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ハイデガー『存在と時間』(二)②


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事二つ目。

この記事では第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com


また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第五章 内存在そのもの

第二十八節 内存在の主題的分析の課題

現存在についての存在論的分析論は現存在の存在様式を根源的に規定している「世界内存在」を主題とする。

ここまででは世界内存在を世界という存在の契機と現存在が「だれ」であるかという問いから特徴付けてきた。

一方第十二節で「内存在そのもの」から世界内存在が素描されていて、続いて第十三節で内存在のあり方の例として「認識作用」が挙げられた。

世界などの現存在の構造契機を先回りして取り上げたのはそれらを構造全体への一貫した見通しの中に組み入れていけるようにするためであった。

それらの契機を分析し終えた今問題となるのは内存在そのものである。

内存在を分析することで世界内存在の構造だけでなく「気づかい」としての現存在の存在も見えてこなければならない。

ここまでで世界内存在について「配慮的気づかい」「顧慮的気づかい」「自己存在(「ひと」)」を提示してきたが、次に探求されるのは配慮的気づかい、顧慮的気づかいのより具体的な特徴である。

またすべての世界内部的存在者についてより詳しく解明していくことで現存在と現存在以外の存在者の間の区別が際立ってくる。

ありとあらゆるものが単一の「根源的根拠」に基づいているというのは勝手な思い込みであり、「情態性」「理解」など複数ある内存在の構造性格はそれぞれが等しく根源的である。

内存在を特徴付けるに際してまず第十二節において明らかになった、内存在が空間的に中にいることを意味していないということを確認しておくのが良い。

内存在は「主観」のカテゴリーではなくその存在の仕方である実存カテゴリーなのだ。

それでは内存在は目の前にあるものとしての主観と客観の「あいだ」の交互作用としての存在なのだろうか。

そのような考えにおいては目の前にある主観と客観という存在者が前提とされてしまっている。

これ出発点として内存在という現象を解明することはできないし、現象を構成するものを把握することもできない。


世界内存在によって構成される存在者は常に「ここに」や「あそこに」という意味での自らの「現(Da)」である*1

現存在は気づかわれる対象の「あそこ」に存在していて、「あそこ」に距たりを取り去りつつ方向を合わせて配慮的に気づかう存在として「ここに」ある自分を把握している。

この「ここに」と「あそこに」はこのような空間性を持った「現」が存在していることによって可能となる。

「あそこに」と「ここに」存在することが可能であることによって現存在は自らの存在の中で鎖されておらず世界と一体となって存在している。

だから「現」には世界の開示性が属していて「現」は「開けていること」、「明るみ」とも表現できる。

そして現存在は自分自身に即して「明るくされて(gelichtet)」いて、現存在の明かりに照らされることで初めて手もとにある存在者は接近可能なものとなる。

また現存在自身もその「現」「明かり」によって接近可能なものとなるから、

現存在とは自分の開示性なのである。
(Das Dasein ist seine Erschlossenheit.)
*2

現存在の本質は実存だから現存在の存在そのものの本質が「現」なのだ。

そしてこの開示性の存在の構造の特徴と、現存在が日常的に自らの「現」であるという存在のし方を解釈することが必要となる。

以下の第五章A「〈現〉の実存論的構成」第五章B「〈現〉の日常的存在と現存在の頽落」において内存在そのもの、すなわち「現」の存在が解明されていくだろう。

第五章A 〈現〉の実存論的構成

第二十九節 情態性としての現−存在

存在論的な「情態性(Befindlichkeit)」とは私たちが日常的に「気分(Stimmung)」と呼んでいるものである*3

そしてこの気分とは心理学的なものではなくて現存在の実存カテゴリーだ。

日常的な配慮的気づかいとしての現存在には「(気づかいが)かき乱されていない落ち着いた気分」「(気づかいが)阻止された不快な気分」がある。

それらは相互に移り変わるし、他にも現存在は不機嫌な気分に「滑り落ちる」こともある。

私たちがしばしば陥る気の抜けた状態は「気分」が無いことではなく現存在が自分に厭きた状態であり、その時「現」が現存在にとって重荷となってくる。

このようにして気分において現存在は自分の「現」に引き合わされている。

仮に高揚した気分が存在の重荷を取り去るとしても、取り去られることで逆説的に「現」の重荷が明らかになってくる。

ゆえに

気分があらわにするのは、「或るものがどのようにあり、またどのようになるか(wie einem ist und wird)」である。この「或るものがどのようにあるか」において気分づけられていることが、存在をその「現」のうちへともたらすことになる。*4

気分づけられていることによって現存在はその気分「である」存在者として開示されていて、しかも現存在はその気分において存在しなければならない。

日常性においてこそ現存在の存在はありのままに開示されることがあるが、現存在が「どこから」来て「どこへ」いくのかは隠されたままである。

また私たちは気分に「屈従」しているわけではないが、それは現存在が気分において開示されていることを反証するものではないし、むしろそれを証拠立てている。

現存在はたいてい気分に屈従せず気分おいて開示された存在を存在的には避けて通っているが、そのことによって存在論的には現存在が「現」である存在者だということが開示される。

「どこから」来て「どこへ」いくのかが隠されたままに開示される「現存在が存在すること」という存在性格を自らの「現」のうちに現存在が「投げ出されていること(Geworfenheit)」と呼ぶ。

この「被投性(投げ出されていること)」は現存在が情態性において存在し、また存在しなければならないことを暗示している。

さらにこの「現存在があり、在らなければならないこと」は目の前にある存在者のカテゴリーではなく世界内存在の実存カテゴリーだから、直感では見て取ることができない。

現存在は情態にあるということ、すなわち被投性において自分の「現」であるがその情態性において現存在は常に開示されていて、自分を情態における存在として見出している。

そして現存在はそのように自らを見出しているというあり方で存在させられてしまっている。

気分は現存在を「現」という重荷に「向かったり、背を向けたりすること(An- und Abkehr)」として開示する。

そして現存在はたいてい「現」の重荷から逃れようとしているという気分(情態)において存在している。

自分が「どこへ」行くのか信仰によって確信していても、自分が「どこから」来たのか科学的に知っていても、それによって気分によって「現」が現存在に提示されていてなぜ「現」があるのかという問いが存在していることが変わることはない*5

目の前にあるものについての理論によって情態性が現存在を明示していくことが低く評価されてはならないし、情態性を非合理的なものと考えてもならない。

現存在が知識と意志によって自分の気分を制御しなければならないにしても、認識や意志に先立って気分において現存在自身が開示されている。

気分を制御するとき先立って気分において存在している私たちは、それと反対の気分を持つことによってそれを制御するのだ。

情動性は現存在をその被投性において開示し、しかもさしあたりたいていは回避しながら背を向けるという様式で(in der Weise der ausweichenden Abkehr)開示するのである。*6

ここまでで明らかになったことだが、情動性は何らかの心的状態を目の前にあるものとして見て取ることではない。

むしろ内的反省が心的体験を発見することができるのも「現」が情動性によって先立って開示されているからなのだ。

反省を伴わない「単なる気分」が反省による思考よりも根源的に「現」を開示し、同時に何も知覚しないことよりも深く「現」を覆い隠してしまう。

このことを示しているのが「不機嫌な気分(Verstimmung)*7」である。

不機嫌な気分において現存在は方向を見失い配慮的に気づかわれる周囲世界を見失って、誤った方向に目くばりしてしまう。

そのような気分は反省している時ではなくむしろ周囲世界に没頭している時に現存在を襲う。

気分は内部から現れるものではないしまた外部の影響で生まれるものでもなく、現存在が世界の内に存在する様式であり、先立って世界内存在を開示している。

そしてまた気分において初めて現存在は何かに向かっていくことができるのである。


以上から情態性は被投性を開示し、その時々の世界内存在を開示するということがわかった。

さらに情態性は内存在に対する世界の先だった開示も構成している。

手もとにあるものが内存在を脅かすことがあるが、世界内部的な存在者に襲われることは内存在が情態性によって「襲われるもの」として規定されているから可能なのだ。

そしてまた恐れたり恐れなかったりという情態において存在できるものだけが手もとにあるものを「脅かすもの」として発見することができる。

このようにして情態性が現存在が世界を発見していくことを基礎づけているのである。

また襲われるものとして情態性に規定されていることで「揺り動かされること」「感受すること」としての「感覚」が存在論的に可能になってくる。

情態性のうちには開示しながら世界へと割り当てられていることが実存論的に存しているのであり、襲撃するものはこの世界の側から出会われうる。*8

私たちは「単なる気分」によってまず「脅かすもの」といったような世界を発見するのであり、直感作用によってそれをするのではない。


情態性において配慮的な気づかいの目くばりが方向を誤ったり錯覚を起こしたりするが、気分の揺らぎによってその時々に手もとにあるものが違って見えることでそれらは自身に特種な世界性を示している。

むしろ目の前にあるものとしてそれを認識することでそれらは一様なあり方に限定されてしまっているのだ。

しかし認識することで規定する作用も現存在の情態性のうちで成り立っている。

「ひと」は「公共性」において気分づけられているだけでなく自ら気分を必要として、演説などによって気分を「かもし出して」いく。

そのような場合気分を作り操るためにその気分を先立って知っていなければならない。


情態性において「現」に直面させられている現存在は自分自身を回避しているが、その存在体制が「頽落」という現象を分析する中で明らかになってくるだろう。

情態性はそれが現存在を明らかにしていくことによって実存論的分析論の方法としても重要である。

実存論的分析論は情態性において先立って開示された現存在をそのままに受け取ることで、現象学的な解釈は開示された現象を概念に高めるというだけのものである。

この後には現存在の根本的な情態性、すなわち「不安(Angst)」についての解釈が行われるが、その前に「恐れ(Furcht)」という具体的な情態を示していくべきだろう。

第三十節 情態性の一様態としての恐れ

恐れという現象は恐れの対象、恐れることそのもの、恐れの原因(なんのゆえに)の三点から考察される。

この三つによって情動性一般の構造も把握することができる。


恐れの対象は手もとにあるもの、目の前にあるもの、共同相互存在という世界内部的に出会われるものである。

恐れられるものは「脅かす」という性質を持っていて、その性質には以下の6つの多層的な事柄が属している。

  1. 有害であるという適所性を持っている。
  2. その有害さは被害を受ける対象の方に向かっていて、また特定の方位からやってくる。
  3. 恐れの対象とその方位は「穏やかでない」ものとして知られている。
  4. 手なずけることができるほどの近くにはまだないが、近づいてきてはいる。
  5. その接近は発見されていなければならないので、有害なものはすでに手もとにあるものとして「近さ」の内にある。
  6. 有害なものは通り過ぎるかもしれないが、それゆえにむしろ恐ろしさが募る。


次に恐れることそのものは有害なものに迫られながらそれを開示して発見することである。

そしてまた恐れという情態が可能であることによって恐ろしいものが接近してくることが可能となるのだ。

また、接近は世界内存在の空間性に基づいて初めて可能になる。


最後に恐れの原因は恐れる現存在自身である。

恐れは常に危険にさらされている現存在自身を開示し、現存在の「現」を提示している。

私たちは配慮的気づかいにおいて対象の元で存在しているから、自分が気づかっている持ち物などの事物が危険にさらされている際にも恐れは起こる。

その場合気づかわれているものの元で存在していることが脅かされているのだ。

さらに恐れは現存在を開示すると同時に、現存在をうろたえさせて自分自身をわからなくさせてしまう。

他にも例えば危険な場所にそれと知らずに近づく他者たちのために恐れることがあるが、それは共に恐れることでも他者の恐れを肩代わりすることでもない。

この場合も配慮的に気づかわれているもののための恐れと同じく他者の元で存在する自分が脅かされているのだ。

ゆえに何かのために恐れることは自分についての恐れが弱くなったものではない。

そしてまた恐れのきっかけは様々にあり、恐れることにも驚愕、戦慄、仰天などの様々なバリエーションがある。

第三十一節 理解としての現−存在

「理解(Verstehen)」は情態性と同じように根源的な形で「現」を構成している。

情態性において現存在は自分の「現」を了解していて、それゆえに理解は常に気分付けられている。

そのようにして現存在の実存を構成する理解は第一次的な理解と呼ばれて、認識の仕方という意味での理解や「説明」とは区別される。

「世界が現にそこにあること」である内存在(「現」)は現存在の「なにのゆえに」でありまたその中で世界内存在の実存が開示されていて、その開示が理解と呼ばれる。

そして「なにのゆえに」を理解するとそれを基礎としている有意義性の連関が理解され、そして個々の道具の有意義性が理解される。

「なにのゆえに」と有意義性は現存在において開示されるから、現存在にとって世界内存在としての自分自身が問題となっている。


「理解」という言葉は「〜が可能である(etwas können)」という意味で用いられることがある。

実存カテゴリーとしての理解は「何か」が可能であることではなくある実存の仕方が可能であるということを意味している。

何かを理解することで何かしらの形での存在ができるようになるから、理解という情態にある現存在は「存在可能(Sein-können)」として存在している。

現存在は「何かが可能であること」を属性として所有しているのではなく、自分の可能性そのもの、「可能存在(Möglichsein)」である。

まだ現実的でなかったりいつまでも必然的でないこととしての可能性ではなく、現存在の存在論的に規定されたあり方である実存カテゴリーとしての可能性を解明する基盤を「開示する存在可能」である「理解」が与えてくれる。


実存カテゴリーとしての可能性は無差別に選択することができるという意味での自由ではない。

すでにある情態のうちにあることで現存在は一つの可能性の中にはまり込んでいて、他の可能性を失ってしまっている。

すなわち現存在は「被投的な可能性(geworfene Möglichkeit)」なのだ。

そして理解とはこのような被投的な存在可能として存在することだ。

その存在可能は「まだ来ない」ということではなく現存在の存在と共に存在している。

そして理解は一つの被投的な情態であるから、現存在はそのつどすでに理解したり理解し損なったりしている。

だから現存在は自分の存在可能において自分を理解するという可能性の中に投げ入れられる。

理解とは現存在自身が有する固有な存在可能の実存論的存在(das existenziale Sein des Seinkönnens des Daseins selbst)であり、しかもこの実存論的存在は、自分自身の存在が〈なにに懸かっているか(das Woran)〉を自分自身に対して開示している。*9

世界内部的な手元にあるものは「役に立ちうるあり方」「有害となりうるあり方」という可能性において発見される。

つまり適所全体性は道具の可能性の全体として発見されるのだ。

一方目の前にあるものの総体つまり「自然」の存在も自然を可能とする条件が開示されていることに基づいてのみ発見されうるものとなる。

しかしなぜそのようにして自然の存在が理解されるのかについては示されないままになっている。


理解は「投企(Entwurf)」という実存論的構造を持っていて、常に可能な存在のありかたに移行していく。

そのような理解は現存在の存在を「なにのゆえに」や世界性そのものである有意義性に向けて投企している*10

そして現存在は被投性によって投企するという存在の仕方に投げ込まれている。

だから投企することは現存在が能動的に計画を持ってある存在となることではなく、現存在はすでに自分を投企してしまっていて投企することで存在している。

すなわち現存在は常に投企によって自分の可能性として存在していて、そこから自分を理解しているのだ。

しかし可能性へと向かっていく理解は自分がそれに基づいて投企する可能性を把握しているわけではない。

もし理解が可能性を最初から把握しているなら投企された現存在の実存は可能性ではなくなり「与えられ、思いなされ、存立していることがら」へと引き下げられる。

だから可能性が把握されないまま現存在の存在が可能性に向けて投企されることによって、可能性は可能性として存在することができる。

投企によって可能性として存在することで現存在は常に実際にある「以上の」ものである。

すなわち、現存在は実存論的にいえば、じぶんの存在可能においてまだそれではないものなのである(was es in seinem Seinkönnen noch nicht ist, ist es existenzial)。*11

理解とその投企という性格によって現存在は現にここに存在していて(「現」が構成されて)、現存在は常に自分がそれになったりならなかったりする可能性として存在している。

投企という性格は世界内存在が先立って開示されていることに常に関わっている。

そして理解はそれ自身存在可能であるから様々な可能性を持っている。

第一次的に理解は世界の開示性として存在していて、その場合現存在は世界の側から自らを理解することができる。

そうでない場合は理解は現存在の「なにのゆえに」を了解する理解であり、その時現存在は自身の「なにのゆえに」を先立って了解する存在者として実存する。

ゆえに理解には固有な自己から現れてくる本来的なものと世界の開示性としての非本来的なものの二種類がある。

しかし世界は世界内存在としての現存在に属しているので、非本来的な理解も本来的な理解と変わらない。

そして存在可能である理解はどちらにせよ正しくも間違ってもありうる。

また理解が本来的、非本来的のどちらの可能性に投げ入れられるにしても、もう一つの可能性が無くなるわけではない。

以上から世界についての理解のうちで内存在が理解されており、逆に実存についての理解は世界についての理解となるのだ。

そして現存在は理解の可能性の一つに投げ入れられて存在を可能としている。


理解は配慮的気づかいにおける目くばり、顧慮的気づかいにおける見かえすことである「見ること」を実存論的に構成する。

これは存在そのものを「見ること」であり「現」の開示性と共に実存論的に存在している。

実存に関係する「見ること」を「見とおすこと(Durchsichtigkeit)」と呼ぶ。

この見とおすことは一個の点としてではなく世界内存在、共同存在としての自己を認識することを意味している。

見とおすことに失敗するのは自己を一点としてみているためだけでなく、世界そのものを見ていないためでもある。


「見ること」は現存在が「現」によって明るくされていることを指している。

見ることは視覚的なことでも目の前にあるものとして非感性的に捉えることでもなく、「存在者をそれ自身に即して出会わせること」である。

そして見ることはすべて第一次的に理解に基づいている。

また「直感」や「思考」は理解から派生してそこから距たったものだ。

「現」が開示されている、すなわち「現」を理解していることは現存在の存在可能のひとつの様式である。

そして理解は「なにのゆえに」や有意義性を理解するという存在様式に向けて現存在の存在を投企しているから、存在一般がそこで開示されている。

だから様々な可能性に向けて現存在の存在が投企されていることのうちで現存在の先立った存在了解が生まれる。

ゆえに理解という実存を構成するものにおいて先立った存在了解が獲得されるのだ。

以上から情態と理解という実存カテゴリーが世界内存在の開示性を説明している。

理解という気分付けられた情態にあって現存在は自分の可能性を見て取っているし、反対に可能性に投企しながら開示することで気分付けられている。

被投的な投企という存在体制は現存在をますます謎めいたものにしてしまう。

まず情態付けられた理解という実存カテゴリーを具体的に解明する必要があるだろう。

第三十二節 理解と解釈

「理解」が持つ投企という作用は自分を完成させる固有な可能性を持っていて、その完成を「解釈(Auslegung)」と名付ける。

現存在に先立って理解されている有意義性の連関としての世界の個々の道具が明示的に「見ること」のうちに入り込んでくることが「解釈」である。

その際手もとにある道具は「〜のために」あるもの「として」了解されていて、つまり「あるものとしてのあるもの」と解釈される。

例えば現存在は手もとにある道具を机、椅子、ラップトップ「として」常に見て取っている。

理解される道具は「〜として」解釈されることの中で有意義性の全体から分節化されて個々の道具となるので、理解と解釈は対象への言明に先立っている。

そして「〜として」見ることから逃れて対象を目の前にあるものして見るものの見方にはこの「理解」が欠如している。

この「解釈」は目の前にあるものに「意義」を投げ入れ価値付けることではなく、世界内部的な存在者から適所性を取り出すことなのだ。

手もとにあるものがそこから理解されている適所全体性は一旦は明示的に解釈されても再び目立たないあり方に戻っていき、目立たないあり方において適所全体性は日常的な解釈の基礎となる。

そのような解釈は適所全体性の先立った理解(「あらかじめ持つこと(Vorhande)」)、適所性を分節化して解釈するのための観点を先立って定めておくこと(「あらかじめ見ること(Vorsicht)」)、さらに道具を概念的に把握しておくこと(「あらかじめ掴むこと(Vorgirff))」)に基づいている。

そうして道具は解釈可能なものとなり、解釈において道具はそのものに基づいた概念やそうではない概念に押し込められてしまっている。

さて、この理解の「あらかじめ構造」と解釈の「として構造」は投企という現象と何か関係があって、それゆえに投企は現存在の存在体制を指し示しているのだろうか。

このことを解き明かすためには理解と解釈の構造として見て取られるものが統一的な現象を示していないか考える必要がある。

世界内部的な存在者が現存在の存在と共に了解されている時その存在者は意味を持っていると言われるが、その場合理解されているのは意味ではなく存在者や存在である。

意味とは理解によって開示される適所全体性の中で分節化可能なものであり、投企がそれに基づいて行われる現存在の存在可能が解釈を通じて構造化されたもので、その意味の側からあるもの「として」理解が可能となる。

また理解と解釈が現存在が現にここににあること(「現」)の実存論的な構造契機なので、意味は現存在の理解が開示していくことの実存論的な基礎でなければならない。

だから意味は現存在の実存カテゴリーであり、現存在だけが有意味であったり無意味であったりする*12

現存在が意味を有するというのは世界内存在が「明るみ」によって出会うものを開示することによって、現存在の存在と出会われる存在者を実際に了解することである。

そして現存在以外の存在者は意味を持たない没意味的なものであり、没意味的なものだけが現存在の存在に衝突する反意味的なものでありうる。

また存在の意味の問いは、意味が存在可能(=現存在の存在)が構造化されたものであることから現存在の先立った了解によってとらえられる存在を問うことである。


解釈は理解の「あらかじめ構造」のうちで行われているから、現存在は解釈する対象を先に理解していなければならない。

このように理解を前提とする限りで解釈には循環があり、この解釈は厳密な認識とは認められないのではないか。

しかし、循環は悪いものだという決めつけも「理解」を誤解しているから生じるのだ。

その場合理解は特定の理念に押し込められてしまっていて、世界内部的に出会われるものは目の前にあるものとして見られ、本質的に理解できないものと勘違いされてしまう。

だから循環を避けるのではなく、正しい仕方で循環の中に入り込まなければならない。

解釈の最初にして最終的な目標は「あらかじめ持つこと」「あらかじめ見ること」「あらかじめ掴むこと」を仕上げる中で学問の対象となるものを決めていくことで、それにより根源的な認識に至ることができる。

その解釈の前提となる理解は現存在の存在可能であるから、解釈に基づく歴史学的な認識の前提は科学の理念よりも豊かであり、数学は歴史学より厳密なのではなく狭隘なのである。

理解における循環は意味の構造に属していて、意味の構造は現存在の解釈しつつ理解するという存在体制に根ざしている。

だから現存在は循環構造を持っているが、循環というのが目の前のものについての概念なので現存在をこれによって存在論的に説明するのは避ける必要がある。

第三十三節 解釈の派生的様態としての言明

言明(判断)は理解に基づいた解釈の派生的な様式であり、その限りで意味を有している。

まずは解釈の派生である言明が解釈の「として構造」をどの様に変様させているか示す必要があるだろう。

そして古代の存在論において「ロゴス」が存在を規定するための概念として用いられていたことから、言明についての分析は基礎的存在論においても重要である。

また真理は言明のうちにあるものとみなされていることから、言明についての分析は真理についての解明を準備するものである。

以下では言明という語に三つの意義を割り当てる。

一つ目は「提示すること(Aufzeignung)」であり、言明された存在者はその存在者の側から開示される。

この場合言明では意味や表象、観察者の心的状態などではなく手もとにある存在者そのものが提示されている。

二つ目は「述語付けること(Prädikation)」であり、主語が述語によって言明され規定される。

述語付けることの基礎には提示することが含まれているから、第二の意義の言明は第一の意義の言明に基礎付けられている。

主語として規定されることで存在者は例えばハンマーといった存在者に限定されるが、述語によって主語は規定されたあり方において明示的に見てとられるようになる。

三つ目の意義は「伝達すること(Mitteilung)」であり、伝達することとは規定されながら提示されたものを共に見えるようにさせることである。

この場合他者と分かち合われる(伝達される)のは提示されたものに関わる存在、世界内存在である。

また言明には「言表されているという性格(Ausgesprochenheit)」があるので、その言明を聞いた人が対象を手もとにあるものとして持っていない場合もあり得て、その場合言明は伝言されたことになる。

以上の言明の三つの意義をまとめると、言明とは「伝達しつつ規定する提示(mitteilend bestimmende Aufzeigung)」である。

そして解釈の変様であるこの言明は解釈と同じ構造を持っている。

まず言明は理解において既に示されている(「あらかじめ持つこと」)ものを提示する。

次に述語付けて規定することにおいて適所性を持った対象に方向を合わせて見やることが先立って行われている(「あらかじめ見ること」)。

そして伝達としての言明には対象を概念的に分節化する働きがあり(「あらかじめ掴むこと」)、その分節化は言語などの一定の概念構成の中で行われている。

さて、言明においては解釈の何が変容しているのだろうか。

論理学の定言的言明「このハンマーは重い」というのはハンマーが重いという属性を持っているということを意味している。

一方解釈においては同じ「このハンマーは重い」においても「このハンマーは重すぎるから別のものを!」ということを意味することができる。

だから解釈は理論的な言明の中で行われるのではなく、手もとにあるものを配慮的に気遣うことの中で行われる。

言明においては「あらかじめ持つこと」で了解される手もとにあるものの「それによって(Womit)」が言明の「それについて(Worüber)」に変様してしまう。

「それによって」とは解釈によって捉えられた、例えばハンマーによって何かをすることで、それは言明される際にその言明の対象として「それについて」に置き換わってしまう。

そして言明において「あらかじめ見ること」は目の前にあるものに焦点を合わせていて、それによって言明の対象は手もとにあるものとしては見えなくなってしまう。

ここで解釈の「として構造」が適所性をつかむことから変様して、目の前にあるものを規定することとなっている。

この様にして言明は目の前にあるものを提示し、規定し、伝達することができるようになる。

以下では解釈における「として」は実存論的−解釈学的な「として」、言明における「として」は命題的な「として」と呼ばれる。

また解釈と言明の間には様々な中間段階がある。

そして解釈から生じた命題を理論的な言明に還元してしまうとその意味が転倒してしまう。


ロゴスは目の前にあるものとして考えられてきて、目の前にある様々な言葉の間の結合が問題となってきた。

アリストテレスによればロゴスは総合であると同時に分解であり、提示はまとめることであり切り離すことでもある。

しかしロゴスの構造内のどんな現象が総合と分解を可能にするのかについてはまだ問題になっていない。

ロゴスの統一において「あるものとしてのあるもの」が言い当てられていたはずであり、その時あるものがあるものと付き合わされて理解される。

そして同時に分節化する解釈によって言葉たちが分解される。

解釈学的な「として」が明確に捉えられていなければ、ロゴスの分析は表象や概念の結合や分離についての形式的な判断論となってしまうだろう。

また総合と分解をさらに形式化して「関連付け」と捉えると、言明(判断)は計算の対象ではあっても解釈の対象ではなくなってしまう。

「繫辞(Copula)」という現象において存在論的な問題系とロゴスについての論理学の関係が示されている。

ロゴスの総合という構造は自明のものとされてきたし、それは解釈の基準ともなってきた。

また言明や存在了解が現存在の実存論的な在り方であるから、「である(ist)」という言葉とそれについての解釈*13も実存論的分析論において問題となってくる。


重要なのは言明が理解しながら解釈することの派生であるという点と、ロゴスについての分析が実存論的分析論に根ざしているという点だ。

古代存在論においてはロゴスの解釈が十分でなく、ロゴスとそれが示すものが目の前にあるものと捉えられ、そうしたあり方が他の存在可能性と区別されることもなかった。

第三十四節 現−存在と語り。ことば

情態性と理解は等根源的に「現」を構成していて、理解に解釈の可能性が含まれていたのと同様に情態性にも了解の可能性が含まれている*14

さて、言明というものの分析において言うことや話すことが問題となった。

ことばという現象は現存在の実存論的な開示性に根ざしていて、ことばの実存論的な基礎は「語り(Rede)」である。

そして「語り」は実存において情態性や理解と等しく根源的である。

世界に対する了解の可能性は解釈に先立って分肢化されていて(「あらかじめ見ること」)、その分肢化こそが語りなのだ。

だから意味とは解釈において語りによって分肢化できるものである。

語りでは意義全体(適所性の全体)が様々な意義に分解されている。

また語りは開示性(「現」)の実存カテゴリーであると同時に、開示性は世界内存在によって構成されているから「世界的」なものでもある。

そして了解可能性の全体つまり意義の全体が「語」として分節化されて現れてくるので、語という目の前にある事物に意義が後から与えられるのではない。

外側に言表された語りがことばであり、語りが世界的であることからことばも手もとにあるものと同様に世界内部的な存在者である。

だからことばは個々のことばとして、手もとにあるものがそうであったように目の前にあるものとして捉えられることもある。

また語りは被投性を持つ世界内存在の開示性を分節化しているから、語りは実存論的には同じく被投性を持つことばなのだ*15


語りつつ発言することには「聞くこと(Hören)」「沈黙すること(Schweigen)」という様態がある。

世界内存在は共同存在なので顧慮的に気づかい合う共同相互存在の特定の情態として存在している。

そして共同相互存在は例えば相談するといったように語りながら存在している。

語りは気づかいながら存在している世界内存在を構成するものであるから、語りには常に「なにについて」という語られる対象が付属している。

語りにおける伝達で、理解し合っている共同相互存在が分節化される。

共同現存在は情態性や理解の開示性において既にあらわになっているから、「伝達(Miteilung)」は一つの主観の内部からもう一つの主観の内部へと体験を伝達することではない。

語りにおける伝達ではむしろ共同存在が明示的に分かち合われる(teilen)のだ。

「現」として開示性を備えていて、気づかわれる対象の元で存在している現存在は語ることによって自分を外に現表する。

語る調子や抑揚によって現存在の気分(情態)が現表されている。

語りを構成するのは「なにについて」、語られているもの、伝達の三つであるが、それらは単なる属性ではなく現存在の存在体制に関わっている。

そして語りの実際の形態である個々のことばはこの性格によって初めて存在論的に可能となる。

語ることの可能性の一つである「聞くこと」から語りが理解や了解可能性と関わっていることが明らかになる。

「聞いていなかった」ということが「理解していなかった」と言い換えられることもこの関係を示している。

何かを聞くことは現存在が他者に対して開かれていることで、聞き取ることで相手に所属して存在している。

だから相互に聞き合うことで共同存在が形成される。

注意して聞くことは理解しながら聞くことであり、私たちは単なる音を聞き取るのではなく「何かの音」ととして受け取っている。

このようにして何かの音として聞くことは現存在が手もとにあるものの元で存在しているということを示している。

他者の語りを聞く時も、現存在は語られているものの所に他者と一緒に存在している。

語りがどのように行われていて、それが相応しいかどうか判断できるのも語られている対象を先立って理解しているからだ。

語ることと聞くことが実存論的に可能となって初めて「注意して聴くこと(horchen)」が可能となる。

すでに理解している者のみが、耳を傾けることができるのだ。*16

互いに語り合うことにおいて沈黙することは、多くを語りすぎることよりも伝えたいことを相手に理解させることができる。

なぜなら多く語ることで常套句によって見せかけの理解や明晰さが得られてしまい、本来的な理解が遠ざかってしまうからだ。

ところで最初から口のきけない人は沈黙することができない。

だから沈黙することができるのは語ることができる存在者、すなわち自分の開示性が手の届くところにある存在者である。

そして沈黙という語りのバリエーションの一つにおいて了解可能性が根源的に分節化され、真正な「聞くこと」が生まれてくる。

語りは「現」すなわち理解と情態性を構成しているから、現存在は常に言葉を有している。

そこからギリシャ人は人間を「ロゴスを持つ動物」と定義していた。

このことが意味しているのは人間が言葉を発する動物であるということではなく、現存在は世界や現存在を発見するという様式で存在しているということだ。

これまでの哲学的省察ではロゴスは言明として考えられ、文法学はロゴスを目の前にあるものとみなす論理学に基づいている。

しかし本来は語りは実存カテゴリーであり、言語学はより存在論的に根源的な基礎の上に構築し直されなければならない。

そのためには語りの構造が明確化されなければならず、そのために現存在の存在についての分析を成功させなければならない。

結局哲学においてはことばがどのように存在しているのかを問わなければならない。

以上でのことばについての探求はことばが現存在の存在体制においてどのような役割を持っているのかについて解き明かすものであった。

次に語りとその他の現象との関連から現存在の日常性をより詳細に明らかにしていく。


感想

第一篇第五章では「現(Da)」という概念が提示された。

ここでの記述が少なくわかりづらいのだが、読んでいる範囲での使われ方を見ると「現存在が現に存在していること」を指しているようだ。

つまり現存在や世界がただ概念としてあるだけでなく、実際に存在していることが「現」なのだろう。

そして「現」は「明るみ」でもある。

これまた難解な概念だが、現存在自身や手もとにあるもの、他者が現存在が現にそこにあること(「現」)によって初めて了解可能となるということだろう。

ハイデガーの言う)現象学的には事柄それ自身が開示性を持っているため、それらは探求によってではなく「現」によって開示されてくる。

共同存在として他者と溶け合って「ひと」として存在している現存在をある一点として捉えて、その周囲にある道具が発見されると主張することはできないが、それでも発見される道具とそうでない道具がある。

だから点ではなく曖昧な明るみとして現存在が存在していて、その明るみに照らされた道具と現存在自身が発見されるということだと思う。


第五章Aではまず情態性という概念が提示された。

これは現存在が実際に存在しているその具体的なあり方のことで通常は気分と理解される。

私たちは何かの気分になろうと思ってなるのではなく、気付いたらその気分になっている。

この受け身の性質が「被投性」と呼ばれるものだろう。

先日教授にショーペンハウアー哲学のハイデガーに対する影響について聞いた時、この「気分」を主題的に扱った点がショーペンハウアーの影響だと言っていた。

カントにおいては感情や気分はあまり扱われないが、ショーペンハウアーは「生への意志」として人間が持つ感情や衝動を中心的な課題として研究していた。

生への意志は全てに先立って存在していて人間はその現象として欲望を「持たされている」にすぎないから、感情に「襲われる」という観点にもショーペンハウアーの影響が見られる。


次に投企という性質を持つ「理解」が登場した。

この理解は存在者の適所性の全体(=世界)の開示性としてあるものだが、理解にはもう一つの意味合いがある。

例えば「自転車の乗り方を理解した」という時、「自転車に乗ることができる」ということも意味されている。

だから理解には何かが可能であるという意味があるとハイデガーはいう。

すると理解することは「何かが可能となること」をも意味している。

投企というのはある可能性が実現されてくる(「現」となる)ことで、自転車の乗り方を理解する時「自転車に乗ることが可能である」という現存在の存在の可能性が実現されている。

だから理解には投企的な性格があり、理解することで現存在は自分自身の存在をある可能性に向けて投げ込んでいる。

この例で見られるように現存在は理解することで何かが可能であるような存在すなわち「可能存在」となっている。

また理解という投企も現存在の「現」として一つの情態であるから、投企は同時に被投性も持っている。

すると現存在は投企するというあり方で既に存在してしまっていることになる。

だから現存在は常に自分の存在を可能性に向けて投企し終えている。

つまりどれが今の現存在でどれが可能性なのかの区別がそもそも不可能であり、それゆえに現存在は可能性として存在していると言われるのだ。

何かが可能である存在が同時にその可能性そのものでもあるというのは明らかな矛盾で、それをハイデガーは踏み越えようとしている。

ハイデガーのすごいところは既存の言語を用いて既存の言語ではどうやっても矛盾をきたす概念を説明しようとしていて、さらに部分的にはそれに成功しているというところだと思う。


そして解釈という行為の構造について分析された。

解釈を行うためには有意義性の全体(=世界)を先立って理解していること(あらかじめ持つこと)が必要であるとハイデガーはいう。

この循環は「観察の理論負荷性(Theory-ladenness of Observation)*17」として科学哲学の文脈で語られる概念を想起させる。

観察の理論負荷性は、何かを観察する際に観察者が先立ってコミットしている理論体系やパラダイムの影響を受けるということである。

ハイデガーはこの循環を悪いものと考えるのではなく、循環に正しく入り込むことが重要だと言っている。

観察の理論負荷性が取り沙汰される文脈では世界内部的な存在者は「目の前にあるもの」とみなされて研究されていて、そこでは循環が悪いものだと考えられている。

現存在は世界を先立って理解しているという議論には納得できるので、私は現段階ではこの循環を受け入れるのがいいと思っている。


第三十四節では「語り」というもの何なのかが提示された。

そもそも有意義性の連関の全体として有機的に一体となっていた世界が語りによって裂け目を入れられて個々の有意義性(意味)が生まれてくる。

私たちが普段想像する「個人」というものも語りによって共同存在(「ひと」)から分節化されたものだ。

だからそもそも根本的に存在しているのは「ひと」で「個人」だとか「主観」というものは語りによってそこから切り出されたものなのだろう。

語りによって「私」が生まれるという論を読んだ時に脳裏をよぎったのが先に読んだデネット『解明される意識』の「物語的重力の中心としての自己」だった*18

この自己は網の目状の発話と行為を紡ぎ出し、それがあまりに高度なので「自己」にあらゆる命令を発する中心的な主体が存在するように思われたのである。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

自己が生まれるプロセスについては少し相違があるが、中心的な一点としての自己が語りや行為によって生み出されるという結論は一致している。


(2017/2/19追記)

「現」は「ひと」としてどこにもいない現存在がそれでもある一定の場所において存在しているということ。

どこにもいなければ何も開示されないが、「ここ」にいるなら「ここ」にあるものは開示される。

すなわち「現」=「開示性」。

手もとにある道具のもとで存在している現存在の有意義性を理解する(という形で存在する)=現存在の可能性として存在する。

ただ道具が開示されるだけではなくその有意義性(可能性)が「理解」される。

有意義性の理解として存在する現存在は、道具の可能性として存在する可能存在である。


この記事の続き、第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:この「現(Da)」というのは存在という概念があるだけではなく「現に」実際に現存在が存在していることを言っているんだと思う。

*2:1.1.5.28.370 p145

*3:ここでの「情態」は配慮的気づかいとしての現存在の具体的なあり方のことだろう。「状態」の同義語でもあるので現存在の状態に感情の意味を加えた表現とも受け取れる。

*4:1.1.5A.29.378 p151

*5:ここではなぜ何も無いのではなく何かが存在しているのか、「現」があるのかという存在論的な謎が信仰や科学によっては解き明かせないものとしてあるということを言っているのだと思う。

*6:1.1.5A.29.383 p160

*7:注解によると失調、意気消沈なども意味している。この場合意気消沈の方がわかりやすい気もする。

*8:1.1.5A.29.387 p166

*9:1.1.5A.31.407 p194, 195

*10:「なにのゆえに」や有意義性を理解するという存在の様式に投企していくことだと思う。

*11:1.1.5A.31.410 p201

*12:現存在が手もとにあるものの元で存在している時のみ有意義性の分肢化が行われて意味が生じるということだろう。(2017/2/19追記) 手もとにある道具のもとで存在する現存在が「意味」を文節化されているということ。確かに道具は現存在がそこで存在するときのみ意味を付与されるが、現存在がそのもとで存在していない時の道具はそもそも開示されていない。

*13:AuslegungではなくInterpretation

*14:情態性において「現」が開示されることを言っているのだろう。

*15:了解可能性が語りによって先立って分節化されて、最初からある意義を持ってことばが生まれてくるからことばも世界内存在と同じように被投性を持っていると言われるのだろう。

*16:1.1.5A.34.466 p278

*17:Theory and Observation in Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy) "4. How observational evidence might be theory laden"に詳しく書いてある。

*18:詳しくは以下の記事re-venant.hatenablog.com