ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅰ部

ダニエル・C・デネットの『解明される意識』を読んでいる。

この記事では第Ⅰ部の内容で、関心がある項目についてのまとめと読んで思ったことを書く。

なお本文引用の際は脚注に「章番号.節番号.段落番号 ページ数」を付記した。

本文要約

1.はじめに:いかにして幻覚は可能であるか?

まずいわゆる「水槽の中の脳」の問題が扱われる。

脳に偽物の信号を与えて偽りの世界を知覚させることは原理的には可能だが、現在考えられる技術では事実上不可能であるということが示される。

哲学では原理上可能なことを対象として良いが、科学の立場からは事実上不可能なことは扱わない。

デネットはこの世界そのものの幻覚を「強い幻覚」と呼び、幽霊など世界の一部をなす幻覚を「弱い幻覚」と呼んでいる。

科学の立場から論を展開するデネットにとって強い幻覚は事実上不可能であるためにそれついて考える必要はない。

しかし弱い幻覚は現に存在していることが科学的観察からも認められるので考察の対象となる。


そして次に弱い幻覚の発生プロセスが説明される。

我々は先に主体的に世界についての「仮説」を作っており、それを感覚刺激によってテストして正しいかどうか検証する、と言った仕方で認識を行っている。

そして、感覚刺激によるテストが何らかの形で狂った時幻覚や夢が生まれるのである。

夢や幻覚が願望や不安を実現する形で現れることもこの説で説明できる。

2.意識を説明すること

この章ではまず二元論者によって神秘とみなされている意識の性質が確認される。

それは

  1. イメージが描き出される時の仲だちや手段であること。
  2. 考える主体であること。
  3. 感覚を得たり、感情を持ったり、価値判断基準を持つ主体であること。
  4. 行為の責任を持つこと。

である。


そして次に唯物論の立場からの心身二元論に対する論駁が行われる。

まず心身二元論では心(魂)と身体は別の実体であるとされるが、我々の行為や認識が行われるためには心と体の間で何らかの交流がなければならない。

しかし物質と別種の実体である心は物理的エネルギーや質量を持たない。

ゆえに心は、物質からなり物理的エネルギーによって動く身体を動かせないのである。

もし動かせるのだとしたら、エネルギー保存の法則に反してしまう。

それで、二元論的立場に立つと、意識は科学的には全く説明できない神秘ということになってしまう。

それゆえに二元論者は、科学者は意識に対してどんな理論も持ちえず、いかなる理解もありえないと主張する。

デネットはこのような二元論者の思考停止を認めず、意識を唯物論的に説明することに挑戦する。

3.現象学の園探訪

この章では内観的に意識現象を探求する方法の一つとして現象学が紹介され、その現象学で扱われる現象の内容が概観される。

ここで現象は

  1. 外的な世界の体験
  2. 内的な世界の体験
  3. 情動体験

に大別される。

外的世界の経験とは五感によって知覚されて脳の中に現れる諸々の現象のことである。

それら五感はすべて無意識的な統合作用の働きを受けている。

その統合作用は五感それぞれの内部でも、また五感同士でも働く。

例えば私たちが一枚の絵のように知覚していると思っている視覚像も、実は小さい焦点の素早い移り変わりによって得られたデータの統合の結果なのである。


内的世界の経験とは文章を読んで想起されるイメージや、空想、夢などといったものだ。

違う人間が同じ文章を読んでもそこから思い浮かべるイメージは千差万別である。

このような心的イメージは視覚的な現象に限定されるわけではない。

また、内的経験は外的世界の経験と同じように様々な感情を呼び起こすことが可能である。


情動的体験については「痛み」や「笑い」が取り上げられる。

我々が痛みを感じたり笑ったりすることの進化論上の意義を論じても「痛み」に固有の「凄まじさ」や「笑い」に特有の「おかしさ」を説明することができない。

それにしても、痛みはどうしてこんなに〈痛く〉なくてはいけないのだろう。*1

以上の現象学では、私たちが自らが得る現象に対して特権的に接することができ、それらを自明のものとして了解しているという点と、いわゆるクオリア問題を唯物論の点からは説明できない点が注目されてきた。

4.現象学に代わる方法

この章ではここからデネットが用いていく「ヘテロ現象学」と呼ばれる方法論について解説される。

まずこれまでに現象学者が採用してきた「一人称複数」での考え方が批判される。

現象学者は自分が接している現象についての考察が、他人においても相違なく成立すると信じて「私たち」という人称を使って議論している。

しかし自分が見て感じている現象と他人が見て感じる現象が同じであるという保証はどこにもない。

さらに前章で見たように、自分が得ている現象についても自分が思ってもいないようなプロセスで成立していることがある。

確かに主体は現象的な体験そのものについては権威者であり続けるが、現象の原因については権威者でもなんでもないのである。


そこでデネットはこのような問題をクリアした上で3人称視点から現象を解明するために「ヘテロ現象学」という方法論を採用する。

ヘテロ現象学では、まず一人称視点からの現象学的言明を全てフィクションとして扱う。

その上で、小説が作者にとっての虚構でない真実を表現していると考えるのと同じ思考を用いてその現象学的言明の真実性を考える。

具体的には、現象学的言明が表しているものと客観的な観察結果を比較して、その中に類似性や因果関係が認められれば、一旦フィクションとされた言明も真実として認められるのである。


この方法は一人称視点での現象学を他者に伝えられないという問題や、自分の意識プロセスを内観的に把握できていないという問題をクリアしている。

ヘテロ現象学は誰でも読めるテキストを対象として扱う事で現象学を三人称的に扱うことを可能としている。

また現象学的言明の真実性を一旦保留することで主体の自己の現象の原因に対する特権性を制限して、意識プロセスについての科学的アプローチを議論に入れ込む余地を生み出してもいる。

感想

1章での「水槽の中の脳」の問題についてだが、自分は事実上不可能だからといってその思考実験が意味をなさないとは思わない。

事実上不可能であることの根拠が「現在考えられる技術において不可能」ということなら、我々の考え付きもしないような技術なら事実上不可能ではないということになる。

要するにこの辺りが原理的には可能ということなのだろうし、とすれば自分の思考はどうにも哲学者寄りであるようだ。

そもそも「科学的アプローチによって意識を解明する」という本書の趣旨からすれば現行の科学の枠を超えるような技術について紙面を割くのは無駄だろうし、ここでは事実上不可能ということで構わないと思う。


4章での現象学批判はとても面白く、目を覚まされる思いだった。

自分もどこかで一人称的に行う現象学が他者の現象についてもそっくりそのまま当てはまると思い込んでいたところがある。

また、ヘテロ現象学での主観的に現象を記述したものを一旦全てフィクションとしてしまう態度は小説がフィクションである必然性をも説明しているように思う。

主観的考えを間主観的に表明することはフィクションを創作することでしかありえないのではないか。

その点についてはまた別に掘り下げてみたい。


第Ⅱ部、第Ⅲ部のまとめと感想は以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:3.4.4 p82