ハイデガー『存在と時間』(二)③


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事三つ目。

この記事では第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com



また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第五章B 〈現〉の日常的存在と、現存在の頽落

第五章Aでの分析は現存在の日常的なあり方から離れてしまっていた。

ここからの分析は現存在の日常性という地平に立って行われることになる。

そこで問われるのは日常的に「ひと(das Man)」というあり方をしている世界内存在の開示性はどのような性格を持っているのかということだ。

「ひと」には固有の情態性や固有の解釈、理解の仕方があるのだろうか。

また現存在は「ひと」の公共性のうちに投げ込まれていて、その公共性が「ひと」の特殊な開示性なのではないだろうか。

理解は現存在の存在可能であるから、「ひと」が行う解釈や理解についての分析で明らかにされるべきなのは現存在が自身のどのような可能性を「ひと」として理解し解釈してそこに投企しているかだろう。

第三十五節 空談

空談は現存在の日常的な理解と解釈に関わる積極的な現象である。

語りによって言表されたものは常に了解と解釈によって捉えられているし、言表されたあり方として「言葉」は目の前にあるものではなく現存在はその言葉において存在しているので、言葉には現存在の解釈されたあり方が内蔵されている。

語りによって共同存在から分節化された現存在は常に語られて存在している以上解釈されたあり方をしていて、それによって理解や情態の可能性が制限され割り当てられている。

そしてまたその割り当てによって現存在は世界を理解することができるようになるのだ。

「言表され、また自分を言表する語り(die ausgesprochene und sich aussprechende Rede)」の実存論的な存在の仕方が解き明かされなければならない。

自分を言表する語りは「伝達(mitteilung)」であり、伝達が目的とするのは語ることによって開示された存在に聞く者を「参与」させることである。

自分を言表する語りにおいて語られる言葉には平均的な了解可能性が含まれていて、だから伝達された語りは広く理解可能なのものとなる。

その場合人は語られた存在者(語りの「なにについて」)を理解するのではなく、語られた言葉をそのまま聞いているだけに過ぎない。

ゆえに語られているものを素通りして「聞くこと」と「理解が」繋がっているのだ。

伝達における前提は現存在たちが共同存在として共に存在していることであり、それは共に語ることや共に気づかうことのうちで作動している。

語られた対象が問題とならないから共同存在にとって重要なのは「語られていること」だけであり、既に何度も語られている格言や宣言が重要なものとみなされる。

そしてまた伝達は真似るという様式で行われ、語られていることばは拡散されて権威を持つようになる。

そのようにして「なにについて」という地盤を完全に失った語りが「空談」なのだ。

空談とは、ことがらを先だって領有することなくいっさいを理解する可能性である。*1

この空談は公共性の中に入り込んできて、真正な理解を覆い隠しそれを目指そうという試みも抑圧してしまう。

現存在はさしあたりこのような空談によって物事を見知った気になっている。


現存在は常に解釈されたあり方に入り込んでしまっていて、そのあり方において真正な理解を試みる。

また解釈されたあり方は現存在の情態も決定していて、「ひと」が現存在が世界をどのように見るのかを規定している。

そして空談というあり方のうちに身を置いている現存在は世界、共同現存在や内存在とのつながりを断ち切られている。

しかしその状態にあってなお現存在は世界において他者や自分と関わりながら存在している。

第三十六節 好奇心

「見るはたらき」に向かっていくという存在傾向を「好奇心(Neugier)」と名付ける。

この好奇心は見ることだけでなく世界を認知しようとする傾向全般を表現している。

人間は本質的に好奇心を有していて、見るはたらきに向かっていきながら存在している。

そして見るはたらきというのは視覚だけでなく感覚全てを指している。

世界内存在は目くばりによって導かれた配慮的気づかいの中に没入しているが、その気づかいは中断や完了によって休止することがある。

その際に配慮的気づかいがなくなることはないが、目くばりが配慮的気づかいから解放されている。

その解放された目くばりは手もとにあるものから離れて遠くにあるものに向かっていき、そこで世界を目の前にあるものとして見て取ることとなる。

だから現存在は本質的に遠さを求めて自分や手もとにあるものがから逃れようとする傾向すなわち好奇心を持っているのだ。

現存在は好奇心によって何かを見てもそれを理解することはない。

そして好奇心は常に何かから何かへと飛び移っていてどこかに留まるということがない。

また留まらないことによって「気晴らし」がなされる。

この「滞在しないこと(Unverweilen)」「気晴らし(Zersteuung)」が好奇心の二つの契機であり、滞在しないがゆえに好奇心には特定の所在地がない。

そしてこの「滞在の場所がないこと(Aufenthaltslosigkeit)」が現存在の日常的な存在の仕方の一つなのである。

人が知っておけなければならないものについて語る空談によって好奇心の方向性が調整される。

空談と好奇心は語りと見ることの日常的な様態で、それぞれが互いをを促進している。

この二つが現存在が真正なものと思っている「生き生きとした暮らし」を保証していて、その思い込みによって現存在の日常性に関する第三の現象が明らかにされる。

第三十七節 あいまいさ

誰にとっても接近可能でそれについてあらゆることを語り得るものがあると、何が真正に理解されていて何がそうでないのかがあいまいになってしまう。

そうしたあいまいさは世界についてだけでなく共同相互存在や現存在そのものにも当てはまる。

またあいまいさは「理解」においても生じていて、誰もがこれから起こることを予期し、また何がこれから起こるべきか感知している。

予感や感知されたものが実際に起こるとあいまいさによってそれに対する関心が失われてしまう。

なぜなら予感する可能性としてのこの関心は好奇心や空談としてしか成り立たないからだ*2

空談(予感)は常に最新のものに到達しているが、実際の遂行は常にそれに遅れて行われる。

新たに創造されたものはすでに予感されてしまっていてそれが遂行されるときには遅れたものとみなされてしまうので、その新たに創造されたものが自由になるためにはそれを覆い隠す空談や関心が無くならなければならない。

現存在の解釈されたあり方に属するあいまいさによって、空談において語られたものや好奇心において予感されたものが本来的に生起されたものであり、実際に遂行されたものは遅ればせのつまらないものだと考えられてしまう。

あいまいさは共同現存在の公共的な開示性において存在していて、そのあいまいさによって好奇心が養われ、空談が決定的なものであるかのような見かけが与えられる。

またあいまいさという世界内存在の開示性の存在の仕方は共同相互存在を完全に支配している。

「他者」はその人についての伝聞において「現にそこに」存在しているから、共同相互存在の隙間に空談が挟まれている。

だから「ひと」としての共同相互存在は互いに聞き耳を立て合っているのだ。

次に空談、好奇心、あいまいさの間の連関の存在の仕方が捉えられなければならない。

第三十八節 頽落と被投性

空談、好奇心そしてあいまいさによって特徴づけられれるのは現存在が「現にそこに」存在していいること、すなわち開示性の様式である。

このような性格が示す現存在の日常的な存在の仕方を「頽落(Verfallen)」と名付ける。

頽落は現存在はさしあたり気づかわれた対象の元で存在し没入していることを意味している。

現存在の「非本来性」がこの頽落の解釈を通じてより鮮明になる。

非本来的に存在すること(「自分自身」ではないこと)は現存在が本来的に存在しないということを意味していない。

むしろ非本来性は世界内存在のある一つの際立った存在の仕方を形作っている。

世界内存在は頽落という様式において世界や「ひと」に没入していてそれが現存在が非本来的に存在しているということだが、それは一つの積極的な可能性である。

この自分自身ではないこと(非本来性)が現存在の最も身近な存在の仕方として把握されなければならないのだ。


世界内存在や気づかいについての分析では現存在の存在体制について分析されたが、その存在体制の存在の仕方に目が向けられることはなかった。

そのような世界内存在の実存論的な存在の様態が頽落によって示される。

空談において現存在が真正な理解を持ち合わせないまま世界や自分自身に関わりながら存在していることが示され、好奇心によって現存在が様々な場所にいて同時にどこにもいないということが示されている。

そしてあいまいさによって現存在は真正な理解を持っていないという状態に押さえつけられているということが示されている。

空談、好奇心、あいまいさによって現存在の日常性が見通されて、現存在の根本的な存在体制の構造が解明できるようになる。

それではそのような存在体制である頽落はどのような構造を持っているのだろうか。


空談は共同存在の存在の仕方でありそれを口にする現存在のうちで現前するものに過ぎない。

だから現存在は自分自身の空談というあり方において、自分が「ひと」へと解消され真正な理解を喪失した状態へと頽落する可能性を準備している。

ゆえに世界内存在は自分自身に頽落への誘惑を与えるものなのだ。

そして空談とあいまいさによって全てのものが正しく理解できているという思い込みが与えられて現存在は頽落したあり方のうちで固定されてしまう。

その思い込みによって安心が与えられるから、世界内存在は誘惑を与えるものであると同時に安心を与えるものなのだ。

また頽落した非本来的な在り方で安心していることで静止するのではなく、むしろ様々な活動を行い頽落が促進される。

そこから様々なものに対する好奇心と見せかけの知識によって自分が現存在について理解しているという思い込みが生じる。

しかし理解そのものが現存在の存在可能であることが理解されないままになっている。

このようにあらゆるものを理解していると思い込みながら自分をあらゆるものと比較することで現存在は疎外されている。

だから世界内存在は誘惑し安心を与えるものであると同時に疎外するものなのだ。

この疎外は「性格学」や「類型学」としての自己分析に腐心する現存在のあり方である。

疎外によって現存在の本来性や可能性が閉ざされてしまい、現存在は非本来的なあり方へと追い込まれてそこに囚われる。

以上で見て取られた誘惑、安心、疎外、囚われと言った現象が頽落の存在の仕方を特徴付けている。

現存在が頽落していく「動性」を「転落(Absturz)」と名付ける。

現存在は、じぶん自身からじぶん自身のうちに転落する。*3

転落は「ひと」としての非本来的なあり方や真正な理解を見失った状態への転落を意味している。

このようにして現存在が「ひと」へと転落してそのあり方が本来的だと思い込まされることを「旋回(Wirbel)」と呼ぶ。

旋回によって動かされることとしての現存在の被投性も明らかになる。

頽落において非本来的であっても現存在は世界内存在として存在していて、だからこそ頽落も内存在のあり方の一つなのである。

だから現存在の本来的なあり方とは頽落という日常的な存在体制が変容したものとだけ考えられる。


以上の第五章では「現」について解明することが試みられた。

「現」すなわち現存在の開示性は情態性、理解、語りによって構成され、開示性の日常的な存在は空談、好奇心、あいまいさによって特徴付けられる。

そして空談、好奇心、あいまいさは頽落の動性すなわち誘惑、安心、疎外、囚われること、旋回を示している。

この分析によって現存在を気づかいとして解釈することができるようになる。

第六章 現存在の存在としての気づかい

第三十九節 現存在の構造全体の根源的な全体性への問い

現存在の全体構造の全体性はどのように規定されるべきなのだろうか。

ここまでで示されたように

現存在の日常性は、だから頽落しつつ開示された被投的に投企する世界内存在として規定されうる。この世界内存在にとっては「世界」のもとにあるじぶんの存在において、また他者たちとの共同存在にあって最も固有な存在可能そのものが問題なのである。*4

現存在の日常性のこうした構造を全体性から捉え、これらの構造が等しく根源的であることが理解できる方法はあるのだろうか。

何かを組み上げるために設計図が必要なように現存在の全体構造、現存在の存在そのものを把握するためには一つの根源的で全体的な現象を見通す必要がある。

だからこれまでに判明した現存在の構造契機を寄せ集めることでは現存在の全体構造を解明することはできない。

現存在の存在構造には存在了解すなわち開示性が属していて、開示性の様式は情態と理解によって特徴付けられている。

そこで現存在が自分自身に対して開示されている何らかの際立った様式があるのか探求する必要がある。

実存論的分析論は明晰に現存在の存在を解明するために、現存在の最も広範で根源的な開示可能性を追求しなければならない。

そしてまた現存在の構造全体を見通すために現存在がある様式で単純化されて現れてくるような開示性において現存在自身に接近しなければならない。

そうした要求を満たす情態は「不安(Angst)」である。


また現存在は気づかいとして存在している。

こうして現存在を気づかいとして見る見方は理論的だとの誤解を受けたり、伝統的な人間観を否定するものだとして反対されるかもしれないから、現存在を気づかいとして解釈することを前存在論的に確証しておかなければならない。

ここまでの分析は気づかいとしての現存在にまで至っていてるから存在一般への問いを準備するものとなっている。

しかしこれまでの分析は特殊課題を扱っていたので、そこから存在一般への問いに方向を変えなければならない。

そのためにここまでで解明された手もとにあることや目の前にあること(「実在性」)という現象を振り返りながらそれをより徹底的に見つめ直す必要がある。

存在者はそれについての経験、知識、把握とは無関係に存在しているが、存在は存在了解を持つ存在者の理解のうちで存在している。

だから存在は把握されていないことがありえても、理解されていないことはありえないのである。


存在と真理が同時に問われてきたことが存在と了解の必然的な関係を証明している。

だから存在への問いを行うために真理という現象を解明する必要がある。

第一篇『現存在の予備的な基礎分析』は不安(第四十節)、気づかいとしての現存在(第四十一節)、気づかいとしての現存在の解釈を前存在論的に確証すること(第四十二節)、実在性(第四十三節)、真理(第四十四節)の分析によって締めくくられる。

第四十節 現存在のきわだった開示性である、不安という根本的情態性

現存在の解明は情態性と理解に基づく開示性によってのみ可能となるから、現存在のある情態から現存在を解明しなければならない。

「頽落」を現存在の構造全体を解明する出発点としよう。

頽落において現存在は自分自身と自分の本来性から逃避している。

ここで現存在の開示性は閉ざされているが、それは開示性の欠如したあり方でありそこで逃避して背を向ける対象(「なにから(Wovor)」)として現存在自身が開示される。

現存在が開示性によって現れている時のみそれに背を向けて逃避することができるのだ。

逃避の「なにから」(現存在そのもの)は把握されてはいないが背を向けることで現にそこにあり開示されている。

そして逃避において「向きなおる」ことで現存在が理解され解釈されることが可能となる。


さて、第三十節での「恐れ(Furcht)」についての分析が「不安」についての分析の手がかりとなるだろう。

恐れという情態において現存在は自分を脅かす世界内部的な存在者から身を避けていた。

逃避の「なにから」は「脅かすもの」という性格を持っていて、頽落における逃避の「なにから」である現存在も自身を脅かしている。

現存在は世界内部的な存在者ではないので「恐ろしいもの」としての世界内部的な存在者ではなく、「不安を感じさせるもの」であり頽落は「不安」に基づいているのだ。

そして世界内部的な存在者に頽落していくことで恐れが生じるから、不安があって初めて恐れることが可能となる。

不安の対象(「なにをまえに」)は世界内存在であり世界内部的な存在者ではないから適所性を持っていないし未規定である。

世界内部の手もとにあったり目の前にあったりするものは不安の対象とはならない。

だから不安において世界(適所全体性)は対象とならずそのものとして意義を持たない。

適所全体性は、それ自身の中に崩れ込む。
(Sie sinkt in sich zusammen)
*5

不安の対象は「ひと」としてどこにもいない世界内存在であり、この「ひと」という対象がどこにもいないことが不安を特徴付けている。

この不安の対象は世界内部的には無であり、このことが意味しているのは不安の対象は世界そのものだということだ。

無であることは世界が無いということではなく、世界内部的な存在者が重要性を欠いていながらそれにも続いてなお世界が迫ってくるということだ。

この世界は目の前にあるものの総計ではなく手もとにあるもの一般の可能性の総体である。

日常的な会話で不安が収まると不安に思っていた事柄について「なんでもなかった」と言われるが、このことが不安の「なにをまえに」が無であることを示している。

世界は世界内存在に属しているから不安の対象は世界であると同時に世界内存在自身なのだ。


不安によって世界が初めて根源的かつ直接的に開示されるが、それでも世界が概念的に把握されているわけではない。

また不安には何かの「ための不安(Angst um…)」でもあるが、不安において脅かすものは未規定なのでその脅かしの対象は現存在の特定の情態や可能性ではない。

不安がそのために不安になるものは世界内存在であり、不安にあっては手もとにあるものや他者は沈み込んでしまう。

こうして不安は現存在が頽落する可能性を奪い、現存在を本来的な世界内存在へと「投げ返す(zurükwerfen)」。

そこで現存在は固有な世界内存在へと「単独化(vereinzelt)」されて、さらに様々な可能性へと自分を投企していく可能存在として開示される。

しかもこの可能存在は現存在が唯一それとして単独化されうるものなのである。

不安によって単独化された現存在は自分自身を選択し掴み取る自由に対して開かれている本来的な存在である。

不安の「なにをまえに」と「なにのために」はどちらも同じ世界内存在だが、さらに不安という情態となるのも世界内存在である。

だから開示すること(情態性)と開示されるものが同じく世界内存在であり、その開示されるものにおいて世界が開示され、また世界内存在は単独化された被投的投企を行う存在可能として開示されている。

このことから不安という情態は特別なものとして解釈されなければならないのだ。


また日常的な現存在についての分析や語りが、不安がこのように開示していくことの証拠となる。

情態性において現存在が具体的にどのように存在しているかが開示されるが、不安にあって現存在は「不気味(Unheimlichkeit)」に感じている。

この「不気味」において不安の対象がどこにもなくて無であることが表現されている。

そしてまた「ひと」の元で存在している時の安心や居心地の良さが失われているから、不気味さは居心地の悪さも意味している。

逃避としての頽落は世界内存在から世界内部的な存在者へと逃避していくことであり、不気味さから「ひと」の安心感の中に逃避していくことなのだ。

この不気味さは世界や「ひと」に没入している現存在を不断に追い回して「ひと」としてのあり方を脅かす。

ここでは現存在自身が現存在を襲う脅かしである不気味さとして解釈される。

現存在は日常的には頽落して不気味さから目を背けるという仕方で不安を解釈しているが、このように逃避することで世界内存在という現存在の存在体制には不安という根本的な情態性が属していることが示される。

だから不安はただの情態の一つではなくより根源的な現象なのであり、それがあるからこそ世界内存在は情態を持つ存在として恐れることができる。

あらゆる情態性の本質には世界内存在を開示することが含まれているが、不安は単独化するから他の情態性とは異なった特別な開示性を持っていて、また単独化によって現存在の本来的、非本来的な二つのあり方が可能となる。

さて、ここまでの不安についての実存論的な分析によって現存在の全体性への問いがどこまで準備されたのだろうか。

第四十一節 気づかいとしての現存在の存在

不安という現象と不安によって開示されるものは現存在の全体を等しく根源的に解明させてくれるものなのだろうか。

不安になることは現存在の情態性であり、「なにをまえに」は世界内存在で、「なにのために」は世界内存在することであるから、不安は現存在を実際に存在する世界内存在として開示している。

現存在の基礎的な性格は「実存的なあり方、事実性および頽落したありかた」であり、この三つの間には連関があって全体性を形作っている。

これら三つの統一をどのように捉えるべきなのだろうか。

現存在にとっては自分の存在自身が問題となっているが、「問題となる」ということが明瞭になったのは現存在の「なにのゆえに」へと投企する理解という存在体制においてであった。

理解という被投的投企において現存在は自分の可能性として存在している。

また不安においてもっとも固有な存在可能(「なにのゆえに」)や本来的/非本来的な存在に対して開かれていることが示されている。

自分自身の「なにのゆえに」である存在可能として存在することは、現存在が自分自身に先立っていることである。

この存在構造を「じぶんに先だって存在していること(das Sich-vorweg-sein)」と呼ぶ。

ただ自分に先だって存在しているのは被投性を持つ世界内存在だから、「じぶんに先だって存在していること」は正確には「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること(Sich−vorweg-im-schone-sein-in-einer-Welt)」である。

この統一的な構造によって明らかになるのは有意義性の連関(世界)が現存在の「なにのゆえに」と結びついていたことであった。

現存在の存在体制の全体が「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること」として明示的に現れている。

また現存在が実際に存在していることは投げ出されて世界内存在することだけではなく、不気味さから逃亡して頽落しながら存在していることでもある。

だから「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること」には手もとにあるものに頽落して没入しながら存在することが含まれている。

以上から現存在の存在の全体性は「(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈じぶんに先だって存在していること〉」なのである。

これこそが「気づかい」という用語の実存論的な意義である。


世界内存在は本質的に気づかいであるから、これまでの分析で現存在が配慮的な気づかいや顧慮的な気づかいとして捉えられた。

気づかいは実際に存在していること、頽落、実存的なあり方を包括していて、「自己の気づかい(Selbstsorge)」と言った言い回しが指すような「自我」が自分に関わる振る舞いを意味しているわけではない。

自己は「じぶんに先だっていること」に特徴付けられていて、そのことのうちにすでに気づかいが含まれているのだ。

自分に先だって存在することは自分の「なにのゆえに」である存在可能として存在することであり、それによって現存在が本来的な可能性に対して開かれていることが可能となる。

他方現存在は非本来的に振る舞うことが可能であり、実際大抵は非本来的に存在している。

そこでは現存在の本来的な「なにのゆえに」(存在可能)は掴み取られないままであり、「ひと」が現存在の投企を規定している。

「じぶんに先だって存在していること」の「自分」は現存在が非本来的に存在している場合「ひと」である自己を意味している。

だから非本来的なあり方においても現存在は自分に先だって存在しているのだ。


気づかいは具体的な情態に先だって存在していて、「理論的な」行いに対する「実践的な」行いといったものではない。

したがって分割して考えることのできない全体性である気づかいを「意欲や願望、衝迫や性癖」から組み立てることはできず、これらはむしろ気づかいに基づいているのだ。

現存在の「なにのゆえに」である存在可能は世界内存在であるから、その存在可能は世界内部的な存在者と関わりながら存在している。

「意欲」のうちでは理解された存在者、すなわち現存在がその可能性に向けて投企している存在者が気づかいの対象として掴み取られている。

だから意欲には意欲の対象が常にあって、またその対象はなんらかの「なにのゆえに」によってあり方を規定されている。

意欲の構造には「なにのゆえに」の先だった開示性(「じぶんに先だって存在していること」)、配慮的に気づかわれうる世界内部的な存在者としての開示性(「そのうちで」としての世界)、意欲された存在者の可能性への投企*6がある。

このことから意欲という現象において「(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈じぶんに先だって存在していること〉」という現存在の構造の全体性が見て取られている。

現存在の投企は何らかの世界のもとで行われていて現存在はそうした世界から自分の可能性を得る。

「ひと」という解釈されたあり方によってその可能性は自分にふさわしいものという範囲に制限されていて、これは「水平化」と呼ばれる。

可能性が水平化されることで可能なものが隠されてしまい現存在は現実的なものの中で安らいでいる。

その安らぎはむしろ配慮的な気づかいが忙しく活動することを促進して、その時新しい可能性ではなく何事かが生起しているように見せかけられた「手の届くもの」が意欲される。

「ひと」に水平化された意欲において様々な可能性へと向かっていく存在は「願望(Wünschen)」として現れてくる。

願望においては可能性は配慮的に気づかわれる対象ではなく、それが実現することは期待されず、またそれは了解されていない。

だから世界内存在は願望において手の届く可能性のうちでの支えを失って自分を喪失しているのである。

そして手もとにあるこの可能性は「願望されたもの」と照らし合わせて十分でないものと考えられてしまう。

願望も投企の変様であるけれども、願望することは様々な可能性に「専心(Nachhängen)」することである。

特定の可能性に専心することでその他の可能性が閉ざされてしまう。

また専心においては頽落が「じぶんに先だって存在していること」を変様させてしまっていて、現存在が自分が頽落している世界の中で「生かされ」ようとする「性癖(Hang)」が現れてくる。

その性癖によって現存在の一切の可能性が性癖のために利用される。

これに対して「生きようとする」衝迫は自分自身の側に原動力を持っていて、他の可能性を押しのけようとする。

しかしながら衝迫は気づかいに基づくものなので衝迫においても現存在は単なる衝迫ではなく第一義的に気づかいなのである。

衝迫においては気づかいは自由ではないし、性癖においては気づかいは拘束されている。

だから衝迫と性癖は被投性に根ざしているのだ。

「生きようとする」衝迫と「生かされようとする」性癖をなくしてしまうことはできないが、気づかいによって基礎づけられているがゆえにその気づかいによって変様可能なものとなる。

「気づかい」という実存論的に根本的な現象は多層的だが、存在体制の全体性である以上それを更に根本的な要素に還元することはできない。

また気づかいが「〜のもとでの存在として−〜のうちですでに存在していることにおいて−じぶんに先だって存在している」という構造を持っていることから、気づかいの構造が分肢化していることがわかる。

ならば分肢化した気づかいの統一性と全体性を支えるより根源的な現象を解明するために存在への問いを更に突き詰めなければならない。

第四十二節 現存在の前存在論的自己解釈にもとづいて、気づかいとしての現存在の実存論的解釈を確証すること

現存在が「気づかい」であることについて存在論的探求に先立った証拠を出さなければならない。

その証拠は「歴史的」に気づかいであることを証し立てるものであるけれども、現存在の存在は歴史的なものなのでその証拠にはある特別な重要性がある。

その証拠とはブールダッハによって改めて注目された以下の寓話である。

Cura(気づかい)土塊に形を与えて人間をつくり、ユーピテルがそれに精神(spiritus)を与えた。どちらのなまえ(nomen)を与えるべきかをめぐって両者が争っていると、大地(Tellus)もまた、その身体(corpus)の提供者としての権利を主張する。サルトゥルヌスは、これに対して、ユーピテルに人間の死後の精神を、大地にはその身体を与え、Curaには生きている限りでの人間を占有すること(bestizen)を許した。人間の名前はそれがhumusからつくられたがゆえにhomoと決まった。*7

これは重要なのは現存在が生きている間は気づかいが現存在に属していると述べられているからだけでなく、気づかいが精神と身体の合成としての人間観に対して優位をもっているからでもある。

Cura(気づかい)が人間を作ったということは現存在の起源が気づかいのうちにあることを意味している。

またCuraが「生きている限りでの人間を占有」していることは現存在は世界内で存在している限り気づかいであるということである。

他方サルトゥルヌス(時間)が人間の根源的な存在について判決を下したことからみると、この寓話は人間の前存在論的な本質を「世界内での時間的な変転(zeitliche Wandel in der Welt)」のうちに捉えているのである


Cura(気づかい)の語源の歴史から現存在の存在体制すらも見通すことができる。

またCuraは「不安に満ちた骨折り」や「入念さ」「献身」を意味している。

前者は現存在の投企、後者、特に「献身」は現存在の被投性を示していて、Curaという語の二重の語義は現存在の被投的な投企という存在のし方を指し示しているのだ。


現存在についての実存論的な解釈は存在的な解釈の単なる普遍化ではなく「ア・プリオリな」存在論的普遍化なので、その普遍化では気づかいという根本的な存在体制が指示されている。

「生活の憂い」や「献身」というように人間を存在的に気づかいとみなすことは、存在論的な「気づかい」に基づかなければならない。

存在論的な「気づかい」を含めた実存カテゴリーは広がりを持っていて人間を「生活の憂い」や「献身」というする解釈もその逆の解釈も許容する地盤を提供している。

だから現存在の存在体制の全体は統一的でありながら多層的であり、その構造の分肢化が気づかいの実存論的な概念(「〜のもとでの存在として−〜のうちですでに存在していることにおいて−じぶんに先だって存在している」)によって表現されている。

以上で現存在の前存在論的な自己解釈を気づかいの実存論的な概念へと仕上げていったわけである。

さて、存在への問いを仕上げていくためにここまでで得られた事柄らをさらに明示的にして先鋭化させなければならない。


感想

第一篇第五章Bでは「空談」「好奇心」「あいまいさ」、そして「頽落」という現存在の日常的なあり方が解明された。

「空談」において対象についての真正な理解があるかどうかにかかわりなくただ「語られていること」によって言葉が権威を持ってくる。

ミームというものはそれが真理であるかどうかにかかわりなくただそれ自体として適応的であれば拡散していくから、この「空談」とミームは同じ現象を指しているのではないかと思った。

このような「空談」によって正しい理解はむしろ阻害されてしまうから、ミームは真実を目指す探求を妨げることもあるのだろう。

また「空談」についての第三十五節で現存在が常に解釈されたあり方を免れえないということが述べられている。

これは現存在を現存在として認められるのは解釈を行い世界から現存在を分節化した時だから、現存在は常に解釈されて存在しているということだと思う。

「好奇心」については注解に引かれていたプラトン『国家』の「アグライオンの子レオンティオス」が「見るはたらきへの欲望」から城壁の外の死体を見て「さあ、きみたち、呪われた者どもよ、この美しい見ものを堪能するがよい」と言うという挿話が好きだった。


第六章前半では「不安」と「気づかいとしての現存在」の解明が試みられた。

現存在は自分自身(=世界内存在=世界)に対して「不気味さ」を感じていて、そこから逃避して「ひと」すなわちどこにもいないというあり方の中に転落している。

その逃避が意識されると背を向ける対象として単独化した「現存在」が浮かび上がってくる。

「ひと」として他者たちの中に溶け込んでいるとき現存在は安心していて、単独化した現存在は不安や不気味さを感じている。

普通人間は「自分」というものについて考えず世界に没入して生きていて、「自分とはなんなのか」という疑問が起こってきたりして不安に感じることはない。

逆に一旦内省的思考にはまり込んでしまうと自分についての疑問が次々起こってどんどん不安が募ってきて眠れなくなったりする。

「不安」を卑近に解釈するとそういうことになるのだろうか。

また「ひと」という他者と一体となったあり方をやめた現存在は単「独」化して孤独になってしまうが、不安には孤独に対する感情という側面も含まれているように思う。

疑問が残ったのは解釈による現存在の分節化と「不安」による「単独化」というのはどのような違いがあるのかという点だった。

解釈によっては有意義性の全体(世界)からの分節化が行われるが、「不安」によっては「ひと」からの単独化が行われるというどこから分節化(単独化)が行われるのかの区別なのだろうか。

あとこの辺り(第六章)では「現」という表現が使われなくなり代わりに「事実性」という表現が出てくる。

事実性は現存在が事実として存在していることだから、「現」と同じ意味で使われているものと思って読んでいたが確証がない。


気づかいとしての現存在は「じぶんに先だって存在している」のだがそれは自分自身の存在理由(「なにのゆえに」)である可能性「として」現存在が存在しているかだろう。

可能性として存在するというのは「理解」そして「投企」において被投的に投企が行われることから、現存在は現在それである情態と同時に可能性として存在しているということだった。

ここで自分が存在する理由を理解していくという作用によってその存在理由である可能性(「存在可能」)として現存在が存在しているということが言われているのだと思う。

そして人間が存在する理由を理解するのが世界内存在だから「じぶんに先だって存在していること」と「なんらかの世界のうちですでに存在していること」が結びついてくる。

ところで第四十一節の後半で「生きようとする衝迫」という概念が出てきたがこれはショーペンハウアーの「生への意志」を意識した表現なのだろうか。

衝迫についての記述が簡素すぎてどうとも判断できないので今後また出てきたら検討したい。


最後に本筋から外れるが「理解」と「投企」というものについて考えていて少し理解が深まったので書いておきたい。

世界内部的な「手もとにあるもの」を理解することによってその手もとにあるもののもとで存在している現存在の可能性に投企していくことになる。

例えばスマートフォンという手もとにあるものを理解することでスマートフォンの機能を使って新しく活動していくことができる。

それは同時に「スマートフォンの機能を使う私」という自分の存在の可能性に飛び込んでいくことも意味しているのだ。

重要なのは「私」と気づかわれている手もとにあるものが別の存在者ではなく一体となっているということだ。

手もとにあるものを解釈することで手もとにあるもののもとで存在している現存在も同時に分節化されていて、そしてそれは「有意義性の全体」すなわち世界からの分節化なのである。

また手もとにあるものがそのように解釈されることができるのは現存在がそのもとで存在している時だけ*8で、その意味で

だから意味は現存在の実存カテゴリーであり、現存在だけが有意味であったり無意味であったりする

ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ

と言われるのである。


2017/1/29追記

不安は適所性が欠けていることから発生する。→道具が意識されるのはその適所性が失われている時。

失われている適所性とは現存在自身(=世界内存在)の適所性であり、自身の適所性がわからないのだから現存在は不安に感じる。

そしてその不安によって、道具が意識されるようになったのと同じように個々の現存在が意識される。

(2017/2/19追記)

適所性が見失われることでそこに頽落する可能性も失われる。

不安において単独化されたことで、そこから投企していく可能存在としての現存在が明示的になる。


続きは以下
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.5B.35.478 p294~295

*2:好奇心は「滞在の場所がないこと」をその性質としている。

*3:1.1.5B.38.512 p333

*4:1.1.6.39.521 p342

*5:1.1.6.40.538 p363

*6:意欲されたもののもとで存在して(配慮的気づかい)それを理解することでその存在者が持つ可能性に入り込んでいくことだと思う。

*7:1.1.6.42.574注解 p412 本文の方は長いので注解にまとめられた文章を引いた。

*8:「明るみ」に照らされているとき、ということになるだろうか。