映画『ハーモニー』

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以下に書くのは映画の感想や解釈ではなく、個人的な妄想や心情の吐露である。

伊藤計劃の小説『虐殺器官』の文庫版の巻末に付された解説に、2009年7月の星雲賞授賞式に亡くなった本人に代わって登壇した伊藤計劃の母の述懐が掲載されている。
曰く、死の直前彼は「書きたいことがまだいっぱいある」と語り、『ハーモニー』は抗癌剤放射線治療中に書き上げられたものだという。

そんな『ハーモニー』は、いわば作者が死に瀕しながらも「書きたい」という自らの願いを叶えるために生命を振り絞って書かれた作品だ。
未だ書かれていない多くの「書きたいこと」が永遠に損なわれる中で、ギリギリで残された作品なのだ。
この映画はそんな作品を映画化したものである。

人は、個体は死を避けられない。
それでも人は遺伝子や自らの考えを残すため生きていく。
なぜならそれこそが、いつか死ぬとしても生きることの意味だからだ。

彼は自らの死が近づく中で、生きることの意味に、何かを伝えることに極限まで忠実であった。
癌に侵され病床に着いてなお、彼は自らの中にある「書きたいこと」を表現することを止めなかった。
その「書きたいこと」を書くことが苦しみを受け入れて静かに死ぬことよりも重大なことだと知っていたからだ。
それは自らの身体の死と、生きることの意味の追求が対立した極限の状況だ。
そんな極限から生み出された作品が彼の死後多くの人の手によって映像化され、さらに多くの人の元に届けられている。

ところでこの映画の主題歌はEGOISTの『Ghost of a smile』、幽霊が歌う生前の恋人へのラブソングだ。
すでに死んでしまった彼女(彼)は恋人に向けて、伝わるはずのない想いを歌う。
映画館でこの曲を聴いた時、僕はこの「伝えたかった想いを死後歌う誰か」と「書きたかったことを死後映画の形で伝える伊藤計劃」を重ね合わせずにいられなかった。

この曲を聴いて彼のことを考えながら、映画を製作した人々の名前がエンドロールとして流れてくるのを見て、そして同じスクリーンで映画を見ているたくさんの人の姿を見た時、僕は涙を止めることができなかった。
伊藤計劃が苦しみの中で何とか書き記した「書きたかったこと」が映画製作という形で多くの人に語り継がれて、それによってさらに多くに人に伝えられている現場を僕は見たのだ。

彼が癌に侵されながら抱き続けた「書きたい、伝えたい」という想いがここで報われている。
自らの身体が死を迎えようとしていても、それに抗って生きることの意味を追い続けることに、何かを伝えるのを諦めなかったことに意味があったのだと示されているのだ。
だからこれは人が自らの死後にも何かを残すことができて、それを多くの人々が語り継いでくれることの証明だ。

僕はきっと彼ほどのものを何も残せないだろう。
それでも人が死んだ後にも何かが受け継がれていくことを示されて、死を運命付けられてなお生きる意味を果たそうとする足掻きが報われることを示されて、死すべき人間の一人として感動せずにいられなかった。

僕たち個人は死んだ後に世界がどうなっていくか知ることはできない。
それは主観的な世界の消滅をも意味する。
いつか死によってすべてが消えてしまうとしたら、生きることはあまりに無意味ではないだろうか?
それでも人は生きる。自らの死後、自らが知りえないとしても何かが残され、受け継がれることを信じて。
『ハーモニー』のエンドロールを見た時、僕はそのことを信じるに足る証拠が得られたように思った。
そしてその時、この生きるという悲劇を初めて自分の運命として引き受けられたような気がしたのだ。


以上のことを納得してもらおうとは思わない。
死者は何も語らない。死者の想いの代弁はすべて妄想だ。
しかしこの妄想を抱いて初めて、僕は彼の死を受け入れることができたように思う。
だからこれは僕の個人的な妄想と、追悼の文章である。

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