ハイデガー『存在と時間』(一)②


存在と時間』第一分冊について記事の二つ目。

この記事では第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。


本文内容

第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第一章 現存在の予備的分析の課題の呈示

第九節 現存在の分析論の主題

現存在の分析論において課題となるのは私たち自身であり現存在の存在(実存)は私たちのものである。

存在とは、この存在者にとってそのつど自身それが問題となるものである。
(Das Sein ist es, darum es diesem Seienden je selbst geht.)
*1

そこから二つのことが明らかになる。

一つ目は現存在の本質は「存在しなければならないということ」の中にあるということだ。

現存在を実存によって考えるなら、現存在は「目の前にある存在」を意味するexistentiaとは異なっている。

現存在の「本質」はその実存のうちにある。
(Das "Wesen" des Dasein liegt in seiner Existenz.)
*2

ゆえに現存在の性格を決定するのは目の前に現れてくる現存在以外の存在者が持つような性格(カテゴリー)ではなく、現存在がそのように存在することが可能であるような様式でありその様式はそれぞれが「存在」なのである。

二つ目は現存在の存在において問題となっている「存在(実存)」は私のものであるということだ。

他ならぬ「私が」実存していることから、現存在は他の存在者と同列に扱うことができない。

また現存在のあり方は何らかの仕方ですでに決定されていて、現存在は自らの可能性である存在に常に関わっている*3

ゆえに現存在は自らの実存すなわち可能性において自分自身のあり方を獲得したりしなかったりできる*4

仮に現存在が非本来的なあり方で存在していたとしても、そのあり方は本来的なあり方より劣っていることを意味しない。

以上の二点から現存在は世界の内部にある単なる対象として捉えられるものではないということがわかる。


実存する体制の形式的な意味として現存在が可能性を持つもの、すなわち存在するものとして自らを理解していることが明らかにされたが、現存在の存在論的な解釈についてはその実存的なあり方に基づいてなされなければならない。

そしてまた現存在のあり方は特定の存在様式からではなく日常的なあり方から解明されなければならない。

このような現存在のあり方を「平均的なあり方」と名付ける。

この現存在の平均的なあり方や非本来的なあり方の中にも実存的なあり方の重要な構造があり、それは本来的なあり方をしている現存在が有している構造と同じものである。

現存在を分析して得られた存在性格を「実存カテゴリー」と名付ける。

逆に現存在でない存在者の存在性格は単に「カテゴリー」と呼ばれる。

世界の中で出会われた存在者のカテゴリーはロゴスによって可視化される。

この実存カテゴリーとカテゴリー、現存在と他の存在者の関係は存在の問いが解明されていく中で明らかになっていくだろう。

実存論的な分析論は心理学や人間学、生物学に先立っているが、それらと実存論がどう違うのかを明らかにすることで実存論的存在論のテーマがより鮮明に見えてくる。

第十節 人間学、心理学および生物学に対して、現存在の分析論を境界づけること

デカルトは「cogito sum(私は考える、私は存在する)」ということにすべてを基礎付ける際に「思考すること」については探求していたが、「存在すること」については無視している。

そしてここから出発した自我や主観といった概念は現存在のあり方を捉えそこなっている。

事物の存在を解明することで「主観、精神、心、人格、意識」といった物質に還元されない存在が何なのかわかってくる。

これらの存在自体は現在まで問われてこなかったので、私たちは現存在を特徴付ける際にこれらの用語を使うべきではない。

生の哲学や人格主義といった人間学は生そのものや現存在の存在そのものを問うていないという欠陥を有している。

このように現存在の存在への問いを立てることを妨げているのはギリシア的、キリスト教神学的な人間学の影響である。

まずギリシャにおける哲学以来の伝統的な人間学では人間は「理性(ロゴス)を持つ動物」と解されているが、動物というのは目の前にある存在として捉われているし、ロゴスという言葉の意味も曖昧なままである。

次に神学においては人間は神の似姿として創造されたものであり、また人間が自身を超えていくとする傾向を持っているという考えもキリスト教神学から来ている。

これら二点から現存在の存在への問いは忘却されてきて、その存在は現存在以外の被造物が目の前に存在していることと同じように自明なものと考えられてきた。

同じ問題が心理学にも当てはまる。

心理学を生物学に還元したところで、存在への問いが欠けているという問題が解消されるわけではない。

生命とは現存在の存在の仕方でありそれは現存在を解明することで初めて把握される。

生命は単なる現存在以外の目の前にある存在者ではないが現存在もまた単なる生命ではない。

以上から人間学、心理学、生物学に存在論的基礎が欠けていることがわかったが、だからと言ってそれら諸学の成果が否定されるわけではない。

だがこの存在論的基礎は経験的な探求から得られるものではなく、経験的探求に常に先立っている。

第十一節 実存論的分析論と未開の現存在の解釈 「自然的世界概念」を獲得することのむずかしさ

現存在を日常性において解釈することは、未開な現存在を解釈することではない。

むしろ現存在の日常性というのは、高度な文化の中で現れてくる。

逆に未開な現存在は現象の中から直接的に語りかけてくることもある。

そのような未開の人々についての考察は民俗学によって行われてきたが、その民俗学も他の諸学問と同じように存在論的な基礎の上に成り立っている。


現存在の分析を始める際に出会う困難は、「自然的世界概念(natürlicher Weltbegriff)」を構築するという課題である。

様々な文化や現存在のあり方といった世界像についての知識はたくさん手に入ったけれども、それらをリストアップすることによって本質が見えてくるわけではない。

世界像を秩序付ける際にその秩序の前提となっている世界一般の概念が必要となり、さらにその世界概念が現存在の構成要素でもあるなら現存在の分析においても解明されなければならない。


第二章 現存在の根本体制としての世界内存在一般

第十二節 内存在そのものに方向付けることにもとづいて、世界内存在をあらかじめ素描すること

現存在が実存し、私たち自身であるということによって規定されていることは「世界内存在(In-der-Welt-sein)」という存在のあり方から理解される必要がある。

この世界内存在という表現は三つの意味を持っている。

一つ目は「世界のうちで(Das "in der Welt")」存在しているということ、二つ目は「世界内存在としてある存在者」、三つ目は「内存在そのもの」である。

これら三つの全ては連関していて、一つを分析する際にも他を意識して現象の全体を解明しなければならない。

さて、「内存在(In-Sein)」は何かの中に存在することではない。

この一般的な意味で何かの中に存在するということは空間的なそられの位置関係のことを指していて、そのような仕方で存在する存在者は現存在以外の「目の前にある」存在者のカテゴリーでしかないのである。

これに対して内存在というのは現存在の実存カテゴリーである。

それゆえに内存在という言葉が指しているのは空間的に世界の中に人間身体があるということではない。

前置詞「in」や「an」の語義から考えて内存在とは何かしらのもとに住まっていること、親しんでいることを意味している。

「世界のもとで存在すること(Das "Sein bei" der Welt)*5」はこの内存在に基礎付けられる実存カテゴリーである。

これに関しても普通のカテゴリーとどう違っているのか見ておくことが必要となる。

「世界のもとで存在すること」は現存在が空間的に世界と並んで存在しているということを意味していない。

通常のカテゴリーにおいて一緒に存在していることは「ふれている」と表現されることがあるが、それが可能になるのは二つの存在者が出会うこと*6ができる場合のみである。

そして内存在として世界と親しんでいて、世界を発見している現存在だけが他の存在者に出会い、触れることができる。

それは存在者が自らをあらわにするのは世界の側からその存在者にふれるときのみだからだ。

現存在は単に目の前にある存在者として把握されることも可能だが、現存在の実際のあり方は他の存在者のあり方とは存在論的に異なっている。

現存在のそのような実際の有り様を「事実性(Factizität)」と呼ぶ。

この事実性によって意味されるのは自分に固有な世界の中で他の存在者と運命よって結びつけられた世界内存在である。

以上の考察から現存在は空間性を持たないことになるのかというとそうではなく、現存在は固有の「空間的存在」を持っている。

その現存在が空間的に存在することについての解明は世界内存在一般に基づいた「実存論的分析」によって初めて可能となる。

それに相対するものとして、心身二元論では内存在であることは精神的なことで、他方空間性は身体の性質の一つであると主張される。

このとき精神的実体と物質的実体を単に目の前にある存在者として「存在的に」扱ってしまっていて、それらの合成での人間の理解は曖昧なものにとどまっている。


世界内存在と現存在の事実性とは内存在の多様なあり方に含まれている。

そのような内存在のあり方は「配慮的な気づかい(Besorgen)」というあり方を伴っている。

ここでの存在論的な用語としての「配慮的な気づかい」は実存そのものが気づかいとしてあることを意味している。

配慮的な気づかいは世界内存在であるがゆえに世界と関わる現存在の本質なのだ。

「内存在」は現存在が持っていたり持っていなかったりできて、それがあってもなくても同じように存在できるカテゴリーではない*7

現存在が世界と関わったり他の存在者と出会ったりすることができるのは現存在がまず世界内存在であるからなのだ。


これまでの考察では内存在の消極的な特徴づけのみがなされてきたが、消極的な特徴づけによって現象の特有なあり方が告げられているという意味ではそれは積極的なものだ。

世界内存在という現象は現存在の先だった存在了解において最初から見て取られているのだから、必要なのは偽装や誤解を解いていくことである。

そしてまた世界内存在の了解が現存在の存在の構成要素であるのだから、その誤解もまた現存在の存在のし方に含まれている。

それは現存在は自身からではなく世界の内部で出会う他の存在者とその存在の側から自分を理解しているからである。


世界内存在というあり方を認識しようとする際に、私たちは認識そのものを「世界(客観)」と「こころ(主観)」の関係だと認識してしまう。

その時世界を認識することが世界内存在の存在様式となってしまって、世界内存在自身は「存在論的」には認識されないが「存在的」には世界とこころの関係だと了解される。

そして認識された「世界とこころ」という存在者を手掛かりに存在そのものが(誤って)理解されて、それを前提として世界とこころの関係を探求する試みが生まれる。

ここで現存在自体は不適切に解釈されて、主観と客観という枠組みが自明なこととして探求の前提となっている。

しかしこの主観と客観という考え方も存在論的に基礎付けられない限りは、探求を誤った方向に導くかもしれない危険性を持った前提である。

このようにして認識作用が優位に立つことによって認識という存在のあり方を間違って理解させているので、世界の認識そのものを内存在の実存論的なあり方として解明する必要がある。

第十三節 或る基底づけられた様態による、内存在の範例化 世界認識

世界認識という現象そのものは「主観と客観の関係」として外面的で形式的に理解されしまっている。

しかしながら主観と客観の関係は現存在と世界の関係に妥当しない。

認識作用は目の前にあるものとして「外的に」存在しているわけではないから、現存在の「内的な」ものでなければならない。

すると主観はどのようにして自己の内部から外に出て対象を認識するのかという問題が生じる*8

このような問題が提起される際にはそもそもの主観の存在や、認識作用が内的に存在することについての問いが見過ごされている。

ここで人が見過ごしているのは

認識作用とは世界内存在のひとつの存在のしかたである
(Erkennen ist eine Seinsart des In-der-Welt-seins)
*9

ということだ。

認識作用は現存在が「世界のうちですでに存在していること」によって基礎づけられていて、また認識作用はその現存在の存在の本質も構成している。

世界内存在は配慮的気づかいとして世界に気を取られているが、認識するためには対象の制作や操作をやめてそれらのもとで立ち止まらなければならない。*10

そうすると対象の見かけ(形相)において出会いそれを眺めやることができるようになり、対象を認知することができる。

この眺めやることは対象からひとつの「観点」を取り出して、その対象に焦点を当て続けることである。

そしてまた認知することは語ること(ロゴス)というやり方でも行われうるので、その場合認知することは規定することにもなる。

さらにこうやって語られたものは命題として保存されるが、その保存自身も世界内存在の存在様態の一つであるからそれは主観が表象を得るプロセスではない。

認知しその内容を命題として保存することを表象を得るプロセスと考えてしまうと、現実と表象が一致するのかという問題が生じるのである。

何かを認識するとき現存在は内側から外側に出て行くのではなく、そもそも外側(世界の側)の認識対象のもとで存在している。

他方認識する者も世界内存在としての現存在なのであるから、外側に存在している現存在は同時に内側にも存在している。

世界のうちで出会われる存在者同士の連関を認識する際にもそれは当てはまる。

また忘却、錯覚、誤謬は対象との存在関係が失われることではなく、内存在の存在の仕方が変わっただけである。

つまるところ認識作用とは現存在が発見された世界に関わる存在のし方を新たに獲得することである。

ゆえに認識作用について知るためにはそれに先立って世界内存在が何なのか解明しなければならない。


感想

第一篇第一章、第二章で特に興味深かったのが「主観」と「客観」の関係についての批判の部分だった。

単に空間的に世界の中に存在しているのではなく実存カテゴリーとして「世界内存在」であるというのは、現存在が世界そのものの一部として存在することだと思う。

そこで世界の存在と現存在の実存はつながっていて切り分けることができない。

だから主観と客観を厳密な二分法で考えることができないのだ。

世界という外側から映し出される観念を主観という内側からを認識する観念論と、主観すら物質的な世界の一部であるとする唯物論は互いに矛盾していて、結局どちらが正しいとも言い切れない。

そもそもどこからが外側でどこからが内側なのかはっきりした境界線を引くことも難しい。

ハイデガーはこの二つの矛盾を調停するために世界内存在という観点から認識を見ているのだろうと思われる。


デカルトにおける物心二元論は様々に批判されているが、ここでは結局精神と身体を単なる対象として二つ並べて考えるところが批判されている。

最近読んだデネットにおけるデカルト二元論批判は「別々の実体である思惟と延長がどのようにして関わることができるのか?」という点にあった*11

この批判は唯物論の視点からのものなので思惟も延長も世界の中で出会われる存在者として捉えていて、ハイデガーが「あいまいだ」と言っている思惟も延長の二つの合成者としての自己を、そのあいまいさから批判しているものと考えられる。

ハイデガーの批判はさらに根本的な部分から、すなわちそもそも精神とか身体とかいうのが存在しているのはどういうことなのかという視点から行われている。


ところでハイデガーの存在論から脳というものがどう捉えれられるのかという点が疑問に思えてきた。

脳は単純に世界の中の存在者として対象となるのか、それとも思考の源泉として現存在の存在体制に関わるのだろうか。

第十三節の議論から世界内存在としての現存在が脳を認識したり関わったりするとき現存在は脳のもとで存在しているということになるから、脳と現存在が同じ存在であるとも言えるのではないかと思う。

まだ全体を読み通せていない段階なので結論は出せないが、唯物論的な「自己」の解明に少し触れた自分にとってはかなり気になるテーマである。


第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)についての記事は以下に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.1.9.125 p223 es geht um+(4格)で「〜⁴が問題となる」

*2:1.1.1.9.127 p225

*3:「現存在の可能な存在様式=存在」だから「可能な様式をまとめた可能性=存在」とも言える。

*4:現存在がカテゴリーによって規定されてしまっているのではなく、存在において自由にあり方を決めていけるということだと思う。

*5:先ほど出てきた「世界のうちで(Das "in der Welt")」とどう違うのだろうか。

*6:おそらく存在そのもののレベルで。

*7:この辺りの記述から、現存在の可能な様態が存在であるという点について現存在の様態はそうであってもなくても同じように存在できる属性(カテゴリー)ではないから「存在」そのもの(実存カテゴリー?)なのだと解釈できる。

*8:要するに観念と対象の一致の問題。

*9:1.1.2.13.171 p300

*10:いわゆる観想的な態度のことだろうか。

*11:re-venant.hatenablog.com