ハイデガー『存在と時間』(一)④


存在と時間』第一分冊について記事の四つ目(最後)。

この記事では第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)については以下の記事に
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)については以下の記事にそれぞれ書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第三章B デカルトにおける世界の解釈に対して、世界性の分析を際立たせること

世界内部的な存在者を起点とした思想では世界そのものが見えなくなってしまうが、その成り行きをデカルトにおける存在論を概観することで追いかけていく。

その中でさらにデカルト以降の哲学者が前提としてきたものも浮かび上がってくる。

以下ではデカルト存在論に関して三点が論じられる。

  1. 延長としての世界の規定(第十九節)
  2. その基礎(第二十節)
  3. デカルト存在論についての解釈学的な批判(第二十一節)
第十九節 res extensaとしての世界の規定

デカルトは思考(res cogitans)と物体(res corporea)を区別したが、その二元論はのちの哲学において「自然と精神」として固定化されていく。

その区別はどのようにして行われたのだろうか。

デカルトはそれ自身で存在するものの存在自体を「substantia(実体)」と呼んでいる。

この実体は存在者を意味する場合と存在そのものを意味する場合があるが、この両義性はウーシアーというギリシャ哲学における実体概念にすでに見られるものである。

実体には属性があるが、それぞれの実体は一つの際立った属性を有している。

res corporeaにおけるそれは長さ、幅、深さという「extensio(延長)」で、その延長という属性が物体の本質を規定している。

そして物体における他のすべての属性はこの延長を前提として存在している。

分割、形態、運動はこの延長の様態の一つであり、反対に運動を欠いた延長というものが考えられるとデカルトは主張する。

「硬さ」は手を触れた時に抵抗があることから捉えられているが、その物体が触れようとする手と同じ速度で向こう側へと運動していたら触れることはできず硬さは存在しない。

それでも物体の存在に関して何ら失われるものはないので硬さは物体の本質的な属性ではない。

同じように重さや色などの感覚される性質は物体の本質ではないとデカルトはいう。

延長としての物体は様々に変化しうるもので、そうした中でも変わらずにあり続けるものが本来的に存在するものであり、それによって物体存在は特徴付けられる。

第二十節 「世界」の存在論的規定の基礎

延長という性質によって理解される「実体」は存在するために他の存在者を必要としない存在者を意味している。

そして神ではない存在者はすべて神によって創造されているので、実体として考えられる存在者とは「神」である。

神と被造物の間には「無限の」区別があるが、私たちは神も被造物も同じく「存在している」と言うことができる。

そこでは存在という言葉はそのような区別を包括するほどの広がりを持って使われている。

その意味で被造物の中では他のものの存在を必要としないものも実体であると言うことができる。

この実体の存在が存在論的に解明されるためには、神と「思惟」「延長」という二つの実体に共通な「存在」の意味が解き明かされることが必要だ。

ここでデカルトは「存在」という言葉が存在者をどのように述語付けるのかという中世の存在論以来の問題に触れている。

神と被造物の間で無限の区別があるなら同じように神と被造物が「存在する」と言ってもその存在の意味が違うのではないか。

スコラ学では「存在」という言葉は類比的な意味を持っていて神と被造物の場合で同じものを指しているのではないされている。

デカルトはこの神と被造物に共通な述語の意味をはっきりさせることはできないとしてこの問いを回避していて、存在そのものの意味への問いが見過ごされたままになっている。

それだけでなくデカルトは存在自身が私たちを触発せず目の前に現れてこないから、存在の意味はそれ自身として接近することのできないものだとしている。

ここで存在は存在(実体的なあり方)の意味を前提として考えられる「思考」「延長」といった存在者の属性から理解されるものとなる。

以上から延長としての世界の基礎は接近できないものとされている存在(実体であること)の意味だということがわかった。

ここで実体であることが実体の性質から理解されているわけだから、存在論の基礎に存在者が置かれていることになる。

それゆえに実体という言葉が両義的になって曖昧になってしまうのだ。

存在への問いを正しく導くためにはこのような実体という言葉の多義性を詳細に分析していかなければならない。

第二十一節 「世界」をめぐるデカルト存在論についての解釈学的討議

さて、デカルト存在論は世界という現象を解き明かしているのだろうか。

そして世界内部的な存在者を世界への適合性が理解されるほどに規定しているのだろうか。

答えは否である。

それはデカルトが捉えた延長としての存在者は手もとにあるものとしてではなく目の前にあるものとして捉えられるからだ。

しかし神、自我、世界による存在論が存在への問いを促進しているという可能性がないわけではない。

このことを否定するにはデカルトが世界を存在論的に誤って規定したことと、それにより手もとにある存在者が見過ごされていることが示されなければならない。


さて、デカルトは現存在のどのようなあり方を通路として「延長」という実体に至ったのだろうか。

それは数学的、物理的な認識作用である。

デカルトにおいては数学的な認識において認識可能な「存在」のしかたを満たすようなものが「存在しているもの」だと見なされる。

そうした存在者は常にそのような存在のしかたをしている存在者であるものだから、「常住の永続」という延長の性質が数学的な認識によって認識される。

ここで数学と、それによって捉えられた非明示的で根拠づけられていない「存在」そのものの理念が「世界」の存在の概念を開示することになる。

そしてデカルト存在論を規定しているのは「常に目の前にあること」という存在の捉え方である。

数学はそれを把握する手段でしかない。


伝統的な存在論に支配力の中にいたので、デカルトは世界内部的な存在者と出会うしかたを考察することはなかった。

そのしかたとは「直観(ノエイン)」である。

デカルトはそこから直観しながら存在者に接近する「感覚」への批判へと進んでいく。

デカルトにとって感覚はただ外的な事物が自分にとって有益か否かを知らせるだけで、そこから存在者の存在を知ることはできない。

先ほど見たようにデカルトは「硬さ」(=抵抗)を触覚からではなく二つのものの位置関係によって定義している。

そこで感覚によって出会われる存在者を存在において捉える選択肢は無くなり、何かを受け取るという現存在のあり方が二つの目の前にある延長するものが延長という様態において並んでいることを見て取ることでしかなくなる。

しかし、硬さや抵抗は触れるものが現存在であるか生命を有したものでなければありえない。


こうしてデカルトにおいては存在者と出会うしかたが「永続」という一つの存在理念に支配されることになった。

さらにそこで感性的、知性的認知という世界内存在の一つのあり方を理解することが妨げられていて、デカルトは現存在の存在を延長と同じように実体として捉えている。

さらにデカルトは思惟と延長という二つの実体によって「自我と世界」という問題を設定したばかりでなく、その問題に根本的な解決を求めた。

伝統的な存在論に規定されていることでデカルトは現存在に基づく存在論を行うことができず、世界を延長という一つの実体から説明することになった。

しかし、デカルトを擁護して物質的な自然に「適合する」「美しい」というような価値述語をつけることで価値的な事物を作る、というようして多層的な世界を考えることは正当ではないかと主張する人もいる。

それで「手もとにあるもの」に至ることができるわけだが、しかしそれは「目の前にあるもの」を前提としている。

とはいえ単なる事物以外の価値的な事物を考えることが必要だということは了解されている。

それでも価値を付加していくこうした構築がどのようになされるのかは不明瞭で疑わしいものにとどまっている。

しかも人が価値的な事物を構築するためには前もってその価値的事物の全体を見通していなければならないのではないか。

デカルト存在論は結局「手もとにあるもの」に辿り着くために、そのような存在者の存在について解明されたように見えるがそれは間違っているのだ。

このようにして現存在にとって最も身近な「手もとにあるもの」を見過ごすことは重大な過ちである。

現存在の分析から手もとにあるものと目の前にあるものが存在論的に理解可能になり、その場合初めてデカルト存在論の批判が正当な権利を得られる。

しかし世界内存在の構造として「空間性」というものがあったことを思い出すと、デカルト存在論が全て権利を失うということはない。

それが道具としての存在者、世界内存在、世界の空間性を見失わせるものだとしても、「延長」に立ち返って世界を考えることには一定の「現象的な権利」がある。

第三章C 周囲世界が〈周囲であること〉と、現存在の空間性

第十二節で内存在と内部性の区別が考察された。

内部性とは単に空間の中で目の前にあるものとして隣り合っていることで、反対に内存在である現存在はこのようなあり方をしていない。

しかし現存在に空間性がないというわけではないし、同様に世界内部的な存在者も空間性を持っている。

以下では

  1. 世界内部的に手もとにあるものの空間性(第二十二節)
  2. 世界内存在の空間性(第二十三節)
  3. 現存在の空間性と空間(第二十四節)*1

が考察される。

第二十二節 世界内部的に手もとにあるものの空間性

そのことについて今後詳しく究明されなければいけないとしても、空間は世界を構成している。

まず手もとにある存在者は現存在にとって「近く」に存在している。

この近さは距離的なものではなく配慮的な気づかいにおいて調整されるものだ。

さらに道具は適所性において指示の方向を定められている。

道具は単に空間的な位置にあるのではなく、適所性の全体に規定されて意味を持った「場所」にあるのだ。

そして道具が適所にあることの基礎には「方位」が存している。

ある方位のうちにあることはある方向に向けられていることを意味しているだけでなく、その方向の中にあるあるものとの連関のうちにあること意味している。

道具は方位によって指示の方向を決められていて、それによって周囲世界すなわち「私たちの身の回りであること」が形成される

手もとにあるものの三次元性(位置)が最初から見出されているのではなく、まず見てとられるのは適所の全体性であり場所である。

方位は目の前にある存在者の位置関係によって作られるのではなく、先立って場所の中に存在している。

場所そのものが配慮的な気づかいの中でそれぞれの道具に割り当てられていて、そこにおいて道具は方向付けられている。

例えば太陽は1日の中で日の出、真昼、日の入りなど「際立った場所」にあるが、それらの場所は太陽の光を利用することの中で発見される。

さらに東西南北という方位(方角)は道具の指示方向から得られるものである。

家の例で考えると、太陽の光の当たり方が違うためにその光との連関の中で適所性が生じ、「南側」と「北側」が生まれて間取りが決められその中で調度が配置される。

このように適所全体性によって方位が先立って発見されて、その中で個々の適所性が得られる。

方位は手もとにあるものと同じく基本的には目立たないあり方をしているが、何かがそのあるべき場所にないときに明示的に発見される。

空間は道具の場所として道具に属しているのであって、まず空間があってその中で道具が並べられているのではない。

空間は有意義性の分節に従って分割されているが、適所性の全体によって統一される*2

そして手もとにある道具を周囲世界の中で空間的に出会わせることができるのは、世界内存在としての現存在が空間的だからである。

第二十三節 世界内存在の空間性

現存在の空間性を考えるなら、世界内存在としての現存在の存在のしかたから考えなければならない。

現存在は「目の前にあるもの」としても「手もとにあるもの」としても存在していないから、その空間性は位置や方位からは考えられない。

世界内存在というのは世界内部的な存在者を常に配慮的に気づかっていることだから、現存在の空間性は内存在であることからのみ捉えられうる。

そして現存在の空間性は「距たりを取りさることと方向を合わせること(Ent-fernung und Ausrichtung)」である。

距たりを取りさること(距てを遠ざけること)はあるものと「距たっていること」を無くすことで、つまりは近づけることである。

この距たりを取りさることは単純に目の前にある事物との距離を縮めることではなくて、手もとに持っているという形で現存在が道具を自分に近づけて出会うことだ。

そして距たりを取りさることは現存在の存在体制すなわち実存カテゴリーであり、その意味で現存在は空間的なのである。

距離というカテゴリーは現存在が二つの事物を「目の前にあるもの」として見て計測することで初めて発見される*3

また、対象の認識にも近づけることという性質がある。

現存在のうちには、その本質からする、近さへの傾向が存しているのである。*4

例えばラジオ(現代でいえばインターネット)は速度を上げることで周囲世界を拡大しながら破壊して世界から距たりを取りさっている。


あそこまでひと足だとかいうように距たりを見積もることは現存在の距たりを取りさるというあり方のうちで行われる。

その見積もりは数学的には不正確かもしれないが現存在に対する明確さを持っている。

「あの家まで半時間」と時間という尺度で見積もられた距たりでもそれは見積もられた尺度で、「半時間」は量的な「長さ」を意味しているのではなく「持続」を意味している。

そしてまた道を進んでいくとき現存在は線分上の点として目的地までの残りの距離を減らしていくのではない。

近づけることとはその都度距たりを取りさられたものに対して配慮的に気づかいながら存在していることなのだ。

こういうわけで客観的な距離と私たちが感じる距たりは必ずしも一致しないのである。

このような距たりは「主観的」だと言われるけれども、それでもこの主観性はもっとも実在的に存在者を捉える主観性であって恣意や統把とは関係がない。

現存在の日常性が目くばりによって距たりを取り去ることで、覆いをとって発見されるのは「真の世界」の自体的なありかたであり、つまりは現存在が実存するものとしてそのつどすでにそのもとで存在している(bei dem Dasein als exsitierend je schon ist)、存在者の自体的なありかた(An-sich-sein)なのである。*5

そして距離というものに注目していては世界内存在の空間性は見逃されたままである。

距離的に最も近いものが最も距たりのないものであるとは限らないということが、メガネをかけている人が顔の近くにあるメガネを意識しないことからもわかる。

このような見るための道具であったり聞くための道具は「目立たないあり方」をしていて、距たりを取りさる働きを調整している。


近づけることは物体的な身体に方向付けられているのではなく、世界内存在において出会われる存在者に方向付けられている。

現存在の空間性が身体の位置によるものではないとしても、現存在が何らかの場所を「占めている」とは言われる。

現存在が場所を占めることは道具が方位において適所を得ることとは違い、道具を方位の中に「距てて遠ざけること」なのである。

現存在は道具がある場所から遡って自分がいる場所を把握していて、だから現存在は配慮的な気づかいとして道具がある場所に存在しているのである。

じぶんの〈ここに〉を現存在は、周囲世界的な〈あそこに〉から理解しているのである。
(Sein Hier versteht das Dasein aus dem umweltlichen Dort)
*6

現存在は絶えず距たりを取りさりそのことで手もとにあるものと関わっていて、また距たりを取りさること自体が現存在と道具の間の距たりである。

この距たりは位置的な間隔ではなく、現存在は距たりを「横切る(kreuzen)」すなわち距たりを取りさることをやめて、現存在が手もとにあるものの方へ出向いて距たりを無くしてしまうことはできない。


現存在は距たりを取りさることのほかに方向を合わせるという性格も持っている。

距たりを取りさることは常に先立って方位を念頭に入れていて、道具はこの方位の側から適した場所にあるものとして発見される。

配慮的に気づかうことはそこで出会われる道具と自分の方向を合わせつつ距たりを取りさることなのだ*7

ここで「しるし」が方向を明示するものとして機能して、目くばりに対して方位を開示してくれるものとなる。

このように現存在は自分のあり方において道具と方向を合わせているので、常に自分の方位を持っている。

そして方向を合わせることの中で現存在は左右という方向づけを行っている。

ただ、この方向づけは道具との出会いと適所全体性に基礎付けられているので、内的な左右の感覚とは関係がない。

例えば真っ暗な部屋において気付かないうちに部屋の調度が左右入れ替わっていたら内的な左右の感覚は何の役にも立たない。

この例からカントは方向を定めるためにはア・プリオリな規則が必要だと主張したが、本当にア・プリオリに方向を決定しているのは世界内存在である。

このア・プリオリな世界内存在は世界がある以前に存在している主観が投げ入れる規則とは何の関わりもない*8

第二十四節 現存在の空間性と空間

以上から現存在が距たりを取りさることと方向を合わせることにおいて空間的であることがわかった。

ところで現存在は先立って有意義性を了解しているが、それに基づいて道具は適所をえられて空間的に存在することができる。

このようにして開示された空間は三次元というあり方を備えていない。

そして空間は道具の持つ有意義性の連関によって決められた方位に基づいて成り立ち、さらにその方位を伴った空間的適所性に基づいて現存在は距たりを取りさり方向を合わせることができる。

世界内部的な存在者を出会わせることは「空間を与えること」と言い換えることもできて、ここではそれを「場をあけわたすこと」と呼ぶ。

場をあけわたすことで適所全体性を見通しながら道具に適所を与えることができて、模様替えしたり片付けたりすることが可能となる。

しかしこのとき方位や空間性が明示的に発見されているわけではなく、「目立たないあり方」をしている。

このような空間性を基礎として空間そのものを認識することができるようになる。

空間が主観のうちにあるわけでも、世界が空間のうちにあるのでもない。
(Der Raum ist weder im Subjekt, noch ist die Welt im Raum.)
*9

以上の考察からは空間はむしろ世界の中にあることがわかる。

だからと言って空間が主観の中にあるのではなく、ここでの主観に相当する現存在はそもそも空間的に存在している。

それで空間はア・プリオリなものとして了解されるが、それは主観の中にある空間が世界に向けて投げ入れられているということではなくて、現存在が道具に出会う際に先立って空間に出会っているということだ。

この空間そのものは家を建てたり測量したりする際にそれを眺めやることで目立たないあり方をやめて主題的になるが、そのとき以上で見たような方位に属する空間は放棄されている。

そしてこの眺めやることで方位が中立化されて縦・横・高さという純粋な諸次元が成り立つ。

この純粋な空間においては適所性というものは失われて、周囲世界は自然的世界となる。

そして道具は指示連関を失って延長としての目の前にある事物同士の関係だけが問題となる。


空間自体は道具や事物として存在している必要はなく、また現存在でも延長するものでもない。

そこから空間が物(res)の現象だということが帰結するわけではないし、反対に空間が思考と同一の実体で主観的なものだいうことが帰結するわけでもない。

今日に至るまでの空間の存在についての混乱は、存在そのものについての存在論的に見通しが欠けていたことによるものだ。

だから存在への問いの中で空間というものを解明していかなければならない。

以上の考察で見たように空間は世界そのものに基づいて初めて把握される。

ゆえに空間は世界を構成するものの一つだが、それは世界内存在である現存在が本質的に空間的であることによるのである。


感想

これで第一分冊を読み終わったことになる。

ここまで読んでみて序論は全体の概略のようなもので理解できなくても仕方ないなと思えた。

これから読む方は序論が厳しそうなら流し読みして第一部に入ってしまう方がいい気がする。


第三章B、Cではデカルト批判とそこから空間というものが考察された。

世界内存在、道具とその指向性の連関から世界を理解する視点から、距たりや方位としての空間が説明されている。

第二十三節でラジオが距たりを無くして周囲世界を破壊しながら様々なものを近づけていると書かれていたが、インターネットによってその傾向はどんどん進んでいるように思う。

他に興味深かったのが「方位」が手もとにあるものの指向性の連関から決められてきているという点だった。

左右や東西南北といった概念を定義するのは難しいとよく言われるけれど、このようにして世界内存在という観点から見ると定義可能である。

客観的に方向や方角が存在するのではなく、現存在にとって太陽の光が当たって暖かい方角から南で、また現存在が道具と方向を合わせることにより左右が決められる。

そう考えるとこれまで考えてきた方角は現存在と世界の関わりを見過ごした上での形式的なものだった。

そしてまたここでの周囲世界の空間性の議論を踏まえると、空間という入れ物の中に様々なものがあって世界が作られているのではく様々な方向に指向性を持った道具がパズルのように組み合わさって世界が成り立っているということになる。

ニュートンの絶対空間を引き合いに出すまでもなく私達は中学校の数学でx軸、y軸、z軸の三次元空間を教えられるのだから、空間と入れ物としてみてしまうのは仕方ない。

そのような意味でこの本で空間というものについて別の見方を獲得できたのは良かった。


またハイデガーアプリオリを「先経験的な」という伝統的な意味ではなく、「問いに先立って」という意味で使っているようである。

この意味でのアプリオリ性というのは現存在が既に存在していることや存在や世界についての先だった了解についても当てはまるだろう。

また、問いに先立って言語という思考の枠組みが与えられているということも念頭に入っているように思う。


ところで第十九節でウーシアー(οὐσία)が実体と訳されているが、京都大学の中畑正志先生が去年の西洋哲学史特殊講義でウーシアーを実体と訳すことについての問題を指摘しておられたのを思い出した。

アリストテレスにおけるウーシアーの用法はsubstantiaとはかなり異なっていたようである。

そこからストア派における語の用法の変遷などを得て実体と日本語訳されるに至ったらしい。

*1:1.1.3C..284 p473

*2:個々の道具について位置が考えられるが、それらが一つの三次元的世界を形成するのは適所性全体によってだということだと思う。

*3:だから距離は現存在と「手もとにある」道具の間には認められない。

*4:1.1.3C.23.292 p493

*5:1.1.3C.23.294 p499

*6:1.1.3C.23.296 p504

*7:方向を合わせるというのは、例えば道具を使う時にその道具の用途と現存在の行動の方向性が一致することを言っているのだと思う。

*8:ここでの「世界がある以前に存在している主観」世界内存在として捉えられていない現存在のことで「投げ入れる規則」は超越論的な規則のことだと思う。

*9:1.1.3C.24.306 p522