舞城王太郎『深夜百太郎 入口/出口』
舞城王太郎の新刊は短編を100個積み重ねた百物語。
前作『淵の王』からの流れのままにがっつりホラーだった。
百篇それぞれが物足りなさを感じさせない短篇として完成されたものでとても面白く、そして怖かった。
初期の(メタ)ミステリ(『ディスコ探偵水曜日』『九十九十九』など)から純文学(『好き好き大好き超愛してる』など)に移行してきた舞城だが、『短篇五芒星』や『キミトピア』あたりからだんだんと怪談の要素が入ってきて今回はほぼ全編にわたってホラーである。
ミステリにおける舞城では「謎」は「解かれるもの」もしくは単に物語を進める舞台装置として在ったが、怪談における舞城では「謎」は「解かれるもの」としてではなく純粋に理不尽として人々に襲いかかる。
怪談として書かれた小説群でも純文の時期の舞城から一貫して母と子、妻と夫などの人間関係やその中で生まれる心情に焦点が当たっていて、それら怪談の中では「謎」は今度は物語を進めるためではなく人間の様々な心情を引き出すための装置として存在している。
単純にテーマ性/興味の移り変わりから「謎」の扱いが変わったとも考えられるし、舞城の中で「謎」は解かれるためのものだという考えから「謎」を解くことが本質ではないという考え方に移る契機となる事件があったのかもしれない。
テーマ性の変遷からの作風の変化なのだとしたら、フィクションにおいて人間の心理を描く上で自分が過去描いてきた「謎」をどう使えるかと考えた結果「怪談」というフォーマットが採用されたとも考えられる。
以下は『深夜百太郎』の中で印象的だった短篇それぞれについて書く。
それぞれの結末にも触れるので未読の方は先に本編を読んでほしい。
・三太郎 「地獄の子」
全編通して一番オチが怖い。
やはり一番怖いのは自分が信じていたものが一気に崩れ去る瞬間だというのを実感する。
・十一太郎「友達の家」
数段階に分かれて事実が明かされていく流れも怖いが、一緒に死んだ友達にも見捨てられてその友達の家で一人佇む幽霊と、静寂に包まれたその家のイメージがとても切ない。
・十二太郎「笑う鬼」
自分の中に「笑う鬼」が生まれ、突然愛しているはずの子供を苛め始める母親とその心理描写の自然さが怖い。
「笑う鬼」が夫の中にも生まれて自分が逆に苛められようとしていると分かった瞬間の「私」の夫に対する恐怖心もひしひしと伝わってくる。
・三十六太郎「横内さん」
この短編だけ他の二倍くらいの分量がある。
山の真っ暗闇の中、背後から得体の知れない者が話しかけてくるという場面で、主人公の緊張感を読者も共有した中で何段もの結末がスピーディに提示されるので息もつかせない展開になっている。
・三十七太郎「空の大王」
一人称視点での自己分析が一瞬で全てひっくり返されるのが衝撃的で良い。
狂気に取り付かれた「私」醜悪な姿と、その事実を自分に対しても隠蔽し続ける心理が怖い。
・五十二太郎「ダムでカヤック」
ダム湖に一人カヤックに乗って浮かぶ「彼女」と、ダム湖の中に棲む人の形をした何かが触れ合う光景が美しく、恐ろしい。
「一人で沈みたくない」と泣きながらもダム湖に棲む者たちに食い殺される彼女を諦めながらも、沈んでしまわないように彼女の死体を引き上げる「俺」の愛情が切ない。
・五十九太郎「駐車場の私の車」
すれ違っていた夫婦の仲が直って幸福な生活を取り戻したという高揚感から唐突に「私」が死ぬ衝撃的な展開と、その死の伏線が短編の中で巧みに描かれている。
・六十五太郎「うろうろ息子」
死後も自宅の周りをうろつくが自宅にはやってこない息子の幽霊による周辺の住人に対する迷惑を考えて、息子の幽霊に一度も会わずに引っ越すことを決めた母親の「さようならは葬式で言った」という述懐が胸を突く。
・七十三太郎「出戻りの家」
飛び降りによる子供との無理心中によって足と腰の骨が砕けた「出戻り」の元妻の幽霊が、出戻りの家の天井の上で砕けた足腰で子供を抱えてふらふらしながらバランスをとる際の「踊っているように見え」る様子が非常に恐ろしく、そしてどこか切ない。
その幽霊が「出戻り」の一家を恨み殺そうとしているところを「私」に見られていることを知って「あなたも女の子なら、邪魔しないで」と制止するのだが、女性、特に母一般の自分を捨てた夫に対する恨みがそのセリフに克明に描き出されているように思った。
・九十八太郎「寝ずの番」
これだけやたらとスペクタクルでなんというかジブリっぽくて面白かった。
・百太郎「ワタシシ死」
後悔が自分に対する殺意となり、時間をさかのぼって結局その後悔の原因を作っていくというループ構造がとにかく救われなくて恐ろしかった。