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J.S.ミル『自由論』 / パターナリズム

学術書 レビュー

2年ほど前(学部一回生の頃)に書いたJ.S.ミル『自由論』についてのレビューとそれを踏まえた「パターナリズム*1」についての論考が発掘されたので多少手直しして掲載しておく。

1.初めに

私たちは何かを判断する際に、自分で考えてそれをするか自分より賢い(と考えられる)人間の判断を仰ぐか悩むものである。

パターナリズムというのは要するに自分ではなく何らかの権威者や政府に判断に任せた方が人生がより良くなるのではないかという考え方である。

これは自由主義の思想と真っ向から対立する。

権威者や政府が個人の行動全てを決めてしまうなら、そこに個人の自由は存在しない。

J.S.ミル『自由論』は個人が自由に判断して行動することの重要性を説いた著作であり、それを踏まえながらパターナリズムに反論していくというのが本稿の趣旨である。

2.基本原則

パターナリズムについてのJ.S.ミルの議論を確認していくにあたって、まず前提として必要なのは「より多様な個性があり、より多様な生活の実験があることが社会にとって利益となる」という原理と「人は自ら判断することによって初めて自らの理性をよりよいものとすることができ、個人の理性の質の向上によっても社会は利益を得る」という原理であろう。

前者についてミルは

人間が不完全である間は、異なった意見の存在していることが有益であるのと同様に、異なった生活の実験の存在していることもまた有益なのである。*2

と述べている。

その根拠は、ある人の生活様式が絶対的に正しいなどということは原理的にありえず、現状「正しい」と考えられている生活様式が、他者の異なった生活様式によって絶えず批判されることが有益だということである。

また、後者の原理について

知覚、判断、識別する感情、心的活動、更に進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨されるのである。*3

と述べている。

これをパターナリズムについての議論に当てはめよう。

人々が権威者や専門家の判断に従ってばかりいて自ら判断をすることがなくなってしまうと、彼らの理性の能力は成長せず、さらに専門家の意見への依存度を上げることとなるだろう。

これが前者の原理に照らし合わせて、社会にとって不利益になることは明らかである。

というのも全ての個人が指導に従って生活するなら、多様な生活の実験は起こらない。

以下ではこの2つの原理を踏まえ、社会と専門家、もしくは指導的な立場にある人物の指導に従って生きることの弊害を見ていく。
 

3.社会によるパターナリズム

まず社会を指導者とするパターナリズムをミルが退け個人の自由を養護する根拠としてあげているものは、社会が一個人に対して抱いている関心は個人が自分に対して抱いている関心よりもすっと薄いという点である。

そして次に個人は自分の境遇、感情について他の人では決してありえないほど深く知りうるので、社会が彼になすよりもより適した方法で自分の利益となるような行動を選びとることが出来るという点である。

前者の根拠については、社会が関心を持たねばならない項目の多さと個人のそれの数を比較すれば自明であろう。

そして後者についてもミルは自明のものとして扱っている。

仮に社会が個人に対してその人の利益になると推定される行為を強制するとすれば、その理想を導き出した推論は社会の構成員もしくは権威者がただの一人の一般的人間としての彼の境遇を想像して行う「一般的推論」の域を出ることは決して無い。

それゆえに

彼自身の感情と境遇とに関しては、他のいかなる人のもちうる理解の手段よりも、量り知れないほどまさった理解の手段を持っている。*4

つまり、個人が自分の今後の行動について為す推論のほうがよりよい結論を導き出す可能性が高いのである。

しかし、個人の行為が明らかに誤った彼自身の身を滅ぼすもの、そして間接的に社会の損害となるようなもののように見えても、社会は彼に行為を改めるよう強制するべきではないのだろうか。

これについてミルは、これらの行為が他者に対する危害を生み出したりそれらの行為で身を滅ぼしたために、子どもの養育、教育といった道徳的義務に違反するならば

その事件は、自己配慮の〔自己にのみ関わる〕行為にはもはや属しないで、本来の意味における道徳的非難を受け無くてはならないものとなるのである。*5

と述べている。

しかし、

公衆に対する明確な義務に違反することなく、また自己自身以外の、誰それと名指すことの出来る個人に対して明白な損害を与えることもないような行為によって、社会に及ぼす単に偶然的な―或いは推定的とも呼ばれうるような―損害に関しては、社会は、この迷惑を、人間の自由という一層重大な利益のために、耐え忍ぶことができないわけではない。*6

とも述べているのである。

つまり、他者に直接の危害を加えるような行為以外が自由に行われることで社会が得られる利益は、間接的に社会が被るかもしれない不利益よりも大きい、とミルは考えているのである。

その上でミルは、社会の統制について

その(社会が個人に対して絶対的に支配する資格を持つものとしての)原理とは、人類がそのいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠を持つとされる唯一の根拠は、自己防衛であるというにある。また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされる唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある。*7

というように結論づけている。

これがいわゆる有名な「危害原則」と呼ばれるものである。
 

4.個人によるパターナリズム

次に一部の個人を指導者とするパターナリズムについてであるが、これについては少々込み入っている。

主権者である多数者が、自分から、より高い天賦と教育とを備えた一人または少数者の忠言と感化とによって指導されるのでない限りは(多数者が最良の政治を行っていた時代には彼らは常にそのような指導に服していたのであった)、民主制または多数貴族制による政治は、その政治活動においても、またそれの育成する思想や資質や精神状態においても、凡庸以上に出たことは一度もなかったし、また出ることができなかった。*8

と述べられている点からわかるように、ミルはある突出した能力や見識を持つ個人、または少数からなる集団が民衆に対して指導的立場にあることの有用性については、これを全面的に認めている。

しかし、これがこのような指導的な人物に足して至上の命令権を与え、全世界の民衆をそれに服従せしめるような状況については容認していない。

他の人々を強制して、その道を行かせるような権力は、他のすべての人々の自由や発展と相容れないのみでなく、強者自身も墜落させることとなる。*9

つまり、指導的な立場にある人間が「指導」することは認められ、「命令」することは認められていないのである。

もし仮に彼らが大衆に命令して彼らに服従させるならば、大衆に属する個人個人の自由を阻害することで生活の実験の多様性が失われるという点から見ても弊害があり、また権威者自身の思想や行動様式が批判にさらされないことによって、それ自身も時代に合わない物となってしまうおそれがあるのである。

5.結論

以上より、ミルがパターナリズムに対して懐疑的であり、むしろ判断というものが(あくまで他者に危害を加えない限りでは)個人に任されるべきであると考えていることが示された。

6.補足

『自由論』において重要なのは「多様性」と「批判」の存在である。

私個人としても多様性と批判が存在することの意義には大いに同意できるし、この本を読んでかなり影響を受けた。

またこの思想は進化論における「適者生存」の思想と似通っているようにも考えられる。

『自由論』が出版された1859年はチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が出版された年と同じだが、その両者で展開される思想に類似点が見出されるのはかなり興味深い。

思えばリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』を読んだのもこのころ(学部一回生)だったし、ミルの思想に深く納得したのはこの本に原因があるのかもしれない。

                               

参考文献

自由論 (岩波文庫)

自由論 (岩波文庫)

リベラリズム聖典として名高い本著だが、今読んでも全然面白い。
個人的にP139あたりで1850年代のイギリスの裁判での陪審員や法律家に対してミルがブチ切れて貶しまくるところが一番面白いと思う。

*1:Paternalism (Stanford Encyclopedia of Philosophy) など

*2:『自由論』P.115

*3:同P.109

*4:同P.154

*5:同P.164

*6:同P.166

*7:同P.24()内は筆者補足

*8:同P.134

*9:同P.134