身の特別な種類の反還元主義、自然主義実在論を無矛盾な全体として織り上げる存在論的なテーゼを手に入れることができると論じてきた(Ross 2000)

この区別を廃止することでロスの立場はそれぞれのパターンに関して同程度の実在性を認めている。それゆえにITSRにおける存在論のスケール相対性はそれぞれのスケールに同程度の実在性を認めることになる。
 それに対してデネットは以下のように述べる。

厳密に言って、これらのパターンの理想化された描写はそれらが過度の単純化であるために何ものも記述してはいない。しかしそれらは乱雑な現実に対して便利な抽象化を課す。ノイズの多いデータの非可逆圧縮は抽象物を生み出すのだ。(Dennett 2000)

志向的パターンなどのabstractaはillataからノイズを無視して「非可逆圧縮」(抽象化)することで構成されている。しかしだからと言って志向的パターンが実在しないということにはならない。なぜならそれらのパターンはノイズを除去しているとはいえどもillataの一側面に他ならないからだ。それゆえにabstractaも「実在的」パターンと言えるのだ。また投射可能性についても成り立つことになる。しかしノイズを無視していることから100%の予想の成功は見込めない。その度合いはノイズを無視する閾値の高さに応じて低くなるだろう。 
 デネットはなぜこの二者の区別を必要としているのか。それはおそらく”Darwin’s Dangerous Idea (1995)”などで言われる「漸進主義(gradualism)」という発想を擁護したいためだと思われる。漸進主義では私たちの意識などがアルゴリズムへと還元できると主要されているが、志向的パターンが非可逆圧縮のパターンならそれはより下位のスケールのパターンとトークン対応もしない(弱い還元主義が成り立たない)。それゆえに還元主義が成り立つillataの世界を想定する必要があるのだ。
 日常的イメージの対象である実在的パターンがabstractaであるならば、日常的イメージにおけるSRは厳密にOSRだと言えるものではなくなる。しかしながらillataが完全に不可知であるわけでもないためESRであるわけでもない。ただITSRの語彙は日常的イメージの内実を解き明かすために非常に有用だと言えるため、そのまま採用したい。それゆえにこのSRは情報理論的に定義されながらも存在論的にはOSRとESRを折衷した立場となる。
 

4.4 日常的イメージにおけるSRのメリット

以上から日常的イメージというものを捉えると、それは実在的で情報理論的な構造(abst-racta)からなるイメージということになる。デネットは例えば以下のように日常的イメージの対象が個物であるような言い方をしばしばするが、この観点からはこの言い回しはミスリーディングであると思われる。

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

本当に日常的イメージが実在的「パターン」から構成されていると言いたいなら、デネットはSRにコミットすべきである。
 以下ではフレンチの提示した二つのモチベーションに即して日常的イメージにおいてSRを採用するメリットをより詳しく見たい。これらの点から私は日常的イメージにおいてもSRを採用すべきだと考える。第一に悲観的帰納法への論駁について、日常的イメージにおいても理論変化は起こりうるとデネットは考えている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自信の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

この例で言えば、過去貨幣だと考えられていたニッケルや銀のドルは現在貨幣だとは考えられなくなっている。ここでフレンチが提示した遺伝子の例と同じような悲観的帰納法を考えることもできるだろう。つまり貨幣について存在論的な不連続が発生しているのだ。しかし日常的イメージにおいてSRを採用することでこうした問題は解決できる。なぜなら遺伝子の例と同じようにこの貨幣の存在もまたその機能から定義され、どのような素材によって個別化されているかは存在論的な問題にならないからだ。
 また志向姿勢における理論変化について、デネットが論じるクオリアの「消去」がそれに該当すると私は考えている。私たちの心理的表象における説明から非物理的な感覚質といったものが消去されたとしても、SRを採用する限りで存在論的な不連続は回避される。
 第二に過少決定について、特に該当するのは上で挙げた「逆転クオリア」の場合だろう。また遺伝子が日常的イメージの対象であるかは別として、設計姿勢において見いだされたパターンにも過少決定の問題は生じうる。それゆえに日常的イメージにおいてSRを採用することにはこの問題を回避するというメリットがある。

5. 結論

 本稿では構造実在論の紹介とESR/OSR二つの立場、またSRの特殊科学への応用を見た。その上でデネットがいう日常的イメージにおいて展開すべきSRはITSRをabstracta/illataの区別を保存しながら少し修正した立場であることがわかった。そしてそのようにしてSRを採用することで、日常的イメージにおける⑴理論変化前後での存在論的不連続⑵形而上学的過少決定がそれぞれ回避できるというメリットがあることを見た。

参考文献

  • Boyd, R. (1990). Realism, Anti-Foundationalism and the Enthusiasm for Natural Kinds. Philosophical Studies, Vol. 61 , pp. 127-14. https://philpapers.org/rec/BOYRAA
  • Ross, D. (2000). Rainforest realism: A Dennettian theory of existence. Dennett's Philosophy A Comprehensive Assessment. D. Ross, A. Brook, and D. Thompson (eds.). MIT Press.

『宇宙よりも遠い場所』10話/友情のソリテス・パラドックス

 『宇宙よりも遠い場所』というアニメが現在12話まで放送されている。非常に評判の高い本作だが、「どの話が一番好き?」と訊くと「5話…」「8話が良かった」「11話…」「三宅日向……」「12話がヤバすぎる」など結構まちまちな返答が返ってくる。おそらく、これはそれぞれのストーリーの品質自体で甲乙がつけられているのではなく、各人がどのキャラクターのどの場面に共感したかによって答えが変化しているからではないかと思う。さて、そんな中で私にとっては10話「パーシャル友情」が一番好きな回となった。

第10話「パーシャル友情」あらすじ
見渡す限り延々と続く真っ白な世界。ついに南極へとやってきたキマリたちは、目の前の広がる景色に思わず息を呑む。前回から3年ぶりとなる昭和基地ではやらなければならないことが山積みで、基地へと案内されたキマリたちも次から次へと言い渡される仕事に大忙し。そんな中、結月が意を決したかのような面持ちでキマリたちを見ながら、とある出来事を話し始める。

 とある出来事というのは朝ドラのオーディションに合格したということで、その結果結月は他のメンバーとあまり会えなくなることを心配し始める。そこで「もう親友だから大丈夫」というキマリに対して結月は「いつ親友になったんですか?」と問いかける。この問いこそがこの話の主題をなしている。人はいつ友達になるのか?結月は友達である証明が欲しくて、「友達誓約書」なるものを作ってサインを求める(私がこのアニメで一番好きなシーン)。


f:id:Re_venant:20180322152855p:plain
figure 1. 友達誓約書*1


それにサインした時、友達という関係が発生するのだろうか?報瀬はその誓約書を「意味がない」と言って突きかえす。キマリは「わからないんだもんね」と泣きながら結月に抱きつく。そう、「わからない」。今まで友達ができたことのない結月はもちろん、おそらく他のメンバーの誰も、そして私も友情が発生する瞬間を、友情の定義を知らない。なぜならそんなものは存在しないからだ。ただめぐみという親友を持つキマリは、誰かと「友達である」という実感を持っている*2。どの瞬間どのようにそうなったかはわからないが、いつの間にか人と人は友達になっている。その曖昧な感覚だけが友情というものの拠り所なのである*3
 ソリテス・パラドックス、または砂山のパラドックスという哲学上の問題がある。*4例えば砂山から一つずつ砂粒を取り出していって、どの瞬間から砂山は砂山でなくなるのか?という問いに答えられないという問題である。私はこの問題について、「砂山である」と「砂山でない」の二つの状態という言語上の区分を用いて思考していることに原因があると考えている。本来砂山と砂粒という状態同士は連続的(アナログ)な関係にある。つまりそれらの間に明確な境界線はなく、存在するのは砂山と砂粒という両極なのだ。そして個々の状態はその中間にあり、私たちに言えるのはそれがどちらの極に「近い」のかということのみである。しかしながら私たちは言語という1か0か、つまり「砂山」か「砂山でない」かという離散的(デジタル)なものを使って思考している。思考せざるを得ないとさえ言えるかもしれない。それゆえに砂山と砂粒という二項対立を想定して、本来存在しないその境界線という問題に悩むことになる。このようにソリテス・パラドックスはアナログな世界をデジタルな言語によって思考しようとすると不可避的に発生する。つまりこのパラドックスは言語という「知恵の果実」を得た人類に課せられた「原罪」なのだ。
 さて、友情に関しても同様のことが言える。『宇宙よりも遠い場所』では3話で報瀬たちが自分たちを指して「同じところに向かおうとしているだけ」だという。そこで二つの極を「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」と設定してみよう。おそらく3話で4人が出会ってから、この11話で再び友情が話題に上がるまでの間で、彼女たち4人の状態はこの二つの極の間を遷移したはずである。しかし、その二つの状態の間に明確な境界線、つまりここまでは「同じところに向かおうとしている人々」でここからは「親友」だという線は存在しない。結月以外の三人はおそらく自分たちが「親友」であるという実感をいつからともなく持っていた。だが結月にはそれが「わからない」。なぜなら彼女には今まで友達がいなかったために、友達であるとはどういうことかを理解していなかったからだ。実感を持てない彼女が自分たちの関係性を思考した時、感覚的でない以上その思考は言語的なものとなってしまう。そこには「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」という二項しか存在せず、キマリは自分たちが親友だと言うがいつ親友になったのかがわからない。なぜなら明確な境界線は存在せず、他の三人が語るのは曖昧な実感だけだからだ。それゆえの「友達誓約書」であり、このシーンが(私にとって)本当に感動的なのは、友達であることに明確な定義と根拠がないことへの不安に深く共感できるからだろう。それは言語によって人間関係を思考する私のような人間たちにとって、生まれてから今までずっとつきまとってきた不安だ。
 それで、このアニメはいかにしてこの問題に挑むのか、つまり結月は友情の実感をいかにして得るのか、そしてそれをどのように言葉にするのかという点がこの分析の最終段階となる。結論から言うとこの話では結月が祝われなかった誕生日を改めて祝ってもらうことで友情の実感を得る。そしてその実感を伝える言葉は「ね」という一文字なのだ。結月が誕生日ケーキを前にして涙するシーンは、人間が生まれて初めて友情を実感する瞬間というものをこの上なくわかりやすく、美しく描写している。そこにケーキの上のチョコプレートの言葉以外には友情というものを直接表現する言葉はない。しかし手書きであろうその文字の拙さ、手作り感満載のケーキ、南極でケーキを作ってくれたことなど、言葉以外のものが結月に友情の実感を与えてくれる。やはりここでもアナログな関係性を表現するためにデジタルな言語は役に立たない。しかしながら、私たち人間が対話するためにはどうしても言語が必要となる。特にLINEなどのメッセージサービスを使おうと思うとなおさらそうだ。こうしたメッセージサービスにおいてアナログな友情をいかに表現して伝えるのか、その点に対する答えにおいてこのアニメは天才的なものを示していると言えるだろう。それこそが先に述べた「ね」の一文字である。


f:id:Re_venant:20180322230422p:plain
figure 2. 「ね」*5


友情というアナログな関係性を表現するためには「ゆうじょう」の五文字ですら長すぎる。なぜなら繰り返すようだが言語はデジタルなもので、それはアナログな世界に絶対にたどり着けないからだ。そして語りえないものを語るために私たちに残された手段は、言語に頼らないこと、つまり0文字の沈黙のみである。この一文字の「ね」はその壁を前にして、言葉をギリギリまで切り詰めることでなんとかアナログな友情を伝えたいという努力の結果生まれたものだと言えるだろう。それによって言語が不可避的に持つパラドックスを解決できたわけではない。しかしそれでも曖昧で掴み所のない友情というものに、極めて真摯に向き合った結果生まれた表現だと思う。言葉では伝わらない、けれど言葉で伝えるしかない、そして伝えたいという気持ちが作るもどかしさが胸を熱くさせる。だからこそこのシーンは感動的で、私はこの『宇宙よりも遠い場所』10話が本当に好きなのだ。

*1:©YORIMOI PARTNERS

*2:ここで結月と向き合う役割をキマリが担うのは、他の2人に関してこの4人の関係以外の友人関係が(この話までに)描写されていないという事情が絡んでいるだろう。こうしたキャラクター同士の組み合わせの巧妙さもこのアニメの特徴の一つである。

*3:作中でも、報瀬「友達って言葉じゃないと思うから」/日向「いやぁだから…気持ち?」などのセリフがある。

*4:砂山のパラドックス - Wikipedia

*5:©YORIMOI PARTNERS

研究発表『二つのイメージにおける対象 - 「日常的イメージ」のデネット的解釈』

www.academia.edu

1. 要旨

 本発表では科学的な世界観と日常的な世界観の関係という問題を論じる。日常的な世界観についてはその対象の実在性を否定したり、その枠組み自体を否定する主張がいくつか見られる。それに対してこの発表ではダニエル・デネットの議論をたどりながら反論を試みる。さらにその上で科学に対応して日常的な世界観を修正することが哲学の課題であることを見る。

2. 日常的イメージと科学的イメージ

 発達し続ける科学の提供する世界観は、私たちが日常的に持っている世界観と乖離していくように思われる。それらはどのように調停できるのだろうか。またはそのどちらかが正しく、もう一方は放棄されてしかるべきなのか。セラーズはこれら二つの世界観を日常的イメージ(manifest image:MI)と科学的イメージ(scientific image:SI)と呼んで別々の世界観として扱っている。

そこで、私たちが対比するのは二つの理想的な構築物、すなわち(a)私が「日常的イメージ」と呼ぶ「原始的イメージ」の相関的、カテゴリー的な洗練物と(b)公理に由来する理論構築物の産物に由来する、私が「科学的イメージ」と呼ぶものである。(Sellars 1963)

その上でこれら二つをどう関係付けるかという問題が、哲学の目的であるとさえ述べる。

私の今の目的は、科学的イメージと呼んだものに対して日常的イメージに対して与えた説明と同等のスケッチを付け加えることであり、また哲学の目的である世界内の人間の統一された視界に対するこれら二つのイメージのそれぞれの貢献についてのいくつかのコメントでこの論文を締めくくることである。(Sellars 1963)

 セラーズがこの問題をアピールする上で出す例えにエディングトンの「二つのテーブル」というものがある。

ここでエディングトンの「二つのテーブル」の問題、私たちの用語法では日常的イメージのテーブルと科学的イメージのテーブルという二つのテーブルの存在という問題の本質的な特徴が再び現れてくる。問題は日常的テーブルと科学的テーブルを「噛み合わせる」ことだ。(Sellars 1963)

二つのテーブルとは、SIで捉えられた観察できない素粒子(理論的に仮定されたもの)の集合としてのテーブルと、MIに存在する目の前にあるこのテーブルである。別々の世界観が二つあるなら、それに対応してテーブルも別々の二つが存在することに ある。そうなると選択肢は①MIの対象(O𝗆)が存在し、SIの対象(O𝗌)は存在しない。②O𝗆は存在せず、O𝗌は存在する、③O𝗆とO𝗌の両者が存在する、④O𝗆とO𝗌の両者が存在しない、の四つがあることにある。おそらく④は検討する必要がないだろう。④が正しいとなると、あらゆる対象が存在しないか、二つのイメージとは異なった新しい世界観を提出しなければならないからである。

3. 消去的唯物論

 「二つのテーブル」問題に対するセラーズの回答は、O𝗆の実在性を認めないというものである。

私が提示している見方によると、対応規則は物質の相においては観察可能なものについての枠組み[MI]の対象は実際に存在するわけではない[~]という意味のものとして現れるだろう。(Sellars 1963)

その理由は以下の二点に集約されるように思われる。⑴MIにおける観察可能な対象が「観察可能であること」は対象の実在性の証明に貢献しない。⑵MIと同等の経験的地位を持つSIの方が説明力が高い。まず⑴から説明する。セラーズは直接経験される対象が、知覚経験のみによって確証されるという考え方を「所与の神話」と呼んで否定する。経験対象はむしろ経験の背景となる知識によって初めてその対象として現れることができる。例えば赤色の経験をするためにはどのような状況でどのような光を知覚すると赤色に見えるのかを知っていなければならない。それゆえO𝗆が観察可能であるという理由によってO𝗌より存在論的に高い地位にあるわけではない。なぜならどちらも背景となる知識や理論によって措定された対象だからだ。次に⑵について、セラーズはMIにおける予測は真理の近似に過ぎないと述べている。

上記の結果を要約すると、微視的理論は観察言語の概念的枠組み[MI]内部の与えられた領域に関する帰納的一般化とあらゆるその洗練物がなぜたかだか真理の近似にすぎないのかを説明する。(Sellars 1963)

なぜならSIはMIよりも詳細な予測を出すからである。ゆえにSIの方が説明力において優れた枠組みなのだ。以上の二点から、セラーズはO𝗆は存在せずO𝗌は存在する(②)と結論する。なぜなら存在論的に同等なO𝗆とO𝗌について、どちらかを選ぶとするなら説明力の高い枠組みの対象であるO𝗌を選ぶのが合理的だからだ。本発表ではセラーズのこの主張に従ってO𝗌には実在性を認めることにする。しかしだからといってO𝗆の実在性を否定はしない。つまり選択肢③に向かうのである。
 さらに進んでMI(の一部)自体を消去してしまおうという試みに、チャーチランド(1981)のいう「消去的唯物論」がある。例えば自然言語によって捉えられる「民間心理学」は端的に誤った理論だとして消去されうるだろうとチャーチランドは主張する。その根拠として民間心理学は科学に比べて予測を誤ることが多く、また停滞した「リサーチ・プログラム」であるということが挙げられている。チャーチランド曰く、民間心理学は「二、三千年の間、[~]その内容と成功のいずれに関しても目立った進展を遂げていない」のである。それゆえに将来神経科学がより成功した理論を提供するなら、民間心理学はその対象を含めて放棄される。このことをさらにMI全体へ広げて考えることもできるだろう。つまり民間心理学だけでなくMIを放棄するタイプの消去的唯物論である。セラーズが言うようにMIの説明力がSIに劣っていて、またMIが停滞した枠組みであるなら、そのことがこのタイプの消去的唯物論の論拠になりうる。選択肢③を取るために、つまりO𝗆の実在性をも主張するためにはこの消去的唯物論にも反論する必要があるだろう。なぜならMIが消去されるべきなら、当然O𝗆が実在物だとみなされることはないだろうからである。

4. 日常的イメージの対象の実在性

 デネットはセラーズの枠組みに従ってO𝗌の実在性を認める。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。(Dennett 1991)

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

 その一方でデネットはO𝗆の実在性を明確に擁護する。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 さて、O𝗆の実在性を擁護するとなると、先にあげたセラーズの議論や消去的唯物論を否定する根拠が必要となる。まずデネットはMIが停滞した枠組みであることを否定する。その点についてデネットはO𝗆に含まれる典型的な存在者である「貨幣」について次のように述べている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自身の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

つまりMIは新しい概念を導入したり、既存の概念の抽象度を上げることで常に刷新され続けている。民間心理学についても、デネットが長年展開しているクオリア論批判や意識現象の様々な(再)解釈はその枠組みの修正として見ることができる。すなわちデネットチャーチランドが民間心理学が停滞していると批判したことに対して、その修正を実践することで反論しているのである。
 MIが停滞していることは否定されたが、それがSIに比べて誤った予測を出すことが多いという問題は残っている。デネットはこうしたノイズの存在を認めた上で、MIは多くのノイズを無視するからこそ有益なパターンを発見できるのだと主張する。

どこにおいても見られる理想化されたモデルの使用の実践は、予測の信頼性、正確さと計算的な追跡可能性の間のトレードオフの問題なのである。(Dennett 1991)

 具体的にはスケールに対応した三つのレベルのパターンの存在を認めている。それは「物理的」「デザイン的」「志向的」なパターンでありそれぞれが対応した「姿勢」によって見出される。Dennett(1991)ではコンウェイの「ライフゲーム」を用いてこの三つの「姿勢」が説明されている。ライフゲームを支配する法則、つまり隣接するマスのうち三つが「黒」ならそのマスは「黒」になる、などを見る視点は「物理姿勢」である。その法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダーガン」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 これら3種類の姿勢は高次のものになるにつれてより多くのノイズを無視しているが、そのことによって大局的なパターンを発見できると言える。そのような大きなパターンはSIにおいて細部に注目していては不可能な予測を出すことができる。そしてこれらのパターンを見出す姿勢がMIを構成している。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものであり、それは民間物理学、民間心理学、そしてそのほかの、データによって爆撃する五月蝿くまた魅力的な混乱に対して私たちが持っているパターン検知の視座によって構成されている。したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 それゆえにMIがそれが含むノイズによって単に誤った理論だとして退けられることはないだろう。なぜならデネットが述べるようにMIにはプラグマティックな利点があるからである。
 このようにしてチャーチランドの消去的唯物論(とさらにそれを過激化したもの)には反論できる。しかしMIの枠組み自体を捨てる必要がないからといって、O𝗆の実在性まで主張できるのだろうか。デネットが認めるように、O𝗆が実在しない「ユーザーインターフェース」でも問題はないのではないだろうか。デネットは以下のように述べる。

クワインが私たちに思い出させようとしなかった科学的な有益性が実在の何らかの基準であるのにもかかわらず、なぜ日常的イメージの有益性がそれと同様のものと数えられるべきではないのだろうか?(Dennett 2013)

O𝗌に対して実在性を認めることの根拠は、それが有用性を持っているからであった。しかしデネットによると(セラーズも同意するかもしれないが)、MIにもSIとは別レベルでの有用性がある。またO𝗌もO𝗆も同じように理論的枠組みにおいて想定される存在者だから、あえてO𝗌だけが存在してO𝗆が存在しないと主張する根拠はない。それゆえにO𝗆が存在すると考えることに不合理はない。さらにデネットはO𝗆としてしか存在しないものをいくつか挙げている。仮にO𝗆の実在性が全面的に否定されてしまうと、例えば先ほど挙げた「貨幣」や「声」「髪型」などが存在しないことになる。

5. 多重の実在

 本発表ではデネットの見方、つまりO𝗆とO𝗌のどちらにも実在性を認める立場(③)を是認する。この立場は例えばLadyman et al.(2007)では「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼ばれている。

問題となっている事実は(デネットではなく)私たちが存在論のスケール相対性と呼ぶものだ。(Ladyman et al. 2007)

デネットなどの議論ではO𝗆/O𝗌内部でも様々なスケールにおいてそれぞれ存在者が考えられるが、本発表では簡単のためO𝗆/O𝗌を一つの存在者のスケールのクラスとする。
 さて、O𝗆とO𝗌の両方に実在性を認めるとなると、また冒頭の「二つのテーブル」の問題に戻ってきてしまうのではないだろうか。つまり結局は目の前にあるテーブルが二重に存在しているという事態が発生しているのではないか。しかし私はO𝗆とO𝗌がどいらも実在していることはそのような二重性の問題を生じさせないと考える。なぜならO𝗆とO𝗌は時空に関しても全く別の存在者である、つまりそれぞれは別々の座標系に属しているからだ。
 それならばなぜ二つのテーブルが重複しているように感じられるのだろうか。それはセラーズの言葉を借りて言えばそれはMIとSIの間でアナロジーの関係が成立しているからだ。アナロジーの関係にあるMIとSIにおいて、あるO𝗆とO𝗌がそれが理論の枠組みの中で果たす役割が相似している。テーブルの場合、MIのテーブルは目で見える、手で触れられる、上に物を置くことができるといった役割を持つ。他方SIのテーブルは特定の波長の光を吸収したり反射する、分子の結合が比較的強固な固体である、時空間においてある座標を占めているといった役割を持つ対象として考えられる。この相似性のために私たちはテーブルが二重に存在しているように感じる。なぜならこれらの対象は時空という性質においても相似しているからだ。しかし実際にはO𝗆とO𝗌は相似しているだけの別の存在者であり、存在論的なコンフリクトを引き起こしているわけではない。

6. 日常的イメージの修正

 以上の議論からMIは放棄されるべきものではなく、またO𝗆に対しても実在性を認めてよいと結論する。しかしながらMIが停滞したリサーチ・プログラムとならないように、MIを所与の枠組みとするのではなくそれを不断に更新、修正していくことが必要となる。さらにその修正の結果として実在するO𝗆の外延もまた変化するだろう。これはセラーズの⑴の論点の帰結である。直接観察されるとはいえ、O𝗆もまた理論によって措定された対象であり、MIが修正されると私たちの経験の仕方が変わり、それによって存在するものも増えたり減ったりしうる。
 次なる問題はその修正をどのように行っていくのかという点だ。まず考えられるのが日々変化するSIとの整合性を保つという方向での修正だろう。ただしMIをSIと完全に一致させる形にすることはおそらくできない。なぜなら志向的パターンなどのMI上の高次の対象に対応するような物理的な対象は数多く存在しうるからだ。例えば貨幣について、10,000円という金額に対応する物理的対象は紙でできた一万円札や金属である百円玉100枚(を構成する素粒子)、もしくは1/200ビットコイン(バイナリデータ)かもしれない。要するにO𝗆/O𝗌の間で多重実現の関係が成り立つのである。ただしこうした多重実現可能性によってタイプの間の対応関係は成り立たないにしても、トークン同士の対応関係は成り立つ。それゆえにO𝗆/O𝗌の間でトークン対応が成り立つということがMIの修正の指針となりうるだろう。この観点からは例えば非物理的な魂といった物理的な対象とトークンとしても対応しない対象はMIから排除できる。
 この方針に付随した制約として、SIの修正に対応してMIは修正されるが、逆はありえないというものがある。例えばこのような非対称性の一種とみられるものがLadyman et al.(2007)において「物理学優先の制約(Primacy of Physics Constraint (PPC))として展開されている。

基礎物理学やそこにおける何らかの合意に矛盾する特殊科学の仮説は、ただそれだけの理由から拒絶されるべきである。基礎物理学の仮説は特殊科学の帰結に対して対称的に抵当に入れられるわけではない。(Ladyman et al.(2007))

この場合は物理学とその他の特殊科学との間の関係だが、これをより広く経験可能なものについての理論とそうでないもの、つまりMIとSIの関係に敷衍することも可能だろう。
 このような形でのMIの修正はセラーズが言うように二つのイメージを用いて「立体視的に見ること」を目指す試みだと言える。そして彼曰くこのことを通じて世界の見方を確立することが哲学の目的なのだ。しかしO𝗆/O𝗌がともに実在物である以上どちらかを消去することはできないし、また多重実現可能性によってどちらかを他方に還元することもできない。このような制約のもとで私たちはMIを修正してSIとともに世界を「立体視的に見る」ことができるのである。
 次に考えられるのがMIの内部で理論の有用性という基準において修正していく方針だ。時代それぞれにおいて環境は変化するから、有用な理論の基準もまた変化していく。それに対応してMIを修正していく必要があるだろう。ただし「何にとって有用なのか」という観点を特定することは難しい。例えばダーウィニズムに従って私たち人間の(または遺伝子の)生存のために有用な理論を採用し、そうでないものを放棄するという方針があり得る。他にもデネットの考え方に従えばMI自体がミームの集合体だから、MIにおける個々の理論はそれぞれの生存のために理論間で競争をしているとも言える。それならばMIは単に生き残った理論の集合体と捉えられるかもしれない。問題は、そのようなミームの生存競争に対して私たちの意志がどれだけ淘汰圧として関わっているのかという点になるだろう。

7. 結論

 結局、私たちはMIとSIを統一することができるのだろうか。またMIかSIのどちらかを捨てるべきなのだろうか。本発表での答えはどちらも否である。その上で本発表における私の主張は以下のように集約される。⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。
 三つめの主張におけるいくつかの方針については「科学主義」「プラグマティズム」などが挙げられるが、それらがMIの修正のために必要なすべてであるとは言えないかもしれない。それゆえにそれらの十分の吟味が今後の課題として残ることとなる。

参考文献

  • Churchland P.

Eliminative Materialism and the Propositional Attitudes (The Journal of Philosophy, Vol. 78, No. 2. (Feb., 1981), pp. 67-90.) 1981
http://stevewatson.info/courses/Mind/resources/readings/Churchland_ElimMater&PropAtts.pdf

  • Dennett D.

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
https://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/realpatt.htm

Kinds of Things—Towards a Bestiary of the Manifest Image (from “Scientific Metaphysics” (Ross D., Ladyman J.,Kincaid H.(Ed)) ) 2013
https://pdfs.semanticscholar.org/2245/ee8ee41880b17d5c56a8bb92beb4523a1c78.pdf

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

  • Ladyman J., Ross D., Spurrett D. & Collier J.

Every Thing Must Go : Metaphysics Naturalized(Clarendon Press) 2007

  • Sellars W.

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963

  • 太田紘史

経験科学における多重実現と多様性探求 (哲学論叢 (2006), 33: 79-90)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48854/1/TRonso33_Ota.pdf


頂いたコメントの検討

  • 物理学の話と生物学の話を分ける必要がある。

セラーズやエディングトンは明らかに物理学を対象として「科学的イメージ」を考えているのに対して、デネットが主に扱いたいのはやはり生物学である。それゆえにこの両者を同時に扱おうとするとそれらの齟齬が問題となってくる。私が研究したいのはやはりデネットの思想であり、生物学に話を絞ったほうがいいかもしれない。この点に関しては「科学的イメージ」という一つの単語に包摂されて隠れていたそれぞれの立場の違いが見えていなかったということになるだろう。

  • 物と構造どちらの実在論が取りたいのか。

セラーズの話はやはり物を対象にしているが、デネットはパターンつまり構造を問題としている。このデネットの立場はレディマン他の本では構造実在論として定式化されることになる。確かにこの発表ではその辺りの混同があった。私としてはデネットの立場から構造実在論に行きたいと考えているので、セラーズの話を使うことに対してもう少し慎重になったほうがいいかもしれない。

  • 結論における推論ステップの明確化

「⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。」という結論に関して、それぞれのステップの間の移行における論理的な関係を明確にした方が良いというコメントをいただいた。この発表では問題を大きく扱い過ぎたと思うので、次からはもう少し細かいところの議論をやったほうがいいかもしれない。特に1から2についてはデネットのオリジナルというよりパトナムが既にやっているらしいのでそちらを見る必要がある。

5章と6章の間でデネットの主張から私自身の主張に切り替わっているが、そこを明確にアピールしたほうが良いというコメントをいただいた。5章におけるデネットの立場の何が問題で、私がそこに何を付け加えたいのか。おそらくはデネットが言及しない日常的イメージにおけるダイナミズムや科学との対応がそれにあたるのだろう。私としてはデネットが割と簡単に日常的イメージの対象は実在すると言ってしまうのが不満で、そこに何らかの制約を課してその存在論が妥当なものになるようにしたいのである。

  • 「日常的イメージ」の多義性

セラーズとデネットの間でおそらく「日常的イメージ」という語が指す意味が変わっている。セラーズにとっては観察可能な対象を見る枠組みだが、デネットにとってのそれは様々な機能などを含んだ枠組みとなっている。その違いを明確にする必要があるだろう。その点にはおそらくセラーズとデネットの間で物理学から生物学へと関心が変わっている点、物の実在論から構造の実在論へとシフトしている点も関わっている。

  • 有用性を実在の起源とすることについて

この発表で言われている実在の起源は有用性である。そしてセラーズとデネットの間の最大の違いは認める有用性の種類で、それが実在物の種類の差につながっている。もし仮に有用性が複数あるなら、この発表で見た有用性(2種類)以外にも種類が考えられるのではないか。そうするとその有用性についてそれぞれに実在が考えられる事態に陥るのではないか。そうしてみると、極論すると個人個人で有用性の基準は違うので個人それぞれにおいて実在が異なっているという事態が発生する。この点についてはまだ手に負えていない感じがするのでさらに検討したい。