アニメ『放課後のプレアデス』

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友人の勧めでアニメ『放課後のプレアデス』を見た。

面白いテーマ性を持った作品であり、現在の自分の関心ともリンクする部分があったので本編についての解釈とその前提知識を書いていく。

Ⅰ.前提

1. 量子力学におけるコペンハーゲン解釈と「魔法少女

量子力学における様々な現象の解釈の一つとして「コペンハーゲン解釈*1」というものがある。

詳しくは書かないが、この解釈では誰にも見られていないところでの世界や事物は実際に一様に存在するわけではなく、様々な可能性が重なり合ったものとして考えられる。

そしてこの可能性たちは観測されることで一つの可能性に収束して、私たちが知る実際の世界が確定する。

プレアデス星人は「任意の可能性を収束させることができる」がこれが途方も無い技術であることがわかる。

なぜなら現状私たちにはそもそもなぜ観察することで可能性が収束するのかすらわかっていないのに、プレアデス星人はその可能性の収束を自由に操るというのだから。

そしてすばるたち「魔法少女」は可能性が重なり合った「まだ何者でもない者」と語られるがこれはコペンハーゲン解釈における「重ね合わせの状態」を意識しているのだろう。

また「魔法少女」が「まだ何者でもない者」なのは中学生の少女という存在がまだ何者にもなっていないということの隠喩でもあるだろう。

さらに言えば本当の姿では病院のベッドで昏睡状態にある「みなと」と「角マント」としてすばるたち5人の前に立つ者は、コペンハーゲン解釈によるなら二人とも同時に可能性として重なり合って両立することができる。

ところで第10話『キラキラな夜』でみなとが集めていた「可能性の結晶」は「選ばれなかった可能性たち」だが、これは観測されて確定したある状態以外の実現されることのなかった可能性たちだと考えられる。

そして可能性の結晶と一緒に眠りについたみなとが作り出した「温室」の花がすべて蕾なのは、蕾がまだ実現していない可能性の象徴だからだ。

このように作中を通して蕾は実現していない可能性の、開いた花は実現した可能性の隠喩となっている。

2. 「被投的投企」を行う現存在

ハイデガーは『存在と時間』の中で私たち人間の存在の仕方を「被投的投企」と特徴付けている*2

「被投」とは私たちがすでにある一つの可能性の中に投げ込まれて存在していること、「投企」とは逆に私たちが可能性の中に飛び込んでそれを実現していくことを言っている。

私たちは自分の意志とは関係なくすでにここに居て「しまっている」。

そして同時に私たちは自分がなしうること、すなわち自分という存在の可能性を自分の意志のもとに追い求め実現し続けている。

ところでこの「被投的投企」において人間存在はコペンハーゲン解釈と同様に「可能性」として存在していると語られている*3

このことからこの作品をハイデガー哲学の観点からも解釈することもできると私は考えている。

すばるたちは作中で「成長」していくが、それは自分のある可能性への投企である。

だから成長していくことが可能性を実現することであり、同時にある可能性を選び他の可能性を捨てることと繋がっている。

反対に昏睡状態のみなとはいかなる可能性に投企していくこともできない行き止まりに「投げ込まれている」。

だからこそみなとはのちに述べる「自己の現状の否定」=「自分への呪い」へと至るのである。

ところでオープニングテーマ『Stella-rium』の歌詞に

わたしよ わたしになれ!

という一節があるが、ハイデガーは『存在と時間』第三十一節において

きみが在るところのものに成れ!(werde, was du bist!)*4

というピンダロスの言葉のゲーテによる翻訳を引いていて、このオープニングテーマの歌詞がこれを参照しているなら面白い。

Ⅱ.内容解釈

1.現状の肯定と否定

前述の通り現存在はある特定の可能性の中に投げ込まれているが(もしくは観察されることである可能性に収束しているが)、その可能性に対する肯定と否定がこの作品の主要なテーマとなっている。

すばるやあおいは第7話『タカラモノフタツ 或いは イチゴノカオリ』において「相手に置いていかれた自分」という自己評価を改めて自分自身の現状を肯定することができるようになる。

「私たち、置いて行かれた訳じゃないんだ」「そうだよ、私たち二人とも、大切な友達から宝物をもらったんだよ」

それに対して第10話『キラキラな夜』で明かされるようにみなとは昏睡状態にあり可能性の閉ざされた自分の現状を否定していて、この自己否定こそが「呪い」であると語られる。

すばるとみなとのこの対比が本作後半の物語を動かしていく要素となっている。


現在の自分を肯定しそこから次の可能性へと投企していけることを希望と呼ぶなら、可能性の行き詰まりにたどり着いて(投げ込まれて)現在の自分と過去を否定することはまさしく絶望と呼べるだろう。

その絶望に立ち向かうためみなとは「別の宇宙に向かう」という選択肢を取る。

つまり現在の世界とは別の運命の中に入って、自分の可能性を拓くという解決法だ。

その別の宇宙では選ばれなかった(すなわち他の可能性が選ばれることで廃棄された)可能性にも実現のチャンスがある。

だからこそみなとは「可能性の結晶」たちを別の宇宙に連れて行こうとするのだ。

そしてまた温室にいたりすばるたちの前に立ちふさがっているみなとも自体も「選ばれなかった可能性」であるから(実際のみなとは昏睡状態にある)、このキャラクターは「選ばれなかった可能性」の象徴であると考えられる。

反対にすばるたち5人は「何者でもない者」からある可能性に飛び込んでいく存在者の象徴として描かれているのだろう。

この対立を整理すると「何者でもない者でありこれから可能性に投企していく」すばるたちと「何者にもなれないという可能性の袋小路に投げ込まれた」みなと、ということになる。

2.変化すること

変化することはコペンハーゲン解釈の言葉で言えば「ある可能性を観測して確定させること」、ハイデガーの言葉で言えば「ある可能性に自分の存在を投企すること」である。

第6話『目覚めの花』においてすばるはあおいに守られるだけではなく、むしろあおいを守れる自分へと変化していくことを望む。

その変化への望みに呼応して、「選ばれなかった可能性」の温室にいるみなとは「可能性の結晶」の力を使ってその変化を後押しする。

ここで温室の蕾が花開くのはすばるの(そして温室にいるみなとの)可能性が実現され変化が起こったことを象徴しているのだろう。

そしてたくさんあった温室の蕾が花開いた後全て散って無くなり、一株の花だけが残ったのはたくさんの可能性の中から一つの可能性に収束した(一つの可能性だけが実現した)ことを示している。


まだ何者でもない魔法少女とは変化を保留して可能性が重なり合った状態だから、それはモラトリアムの象徴でありそこからの変化はモラトリアムの終了すなわち大人になることを意味している。

だから第11話『最後の光と彼の名前』においてすばる以外の四人の中で最後の「エンジンの欠片」を捕まえたいという感情と捕まえずに魔法少女のままでありたいという感情がせめぎ合うのは、モラトリアムから留まりたいという気持ちとそこから脱して大人になりたいという気持ちの葛藤の表現でもある。

ただ、彼女たちが変化することをためらったり肯定したりできるのもそのような「変化する可能性」が与えられているからだ。

そこでその可能性すらも与えられていない存在者を描かないのは物語として不誠実ですらある。

だからこそみなとという変化する可能性のないキャラクターが設定されて、両者の対立が物語の主軸となる。

3.傍らに立つこと

すばるたちとみなとの違いは他にもある。

それはすばるたちが五人であることに対してみなとは一人だということだ。

モラトリアムから卒業してある自分として確定してしまうことには「本当にこの可能性に自分を賭けていいのか?」と問いが常に伴う。

だからこそ可能性への投企には不安や恐れが付きまとうのだ。

しかしすばるたちは魔法少女(モラトリアム)であることを終えて新しい自分に変化していくことを恐れなくなる。

そのことを示すように『Stella-rium』の歌詞にも

不思議だね 今なら怖くない

とある。

なぜすばるたちは変化を恐れなくなったのだろうか?

それは同じように恐れ、迷いながらも未来へと向かおうとする仲間を見つけたからだ。

オープニングの映像を見ると真っ暗な扉の前にすばるが立ち止まって不安げに辺りを見渡すカットがある。

その扉に飛び込んでいくことは自分の可能性に飛び込むことを象徴しているのだろう。

次のカットですばるが扉に飛び込むことができたのは、辺りを見渡して同じような扉の前に立つ他の四人を見つけたからであり、その後5人は同時に扉に飛び込んでいく。


そしてまた他者との関わりの中で自分一人では見つけられない自分の可能性を見つけることができるようになる。

すばるたちとは対照的にみなとは一人であり、そもそも飛び込んでいく可能性も存在しないと思って自らを呪っている。

それは一人であることで、隠されている自分の可能性を見つけられていないだけかもしれないのだ。

だからこそ可能性への投企における仲間の重要さを知ったすばるは、第12話『渚にて』でみなとの傍に立って彼の可能性を拓いていこうとするのである。

「私がみなと君といっしょにいたい、私がみなと君を幸せにする!」


ところでこの辺りについてハイデガーなら「現存在はすでに投企するという仕方で存在してしまっている」と言うだろう。

つまり私たちは「変化する存在」として存在しているので変化を止めることは根本からして不可能なのだ。

だから恐れる恐れないに関わらず変化は起こっていくので、その見方からはこの章での私の分析は的外れということになるかもしれない。

4.『渚にて』と運命愛

第12話『渚にて』においてすばるたちはプレアデス星人の力で宇宙を最初からやり直して自分の好きな可能性を選び取る権利を得るが、それでも自分たちが元いた可能世界に戻ることを選択する。

これはすばるたちがエンジンのかけら集めにおいて自分自身と運命すらも許容して愛することができるようになったことを表している。

ここで考えられるのはこのような運命愛とニーチェの思想の関連である。

ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った(Also Sprach Zarathustra)』において同じ運命が無限にループするという「永劫回帰」とそれに対する肯定である「運命愛」の思想を展開している。

それが端的に表れているのが第3部の「幻影と謎(Von Gesicht und Räthsel)」での以下の一文である。

「これが生きるということであったのか? よし! もう一度!」
(„War das das Leben? Wohlan! Noch Ein Mal!“)」*5

このセリフに何度繰り返したとしてもまた同じ人生を生きようという意志が表れている。

すばるたちも同じ人生を繰り返してまた同じ自分になろうという選択をした時この境地に達したのだろうと考えられる。

運命を愛することができるのは、すばるたちが物語の中で描かれた様々な出来事の中で自分自身とその変化に自信を持つことができたからだ。

そしてニーチェが教えるのは、何度繰り返すとしても運命を愛することができるほどに自分に自信を持てるよう全力で可能性を選びとれということなのだ。

Ⅲ.まとめ

少し話が込み入ってしまったので総括すると、この作品は少年少女の「可能性」「変化」といったテーマを量子力学におけるコペンハーゲン解釈に結びつけて展開したものだと言える。

ハイデガーニーチェとの関連も紹介したがこれらの本は普遍的なテーマを扱った哲学書であるので、製作陣がこれらの思想を意識しているというよりは結果として似たテーマ性を持つようになったという方が正しいと思う。

ただ確実にコペンハーゲン解釈は意識して作られているのでそのあたりの知識があればすんなりと内容が入ってきてより楽しめるのではないだろうか。

*1:Copenhagen interpretation - Wikipedia など 物理学をやっている友人曰く現在も主流の解釈であるらしい。

*2:「被投的投企」については以下の記事の「第三十一節 理解としての現−存在」や「感想」のセクションに詳しく書いている。 re-venant.hatenablog.com

*3:この点については非常に込み入った議論が必要となるし、本筋から外れてしまうのでのでここでは割愛させていただく。

*4:原文、翻訳ともに岩波文庫版の熊野純彦訳から引用した。

*5:訳は岩波文庫版の氷上英廣による翻訳から取っている。原文はここ(http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/Za-III-Gesicht-1)から 。