ハイデガー『存在と時間』(三)①


熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事一つ目。

この記事では第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第四十五節 現存在の予備的な基礎分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的解釈の課題

第一篇において「気づかい」として現存在を特徴付けたが、それは根源的な解釈なのだろうか。

存在論的探究もまたひとつの「解釈」であり、その解釈とは理解された有意義性の全体を個々の存在者へと分節化することであった。

さらにそのような解釈が個々の存在者の全体を適切に分節化しているか確認されなければならない。*1


これまでの現存在の解釈は日常性から出発するものであったから、それは「本来性」を問う根源性が欠けていた。

また現存在の全体は「気づかい」として見て取られたけれど、日常的な現存在は「誕生と死」の間にある存在である。

そして「存在可能」として存在している限り、現存在はまだ現実的な何者でもない。

ゆえに現存在を全体的に解釈すること(個々の存在者として分節化すること)は失敗する運命にあるのではないか。


以上のことからわかるのは、ここまでの現存在の解釈は根源的なものではなかったということだ。

それを根源的にするために、現存在の存在の本来性と全体性に光をあてなければならない。

このようにして現存在の全体を解釈の「あらかじめ持つこと」において捉えなければならないことになるが、このことは現存在の存在可能の全体を問うことを意味する。

存在可能としての現存在は常に可能性として存在しているが、しかしその可能性には「死」というおわりが属している。

このおわりによって現存在の全体性は境界付けられているため、現存在の全体を解釈するために「死」を実存論的に究明する必要がある。

また現存在が「本来的」に存在していることの基準がなければならないが、それを明らかにするのは「良心」である。

さらに現存在の存在根拠は「時間性」である。

この時間性から現存在が「歴史的」であること、また気づかいが時間を計算に入れなければならないことが示される。

また「時間」の根源である「時間内部性」を解明することで明らかになる「時間化可能性」によって「時間化」に対する了解が準備される。

この時間化に現存在の「存在了解」が基づいているのである。

第一章 現存在の可能な全体的存在と、死へと関わる存在

第四十六節 現存在に適合的な全体的な存在を存在論的に把握し、規定することの見かけ上の不可能性

現存在は全体的に解釈されうるものなのだろうか。

気づかいには「自分に先立って」という契機を持っているため、現存在は常に存在可能として、すなわち「可能性」として存在している。

だから現存在は「未完結」であり、存在可能に対して「未済」なのである。

現存在の「未済」が失われたとき可能存在としての現存在はもはや存在していない。

だから現存在の全体を経験することは不可能である。

そうであるならば現存在の全体を解釈しようという試みは不可能ということになるのではないか。

ここで疑問となるのは、ここまでの論証で「先立って」ということが実存論的な意味で捉えられていたかということだ。

「おわり」や「死」を改めて実存論的に分析しなければならないだろう。

第四十七節 他者たちの死の経験可能性と、全体的な現存在の把握可能性

現存在は他者との共同存在だから、他者たちの死は一見客観的に接近可能なもののように見える。

しかし他者たちが死んで世界に存在しないことは、それも一つの存在の仕方なのである。

他者は死によって現存在から目の前にあるものに「反転(Umschlag)」する。

それでも死者は葬式などにおいて配慮的な気づかいの対象であるから、死者が立ち去った世界の側では故人とともに存在することができる。

私たちは他者の死を経験することはできず、ただその場に居合わせることができるに過ぎない。

そこでは死の存在論的な意味は解明されないのである。

まずもって現存在の死について他者の死を主題にするという考えは、現存在は他者と代替可能であるという前提に基づいている。

確かに共同相互存在の配慮的気づかいは代替可能である。*2

またこの代替可能性は世界に共に没入していること、現存在同士が相互に頽落していることに基づいている。

しかしこの代替可能性は現存在の全体を問題とした時には成り立たない。

だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。(Keiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen)*3

誰かが代わりに犠牲になることはあり得るが、それは気づかいの「何かについて」犠牲になるというだけのことであり、他者の死を免除することにならない。

だから死はそれぞれの現存在に固有のものであり、そこでは現存在に固有の存在(実存)が問題となっている。

ゆえに死は実存論的に分析されなければならない現象なのだ。

現存在の死は生きているものが世界から立ち去ること(「生きおわること」)とは区別される。

この区別を明確にし、また「全体性」や「おわり」という現象を規定しなければならない。

第四十八節 未済、おわり、および全体性

本節で見るように「おわり」「全体性」についてのさしあたり得られる概念は現存在を存在論的に特徴づけるものとしては不適切である。

現存在がおわりに到達することの意味は現存在そのものから取り出され、また「おわり」が現存在の全体的存在をどのように構成するのかが示されなければならない。

ここまでで「死」についてわかったことは以下の三つである。

  1. 現存在には常に「なお〜ない(Noch-nicht)」、つまり「未済」が属している。*4
  2. その未済が除去されたとき、もはや現存在は存在しない。
  3. おわりに到達することは他の現存在によって代替不可能である。

さて、現存在が「なお〜ない」ということは「未済」と理解していいものなのだろうか。

未済というのはあるものが「属している」が欠落している状態のことである。

例えば貸金が返ってきていないとき、未済の金は貸した人に属しているがまだ手に入ってはいない。

ゆえに未済の金は「手もとにないもの」であり、それ対してすでに返ってきている金は「手もとにあるもの」として存在している。

このような欠落によっては手もとにあるものとしては存在しない現存在の「なお〜ない」を規定することはできない。

現存在の「なお〜ない」が補充されることによって現存在が完成するのではない。

それどころか現存在は常に「なお〜ない」が属するしかたで存在しているのだ。

他にも月が欠けているとき「なお〜ない」と語られるかもしれない。

その場合月は初めから全体として目の前にあり、ただ欠けている部分が認識されないというだけである。

しかし現存在の「なお〜ない」は認識不可能であるだけでなくまだ存在していない。

それならば「ない〜ない」とは生成変化ということを意味するのだろうか。

生成変化するものとして例えば未熟な果実が挙げられる。

成熟へと「みずからをもたらす」ことによって未熟な果実は特徴付けられる。

しかし成熟と現存在の死は異なったものである。

なぜなら、果実は成熟において自分を完成されるが、完成した現存在が死ぬというわけではないからだ。

さて、それでは死はどのような意味で現存在の「おわり」として理解されなければならないのだろうか。

さしあたり「おわること」は止むことや仕上がることを意味するが、それらは手もとにあるものや目の前にあるものの規定である。

ゆえにそのような意味の「おわり」が現存在に妥当することはない。

現存在が常に自分の「なお〜ない」であるのと同様に、現存在は常に自分の「おわり」なのである。

おわることとしての死は現存在がおわりに達することではなくて、おわりに関わっていることを示している。

死は現存在が誕生した時から常に伴っている存在可能、存在する様式なのだ。

このことが実存論的に解明されなければならず、またそれによって「なお〜ない」という存在可能が理解できるようになるだろう。

そして死によって構成される現存在の全体性について語ることの意味も明らかにされるはずである。

死とおわりを実存論的に分析するならそれは現存在の根本体制である「気づかい」を手引きとして行われるだろう。

第四十九節 死の実存論的分析を、当の現象について他に可能な解釈に対して境界づけること

死についての存在論的な解釈はなにを問うことができず、またそこからなにを得ることができないかを明らかにしておかなければならない。

死を生命現象として見る生物学的—生理学的な研究の根底には死についての存在論的な問題系がある。

現存在は単に「生きおわる」わけではないが、生命としての死を持ってもいる。

この中間現象を「生をはなれること」と呼ぶことにしよう。

それに対して「死ぬこと」は現存在が死に関わり続けている存在様式である。

「死ぬこと」がある限りで現存在は生をはなれることができる。

同様に死の実存論的な解釈は死についての伝記的—歴史的研究や民俗学的—心理学的探究を基礎づけている。

また死後の世界などの「彼岸」について問われうるのは、「此岸」すなわち現存在の中に立ち現れてくる死という現象が把握された時である。

他に「死どのようにして現れたのか」、「死はどのような意味を持っているのか」というような「死の形而上学」も実存論的分析の外にある。

第五十節 死の実存論的—存在論的構造をあらかじめ素描すること

死という現象は現存在の根本体制に基づいて解釈することが必要であるとわかったが、その根本体制とは「気づかい」である。

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

この三つの契機はそれぞれ頽落、実存、事実性と言い換えられる。

これらが死という現象に即してどのように提示されてくるかを明らかにしなければならない。

おわりは「未済」ということではなく、現存在は常におわりに関わって存在している。

だからおわりは現存在に「さし迫っている(Bevorstand)」。

しかし目の前にあるものも世界内存在にさし迫ることができるので、さし迫ることだけで死を特徴づけることはできない。

一方、他者と対決することといった共同存在に基づいた存在可能も現存在にさし迫ることができる。

死は自らの最も固有な存在可能として現存在にさし迫っている。

そして死はもはや存在できないという存在可能であり、死において現存在は他者への全ての連関を断ち切られている。

このようにして死は際立って特徴付けられた「さし迫っていること」なのである。

このことが可能なのは現存在が〈じぶんに先だって〉開示されていることに基づいている。*6

そして現存在は常に死という可能性に投げ込まれている。

この事態はまた「不安」という情態性において露呈されている。*7

多くの人は死について無知でいるが、それは現存在が死という存在可能から逃避していることを示している。

気づかわれた世界に頽落していることが、ここでは死、そして死への不安からの逃避として提示されたことになる。

以上から〈のもとでの存在〉〈じぶんに先だって〉〈内ですでに存在していること〉という気づかいの契機が死の実存論的概念を構成していることが明らかとなった。

死が現存在の全体を分節化するものであるなら、それと関連する気づかいは現存在の構造全体の全体性を表現する名称となるだろう。

しかしこの死と気づかいの連関は、さらに現存在の日常性に即して正当化されるべきである。

第五十一節 死へとかかわる存在と、現存在の日常性

日常性において現存在は「ひと」として頽落していて、そのあり方は「空談」によって特徴付けられている。

その空談のなかにある情態的な理解によって、死へと関わる存在がどのように開示されているかが問題となる。

「ひと」において「死」は他者の「死亡事例」として語られ、それは自分には関係ないことだと捉えられる。

「ひと」の死は誰でもない者の死なのである。

空談に属するあいまいさによって「死」についての語りはあいまいなものとなる。

すなわち、死が現実的な事例であると語られることで死が可能性であること、そしてそこにおいて現存在は関連を欠きそれ以上存在できないという死の性格が覆い隠される。

このような逃避にあって、人は死にゆく者に死を免れて配慮的気づかいの日常に帰れるという慰めの言葉をかける。

これは関連を欠いた存在可能である「死」を覆い隠すことなのだ。

この隠蔽は死にゆく者にとっても周りの現存在にとっても慰めである。

また「ひと」の公共性は「生をはなれること」によってかき乱されてはならないから、他者の死に「社交的な不愉快さ」が見出される。

「ひと」は現存在が「死」に対してどのように関わるべきかということも規定している。*8

「ひと」は死への「不安」を到来しつつある出来事についての「恐れ」に転倒させてしまう。

「恐れ」となった死への「不安」は弱さであり、それに無関心でなければならないとされてしまう。*9

このことによって現存在は「死」から疎外されてしまう。

しかし、頽落して死から逃避することで現存在は「ひと」そのものが死へと関わる存在であることを開示してしまう。

つまり現存在にとっては「ひと」という日常的なあり方においても、死に対して無関心という形で気づかうことで死が問題となっている。

この死から逃避している日常的な現存在を解釈することで「おわりへとかかわる存在」が完全に実存論的に分析されるだろう。

第五十二節 おわりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念

前節とは反対に、おわりにかかわる日常的な存在から死の完全な実存論的な概念が獲得されなければならない。

日常性において、「死なない人間はいない」という形で「ひと」は死の確実性を認めている。

しかしその死は現存在固有の存在可能としては認識されていない。

だから日常性においては死の確実性は曖昧に承認されるにとどまり、「死のうちへの被投性」は軽減されることになる。

本来的な「死の確実性」はどのようなものなのだろうか。

ある存在者に確実性を認めることは、その存在者を真なるものとして保存することである。

すなわち、確実性は覆いをとって発見することである真理に属している。

真理が根源的には現存在の開示性であったように、確実性も「確実であるとする」という現存在の存在の仕方である。

そしてそこから導出された意義によって存在者が確実であると言われることになる。

この確実性の一様態として「確信」がある。

確信において現存在は覆いをとって発見された現象そのものに基づいてのみ、その事象と関わる存在となる。

真なるものとして保存することが、真理のうちで存在すること(真理内存在)となるのは、そのような現象に関わり、またそれに適合したものとして自分を見通している場合のみである。

この真なるものとして保存することが十分であるかどうかは、開示される存在者の存在の仕方や開示に方向によって正当化される「真理要求」によって測られる。

なぜなら、存在者やその開示の方向の差異に応じて真理であるあり方や確実性も変化するからである。

当面の考察は死の確実性についてのものだが、この考察によって現存在の際立って特徴付けられた確実性が示されることになる。

現存在が日常性に置いて死を覆い隠していることは、現存在が非真理のうちで存在している(非真理内存在)を確証している。

ゆえにこの隠蔽に帰属する確実性は、適切でない形で真理を保存することであるはずだ。

「ひと」は死を出会われる出来事だと見ているから、そこにおける確実性では死へと関わる存在が隠蔽されたままである。

だから「ひと」が死は確実だと語るとき、個々の現存在が死を自身の存在可能としてそのつど確実だと認識しなければならないことが見過ごされている。

日常的な「ひと」による確実性の根拠はどこにあるのだろうか。

それは「ひと」が他者の死を常に経験し続けていることである。

この場合死に帰属させうるのは経験的な確実性、つまり蓋然性だ。

しかしこのことによっては死の確実性について何の決定も下されていない。

だが「ひと」が死の経験的な確実性についてしか語らないとしても、現存在はそれとは別の仕方で死を確実なものとしている。

頽落した現存在は死の本来的な確実性を見知っていながら、それでも死を確実なものとすることを回避している。

そしてこの回避によってその対象として死が「確実な可能性として把握されなければならない」ということが明らかになるのである。

人は「死は確実だが、当分まだやってこない」と言うが、それは「ひと」の自己解釈でありそれによって配慮的気づかいが可能なものへと自分を指示している。*10

配慮的に気づかうものに頽落することで現存在は死という存在可能を忘れているのだ。

こうして〈ひと〉は死の確実性の特有なことがら、つまり死はあらゆる瞬間に可能であることを覆い隠してしまう。*11

また死の確実性には死がいつ訪れるのか決まっていないことが属している。

このことをまた「ひと」は直近の気づかいの対象の背後に覆い隠してしまう。

以上から死の確実であるが規定されていない、つまりどの瞬間でも可能であるという性格が「ひと」によって隠蔽されることがわかった。

そしてこの考察で死の実存論的概念は以下のようなものであることがわかった。

すなわち、現存在のおわりとしての死とは、現存在が有する、もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性である。死は現存在のおわりとして、おわりへとかかわる現存在という存在者の存在のうちで存在しているのである。*12

この死の概念は現存在の全体性を解釈するために役立つ。

日常的な現存在も常に死にかかわって存在しているから、死は現存在が生を離れる際に達成されるものではない。

気づかいの「なお〜ない」という「自分に先立っていること」から、現存在を全体として解釈することができないということは帰結しない。

むしろこの「自分に先立って」こそがおわりへとかかわる現存在を可能とするのだ。

すなわち現存在の全体を問題として取り上げることができるのは、その根本体制である気づかいが死と「連関する」場合のみなのである。

しかしこの問題はまだ完全に仕上げられているわけではない。

死から頽落して回避することは死に関わる非本来的な存在であるが、現存在は常にその非本来的なあり方をしていなければならないわけではない。

現存在は実存しているからこそ、自分が理解しまたそれ自身であるところの可能性から自身を規定している。

しかし現存在はこの節で特徴付けられたような死を理解しうるのだろうか。

すなわち、死へとかかわる本来的なあり方を獲得できるのだろうか。

この本来的なあり方が存在論的に規定されない限り、死の実存論的な分析は不完全である。

死へとかかわる本来的なあり方もまた存在可能であるが、この可能性の実存論的な条件、またそれがどのようにして接近可能であるかを問わなければならない。

第五十三節 死へとかかわる本来的な存在の実存論的投企

死へとかかわる本来的なあり方へと投企することは本当に可能なのだろうか。

現存在はこの本来的なあり方の存在論的な可能性を客観的に特徴付けてくれるのだろうか。

死の実存論的概念が解明されることで死へとかかわるあり方が関係すべきものが明らかになり、また非本来的なあり方が解明されることで本来的なあり方がそうでないはずのものが明らかにされた。*13

そこから死へとかかわる本来的な存在が実存論的に構築されなければならない。

現存在は開示性、すなわち情態的な理解によって構成されているから、死へとかかわる本来的な存在においては死を前にして回避したり、隠蔽したり、転釈することはできない。

死へとかかわる本来的な存在への投企によってその存在を構成するこれらの契機が取り出されなければならない。

まず問題となるのは、死へとかかわる存在を「ひとつの可能性へとかかわる存在」として特徴づけることだ。


手もとにあるものや目の前にあるものの可能性を現実化するあり方は何かを探して外にいることを意味する。

しかし現実化されたものも適所性を持っていて〜のために可能的なものであるから、その区分は相対的である。

この何かを探して外にいることは可能的なものから「目くばり」によって「何のために可能的か」ということに目を移していることなのだ。

それは死へとかかわる存在ではありえない。

なぜなら死は手もとにあるものや目の前にあるものではないし、死を現実化すれば現存在は存在できなくなってしまうからだ。

死へとかかわる存在がそれを現実化することではないのなら、それは「死のことを考えること」なのだろうか。

しかしそこにおいては死の可能性は最小にすべきだと考えられて、可能性という死の性格が弱められてしまう。

死へとかかわる存在において死をそのままに開示しなければならないとしたら、それも不適当だろう。

可能的なものを可能性として扱うあり方は「期待」である。

しかし期待は可能性の現実化を待ち受けていることであり、結局は現実的なものが期待されている。

一方死へとかかわる存在は死を可能性として開示しなければならない。

そのように可能性へとかかわる存在を「可能性へと先駆すること(Vorlaufen in die Möglichkeit)」と呼ぶことにする。

先駆することによる接近は可能性を配慮的に気づかいながら現実化することではなく、むしろ可能性を「より大きく」する。

可能性としての死へとかかわる存在の示すもっとも身近な近さは、現実的なものから可能な限り遠いのだ。*14

死という可能性に先駆することでその可能性が大きくなるとは、死がどのような尺度も持たない現存在の不可能性という可能性として開示されることを意味する。

死へとかかわる存在は先駆することとしての現存在が「有する」存在可能への先駆である。

このように先駆することで現存在は自分自身に対して自分を開示する。

その時もっとも固有で極端な存在可能を理解すること、すなわち本来的に実存することが可能となる。

この本来的実存の構造は、死への先駆の具体的構造をその諸性格を規定することによって特徴づけることで見て取られるだろう。

なぜなら「先駆しながら開示すること」が純粋に理解されるのは死という存在可能によってだからだ。

注意すべきことは、理解は投企によって開示される存在可能において自分を理解することだということだ。

死は最も固有な存在可能でありそこで現存在は「ひと」から引き離されることが可能である。

同時に死は関連を欠いているから、現存在は頽落することなくそれを「自分の側から」引き受けなければならない。

すなわち、死において現存在は「単独化」される。

同時にこれは「現」を開示するひとつの様式なのだ。

しかしこの時気づかいが現存在から切り離されているわけではない。

現存在が本来的に存在するのは、気づかいとして死に投企しながら「ひと」の可能性には投企しないときなのである。

先駆は追い越すことのできない死にむかって自分を明け渡す。

死に向かって先駆しながら自由になることで偶然的に迫ってくる可能性から解放され、死の手前に広がっている可能性が理解され、選択される。

死への先駆によって「自己放棄」が開示されて、そのつど到達された実存に固執することを防ぐ。

おわりによって規定される有限的なものとして理解された可能性に自由に開かれている現存在は、他人の可能性を自分のものと混同したり、それによってもっとも固有な実存を捨ててしまう危険性を回避している。

また死への先駆によって有限的となることで、全体的な現存在を先取りする、すなわち「全体的存在可能」として存在する可能性が開かれる。

現存在が死を確実な可能性として開示するのは、先駆によって死が開示され可能となることによる。

だから開示されたものを確実にすることのためには先駆することが必要である。

そしてその確実性は目の前にあるものの確実性とは全く異なり、またより根源的なものなのだ。

なぜなら先駆することによって初めて現存在は自分の固有な可能性を自分の全体性において確信できるからである。

死は未規定的だが先駆はこの性格をどのように開示するのだろうか。

未規定的な死に先駆することにおいて現存在は常に脅かされている。

この脅かしを開示する情態的な理解とは「不安」なのである。*15

すなわち未規定的な死を前にして現存在は不安という情態にありそれを理解している。

このことから先駆によって現存在の全体を開示することには不安という情態が属していることがわかる。*16

以上から死へとかかわる本来的な存在は以下のような特徴を持っていることがわかる。

先駆することで「ひと」から解放された個別の現存在としてありうる可能性の前に置かれ、またこの個別の現存在とは不安にとらわれている死へとかかわる自由を持つ存在なのだ。

このような死へとかかわる本来的な存在は実存論的には可能だが、それが現存在そのものから証明されていない限り一個の空想的なものにとどまる。

現存在はこの本来的な存在可能を自分の固有な存在の根拠から要求するものなのだろうか。

この問いに答えるため、現存在が実存の可能な本来性について自身の本来的な存在可能から証拠を与えているのか、またそれを要求しているのかを解明しなければならない。

これまではたんにその存在論的可能性において投企されてきたにすぎない死への先駆は、はたして、あかしを与えられた本来的な存在可能と、その本質からする連関のうちに置かれるのだろうか。*17

コメント

存在と時間』の読解も第三分冊に入った。

この第二篇第一章で問題となるのは「死」である。

そもそもなぜ死が問題となるのかというと、その死をもって初めて現存在が一つの個別として完結するからである。

「魂」や「思惟」という実体から現存在の考察を始めないことによって、まずさしあたって存在するのは無差別的に溶け合った世界ということになる。

だからその世界から個別の現存在を切り出すという課題が生じるのである。

個別のものを切り出すというのは第一篇において「解釈」や「語り」として分析された現象である。

ゆえにまず「解釈」という概念からこの第三分冊はスタートすることになる。


第一章ではこの「死」について、その性格やそれと現存在の関わり方が考察された。

概ねすんなりと読めたが、第五十三章での「死」と「自由」の関わりがうまく飲み込めなかった印象がある。

死への先駆によって自由が得られるというというということが記述されているが、それは具体的にどういうことなのだろうか。

そもそも問題なのが、ハイデガーが「自由」という概念をどのように捉えているのかがここでは明瞭でないというところだ。

「選択」という言葉は登場するのでとりあえずは選択の自由をもっていることだと解釈してみよう。

それならば、現存在は可能存在として複数の可能性を持っていて(可能性として存在していて)そこから選択することが可能となるのだろうか。

しかし死によってそれが可能となるというのがよくわからない。

他に「ひと」の支配を受けないことが自由なのだと解釈することもできそうである。

その場合死によって現存在が「ひと」に頽落することができなくなって単独化することと繋がるだろう。

「ひと」は現存在のあるべきあり方をすでに決定しているから、そこから解放されることは「〜すべき」からの自由を意味することができそうである。

なんにせよ記述が少なくここだけでの読解は難しそうなので、のちに自由について記述があるならそこを参照しながら考えたい。


疑問点以外に面白かったのは現存在が常に死の可能性「であり」、それを隠蔽して生きているというところだ。

考えてみれば私たちが次の瞬間も生きているという保証はどこにもない。

しかしそれを考え続けて生きることは本当に可能なのだろうか。

そういった点が「死へとかかわる本来的な存在」が可能なのかどうかという問題意識になったのだろうと思う。

ここについてのハイデガーの記述もまた抽象的なので、これを具体的な生活に即して考えてみる必要があるだろう。

*1:分節化とは初めと終わりを境界づけることだが、誤った範囲での境界付けもありうる。

*2:例えば道具を他者の代わりに使うなどのことができる。

*3:1.2.1.47.713 p92

*4:「なお〜ない」は現存在が可能存在として存在していることだろう。

*5:1.2.1.50.745 p131

*6:死への先駆による開示(第五十三節の内容)を意識しているのだろう。

*7:有意義性を見失う情態が「不安」であるという解釈に沿うだろう。死においてあらゆる有意義性は存在しない。

*8:この辺りの話で思うのだが、おそらく倫理や道徳についてこの「ひと」が規定しているという形でハイデガーは考えているのだろう。

*9:恐れには、何かを脅かすものとして適所性がある。しかし不安には一切の適所性がない。

*10:死はまだやってこないのだから何か(気づかい)をしていようということ。

*11:1.2.1.52.711 p168

*12:1.2.1.52.773 p170

*13:前々節、前節の内容

*14:1.2.1.53.785 p186

*15:情態的な理解≒被投的な投企。

*16:第五十一節の内容を参照。

*17:1.2.1.53.796 p207

ハイデガー『存在と時間』(二)④


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事四つ目。

この記事では第一篇第六章後半(第四十三節〜第四十四節c)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com




また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第六章 現存在の存在としての気づかい

第四十三節 現存在、世界性、および実在性

存在の意味を問うことができるのは存在了解があるからであり、現存在の存在体制に存在了解が含まれているから、現存在の解明に成功するほどに基礎存在論的な問いは目標へと近づいていく。

現存在の開示性の中で世界内部的な存在者が発見されているから、現存在の存在了解は全ての存在者を包括しているが、それは様々な存在様態に即して分節化されているわけではない。

理解においても現存在は頽落して世界の側で存在しているから、存在了解は基本的に世界内部的な存在者の方に向かっている。

そしてその際に手もとにあるものは飛び越えられて目の前にある「事物の連関」として捉えられ、存在していることは「実体であること」と考えられる。

そこで現存在も同じように目の前にある「もの」として考えられて、こうして一般的に存在するということが「ものであること(Realität)」という意味を帯びることになる。

こうして存在論的探求において「実在性(Realität)」が主要な問題となってくるのだ。

この実在性の優位は現存在の正しい構造や手もとにあるものの分析を妨げてしまい、最後には存在論そのものの方向を逸らせてしまう。

だから存在への問いを正しく行う際には実在性への方向づけを脱しなければならない。

そのためには実在性が現存在、世界、手もとにあるあり方によって基礎づけられていること、そして実在性についての問題の「条件と限界」を示さなければならない。

「実在性の問い」は以下の四つが入り混じっている。

1「意識を超越している」と思いなされている存在者はそもそも存在しているのか、2「外界」のこうした実在性ははたして十分に証明されうるのか、3この存在者は、それが実在的であるなら、どこまでその自体存在において認識されうるのか、4この存在者の意味すなわち実在性とは、そもそも何を意味しているのか、がそれである。*1

実在性をめぐる探求では

a「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性、b存在論的問題としての実在性、c実在性と気づかい*2

が論じられる。

a 「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性

「実在性」への問いはまず第一に「実在性とは何を意味するのか」というものだが、それは外界の実在という問題と結びついている。

そして外界の実在性の分析は「直感的な認識作用」すなわち意識という通路に基づいている。

実在するものはこの意識に依存しないことが可能なのかどうか、反対にそれが超えていく意識とはどのようなものなのかが解明されなければならない。

この認識作用はここまでで見てきた通り気づかいという体制を備えた世界内存在に基底付けられている。

ゆえに実在的なものは世界内部的な存在者としてのみ接近可能なのだ。

外界が存在するかどうか、その存在が証明されるかどうかという問いは、世界内存在としての現存在を考えるなら無意味である。

なぜなら世界は現存在の存在と共に常に開示されているからである。

人々はそれを無視して外界の実在性への問いを設定しようとしている。

カントのいう「哲学の醜聞」は私たちの外側にある存在に対する証明が今までなされていないことではなく、そのような証明が要求されるということにある。

このような要求は現存在についての把握が不十分であることから生じている。

それなら外界は信念において想定されるべきであると考えても、この問題の転倒は解消されない。

なぜならその場合でも外界の実在に対する証明の要求は依然として存在しているからである。

また人は外界の存在を無意識的に前提としているという主張についても、世界内存在ではなく孤立化された主観という出発点が設定されていると言えるだろう。

現存在についてのあらゆる前提よりも「気づかい」という存在様態が先立っている。

以上から、提示されるべきことは現存在がなぜ外界を一旦見えなくして、その上で証明によって示そうとするのかということである。

その理由は「頽落」と、それに動機付けられて存在了解が目の前にあることとしての存在に向け変えられていることにある。


世界内存在とともに世界が開示されているという言明は、外界が実在しているという「実在論」と一致しているように見えるかもしれない。

しかし実在論は世界の実在について証明が必要でありまた可能であると捉えるという点が異なっている。

それに対して観念論は、存在や実在性は意識の内でのみ可能であると主張するならある点で優位を持っている。

その優位とは存在は存在者によっては説明されえないという了解である。

ただ観念論では現存在の存在了解やそれが存在体制に属していることが解明されないので、存在への適正な問題設定とはなりえない。

そのような解明を行う実存論的な分析においても、「意識の存在の分析」は不可避的な課題である。

存在は現存在によって理解可能である、すなわち意識の内にあるから、現存在は実在性という存在性格を理解できる。

そしてこのことによって非依存的な「実体」も「目くばり」において接近可能となるのである。

主観と客観の二項対立によって実在性の問題を考えることも可能だが、第一に世界内存在を考えるならその二項は事後的に認識されるものに過ぎない。

実在性への問いの認識論的な解決法の暗黙の前提を検討すると、この問いを実存論的分析論にうちに引き戻さなければならないことがわかる。

b 存在論的問題としての実在性

世界内部的な存在者は、世界という現象、それが属する現存在の存在体制が解明されて初めて分析が可能となる。

すなわち、世界内存在や現存在は実在性を解明するための基盤なのだ。

このような土台を書いた分析においても実在的なものの現象学的な特徴を与えることはできる。

それはディルタイの言うように、衝動や意志に対する抵抗や抵抗しているあり方である。

しかしディルタイはこのあり方について存在論的な分析を行えていない。

この抵抗は意志や衝動が狙っているもの、「それにもとづいているもの」に向かうことを妨げられることにおいて現れてくる。

それと同時に意志が「それにもとづいているもの」も開示されている。

さらにこの「〜にもとづいて狙っていること」、すなわち意志の働きは適所全体性の中に組み入れられている。

抵抗の経験、すなわち抵抗するものを努力によって覆いをとって発見することは、存在論的には世界の開示性にもとづいてのみ可能である。*3

抵抗という世界内部的な存在者の特徴によって、そのあり方がどこまで及び、どこを向いているのかが発見される。

しかしながらこの抵抗の総計として世界が開示されるのではなく、抵抗は適所全体性としての世界、そして世界内存在の開示に基づいている。

そして抵抗は独立な意志や衝動において経験されるものではない。

意志や衝動は気づかいとしての現存在の一つの様態だから、気づかいという存在の仕方を備えているものだけが抵抗に出会うことができるのだ。

実在性を抵抗によって規定する場合には、それが実在性の特徴の一つにすぎないこと、抵抗は世界全体の開示を前提とすることに注意しなければならない。

実在性を意識することは世界内存在の一つの存在様式だから、外界の実在性の問題は世界内存在という根本現象への回帰するのである。

"cogito sum"(私は考える、私は存在する)という命題は「私は存在する、私は考える」と逆転されなければならず、さらにその内容が存在論的に検証されなければならない。

「私は存在する」というのはその場合何らかの世界のうちで存在していることであり、それゆえに様々な態度に関わる存在可能性として存在している。

それに対してデカルトは思惟作用が目の前に存在しており、その上で思考する私が無世界的に目の前に存在していると主張しているのだ。

c 実在性と気づかい

実在性は世界内部的な存在者の存在様態の中で特権的なものではなく、世界や現存在を適切に特徴づけるものでもない。

現存在が存在し、存在了解があって初めて、実在的なものの非依存性やそれ自身の存在も与えられる。

それがなければ世界内部的な存在者とそのあり方は理解可能でも理解不可能でもありえない。

存在者ではなく存在そのもの、つまり実在するものではなく実在性そのものが気づかいとしての現存在に依存している。

この点に注意することで、現存在や「意識」「生」を実在性という基礎から分析することが防がれる。

このように現存在が実在性から把握されないことは「人間の実体は実存である*4」という命題によって表現される。

現存在を気づかいとして解釈することで実存論的な分析が終わるのではなく、様々な問題の錯綜が明確になることとなった。

その問題とは以下のようなものだ。

すなわち、存在了解が存在する場合にのみ存在者は存在者として接近可能となり、存在者が現存在という存在の仕方を備えている場合にだけ存在了解は存在者として可能なのである。*5

第四十四節 現存在、開示性、および真理

哲学では古来から真理と存在することが併置されてきた。

例えばパルメニデスは「存在者の存在」と「受け取りながら理解すること」を同一化し、アリストテレスに取って哲学は「真理についての学」であると同時に「存在について考察する学」でもある。

ここでの「真理」は認識論的に主題とされているのではなく、「ことがら」「自分自身を示すもの」として捉えられている。

その場合、存在者もしくは存在として使用される「真理」という語は何を意味しているのだろうか。

この「真理」は現存在、そして存在了解とどのように関わるのだろうか。

また存在了解からなぜ真理が存在を伴うのかが明らかにされるのだろうか。

この探求は伝統的な真理概念の発掘(a)、そこから明らかにされた根源的な真理概念から伝統的なそれが派生的であることの提示(b)、「真理が与えられている」と語ることの存在論的な意味の解明(c)という流れで進んでいく。

a 伝統的な真理概念とその存在論的な基礎

真理概念の伝統的な捉え方は以下の三つのデーゼによって特徴付けられる。

  1. 真理の場所は言明(判断)である。
  2. 真理の本質は判断とその対象との「一致」のうちに存する。
  3. 論理学の父であるアリストテレスは真理をその根源的な場所としての判断に割りあてるとともに、また「一致」としての真理の定義を軌道に乗せた。*6

この真理を一致によって特徴づけようという考え方はカントも言うように空虚であるけれども、それでも一貫されて維持されている以上は何らかの権利を有しているのだろう。

そこでこの一致という「関係」の存在論的な基礎を問うことにしよう。

この判断と対象の一致において非明示的にともに定立されているものは何であり、それはどのような存在論的性質を持っているのだろうか。

「一致」という術語には何かから何かへの関係という形式的な性格がある。

あらゆる一致、「真理」が関係なのであるが、全ての関係が一致なのではない。

例えばしるしは示されたものと関係しているが、一致しているわけではない。

6という数は「16−10」と一致するが、それは数の「どれだけ」という観点において同等だからである。

このように一致には「その観点において」という条件が付随しているのである。

さて、判断とその対象はどのような観点において一致するのだろうか。

判断と対象には同種性がないので同等性は成り立たないが、それでも認識はことがらをそのままに与えるべきではないだろうか。

その場合一致は「そのまま—そのとおり」という性格を持っているが、それはいかにして判断と対象の関係に当てはまるのだろうか。

このような問いから明確になるのは、真理概念は一致などの関係を前提としては解明できないということであり、この関係全体をになう存在連関へと遡って探求しなければならないということである。

認識作用そのものの存在の仕方の解明に必要な分析は、真理という現象を同時に視界に収めるようなものでなければならない。

認識作用において真理が明示的になるのは、認識作用自身が自分を「真なる認識」として「証示」する時である。

この自己証示によって認識作用の真理性が保証されるため、この連関において「一致」の関係が解明されるはずである。

例えば壁を背にしながら「壁にかかっている絵が曲がっている」と言明したとしよう。

この言明(判断)はその人が振り返って絵を知覚したときに証示されるが、そのとき証示されているものは何なのだろうか。

知覚することは表象することではなくて、存在する事物そのものへと関わる存在様式である。

ゆえに知覚することで証示されるのは、言明されたものが表象ではなく存在者そのものであること、そして言明する存在者(現存在)が言明された存在者を「覆いをとって発見する」ということである。

このとき認識作用は存在者そのものに関連付けられ、言明されたものは自分自身に即して自分を示す。

証示されているのは認識作用と対象の一致や意識内容の一致ではなく、存在者そのものが発見されていることであり、その存在者そのものなのである。

この証示が確証されるのは存在者が自分と等しいあり方において自分を示す時だ。

このことは認識作用が存在者そのものへと関わる「覆いをとって発見する存在」の一つである時のみ可能である。

言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。*7

このことはまた、世界内存在に基づいてのみ可能となる。

真理の根源的現象であるこの世界内存在という現存在の根本体制が追求されるべきである。

b 真理の根源的現象、ならびに伝統的真理概念が派生的であるということ

このような「真理」の定義は恣意的なものではなく伝統に根ざしたものである。

ギリシャ語の語源を見ても「真理」すなわち「アレーテイア(ἀλήθεια)」は「ἀ(否定辞)—λήθεια(隠されている、忘れられている)」、つまり「隠されていないあり方」なのである。

覆いをとって発見することとして真であるとは現存在の様態だが、さらにその基礎を問うことによって真理の根源的な現象が示されるだろう。

気づかいによって覆いをとって発見される存在者は二次的に「真」であり、一次的に「真」であるのは発見する現存在である。

なぜなら存在者の発見されたあり方は世界や現存在の開示性にその根拠を持っているからである。

「自分に先立って何らかの世界のうちですでに存在している」という気づかいの構造自体が開示性を自らのうちに持っているのであった。

この開示性によって存在者は発見され、「真理のもっとも根源的な現象」が可能となる。

現存在が開示性であり、また開示するために現存在は本質からして「真」であり、それゆえに「現存在は「真理の内で」存在している*8」のである。

このことは以下のような規定によって表現される。

  1. 現存在の存在体制には気づかいという現象によってあらわになる、(世界内部的な存在者も含めた)存在構造の全体を包括する開示性一般が属している。
  2. 現存在の存在体制には開示性の構成要素として「被投性」が属している。
  3. 現存在の存在体制には「投企」が属しているため、自身の存在可能を開示していく。*9
  4. 現存在の存在体制には「頽落」が属している。だから存在者は覆いをとって発見されているけれども、空談、好奇心、あいまいさによって「すり替え」られている。

第四の規定に関してはさらに、

現存在はその本質からして頽落するものであるがゆえに、その存在体制の面から言えば「非真理」のうちで存在している。*10

現存在は真理のうちに存在していると同時に、非真理のうちで存在している。

現存在や存在者が開示されているからこそ、それらは隠されたりすり替えられたりすることが可能なのだ。

したがって現存在はすでに発見されたものについても隠蔽やすり替えに対抗して繰り返し確認しなければならない。

その探求は隠されたあり方から出発するのではなく、見せかけという様態で発見されたものから出発する。

存在者は何らかの様式ですでに覆いをとって発見されていながら、それでもなおすり替えられているのだ。*11

だから真理は常に隠されたあり方から戦いとられなければならない。

世界内存在は「真理」と「非真理」によって規定されているが、その条件は被投的投企という存在体制のうちにある。

以上のことは「一致」としての真理が開示性に由来していながら変容していることと、開示性は真理の構造の解明を導いていくということが示されたとき完全に見とおされる。

現存在の開示性には「語り」が属していて、現存在は覆いをとって発見する自分を言表する。

そのように言表する言明は発見される存在者についてのものである。

言明は存在者がどのように発見されたかを伝達し、さらに伝達された現存在は話題となっている存在者に関わる存在として発見される、

存在者の発見されたあり方は言明において保存されていて、それは存在者への連関を持つ手もとにあるものとしてのあり方である。

覆いをとって発見されたあり方は、語られたり聞き伝えられることで把握される。

言明のうちで発見された存在者がそのあり方について明示的に把握されるべきであるなら、それは言明が覆いをとって発見するものとして証示されるべきであるということである。

言明は存在者の手もとにあるあり方を保存するものだから、それは言明が存在者へと関連することを証示することを意味する。

またこの言明はそれ自身が手もとにあるものとして、「〜(存在者)についての覆いをとって発見されたあり方」を持っている。

しかしこの言明と存在者の連関が目の前にあるものの間の関係に切り替わることで、それら(判断と対象)同時の適合性(「一致」)という真理概念を導き出してしまうのである。*12

以上で伝統的な真理概念が派生的なものであることが示された。

一般に考えられるように言明は真理の第一の場所なのではなくて、覆いをとって発見されたあり方を把握する現存在の様態である。

そしてそれは現存在の開示性に基づいているから、その開示性こそが最も根源的な真理である。

だから真理はひとつの実存カテゴリーなのだ。

c 真理が存在するしかたと、真理の前提

開示性は現存在が存在するときのみ発生するから、以下のことが帰結する。

真理が「与えられている」のは、ただ現存在が存在しているかぎりにおいてであり、またそのあいだのみである。*13

このことは、例えばニュートンの諸法則が発見される以前は偽であったということを意味するのではない。

そのような諸法則は発見される以前には真でも偽でもなかったのである。

法則の発見によって、その法則とともに存在者は接近可能となる。

そして覆いをとって発見された存在者はそれ以前にも既に存在していたものとして自分を示す。

そのようにして発見することが真理が存在するしかたなのである。

以上から真理は現存在に相対的であることになるが、それは真理が「主観的」であることを意味しているのではない。

なぜなら覆いをとって発見することは恣意的なものでなく、現存在は存在者そのものと出会うからである。

存在者が自身に即して発見されるからこそ「普遍妥当性」が確保される。


このようにして真理の存在の仕方が解明されたが、ここでさらに真理を前提することの意味も把握される。

私たちは真理を前提するのは私たち現存在が「真理のうちに」存在しているからなのである*14

このことからわかるのは、私たちが真理を前提しているのではなく、真理が「私たちが何かを前提して存在すること」を可能にするということだ。

つまり真理は「前提」というものを可能にする条件なのである。

前提することは、あるものを他の存在者の存在の根拠として理解することであり、このような存在の連関は開示性に基づいてのみ可能である。

このとき真理を前提にすることは現存在の存在の根拠として真理を理解するということである。

また現存在は世界に投げ込まれたものとして常に自分に先行している。

このように存在が先行していることが最も根源的な「前提すること」なのである。

現存在の存在体制に「前提すること」が属しているから、現存在は自分を開示性(真理)によって規定されているものとして前提しなければならない。

このことは現存在の被投性に基づいているが、それゆえにこそどのような存在者が発見されるべきで、なぜ真理と現存在が存在しなければならないのかは見通されないままである。

存在が与えられるのは真理(開示性)が存在する限りであり、反対に真理が与えられるのは現存在が存在するあいだのみである。

それゆえに真理と存在は等根源的なものなのだ。

存在と時間』第一篇における分析においては「存在の意味」への問いは未だに答えられていない。

次に問題となるのは全体としての(als Ganzes)現存在である。

コメント

第四十三節は「実在性」というものが問題となった。

哲学の伝統において認識論的な問題が意識されるにつれて「外界の実在」というものが疑問視されるようになる。

経験において与えられているものは幻覚かもしれず、そこでは実在性は保証されない。

ハイデガーが批判するのはこのような問題の立て方そのものである。

そこでは認識する「主観」と認識される「客観」の二項対立が前提されているが、ハイデガー存在論的に見てそのようなあり方は適切ではない。

現存在はまず第一に「気づかい」として、気づかわれる対象の元で存在しているから、そのような二項対立は事後的なものに過ぎないのである。

つまり主観と客観の存在は同じものであり、「私」は実在しているが「世界」は実在していないという事態はありえない。


次に第四十四節では「真理」というものが問題となった。

伝統的には真理は例えば信念と事実の適切な対応といった「一致」のことを指すものと考えられてきた。

それに対してハイデガーにとっての真理は現存在が存在することと等しく根源的な「開示性」そのものなのだ。

なぜなら「一致」というのは発見された存在者を「言明」によって把握する際に起こる真理の副次的な捉え方だからである。

この「開示性」というのがどのようなものか少し補足したい。

私が例えば目の前のラップトップのキーボードを見るとき、そこで「見る私」、「見られるキーボード」という二項の対立をなくすとどうなるだろうか。

そこにあるのはキーボード自身が「現われてくること」だけなのである。

このようにして現れることが開示であり、同時に「気づかい」としてキーボードの元で存在しているということでもある。

だから「存在と真理は等根源的」なのだ。


第四十三節〜第四十四節で興味深かったのはやはりハイデガーが認識論という問題系に切り込んできたことだ。

ここでは第一篇で用意した手札(「気づかい」「被投的投企」「頽落」など)を用いて既存の伝統的哲学を批判している。

気づかいという現存在、世界の捉え方が根本的なものであったのに対応してここでの批判も哲学の伝統を根本から問い直すものであった。

疑問点としてあるのは、ハイデガーの真理観では例えばニュートン物理学から相対性理論へのパラダイムシフトといった現象はどう説明されるのかという点である。

真理が存在者をそのままに開示することならば、一度発見されたそのあり方が覆るということが可能なのだろうか。

それともそれらの理論は単に空談などによってすり替えられる可能性のある「言明」であって、科学理論は開示性そのものへは到達していないのだろうか。

これらの点はもう少し吟味しながら再読する必要があるだろう。


第三分冊の記事は以下
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.6.43.586 p424,425

*2:ibid

*3:1.1.6.43b.610 p459

*4:1.1.6.43c.617 p466

*5:1.1.6.43c.617 p467

*6:1.1.6.44a.623 p474

*7:1.1.6.44a.636 p493

*8:1.1.6.44b.644 p501

*9:「現存在の最も固有な存在可能」について言及されているが、後の話となるだろうし省略する。ただしその話が出てきたら参照すること。

*10:1.1.6.44b.649 p505

*11:1.1.6.44b.650 p507

*12:「言明」において目の前にあるものの連関が問題となる次第は第三十三節参照。 re-venant.hatenablog.com

*13:1.1.6.44c.666 p524

*14:証明はそれ以上遡れない仮定から出発する。それを「真理」だと前提することで初めて学問が可能であるということを意識しているのだろう。 ミュンヒハウゼンのトリレンマ - Wikipedia

心身二元論史

院試のために哲学史を勉強したのでついでに思ったことを書き留めておこうと思う。

哲学史は見方によって様々な面を切り取ることができるが、ここでは心身二元論の起源と発展、批判に注目してみたい。

基本的に私は心身問題に対してデネットの物理主義的立場に共感しているので、二元論に対してはかなり批判的な書き方となるだろう。

参考にしたのは以下の二冊である。

岩崎武雄『西洋哲学史』はミレトス学派からハイデガーや日常言語学派までを一貫したクリアな見地から概観することができる。

伊藤邦武『物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために』は「魂」「意識」「言語」そして「生」という四局面の移り変わりとして哲学史を捉えた面白い本だった。

1. 古代 — 心身二元論の発生

ソクラテス以前の哲学者は自然を「アルケー」から捉えようとしたとされる。

そこでは自然世界と人間を区別する観点はなく、自然はそれ自体として生きて動いているという物活論が取られていた。

しかしデモクリトスによる完全な唯物論が出てくると、それに対する反省としてソクラテスは人間に独自な「魂」と言うものを問題とした。

人間の行動や思考は機械的な自然世界と同じ原理では説明できないのではないかというのがその根底にある問題意識である。

しかし、今まで生きたものと考えられており、したがって人間と本質的に異ならないとされていた自然というものが生命のないものとして把握し直されてくるとともに、人間と自然との対立を意識し、人間についての原理を自然学的な原理に求めず他に求めようとする傾向が生じてくることは、容易に理解されることであろう。(岩崎 p29)

ここに心身二元論の起源を見ることができるだろう。

すなわち、「生きた」人間の振る舞いを機械的な原理から説明できそうにもないという「思い込み」こそが心身二元論を生み出したのである。

さて、そのようにして自然と区別される魂にはそれに対応した能力やその対象が必要となる。

その能力こそが「理性」であり、その理性の対象となるのがプラトンなら「イデア」、アリストテレスなら「形相」なのである。

また後に見るように、自然と区別された存在者として魂には実体性が付与されることになる。

2. 近世 — 二元論の前景化

中世の哲学は「神」が中心であり「魂」は二の次であったため近世まで飛ばすことにする。

心身二元論を哲学の中心に据えた哲学者として最も有名なのがデカルトだろう。

デカルトは「思惟」と「延長」を精神と物体世界を構成するそれぞれ別の実体と考え、そこから自然学を基礎づけようとした。

当然その際に問題となるのがその二つの実体の間にどのようにして相互関係が成り立つのかということだ。

デカルトの後のゲーリンクスやマルブランシュは「機会因論」といって神を媒介としてその関係が成り立つと考えた。

他にスピノザは二つの実体が「神」の属性に過ぎないとしてそれらが並行関係にあると考えることでその問題を回避しようとした。

またライプニッツにおいては実体は「モナド」であり精神も世界もその集合に過ぎない。

そしてモナドの振る舞いは神によってあらかじめ予定されているので、それによって精神と世界の間の調和が達成される。

このように近世では心身二元論が中心的に論じられるようになったが、依然として「神」という道具立てでしか解決を図ることはできなかったと言えるだろう。

このような解決しか図れないという点で心身二元論には根本的な欠陥があると言わざるをえない。

なぜなら現代においてたとえ道具としてであっても「神」を持ち出す哲学思想が受け入られることはないだろうからである。

3. カント — 純粋理性の誤謬推理

カントは魂について「超越論的仮象」であるとしてその実体性を(『純粋理性批判』の枠内では)否定している。

その経緯を簡単に述べると以下のようになるだろう。

すなわちすべての表象に伴う「私は考える」という表象が常に伴い、そのことで思考が成り立っている。

しかしその「私は考える」という命題の主語は論理定な主体に過ぎないのに、人間の理性はそれを形而上学的な実体として考える「誤謬推理」を行ってしまう。

そこから形而上学的な主体、「魂」という実体が生み出されてしまうのである。

カントにとって実体性を持つものは直観において与えられていなければならないから、この推理は仮象を生み出すだけの誤りでしかない。

つまりここで、心身二元論の起源について「誤謬推理」というものが設定されている。

元は人間の振る舞いには自然とは別種の説明原理を必要とする(気がする)から区別しようという考えから出発して、「魂」に実体性が付与されるに至る事情にはこのような経緯があったのである。

4. 現代 — 心の哲学

さて、現代の心の哲学においても心身二元論の残滓は存在している。

例えばクオリアという感覚の質は物理的な説明を寄せ付けないとされている。

人間の精神に自然世界から独立な実体性を認めるという考え方は誤謬推理から生まれた仮象なのだから、これは不合理だと言わざるをえないだろう。

なぜなら人間の精神が実体ではないならそれは自然世界と同じ存在者のはずであり、同じ原理によって説明されることが可能なはずだからである。

結局クオリアのような思想は古代ギリシャにおける、人間は自然と同じ原理から説明できないという(当時の科学レベルからすれば当然の)思い込みを引きずっているだけだと言えるだろう。

人間の脳や振る舞いに対する経験的な知見がはるかに豊富になった2500年後の現代でそのような思い込みを引きずるのは適切だとは思えない。

5. 結論

ここで私が示したかったのは、心身二元論には正当な根拠などなくただ人間の精神が驚くほど巧妙にできていることによる思い込みが起こした幻想だということだ。

そして魂はカントのいう誤謬推理を通じて実体性を与えられることでさらに神秘的なものと考えられるようになった。

確かに人間の精神は自然界で見出される他のものとは比べ物にならないほど多くのことを為すことができる。

だからと言ってそれが自然世界と独立な実体であり、別の説明原理を要求するものであるということは証明されない。

しかし、魂が実体でないとしても精神的なものについて内側から語ることがすべて否定されてしまうわけではないと私は考える。

自然科学と精神についての分析は、全く別の原理による説明なのではなくそれぞれが別のレベルでの説明なのだ。

例えば生物学が物理学に還元可能であってもそうされないように、超越論哲学や現象学は自然科学に還元可能であっても還元されることはない。

なぜならそのような還元は生物の振る舞いをいちいち物理法則から説明するように、説明の直感性を著しく損なってしまうからである。

ゆえにそのような哲学は自然科学と地続きのものでありながらも別のレベルの説明原理として存在し続けるべきなのだ。

最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』


この記事では最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』を解釈していく。

『アリス・イン・カレイドスピア 1』(以下、本作)は以下のリンク先で最後まで読むことができるので未読の方は是非先に読んでほしい。

sai-zen-sen.jp


1. はじめに

この記事ではいわゆる「心の哲学」と呼ばれる分野の知識を背景とし、特に哲学者ダニエル・デネットの立場から『アリス・イン・カレイドスピア 1』の解釈を試みる。

そのためまずは前提となるいくつかの概念について説明したのち、それらが本作の世界観とどう関係するのかについて考察していく。

次にその視点に立って本作の具体的なストーリー展開を解釈する。

2. 物理主義と「地底」の人々

本作の主要な対立軸となっているのは地上と地底、すなわち魂の実在を認める心身二元論と物理的なものしか認めない物理主義*1の世界の対立である。

そして魂を持たない「地底」の人々は「哲学的ゾンビ*2と呼ばれる。

さらに本作後半では登場人物の一人「ミラ」が情報システムの索引としての擬似人格であったり、本作のヒロイン「アリス」が物語の登場人物としての存在であることが明かされる。

「私は、あらゆる普遍的な物語類型を参照し続けながら『私という物語』を自動生成する、お話の妖精。そのあり方は典型的な物語に影響を受けます」
(7章 p282)

ミラは心の哲学での主要な争点の一つである人工知能の問題を意識したキャラクターだと思われる*3

この人工知能の実現可能性について、人間の意識を物理的なものから説明できないとする心身二元論者は否定し、物理主義者は肯定している。

ダニエル・デネットは物理主義の主要論客であり、人工知能についても一貫して肯定的な立場を取っている。

さて、そのようなデネットの物理主義的な見方から「哲学的ゾンビ」「人工知能」そして「物語的重力の中心としての自己」というものについて説明したい。

まずデネット心身二元論は理論的に行き詰まっていると主張する。

もし意識が物理法則から完全に自由な魂だとすると、その魂はどうやっても物理的な世界と関わることができない。

それゆえに私たちの意識は物理的世界になんらの影響も及ぼさないものだということになってしまう。

この結論は私たちの直感と明らかに相容れないものであり(私たちは意識が物理的な身体を動かしていると確信している)、デネットはこの点から心身二元論を退ける*4

心身二元論が否定されたことで、私たちはすべて非物理的な魂を持たず物理法則に支配された「哲学的ゾンビ」であると考えられる。

またデネットは進化論を自身の理論の主要な位置に据えていて、意識は進化のプロセスから生まれてきたと主張する。

進化のプロセスとは単純なアルゴリズムの集積が様々なデザインを生み出していくことだから、人間の複雑な意識活動は部分では単純な脳神経回路から生み出されることが可能である*5

それゆえに人間の知能と同じ能力を持つ人工知能もまた単純な機械の集積から構成可能であるとデネットは考える。

また、脳の神経の活動は並列的なプロセスであるためその産物である人間の意識には中心的な視座(カルテジアン劇場)が認められなくなる*6

それゆえに意識は並列的な脳のプロセスそれぞれがお互いに編集し合う中で生み出される「多元的草稿」なのである。

ならば「私」や「自己」とは一体なんなのだろうか。

それは「物語的重力の中心」であるとデネットは言う。

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

平たく言うと脳の並列的な活動の結果として出力された物語(この文章もそれに当たる)における一人称こそが「自己」というものの正体なのだ。

そして物語は因果関係による文脈によって構成されているから並列的な脳の活動から直列的な「自己」が生まれるのである。

このように考えると、物語の登場人物であるアリス(正確に言うと「物語の登場人物」としての本作の登場人物)が単なる作中でのフィクションではなく、現実に存在する私たちの「自己」と同様の存在者であると考えることができる。

3. ミーム論から見た呪術

次に進化論における思考ツールの一つ「ミーム」というものと作中の主要なガジェットである「呪術」の関係を考察したい。

ミームとは遺伝子のような自己複製子の一種であり、情報の形をとって私たちの脳から脳へとコピーされることで飛び移っている*7

デネットによるとこのミームは私たちの脳内で複雑に組み合わさって、脳というハードウェアに対するソフトウェアとしての意識を形成している。

さらに意識を構成するミームたちはそれぞれが自身の複製という目的を達成するために互いに競合していて、その勝者が意識にのぼって他者に伝達される。

さて、そのようなミームの伝播が呪力を生み出すということが本作での呪術観であるが、それはどういうことなのだろうか。

まず重要なのが『アリス・イン・カレイドスピア』という物語自体が一つのミーム複合体であるということだ。

本作、そして『幻想再帰のアリュージョニスト』が沢山のオマージュから構成されているのは物語=ミーム複合体であるという点を強調するためだとも考えられる。

そしてその物語を生み出すのは作者である「最近」という人間の脳であり、それは競合するミームたちの巣である。

ゆえに作者の脳内においてあるミームが影響力を強めるということは、それが脳から出力される物語を自分の都合のいいように改変していくということを意味する。

何故ならそのようにしてミームが出力されることが自然淘汰を勝ち抜いたということであり、そのようなミームだけが生き残ってきたからだ*8


では呪術の4系統それぞれについてこのような観点から考察してみよう。

呪術の4系統とは以下のようなものである。

  • 邪視:世界観の拡張
  • 呪文:言語の拡張
  • 使い魔:関係性の拡張
  • 杖:身体性の拡張

邪視者はメタ的なレベルから直接的に物語世界(ミーム環境)を改変するが、彼らは作者の脳内に存在するミーム群だと考えられる。

なぜなら先ほど述べたように物語(=作者の意識)はミーム群が競合し編集しあう中で生み出されるからだ。

そして邪視者が認識するということは物語世界においてそれが言葉によって記述されるということであり、記述されることは物語を直接形成していく。

このようにして邪視者の認識は物語世界を改変するに至るのである。

次に呪文は言葉の呪術だが、これは直接的にミームの表現であるだろう。

物語が小説という形を取る以上それは言葉によって構成されていて、言葉(ミーム)を操ることは物語世界を操ることと同義である。

そして使い魔は関係性の呪術だが、この関係性とはミーム同士の関係性のことを指す。

ミームは相互にただ争っているだけでなく、時に共生したり、さらには一つのユニットとして脳内の自然選択を生き抜いている*9

そのようなミーム同士の関係はやはり物語世界に直接表現されていくだろう。

最後に杖は身体性の呪術であり自然科学に対応するが、それはミームたちの活動基盤である物理世界を意味している。

「『杖』が底辺であるのは、それが万物の基礎であるから。『邪視』が頂点であるのは抽象度が高いから。土台が無ければ、天井は支えを失って崩れてしまうでしょう」
(三章 p64)

いかに物語世界で自由に振舞えるミームといえどもそれを実装している作者の脳神経、小説が書かれる紙やインクといった物理的なもの、すなわち物理法則に規定されている。

それゆえに自然科学は現実世界と同じように物語世界の基盤となるのだ。

さて、呪術は類推によって生まれるとされているが、以上の議論から考えると類推とはミーム同士を結合させる脳の働き一般を指すと言えるだろう。

杖=自然科学も呪術と考えられている以上、自然科学を構成する因果関係の思考も類推の一種であると見做されていると言える*10

このようなミーム同士をつなぎ合わせる類推という脳の働きがミーム複合体である物語世界を作り出し、それを動かす呪術として捉えられるに至るのだ。

さらに意識は脳が多元的草稿の相互編集の中からミーム(言語)を編んで作り出した物語であるから、この類推という呪術は意識そのものを構成している。

そしてもし世界を思考の対象として存在する現象界だと考えるなら、私たちの世界自体が本作と同様に類推(呪術)によってミームをつなぎ合わせることでできていると考えられるだろう。

だから、呪術は本作の単なる作中ガジェットではなく、私たちの世界に実際に存在する力なのだ。

以上のような呪術の考察をもとに、次は本作の具体的な内容を解釈していこう。

4. 魂が無いとはどのようなことか?

本作で対立軸となるのが地上と地底、すなわち心身二元論と物理主義である。

地上の人々は魂を持ち邪視の呪術を用いて自由に世界を改変することができる。

対して地底の人々は魂を持たず物理法則に支配された杖の呪術によって地上と戦争している。

主人公である『 』は魂を持った邪視者から魂を持たない哲学的ゾンビへと立場を変え、地底の人びとに対して徹底して拒絶の態度をとる。

これは二元論的立場にあった人間にとっていかに物理主義の世界観が受け入れ難いかということの表現だろう。

「魂は実在する」それを認めないということは、あらゆる生き物は哲学的ゾンビという冷たい機械と認めることになる。そんな寒々しい世界はとうてい受け入れることはできなかった。
(五章 p185)

しかし『 』はアリスや他の哲学的ゾンビたちと関わる中で魂を持たない人々を邪視者の間に違いはないのではないかという考えに至る。

事実、魂の有無が(それが非物理的な実体である以上は)周囲の物理的世界に影響を及ぼすことはない。

「あなたは勘違いしています。私にとって振る舞いや周囲の目にどのように映るのかこそが重要なのです。内面や心といった形のないものに人の本質はありません」
(5章 p159)

地底の世界観を受け入れた『 』は今まで拒絶するだけだったアリスに対しても新しい関係を結ぶことができるようになった。

このアリスは前述の通り物語の登場人物として存在しているのだが、それはどのようなことを意味しているのだろうか。

まず重要なのはアリス自体が一つのミームであるという点だ。

「だって、退屈は辛いこと。それは死と同じくらいひどい仕打ち。楽しくないと嫌。私は、死にたくない」
(4章 p120)

「楽しくないと死ぬ」というのは、快楽を以って受け入れられないミームは自身のコピーを多く残すことができないということを意味する。

誰にも見向きもされないということはすなわちミームの死であり、それゆえにアリスは自身が登場する物語が退屈なものとなれば死んでしまう。

「必要とされること。読まれること。感じてもらうこと。それが私の願い。物語の喜び」
(7章 p286)

さて、デネットの考え方によると私たちの「自己」もアリスと同じように物語中の一人称として存在するのであった。

そして一元的な視座=魂を持たない『 』も、同じように魂を持たない物理主義的な世界での人間の表現である。

それゆえにアリスたち自身の存在の問題は私たちの実存の問題に直結してくるのである。

だからアリスと魂を取り戻してもあえてそれを捨てて「スワンプマン」として戦う『 』の出す結論がどのようなものかが注目すべきポイントとなる*11

そしてその結論とは、魂は混沌から生まれるというものである。

心身二元論でも物理的な還元論でもない、複雑性の雲の中に魂の息吹は存在している」
(7章 p316)

これは作中のクライマックスで展開される部分で、スピード感のためにやや明瞭ではないので詳しく説明したい。

物理主義と進化論を組み合わせるデネットの思想では、人間の精神的能力は世界が単純なものから複雑なものへと発展していく中で獲得される*12

それならば私たちが魂と呼んでいるものも同様の進化のプロセスの中から生み出されてもいいのではないか。

心身二元論では魂は物理的世界と完全に独立しているのでこのようなことはありえない。

反対に物理的なもの以外を否定する単なる物理主義的な還元論においては魂の存在そのものが否定されてしまう。

そういう意味でアリスたちがたどり着いた結論は「心身二元論でも物理的な還元論でもない」のだ。

それならば魂とは一体なんなのかというと、それは複雑系の予測不可能性から私たちが見いだすものだ。

比較的単純な原理で記述されるニュートン物理学においても、物理的世界の未来を予測することは実際上ほぼ不可能であることが知られている。

それならば原理的には物理法則で記述可能な哲学的ゾンビやAIの振る舞いを予測することもまた不可能である。

だからそこに物理法則から自由な魂を見出しても何の問題もないのだ*13

そのようにして、魂を否定するのではなく魂という言葉の意味そのものを書き換えてしまうことがアリス達が出した結論だと言えるだろう。

言うまでもないがここにも予測不可能性と魂という二つのミームを類推によって結びつける呪術の力学が働いている。

ミームによって構成される物語世界だからこの類推は世界を更新し得るし、同様に言語で記述された物語でしかない私たちの世界においてもそれは可能だ。

だから物語の登場人物や哲学的ゾンビは新しい意味で魂を持つことができる。

ところで、二元論的な魂は物理法則から完全に自由だがそれゆえに物理世界に干渉できないという理論的な欠陥を持っている。

しかし私たちの予想を超えるところに見出される新しい意味での魂にはそのような理論的瑕疵がない。

ゆえにアリスたち「偽物」の魂は邪視者の「本物」の魂を超えることができる。

「本物を超えたと証明することだけが私が作り出された価値だと教わりました」
(7章 p282)

以上のように物語の登場人物であるアリスに魂が認められるということは何を意味しているのだろうか。

5. 自由な物語

アリスは本作のクライマックスで以下のように言っている。

「私は物語の住人。そして神(さくしゃ)を殺すもの。私を縛るものは何もない。世界はもう、開かれている!」
(7章 p318)

魂を持たない一元論的な存在者の振る舞いは物理法則に完全に決定されているがゆえに、自由を持たないと二元論者は主張する。

同様に物語の登場人物も、その振る舞いは既に作者によって書き終えられているのだから自由を持たないように思われる。

しかし私たちの予想を超える複雑系に魂を見出すということによって、哲学的ゾンビも物語の登場人物も私たちの予想持つかない振る舞いをするという意味で自由だと認めることができる。

そのような意味で既にその振る舞いを作者(=神)に書き終えられているアリスたち本作の登場人物は自由を獲得する。

すなわち物語の世界は予測不可能な未来へと開かれたのだ。

以上の点から本作を物語という環境の中にあるミームたちが自己の自由を勝ち取るための戦いだと読むこともできる。

地底の人々(登場人物たち)と邪視者たち(作者の脳内ミーム)との戦いは、まさに登場人物たちによる自分を作り出した神に対する自己の実存をかけた戦いなのだ。


そしてこのことはそのまま私たち人間の自由についての議論と並行関係にある。

なぜなら物理主義を認めると、人間もまた物理法則によってその振る舞いを決定されているということが帰結してしまうからだ*14

そのような人間にも振る舞いの予測不可能性から魂=自由を認められるなら、アリスたち同様私たちも物理法則(=汎神論的な神、または神の創造したもの)から自由となる。

さらにこのことは「物語的重力の中心」として考えられる私たちの「自己」の自由とも関係する。

「『私という物語』を自動生成する、お話の妖精」であるアリスが自由を獲得するなら、脳が出力する物語の一人称でしかない私たちもまた自由であるといえるからだ。

6. おわりに

以上が私の本作の解釈となる。

ここで提示した『アリス・イン・カレイドスピア 1』の読解そのものが一つの物語(=呪術)であり、今あなたが認識する世界を改変している。

呪術は意識対象としてのこの世界に現に存在しているし、「物語的重力の中心」でしかない「私」たちはアリスたちと同じ戦いを現在進行形で戦っているのだ。



この記事は「ゆらぎの神話・アリュージョニスト・アリスピ Advent Calendar 2016」の12/22分の記事となる。

www.adventar.org


本作の作者最近は「小説家になろう」サイト上で『幻想再帰のアリュージョニスト』を連載している。

本作と世界観を共有しているので興味がある方は読んでみてほしい。

http://ncode.syosetu.com/n9073ca/ncode.syosetu.com

*1:作中では「唯物論」(materialism)とされるが現行の心の哲学では物理主義(physicalism)と呼ばれるのでそちらに習う。

*2:哲学的ゾンビ - Wikipedia

*3:また「コウモリであるとはどのようなことか?」という有名な思考実験のオマージュでもある。  コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia

*4:詳しくは『解明される意識』第一部 

re-venant.hatenablog.com

*5:詳しくは『ダーウィンの危険な思想』第三部 

*6:カルテジアン劇場 - Wikipedia

*7:自己複製子について詳しくはリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』、ミームについては同書第11章。

ミーム - Wikipedia

*8:このミーム群の競合から行為が生まれてくる過程をデネットは「パンデモニアム(百鬼夜行)モデル」と呼んでいる。

*9:本作では直接関係しないが『幻想再帰のアリュージョニスト』での「融血呪」はミーム同士の融合(すなわち登場人物たちの融合)を描いているものだろう。

*10:ヒュームの懐疑論やカントの超越論的哲学に近いものがある。

*11:スワンプマン - Wikipedia

*12:進化が複雑なものを「目指して」いるわけではないことに注意。進化論は徹底して目的論を否定する。

*13:予想不可能性と自由の関係については デネット"Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting"第6章に関連する話題がある。re-venant.hatenablog.com

*14:このことについて有名な思考実験として「ラプラスの悪魔」がある。 ラプラスの悪魔 - Wikipedia

大今良時/山田尚子『聲の形』

koenokatachi-movie.com


大今良時の『聲の形』が山田尚子監督、京都アニメーションによって映画化された。

本記事では原作、映画双方の内容を視野に入れながら作品のテーマを探っていく。

どちらについても内容に踏み込んで書くのでまだ読んでいない、見ていない方は注意してほしい。

1. 過去はすべてを決めるのか?

この作品でまず描かれるのは小学生時代の「いじめ」である。

この出来事についての将也の罪悪感がまず物語の動因となっていく。

さらに硝子の側にも「自分が原因で今度は将也がいじめられることになった」という罪悪感があることが明らかとなる。

この出来事は作中では「過去」であり、その過去は現在を束縛しているように見える。

将也はこの事件をきっかけに周囲の声に対して自ら耳を閉ざしてしまうし、硝子が花火の夜にベランダから飛び降りたのもこのことが(間接的にせよ)原因だと言えるだろう。

さて、過去というものは現在に対して一体どのような関係を持っているのだろうか。

例えば決定論という考え方がある*1

これは原因と結果の関係が必然的であるから、ある過去から生まれる未来は一つに決まっているという思想だ。

これについては様々な主張があるが、ここで取り上げたいのは決定論が生じる原因は人間の思考方法だという意見である*2

その人間の思考方法とは複数の出来事を「原因」と「結果」という形で結びつける能力のことだ。

これは別にカントの純粋悟性概念などを引き合いに出すまでもなく、日常的な自分の思考を振り返ってみればおのずと納得できることだろうと思う。

ところで、ある結果が生まれた原因を本当に厳密に知るためには人間の脳の処理能力では全然足りない(それどころか有限なシステムならどんなものでも不可能である)。

ゆえに人間はとりあえず自分が見渡せる範囲で出来事の原因と結果を見出して納得するしかない。

だから、過去と現在、未来の因果関係が語られるとき、それはその人の思考が一つの解釈として作り出した「物語」なのだ。

さて、本論に戻ると、小学生時代の「いじめ」というのが「原因」、そしてそれに対する罰として将也たちが考えるもの(贖罪や自殺)が「結果」に対応するだろう。

しかしその罰というのは実は彼らが勝手に作り出した「物語」の内部で存在するものでしかない。

誰かがそれを望んでいるわけでも、客観的に必然であるわけでもないのだ。

しかしながら彼らはお互いに対する罪の意識から誰も望んでいない「自殺」という選択肢を一度は選ぶことになる。

ここに自身の「物語」にとらわれること、言い換えればコミュニケーションの不全が存在している。

2. 「物語」とコミュニケーション不全

聲の形 公式ファンブック』に掲載されている著者インタビューに以下のような文章がある*3

植野のがんばりが竹内先生やクラスメイトに認められていたら、彼女はそこまでストレスを抱えなかったと思います。が、そのはけ口をみんなにも迷惑をかけていた硝子に向けることによって「自分は悪くない」というストーリを完成させ、植野は言い訳をする。だから植野は「硝子に悪いことをした」と認めてしまうと、自分のなかにあるストーリーが壊れてしまうんです。(p182)

この例では植野が取り上げられているが、この「ストーリー(物語)」にとらわれるという現象はすべての登場人物に起こる。

なぜならそれが人間が必然的に備えている思考の方法であるからだ。

そして、自分で作り上げた「物語」にとらわれることはコミュニケーションの不全を引き起こす。

誰かの話を聞いているつもりでも、自分の解釈で「物語」を作って納得してしまうことがほとんどだと言ってもいいだろう。

その解釈に固執すればするほど周囲の人間が作る「物語」との不整合が起こり、さらなる孤独へと追いやられていく。

この作品においてそれは最初から周りの声を「聞くことができない」硝子と周りの声を「聞こうとしなくなった」将也の対比において焦点を当てられることとなる。

例えば原作第5話で将也が高校のクラスメイトが話している内容を自分への悪口だと想像している場面がある。

ここで解釈される他人の言葉は実際に言われているものではなく将也が勝手に解釈した(将也の「物語」内部の)ものであり、ここに将也のコミュニケーション不全の状態が象徴されている。

このコミュニケーション不全は、特に映画版でこの作品の主要テーマとして描かれている。

映画版のラストシーンは原作とは違い将也が周りの人間の顔に貼り付けた「×印」が取り払われるシーンとなっているが、それはこのテーマにより焦点を当てた構成とするためだろう。

ここにおいて将也はついに周囲の声を聞くことへと踏み出し、自分の「物語」の外側にある豊かさに気づく。

自身の作る「物語」の呪縛から逃れることは簡単ではないが、それでもそこから一歩踏み出すというのがこの作品の一つの結論であるだろう。

余談だがこのシーンのBGM(サウンドトラック一枚目39曲目"lit (var)")はこれまでのシーンで登場したメロディを開放的にアレンジしたものであり非常にうまくシーンを盛り立てているので是非注目してみてほしい*4

さて、自分の「物語」にとらわれることはこのようにコミュニケーションの不全を引き起こし、孤独を生み出す。

それだけでなくこの呪縛はさらに深刻な実存的問題を発生させる。

このことについて次節で解説してみたい。

3. 「物語」と「因果応報」

「因果応報」という考え方がある。

1節で見た「原因」と「結果」によって「物語」を作り出す人間の機能がこれに影響を与えているのは明白である。

ある原因に対して結果が見出されるのに対応してある罪に対して罰が与えられ、罰を与えることに正当性が見出される。

同じく『聲の形 公式ファンブック』の著者インタビューに以下のような文章がある。

登場人物たちが自分の人生を生きる上で便利な逃げ道として、起きている出来事に「因果応報」という言葉を当てはめて自分を納得させているわけです。私としては「因果応報」を大事な要素だとは捉えていません。(p172)

原作第32話で西宮母は硝子の聴覚障害について前世での「因果応報」だと夫の両親に言われて離婚を迫られる。

ここで登場する「因果応報」という言葉が引用文での「便利な逃げ道」としての用法を象徴しているだろう。

そうやって自分の「物語」の中で納得することで硝子の父とその両親は硝子と西宮母を切り捨てることを正当化しているのだ。

これは最も露悪的に描かれた例だが、その他にも「因果応報」というテーマは作品全体を通して登場人物の行動を束縛している。

例えば将也と硝子が頑なに自分を罰しようとするのも自分で作り上げた「因果応報」という「物語」にとらわれているからだ。

しかしながらこの作品は誰かが罰されて、「因果応報」によって過去が清算されることによる解決を肯定していない。

それが最もよく表現されるのは硝子の代わりに落下して昏睡した将也が目覚めてすぐに二人が橋の上で出会うシーンである。

「……俺も…同じこと考えてた。でも…それでもやっぱり、死に値するほどのことじゃないと思ったよ」

「だから…その…本当は君に泣いてほしくないけど…泣いて済むなら…泣いてほしい。もし俺が今日からやらないといけないことがあるとしたら、もっとみんなと一緒にいたい。たくさん話をしたり、遊んだりしたい。それを手伝ってほしい。君に、生きるのを手伝ってほしい」
(第54話)

なぜ「死に値することではない」のか、「生きることを手伝う」とはどういうことなのか。

この点は『聲の形』という作品を理解する上で要となる部分だろう。

これを読み解く上でまず重要なのが二人が陥っている、お互いがお互いに対して加害者意識を持ち続けているという特異な関係性である。

彼らは二人ともが自殺という結論に至るが、それによって何が起こるのだろうか。

自殺した方は自身の加害者意識から「贖罪」としてそれを行い、自身の「因果応報」という物語内である一定の納得を得るだろう。

しかしながら残された側もまた純粋な被害者ではない(と自分では思っている)。

すると結局のところ、相手が自殺することではその加害者意識はさらに膨らみ、一方の罪が裁かれることで救われるどころか状況はさらに悪化するのだ。

ならば、本当の意味での救いはどうしたら得られるのか。

それはお互いが自身の罪を乗り越えて幸福を得ることによってである。

川井によって将也の過去が暴かれたあと、また自分のせいで将也が不幸になったと思いつめる硝子の前で努めて明るく振る舞う将也の様子は、そのことに気づき始めていることを示している。

しかし硝子はまだ自分の「因果応報」という物語に捉えられて相手の声が聞こえておらず、本当の救いへの道が見えていない。

だがこの引用文のシーンでついに彼らは自身の「物語」の外へと手を伸ばすことができた。

「生きるのを手伝って欲しい」というのは一見身勝手なセリフに見えるが、これは自分が幸せであることが相手の幸せの条件であり、その逆もまた成り立つというこの構造から出ている。

すなわち将也自身が幸せでなければ、加害者意識を持ち続ける硝子も幸せになれないということに気づいた上でのセリフなのだ。

これによって彼ら二人は自分で作り上げた「因果応報」という物語から踏み出して、真の意味で救われる道が開かれたと言えるだろう。

それは過去を清算することでも忘れることでもなく、真の意味で過去を受け入れて前に進むことだ。

4. 硝子はなぜ恋をしたのか?

原作第23話において硝子は将也に対する想いを告白するが、それは伝わらない。

これは単に彼らの間で未だにコミュニケーションがうまくいっていないことを表現するシーンと解することも可能だが、もう少し本論のテーマに沿って解釈してみたい。

そもそも硝子が恋愛感情を持つのは唐突な印象を受けるし、様々なところで作品の批判の対象となっている。

私も原作を初めて読んだときは驚いたし、この点はずっと疑問が残り続けてきた。

恋が突然襲いかかるものだということで納得するには、作者の意図が見えなかったのである。

しかしながらこの点も「物語」からの離脱というテーマから考えると一つの解釈が生まれる。

その前に少し補足説明として人間の思考の起源について考えたい。

「物語」を作る因果による思考は人間が脳を発達させる過程で身につけた能力であると考えられる。

そしてこの能力は過去の経験を因果の形で結びつけて様々な因果関係を考えることで、現在という原因から未来という結果を予想するために用いられる。

この能力が進化したのは、より詳しく、より遠くまで未来を予測することができる個体の方が厳しい自然の中で生存する確率が高いからだ。

しかしながら、恋はもっと早い進化の過程で生まれる感情で、より心の基礎の部分に存在していると言えるだろう。

なぜなら未来を予測する能力を持たないような生物でも(性別があるなら)恋をするからだ。

だから、恋には「物語」を、因果を飛び越える力が備わっている。

大今良時がこの作品で恋を描いたのは、「物語」を超えていくというテーマを表現する最も強い感情の一つが恋だったからだろう。

硝子はそのときはまだ「因果応報」という物語にとらわれたままであるが、心のもっと奥から湧き上がる感情はそれを軽々と超えていく。

だから恋愛感情は将也の過去の行いを許すことや硝子自身の罪悪感とは無関係に飛び出してくるのだ。

ゆえに「硝子はなぜ恋をしたのか?」というこの節のタイトルの問いはそれ自体ナンセンスということになるだろう。

なぜなら恋を合理的に解釈することがすでに「物語」 の合理性のレベルでの議論であり、大今良時はそういう合理性にとらわれることを批判しているからだ。

5. 物語において「物語」を超えること

ここで浮かび上がってくるのが「物語」を超えることを語ることの難しさである。

「物語」という形式を批判すると言っても、そもそもこの文章も『聲の形』という作品も一つの筋道を持った物語だ。

つまり、因果的に合理性を持った物語という形の中でその因果からの離脱、すなわち不合理の肯定を宣言するという一つの矛盾が発生している。

そもそも完全に不合理なストーリーを描くことでこの矛盾を解消する方法もあるが、それでは誰に対しても何を言っているのか伝わらない。

ここで分かるとおり、コミュニケーションは「物語」という形式を前提としているのだ。

それでは『聲の形』という作品はどのようにしてこの問題を乗り越えているのだろうか。

それは一つのストーリーに二重のテーマを織り込むという仕方によってである。

まず一見して分かる通り、この作品はコミュニケーションをテーマとしている。

コミュニケーションというテーマについて語る限りでストーリーとしては整合性があり、問題提起とその解決が得られるようになっている。

ただその中に「物語」の超越という裏のテーマとでも呼べるものが寄り添っているのだ。

すると、特にコミュニケーションというテーマに焦点を当てて簡素化された映画版を見た時ある部分については不合理なストーリーだという印象を受けるだろう。

過去の「いじめ」という罪は「因果応報」という形で清算されず、硝子はなぜか自分をいじめていた人間に恋をする。

しかしながらその不合理は、一つのテーマとして作者によって意図されたものなのだ。

この手法によって「物語」において「物語」を超えることを一面では整合性のあるストーリーの中で表現、伝達することが可能となった。

聲の形』がストーリーの不合理性によって批判を受けることは、この矛盾を乗り越えるための必要経費と言えるだろう。

そしてまた、「物語」を超えることを描くためにその「物語」という形式を必要とするコミュニケーションをテーマとしてストーリーの中核に据えたことも興味深いポイントであるだろう。

それは生きる上で必要な「物語」(それは進化の過程で生き残るために身につけた能力であった)が時として人間を縛り付け不幸へ導くことの表現であるように思われる。

人間が持つ様々な能力は長い進化の歴史の中で場当たり的に身につけたものであり、それらは時に現在の環境との不整合を引き起こす。

そのような人間の不完全さをこの作品のテーマとして読み取ることも可能だろう。

*1:決定論 - Wikipedia

*2:re-venant.hatenablog.com 決定論と人間の思考方法の関係についてはこの辺りが参考になるだろう。

*3:

*4:[asin:B01IP7Y7MG:detail]

lit(var)

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Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第7章

[asin:B013VZO8Z8:detail]


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第7章「なぜ私たちは自由意志を求めるのか?(Why Do We Want Free Will?)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章〜第6章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com


本文要約

7 なぜ私たちは自由意志を求めるのか?(Why Do We Want Free Will?)

1 無視されたニヒリズム(Nihilism Neglected)

私たちが求めるに値すると考える自由意志は私たちの尊厳と責任を確保してくれるものだ。

「反因果的自由」や「行為者原因」を求めるのはそれらがそのような自由意志の必要条件であると信じてしまうからである。

人々がこのような条件が存在しないことを罪についての古い教義から解放されるチャンスと考えず、責任を持つことを望むのはなぜだろうか?

それはおそらく責任のある行為者でないことによって私たちの尊厳が脅かされるからだろう。

しかしこの特別な尊厳というものはいったい何で、私たちはなぜそれを気にするのだろうか?

私たちは科学の時代には道徳はもはや擁護できないという時代遅れの世界観にとらわれているのだろうか?

そしてなぜ私たちは他者が責任を持っていることを望むのだろうか?

これは理性化され道徳規則によって表象可能となった復讐心なのだろうか?

ニーチェの「道徳の系譜学」によると、私たちは道徳概念や罰を貸借りの法の概念から得ている。

その法概念によると貸した者は借りた者に侮辱や拷問を加えることが可能である。

先人たちが認識した借りは先祖に対する感謝であり、先祖に対する負債が増加すると先祖=債権者は神へと変わる。

そして神への負債は耐えられない重荷となり、神自身が債務者への愛のためにその負債の埋め合わせとして犠牲となる。

これはすべて間違っているとは言い難い説得力を持っているが、それによって私たちが持っている概念構成を擁護することにはならない。

誤った思考から正しい結論が導からることはあるし、不合理な活動からいい考えが浮かぶこともある。

私たちの「道徳概念の世界」を保護したいという願望の整った擁護が存在すると私は考えている。

責任のある道徳的行為者と責任のない者の区別は一貫していて、本物で、重要だ。

それは適用できない例がたくさんあるとしても、私たちの全員が片側に当てはまることがなく、私たちの生活の意味や質に大きな影響を及ぼすような経験的な線を引く。

私がこの見方に対して行う主張は、自由意志を尊重し責任を望むことが理性的であるという効果についてのものだ。

これらの概念を擁護するようなこれ以外の主張はありえない。

なぜならこのような主張は聴衆の理性的判断に訴えかける際に不可避的に疑問を投げかけるように見えるものだからである。

私は著者と読者が私の主張を支持してくれる自由で責任のある行為者だと仮定していないだろうか?

さらに、私の主張は何かが問題となる、すなわち何かが良くて何かが悪いということを仮定しているだろう。

私はこの本を通してあなたのものと同じように私自身の理性を当然のものと扱ってきたし、それを活動させることの明白さも問題としてこなかった。

自由意志の実在を否定する本や論文の著者は、アドバイスすることが意味をなさない読者にアドバイスをするという困った状況に置かれることになる。

しかし選択肢はもう一つあり、それは沈黙と自殺である。

そして私たちが最も深く恐ろしい見方から目をそらしているのではないかという疑いは未だに根深い。

この疑いを精査してみよう。

私の理性が活動しているという仮定は、その一部が意味をなさないほど欠陥を持っているので間違いかもしれない。

しかし意味を持つ理性の活動が一つもないという考え方はニヒリズムであり、それによると何物も意味をなさない。

確かに私はこのニヒリズムを無視してきたが、それに対して言うべきことは特にない。

なぜならもしニヒリズムが正しいなら私たちはその可能性を真剣に検討するべきであるが、そうするとニヒリズムは間違っているということになるからだ。

というのももし私たちが何かをすべきなら、すべての価値判断が幻想だとするニヒリズムは間違っていることになる。

しかしそれが間違っていてもそうでなくても何も問題とならないため、私たちはそれが間違っていると仮定した方が良い。

ゆえにニヒリズムは無視できる立場なのだ。

ただ、良いものと悪いものがあり希望と後悔の余地があると仮定することと、道徳概念がよく整備されていると仮定することはまた別である。

例えば西洋の伝統における個人の責任の概念は少し首尾一貫していないところがあり、私たちはその周辺の概念、特に罰(punishment)の概念を改訂したり捨てたりしなければならない。

2 責任軽減と忍び寄る無罪の幽霊(Diminished Responsibility and the Specter of Creeping Exculpation)

第2章では完全にカント的な意志が不可能であることを、第4章では百パーセント自身の性格に責任を持つことができないことを見た。

しかし私たち有限で不完全な存在はそれら絶対的存在の近似であることがわかった。

私たちは道徳的責任についても同じような休憩所を探すべきだろう。

私たちは自身と他者が責任を持つことを望むが、特定の他者がその欠点や悲惨な状況のために「責任軽減(diminished responsibility)」を持っていることを認識している。

しかし私たちは皆多かれ少なかれ不完全なのだから、それら全てを言い訳にした後で責任を持つとされる人が残るのだろうか?

カントは私たちは正しい行為だけに責任を持つという。

このテーマはソクラテスの誰も間違ったことをしたいとは願わないという奇妙な主張において最初に現れている。

私たちが恐れているのは社会が割りあてる罰に本当に値する人が誰もいなかったということだろう。

課題となるのは無罪となる病的状態と非難に値する手落ちの間の境界線を引きそれを守ることだ。

すなわち私たちは成人と怪物の間に罪人のための余地(elbow room)を探しているのである*1

形而上学的で絶対の責任を求めても、私たちは天使ではなく環境や過去の影響を受けるのでそれより控えめで減衰した責任を持っていると気づかざるをえない*2

人々はいつ悪い行為に対して責任を持つのかという問いに答えるために、私たちは人々を責任のある状態にしておく点を考えなければならない。

責任についての判断はその責任のある行為者の悪事に対してどのような反応をすべきなのかということを考える地平を設定する。

ゆえに罰を与えることの根拠には私たちの責任のある道徳的行為者としての地位を理解するための重要な考え方が埋め込まれている。

この考え方に焦点を当てるため、施行と罰の複雑なシステムを持つ刑法の規則という伝統的な正当化の「理性的な再構築(rational reconstruction)」を行う。

私たちはなぜ「罪を犯した」人々を罰したいと思うのだろうか?

社会には最小化したい害悪があり、もしそれを禁止したいなら罰によって脅すことでその頻度を減らすことができる。

このことを信じる理由は以下のようなものである。

第一に私たちの理性についての考えから社会の構成員が近似的に理性的なら彼らは禁止された行為を行うことで罰を受けることを望まずそれを差し控えるだろう、ということが帰結する。

そして市民がそのような規則を正しく知っているということについての経験的な証拠は多くある。

しかしこのような法の効果は理想を下回ったものである。

理想的な世界では誰もがただ理性によって正しいことを行い、それゆえに法や罰の体系は必要ない。

だがこのような法のシステムは(私たちと違って)全員が理性的なので完全に悪事を控えさせる。

実際にそうはならない理由の一つは、私たちはこの施行の規則に手を抜いていて、人々が特定の状況では犯罪がリスクに見合うリターンを得られると知っているからである。

24時間監視したり罰を無期懲役にすれば信号無視はなくなるだろうが、そうまでして信号無視をなくすのはコストに見合わない。

ゆえに法整備に手を抜くこと自体も理性的なのだ。

法の施行に対するさらなる投資に対する見返りが減衰していくことから、最善の規則とはある程度の法律違反、逮捕、そして有罪判決を「許容する」ものであるだろう。

しかし法律違反と罰のコストを最小化することの価値を認識すると、要求される法の改善が存在することがわかる。

犯罪の抑止にはいくつかの要素があり、その一つは「広報」だ。

抑止は法を知り罰の条件を理解している人々に対してのみ成功するので、法規則のコストの一部は公教育なのである。

そして広報を成功させる効果的な方法は「法に対して無知であることは言い訳にならない」という法を定めることだ。

無知であることが言い訳にならないため、人々は法とその変更を知りたがるだろう。

そしてそうすることが法についての情報が利用可能となる条件の一部なら、人々にそれを知る責任を求めてもやりすぎではないだろう。

しかし法に対する無知は言い訳にならないという法が自身の独断性に限界を持っていることに言及しておくことが重要である。

それは無知が言い訳となるという弁解の妥当な根拠が直感的に存在しえないと言っているのではなく、通常そのような弁解が考慮されることがないだろうと主要しているに過ぎないのだ。

これらのことを考慮してもまだ、その人に対して法が理想的に機能しないような人が存在することがわかる。

どれほど理解しやすいように法を作ってもそれが理解できない人間は存在するのだ。

このような人は抑止の最低条件をクリアしていないので、私たちはこのような人に犯罪の責任を問わないし、その人を教育して理解の閾値まで高めることは無駄かコストの掛かりすぎる試みだろう。

彼らを責任のある市民として罰することは罰の規則の正当性を損なってしまう。

これらの人々を責任のないものとした扱うのを拒否する法は、秘密の法を作り施行しながら「無知は言い訳にならない」と言うルールを維持する法と同じくらい非道で、市民の合理性を攻撃するものだろう。

ゆえにシステムの信頼性と擁護可能性を保つために、私たちは様々なタイプの人々を法的責任から排除する条項を加えるのである。

これは罰に値する人間の数を減らすが、私たちはこの区別は大雑把なものだと認識し、より細かい区別によって法の信頼性と受容可能性(つまりは正しさ)を向上させられないかと問う。

しかしこの時、犯罪が行われる時法はあらゆる犯罪者を抑止しなかったのだから彼らを赦してもいいのではないか、という全てを転覆させると問いが生まれてくる。

この問いによってシステム全体を崩壊させてしまうと自然状態の害悪が再び戻ってくるので、私たちはまた恣意的に線を引かなければならない。

すなわち私たちは効果的に決定可能な法的能力の閾値を定めなければならない。

それは直感的に説得力のある「反例」が存在しないような区別を目指すものではないが、前もってそのような弁解は考慮されないと宣言するものである。

私たちは非難される者の環境の特定の細かいディテールにこだわるのではなく、その場合に抑止されなかったとしても一般的にこの行為者が抑止可能であることを確証しようとするだけである。

このように原因や環境に深く立ち入らないことは、それが本当に平等なのかという疑いを招くだろう。

しかし好機は平均化されてしまうことを思い出してほしい。

法を犯す賭けを行いその掛金を失うことは非理性的に見えるが、非理性的に賭けたからと言う理由で賭け金が失われるわけではない。

ゆえに法律違反の結果を完全に知りながらリスクを負ったなら、その結果として不平等に罰を課されても文句を言うことはできない。

このような規則は法的に罰することのできる行為者を作る(構成する)という効果を持っている。

そしてこの規則を維持したいなら恣意的な閾値を細かく調整しなければならない。

最適よりも高い閾値は抑止力の低いものとなるし、最適よりも低い閾値は抑止の見返りを減らし他にどうしようもなかった人々も罰してしまう。


ここまでで抑止力としての法規則を見てきたが、それはより基礎的な「規則」である個人の責任の「道徳概念の世界(moral conceptual world)」の正当化を明るみに出す。

私たちはなぜ自分と他者が道徳的に責任を持つとするのだろうか?

おそらくその問いと私たちが実際に責任を持っているかどうかという問いを区別できるだろう。

ある誤りに責任のない人がその責任を取る事例を考えることができるし、その逆もあり得るからだ。

しかし形而上学的な地位として考えて責任がどちらであっても、それが認識可能な社会的に望ましいものと結びつけることができない限りは、私たちの尊厳に関して理性的な主張を行わないだろう。

責任を求めることで、それが彼が作った性質かどうかにかかわりなく彼に望ましくない性質を捨てるように促すことができる。

特定の性質がその人が作ったものかどうかについての終わらない探求を行う代わりに、すなわち特定の自己が自作のものかどうかを分析する代わりに、私たちは人々の行為について彼らに責任を求めるのだ。

そしてそれによって教え込まれた「責任のある」振る舞いの一部としてその戦略を採用することで私たちは報酬を得るのである。

この考え方の自身の個人的な罪や無罪ついての問いに対する示唆を考えてみよう。

私たちが悪事の責任を受け入れるとき、私たちは自分を騙しているのだろうか?

人が持っているか排除されているの二択であるような絶対的な責任が存在すると考えるなら、誤って責任を受け入れたり拒絶したりすることは解くことのできない問題となってくる。

さらに悪いことにカントの言うように私たちは完全に道徳的な行動にしか責任を持ちえないのなら、本当の意味で罰することは丸い四角形のように不可能となるだろう。

これは決定論において責任が生じるのはすべきことをしたときだけで、間違った行動は正しく決定されていないのでそれに責任を持たないということも意味する。

この考えは道徳的に間違った行為への思考の道筋の設計において何か誤った点があるはずだ。

しかし私たちにはそれを探す必要もない。

記憶組織の「ハードウェア」レベルから社会規則のデザインのレベルまで、どのレベルにおいても最良の可能なデザインは、有限性の制約を考えると幾らかの恣意性とリスクを冒すことを含んでいるのだ。

あらゆる有限なコントロールシステムは常に間違った意思決定を行ってしまう可能性を持っている。

それは人間の不可避の特徴であり、自然化された原罪なのだ。

しかしその悪い影響を最小化するために方策を用意することが賢明である。

そしてこの修正を行うためのフィードバックは私たちがここまでで見てきた法における罰の正当化とアナロジーの関係にある。

いくらか恣意的に人々に責任を求めることで、彼らの性格を設計(再設計)するリスクを負うことを強制し、その中で人が間違った行為を行うなら彼は単に賭けに負けたというだけで、罰を受けることに反対するべきではない。

3 否定された「恐ろしい秘密」(The Dread Secret Denied)

自身の欠陥に対する反応として後悔したり自己非難したりするのは、自分の行いをやり直したいという願望と同じくらい非論理的ではないだろうか?

私たちはここまでで社会における自由意志の神話の活用を見てきたのだから、今度はそれ以外にもその規則を受け入れなければならない理由があるのかどうか、そしてプライベートな領域において自身に責任を求めなければならないのかどうか問うのは当然の流れだ。

そしてその時私たちが取るべき態度はどのようなものなのだろうか?

罪という概念が「神の眼前の罪」という絶対的な概念なら、怪物や狂人以外にその意味での罪人は存在しえないので絶対主義者が使う他の概念と同じように退けることができる。

法的な意味や個人に道徳的な責任を求めることの中で非難されるべき罪は存在する。

そうすると後悔や自責という概念が存在する余地はあるのだろうか?

後悔の苦しみにおいてのみ回顧的に現れるが、将来の予想の中では基礎的な欲望に打ち勝つことのない意識は、性格の魅力のない特徴であり、そしてそれなしではどの道徳的世界もうまくいかないものだ。

この後悔は人々に責任を求める規則が達成するために存在している態度である。

ゆえにこの種の後悔は罪の自然化された規則において全く適切な位置を占めている。

自分が行ったことを後悔することなく今までもこれからも悪人であり続けるだろう人を想像してみよう。

私たちはその人を軽蔑すべきだろうか?

彼は自身の軽蔑された状況から脱することは今はできないだろう。

彼が自分の魂を救済したかったならどんな方法であってもやり方を変えて汚名を返上するよう努力しようとできたのである。

反対にもし彼が惨めな状態を目指していたなら彼は自身の完全な不名誉と救いようのなさを想像し無気力と運命論的な態度を促進することができた。

私たちは先のことを考える代わりに落ち込んで自滅的に傍観者の態度をとったりして時間を無駄にするが、幸いなことにこのような抑鬱はすぐに過ぎ去って建設的な思考に戻ってくる。

この気分を知っているので私たちは自由意志は不可能だという証拠だと称する凶兆を正しく評価することができる。

自由意志を求めることの正当な理由があることは自由意志を持っていることを信じる正当な理由があることではないだろうが、それを持っていると信じようとすることの正当な理由があることにはなるようだ。

そして自由意志を持っていると信じることは自由意志を持つことの必要条件でもある。

なぜなら自分が自由意志を持っていないと信じている人は他のどんな条件が揃っていても自由に、責任を持って行為を選択できないだろうからである。

このことによって自由意志のための他のすべての条件が満たされているかまだ確信できない不可知論者は微妙は立場に置かれる。

もし彼が疑いを乗り越えて自由意志を信じることができるようになったなら、彼は(a)本当の自由意志、(b)自由意志の幻想の二つどちらかの状態に至るだろう*3

本書での私の結論は自由意志は幻想ではなく実際に存在するものだというものだった。

私たちが自由意志を求める際に欲しているのは自身の行動を決定すること、それを賢く、私たちの予想と願望に照らされた中で決めることだ。

私たちは自分を制御し、計画と行動に責任を持つ行為者でありることを望む。

これらはすべて私たちがそれであるところのもので、私が示そうとしたのは自然の産物としての生物学的能力と同じように社会への加入によって延長され強化されたものだということだ。

私たちはさらに、これらの能力を使うときそれが常に願望を満たすための唯一の方法で我慢することとならないように世界に余地(elbow room)を望む。

この余地もまた私たちが持ち得るもので、そのために努力するに値するものだが、保障されているわけではない。

私たちは科学が自由は存在しないと示すのではないかと恐れているが、この恐怖は決定論によるものではない(物理学者たちはこの世界が非決定論的だということに同意しているようだ)。

この恐怖は科学が私たちやその他の宇宙、因果関係、時間、そして可能性について教えてくれることを過剰に単純化することで促進される。

科学的イメージの詳細をよく見ることを拒否する限り自由と科学は共存しないのではないかというこの疑いは存在し続けるだろう。

哲学や科学の方法の消し去りがたい一部には、何が可能で何が不可能かを人が何を想像できて何を想像できないかで判断してしまうというものがある。

想像できないものは不可能であるという主張に対して私がとった戦略は「もっとがんばれ」というものだった*4

私が使った直感ポンプは今まで想像できなかったものを想像することを助けるように設計されている。

私たちは今や理性の声に耳を傾けながらも因果的な環境から排除されない者を、コントロールできない現状と環境によって意思決定が引き起こされながらも自分を制御し、環境に制御されない者を、自分の性格に責任のない行為者において始まる自己創造のプロセスを、理性的で決定論的だが開かれた者として未来を見ても騙されない者を、別のやり方で行為できなかったとしても責任を持ち自由な行為者を想像することができる。

このことによってさらに、理性、自己制御、自己根源性、機会、回避、そして自己改善などの概念をより明晰に見ることができるようになった。

コメント

第7章では ここまでの章での自由や責任の概念をそもそもなぜ求めるのかについての考察と、社会や法規則への適用が試みられている。

また最終章らしくこれまでの内容の振り返りとまとめで締めくくられている。


第1節ではそもそも著者に自由意志がないのだから何を書いても意味がないというニヒリズムに対する反論が展開されていた。

結局はニヒリズム自身が理論的欠陥を持っているので無視しても構わないというのがデネットの結論のようである。

第2節ではそこから進んで、法規則の構成を見る中で自由意志や責任を持つことの効果が具体的に説明されている。

それは責任を求めることでその人に自身の性格を改善させることができるというものだ。

また罰によるフィードバックは発見学習的な意思決定における誤りを修正する効果も持っている。

第3節では法的な場面だけでなく個人的な内省における後悔=自罰について検討された後、本書全体の成果が確認された。

ここで述べられているのは後悔することがなければ自身の性格を改善する機会もまた与えられないため、後悔は責任を求める法規則の目的(性格の改善)を達成する条件だということだろう。


この章で面白かったのが法規則が完全でないのは完全にする努力がコストに見合わないからだという点だった。

これはこの本で繰り返し登場した、人間は時間的期限があることによって常に不完全な意思決定を行わなければならないという論点とつながっている。

このことを指して「自然化された原罪(Original Sin, naturalized)」という表現が出てきてかっこよかった。

あとは第1節でのニーチェからの引用が後の文脈にどうつながってくるのかがよくわからなかったので、時間があれば『道徳の系譜学』にも当たってみたい。

以上で"Elbow Room"は終わりだが、未だに言語化できないモヤモヤが残る部分はあるので各章を見返しながらより深く解釈していきたいと思う。

というより提示された考え方が新しすぎて脳の構造というか考え方の構造が追いついていないという感じもする。

『解明される意識』の時も内容が馴染んでくるのに時間がかかったので自分で書いた要約を何周かしてみて馴染むのを待つのがいいのかもしれない。

*1:ここでの「怪物」は責任能力のない悪人のこと。

*2:「天使」は完全に理性的なものとして引き合いに出されている。

*3:ここまでで自由意志を望む理由が述べられてきたので、不可知論者は自由意志を望んでいるがそれを確信できないという立場として用いられている。

*4:原著に本当に"try harder"と書いてあって翻訳がふざけているわけではない。

Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第6章

[asin:B013VZO8Z8:detail]


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第6章「「別のやり方もできた」("Could Have Done Otherwise")」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com


本文要約

6 「別のやり方もできた」("Could Have Done Otherwise")

1 私たちは別のやり方もできたかどうかを気にするのだろうか?(Do We Care Whether We Could Have Done Otherwise?)

自由意志について見解の分かれる中で、行為者がある行為に責任を持つためには行為者がその行為を控えることができたという信念が必要であるという点については広く同意が得られている。

これまでの章で私はこの「別のやり方もできた(could have done otherwise)」原則についての意見を表明してこなかった。

まずはこの原則が単純に間違っていることを示し、しかるに「できる(can)」という言葉の意味についての残余の問題に取り組みたい。

自由意志と決定論が共存すると示さねばならない両立論者は「別のやり方もできた」が一見したところの意味を持っておらず、決定論によって否定されるこの言葉の意味が自由とは無関係であると主張する。

しかしこれが懐疑論的見方対しての苦しい弁解であることは明白だ。

私は「別のやり方もできた」が何を意味していようとも、行為が自由で責任のあるものかどうかを考える際に関心の対象となるものでないと論じたい*1

フランクフルトは「別のやり方もできた」原則の反例として、行為者が熟慮の上で行動を選択したが、彼の脳を操作する脳科学者が彼がその行為を選択しなかった場合はそれを強制したという例を挙げている。

この場合行為者は彼の行為に責任を持っているが、別のやり方は可能ではない。

この反例によって「別のやり方もできた」原則が間違っていることは示せても、この事例が特殊なので原則を守る者に修正の機会を与えてしまう。

つまり人がある行為を控えることができなかったなら、彼は責任を持たないという原則が生まれるのだ。

しかし、これから見ていくが、人が別のやり方ができたか否かが気にすることはほとんどないし、気にする時もそれはほとんど責任について伝統的なものとは反対の結論を引き出したいからなのである。


ある人が「他に何もできない」と言う時、それは理性の指導によって彼の意識がその行為を撤回することを不可能にしている場合がある。

これは彼は他に何もできないと考えることによって私たちが彼を非難や賞賛の対象から外さないということを示している*2

彼が何をしたとしても、彼は責任を回避しようとはしていないのだ。

「別のやり方もできた」原則の支持者は全く同じ環境において別のやり方もできたということを主張するが、だいたい同じ環境にあっても別のやり方のできない事例が存在する。

例えば千ドルあげるから罪のない人を拷問して欲しいと言われても、その勧誘がどんな声の調子で行われても、私がどれほどお腹が空いていても私はそれを行うという選択肢を持たないだろう。

これが正しいとしてもこのような私の拒絶が責任のある行為でないと考える人がいるのはなぜだろうか?

それは私はこの申し出を拒絶するようプログラムされたゾンビかもしれないからである。

もし私が理性の声を聞くことができるなら、柔軟に物事の両面を見るべきで独断的であってはならない*3

また、常に物事の両面を見るためにはどんな特定の事例においても「別のやり方もできた」と言えなければならない、と彼らは考えるだろう。

だが柔軟であるための一般的な能力は特定の事例で「別のやり方もできた」ことを必要とはしない。

それが必要とするのはその環境において人が幾つかのバリエーションを持って他のやり方をしたかもしれないことだけなのだ*4

私たちは道徳教育などの先だった努力によって、自分がしたかもしれない(would have done)非道徳的行為が考えられない(できない)ようにする。

責任のある人間であることには自分が非難に値するような行為をできないようにしておくことも含まれるのではないか*5


そしてまた、もし責任が別のやり方もできたかどうかという問いに依拠しているなら、人が責任を持っているかどうかが誰にもわからないという奇妙な問題に直面することになる。

量子論的なレベルでは物事は決定されていないが、脳においてその効果を打ち消して行為が決定されているかもしれない。

脳の構造はあまりに複雑なので決定されているか否か決める証拠を見つけることはとてもできそうにない。

ゆえに責任を持っているかどうかを意思決定が因果関係によって決定されているかどうかに基づかせてしまうと、私たちが特定の行為が責任のあるものだと信じるどんな理由も持ちえない公算は非常に高くなる。

人が本当に関心を持っているのは別のやり方もできたかどうかではなくて、答えることができその答えが重要であるような問いだ。

ある機会において人が別のやり方ができなかったということを知ることで、その人の性格を知ったことにはならない。

なぜなら人は学んだり、記憶したり、飽きたり、別のものに注意を向けたりするために全く同じ心理的もしくは認知的状況に置かれることはないからである。

ゆえに全く同じ状況で別のやり方もできたかどうかという問いの答えは、世界の道行きになんらの違いも生み出さない。

2 私たちが気にしているもの(What We Care About)

別のやり方もできたかどうかが関係なさそうだとしたら、私たちは本当は何に対して関心を持っているのだろうか?

決定論的ロボットMarkⅠを再び登場させてみよう。

ある日、そのロボットが誤って大切なものを壊してしまったとしたら、設計者はそのロボットは他のやり方はできなかったのか、と問うことになるだろう。

当然そのロボットは決定論的なので、設計者が問題にしているのはロボットの設計である。

彼らはこのような出来事がより起こりにくいように再設計することを望む。

しかしこのロボットは発見学習的な手続きを最大限活用していて、その時は不運にもそれが失敗につながっただけなので、ロボットのシステムを改善することはできない。

そして同じ状況に置かれたとき擬似乱数生成機によって違う行動が生み出され、それは多くの場合は正しい行動なのだ。

さらに言うならそのロボットは正しいことができた(could)。

これが意味するのはそのロボットは正しいことができるようよく設計されていた(その「性格」は非難されない)ということだ。

このような失敗は設計者がそのシステムが「別のやり方もできた」事例に数えるものの唯一の例ではない。

例えば埃がシステムを妨げて誤りを犯す場合があるが、このように些細な事例に対して設計者はそれを防ぐようシステムを再設計しようとは思わないだろう。

最もよく設計されていることと間違いを犯さないことの間には違いがあるのだ。

このような事例は常に存在していて、目標となるのはコストパフォーマンスの制約下でそれを最小にとどめることだ。

ゆえに設計者はシステムが誤りを起こしたときそれがシステム上の弱点を示す繰り返されうるものなのか、繰り返されない偶然のものなのか問うことになる*6


私たちが別のやり方もできたのではないかと問うのはなぜだろうか?

ある行為が行われると、私たちはそれがどのように為されたのか、なぜ為されたのか、それにどんな意味付けを行うべきかを知りたいと思う。

すなわち別のやり方もできたのではないかという問いが起こるのは、その行為から未来についてのどんな結論を引き出すべきか知りたいと望むからである。

その問いかけから分かるのはそのような行為を行った者の性格である。

また、この問いが自分の行為に向いたとき、この理由付けはより明確となる。

自分が何か恐ろしい行為をしたとして、全く同じ状況で同じことを行うかどうかを誰が気にするだろうか?

この問いかけによって自身の性格を知り、同じ過ちを犯さないように思考の習慣を調整したりすることができる。

これがロボットの設計者のシステムの脆弱性に対する態度の自己適用版である。

健全な自己制御者は自身の過ちを事故として片付けるのではなくそれに責任を持つ。

それによって将来事故の被害者となる可能性を少なくするのである。

3 虫の「できる」(The Can of Worms)

これらの考えは最後の懐疑論的指摘を招く。

それは、決定論が正しければ起こった出来事は何であれ起こることが可能だった唯一の出来事であり、自分の性格を改善する自己制御者のあがきは意味をなさないというものだ。

それが正しいなら人が行ったことは常に最善で最悪のものである。

さらに回顧的な判断や評価も意味のないものとなる。

なぜなら起こった出来事はすべて起こりえた出来事と同じくらい良く、そして悪いものであるからだ。

ゆえに「別のやり方もできた」原則を捨てたとしても、決定論においては私たちは実際に行った事以外何も為しえないという問題が残っている。

この事から得られる結論は、どの水素原子とも結合しない酸素原子はそう決定されているために、それが水素原子と結合する事は物理的に「不可能」だという事である。

エイヤーズは決定論のこの含意を実際のものだけが可能であるという意味で「実際主義(actualism)」と呼んでいる。

しかしこれは間違いであり、以下の短い論証から決定論自体の反証も得られる。

すなわち酸素原子は2の原子価を持っていて二つの水素原子と結びつき水分子を形成する事が「できる」ので、決定論は間違いである。

ゆえに「できる」という言葉を使う事で実際の物事の周りに余裕を作っておく事が必要である。

そして「できる」という言葉の意味を人間の自由や社会科学だけでなく生物学や工学、そして統計や確率論に依拠するあらゆる分野のために知る必要がある。

例えば生物学者はある種の特徴が他の「可能な」特徴より優れていると言う際に何を意味しているのか?

進化における適応の傾向を記述する際に私たちは良いものとして選択されたデザインと他の「可能な」デザインを区別する。

例えば足の短い馬や模様のないキリンなどといった存在しないが可能な種はたくさんある。

また確率論で私たちはコイントスを表と裏の二つの可能な結果を持つものとして扱い、重力に反して上に飛んで行ったりする可能性は不可能だとして除外する。

このように人はどこを見ても物事のどんな結果が可能でどんな結果が不可能(論理的に不可能ではない)なのか主張する根拠を見つける。


オースティンは「「もし」と「できる」(Ifs and Cans)」の中で「別のやり方もできた」を「もし…なら別のやり方をしたかもしれない(would have done otherwise if…)」と定義しようとしている。

そこでオースティンは「Xができる」は「もしやってみたらXをすることに成功するだろう」そして「Xができた」は「もしやっていたらXをすることに成功しただろう」を意味していると主張している。

しかし彼は現代の科学ではそのような主張は受け入れられないだろうと述べている。

だがこの行き詰まりは現代科学での「できる」が伝統的な行為者性の信念と同じである必要があるという幻想である。

私たちは何かが「できる」という時、細かい状態ではなくもっと一般的なものに関心を向けているのだ。

この点はオノレのオースティンの論文への批判的注釈でよく表されている。

そこで彼は私たちは「できる」の二つの意味、「できる(特定)」と「できる(一般)」を使い分けていると主張している。

そして特定の意味はほとんど退化して「だろう(will)」とほとんど同じで、過去形なら成功を記述する際にしか使われないという。

より便利な概念が「できる(一般)」で、行為者の場合は能力に帰属させたり、動かないものの場合は5章で議論された潜在的状態に帰属させたりする。

しかしこの「できる」の意味は認識論的な概念であり、自己制御者が物事の状態を区分することで生まれてくる。


哲学の伝統では可能性を幾つかの種類に区分してきた。

(a)論理的な可能性:無矛盾に記述できるもの

(b)物理的な可能性:物理法則に反しないもの

(c)認識論的な可能性:ある人が知っていることと矛盾しないもの

哲学の伝統では認識論的な可能性を他のものと区別して無視してきた。

しかしこれが「できる」の謎を解く鍵となるのである。

「できる」の便利な概念、個人的な計画や熟慮だけでなく科学にも基づく概念は可能性の概念である。

そしてそれは一見に反して基本的に「認識論的な」概念なのだ。

スロートはこの概念を「偶然の」出会いの例によって説明している。

ジュールズが彼の友人ジムに偶然銀行で出会った。

それは偶然のように思えるがジュールズが銀行にいるのもジムがそこいるのも予定通りで偶然ではない。

この時ジュールズが時点tにLにいることもジムが時点tにLにいることも偶然ではないが、ジュールズとジムが時点tにLにいること、これが偶然なのだ。

彼らの予定を知っている私たちはこの出会いを予言することができ、彼らの出会いは偶然ではない。

しかしこれは物事の能力がそれが実行される初期状態や背景から独立であることを記述する必要がある偶然性の概念に過ぎない。

例えば虫が鳥に見つからないような模様を持っていることは偶然ではないし、鳥がその虫を捕まえる遺伝子を持っていることも偶然ではない。

しかしその鳥が虫を実際に捕まえることは偶然である。

そしてこのような偶然の積み重ねによって虫と鳥はデザインされてきた。

すなわち自然選択が起こる「可能性」が生じたのである。

生物学者のジャック・モノーは進化における機会、彼のいうところでは「絶対的偶然」の重要性を著している。

その絶対的偶然とはラプラス的世界における運命を認めない限り存在する偶然のことで、そこでモノーは実際主義の罠に陥っている。

ラプラスの世界が決定論的世界を意味しているならモノーは間違っていて、自然選択は「絶対的」偶然を必要とはしない。

自然選択にとって「本質的」ランダム性も完全な独立性も必要ではなく、必要なのは実践的な独立性、ジュールズとジムのようにそれぞれの軌道にありながら「単に偶然に」交差することなのだ。

ラプラス的な決定論世界でも進化は起こる。

なぜなら進化が必要とするのは素材のパターン化されない生成器であり、原因のないそれではないからだ。

プロセスにおいて「本当の」もしくは「客観的な」量子論的もしくは数学的ランダム性が必要とされたり、検知されたりするのかははっきりしない。

ハードウェアコンピューターにおいて、本当にランダムな数列が用いられているか擬似ランダム数列が用いられているかが違いを生み出すのだろうか?

実際の動作上はそれは何の違いも生み出さないのである。

しかし実践上の不可分性は本当の、客観的な可能性ではない。

いわゆる古典物理学もしくはニュートン物理学は決定論的だが、ニュートン的世界のどんな事象でも予測することはできない。

なぜならその予測は無限に正確な初期状態の観察を要求するからである。

ゆえにピンボールの動きでさえも限界のある観察者にとっては予測できないものである。

この結果は「単に認識論的」なものであり、これは自由意志にどんな作用を及ぼすのだろうか?

それは以下のようなことだろうと私は考える。

すなわちカオス的なシステムは世界を混ぜ返して度重なる機会を生み出す物の「実践的」独立性の源泉なのだ*7

そしてこれは私たちの認識論的限界についての事実ではなく、世界そのものに当てはまる事実なのだ。

これによって得られる機会は私たちの機会であるだけでなく母なる自然の、例えば酸素原子が水素原子と結合する機会でもある。

なぜなら局所的に予測可能な「偶然の」衝突を予測することができるような高次の視座は自然のどこを探しても存在しないからである。

安定したものとカオス的なものという物事の特徴の区別は統計的もしくは確率論的に扱わなければならない。

そしてこの区別は私たちだけのものではない。

母なる自然は擬態する虫たちが虫を食べる鳥と出会う可能性を持っていることを知っているので、虫を鳥に見つからないようにデザインした方がいい。

これが彼らによりよく行動する力を授けるのである。

コメント

第6章では「別のやり方もできた(could have done otherwise)」ということが自由意志の条件であるという主張への反論が展開されている。

この主張を鵜呑みにすると、別のやり方ができない決定論的世界では自由意志は存在しないことになってしまう。

ゆえに世界が決定論的だとしても自由意志の存在を主張したいデネットとしてはこの原理を突き崩すことが必要となってくる。


第1節ではそもそも私たちが自由や責任について考える際に「別のやり方もできた」ことが必要ないということが説明されている。

非道徳的な行為を「できる」ことは決して道徳的なことではない。

そして自由のために必要なのは「したかもしれない(would)」ことであり、非道徳的な行為を「できない」ようにしておくのが道徳的なのだ。


第2節では「別のやり方もできた」かどうかを問うことで私たちが知りたいことがなんなのか説明されている。

それは自分の性格を知ることであり、これは第4章で登場した自己評価=自己定義と重なってくる行為だ*8

そしてそれによって自分の性格を修正して第1節で見たような非道徳的な行為を「できない」ようにしておくことが可能となってくる。

またこの自己修正のプロセスは同じく第4章で登場した漸進的に責任のある人間となっていくプロセスのことを表現しているのだろう*9


3節の内容は事象が予測できなことから認識論的な可能性が生まれるという話から始まって、そのことから人間以外が持つ可能性までもが確保されるに至った。

実際に起こる出来事しか起こりえないという実際主義は決定論を考える際に陥りがちな考え方だが、それは可能性という概念をよく考えることで回避できるとデネットは言う。

どれほど高次であっても有限な観察者からすると世界の事象は予測できないものであり、それらは物事の状態を確定的に予測するのではなく可能性の形で保留しておくしかない。

ゆえに「母なる自然」は可能性を加味して生物をデザインするより他にないのだ。

これは擬人法なので正確な言い方をすると、様々な可能性を考慮した形質を持っている方が適応的(淘汰されにくい)だということになる。

またこのように予測ができないことから自然選択が発生する可能性が生まれるので、予測できないことは進化そのものが成り立つ条件でもある*10

ただよくわからなかったのは酸素原子と水素原子が結合する可能性の話で、これは可能性の概念がそもそも認識論的だから実際主義が退けられて結合が可能となるという解釈でいいのだろうか。

それとも無機物においても「安定なものの生存」という意味で自然選択が行われるがゆえに、結合できる原子が適応的(安定的)で生き残ってきたということなのだろうか*11

ランダム性の話も分かりづらかったが、これは可能性が認識論的である以上本当にランダムなものと擬似的にランダムなものが認識上区別できないことからどちらでも構わないということだと思う。

認識論上の可能性が重要となってくるという論点は第5章第3節での予測と「不可避」という概念の関係を踏襲しているものと思われる。

結局人間は予測の範囲(思考フレーム)内でしか考えられないので可能性という概念も予測と対応する形で考えていけばいいのだ。

だから自由という概念もラプラスの悪魔的な視点からはなくなってしまうのかもしれないが人間の限られた視点からは存在している。

そして自由が存在してしまうがゆえに私たちは考えることをやめられないとも言える。


ちょうど読んでいた京極夏彦の『鬼談』の「鬼棲」という短編に「恐怖は人間が常に行う予感から生まれる」という話があり、この思考フレームの話とつながっているように思うので引用しておく*12

「予感は、根拠が何もなくたってするものなのよ。人は、何もなくても何かを感じるものなの。直接的な因果関係がなくたって構わないの。人は常に何かを予感しているんだわ。希望だったり絶望だったり、そういう内面の動きも予感を作り出すわよね。人だけが予感を持つのよ。というか、予感するから人なのよね。一番わかりやすいのは、恐怖ね。」(p188)

「恐怖は、死や暴力そのものではないのよ。死や暴力を受けることを、予感することが恐怖なの。(中略)恐怖というものは、何かが起こる前に感じるものなの。」(p196)

これは人間が常に自分の思考フレーム(予測)の中で生きいて、そうであるがゆえに恐怖が生まれることを示しているのだろう。

常に何かを予感しているという論点は『解明される意識』第1章で夢や幻覚が作り出されるプロセスの説明でも登場している*13

*1:デネット決定論と自由意志が両立するという両立主義(compatibilist)である。

*2:理性の指導によって他の行為が選択できない場合にも責任が伴うということだろう。

*3:理性の声を聞くことができる=ゾンビではない

*4:千ドルもらって拷問ができたことが必要なのではなくそうしたかもしれない(実際にはできない)ことだけで要件を満たすということ。

*5:第4章における責任のある人間となっていくプロセスを参照。 re-venant.hatenablog.com

*6:後に出てくる予測できる事象とカオス的な事象の区別を先取りしているのだろう。

*7:決定論的な因果関係からの独立のことを言っているのだろう。実践的には非決定論に扱わなければならないということ。

*8:第4章第2節参照。 re-venant.hatenablog.com

*9:ここは第4章第3節の内容。

*10:第3節の鳥と虫の例を参照。

*11:利己的な遺伝子』の第1章冒頭に「安定なものの生存」についての話がある。

*12:

*13:re-venant.hatenablog.com