ハイデガー『存在と時間』(一)①


2013年に出た熊野純彦訳の岩波文庫版『存在と時間』を読んでいる。

この記事では序論(第一節〜第八節)の内容とそれについての感想を書いていく。

本書冒頭には熊野純彦による梗概が付いているが、読んでもさっぱりわからなかったので自分の理解できる範囲でそれよりも詳しく書こうと思う。

なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

序論 存在の意味への問いの呈示

第一章 存在の問いの必然性と構造、ならびにその優位

第一節 存在への問いを明示的に反復することの必要性

存在への問いは今日では忘却されてしまっている。

その忘却を生み出す先入見が三つある。

一つ目は、存在は最も普遍的な概念であるというものである。

これによって存在の概念は最も明晰で、究明を必要としないものだと考えられているが、実際はもっと曖昧なものである。

二つ目の先入見は存在という概念は定義不可能であるというものだ。

定義が最近類と種差からなされると考えると、確かにそうである。

最近類と種差からなされる定義とは、例えば人間を定義する際に「動物」という最近類と「理性的である」という種差を加えて定義することである。

確かに「存在」に何かしらの存在者を述語付けることはできないが、それは「存在」は存在者ではないということでしかない。*1

ゆえに定義できないからと言って存在の意味への問いが必要なくなるということはない。

三つ目の先入見は存在は自明な概念であるというものである。

確かに日常会話の中で「〜ある」という表現を用いて、それは直ちに理解される。

私たちはそのような存在了解の中で生きているが、同時に存在の意味は暗がりの中である。

このことは存在の意味への問いを反復することの必然性を証明している。

以上三つの先入見を考えることで、存在への問いには答えが見つかっていないことだけでなく「問い」そのものが方向性を見失っていることがわかる。

ゆえにまずは適切に問題を設定しなければならない。

第二節 存在への問いの形式的な構造

何かを問う時、問われる対象が常にある。

そして問うことは「問う者」という存在者の存在様態の一つである。

存在の意味を問う際にその問いは「存在」という対象を前提しているのだから、私たちは存在の意味を問う際に「存在」という対象を先立って知っている。

この「平均的な存在了解」については存在の概念が明確になって初めてその詳しい内容が理解できる。


「存在」はそれを述語付けられる「存在者」とは別のものであるため、存在を理解するためには存在者を理解するのとは別の概念構成が必要になる。

存在者の存在は、それ自身一個の存在者で「ある」のではない。
(Das Sein des Seienden "ist" nicht selbst ein Seiendes.)
*2

「存在」は存在者が存在していることを意味していて、それゆえに存在への問いで問いかけられているのは存在者である。

そうすると、まずどのような存在者に対して存在への問いを行うべきなのだろうか。


存在への問いを問うこと自体が私たち存在者の存在様態の一つなのだから、存在への問いの構造を明確にすることはその「問う存在者」を存在の側から明らかにすることだ。

ゆえに存在の意味への問いは「存在」そのものによって規定されている。

この問うという存在様態が可能である存在者を「現存在(Dasein)」と呼ぶ。

ところで、存在によって規定されている存在者に基づいて存在を探求するこのような試みは循環に陥っているのではないだろうか。

存在者(現存在)が存在によって規定される際に存在について明瞭に知っている必要はないので、ここに命題の証明におけるような循環はない。

そして先立った存在了解が現存在の本質的なあり方に属していることは存在の問いの最も固有で注目すべき点である。

ゆえに存在の問いでまず問われるべき存在者とはこの現存在に他ならない。

第三節 存在の問いの存在論的優位

存在の問いは何の役に立つのだろうか。

存在するもの全ては歴史、自然、言語など様々な事象領域に区分されていて、それらを対象とするそれぞれの学問がある。

その区分は最初大まかで素朴になされているが、学問の進歩とはその学問の対象でとなっている事象領域の根本体制への問いのうちにある。

現在、様々な学問領域の中でその根本を基礎付け直そうという動きが出てきている。

数学、物理学、生物学、歴史学的な精神科学、神学がその例だ。

事象領域を区分していく規則である根本概念が基礎付けられるのは、事象領域そのものが研究され尽くした場合のみである。

それぞれの事象領域は存在するもの全てからカテゴリー分けされてきたものなのだから、そのような研究とは存在者を存在の根本体制に基づいて解釈することである。


プラトンアリストテレスの探求が示しているように、存在の問いは諸学問に先行し得る。

「存在論*3」的に問うことは諸学より根本的ではあるが、それが存在一般への見通しを書いているならなお素朴なものでしかない。

なぜならその「存在論」の系譜学的な課題がすでに現存在が持っている先立った平均的存在了解を前提としているからだ。

存在の問いは諸学を基礎付けるアプリオリな条件を探求しているだけではなく、存在論そのものを成り立たせる条件を探求しているのである。

すべての存在論は、どれほど豊かで確立されたカテゴリー体系を取り扱うことができたとしても、まず存在の意味を十分に明瞭にせず、その明瞭化をじぶんの基礎的課題として把握しないままであるなら、根底において方向を見失っており、自分に固有な意図を転倒したままであり続けるのだ。*4

第四節 存在の問いの存在的優位

学問一般は真な命題の連関の全体と捉えれれているがそれは正しくなく、人間の存在の仕方を含んでいる。

現存在は自分の存在においてその存在自体が問題となり、そのことで存在論的に存在していいるため他の存在者からきわだっている。

存在論的に存在していることは存在論を形成することではなく、その存在論的な存在は前存在論的なこととして考えられる。

とはいえ現存在は存在を前もって了解しているという様式で存在しているので、単に存在的に存在しているのではない*5


現存在が常に関わっている自らの存在自体を「実存(Existenz)」と名付ける。

現存在の本質はその都度自らの存在でなければならないということである。

現存在は自分自身を自らの実存から、つまり自分の可能性から理解している。

実存の問いは実存するものによってのみ決着がつけられなくてはならず、この現存在自身による実存の理解が「実存的了解」と呼ばれる。

そして実存の存在論的構造を解明することは、実存を構成するものを解釈的に解明することであり、ここで解明される実存を構成するものの連関を「実存的なありかた」と呼ぶ。

この実存的なありかたの分析は実存論的な理解であり、この現存在についての実存論的分析論は存在を先立って了解しているという現存在の存在体制のうちであらかじめ大まかに告げられている。

実存は現存在を規定しているので、現存在の分析のためには実存的なありかたを究明することが必要である。

そして実存するもの(現存在)の存在体制を解明することで存在一般の解明に至ることができる。


学問は現存在の存在様態の一つでありその中で現存在は他の現存在や存在了解を持っていない存在者に関わっている。

また現存在は本質的に世界の中に存在している。

ゆえに学問の中で接近可能な存在者への理解と世界そのものへの理解は、現存在の存在了解に根ざしている。

このようにして各種の存在論は現存在の存在的な構造に基礎付けられ動機付けられもしている。

この構造は実存による規定の中に内包されているため、すべての基礎的存在論は実存論的分析論の中にあり、その他の存在論はそこから出発しなければならない。

以上から、現存在はその他の存在者に先んじて問いかけられるべきであることを示すいくつかの優位性を持っている。

一つ目は実存によって規定されていること、二つ目はそのあり方によってそれ自身が存在論的であるということ、三つ目は今見たようにすべての存在論を可能にする条件であることである。

また哲学的に存在を問うことそのものが現存在の存在様態の一つとして掴み取られている場合のみ、実存的なありかたを解明し存在論を始めることができる。

この現存在の優位はパルメニデスアリストテレストマス・アクィナスも見て取っていた。

さらに、現存在は存在への問いにおいて問いかけられるものであるだけでなく問われている「存在」に関わる存在者でもある。

ゆえに存在への問いは現存在がすでに持っている前存在論的な存在了解を徹底していくことである。

第二章 存在の問いを仕上げる際の二重の課題 探求の方法とその概略

第五節 存在一般の意味を解釈するための地平を発掘することとしての、現存在の存在論的分析論

存在の問いでまず問いかけられるべき現存在はどのようにして理解することができるのだろうか。

現存在が他の存在者に対して優位にあることは、現存在の存在と存在の仕方が直接把握できるということを意味しない。

私たちがまさにそれである以上現存在は最も身近な存在ではあるが、存在論的には最も遠く隔たっている。

それは現存在が関わっている他の存在者すなわち世界の側から自分の存在を理解しているからである。


現存在の存在体制は存在論的探求に先立ってあるので、一般的な意味での存在論での「カテゴリー論」的な構造としての現存在の存在体制は未だ解明されていない。

現存在に含まれる存在了解は、その時々の存在の仕方に応じて形成されたり崩壊したりするので、様々な学問によって別様に解釈されうるという多様性を生み出している。

それらの学問における探求は実存的には根源的だったかもしれないが、実存論的にそうであったかはわからない。

実存的探求と実存論的探求は一致するとは限らないが、互いを排除することもない。

現存在の根本的な構造が存在そのものへの問いに方向付けられて仕上げられるとき、現存在を様々に解釈してきた諸学問の成果が実存論的に正当化されるだろう。

そしてまた現存在が明らかにされていく方法は、現存在が日常的にそうであるあり方に基づいて存在の本質に即した構造を取り上ることで、現存在自身の側から開示されていくという方法でなければならない*6

そのような現存在の分析論は存在の意味への問いを構築して、存在論の準備をするにとどまる。

また現存在の存在の意味として「時間性」が提示されるが、それもまた存在の意味を探求することの準備をするにとどまる。


現存在は「時間」において存在の様々な変様と派生を漠然と理解しているが、時間が存在を理解するための地平として明らかにされるためには、その時間を現存在自身の存在である時間性から解明する必要がある。

そのようにして解明された時間は通俗的な時間概念*7から区別されるものだが、どちらとも時間性から現れてくるものなので、通俗的な時間概念にも独立な地位が与えられる。

時間は「時間的なもの」と「非時間的なもの」「超時間的(永遠)なもの」をカテゴリー的に切り分ける基準として機能してきた。

このようにして通俗的な時間概念は自明とされている存在論的な概念として扱われていて、改めて探求されることはなかった。

しかし存在の意味への問いにおいては時間を正しく解明し、そこに存在論の問題系が根ざしていることを示さなければならない。

存在への問いにおける「時間的」という言葉は単に「時間の中にある」という意味ではない。

通常の「時間的」という言葉と区別するため時間に基づく存在が持つ根源的な意味に基づくありかたを「有時的に規定されたありかた」と名付ける。

存在は時間からしか捉えられないので、存在の問いへの答えが新しいかどうかは関係がない。

むしろ「古い」答えによって過去の哲学者たちが準備してきた様々な可能性が捉え直されなければならないのである。

そしてその答えは、具体的な存在論の探求における指図であるに過ぎない。

第六節 存在論の歴史の破壊という課題

時間性は現存在の時間的な存在の仕方であり、「生起」という存在体制である「歴史性」を可能にする条件である。

そのような歴史性を持つ現存在の存在様式は過ぎ去ったあり方であり、その存在は未来から生起してくる。

現存在のそれぞれの世代における過去は後に続くのではなく先立っているのだ*8

このように現存在が歴史性によって規定されていることから、私たち現存在が歴史学的なありかたを取って歴史学を行うことが可能となる。

現存在は存在一般の意味を問うことで自己の本質的な歴史性に目覚める。

そして現存在が存在論を成り立たせる条件であったことから、その存在への問い自体が歴史的なものでありかつ歴史学的なものであることがわかる。

このように歴史的な現存在は伝統に頽落して、それが持っている先だった存在了解における固有の問い方を見失ってしまう。

伝統として受け継がれてきたカテゴリーや概念は自明なものとされてしまって、それらの根源的な源泉へ至る道筋を覆い隠してしまうのである。

この時現存在は過ぎ去ったありかたへの積極的な遡行を行うことを可能とする条件を理解しなくなり歴史性を失ってしまう。

ギリシアの存在論は中世スコラ哲学を経てヘーゲルに至るまで哲学の概念構成を規定している。

その歴史の経過のうちでデカルトの考える我、主観、自我、理性、精神、人格などの存在圏域が注目されるようになり、その後の問題設定を引っ張ってきた。

そしてこれらの存在圏域の存在そのものについては問われないままになっているのである。

存在の問いを手引きとして、受け継がれてきた存在論的な諸概念を破壊し、伝統によって覆われていた存在の最初の諸規定を発見しなければならない。

その破壊は今日における存在論についての支配的な見方に対して行われて、存在についての根本概念がどこから生まれたのか、それらの限界はどこにあるのかを解明していくことである。

それは存在への問いを構成することの本質に属している。

この破壊において問われるのは過去の哲学者によって存在と時間の現象が共に考えられてきたのかという点である。

カントは図式論において存在と時間の関係への問いから身を引いているが、それはデカルトの立場を無批判に受け入れてしまうことにより主観に先立った存在論的な分析が欠けていたからであり、また通俗的な時間了解をそのまま引き受けてしまっているからだ。

デカルトは「cogito sum(私は考える、私は存在する)」によって全てを基礎づけようとしたが、その存在の仕方に対する問いを持つことができなかった。

これはデカルトが存在者を神による被造物とする中世の存在論を受け継いでしまっているからだ。

そしてまた古代の存在論でも「作り出されること」は存在の契機である。

この古代の存在論を有時性に照らし合わせて分析してみると、存在の了解を時間から獲得していることがわかる。

「οὐσία(ウーシアー)」などの存在を現す表現は「現存していること」を意味していて、存在は「現在」という一つの時間様態から理解されている。

現存在(人間の存在)は語りうることによって規定されていて、語りかけ語り合うことで他の存在者の存在構造を知ることができる*9

そして語ること、思考することは目の前の対象をそのまま受け取ることであり、現在化するという有時的な意味合いを持っている。

ゆえにこのようにして把握されて現在化されるウーシアーという存在者は「現存」するものとして把握されるのである。

このような存在解釈は素朴に時間を存在者の一つとして扱っている。

そしてこのようなものの代表であるアリストテレスの時間論はカントやベルクソンに至るまでの時間の捉え方を規定している。

第七節 探求の現象学的方法

存在論はどのような方法によってなされるべきなのだろうか。

哲学の基礎的な問いである存在への問いの取り扱い方は現象学的なものである。

この現象学という方法は「ことがらそれ自身へ!」という格率を表現している。

「現象」と「学(ロゴス)」という二つの部分からなる現象学という名前の意味を解明するため、以下に「現象」「学」そして合成された「現象学」という言葉について考察していく。

A 現象という概念

現象という述語の語源はギリシア語のファイノメノンであり、それは自分を示すもの、あらわなものを意味している。

ギリシア人はそれを存在者と同一視していた。

それで存在者は時に自分の側から自分自身を示すということがあるが、さらに自分以外に見えるように自分を示すこともありうる。

この他のものであるかのように見える示し方を「仮現する」という。

本書では「現象」という言葉の意味を自身を示すものという意味の方で用いて仮現とは区別する。

この現象は私たちが単に「あらわれ」と呼んでいるものとは異なっている。

例えば風邪をひいて熱が出た時、その熱は熱自身を示しながらも「風邪のあらわれ」として風邪という身体の変調を指標している。

風邪自身は自分を示さないが、熱という兆候(あらわれ)を通じてその存在を告げている。

こうした「あらわれ」は自分を指示しないので現象とも仮象とも異なっていて指標、表示、兆候、象徴と呼ばれる。

しかしこの「あらわれ」が自身を示している(熱が熱自身を示している)と考えたとき、「あらわれ」は自分自身を示すものつまり現象でもある。

ゆえにこの「あらわれ」という概念は多義的で曖昧なものなのだ。

さらに「あらわれ」は何かが兆候を通じて自らをあらわすことという意味も持っている。

そしてまたカントのいう現象という意味での「あらわれ」はその背後にあり私たちには認識しえない「物自体」から生み出されてそれを覆い隠すものという意味も持つ。

「あらわれ」は例えば赤い照明の下で顔が赤く見えるのを熱、そして風邪の兆候と勘違いしてしまうという場合に仮象に転じることもある。

このように諸現象は現象、仮象、「あらわれ」と多義的で混乱を生むので、「現象」は「自分を自分自身に即して示すもの」という意味で一義的に理解されなければならない。

どのような存在者が現象であるかが規定されない場合の現象の概念は形式的なものにとどまっている。

現象学の上での現象概念を見通すためには、この形式的な現象概念とそれが一般的な「あらわれ」という意味で使われる場合の意味を見とおさなければならない。

そしてさらに現象学について知る前に「学(ロゴス)」というのがどんな意味を持っている言葉なのか知らなければならない。

B ロゴスという概念

ロゴスの意味をギリシャ語の語源に即して解釈するとそれは「語り」であり、またそれは「語られて」いるものをあらわにしていくことと同義である。

アリストテレスの分析によれば語りは語られているものの側から見えるようにさせて、それが他者から接近可能なものにしていくということである。

この語ることが具体的に行われるとき、それは声に出すことという性格を有している。

ロゴスには総合という機能が属していて、それはあるものをあるものと一緒にして提示するという意味である。

さらにロゴスは真でも偽でもありうる。

ここでの真であることとは隠されたあり方から隠れていないあり方へと覆いをとって発見することで、偽であることとはあるものを別のものとして語って隠すことである。

だからと言ってまず第一にロゴスにおいて真理が成り立つというわけではない。

ロゴスより根源的に真であるのは「感性」であり物事を感性的に受け取ることである。

感覚には固有の対象があり、例えば見ることは色を目指していてその感覚は常に真である。

そこでありうる間違いはただ受け取らないことだけだ。

ロゴスの機能は対象を感覚によって受け取らせることであるからときに「理性」を意味する。

また語られるものとしてのロゴスは対象の基体(ヒュポケイメノン)としてあるから「根拠」という意味を持つこともある。

そして語られるものとしてのロゴスがあるものとの関係の中で見て取られるものであることもあり、その場合「関係」「比例」を意味する。

C 現象学の予備的概念

以上のように「現象」と「学」の意味を見たことで「現象学」の意味が明らかになった。

それは

じぶんを示すものを、それがじぶんをじぶん自身の側から示す通りに、じぶん自身の側から見えるようにさせること
(Das was sich zeigt, so wie es sich von ihm selbst her zeigt, von ihm selbst her sehen lassen)
*10

である。

そしてそれはすなわちさきに述べた「ことがらそれ自身へ!」と同じことを意味している。

また現象学という名前は論じられることがらをどのように提示するかという点に関する方法論の名前でしかない。

ゆえに存在者を提示するすべての試みが現象学と名付けられるのである。

存在論は現象学としてのみ可能である。
(Ontologie ist nur als Phänomenologie möglich.)
*11

この現象学の主題となるのは隠され、覆われている「存在」である。

ここでいう存在(現象)はそれ自身を示しているのでその背後に「物自体」といったものがあるということはない。

しかし現象が覆われていることはありえて、それは発見されていない時、一度発見されたが埋もれている時、そして偽装されている時である。

偽装された存在は学問がそこに基礎づけられることがあり危険である。

また現象学的言明はそれが伝えられる中で変質して、一度明らかにされた存在を再び覆い隠してしまうことがありうる。


存在をつかみ取るためには直感的に見るだけでなくその方法としての現象学の整備が不可欠である。

さて、存在論を行う上でまず第一に探求されるべきなのは現存在であった。

現象学の方法は「解釈」であり、この現存在の現象学における「学(ロゴス)」には「解釈すること」という意味が含まれている。

すなわち現存在の現象学は解釈学なのである。

そしてまた現存在が歴史性を持っているために、解釈学は歴史学的な精神科学における方法論と同じ意味で解釈学である。

存在は類として述語付けられるものではなく、存在者の一切のあり方を超えた超越概念である。

その存在が現存在の個体化の可能性と必然性を担っているから、存在という超越概念の認識は超越論的な認識である*12

哲学とは現象学的な存在論であり、現存在の解釈学はすべての哲学的な問いの出発点であり到達点なのだ。

第八節 論述の構図

以降の論述の方向性を予言しているだけなので省略。

感想

「存在とはなんだろうか。」と問うのは簡単だがそれに答えることがどれほど込み入っているのかがよくわかった。

七割くらいは理解できたと思うが、現存在の時間性や歴史性という部分についてはあまり理解できていないと思う。

岩波文庫版のこの翻訳は注解にドイツ語の表現や場合によっては文そのものが追記されているので、自力で原語に当たってみることもできるし何よりドイツ語の勉強になっていいと思う。

またそれぞれの用語(「存在的」と「存在論的」など)が厳密に訳し分けられていて、読む上での混乱が少ないのもいい。


序盤からアリストテレスなどのカテゴリー論を何の説明もなく使っているその辺りを知らない人にはかなり厳しい気がする。

簡単に書いておくと、アリストテレスの『カテゴリー論』に端を発する考え方で、カテゴリーは実体である主語に述語として付けられる性質などのことを指している。

例えば「ソクラテスは人間である。」という命題においてソクラテスという主語に対して「人間」というカテゴリーが述語付けられている*13

そしてこれらカテゴリーは事物の性質としてそれらを規定している。


「実存」という言葉は様々な人が様々に使うので意味がよくわかっていなかったが、ハイデガーにおいての現存在が存在していることとしての実存という言葉の意味を知れて物事の見通しが良くなった気がする。

また現象学というのも、超越論哲学での物自体(ショーペンハウアーでは「意志」)に対する意味で、認識されたものとしての「現象」についての分析としか理解していなかったのでハイデガーにおける現象学の用法を知れてよかった。

デネットが『解明される意識』の初めの方で現象学には間主観性がないと言って批判していた*14が、ハイデガーの用法での現象学は事物の側から自分を開示していくので主観に縛られていない。

ハイデガーはカントやフッサールから現象学を受け継ぐ中で間主観性の問題に気づいて、それを克服するためにこんなややこしい主張しているとも考えられる。


直前に『解明される意識』を読んでいたこともあって、存在についてであるような形而上学唯物論の関わりについて考えているが、基本的には別レイヤーの問題だと思う。

しかしハイデガーが言っているように存在の問いが諸学の対象カテゴリーを基礎づけていくなら、物理的な対象を扱う学問にしても存在の問いの上に立たざるをえないのではないか。

その辺りの関係性も今後読み進める中で考えていければいいなと思っている。


第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)は以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:例えば「人間」という存在者については「人間は存在する。」という命題が作れて、「存在」を述語につけることができる。しかし「存在は人間である。」などとは言えず、「存在」に存在者を述語付けることはできない。

*2:序.0.1.2.17 p89 存在が存在者に述語付けられないということのほかにも「存在は存在する。」と言って「存在」に「存在」を述語付けてしまうと無限退行が起こるからだとも考えられる。「存在」を述語付けられないということはすなわち「存在者」ではないということになる。

*3:ここでの「存在論」はカテゴリー論のような「何であるのか」という問いに答えて事象領域を区別していく探求のことを指しているのだと思う。それは存在そのものへの探求ではないのでハイデガーが言う「存在への問い」とは区別される。

*4:序.0.1.3.10 p109~110

*5:第三節29-31段落の注解1に「 「存在的 ontisch」と「存在論的 ontologisch」は本書における主要な区別の一つ。前者は「存在者」とその属性、関係等々にかかわり、後者は(存在者の)存在に関係する。」とある。

*6:のちに述べられる現象学的存在論を先取りしている。

*7:ベルクソンが空間化された時間と呼んでいるものを意識している。

*8:何のことやらわからない。

*9:第七節Bでのロゴスの分析を先取りしている。

*10:序.0.2.7C.102 p201

*11:序.0.2.7C.106 p205

*12:ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で時間、空間、因果という超越論的な形式を「個体化の原理」と呼んでいるが、そのあたりを踏まえて個体化の源泉となる存在の認識が超越論的だと言っているのだと思う。

*13:参考 Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*14:詳しくは以下の記事に書いた。re-venant.hatenablog.com