最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』


この記事では最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』を解釈していく。

『アリス・イン・カレイドスピア 1』(以下、本作)は以下のリンク先で最後まで読むことができるので未読の方は是非先に読んでほしい。

sai-zen-sen.jp


1. はじめに

この記事ではいわゆる「心の哲学」と呼ばれる分野の知識を背景とし、特に哲学者ダニエル・デネットの立場から『アリス・イン・カレイドスピア 1』の解釈を試みる。

そのためまずは前提となるいくつかの概念について説明したのち、それらが本作の世界観とどう関係するのかについて考察していく。

次にその視点に立って本作の具体的なストーリー展開を解釈する。

2. 物理主義と「地底」の人々

本作の主要な対立軸となっているのは地上と地底、すなわち魂の実在を認める心身二元論と物理的なものしか認めない物理主義*1の世界の対立である。

そして魂を持たない「地底」の人々は「哲学的ゾンビ*2と呼ばれる。

さらに本作後半では登場人物の一人「ミラ」が情報システムの索引としての擬似人格であったり、本作のヒロイン「アリス」が物語の登場人物としての存在であることが明かされる。

「私は、あらゆる普遍的な物語類型を参照し続けながら『私という物語』を自動生成する、お話の妖精。そのあり方は典型的な物語に影響を受けます」
(7章 p282)

ミラは心の哲学での主要な争点の一つである人工知能の問題を意識したキャラクターだと思われる*3

この人工知能の実現可能性について、人間の意識を物理的なものから説明できないとする心身二元論者は否定し、物理主義者は肯定している。

ダニエル・デネットは物理主義の主要論客であり、人工知能についても一貫して肯定的な立場を取っている。

さて、そのようなデネットの物理主義的な見方から「哲学的ゾンビ」「人工知能」そして「物語的重力の中心としての自己」というものについて説明したい。

まずデネット心身二元論は理論的に行き詰まっていると主張する。

もし意識が物理法則から完全に自由な魂だとすると、その魂はどうやっても物理的な世界と関わることができない。

それゆえに私たちの意識は物理的世界になんらの影響も及ぼさないものだということになってしまう。

この結論は私たちの直感と明らかに相容れないものであり(私たちは意識が物理的な身体を動かしていると確信している)、デネットはこの点から心身二元論を退ける*4

心身二元論が否定されたことで、私たちはすべて非物理的な魂を持たず物理法則に支配された「哲学的ゾンビ」であると考えられる。

またデネットは進化論を自身の理論の主要な位置に据えていて、意識は進化のプロセスから生まれてきたと主張する。

進化のプロセスとは単純なアルゴリズムの集積が様々なデザインを生み出していくことだから、人間の複雑な意識活動は部分では単純な脳神経回路から生み出されることが可能である*5

それゆえに人間の知能と同じ能力を持つ人工知能もまた単純な機械の集積から構成可能であるとデネットは考える。

また、脳の神経の活動は並列的なプロセスであるためその産物である人間の意識には中心的な視座(カルテジアン劇場)が認められなくなる*6

それゆえに意識は並列的な脳のプロセスそれぞれがお互いに編集し合う中で生み出される「多元的草稿」なのである。

ならば「私」や「自己」とは一体なんなのだろうか。

それは「物語的重力の中心」であるとデネットは言う。

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

平たく言うと脳の並列的な活動の結果として出力された物語(この文章もそれに当たる)における一人称こそが「自己」というものの正体なのだ。

そして物語は因果関係による文脈によって構成されているから並列的な脳の活動から直列的な「自己」が生まれるのである。

このように考えると、物語の登場人物であるアリス(正確に言うと「物語の登場人物」としての本作の登場人物)が単なる作中でのフィクションではなく、現実に存在する私たちの「自己」と同様の存在者であると考えることができる。

3. ミーム論から見た呪術

次に進化論における思考ツールの一つ「ミーム」というものと作中の主要なガジェットである「呪術」の関係を考察したい。

ミームとは遺伝子のような自己複製子の一種であり、情報の形をとって私たちの脳から脳へとコピーされることで飛び移っている*7

デネットによるとこのミームは私たちの脳内で複雑に組み合わさって、脳というハードウェアに対するソフトウェアとしての意識を形成している。

さらに意識を構成するミームたちはそれぞれが自身の複製という目的を達成するために互いに競合していて、その勝者が意識にのぼって他者に伝達される。

さて、そのようなミームの伝播が呪力を生み出すということが本作での呪術観であるが、それはどういうことなのだろうか。

まず重要なのが『アリス・イン・カレイドスピア』という物語自体が一つのミーム複合体であるということだ。

本作、そして『幻想再帰のアリュージョニスト』が沢山のオマージュから構成されているのは物語=ミーム複合体であるという点を強調するためだとも考えられる。

そしてその物語を生み出すのは作者である「最近」という人間の脳であり、それは競合するミームたちの巣である。

ゆえに作者の脳内においてあるミームが影響力を強めるということは、それが脳から出力される物語を自分の都合のいいように改変していくということを意味する。

何故ならそのようにしてミームが出力されることが自然淘汰を勝ち抜いたということであり、そのようなミームだけが生き残ってきたからだ*8


では呪術の4系統それぞれについてこのような観点から考察してみよう。

呪術の4系統とは以下のようなものである。

  • 邪視:世界観の拡張
  • 呪文:言語の拡張
  • 使い魔:関係性の拡張
  • 杖:身体性の拡張

邪視者はメタ的なレベルから直接的に物語世界(ミーム環境)を改変するが、彼らは作者の脳内に存在するミーム群だと考えられる。

なぜなら先ほど述べたように物語(=作者の意識)はミーム群が競合し編集しあう中で生み出されるからだ。

そして邪視者が認識するということは物語世界においてそれが言葉によって記述されるということであり、記述されることは物語を直接形成していく。

このようにして邪視者の認識は物語世界を改変するに至るのである。

次に呪文は言葉の呪術だが、これは直接的にミームの表現であるだろう。

物語が小説という形を取る以上それは言葉によって構成されていて、言葉(ミーム)を操ることは物語世界を操ることと同義である。

そして使い魔は関係性の呪術だが、この関係性とはミーム同士の関係性のことを指す。

ミームは相互にただ争っているだけでなく、時に共生したり、さらには一つのユニットとして脳内の自然選択を生き抜いている*9

そのようなミーム同士の関係はやはり物語世界に直接表現されていくだろう。

最後に杖は身体性の呪術であり自然科学に対応するが、それはミームたちの活動基盤である物理世界を意味している。

「『杖』が底辺であるのは、それが万物の基礎であるから。『邪視』が頂点であるのは抽象度が高いから。土台が無ければ、天井は支えを失って崩れてしまうでしょう」
(三章 p64)

いかに物語世界で自由に振舞えるミームといえどもそれを実装している作者の脳神経、小説が書かれる紙やインクといった物理的なもの、すなわち物理法則に規定されている。

それゆえに自然科学は現実世界と同じように物語世界の基盤となるのだ。

さて、呪術は類推によって生まれるとされているが、以上の議論から考えると類推とはミーム同士を結合させる脳の働き一般を指すと言えるだろう。

杖=自然科学も呪術と考えられている以上、自然科学を構成する因果関係の思考も類推の一種であると見做されていると言える*10

このようなミーム同士をつなぎ合わせる類推という脳の働きがミーム複合体である物語世界を作り出し、それを動かす呪術として捉えられるに至るのだ。

さらに意識は脳が多元的草稿の相互編集の中からミーム(言語)を編んで作り出した物語であるから、この類推という呪術は意識そのものを構成している。

そしてもし世界を思考の対象として存在する現象界だと考えるなら、私たちの世界自体が本作と同様に類推(呪術)によってミームをつなぎ合わせることでできていると考えられるだろう。

だから、呪術は本作の単なる作中ガジェットではなく、私たちの世界に実際に存在する力なのだ。

以上のような呪術の考察をもとに、次は本作の具体的な内容を解釈していこう。

4. 魂が無いとはどのようなことか?

本作で対立軸となるのが地上と地底、すなわち心身二元論と物理主義である。

地上の人々は魂を持ち邪視の呪術を用いて自由に世界を改変することができる。

対して地底の人々は魂を持たず物理法則に支配された杖の呪術によって地上と戦争している。

主人公である『 』は魂を持った邪視者から魂を持たない哲学的ゾンビへと立場を変え、地底の人びとに対して徹底して拒絶の態度をとる。

これは二元論的立場にあった人間にとっていかに物理主義の世界観が受け入れ難いかということの表現だろう。

「魂は実在する」それを認めないということは、あらゆる生き物は哲学的ゾンビという冷たい機械と認めることになる。そんな寒々しい世界はとうてい受け入れることはできなかった。
(五章 p185)

しかし『 』はアリスや他の哲学的ゾンビたちと関わる中で魂を持たない人々を邪視者の間に違いはないのではないかという考えに至る。

事実、魂の有無が(それが非物理的な実体である以上は)周囲の物理的世界に影響を及ぼすことはない。

「あなたは勘違いしています。私にとって振る舞いや周囲の目にどのように映るのかこそが重要なのです。内面や心といった形のないものに人の本質はありません」
(5章 p159)

地底の世界観を受け入れた『 』は今まで拒絶するだけだったアリスに対しても新しい関係を結ぶことができるようになった。

このアリスは前述の通り物語の登場人物として存在しているのだが、それはどのようなことを意味しているのだろうか。

まず重要なのはアリス自体が一つのミームであるという点だ。

「だって、退屈は辛いこと。それは死と同じくらいひどい仕打ち。楽しくないと嫌。私は、死にたくない」
(4章 p120)

「楽しくないと死ぬ」というのは、快楽を以って受け入れられないミームは自身のコピーを多く残すことができないということを意味する。

誰にも見向きもされないということはすなわちミームの死であり、それゆえにアリスは自身が登場する物語が退屈なものとなれば死んでしまう。

「必要とされること。読まれること。感じてもらうこと。それが私の願い。物語の喜び」
(7章 p286)

さて、デネットの考え方によると私たちの「自己」もアリスと同じように物語中の一人称として存在するのであった。

そして一元的な視座=魂を持たない『 』も、同じように魂を持たない物理主義的な世界での人間の表現である。

それゆえにアリスたち自身の存在の問題は私たちの実存の問題に直結してくるのである。

だからアリスと魂を取り戻してもあえてそれを捨てて「スワンプマン」として戦う『 』の出す結論がどのようなものかが注目すべきポイントとなる*11

そしてその結論とは、魂は混沌から生まれるというものである。

心身二元論でも物理的な還元論でもない、複雑性の雲の中に魂の息吹は存在している」
(7章 p316)

これは作中のクライマックスで展開される部分で、スピード感のためにやや明瞭ではないので詳しく説明したい。

物理主義と進化論を組み合わせるデネットの思想では、人間の精神的能力は世界が単純なものから複雑なものへと発展していく中で獲得される*12

それならば私たちが魂と呼んでいるものも同様の進化のプロセスの中から生み出されてもいいのではないか。

心身二元論では魂は物理的世界と完全に独立しているのでこのようなことはありえない。

反対に物理的なもの以外を否定する単なる物理主義的な還元論においては魂の存在そのものが否定されてしまう。

そういう意味でアリスたちがたどり着いた結論は「心身二元論でも物理的な還元論でもない」のだ。

それならば魂とは一体なんなのかというと、それは複雑系の予測不可能性から私たちが見いだすものだ。

比較的単純な原理で記述されるニュートン物理学においても、物理的世界の未来を予測することは実際上ほぼ不可能であることが知られている。

それならば原理的には物理法則で記述可能な哲学的ゾンビやAIの振る舞いを予測することもまた不可能である。

だからそこに物理法則から自由な魂を見出しても何の問題もないのだ*13

そのようにして、魂を否定するのではなく魂という言葉の意味そのものを書き換えてしまうことがアリス達が出した結論だと言えるだろう。

言うまでもないがここにも予測不可能性と魂という二つのミームを類推によって結びつける呪術の力学が働いている。

ミームによって構成される物語世界だからこの類推は世界を更新し得るし、同様に言語で記述された物語でしかない私たちの世界においてもそれは可能だ。

だから物語の登場人物や哲学的ゾンビは新しい意味で魂を持つことができる。

ところで、二元論的な魂は物理法則から完全に自由だがそれゆえに物理世界に干渉できないという理論的な欠陥を持っている。

しかし私たちの予想を超えるところに見出される新しい意味での魂にはそのような理論的瑕疵がない。

ゆえにアリスたち「偽物」の魂は邪視者の「本物」の魂を超えることができる。

「本物を超えたと証明することだけが私が作り出された価値だと教わりました」
(7章 p282)

以上のように物語の登場人物であるアリスに魂が認められるということは何を意味しているのだろうか。

5. 自由な物語

アリスは本作のクライマックスで以下のように言っている。

「私は物語の住人。そして神(さくしゃ)を殺すもの。私を縛るものは何もない。世界はもう、開かれている!」
(7章 p318)

魂を持たない一元論的な存在者の振る舞いは物理法則に完全に決定されているがゆえに、自由を持たないと二元論者は主張する。

同様に物語の登場人物も、その振る舞いは既に作者によって書き終えられているのだから自由を持たないように思われる。

しかし私たちの予想を超える複雑系に魂を見出すということによって、哲学的ゾンビも物語の登場人物も私たちの予想持つかない振る舞いをするという意味で自由だと認めることができる。

そのような意味で既にその振る舞いを作者(=神)に書き終えられているアリスたち本作の登場人物は自由を獲得する。

すなわち物語の世界は予測不可能な未来へと開かれたのだ。

以上の点から本作を物語という環境の中にあるミームたちが自己の自由を勝ち取るための戦いだと読むこともできる。

地底の人々(登場人物たち)と邪視者たち(作者の脳内ミーム)との戦いは、まさに登場人物たちによる自分を作り出した神に対する自己の実存をかけた戦いなのだ。


そしてこのことはそのまま私たち人間の自由についての議論と並行関係にある。

なぜなら物理主義を認めると、人間もまた物理法則によってその振る舞いを決定されているということが帰結してしまうからだ*14

そのような人間にも振る舞いの予測不可能性から魂=自由を認められるなら、アリスたち同様私たちも物理法則(=汎神論的な神、または神の創造したもの)から自由となる。

さらにこのことは「物語的重力の中心」として考えられる私たちの「自己」の自由とも関係する。

「『私という物語』を自動生成する、お話の妖精」であるアリスが自由を獲得するなら、脳が出力する物語の一人称でしかない私たちもまた自由であるといえるからだ。

6. おわりに

以上が私の本作の解釈となる。

ここで提示した『アリス・イン・カレイドスピア 1』の読解そのものが一つの物語(=呪術)であり、今あなたが認識する世界を改変している。

呪術は意識対象としてのこの世界に現に存在しているし、「物語的重力の中心」でしかない「私」たちはアリスたちと同じ戦いを現在進行形で戦っているのだ。



この記事は「ゆらぎの神話・アリュージョニスト・アリスピ Advent Calendar 2016」の12/22分の記事となる。

www.adventar.org


本作の作者最近は「小説家になろう」サイト上で『幻想再帰のアリュージョニスト』を連載している。

本作と世界観を共有しているので興味がある方は読んでみてほしい。

http://ncode.syosetu.com/n9073ca/ncode.syosetu.com

*1:作中では「唯物論」(materialism)とされるが現行の心の哲学では物理主義(physicalism)と呼ばれるのでそちらに習う。

*2:哲学的ゾンビ - Wikipedia

*3:また「コウモリであるとはどのようなことか?」という有名な思考実験のオマージュでもある。  コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia

*4:詳しくは『解明される意識』第一部 

re-venant.hatenablog.com

*5:詳しくは『ダーウィンの危険な思想』第三部 

*6:カルテジアン劇場 - Wikipedia

*7:自己複製子について詳しくはリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』、ミームについては同書第11章。

ミーム - Wikipedia

*8:このミーム群の競合から行為が生まれてくる過程をデネットは「パンデモニアム(百鬼夜行)モデル」と呼んでいる。

*9:本作では直接関係しないが『幻想再帰のアリュージョニスト』での「融血呪」はミーム同士の融合(すなわち登場人物たちの融合)を描いているものだろう。

*10:ヒュームの懐疑論やカントの超越論的哲学に近いものがある。

*11:スワンプマン - Wikipedia

*12:進化が複雑なものを「目指して」いるわけではないことに注意。進化論は徹底して目的論を否定する。

*13:予想不可能性と自由の関係については デネット"Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting"第6章に関連する話題がある。re-venant.hatenablog.com

*14:このことについて有名な思考実験として「ラプラスの悪魔」がある。 ラプラスの悪魔 - Wikipedia

大今良時/山田尚子『聲の形』

koenokatachi-movie.com


大今良時の『聲の形』が山田尚子監督、京都アニメーションによって映画化された。

本記事では原作、映画双方の内容を視野に入れながら作品のテーマを探っていく。

どちらについても内容に踏み込んで書くのでまだ読んでいない、見ていない方は注意してほしい。

1. 過去はすべてを決めるのか?

この作品でまず描かれるのは小学生時代の「いじめ」である。

この出来事についての将也の罪悪感がまず物語の動因となっていく。

さらに硝子の側にも「自分が原因で今度は将也がいじめられることになった」という罪悪感があることが明らかとなる。

この出来事は作中では「過去」であり、その過去は現在を束縛しているように見える。

将也はこの事件をきっかけに周囲の声に対して自ら耳を閉ざしてしまうし、硝子が花火の夜にベランダから飛び降りたのもこのことが(間接的にせよ)原因だと言えるだろう。

さて、過去というものは現在に対して一体どのような関係を持っているのだろうか。

例えば決定論という考え方がある*1

これは原因と結果の関係が必然的であるから、ある過去から生まれる未来は一つに決まっているという思想だ。

これについては様々な主張があるが、ここで取り上げたいのは決定論が生じる原因は人間の思考方法だという意見である*2

その人間の思考方法とは複数の出来事を「原因」と「結果」という形で結びつける能力のことだ。

これは別にカントの純粋悟性概念などを引き合いに出すまでもなく、日常的な自分の思考を振り返ってみればおのずと納得できることだろうと思う。

ところで、ある結果が生まれた原因を本当に厳密に知るためには人間の脳の処理能力では全然足りない(それどころか有限なシステムならどんなものでも不可能である)。

ゆえに人間はとりあえず自分が見渡せる範囲で出来事の原因と結果を見出して納得するしかない。

だから、過去と現在、未来の因果関係が語られるとき、それはその人の思考が一つの解釈として作り出した「物語」なのだ。

さて、本論に戻ると、小学生時代の「いじめ」というのが「原因」、そしてそれに対する罰として将也たちが考えるもの(贖罪や自殺)が「結果」に対応するだろう。

しかしその罰というのは実は彼らが勝手に作り出した「物語」の内部で存在するものでしかない。

誰かがそれを望んでいるわけでも、客観的に必然であるわけでもないのだ。

しかしながら彼らはお互いに対する罪の意識から誰も望んでいない「自殺」という選択肢を一度は選ぶことになる。

ここに自身の「物語」にとらわれること、言い換えればコミュニケーションの不全が存在している。

2. 「物語」とコミュニケーション不全

聲の形 公式ファンブック』に掲載されている著者インタビューに以下のような文章がある*3

植野のがんばりが竹内先生やクラスメイトに認められていたら、彼女はそこまでストレスを抱えなかったと思います。が、そのはけ口をみんなにも迷惑をかけていた硝子に向けることによって「自分は悪くない」というストーリを完成させ、植野は言い訳をする。だから植野は「硝子に悪いことをした」と認めてしまうと、自分のなかにあるストーリーが壊れてしまうんです。(p182)

この例では植野が取り上げられているが、この「ストーリー(物語)」にとらわれるという現象はすべての登場人物に起こる。

なぜならそれが人間が必然的に備えている思考の方法であるからだ。

そして、自分で作り上げた「物語」にとらわれることはコミュニケーションの不全を引き起こす。

誰かの話を聞いているつもりでも、自分の解釈で「物語」を作って納得してしまうことがほとんどだと言ってもいいだろう。

その解釈に固執すればするほど周囲の人間が作る「物語」との不整合が起こり、さらなる孤独へと追いやられていく。

この作品においてそれは最初から周りの声を「聞くことができない」硝子と周りの声を「聞こうとしなくなった」将也の対比において焦点を当てられることとなる。

例えば原作第5話で将也が高校のクラスメイトが話している内容を自分への悪口だと想像している場面がある。

ここで解釈される他人の言葉は実際に言われているものではなく将也が勝手に解釈した(将也の「物語」内部の)ものであり、ここに将也のコミュニケーション不全の状態が象徴されている。

このコミュニケーション不全は、特に映画版でこの作品の主要テーマとして描かれている。

映画版のラストシーンは原作とは違い将也が周りの人間の顔に貼り付けた「×印」が取り払われるシーンとなっているが、それはこのテーマにより焦点を当てた構成とするためだろう。

ここにおいて将也はついに周囲の声を聞くことへと踏み出し、自分の「物語」の外側にある豊かさに気づく。

自身の作る「物語」の呪縛から逃れることは簡単ではないが、それでもそこから一歩踏み出すというのがこの作品の一つの結論であるだろう。

余談だがこのシーンのBGM(サウンドトラック一枚目39曲目"lit (var)")はこれまでのシーンで登場したメロディを開放的にアレンジしたものであり非常にうまくシーンを盛り立てているので是非注目してみてほしい*4

さて、自分の「物語」にとらわれることはこのようにコミュニケーションの不全を引き起こし、孤独を生み出す。

それだけでなくこの呪縛はさらに深刻な実存的問題を発生させる。

このことについて次節で解説してみたい。

3. 「物語」と「因果応報」

「因果応報」という考え方がある。

1節で見た「原因」と「結果」によって「物語」を作り出す人間の機能がこれに影響を与えているのは明白である。

ある原因に対して結果が見出されるのに対応してある罪に対して罰が与えられ、罰を与えることに正当性が見出される。

同じく『聲の形 公式ファンブック』の著者インタビューに以下のような文章がある。

登場人物たちが自分の人生を生きる上で便利な逃げ道として、起きている出来事に「因果応報」という言葉を当てはめて自分を納得させているわけです。私としては「因果応報」を大事な要素だとは捉えていません。(p172)

原作第32話で西宮母は硝子の聴覚障害について前世での「因果応報」だと夫の両親に言われて離婚を迫られる。

ここで登場する「因果応報」という言葉が引用文での「便利な逃げ道」としての用法を象徴しているだろう。

そうやって自分の「物語」の中で納得することで硝子の父とその両親は硝子と西宮母を切り捨てることを正当化しているのだ。

これは最も露悪的に描かれた例だが、その他にも「因果応報」というテーマは作品全体を通して登場人物の行動を束縛している。

例えば将也と硝子が頑なに自分を罰しようとするのも自分で作り上げた「因果応報」という「物語」にとらわれているからだ。

しかしながらこの作品は誰かが罰されて、「因果応報」によって過去が清算されることによる解決を肯定していない。

それが最もよく表現されるのは硝子の代わりに落下して昏睡した将也が目覚めてすぐに二人が橋の上で出会うシーンである。

「……俺も…同じこと考えてた。でも…それでもやっぱり、死に値するほどのことじゃないと思ったよ」

「だから…その…本当は君に泣いてほしくないけど…泣いて済むなら…泣いてほしい。もし俺が今日からやらないといけないことがあるとしたら、もっとみんなと一緒にいたい。たくさん話をしたり、遊んだりしたい。それを手伝ってほしい。君に、生きるのを手伝ってほしい」
(第54話)

なぜ「死に値することではない」のか、「生きることを手伝う」とはどういうことなのか。

この点は『聲の形』という作品を理解する上で要となる部分だろう。

これを読み解く上でまず重要なのが二人が陥っている、お互いがお互いに対して加害者意識を持ち続けているという特異な関係性である。

彼らは二人ともが自殺という結論に至るが、それによって何が起こるのだろうか。

自殺した方は自身の加害者意識から「贖罪」としてそれを行い、自身の「因果応報」という物語内である一定の納得を得るだろう。

しかしながら残された側もまた純粋な被害者ではない(と自分では思っている)。

すると結局のところ、相手が自殺することではその加害者意識はさらに膨らみ、一方の罪が裁かれることで救われるどころか状況はさらに悪化するのだ。

ならば、本当の意味での救いはどうしたら得られるのか。

それはお互いが自身の罪を乗り越えて幸福を得ることによってである。

川井によって将也の過去が暴かれたあと、また自分のせいで将也が不幸になったと思いつめる硝子の前で努めて明るく振る舞う将也の様子は、そのことに気づき始めていることを示している。

しかし硝子はまだ自分の「因果応報」という物語に捉えられて相手の声が聞こえておらず、本当の救いへの道が見えていない。

だがこの引用文のシーンでついに彼らは自身の「物語」の外へと手を伸ばすことができた。

「生きるのを手伝って欲しい」というのは一見身勝手なセリフに見えるが、これは自分が幸せであることが相手の幸せの条件であり、その逆もまた成り立つというこの構造から出ている。

すなわち将也自身が幸せでなければ、加害者意識を持ち続ける硝子も幸せになれないということに気づいた上でのセリフなのだ。

これによって彼ら二人は自分で作り上げた「因果応報」という物語から踏み出して、真の意味で救われる道が開かれたと言えるだろう。

それは過去を清算することでも忘れることでもなく、真の意味で過去を受け入れて前に進むことだ。

4. 硝子はなぜ恋をしたのか?

原作第23話において硝子は将也に対する想いを告白するが、それは伝わらない。

これは単に彼らの間で未だにコミュニケーションがうまくいっていないことを表現するシーンと解することも可能だが、もう少し本論のテーマに沿って解釈してみたい。

そもそも硝子が恋愛感情を持つのは唐突な印象を受けるし、様々なところで作品の批判の対象となっている。

私も原作を初めて読んだときは驚いたし、この点はずっと疑問が残り続けてきた。

恋が突然襲いかかるものだということで納得するには、作者の意図が見えなかったのである。

しかしながらこの点も「物語」からの離脱というテーマから考えると一つの解釈が生まれる。

その前に少し補足説明として人間の思考の起源について考えたい。

「物語」を作る因果による思考は人間が脳を発達させる過程で身につけた能力であると考えられる。

そしてこの能力は過去の経験を因果の形で結びつけて様々な因果関係を考えることで、現在という原因から未来という結果を予想するために用いられる。

この能力が進化したのは、より詳しく、より遠くまで未来を予測することができる個体の方が厳しい自然の中で生存する確率が高いからだ。

しかしながら、恋はもっと早い進化の過程で生まれる感情で、より心の基礎の部分に存在していると言えるだろう。

なぜなら未来を予測する能力を持たないような生物でも(性別があるなら)恋をするからだ。

だから、恋には「物語」を、因果を飛び越える力が備わっている。

大今良時がこの作品で恋を描いたのは、「物語」を超えていくというテーマを表現する最も強い感情の一つが恋だったからだろう。

硝子はそのときはまだ「因果応報」という物語にとらわれたままであるが、心のもっと奥から湧き上がる感情はそれを軽々と超えていく。

だから恋愛感情は将也の過去の行いを許すことや硝子自身の罪悪感とは無関係に飛び出してくるのだ。

ゆえに「硝子はなぜ恋をしたのか?」というこの節のタイトルの問いはそれ自体ナンセンスということになるだろう。

なぜなら恋を合理的に解釈することがすでに「物語」 の合理性のレベルでの議論であり、大今良時はそういう合理性にとらわれることを批判しているからだ。

5. 物語において「物語」を超えること

ここで浮かび上がってくるのが「物語」を超えることを語ることの難しさである。

「物語」という形式を批判すると言っても、そもそもこの文章も『聲の形』という作品も一つの筋道を持った物語だ。

つまり、因果的に合理性を持った物語という形の中でその因果からの離脱、すなわち不合理の肯定を宣言するという一つの矛盾が発生している。

そもそも完全に不合理なストーリーを描くことでこの矛盾を解消する方法もあるが、それでは誰に対しても何を言っているのか伝わらない。

ここで分かるとおり、コミュニケーションは「物語」という形式を前提としているのだ。

それでは『聲の形』という作品はどのようにしてこの問題を乗り越えているのだろうか。

それは一つのストーリーに二重のテーマを織り込むという仕方によってである。

まず一見して分かる通り、この作品はコミュニケーションをテーマとしている。

コミュニケーションというテーマについて語る限りでストーリーとしては整合性があり、問題提起とその解決が得られるようになっている。

ただその中に「物語」の超越という裏のテーマとでも呼べるものが寄り添っているのだ。

すると、特にコミュニケーションというテーマに焦点を当てて簡素化された映画版を見た時ある部分については不合理なストーリーだという印象を受けるだろう。

過去の「いじめ」という罪は「因果応報」という形で清算されず、硝子はなぜか自分をいじめていた人間に恋をする。

しかしながらその不合理は、一つのテーマとして作者によって意図されたものなのだ。

この手法によって「物語」において「物語」を超えることを一面では整合性のあるストーリーの中で表現、伝達することが可能となった。

聲の形』がストーリーの不合理性によって批判を受けることは、この矛盾を乗り越えるための必要経費と言えるだろう。

そしてまた、「物語」を超えることを描くためにその「物語」という形式を必要とするコミュニケーションをテーマとしてストーリーの中核に据えたことも興味深いポイントであるだろう。

それは生きる上で必要な「物語」(それは進化の過程で生き残るために身につけた能力であった)が時として人間を縛り付け不幸へ導くことの表現であるように思われる。

人間が持つ様々な能力は長い進化の歴史の中で場当たり的に身につけたものであり、それらは時に現在の環境との不整合を引き起こす。

そのような人間の不完全さをこの作品のテーマとして読み取ることも可能だろう。

*1:決定論 - Wikipedia

*2:re-venant.hatenablog.com 決定論と人間の思考方法の関係についてはこの辺りが参考になるだろう。

*3:

*4:[asin:B01IP7Y7MG:detail]

lit(var)

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Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第7章

[asin:B013VZO8Z8:detail]


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第7章「なぜ私たちは自由意志を求めるのか?(Why Do We Want Free Will?)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章〜第6章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com


本文要約

7 なぜ私たちは自由意志を求めるのか?(Why Do We Want Free Will?)

1 無視されたニヒリズム(Nihilism Neglected)

私たちが求めるに値すると考える自由意志は私たちの尊厳と責任を確保してくれるものだ。

「反因果的自由」や「行為者原因」を求めるのはそれらがそのような自由意志の必要条件であると信じてしまうからである。

人々がこのような条件が存在しないことを罪についての古い教義から解放されるチャンスと考えず、責任を持つことを望むのはなぜだろうか?

それはおそらく責任のある行為者でないことによって私たちの尊厳が脅かされるからだろう。

しかしこの特別な尊厳というものはいったい何で、私たちはなぜそれを気にするのだろうか?

私たちは科学の時代には道徳はもはや擁護できないという時代遅れの世界観にとらわれているのだろうか?

そしてなぜ私たちは他者が責任を持っていることを望むのだろうか?

これは理性化され道徳規則によって表象可能となった復讐心なのだろうか?

ニーチェの「道徳の系譜学」によると、私たちは道徳概念や罰を貸借りの法の概念から得ている。

その法概念によると貸した者は借りた者に侮辱や拷問を加えることが可能である。

先人たちが認識した借りは先祖に対する感謝であり、先祖に対する負債が増加すると先祖=債権者は神へと変わる。

そして神への負債は耐えられない重荷となり、神自身が債務者への愛のためにその負債の埋め合わせとして犠牲となる。

これはすべて間違っているとは言い難い説得力を持っているが、それによって私たちが持っている概念構成を擁護することにはならない。

誤った思考から正しい結論が導からることはあるし、不合理な活動からいい考えが浮かぶこともある。

私たちの「道徳概念の世界」を保護したいという願望の整った擁護が存在すると私は考えている。

責任のある道徳的行為者と責任のない者の区別は一貫していて、本物で、重要だ。

それは適用できない例がたくさんあるとしても、私たちの全員が片側に当てはまることがなく、私たちの生活の意味や質に大きな影響を及ぼすような経験的な線を引く。

私がこの見方に対して行う主張は、自由意志を尊重し責任を望むことが理性的であるという効果についてのものだ。

これらの概念を擁護するようなこれ以外の主張はありえない。

なぜならこのような主張は聴衆の理性的判断に訴えかける際に不可避的に疑問を投げかけるように見えるものだからである。

私は著者と読者が私の主張を支持してくれる自由で責任のある行為者だと仮定していないだろうか?

さらに、私の主張は何かが問題となる、すなわち何かが良くて何かが悪いということを仮定しているだろう。

私はこの本を通してあなたのものと同じように私自身の理性を当然のものと扱ってきたし、それを活動させることの明白さも問題としてこなかった。

自由意志の実在を否定する本や論文の著者は、アドバイスすることが意味をなさない読者にアドバイスをするという困った状況に置かれることになる。

しかし選択肢はもう一つあり、それは沈黙と自殺である。

そして私たちが最も深く恐ろしい見方から目をそらしているのではないかという疑いは未だに根深い。

この疑いを精査してみよう。

私の理性が活動しているという仮定は、その一部が意味をなさないほど欠陥を持っているので間違いかもしれない。

しかし意味を持つ理性の活動が一つもないという考え方はニヒリズムであり、それによると何物も意味をなさない。

確かに私はこのニヒリズムを無視してきたが、それに対して言うべきことは特にない。

なぜならもしニヒリズムが正しいなら私たちはその可能性を真剣に検討するべきであるが、そうするとニヒリズムは間違っているということになるからだ。

というのももし私たちが何かをすべきなら、すべての価値判断が幻想だとするニヒリズムは間違っていることになる。

しかしそれが間違っていてもそうでなくても何も問題とならないため、私たちはそれが間違っていると仮定した方が良い。

ゆえにニヒリズムは無視できる立場なのだ。

ただ、良いものと悪いものがあり希望と後悔の余地があると仮定することと、道徳概念がよく整備されていると仮定することはまた別である。

例えば西洋の伝統における個人の責任の概念は少し首尾一貫していないところがあり、私たちはその周辺の概念、特に罰(punishment)の概念を改訂したり捨てたりしなければならない。

2 責任軽減と忍び寄る無罪の幽霊(Diminished Responsibility and the Specter of Creeping Exculpation)

第2章では完全にカント的な意志が不可能であることを、第4章では百パーセント自身の性格に責任を持つことができないことを見た。

しかし私たち有限で不完全な存在はそれら絶対的存在の近似であることがわかった。

私たちは道徳的責任についても同じような休憩所を探すべきだろう。

私たちは自身と他者が責任を持つことを望むが、特定の他者がその欠点や悲惨な状況のために「責任軽減(diminished responsibility)」を持っていることを認識している。

しかし私たちは皆多かれ少なかれ不完全なのだから、それら全てを言い訳にした後で責任を持つとされる人が残るのだろうか?

カントは私たちは正しい行為だけに責任を持つという。

このテーマはソクラテスの誰も間違ったことをしたいとは願わないという奇妙な主張において最初に現れている。

私たちが恐れているのは社会が割りあてる罰に本当に値する人が誰もいなかったということだろう。

課題となるのは無罪となる病的状態と非難に値する手落ちの間の境界線を引きそれを守ることだ。

すなわち私たちは成人と怪物の間に罪人のための余地(elbow room)を探しているのである*1

形而上学的で絶対の責任を求めても、私たちは天使ではなく環境や過去の影響を受けるのでそれより控えめで減衰した責任を持っていると気づかざるをえない*2

人々はいつ悪い行為に対して責任を持つのかという問いに答えるために、私たちは人々を責任のある状態にしておく点を考えなければならない。

責任についての判断はその責任のある行為者の悪事に対してどのような反応をすべきなのかということを考える地平を設定する。

ゆえに罰を与えることの根拠には私たちの責任のある道徳的行為者としての地位を理解するための重要な考え方が埋め込まれている。

この考え方に焦点を当てるため、施行と罰の複雑なシステムを持つ刑法の規則という伝統的な正当化の「理性的な再構築(rational reconstruction)」を行う。

私たちはなぜ「罪を犯した」人々を罰したいと思うのだろうか?

社会には最小化したい害悪があり、もしそれを禁止したいなら罰によって脅すことでその頻度を減らすことができる。

このことを信じる理由は以下のようなものである。

第一に私たちの理性についての考えから社会の構成員が近似的に理性的なら彼らは禁止された行為を行うことで罰を受けることを望まずそれを差し控えるだろう、ということが帰結する。

そして市民がそのような規則を正しく知っているということについての経験的な証拠は多くある。

しかしこのような法の効果は理想を下回ったものである。

理想的な世界では誰もがただ理性によって正しいことを行い、それゆえに法や罰の体系は必要ない。

だがこのような法のシステムは(私たちと違って)全員が理性的なので完全に悪事を控えさせる。

実際にそうはならない理由の一つは、私たちはこの施行の規則に手を抜いていて、人々が特定の状況では犯罪がリスクに見合うリターンを得られると知っているからである。

24時間監視したり罰を無期懲役にすれば信号無視はなくなるだろうが、そうまでして信号無視をなくすのはコストに見合わない。

ゆえに法整備に手を抜くこと自体も理性的なのだ。

法の施行に対するさらなる投資に対する見返りが減衰していくことから、最善の規則とはある程度の法律違反、逮捕、そして有罪判決を「許容する」ものであるだろう。

しかし法律違反と罰のコストを最小化することの価値を認識すると、要求される法の改善が存在することがわかる。

犯罪の抑止にはいくつかの要素があり、その一つは「広報」だ。

抑止は法を知り罰の条件を理解している人々に対してのみ成功するので、法規則のコストの一部は公教育なのである。

そして広報を成功させる効果的な方法は「法に対して無知であることは言い訳にならない」という法を定めることだ。

無知であることが言い訳にならないため、人々は法とその変更を知りたがるだろう。

そしてそうすることが法についての情報が利用可能となる条件の一部なら、人々にそれを知る責任を求めてもやりすぎではないだろう。

しかし法に対する無知は言い訳にならないという法が自身の独断性に限界を持っていることに言及しておくことが重要である。

それは無知が言い訳となるという弁解の妥当な根拠が直感的に存在しえないと言っているのではなく、通常そのような弁解が考慮されることがないだろうと主要しているに過ぎないのだ。

これらのことを考慮してもまだ、その人に対して法が理想的に機能しないような人が存在することがわかる。

どれほど理解しやすいように法を作ってもそれが理解できない人間は存在するのだ。

このような人は抑止の最低条件をクリアしていないので、私たちはこのような人に犯罪の責任を問わないし、その人を教育して理解の閾値まで高めることは無駄かコストの掛かりすぎる試みだろう。

彼らを責任のある市民として罰することは罰の規則の正当性を損なってしまう。

これらの人々を責任のないものとした扱うのを拒否する法は、秘密の法を作り施行しながら「無知は言い訳にならない」と言うルールを維持する法と同じくらい非道で、市民の合理性を攻撃するものだろう。

ゆえにシステムの信頼性と擁護可能性を保つために、私たちは様々なタイプの人々を法的責任から排除する条項を加えるのである。

これは罰に値する人間の数を減らすが、私たちはこの区別は大雑把なものだと認識し、より細かい区別によって法の信頼性と受容可能性(つまりは正しさ)を向上させられないかと問う。

しかしこの時、犯罪が行われる時法はあらゆる犯罪者を抑止しなかったのだから彼らを赦してもいいのではないか、という全てを転覆させると問いが生まれてくる。

この問いによってシステム全体を崩壊させてしまうと自然状態の害悪が再び戻ってくるので、私たちはまた恣意的に線を引かなければならない。

すなわち私たちは効果的に決定可能な法的能力の閾値を定めなければならない。

それは直感的に説得力のある「反例」が存在しないような区別を目指すものではないが、前もってそのような弁解は考慮されないと宣言するものである。

私たちは非難される者の環境の特定の細かいディテールにこだわるのではなく、その場合に抑止されなかったとしても一般的にこの行為者が抑止可能であることを確証しようとするだけである。

このように原因や環境に深く立ち入らないことは、それが本当に平等なのかという疑いを招くだろう。

しかし好機は平均化されてしまうことを思い出してほしい。

法を犯す賭けを行いその掛金を失うことは非理性的に見えるが、非理性的に賭けたからと言う理由で賭け金が失われるわけではない。

ゆえに法律違反の結果を完全に知りながらリスクを負ったなら、その結果として不平等に罰を課されても文句を言うことはできない。

このような規則は法的に罰することのできる行為者を作る(構成する)という効果を持っている。

そしてこの規則を維持したいなら恣意的な閾値を細かく調整しなければならない。

最適よりも高い閾値は抑止力の低いものとなるし、最適よりも低い閾値は抑止の見返りを減らし他にどうしようもなかった人々も罰してしまう。


ここまでで抑止力としての法規則を見てきたが、それはより基礎的な「規則」である個人の責任の「道徳概念の世界(moral conceptual world)」の正当化を明るみに出す。

私たちはなぜ自分と他者が道徳的に責任を持つとするのだろうか?

おそらくその問いと私たちが実際に責任を持っているかどうかという問いを区別できるだろう。

ある誤りに責任のない人がその責任を取る事例を考えることができるし、その逆もあり得るからだ。

しかし形而上学的な地位として考えて責任がどちらであっても、それが認識可能な社会的に望ましいものと結びつけることができない限りは、私たちの尊厳に関して理性的な主張を行わないだろう。

責任を求めることで、それが彼が作った性質かどうかにかかわりなく彼に望ましくない性質を捨てるように促すことができる。

特定の性質がその人が作ったものかどうかについての終わらない探求を行う代わりに、すなわち特定の自己が自作のものかどうかを分析する代わりに、私たちは人々の行為について彼らに責任を求めるのだ。

そしてそれによって教え込まれた「責任のある」振る舞いの一部としてその戦略を採用することで私たちは報酬を得るのである。

この考え方の自身の個人的な罪や無罪ついての問いに対する示唆を考えてみよう。

私たちが悪事の責任を受け入れるとき、私たちは自分を騙しているのだろうか?

人が持っているか排除されているの二択であるような絶対的な責任が存在すると考えるなら、誤って責任を受け入れたり拒絶したりすることは解くことのできない問題となってくる。

さらに悪いことにカントの言うように私たちは完全に道徳的な行動にしか責任を持ちえないのなら、本当の意味で罰することは丸い四角形のように不可能となるだろう。

これは決定論において責任が生じるのはすべきことをしたときだけで、間違った行動は正しく決定されていないのでそれに責任を持たないということも意味する。

この考えは道徳的に間違った行為への思考の道筋の設計において何か誤った点があるはずだ。

しかし私たちにはそれを探す必要もない。

記憶組織の「ハードウェア」レベルから社会規則のデザインのレベルまで、どのレベルにおいても最良の可能なデザインは、有限性の制約を考えると幾らかの恣意性とリスクを冒すことを含んでいるのだ。

あらゆる有限なコントロールシステムは常に間違った意思決定を行ってしまう可能性を持っている。

それは人間の不可避の特徴であり、自然化された原罪なのだ。

しかしその悪い影響を最小化するために方策を用意することが賢明である。

そしてこの修正を行うためのフィードバックは私たちがここまでで見てきた法における罰の正当化とアナロジーの関係にある。

いくらか恣意的に人々に責任を求めることで、彼らの性格を設計(再設計)するリスクを負うことを強制し、その中で人が間違った行為を行うなら彼は単に賭けに負けたというだけで、罰を受けることに反対するべきではない。

3 否定された「恐ろしい秘密」(The Dread Secret Denied)

自身の欠陥に対する反応として後悔したり自己非難したりするのは、自分の行いをやり直したいという願望と同じくらい非論理的ではないだろうか?

私たちはここまでで社会における自由意志の神話の活用を見てきたのだから、今度はそれ以外にもその規則を受け入れなければならない理由があるのかどうか、そしてプライベートな領域において自身に責任を求めなければならないのかどうか問うのは当然の流れだ。

そしてその時私たちが取るべき態度はどのようなものなのだろうか?

罪という概念が「神の眼前の罪」という絶対的な概念なら、怪物や狂人以外にその意味での罪人は存在しえないので絶対主義者が使う他の概念と同じように退けることができる。

法的な意味や個人に道徳的な責任を求めることの中で非難されるべき罪は存在する。

そうすると後悔や自責という概念が存在する余地はあるのだろうか?

後悔の苦しみにおいてのみ回顧的に現れるが、将来の予想の中では基礎的な欲望に打ち勝つことのない意識は、性格の魅力のない特徴であり、そしてそれなしではどの道徳的世界もうまくいかないものだ。

この後悔は人々に責任を求める規則が達成するために存在している態度である。

ゆえにこの種の後悔は罪の自然化された規則において全く適切な位置を占めている。

自分が行ったことを後悔することなく今までもこれからも悪人であり続けるだろう人を想像してみよう。

私たちはその人を軽蔑すべきだろうか?

彼は自身の軽蔑された状況から脱することは今はできないだろう。

彼が自分の魂を救済したかったならどんな方法であってもやり方を変えて汚名を返上するよう努力しようとできたのである。

反対にもし彼が惨めな状態を目指していたなら彼は自身の完全な不名誉と救いようのなさを想像し無気力と運命論的な態度を促進することができた。

私たちは先のことを考える代わりに落ち込んで自滅的に傍観者の態度をとったりして時間を無駄にするが、幸いなことにこのような抑鬱はすぐに過ぎ去って建設的な思考に戻ってくる。

この気分を知っているので私たちは自由意志は不可能だという証拠だと称する凶兆を正しく評価することができる。

自由意志を求めることの正当な理由があることは自由意志を持っていることを信じる正当な理由があることではないだろうが、それを持っていると信じようとすることの正当な理由があることにはなるようだ。

そして自由意志を持っていると信じることは自由意志を持つことの必要条件でもある。

なぜなら自分が自由意志を持っていないと信じている人は他のどんな条件が揃っていても自由に、責任を持って行為を選択できないだろうからである。

このことによって自由意志のための他のすべての条件が満たされているかまだ確信できない不可知論者は微妙は立場に置かれる。

もし彼が疑いを乗り越えて自由意志を信じることができるようになったなら、彼は(a)本当の自由意志、(b)自由意志の幻想の二つどちらかの状態に至るだろう*3

本書での私の結論は自由意志は幻想ではなく実際に存在するものだというものだった。

私たちが自由意志を求める際に欲しているのは自身の行動を決定すること、それを賢く、私たちの予想と願望に照らされた中で決めることだ。

私たちは自分を制御し、計画と行動に責任を持つ行為者でありることを望む。

これらはすべて私たちがそれであるところのもので、私が示そうとしたのは自然の産物としての生物学的能力と同じように社会への加入によって延長され強化されたものだということだ。

私たちはさらに、これらの能力を使うときそれが常に願望を満たすための唯一の方法で我慢することとならないように世界に余地(elbow room)を望む。

この余地もまた私たちが持ち得るもので、そのために努力するに値するものだが、保障されているわけではない。

私たちは科学が自由は存在しないと示すのではないかと恐れているが、この恐怖は決定論によるものではない(物理学者たちはこの世界が非決定論的だということに同意しているようだ)。

この恐怖は科学が私たちやその他の宇宙、因果関係、時間、そして可能性について教えてくれることを過剰に単純化することで促進される。

科学的イメージの詳細をよく見ることを拒否する限り自由と科学は共存しないのではないかというこの疑いは存在し続けるだろう。

哲学や科学の方法の消し去りがたい一部には、何が可能で何が不可能かを人が何を想像できて何を想像できないかで判断してしまうというものがある。

想像できないものは不可能であるという主張に対して私がとった戦略は「もっとがんばれ」というものだった*4

私が使った直感ポンプは今まで想像できなかったものを想像することを助けるように設計されている。

私たちは今や理性の声に耳を傾けながらも因果的な環境から排除されない者を、コントロールできない現状と環境によって意思決定が引き起こされながらも自分を制御し、環境に制御されない者を、自分の性格に責任のない行為者において始まる自己創造のプロセスを、理性的で決定論的だが開かれた者として未来を見ても騙されない者を、別のやり方で行為できなかったとしても責任を持ち自由な行為者を想像することができる。

このことによってさらに、理性、自己制御、自己根源性、機会、回避、そして自己改善などの概念をより明晰に見ることができるようになった。

コメント

第7章では ここまでの章での自由や責任の概念をそもそもなぜ求めるのかについての考察と、社会や法規則への適用が試みられている。

また最終章らしくこれまでの内容の振り返りとまとめで締めくくられている。


第1節ではそもそも著者に自由意志がないのだから何を書いても意味がないというニヒリズムに対する反論が展開されていた。

結局はニヒリズム自身が理論的欠陥を持っているので無視しても構わないというのがデネットの結論のようである。

第2節ではそこから進んで、法規則の構成を見る中で自由意志や責任を持つことの効果が具体的に説明されている。

それは責任を求めることでその人に自身の性格を改善させることができるというものだ。

また罰によるフィードバックは発見学習的な意思決定における誤りを修正する効果も持っている。

第3節では法的な場面だけでなく個人的な内省における後悔=自罰について検討された後、本書全体の成果が確認された。

ここで述べられているのは後悔することがなければ自身の性格を改善する機会もまた与えられないため、後悔は責任を求める法規則の目的(性格の改善)を達成する条件だということだろう。


この章で面白かったのが法規則が完全でないのは完全にする努力がコストに見合わないからだという点だった。

これはこの本で繰り返し登場した、人間は時間的期限があることによって常に不完全な意思決定を行わなければならないという論点とつながっている。

このことを指して「自然化された原罪(Original Sin, naturalized)」という表現が出てきてかっこよかった。

あとは第1節でのニーチェからの引用が後の文脈にどうつながってくるのかがよくわからなかったので、時間があれば『道徳の系譜学』にも当たってみたい。

以上で"Elbow Room"は終わりだが、未だに言語化できないモヤモヤが残る部分はあるので各章を見返しながらより深く解釈していきたいと思う。

というより提示された考え方が新しすぎて脳の構造というか考え方の構造が追いついていないという感じもする。

『解明される意識』の時も内容が馴染んでくるのに時間がかかったので自分で書いた要約を何周かしてみて馴染むのを待つのがいいのかもしれない。

*1:ここでの「怪物」は責任能力のない悪人のこと。

*2:「天使」は完全に理性的なものとして引き合いに出されている。

*3:ここまでで自由意志を望む理由が述べられてきたので、不可知論者は自由意志を望んでいるがそれを確信できないという立場として用いられている。

*4:原著に本当に"try harder"と書いてあって翻訳がふざけているわけではない。

Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第6章

[asin:B013VZO8Z8:detail]


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第6章「「別のやり方もできた」("Could Have Done Otherwise")」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com


本文要約

6 「別のやり方もできた」("Could Have Done Otherwise")

1 私たちは別のやり方もできたかどうかを気にするのだろうか?(Do We Care Whether We Could Have Done Otherwise?)

自由意志について見解の分かれる中で、行為者がある行為に責任を持つためには行為者がその行為を控えることができたという信念が必要であるという点については広く同意が得られている。

これまでの章で私はこの「別のやり方もできた(could have done otherwise)」原則についての意見を表明してこなかった。

まずはこの原則が単純に間違っていることを示し、しかるに「できる(can)」という言葉の意味についての残余の問題に取り組みたい。

自由意志と決定論が共存すると示さねばならない両立論者は「別のやり方もできた」が一見したところの意味を持っておらず、決定論によって否定されるこの言葉の意味が自由とは無関係であると主張する。

しかしこれが懐疑論的見方対しての苦しい弁解であることは明白だ。

私は「別のやり方もできた」が何を意味していようとも、行為が自由で責任のあるものかどうかを考える際に関心の対象となるものでないと論じたい*1

フランクフルトは「別のやり方もできた」原則の反例として、行為者が熟慮の上で行動を選択したが、彼の脳を操作する脳科学者が彼がその行為を選択しなかった場合はそれを強制したという例を挙げている。

この場合行為者は彼の行為に責任を持っているが、別のやり方は可能ではない。

この反例によって「別のやり方もできた」原則が間違っていることは示せても、この事例が特殊なので原則を守る者に修正の機会を与えてしまう。

つまり人がある行為を控えることができなかったなら、彼は責任を持たないという原則が生まれるのだ。

しかし、これから見ていくが、人が別のやり方ができたか否かが気にすることはほとんどないし、気にする時もそれはほとんど責任について伝統的なものとは反対の結論を引き出したいからなのである。


ある人が「他に何もできない」と言う時、それは理性の指導によって彼の意識がその行為を撤回することを不可能にしている場合がある。

これは彼は他に何もできないと考えることによって私たちが彼を非難や賞賛の対象から外さないということを示している*2

彼が何をしたとしても、彼は責任を回避しようとはしていないのだ。

「別のやり方もできた」原則の支持者は全く同じ環境において別のやり方もできたということを主張するが、だいたい同じ環境にあっても別のやり方のできない事例が存在する。

例えば千ドルあげるから罪のない人を拷問して欲しいと言われても、その勧誘がどんな声の調子で行われても、私がどれほどお腹が空いていても私はそれを行うという選択肢を持たないだろう。

これが正しいとしてもこのような私の拒絶が責任のある行為でないと考える人がいるのはなぜだろうか?

それは私はこの申し出を拒絶するようプログラムされたゾンビかもしれないからである。

もし私が理性の声を聞くことができるなら、柔軟に物事の両面を見るべきで独断的であってはならない*3

また、常に物事の両面を見るためにはどんな特定の事例においても「別のやり方もできた」と言えなければならない、と彼らは考えるだろう。

だが柔軟であるための一般的な能力は特定の事例で「別のやり方もできた」ことを必要とはしない。

それが必要とするのはその環境において人が幾つかのバリエーションを持って他のやり方をしたかもしれないことだけなのだ*4

私たちは道徳教育などの先だった努力によって、自分がしたかもしれない(would have done)非道徳的行為が考えられない(できない)ようにする。

責任のある人間であることには自分が非難に値するような行為をできないようにしておくことも含まれるのではないか*5


そしてまた、もし責任が別のやり方もできたかどうかという問いに依拠しているなら、人が責任を持っているかどうかが誰にもわからないという奇妙な問題に直面することになる。

量子論的なレベルでは物事は決定されていないが、脳においてその効果を打ち消して行為が決定されているかもしれない。

脳の構造はあまりに複雑なので決定されているか否か決める証拠を見つけることはとてもできそうにない。

ゆえに責任を持っているかどうかを意思決定が因果関係によって決定されているかどうかに基づかせてしまうと、私たちが特定の行為が責任のあるものだと信じるどんな理由も持ちえない公算は非常に高くなる。

人が本当に関心を持っているのは別のやり方もできたかどうかではなくて、答えることができその答えが重要であるような問いだ。

ある機会において人が別のやり方ができなかったということを知ることで、その人の性格を知ったことにはならない。

なぜなら人は学んだり、記憶したり、飽きたり、別のものに注意を向けたりするために全く同じ心理的もしくは認知的状況に置かれることはないからである。

ゆえに全く同じ状況で別のやり方もできたかどうかという問いの答えは、世界の道行きになんらの違いも生み出さない。

2 私たちが気にしているもの(What We Care About)

別のやり方もできたかどうかが関係なさそうだとしたら、私たちは本当は何に対して関心を持っているのだろうか?

決定論的ロボットMarkⅠを再び登場させてみよう。

ある日、そのロボットが誤って大切なものを壊してしまったとしたら、設計者はそのロボットは他のやり方はできなかったのか、と問うことになるだろう。

当然そのロボットは決定論的なので、設計者が問題にしているのはロボットの設計である。

彼らはこのような出来事がより起こりにくいように再設計することを望む。

しかしこのロボットは発見学習的な手続きを最大限活用していて、その時は不運にもそれが失敗につながっただけなので、ロボットのシステムを改善することはできない。

そして同じ状況に置かれたとき擬似乱数生成機によって違う行動が生み出され、それは多くの場合は正しい行動なのだ。

さらに言うならそのロボットは正しいことができた(could)。

これが意味するのはそのロボットは正しいことができるようよく設計されていた(その「性格」は非難されない)ということだ。

このような失敗は設計者がそのシステムが「別のやり方もできた」事例に数えるものの唯一の例ではない。

例えば埃がシステムを妨げて誤りを犯す場合があるが、このように些細な事例に対して設計者はそれを防ぐようシステムを再設計しようとは思わないだろう。

最もよく設計されていることと間違いを犯さないことの間には違いがあるのだ。

このような事例は常に存在していて、目標となるのはコストパフォーマンスの制約下でそれを最小にとどめることだ。

ゆえに設計者はシステムが誤りを起こしたときそれがシステム上の弱点を示す繰り返されうるものなのか、繰り返されない偶然のものなのか問うことになる*6


私たちが別のやり方もできたのではないかと問うのはなぜだろうか?

ある行為が行われると、私たちはそれがどのように為されたのか、なぜ為されたのか、それにどんな意味付けを行うべきかを知りたいと思う。

すなわち別のやり方もできたのではないかという問いが起こるのは、その行為から未来についてのどんな結論を引き出すべきか知りたいと望むからである。

その問いかけから分かるのはそのような行為を行った者の性格である。

また、この問いが自分の行為に向いたとき、この理由付けはより明確となる。

自分が何か恐ろしい行為をしたとして、全く同じ状況で同じことを行うかどうかを誰が気にするだろうか?

この問いかけによって自身の性格を知り、同じ過ちを犯さないように思考の習慣を調整したりすることができる。

これがロボットの設計者のシステムの脆弱性に対する態度の自己適用版である。

健全な自己制御者は自身の過ちを事故として片付けるのではなくそれに責任を持つ。

それによって将来事故の被害者となる可能性を少なくするのである。

3 虫の「できる」(The Can of Worms)

これらの考えは最後の懐疑論的指摘を招く。

それは、決定論が正しければ起こった出来事は何であれ起こることが可能だった唯一の出来事であり、自分の性格を改善する自己制御者のあがきは意味をなさないというものだ。

それが正しいなら人が行ったことは常に最善で最悪のものである。

さらに回顧的な判断や評価も意味のないものとなる。

なぜなら起こった出来事はすべて起こりえた出来事と同じくらい良く、そして悪いものであるからだ。

ゆえに「別のやり方もできた」原則を捨てたとしても、決定論においては私たちは実際に行った事以外何も為しえないという問題が残っている。

この事から得られる結論は、どの水素原子とも結合しない酸素原子はそう決定されているために、それが水素原子と結合する事は物理的に「不可能」だという事である。

エイヤーズは決定論のこの含意を実際のものだけが可能であるという意味で「実際主義(actualism)」と呼んでいる。

しかしこれは間違いであり、以下の短い論証から決定論自体の反証も得られる。

すなわち酸素原子は2の原子価を持っていて二つの水素原子と結びつき水分子を形成する事が「できる」ので、決定論は間違いである。

ゆえに「できる」という言葉を使う事で実際の物事の周りに余裕を作っておく事が必要である。

そして「できる」という言葉の意味を人間の自由や社会科学だけでなく生物学や工学、そして統計や確率論に依拠するあらゆる分野のために知る必要がある。

例えば生物学者はある種の特徴が他の「可能な」特徴より優れていると言う際に何を意味しているのか?

進化における適応の傾向を記述する際に私たちは良いものとして選択されたデザインと他の「可能な」デザインを区別する。

例えば足の短い馬や模様のないキリンなどといった存在しないが可能な種はたくさんある。

また確率論で私たちはコイントスを表と裏の二つの可能な結果を持つものとして扱い、重力に反して上に飛んで行ったりする可能性は不可能だとして除外する。

このように人はどこを見ても物事のどんな結果が可能でどんな結果が不可能(論理的に不可能ではない)なのか主張する根拠を見つける。


オースティンは「「もし」と「できる」(Ifs and Cans)」の中で「別のやり方もできた」を「もし…なら別のやり方をしたかもしれない(would have done otherwise if…)」と定義しようとしている。

そこでオースティンは「Xができる」は「もしやってみたらXをすることに成功するだろう」そして「Xができた」は「もしやっていたらXをすることに成功しただろう」を意味していると主張している。

しかし彼は現代の科学ではそのような主張は受け入れられないだろうと述べている。

だがこの行き詰まりは現代科学での「できる」が伝統的な行為者性の信念と同じである必要があるという幻想である。

私たちは何かが「できる」という時、細かい状態ではなくもっと一般的なものに関心を向けているのだ。

この点はオノレのオースティンの論文への批判的注釈でよく表されている。

そこで彼は私たちは「できる」の二つの意味、「できる(特定)」と「できる(一般)」を使い分けていると主張している。

そして特定の意味はほとんど退化して「だろう(will)」とほとんど同じで、過去形なら成功を記述する際にしか使われないという。

より便利な概念が「できる(一般)」で、行為者の場合は能力に帰属させたり、動かないものの場合は5章で議論された潜在的状態に帰属させたりする。

しかしこの「できる」の意味は認識論的な概念であり、自己制御者が物事の状態を区分することで生まれてくる。


哲学の伝統では可能性を幾つかの種類に区分してきた。

(a)論理的な可能性:無矛盾に記述できるもの

(b)物理的な可能性:物理法則に反しないもの

(c)認識論的な可能性:ある人が知っていることと矛盾しないもの

哲学の伝統では認識論的な可能性を他のものと区別して無視してきた。

しかしこれが「できる」の謎を解く鍵となるのである。

「できる」の便利な概念、個人的な計画や熟慮だけでなく科学にも基づく概念は可能性の概念である。

そしてそれは一見に反して基本的に「認識論的な」概念なのだ。

スロートはこの概念を「偶然の」出会いの例によって説明している。

ジュールズが彼の友人ジムに偶然銀行で出会った。

それは偶然のように思えるがジュールズが銀行にいるのもジムがそこいるのも予定通りで偶然ではない。

この時ジュールズが時点tにLにいることもジムが時点tにLにいることも偶然ではないが、ジュールズとジムが時点tにLにいること、これが偶然なのだ。

彼らの予定を知っている私たちはこの出会いを予言することができ、彼らの出会いは偶然ではない。

しかしこれは物事の能力がそれが実行される初期状態や背景から独立であることを記述する必要がある偶然性の概念に過ぎない。

例えば虫が鳥に見つからないような模様を持っていることは偶然ではないし、鳥がその虫を捕まえる遺伝子を持っていることも偶然ではない。

しかしその鳥が虫を実際に捕まえることは偶然である。

そしてこのような偶然の積み重ねによって虫と鳥はデザインされてきた。

すなわち自然選択が起こる「可能性」が生じたのである。

生物学者のジャック・モノーは進化における機会、彼のいうところでは「絶対的偶然」の重要性を著している。

その絶対的偶然とはラプラス的世界における運命を認めない限り存在する偶然のことで、そこでモノーは実際主義の罠に陥っている。

ラプラスの世界が決定論的世界を意味しているならモノーは間違っていて、自然選択は「絶対的」偶然を必要とはしない。

自然選択にとって「本質的」ランダム性も完全な独立性も必要ではなく、必要なのは実践的な独立性、ジュールズとジムのようにそれぞれの軌道にありながら「単に偶然に」交差することなのだ。

ラプラス的な決定論世界でも進化は起こる。

なぜなら進化が必要とするのは素材のパターン化されない生成器であり、原因のないそれではないからだ。

プロセスにおいて「本当の」もしくは「客観的な」量子論的もしくは数学的ランダム性が必要とされたり、検知されたりするのかははっきりしない。

ハードウェアコンピューターにおいて、本当にランダムな数列が用いられているか擬似ランダム数列が用いられているかが違いを生み出すのだろうか?

実際の動作上はそれは何の違いも生み出さないのである。

しかし実践上の不可分性は本当の、客観的な可能性ではない。

いわゆる古典物理学もしくはニュートン物理学は決定論的だが、ニュートン的世界のどんな事象でも予測することはできない。

なぜならその予測は無限に正確な初期状態の観察を要求するからである。

ゆえにピンボールの動きでさえも限界のある観察者にとっては予測できないものである。

この結果は「単に認識論的」なものであり、これは自由意志にどんな作用を及ぼすのだろうか?

それは以下のようなことだろうと私は考える。

すなわちカオス的なシステムは世界を混ぜ返して度重なる機会を生み出す物の「実践的」独立性の源泉なのだ*7

そしてこれは私たちの認識論的限界についての事実ではなく、世界そのものに当てはまる事実なのだ。

これによって得られる機会は私たちの機会であるだけでなく母なる自然の、例えば酸素原子が水素原子と結合する機会でもある。

なぜなら局所的に予測可能な「偶然の」衝突を予測することができるような高次の視座は自然のどこを探しても存在しないからである。

安定したものとカオス的なものという物事の特徴の区別は統計的もしくは確率論的に扱わなければならない。

そしてこの区別は私たちだけのものではない。

母なる自然は擬態する虫たちが虫を食べる鳥と出会う可能性を持っていることを知っているので、虫を鳥に見つからないようにデザインした方がいい。

これが彼らによりよく行動する力を授けるのである。

コメント

第6章では「別のやり方もできた(could have done otherwise)」ということが自由意志の条件であるという主張への反論が展開されている。

この主張を鵜呑みにすると、別のやり方ができない決定論的世界では自由意志は存在しないことになってしまう。

ゆえに世界が決定論的だとしても自由意志の存在を主張したいデネットとしてはこの原理を突き崩すことが必要となってくる。


第1節ではそもそも私たちが自由や責任について考える際に「別のやり方もできた」ことが必要ないということが説明されている。

非道徳的な行為を「できる」ことは決して道徳的なことではない。

そして自由のために必要なのは「したかもしれない(would)」ことであり、非道徳的な行為を「できない」ようにしておくのが道徳的なのだ。


第2節では「別のやり方もできた」かどうかを問うことで私たちが知りたいことがなんなのか説明されている。

それは自分の性格を知ることであり、これは第4章で登場した自己評価=自己定義と重なってくる行為だ*8

そしてそれによって自分の性格を修正して第1節で見たような非道徳的な行為を「できない」ようにしておくことが可能となってくる。

またこの自己修正のプロセスは同じく第4章で登場した漸進的に責任のある人間となっていくプロセスのことを表現しているのだろう*9


3節の内容は事象が予測できなことから認識論的な可能性が生まれるという話から始まって、そのことから人間以外が持つ可能性までもが確保されるに至った。

実際に起こる出来事しか起こりえないという実際主義は決定論を考える際に陥りがちな考え方だが、それは可能性という概念をよく考えることで回避できるとデネットは言う。

どれほど高次であっても有限な観察者からすると世界の事象は予測できないものであり、それらは物事の状態を確定的に予測するのではなく可能性の形で保留しておくしかない。

ゆえに「母なる自然」は可能性を加味して生物をデザインするより他にないのだ。

これは擬人法なので正確な言い方をすると、様々な可能性を考慮した形質を持っている方が適応的(淘汰されにくい)だということになる。

またこのように予測ができないことから自然選択が発生する可能性が生まれるので、予測できないことは進化そのものが成り立つ条件でもある*10

ただよくわからなかったのは酸素原子と水素原子が結合する可能性の話で、これは可能性の概念がそもそも認識論的だから実際主義が退けられて結合が可能となるという解釈でいいのだろうか。

それとも無機物においても「安定なものの生存」という意味で自然選択が行われるがゆえに、結合できる原子が適応的(安定的)で生き残ってきたということなのだろうか*11

ランダム性の話も分かりづらかったが、これは可能性が認識論的である以上本当にランダムなものと擬似的にランダムなものが認識上区別できないことからどちらでも構わないということだと思う。

認識論上の可能性が重要となってくるという論点は第5章第3節での予測と「不可避」という概念の関係を踏襲しているものと思われる。

結局人間は予測の範囲(思考フレーム)内でしか考えられないので可能性という概念も予測と対応する形で考えていけばいいのだ。

だから自由という概念もラプラスの悪魔的な視点からはなくなってしまうのかもしれないが人間の限られた視点からは存在している。

そして自由が存在してしまうがゆえに私たちは考えることをやめられないとも言える。


ちょうど読んでいた京極夏彦の『鬼談』の「鬼棲」という短編に「恐怖は人間が常に行う予感から生まれる」という話があり、この思考フレームの話とつながっているように思うので引用しておく*12

「予感は、根拠が何もなくたってするものなのよ。人は、何もなくても何かを感じるものなの。直接的な因果関係がなくたって構わないの。人は常に何かを予感しているんだわ。希望だったり絶望だったり、そういう内面の動きも予感を作り出すわよね。人だけが予感を持つのよ。というか、予感するから人なのよね。一番わかりやすいのは、恐怖ね。」(p188)

「恐怖は、死や暴力そのものではないのよ。死や暴力を受けることを、予感することが恐怖なの。(中略)恐怖というものは、何かが起こる前に感じるものなの。」(p196)

これは人間が常に自分の思考フレーム(予測)の中で生きいて、そうであるがゆえに恐怖が生まれることを示しているのだろう。

常に何かを予感しているという論点は『解明される意識』第1章で夢や幻覚が作り出されるプロセスの説明でも登場している*13

*1:デネット決定論と自由意志が両立するという両立主義(compatibilist)である。

*2:理性の指導によって他の行為が選択できない場合にも責任が伴うということだろう。

*3:理性の声を聞くことができる=ゾンビではない

*4:千ドルもらって拷問ができたことが必要なのではなくそうしたかもしれない(実際にはできない)ことだけで要件を満たすということ。

*5:第4章における責任のある人間となっていくプロセスを参照。 re-venant.hatenablog.com

*6:後に出てくる予測できる事象とカオス的な事象の区別を先取りしているのだろう。

*7:決定論的な因果関係からの独立のことを言っているのだろう。実践的には非決定論に扱わなければならないということ。

*8:第4章第2節参照。 re-venant.hatenablog.com

*9:ここは第4章第3節の内容。

*10:第3節の鳥と虫の例を参照。

*11:利己的な遺伝子』の第1章冒頭に「安定なものの生存」についての話がある。

*12:

*13:re-venant.hatenablog.com

Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第5章

[asin:B013VZO8Z8:detail]


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第5章「自由の観念のもとで行為すること(Acting Under the Idea of Freedom)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章、第3章、第4章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com


本文要約

5 自由の観念のもとで行為すること(Acting Under the Idea of Freedom)

1 こんな時にどうやったら考え続けることができるのか?(How Can You Go On Deliberating at a Time like This?)

私たちは熟慮(deliberation)することに重きをおくが、もし決定論(determinism)が正しいならそれは無駄なものなのではないか、と恐れている。

神の視点から見れば創造から世界の終わりまで全ては決まっていて、私たちが未来の行動の選択肢を持っているというのは狭い視野からくる誤った考え方なのではないだろうか?

もし熟慮が意思決定の複数の可能性を前提するなら、決定論と熟慮は共存しないように思われる。

しかし、本当はそれらは共存可能なのである。

共存しないという主張の一つのやり方は、決定論が正しいなら熟慮は不可能だというものだ。

しかし私たちは実際に熟慮して行動している。

だがこのことが決定論が間違いだと示すことはまずない。

第二の試み:決定論が正しいなら熟慮は効果的なものにはならない。

しかし、完全に決定された世界でも私たちの関心ごとについての因果関係に重大な寄与を行う熟慮とそうでないものの区別のための余地はたくさんある。

第三の試み:決定された熟慮が因果関係に対していかに効果的でも、その結果はすでに決定されているのでそれは本当の熟慮ではない。

本当の熟慮では、どちらの分岐も可能であることで行為者に真の機会(opportunity)が与えられていなければならない、と主張される。

もし結果が決定されているなら本当の機会は与えられていない。

この第三の試みは明瞭で親しみやすく魅力的だが、完全に間違っている。

この章で私は、熟慮の本性、そして機会とは何で、何かを避けるとはどういうことで、従って「回避できない(unavoidable)」という語が何を意味しているのかについての思い違いを示していこうと思う。

だがその前にまずこの結論がとても奇妙で安定しないということを見てもらいたい。

決定論の信奉者がいるとして、彼女は本当の熟慮も機会も存在しないと信じている。

彼女が取るべき態度は決定論的に引き起こされているが、それでもそれは理性的思考によって導かれたものだ。

彼女が理性的だと仮定するなら、彼女は無意味なことが明白な熟慮を捨てるよう強制されるだろう。

決定論的世界は段階的に理性を獲得して、その結果それが無意味であることを知るような生き物を作り出すことになる。

これは第三の試みと第二の試みを混同する事から起こる事態である。

第二の試みでは決定論と宿命論(fatalism)が混同されている。

宿命論において私たちは、例えばオイディプス王のように、それに干渉する自身の軌道がどんなものであってもある特定の環境に必然的にたどり着く。

決定論はこの宿命論を含意しないし、宿命論が一般的に正しいとする他の理由もない。

しかし「局所的宿命論(local fatalism)」と呼べるような事例は存在していて、そのような事例から熟慮が無意味であるという考え方が出てくる。

例えばゴールデンゲートブリッジから飛び降りながら「これは本当にいい考えなのだろうか」と考え出す場合などである。

しかしこれは熟慮に関する一般的な事例ではない。

他にも通常の環境よりもはっきりしない局所的宿命論の事例として、「不可視の監獄(the Invisible Jail)」の直観ポンプがある。

このような局所的宿命論にとらわれることが決定論的流れの中で生きることと混同されてはならない。

また、人が感情が高まるあまり理性の声を聞けなくなった場合も局所的宿命論が現れてくる。

この場合においても熟慮の通常の事例と区別できるだろう。

他にも喫煙者は自分を偽って喫煙の理由をでっちあげたり意志の弱さから喫煙を止められなかったりする。

この場合も異常な事例であり、これら局所的宿命論によって人間の状態が悩まされていると恐れる必要はない。

しかし、熟慮のプロセス自体とその産物が決定されているという状況下でそれを続けることには何か不条理があるはずだという感覚はいまだに存在する。

その感覚を持つ人は恐ろしい真実を受け入れることなくアナバチ的な盲目に陥るか、知性的活動を止めなければならないだろう。

だが、熟慮を続けている人は「私が愚かだとして、なぜ私はこんなに成功しているのか?」と返答するだろう。

これは魅力的な希望的観測に過ぎないが、熟慮が決定されていたとしてもそれを正当化することはできるのだろうか?

2 完全な思考者を設計すること(Designing the Perfect Deliberator)*1

私たちは未来が開かれているかのように熟慮することに真剣になって、自由の観念のもとで行為することをやめられない。

しかしこの傾向について非難したり残念に思うべき何かがあるのだろうか?

決定論と熟慮が共存するという仮説を検証するため、決定論が正しいと仮定してみて決定論的にデザインされた思考者がどんな特徴を持っているのか見ていく。

思考者は将来の環境を早くそして正確に予想しなければならないが、速さや正確さの分コストがかかる。

ゆえにリアルタイムの予想を妨げないよう必要ないデータを捨てて単純化しなければならないが、それは予想の信頼性を保つために「正しく」行われなければならない。

この二律背反の最適なバランスは種や環境、能力によって異なる。

情報はまず以下のように区別される。

(1)固定のもの(fixed):それ以上チェックする必要のないデータ
(2)閾域下のもの(beneath notice):そのシステムの関心に関係がなく、固定されているかどうかにかかわりなく無視できるデータ
(3)変化するもの(changing):注意するに値するデータ

そして変化する特徴はさらに区別される。

(3a)追跡可能(trackable):効果的に予測できるデータ
(3b)混沌、予測不能または「ランダム」(chaotic or capricious or "random"):予測できないが関係がなく注意するに値しないデータ(この場合予測できないというのは実際上のことであり、予測するほどのリソースを避けないことを意味する)

追跡できないデータの不明瞭性自体は追跡されなければならない。

すなわち追跡されない、もしくは追跡できないものが占める時空間は、追跡が可能なものと不可能なものに分けられなければならない。

この概念的構造に導入される様々な可能性は認識上の可能性であり、思考者が知っていたり注意したりすることのできる出来事だけが分類される。

しかし認識上の由来が無視される概念が存在している。

それは、例えば犬が吠えるかもしれないといった潜在的な可能性である。

犬がいつ吠えるかは予想できないが、無視することもできない。

ゆえに思考者は犬を吠えるか吠えないかの二つの状態を取りうる自由なシステムとして分類する。

このように単純化された犬の概念によってこれらの思考者は「私はこの吠えるものをオフの状態にしておくことができるだろうか?」という制御理論上の潜在的に解決可能な問題を編み出すことができるようになる。

このように特定のタイプの思考する行為者は、世界についての情報を集め分類する特有の能力を持っているだろう。

そのような行為者は世界を考える方法を持っていてその中で効果的に活動することができる。

セラーズの概念を借りて、この「概念的構成」を「顕在的イメージ(manifest image)」と呼ぶことにしよう。

この顕在的イメージにおいていくつかの物事は「可能な」状態にある。

可能な状態においてそれらは単に予測不可能であったり、予兆によって信頼できる形で予測できたり、思考者の行為によって間接的に制御可能であったり、直接制御可能だったりする。

この慎重な情報処理において重要な点は、遅きに失する前に思考者が対象を制御することを効果的な形で決心することを可能にするということである。

そしてこの意思決定は思考者の目標だけでなく、以下の種類の信頼できる予想に基づかなければならない。

(1)思考者が何をするかにかかわらず次に何が起こるのか
(2)思考者がもしAをするか、Bをしなければ次に何が起こるのか

前章で見たように自分に行動を予測することは自己制御する思考者との競合の中で重要な役割を果たす。

その自己予測は、先ほど見た予測のカテゴリーに加えて以下のカテゴリーを有する。

(3)思考者が次に何をしようと決心するか

この三つ目のカテゴリーは最初の二つとは別物である。

自身の軌道を計画する目で熟慮のプロセスを追う試みは無限退行に陥る恐れがあるが、それでも少しでも将来の意思決定の範囲を狭めることができる。

従って、予測できない出来事には二つの重要なバリエーションがあるに違いない。

一つは他者に関わる予測できない出来事で、もう一つは自身の熟慮の結果に関わる出来事である。

その行為者自身に関わる限り、認識論的に開かれている将来の出来事は不可避的に存在している。

ゆえに思考者とそれを設計するものにとっての教訓はそれに挑戦すらしないことだ。

この認識論的に開かれていることが、熟慮のために必要な余地(elbow room)を作り出すのである。

たとえ意思決定の内容が決定されているとしても、それを知ることはできない。

ゆえに人は熟慮することの正当化が存在するような立場にいるだろう。


我々は特定の制約を所与のものとみなしていて、問題を解決するための「すべての可能性」を思い浮べようとはしない。

どの範囲の可能性を検討するかはどの思考者やそれをデザインする者にとっても重要なものである。

天井を塗る際に部屋を上下逆さまにすると言った可能性を考えないことは利益を生むが、他方アナバチ的な状況に陥るかもしれない。

私たち人間は顕在的イメージ以外にも科学的なイメージを持つことができる。

たとえば、自然に備わった器官では電子を見ることはできないが、顕微鏡によって分子を認識することもできる。

ゆえに、顕在的イメージを捨てて世界についてのまた違った、よりきめ細かいレベルの記述を新たに抱くことも私たちの関心たり得る。

その時、顕在的イメージは不完全なものとして捉えられ、それは限定されて、バイアスがかかり、破棄できる視座としてとらえ直される。

私たちのリアルタイムの熟慮は顕在的イメージに基づいているが、それはまた認識の不完全さから生じる幻想のようにも思われるのだ。

ゆえに私たちは実践的な考え方と実践的でないが理性的な見方の間で揺れ動くことになる。

しかし私たちはいくらか進歩したと言える。

私たちは宇宙での自身の位置についての偏狭な直感が、それについて考える唯一の方法ではないが、それは有限で理性的な思考者にとっては、決定論が正しいかどうかにかかわらず唯一の方法なのだとする幾つかの理由を見つけた。

もし熟慮して行動したいと考えるなら、世界は本当の機会、開かれた未来を持つというように行動することが理性的なのだ。

しかし、未来が開かれているという幻想を抱いたままでいるのは理性的ではないのではないか?

必ずしもそうではない。

私は決定論的世界における決定論的な思考者について議論してきたと仮定したが、本当の機会を持たずに活動している思考者がいるとは仮定していない。

決定論は機会を締め出してしまうように思えるが、機会についてより詳しく見ると別の考え方が生まれる。

3 本当の機会(Real Opportunities)

決定論が正しいなら、私たちは見かけ上の機会を持つに過ぎないのだろうか?

そもそも真の機会とはなんなのだろう?

機会は行為者が「違いを生み出す(make a difference)」であろう「何かをする(do something)」「好機(chance)」であると考えられている。

決定論的な世界で機会がどのような意味を持つのか見ていこう。

もう一度探索ロボットの例を取り上げる。

そのロボットの制御システムは完全に決定論的で、ノイズやランダムな動揺に影響されることはない。

また探索している星に他の行為者がいないので、その行為によって影響を受けることもない。

このロボット、決定論的思考者MarkⅠは自身の機会を最大限生かすように設計されている。

またこのロボットは2章で見たようにして発達してきた特有の関心を持っている。

そしてロボットは「考え」たり、計画したり実行するに値するような、特別関心のある出来事が引き起こされるときならいつでも、「ロボット的機会(robot-opportunity)」を持っている。

日常生活において、人々の機会を妨げる方法は主に二つある。

一つ目は、彼がそれを望んでいてもできないように障壁や制限を作ることだ。

これは刃物のついた工場の機械が閉じるときに人の手を引っ張って退けられるようレバーに鎖で繋げておく場合など、人のためになることもある。

他にもたとえば監獄の気まぐれな看守が月に一回囚人が寝静まった後、すべてのドアの鍵を開けておく場合を考えて欲しい。

彼は逃げる機会を作っているように見えるが、囚人たちは機会があるという情報を持っていない。

これが機会を妨げる第二の方法である。

このように認識されず想像もされない機会を「単なる機会(bare opportunity)」と呼ぶことにする。

単なる機会は十分でなく、私たちは行動する際に機会を探知するかそれについての情報を得たいと望む。

これらの事例で重要なのはこれがある行為者が他の行為者の機会を妨げるために、機会を生かして行動するために必要な条件が満たされないように計画的に条件を連結することで、世界の様相を制御する事例であるということだ。

しかしこの種の邪な敵対行為者が存在しない場合、環境は行為者から計画的に機会を隠すようなことはしない。

ゆえに本当の機会とは自己制御者がその結果に続く「熟慮」が決定的な要因であるような状況に「直面する」(それについての情報を得る)場面のことである。

このような状況で行為者もしくは自己制御者が関わる限りひとつ以上の選択肢が「可能」である。

先ほど登場したロボットはロボットの動きを予測するものがロボットの探索パターンに同調して物事を並べ替えない限り機会を最大限に生かすだろう。

ロボットが情報に従って正しく行為したにもかかわらず、単に失敗すると言う滅多にない場面はどのようなものだろうか?

ロボットは決定論的に行動するので、その失敗は決定されている。

その時、ロボットは本当の機会を持っていたのだろうか?

人間の場合なら単にその機会を捕まえるのに失敗したのだと言われるだろう。

人間についてそのような議論をすることは適切ではないが、決定論的状況にあるロボットについてはそうでないとは限らない。

ロボットが、正しい考え方に到達しなかったか情報に正しく重み付けできなかったかによって、正しい解決法に辿りつかなかった場合についてよく見てみよう。

このロボットは私たちと同じように有限である。

また決定論的だが、発見学習プロセスを用いて「ランダム」に思考を生成するリアルタイムの自己制御者である。

これは「乱数生成器」によって作られるが、それは擬似的にランダムな数列を生み出すだけで、量子論的に非決定論的なプロセスを経ていないし数学的な意味でランダムなのではない。

このロボットが正しい解決法に至れなかった場合のそのプログラムを細かく見てみよう。

たとえば乱数生成器から5や6と言う数字が出て来ればプログラムは正しく動作するが、そのとき実際には3と言う数字が出てきたとする。

そして3と言う数字が出ることは決定されているわけだから、ロボットにはチャンスはないことになる。

おそらくあなたはロボットは決して機会を持ちえないと主張したくなるだろう。

そのときさらにランダム思考者MarkⅡを考えてみよう。

それは本当のラジウム・ランダマイザー(ラジウムの崩壊を観測するガイガーカウンター)を装備していてラプラスの悪魔でさえそのロボットがどう動くのか前もって知ることはできない。

このロボットは本当のチャンスを持っているのだろうか?

MarkⅡの行動はMarkⅠのそれと比べてうまくいくわけではないしその逆でもない。

しかし、あなたはMarkⅡはMarkⅠと違って本当の機会を持っているから、形而上学的により良いものだと考えるだろう。

だが何故、MarkⅡにおけるチャンスがより本当のものなのだろうか?

少し違う文脈で考えてみると、この直感が幻想であることがわかる。

以下の二つの宝くじを比べてみよう。

宝くじAは売られた後にランダムに当たりくじが決まるが、宝くじBは売られる前に当たりくじが決まっている。

多くの人はBの宝くじは買う前から当たりくじが決まっていてハズレのくじはただの紙だから不公平だと考える。

しかし、実際どちらの宝くじも公平で、買った全ての人の勝つ確率は同じである。

勝者が選ばれるタイミングは全く本質的ではないのだ。

さて、私たちの世界が決定されているとしても、私たちは擬似乱数生成器を持っていてる。

いわばそれは宝くじの全てのあたりが最初から決まっていて、封筒に包まれ、人生の中で必要な時に分け与えられるようなものである。

それでは最初から勝者が決まっているから平等ではない、と言う人もいるだろう。

しかし幸運は平均化されてしまうことを思い出して欲しい。

またある人は、生まれる前から全てが決まっているなら他者より幸運を得る運命にある人がいる、と言うだろう。

しかしそれは私たちが生まれてから決定されても同じことである。

真に決定されていない抽選においてもある人々が他者に勝利するであろうことは決まっている。

完全に平等でランダムなコイントスのトーナメントでも勝者を生み出すことを思い出してもらいたい。

平等さは全員が勝つことを含意しないのだ。


ここでは行為者がそれを利用するという点に触れる形で機会というものを分析してきたが、行為者以外の物理や科学の世界にもこの概念は適用できる。

たとえば減数分裂する細胞の中にいる遺伝子は子孫たちの先祖となるチャンスを持っている。

この点については第6章で見ていこうと思う。

さて、ここで触れられているのは特に人間の機会であり、ここでの結論は私たちが本当の機会を持っているかどうかは決定論が正しいかどうかと全く関係がないというものである。

もし本当の機会がないとしたら、ハーバード大学スタンフォード大学かスワースモア大学のどれに入学するかで悩んでいる人と、何も悩まずに工場へ働きに出る人との間に本当の違いは存在しないことになる。

自由の欠落は貧困や権利のないことだけに限らない。

たとえば仕事を辞めて庭師になりたい銀行総裁のことを考えてみると良い*2

もしそんなことをすれば彼の妻は白髪になり子供は大学をやめなくてはならず友人は唖然とするだろう。

彼のように愛着とコミットメントに絡め取られていない私たちでもにたような根本的な破局を実行できないだろう。

選択肢が開かれている社会経済上の状態にある人は賢く幸運である。

放浪者の自由は銀行総裁が羨むもので、放浪者と奴隷がどちらも経済的政治的力を持たないとしても奴隷にはないものである。

これは物事の組織の中での自身の位置について問う際に頭に留めておくに値するものだ。

4 「回避」、「回避できる」、「不可避」("Avoid", "Avoidable", "Inevitable")

決定論的思考者MarkⅠが真の機会を持っているとしても、それは決定されているから「不可避(inevitable)」である。

そしてもし決定論が正しいなら、私たちの行動は改訂できない過去の出来事の不可避の結果であるから全て不可避である。

この考え方はよく知られているが、つじつまの合わないものだ。

それは「決定された」もしくは「因果的に必然」から「不可避」への不法な移動を含んでいる。

この見方は決定論が正しいならどの行為者も何かについて何かすることができないという推論を正当化するように見える。

しかしこれは単なる宿命論であり、私たちは宿命論と決定論を混同してはならない。

「不可避」という語は当然単に「回避できない(unavoidable)」ということを意味し、そしてその言葉を使う時あるものが誰かもしくは全ての人にとって回避できないということが意味されている。

しかしもし私たちがその語が何かが誰かにとって回避できないということを意味していると知ったとしても、私たちはまず何かが回避できるということの意味を見たほうが良い。

そして何かを回避することについて知るために必要なものについて明確にしなければならない。

「回避する(Aviod)」は「予想する」「防ぐ」「実行する」といった熟慮の結果について論じるときに使う動詞の仲間である。

これらは「歴史の流れを変える(change the course of universe)」「宇宙をかき乱す(disturb the universe)」「差異を生み出す(make a difference)」ものについて語る際に使われる。

私たちは歴史の流れを変えることを望むが決定論的世界ではそれは叶わない。

この章の初めで世界の過去と未来の全てを想像してみたが、それが実際の歴史の流れならイメージされたその歴史は分岐を持たない。

何が起こると決まっていても一つの出来事しか起こらず、私たちが「未来」と名付けるイメージは実際に起こる出来事のみから構成されている。

決定論的な宇宙を想像する際に私たちが抱くイメージは決定論的なそれのイメージと区別できないだろう。

今日の未来は明日の過去、実際に起こる出来事の流れである。

歴史の流れを変えるといのは、ひとつの未来の出来事を別のもので置き換えることなのだろうか?

この考え方にはつじつまの合わないところがある。

未来がこれから起こる出来事の流れなら過去が変えならないのと同じように未来は回避できない。

回避するとはどういうことなのだろうか?

私たちが回避ということを語る時、その対象は災難、不運や災害といった痛ましい出来事である。

「〜できる(-able)」という単語において私たちは、実際の事例を指示することで何かがその能力を持っているということに納得する。

例えば「溶ける(soluble)」なら実際に溶ける対象を思い浮かべる。

しかし私たちは回避された実際の事例を指示することができない。

実際に起こった出来事、今起こっている出来事、これから起こる出来事は全て回避されたものではないからである。

1981年のロンドン大地震といった実際に起こらなかった出来事は回避されたもののように思われるが、それは想像上のものに過ぎない。


第3章で制御は制御下にない因果的な力ではなく、予測できない因果的な力や、克服できない力によって妨げられることを見た。

後者(克服できない力)の事例が「無慈悲さ(inexorability)」というモデルと生み出す。

例えば天文学者が地球を滅ぼすような巨大彗星の接近を発見したとしよう。

私たちはそれに対して為す術なく、奇跡を祈るしかない。

しかし別の彗星が現れてそれに衝突し、危機は回避された。

これは奇跡ではなく、ただ何百年も前からその軌跡が決まっていた彗星の存在が後になってから判明しただけである。

二つ目の彗星が破滅を防いだのではなく、それは最初から存在しなかったのだ。

この危機を私たちに見せたのは天文学者の信頼できない予測である。

私たちはそのような(誤って)予測された未来の背後に阻止できる出来事の事例を見てとる。

「差異を生み出す」動詞は見かけ上の世界と実際の世界の比較を暗に含んでいる。

そして「歴史の流れを変える」ことは予測された世界の軌道から判断して実際の世界の軌道に対して顕著な働きかけを行う行為者であることである。

この概念を用いることで常態の慣性の原理のようなものが呼び起こされる。

それは行為者の行動に対して「他のものが同じなら(other things being equal)」物事がこうなるという予想という暗黙の背景に立脚していて、その事例では他の何かが同じでなければ「全てが違ってくる(makes all the difference)」。

私たちの予想の習慣はゆるぎないものであり、それによって説明される必要があるものやないものを見てとる科学的想像力の大きな飛躍が生まれる。

ニュートンが重力の存在に気づくのはりんごが宙に飛び出していくのを妨げたり中空に止まったりするのを妨げるのは何かを問うときだけである。

ニュートン物理学における説明を必要とするのは加速だけであり、その他は等速直線運動という普通の出来事に過ぎない。

そして一旦基本的な力が設定されてしまうと、私たちはさらなる説明を必要とするものの閾値を上げてしまう。

私たちは石が重力に従って落ちないのがなぜかを問うがそれが燃えたりティーカップに変身しないのはなぜかは問わないのだ。


機会という概念と同じように防止という概念は人間の思考を行う人生における役割について最もよく分析されてきた。

しかしこれは人間以外の領域に適応できないものではない。

決定論が正しいなら、ドアから入ってくる人は決まっているのだからドアに鍵をかける必要はないという主張に耳を貸す人はいないだろう。

母なる自然は有機体に抗体などのあらゆる防衛手段を備え付けていて、防止と回避なしに世界を理解することはできない。

これら近しい概念の観察によって、それらが私たちのような存在によって予想できることと結びついていることがわかった。

私たちは熟慮したり計画するとき常に「通常」継続していくであろう世界や私たちが計画したりそう望めば変わるだろう世界の特徴と言う見地から世界を見る。

そして私たちはそれら予想されたもののいくつかを、特定の行動を起こさなければ起こらないだろうもの、特定の行動を起こしたから起こるだろうもの、どんな行動を起こそうとも起こるだろうものに分類する。

後者がそれに対して何もできず、それについて考えることに意味がないために「不可避の」ものだと呼ばれる。

以上から「不可避である」ことが「因果的に必然である」、「決定されている」と言うことを意味しないし、またそれらによって示唆されることもないことがわかった。


決定論を論じる際に哲学者などは行為者が決定論的な因果プロセスに属していると考える一方で別の場面では行為者が決定論的世界から独立だと考える。

特に科学者は観察対象が属する因果関係から観察者が独立していると想定するが、それに観察者も当然因果の編み物の中にいると付け加える。

第3章で見たようにこの両極端な考えは必要なく、彼らは絶対的に形而上学的に因果の編み物から独立でなくても良い。

彼らに必要なのは高いレベルで観察対象の因果プロセスから離れていることだけである。

絶対主義者は自由な行為者の行動によって偶然的で前もって決められた調和は破壊されるが世界の本当の規則は守られると主張する。

しかし「本当の規則」を示すために世界にそれを押し付けるという目標が達成できるのは、私たちの探索活動がどんな規則にも一致していないかどんな悪魔にも追跡されない場合である。

それらの活動がカオス的もしくは擬似ランダムプロセスに基づいている限り、その活動は追跡できないので私たちは絶対的ではないが科学的探求に十分な探索上の影響力を持っている。

理性が指導する自身の因果的プロセスに対して盲目であることで達成されるこの関係を断ち切る戦略が実行された時、「絶対行為者性」の幻想が生み出される。

そしてこれが宿命論的思考を行う機会を与えるのである。

コメント

第5章は決定論と私たちの日常生活の関係を「機会」「不可避」などのタームから分析していた。

世界が因果関係によって決定されているなら私たちは機会を持ちえないし全ての出来事は不可避である、という見方への反論である。

まず1節で問題となるのは、決定されている世界であれこれ考えて行動する意味はないのではないかというものだ。

しかしながら日常的なレベルで考えると将来の出来事を完璧に予測することは不可能であり、未来が決定されていないとして行動するより他にない。

また予測しながら行動することは進化論的にも適応度が高く、熟慮しながら行動することはこの観点からも支持される。


しかしその決定論的世界ではそもそも何かをする機会もないのではないかという問いに答えるのが3節だった。

デネットは「機会」を熟慮することが決定的に差異を生み出す状況に直面する場面だと定義している。

熟慮することが正当化されるなら私たちは本当の機会を持ちうるだろう。

だがその熟慮の結果失敗することが決定されているのならそれは機会を持っているとは言えないのではないか?

それについては宝くじの例を用いて、思考プロセスが決定されていようがいまいが成功する可能性は同じだという反論がなされている。

ゆえに決定論が機会の有無に関わることはない。


4節では「不可避」という語が何を意味しているのかが検討されている。

結局のところ私たちは自身が予測した将来の出来事が自分の行動に関わりなく起こるなら、それが不可避だと言っているだけなのである。

ゆえにこれも世界が決定されているかどうかと関わりのない概念ということが示された。

差異を生み出すことのその「差異」が予測された出来事と実際の出来事の差異でしかないなら、決定論的世界でも熟慮することで差異を生み出すことが可能である。

その点からも熟慮して行動することが正当化されている。


この章で面白かったのは私たちは常に自分が予想した世界の流れとの比較の中で物事を考えているという点だった。

ここでは書かなかったが原著ではフレーム問題との関係も指摘されている*3

全ての概念は私たちの限定された思考フレームの中で作られたものなので、神の視点を持ち出して世界が決定されていると主張してもそれは種々の概念との不整合をきたしてしまう。

この思考フレームは自己評価(第4章)=物語(『解明される意識』第13章*4)とも繋がってくる概念だろう*5

自己を定義する物語は因果系列の形をしていて、それが未来方向に伸びていけば将来の出来事の予想を形成する。

予想された世界=物語=自己評価から自己(=意識)が生み出されるという関係性はデネットの意識論を読み解くうえで重要な点となってくるように思われる。

ところでショーペンハウアーは現象界は因果関係によって決定されているのでそこでの自由はないと結論づけているが、この議論を見ているともっと自由という概念を分析する必要があったのではないかと思えてくる。

もし現象界において自由が実現するなら、人間の自由を世界そのものである「意志」との合一に求める必要がなくなる。

認識が最高度に高まると意志と一体化して得られた自由は、意志の盲目性から自由というより放銃と言った方がいいものだろう。

ゆえに現象界の内部で自由を確保しておいた方が理論として通りがいいもののように思われる。

*1:「熟慮(deliberation)」と「思考者(deliberator)」の原語上のつながりに注意。その辺りが表現できるように訳せればよかったがうまい訳が見つからなかった。

*2:この銀行総裁の例はここまでの分析を踏まえて本当の意味で「機会」が損なわれている場合を例示しているものと思われる。

*3:フレーム問題 - Wikipedia

*4:re-venant.hatenablog.com

*5:第4章の自己定義と自己を作り出す物語の関係については前記事のコメントを参照。 re-venant.hatenablog.com

Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第4章

[asin:B013VZO8Z8:detail]


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第4章「自作の自己(Self-Made Selves)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章、第3章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

本文要約

4 自作の自己(Self-Made Selves)

1 消失する自己の問題(The Problem of the Disappearing Self)

脳の中に自己や魂を求めることはカテゴリーミステイクのようなものであるかもしれない。

ここまでの自己制御についての議論では自己が何でどこにあり何でできているのかは触れられておらず、「消失する自己」の問題*1は残されたままである。

また、制御に関する説明は決定論における責任の問題に対する解決の一部でしかない。

因果関係の編み物における糸に対立するものとして、行為者であるというのはどのようなことなのだろうか*2

私たちは行為者について何かする者、単なる反応以上のものの源泉というイメージを持っている。

また私たちは自分たちがそのような行為者であると考えている。

このことから「行為者原因性(agent-causation)」という教義が生まれる。

それはある行為について、それが自由なもので行為者に帰せられるものかのか、それとも何か原因を持っていて行為者に帰せられないものなのかの二択であるという教義である。

この教義に従うと、もし私たちが自由に行為できるなら「不動の動者」という神にのみ帰せされる特権を得ることになる。

私たちは自己と行為者についての自然主義的な説明を得て、行為者を十分に因果の編み物から区別し、この曖昧でビクビクした形而上学を回避することがだろうか。

これがこの章の目的である。

さて、確かに私たちは不動の動者でなければならないように思われるのだが、そうとしか思えないというなら何がそうさせているのだろうか?

第一に、神経システムが生み出す結果の拡大によるスケールの幻想がある。

私たちは情報処理システムであり、それは小さな原因から大きな結果を生み出すスイッチの構造物である。

さらに、入力のスイッチ、すなわち感覚器官も増幅器である。

それらによって感覚による情報が増幅されることで、最終的にはその原因が結果に比して小さいために探索不可能な劇的な結果(行為)を生み出すに至る。

ゆえに私たちは行為者の行為に原因が何もないような仮説へと誘惑されていくのだ。

さらにこの原因の道筋は、一人称視点からの内省においても見えないものである。

ゆえに自分の意思決定にしても、それが自発的に生まれるのか偶然起こるものなのか分からない。

このことが、「中央司令塔」が内省する私たちがいるポイントとは別であり、それは私たちの中のより深いアクセスできない場所であるという奇妙な考え方を生む。

しかし、一体なぜ中央が存在しなければならないのだろうか?

この究極の中央という幻想が生じるのは、単一で一貫した観点としての自己という考え方から来るのだ。

そしてその考えを私たちの責任という先入観の元で推し進めると、「私たちがそれをしたのか?(Did I Do that ?)」と自分に問うことになる。


責任というものについての伝統的な考え方では、感覚などのインプットには責任は生じず、「自発的な」行動には責任が生じる。

しかし推定された中心*3を取り除いた時、私たちが検討している出来事は前後に揺らめき始める。

私たちは感覚的な現象に対する判断を保留することができないだろうか?

また、私たちの行動をよく見ると、自発的な行動はそれしていることではなく、正しくはそれをしようとすること(trying)ではないか?

さらに言えば、結局感覚の受容(acceptance)か何かをしようとすること(trying)のどちらかが自発的だということは明らかなのだろうか?

自由な行動の源泉となる中央が見えないことと、自分たちが実際に何かをしているという確信を捨てたくないことから、私たちは不動の動者、活動的な自己という不思議で神秘的なもので自己知識のギャップを埋めようとするのだ。

理論的な飛躍は、意思決定に行動が伴わない場合により明らかになる。

例えば、ベッドから起きて仕事に行こうと決意してもなかなか起き上がれない場合などだ。

私たちは意思決定が中央司令塔で発生すると考えるが、それは実際の行動を理想化し拡張し、理論が要求するところに意思決定を挿入して作り上げた心理学的な理論に過ぎない。

確かに昨日決意していなかったことを今日は決意しているわけだから、どこかで意思決定が生じなければならないのだが、そのことが不動の動者としての中央の行為者というものを生み出しているのだ。

このようなミスディレクションは生き残り得るはずもないが、それに代わる自然主義的な説明が与えられなければ未だに魅力的であり続ける。

次に私が行うのは、そのような説明を試みることだ。

2 自己定義の技術(The Art of Self-Definition)

まず私たちが自身になるプロセスを検討する。

それによって私たちは自由意志の問題を引き起こす恐怖から逃れることができるだろう。

特に自己の発達に寄与する「運(luck)」について見ていく。


とりわけ、自己は自己制御の座である。

鏡に映る自分が自分であるとわかるのは、それが似ているからでなくそれを制御することができるからだ。

私とは私が直接制御できる部分の総体なのだ。

しかし、全ての自己制御者が自己なのだろうか?

どんな有機体も自分を制御しているが、それらに備わる自己は私たちは自分たちに備わるものと比べてそれがとても初歩的なものだという直感を抱く。

さて、もう一度低次の生物と私たちの自己の間の違いを見てみよう。

そのような違いは進化プロセスの中でも見られるが、しかし人間個人の成長の中でも生じている。

生物学的、社会的な学習と成熟のプロセスのいくつかが幼児を自意識のある倫理的な大人に変えるのだ。

人間個人は人生の始まりにおいて、自身をどのように制御すればいいのかという問題を抱えている。

私たちはこの問題を解決するのに限られた資源しか持ち合わせていない。

このことは瑣末な問題に思えるが、サルトルの「根源的選択(radical choise)」という自己選択の考え方においては大きな影響を持つ。

根源的選択というのは昨日得たものを伴わない選択のことである。

サルトルのこのメタファーは私たちの誰もが持ちえない不思議な力を要求し、人々は科学がそれが存在しないことを証明してしまうと自由もまたないのだと信じてしまう。

新生児は真っ白な石板*4ではないし、学習し発達する能力が先天的に備わっている。

「硬い決定論(hard determinism)」を信じる人が心配するような過去からの制御はないことがわかったが、現在の私の意思決定や制御の能力については確証が得られない*5

どんな「性格変化(character transformation)」の決定論的プロセスが責任のない人間を意思決定だけでなくその性格にも責任のある人間に変えるのだろうか?

責任のない選択から責任のある自己が生じるプロセス、すなわち段階的に責任を得るプロセスを見つけない限り、不快な代案を選ばなければならない。

その代案とは、私たちが責任のある自己を持つことを否定するか、サルトルの考え方を採用して絶対行為者性に似た神秘的な教義を支持するかということである。

性格形成のプロセスには最初のステップが必要であり、それが行為者に制御できない意思決定であるなら、その産物には責任は生じないと考えられる。

二つ目のステップも同じであり、ゆえにそのようなプロセスは自身に性格に責任のある行為者による意思決定を生み出すことはない。

この考え方に従えば哺乳類は存在しないことになる。

なぜなら哺乳類は哺乳類の母から生まれなければならないが、私たちの祖先には明らかに哺乳類でないものがいるからだ。

しかしながら私たちは自分たちが哺乳類であることを知っている。

この議論における誤りは、人は何かが完全に自分が作ったものでない限りそれに対する十全な責任を持ちえないことを前提していることだろう。

その人が神でない限り当然何かが完全にその人が作ったものではありえない。

だから私が作り一般社会に影響を及ぼすものすべてについて私は責任を持つ。

そして私は自身であるところの行為者を作り解き放ったのだから、その行動が害をなすなら、製造者である私がその責任を負う。


それでは、どのようなプロセスによって自己創造がなされたのだろうか*6

前章で見たメタレベルの戦略を子供達が学ぶ最良の方法は「本を読む」ことだ。

洗練された自己制御者が直面する問いとは、自分が今採用している戦略をより良いものに改訂することができるのか、というものだがこの問いに答える「本」は存在しない。

そしてチェスのゲームの途中では教本を捨てて、発見学習をすることのリスクを負わなければならない。

またこのメタレベルの思考プロセスに携わるために、より高次の自己制御を望む者は彼の現在の信念、欲望、意図そして方針を、評価対象として表象できなければならない。

私たちの自身の思考に対する調査には不可避的に限界があるため、思案のプロセスの中で「正しい」思考が「早く」起こることが重要となってくる。

しかし決断に時間制限のある私たちはこの思考の順序を直接制御することはできない。

ゆえに私たちはこの思考の順序のままに行動することになるが、それを予想し自己改善を行うことでその信頼性を向上させることができる。

しかしこの自己批判やメタレベルの制御プロセスさえも時間制限を設けられている。

そしてどの程度の自己批判が適切なのかを教えてくれる「本」も存在しない。

私たちはなぜより高次の反省や自己評価を行い、行為者の「性格」を改善させようとする傾向を持っているのだろうか?

第3章で見たように私たちが将来出会う制約を予想することがメタレベルの制御を向上させるから、自己知識は有利に働く。

しかしそのシステムはあまりにも多くの自己知識によってオーバーロードしてしまう可能性を常に抱えている。

ゆえにこの自己評価の仕事に必要な特徴は客観的にそれより高次のものがなく、しかし同時に評価をより高次のものへと引き上げていくことである。

テイラーが言うところでは、根本的な再評価(re-evaluation)とは、それを評価するメタ言語が利用不可能であるようなものであるという。

自己内省があまりにうますぎる人は深みにはまってしまう。

最高次元の自己評価における信頼できなさは、有限な行為者は限られた時間やその他の資源内で大きな問題に直面した時、発見学習メソッドを使用しなければならないことに起因する。

探索空間が大きくなるほどに、盲目的に行為を選択しなければならない発見学習メソッドのリスクは大きくなるからだ。

この盲目的な選択はサルトル実存主義における「根源的選択」なのか?

テイラーは「根源的選択」によって選ばれなかった方の選択肢に価値がないとは言えない場合が存在するという。

私たちは何をすべきなのかについて客観的で「決定的」な答えは存在せず、答えを決める実現可能な「決意手順」もない。

しかし時間は迫り、私たちは行為しなければならず、後になってそれが間違いだったと学ぶのだ。

根源的選択という観点からは、時間に迫られて指した誤った手への非難を受け流すチェスプレイヤーのように自身の難しい選択への非難をただ受け流すのでない理由を持ちえない*7

この選択を行ったのが自分であると認めるにしてもそれは道徳的責任にとって十分でないのだ。

テイラーの言うところでは責任のさらなる地平は根源的な再評価を遂行する方法の特定の性質に由来する。

そしてこの再評価はそれを評価するメタ言語が存在せず、利用可能な定式の中で実行される。

例えば哲学において私たちは、始まりにおいて不正確に定式化されたと知っている問いから始める。

そして私たちは哲学上の問題との戦いの中で、その言葉が変形されていることを発見し、はじめにおいては正しく想像することのできなかった問いに答えられるようになることを期待する。

私たちが大切に持っているものを定式化しようとする試みは、何かに忠実であるよう努めなければならない。

しかしその何かは定まった度合いや証明方法を持った独立した対象ではなく、何が大切なのかについてのはっきりと言い表されない感覚である。

もしテイラーの言うような定式化の試みが成功したなら、この成功は私たち自身によると認められる行為以上のものに達する。

それは不完全で間違って定式化されたものをはっきり言い表して明確化することで定義された自分自身である。

これがテイラーの考える自己創造に伴う価値の創造の方法である。

カントも、自身に課す法そのものが自身を構成しているというこれと同じような内容を主張している。

さらにミルの言うところでは、「私」は快楽への願望と良心の咎めなどの衝突のどちら側でもある。

そして衝突の片側にあるということで同定された私の意志が「私」を作るのだ。

またノジックは自己定義について量子力学において量子の状態を確定させる観測のアナロジーを使っている。

この自己定式化という見方は、物質の変化のプロセスとは違った自己の段階的な発展という見方を再提出する。

自己定式化は情報的に敏感であり、曖昧に多数のレベルを持つメタレベルの批判の影響を受ける。

しかしこの立場は、私が理性の声を聞くことができるのは幸運からであり、ある人が誤りを起こすのは不運にも先祖の欠点を受け継いだからである、という批判を受けやすい。

私たちのどちらも生まれた日の自分に責任を持ちえず、ゆえにそれに続いて決定論的に形成された自己にも、それが構成的で創造的なものであっても責任を持ちえない。

私たちが十分な才能を持って生まれ、「良い」性格を作り上げたのは「ただの運」なのだろうか?

驚いたことに、運という概念と自由意志と責任の議論におけるその役割は哲学者たちにあまり注目されてこなかった。

3 自分の運を試す(Trying Our Luck)

運というものが実際に存在すると信じる人はいないが、私たちは出来事や属性を単なる幸運と特徴づける迷信的でない方法があると考える。

例えばアメリカとロシアが今後の外交上の問題を両国の代表者によるコイントスで決めることにして、その代表者を選出するトーナメントが開催されるとしよう。

この大会で勝ち上がって人間はランダムに選ばれた市民より今後のコイントスで勝利する確率が高いのだろうか?

運というものが存在してそれが人に備わる属性ならばそうだろうが、当然そうではない。

このトーナメントの勝者は、自身が生き残ったという事実から運は現実のものであり自然の何らかの力が彼を勝利させたと信じたい強い誘惑にかられるだろう。

また、そのトーナメントに勝利することに責任を感じる人もいるだろう。

それなら、勝者がトーナメントの存在に気付かなかった場合を考えてみると良い。

運というものが存在しなくとも、トーナメントはそれが行われる限り勝者を生み出すのである。

私たちはこの場合と似たように私たちの行為についても誤って責任を感じているのだろうか?

コイントスのトーナメントの勝者と同じように、私たちは一人の先祖も淘汰されていないという幸運によってここに存在している。

生存競争のコイントスのトーナメントとの違いは、そこにおける勝利が個人に帰されるのではなく遺伝子に帰されるという点だ。

遺伝子の競争は純粋な能力のテストであり、私たちは遺伝子の生存競争のこのラウンドを勝ち抜く能力を受け継いでいるに違いない。

能力は運と違って人に投影できるものだ。

不運にも能力に恵まれなかった人に責任があるとは考えないが、そうでない人には責任を求める正しい理由がある。

能力と運の関係は複雑である。

能力があればあるほど自身の活動を制御することができるので、人は幸運を必要としなくなるし、その人の成功が単なる幸運であると言われることもなくなる。

自己改善の能力が高い人間の成功は彼の幸運に帰されず、私たちは彼に対して多くを望む。

それは「ノブレスオブリージュ」と言うことわざにある通りである。

しかしさらに、単なる運だと言われる行為者の環境には生まれた当初の才能と彼が自己創造の中で出会った好機の多さの二種類があると言いたくなるだろう。

ラソンにおいては最初の有利は、道中の他の好機によって相殺されてしまう。

結局、運は長い競争の中では平均化されてしまうのだ。

道徳の発達や行為者性の取得も短距離走ではなくマラソンに似ている。

しかしこれらは競争ではなく、母国語を学ぶプロセスと同じように人々を遅かれ早かれ発展の高地へと連れていくプロセスである。

ゆえに最初に持っている才能とそれに続く幸運は一般的には平均化されてしまう。

能力を得る機会を得られた幸運というものを突き詰めて考えると、あらゆる出来事が幸運に帰されてしまうし、そもそもその人が生まれてきたことが天文学的な幸運である。

この考え方では能力というものは全て幸運に帰されてしまうが、それは間違いだ。

幸運な成功と不運な失敗の間に能力が入る余地(elbow room)を認識すると誰も責任を持ち得ないという主張は蒸発してしまう。

私たちは思考と自己制御の能力に優れ、お互いを信用して責任を求め、正しいことを行うよう期待する。

そのような地位にある人々が正しいことを行うとそれは幸運とは呼ばれない。

私たちは、スター選手が完全に運を超越しているわけでないのと同じように、責任のある行為者であることに完全な責任を持っているわけではない。

責任のある行為者である私たちは自身の思考と自己制御の能力と責任ある市民としての地位を失う確率の高い環境を避ける傾向を持つようデザインされている。

ただし時折予期せぬ事態によってその能力を失ってしまうが、それは不運であったということだ。

また思考能力の低い子供や不運にも意思決定が下手な人間に対しては期待を抱かない。

ゆえに彼らにとって運に含まれるものは私たち大人には運に含まれないのだ。

4 概要(Overview)

この章で焦点が当てられた恐怖とは単なるドミノの列から自己を区別する自然主義的な理論が存在しないのではないかというものだった。

私たちは単なるドミノではなく、道徳的な行為者でありたがる。

自然主義的に考えられた自己の特別な点を見返してみよう。

物理的宇宙のある一部だけが熱力学の第二法則による崩壊に抗い得ると言う性質を持っている。

そしてそのうちのいくつかだけが次に何が起こるのかを予測し、自身を含む物事を制御するという性質を持っている。

さらにそのうちのいくつかだけが自己改善の能力を持ち、そしてそのうちの少数が言語による自己記述を必要とする「根本的な自己評価」の制限のない能力を持っている。

そしてこの部分は自己制御、才能、意思決定の座であり、計画、関心、自身が自己評価と自己定義の中で作り出した価値を持っている。

一つのドミノが物理的世界のこの一部たりえるだろうか?

コメント

第4章「自作の自己(Self-Made Selves)」は行為の責任と道徳性の座である「自己」をいうものを物理主義の世界観からどう導き出すのかという議論であった。

二元論的に物理世界とは関係のない「自己」(「魂」とも言うだろう)を想定すれば話は簡単なのだが、二元論はどうにも具合が悪い。

しかし物理主義においては因果関係が全てであり、一般的には自由や責任を持った「自己」は存在しないと考えられている。

そこでデネットは物理主義においてもそのような「自己」が存在することを示そうとするのである。


第4章1節では「行為者原因性(agent-causation)」という考え方(デネットの言い方では教義(dogma))が登場した。

感覚刺激と反応の大きさのギャップが「不動の動者」としての行為者を想定させるという点そのルーツとなっているという点が興味深かった。

また『解明される意識』ではカルテジアン劇場(ここでは「中央司令塔」)と呼ばれていたものも議論されている。

この幻想に取り付かれていることも「行為者-因果関係」を生み出す原因となっているようだ。

ここでは述べられていないがデネットの論ではこのカルテジアン劇場は存在せず、意識は「多元的草稿」と呼ばれるモデルで説明される。

この辺りは『解明される意識』第二部に書かれている*8


2節では責任というものが段階的に発生する様子と、自己定義による「自己」の創造について説明された。

責任のない状況や選択から責任のある自己が作り出されてくることは、一見して「砂山のパラドックス*9なのだが、デネットはこのパラドックス自体を直感に反するとして否定しているようだ。

私はこの問題は、言語自体が「砂山である」/「砂山でない」、「責任がある」/「責任がない」という二項対立でしか思考できないように作られている点に原因があると思っている。

そして言語がそのような構造であるのは、意識が「多元的草稿」の二つ以上の草稿間のインターフェースとして生じているという点に起因するのではないだろうか。

また自己定義によって「自己」が生じるという点については同じく『解明される意識』第三部で登場した「物語重力の中心」としての「自己」とリンクしているように思った*10

「物語重力の中心」というのは私の行動や思考を言語によって記述するときに、言語が構造上必然的に指定する一人称のことであり、「自己」とはそのようなものに過ぎないという見解である。

この"elbow room"で言う「自己定義」がそのまま「物語」を作ることだと言い換えられるだろう。

そしてその「物語」の作成が自己をモニタリングすることであるとされている点も「自己評価」=「自己定義」という論点と重なる。

また"elbow room"第4章4節で自己評価の能力が言語を必要とすると言っているのもこの関係を示しているのだろう。

自分を見つめ直し葛藤することがそのまま自己の獲得に繋がるのだから、伊藤計劃『ハーモニー』*11のようにあらゆる意思決定が技術的に制御されるようになれば「自己」が消失するということも現実にあり得るように思う。

伊藤計劃デネットその他を読んでいたという話は有名だが、なるほどそういうつながりがあるのかという納得があった*12


3節における議論の基礎は、ある選択が可能であるような能力を持った人間にしかその選択の責任を求められない、ということだろう。

この見方自体は直感的にも支持できるものだと思う。

また「砂山のパラドックス」を否定したことから責任のない最初の選択から、選択の積み重ねの中から少しずつ責任のある「自己」が生み出されることが可能となってくる。

この考え方は「責任がある」/「責任がない」という二項対立を否定して、「運」と「能力」のスペクトラムの中で行為を位置付けるということだろう。

確かに「責任のない子供」「責任のある大人」をきっちりと分ける境界線は実際上存在しないし、この考え方の方が現実に適しているように思われる。

ただ、生まれた当初は自分ではどうしようもない性格や能力から発するプロセスで生じた「自己」に責任を求められることに納得できない人もいると思う。

しかし段々と責任が生じてくるプロセスを受け入れないとなると、二元論的な「不動の動者」「魂」といった絶対的なものに責任を帰するしかなくなる。

そもそも生まれた当初の完全に責任のない状態の差異は、長い人生の中での出来事と辿り着く場所の広さから平均化されてしまうので、スタート地点における差異をそこまで気にする必要もないのである。


以降の章については次の記事。
re-venant.hatenablog.com

*1:詳しくは第1章の記事の第2節の部分を参照。 re-venant.hatenablog.com

*2:原語では"What is it to be an agent…?"となっていて、ネーゲルの思考実験"What Is it Like to Be a Bat?"( What Is It Like to Be a Bat? - Wikipedia )を意識しているものと思われる。ちょうどこれが書かれている段落でネーゲルが引用されている。

*3:「中央司令塔」のこと。これらの例えはカルテジアン劇場( カルテジアン劇場 - Wikipedia )のことを指しているのだろう。

*4:タブラ・ラサ」の事。Tabula rasa - Wikipedia

*5:過去からの制御の否定については第3章6節参照。 re-venant.hatenablog.com

*6:以下の論の進みが見えづらいと思うが、メタレベルの制御を得るために行う自己批判のプロセスにおいて自己を表記することが自己を生み出すことなのだという話になっていく。

*7:根源的選択という考え方で行動しても自身の行為に責任を持ちえないということだろう。

*8:re-venant.hatenablog.com

*9:砂山のパラドックス - Wikipedia

*10:『解明される意識』第三部第13章参照。 re-venant.hatenablog.com

*11:

*12:「Anima Solaris」の『虐殺器官』著者インタビューに"だから、ピンカーの著書やデネットの「自由は進化する」はすでに読んでいましたが、このアイデアを思いついてから進化心理学に関する本をいくつか急いで読みました。マイケル・ガザニガの『脳のなかの倫理』はとりわけ刺激を受けました。"とある。http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第3章

[asin:B013VZO8Z8:detail]

この記事ではDennettの"Elbow Room"の第3章「制御と自己制御(Control and Self-Control)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

本文要約

3 制御と自己制御(Control and Self-Control)

1 私たちの制御を超えた環境のために("Due to Circumstances Beyond Our Control")

もし決定論が正しいなら、ラプラスが言ったようにある出来事がそれに続く出来事を現在と未来に至るまで決定していることになる*1

全てが私たちに制御できない過去によって決定されているなら人は現在の出来事を制御することができない。

私たちは自分自身と自身の運命を制御することを望むが、制御とは一体なんでありそれが因果関係や決定論とどのような関係を持つのかという問いが哲学者によってなされたことは少ない。

2 単純な制御と単純な自己制御(Simple Control and Simple Self-Control)

制御とは、そして何者かの制御下にあるとはどういうことなのか?

サイバネティクスオートマトン理論における制御の定義は「AがBを制御するというのは、AがBをAが望むBの正常な範囲内のどの状態にでも移行させることができることである」というものである。

この定義に従うなら制御されるものは様々に異なった状態でありうる必要があるし、制御するものはなにかしらの願望を持っていなければならない。

そして人は制御されるものの自由の度合い、すなわちそれができることの範囲内でのみ状態や活動を制御することができる。

例えばラジコンの飛行機を操作している時、それを制御できていてもまっすぐ上昇したりさせることはできない。

また同じラジコンのコントローラーを持って自分の動きを真似する人が現れてどちらが本当に制御しているのかわからなくなっても、あなたは真似をする人の動きを制御することで彼を通して飛行機を操作することができる。

このような他の行為者を経由した制御も我々にとっては十分信頼できるものだ。

そしてラジコンを完全に操作している時でもその飛行機の動きに影響を及ぼす全ての因果関係を制御している訳ではない。

そのような因果関係の中で、飛行機にかかる重力はそれを知っているので制御を妨げることはないが、予測できない突風は制御を乱すことがあり得る。

あらかじめ知っていることが制御を可能とするのだ。

人は環境を変えることはできないが、環境に適応することはできる。


何かを制御する時、人はそれと接触し続けなければならない。

例えば火星にある火星探査機を地球から状況に応じて適切に制御することは、指令が届くのが遅すぎるためにほぼ不可能である。

ゆえに探査機はもはや操り人形ではなく、自分自身を操作するロボットでなければならない。

彼らは操作するものに必要な願望のようなものと自身の環境についての知識を備える必要がある。

地球の人々は一般的な方針を送信したりや特定の方法で考えるように設計することができるため、ロボットは完全に制御を離れている訳ではない*2

以上で見てきたように、xがyを制御しているということから、何か他のzもxを制御することでyを制御していないことは帰結しない*3

これはxとyが同一である(xが自身を制御している)場合にも当てはまる。

つまり人は自身を制御するものを制御することができる。しかし私たちはこのようにして、自己を制御しながらも他者に制御されることを好まない。

3 行為者なしの制御と私たちの因果関係の概念(Agentless Control and Our Concept of Causation)

ある行為者が他の行為者を制御しようとすると、事態はより複雑になる。

外側にいる行為者が何かを制御するものを、その環境を操作することで制御することは可能である。

それならば、環境自体をある種の行為者と呼ぶこと、すなわち環境が制御を行うと言うことは可能なのだろうか?

スキナーが行動主義という見方の中心に据えたこの主題は環境が私たちに何かしらの行為をするように望んでいるのだという考え方を暗示する。

しかしスキナーの考えは、環境はもちろん人や有機体の中にさえも願望のような現象はないというものである。

それでも彼は単なる因果関係と制御を区別し、この制御を私たちが望むべきものだと考えた。

したがってスキナーはNASAの技術者は探査機が火星の環境によって適切に制御されるように設計すべきだというだろう。

しかし彼は適切に制御されていることと不適切に制御されていることの区別を重要視していない。

もし制御下にあることがいいことだとしても、それは正しい方法で制御されている時だけでなければならない。

それでは、何が正しい方法なのだろうか?

一つは真実に基づいた制御である。

真に慈悲深い世界は自身についてよく知らせてくれるだろう。

しかしながら世界は私たちにとって、正しく導いてくれる良いものでも騙して罠にかける悪いものでもない。

環境が私たちに何をすべきか教えてくれるよう設計されているのではなく、無関心な環境から私たちが何をすべきか読み取るよう設計されているのだ。

スキナーに賛同する者の制御の定義では「AがBを制御するというのはBにおける変化がAにおける変化を確かに反映するということである」となるだろう。

Aは行為者である必要はないし、Bは何らかの関心を抱く有機体でなくてもいい。

ゆえにBにおける変化がAにおける変化によって制御されていることが、Bである有機体にとって適切かどうかという疑問は生まれないだろう。

スキナーのこの概念は物理的な因果関係の別名でしかないように見えるが、実は制御と因果関係の中間であり決定論への恐怖を育てるものだ。

因果関係と制御の混乱の説明の一部分は一般的な科学的実践、特にそれに対する想像上の理解から得られる。

実験において実験者は様々な条件を制御し、特定の従属変項が非従属変項に関連付けられることで実験者の制御下に置かれる。

そこで幾つかの現象にパターンが観察され、何がそれを引き起こしたのかが問われる。

そして実験者の思い通りにそのパターンが生まれるならその因果関係は判明したものとなる。

そうするために予測できない外側の影響を排して実験環境をできるだけ斉一で単純なものにしなければならない。

「制御された条件」における成功は私たちが一般的に因果関係を考える時に影響を与える。

大部分が偶然の複雑な網目の中に消えていく因果関係を完全に知ることはできないが、それでもそれは因果関係であり続ける。

私たちが因果関係を考える時、私たちはいつも関係や行為者による制御が明白であるような場合を考える。

結局、私たちが因果関係と呼ぶものは知性的な活動によって抽出されたもので、それは認識論的に扱いやすく制御可能な特徴なのだ。

私たちに制御できない因果関係は「ランダム化」プロセスと呼ばれる。

ランダムなプロセスが制御できないものの典型と考えれれるために、これも因果関係から逃れられるわけではないということが忘れられがちである。

4 競合する行為者(Agents in Competition)

行為者でない環境は私たちを制御しないが、進化の時間の中で私たちの設計に大きく関わる。

「母なる自然」「悪い自然」という見方に対する標準的な解毒剤は、進化のプロセスは見通しと目標を欠くものであると思い出すことである。

もし飛行機のパイロットが前方にそこに入ると飛行機の制御を失う危険があるような雷雲があると知らされたなら、彼は飛行機の制御の余地を保ち増やすために迂回するだろう。

過失までの余地が少ないほどにパイロットが持つ自由は少なくなる。

パイロットは常に飛行機を制御しようとするだけでなく、制御の余地を増やすというメタレベルの制御計画や活動に従事してもいる。

これは私たちが常に求めるもの、すなわち多くの余裕(elbow room)の明白な事例だ。

私たちは制御を維持する機会が増えるように過失までの余地を求め、選択を開かれた状態にしておきたがる。


将来私たちの選択を制限するであろうものを評価する際に、競合する行為者がいるかいないかは大きな違いを生む。

なぜなら自分以外に情報を集めフィードバックを行う行為者がいると、その行為者によって活動を予測され、妨害されるかもしれないからだ。

もしAがBを制御しようとするなら、AはBの行動のパラメーターを確認するという認識論的な課題を解決しなければならない。

ゆえに競合する行為者間では、互いに自分の計画を隠し相手の計画を知ろうとする情報の競争が起こる。

そして行為者は敵対する行為者が優位に立つと生物学者がアナバチを制御するように自分を制御して不利益に導くのではないかと考える。

それが哲学上の「邪悪な脳外科手術」の直観ポンプにつながる。

しかしこれはなぜ演説者、教師や哲学者ではなく脳科学者でなければならないのだろうか。

脳科学者が直接脳を操作することと、哲学者などが間接的に操作することに違いがあるのだろうか?

私たちはこのような行為者に無意識的にではなく十分に承知の上で影響を受ける。

もちろん私たちはこのような仲介者を取り除きたいと望み、世界との直接の交流を持ちたいと考えるだろう。

なぜならそうすることで他の行為者のバイアスを受けずに情報を得ることができるからだ。

しかし、例えばスーパーで商品を選ぶ際に私たちは色やたなにおける位置などによって決断を制御されている。

ゆえに重要で関係のある特徴から影響を受けない「根本的な自由」を望むことはできない。

しかし私たちの心を読む悪賢い広告から自身を守りたいなら、制御を失う状況に陥らないためのメタレベルの計画を持つ必要がある。

従ってメタレベルの制御についての思考によって、私たちは競合する者によって完全に理解され予測される危険のある戦略を避けることを望むのである。

5 無秩序の使用(The Uses of Disorder)

私たちは他人に自分の心を読まれたくないというメタレベルの欲求を持つが、そのためには自分の活動にパターンを作り出してはならない。

それが可能となる唯一の方法は活動をランダムなものとすることだ。

ある系列が数学的、情報理論的な意味でランダムと言われるのは、それが情報的に圧縮できない場合である。

またほとんどのコンピューターに備わる乱数発生プログラムによって生成される擬似ランダム数列がある。

これらは因果的に決定されていないわけではないだけでなく、情報的に圧縮できないこともない。

しかし「外側」から本当にランダムな数列と区別することはほとんど不可能である。

この完全な探索不可能性は自由意志と可能性の本性に深く関わっている。

この点に関しては第6章で扱うが、ここではそれが私たちの制御と自己制御において果たす役割を示したい。

私たちはすでにゲームの中で対戦相手に制御されないためにパターンを作らないことの戦略上の価値を見てきた。

それに加えて、ゲームには自然を相手にしたものもある。

たとえば何かの標本をとって調査するとき、対象群の中からランダムに標本をとらなければならない。

それはあなたが世界の中に求めるパターンと用いる標本のパターンが偶然にも一致してしまう危険性を最小化するためである。

体系的でパターン化された調査は現象におけるあらゆるパターンに対して盲目である必要があるのだ。

ランダム化するという知恵は設計されたシステムの世界に適用可能だが、コイントスによって「偶然」を呼び出すというもう一つの慣れ親しんだ技術も同様に適用可能である。

選択を偶然に任せることによって面倒な意思決定を解決することができる。

それは効果的かつスピーディに意思決定を行うという関心の下で低次の合理性(行為の正しい理由を見つけること)の一部を捨てるという高次の合理性(長く考え込みすぎてチャンスを逃すリスクを回避すること)なのだ。

6 「好きにすればいい」("Let Yourself Go")

理性的思考において時間制限の中で行為や決定を行うという必要を計算に入れると、私たちは理性的思考についての伝統的な合理主義者が持つのと全く違うモデルを得た。

例えばある程度の気まぐれさや情報への不感性は時間制限のある合理性の重要な特徴なのだ。

それがなければ行為を決意することを決意することを決意する…というような無限退行から脱することができない。

もし理性の指導のみに従って行為するなら、真実と正しい行為を行うことへの導管だけがあって私たちは個性を奪われてしまうだろう。

理性の指導のみに従うという誤った合理性のモデルが正しいなら、例えばチェスにおいて私たちは常に同じゲームを行うだろう。

しかしながらチェスの手の選択肢全てを計算して最良のゲームを行うことは不可能である。

そこで有限な知性にとってもっとも合理的なやり方は、時間を節約するために幾つかの恣意的な方法で分析を終える決定の発見学習プロセスだ。


このような制約下でもっとも理性的なやり方は常に同じゲームを行わないことである。

このことは以下の幾つかの理由から正しい。

まず、常に同じゲームを行おうとする戦略はパターンを作り敵対者に付け入る隙を与える。

次に、ゲーム中の意思決定をランダム化することで「遺伝的多様性」が生まれ、そこから新しくより効果的な戦略が発見される可能性がある。

最後にこのような奔放な戦略は行為者がそのようなものを好むように設計されているというだけの理由で好まれるかもしれない。

さらにチェスには人生のゲームにおいても問題となる特徴がまだある。

チェスにおいては時に駒の動きがルールによって強制されるし、ルール上複数の手が可能でも自殺的でない手が一つしかない場合がある。

この手はルールや物理法則に強制されているのではなく、理性の指導に強制されている。

時に自然は私たちの生存欲求がある特定の行為を目指すように強要する。

私たちはこのような状況を恐れ、全てを考える時間がないほどではないがより多くの選択肢を自発的に探索できる状況を好む。

また自発性への嗜好は遺伝的に促進され私たちの性格の一部に強く結びついているが、理性に指導されたものでもある。

ゆえに自発性と理性的思考の対立は幻想である。

理性が指導する方針には「好きにすればいい」というものがかなりの量含まれている。

この章で見てきた慣れ親しんだ見方と対照的に、決定論は「制御を侵食」することはない。

決定論的な機器は自身を制御することができるだけでなく、自身を制御する者たちが彼らを制御しようとする試みを逃れることもできる。

もし私たちも決定論的な機器*4だとしても、自身や運命を制御できないと恐れる必要はない。

さらに、過去が私たちを制御するということもない。

過去はNASAが宇宙船を制御できないのと同じように私たちを制御することはできない。

それは過去と現在に因果的なつながりがないということではなく、因果的なつながりでは制御には不十分だということだ。

制御のためには制御者に情報を伝えるフィードバックがなければならないが、現在から過去へのフィードバック信号は存在しない。

さらに過去には私たちの特定の行為を予測するものが何もない。

私たちは先祖や遺伝的な過去の制御下にあるというより、それらの遺産が私たちを自己制御者として誂えたのだ。

この章の制御という概念の調査によって私たちがどのようにありたいのかという理想が描き出された。

その理想とは、可能な限り他者の操作を受けないこと、そして余裕(選択までのマージン)をより多く持てるように可能な限り未来の出来事の先触れに敏感であることだ。

このことは私たちは世界が多様性に満ち、持続性と喜びに満ちていること、しかしさらにこの文脈で重要なことだが、私たちの選択肢を制限するほどに過酷に要求しないことを望んでいるということを示唆している。

コメント

第3章では「制御(control)」という概念の分析が行われた。

私たちは制御と因果関係を混同して決定論的世界観において自身の制御が奪われると恐怖している。

しかしこの章で示されたように制御と因果関係は別物なので、因果関係が決定しているからといって制御ができないわけではない。

遺伝子やミームが私たちの行為を因果的に決定づけているとしても、私たちは自分の行動を制御することができるのである。

そしてその制御を行うのが第2章で出てきた「擬似意味論機関」であり、そこにおいて理性というプロパティが(振る舞い上)存在している。

この章で面白かったのが制御するためのマージンを確保するという「メタレベル」での戦略の存在だった。

このマージン(デネットの言い方では"Elbow Room")が適応的であるがゆえに、理性も私たちに自律すること("Let Yourself Go")を指導する。


疑問点としては3節におけるスキナーの理論の批判がどういう結論に至ったのかがよくわからなかった。

おそらくデネットはスキナーが言うように環境に制御されることが一概にいいことだとは言えない点、またスキナーがデネットの定義からすると制御と因果関係を混同しているという点を問題視しているのだろう。

また4節で再び持ち出された脳科学者の例がどう解決したのかも明記されていないように思えたが、自分なりに答えを考えるなら次のようになると思う。

すなわち脳科学者も被験者の脳をいじって制御するためには被験者の行為を予測できなければならない。

しかし私たちは他者に予測されることを回避するというメタレベルの戦略のために意思決定の一部をランダムに行っている。

ゆえに脳科学者は対象の行動を予測して制御下に置くことはできず、「邪悪な脳外科手術」の直観ポンプは退けられるとデネットは言いたいのだろう。


以降の章については次の記事。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:ラプラスの悪魔 - Wikipedia

*2:この例はおそらく遺伝子(地球の人々)と私たちの意識(火星探査ロボット)の関係を示しているのだろう。

*3:直訳したので分かりづらいが、zがxを通じてyを間接的に制御することが可能だということ。またxがyを制御しているからといってzに制御されていないとは限らないということだろう。

*4:生物が遺伝子の生存機械であるというような見方を意識しているのだろうか。