ハイデガー『存在と時間』(二)④


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事四つ目。

この記事では第一篇第六章後半(第四十三節〜第四十四節c)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com




また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第六章 現存在の存在としての気づかい

第四十三節 現存在、世界性、および実在性

存在の意味を問うことができるのは存在了解があるからであり、現存在の存在体制に存在了解が含まれているから、現存在の解明に成功するほどに基礎存在論的な問いは目標へと近づいていく。

現存在の開示性の中で世界内部的な存在者が発見されているから、現存在の存在了解は全ての存在者を包括しているが、それは様々な存在様態に即して分節化されているわけではない。

理解においても現存在は頽落して世界の側で存在しているから、存在了解は基本的に世界内部的な存在者の方に向かっている。

そしてその際に手もとにあるものは飛び越えられて目の前にある「事物の連関」として捉えられ、存在していることは「実体であること」と考えられる。

そこで現存在も同じように目の前にある「もの」として考えられて、こうして一般的に存在するということが「ものであること(Realität)」という意味を帯びることになる。

こうして存在論的探求において「実在性(Realität)」が主要な問題となってくるのだ。

この実在性の優位は現存在の正しい構造や手もとにあるものの分析を妨げてしまい、最後には存在論そのものの方向を逸らせてしまう。

だから存在への問いを正しく行う際には実在性への方向づけを脱しなければならない。

そのためには実在性が現存在、世界、手もとにあるあり方によって基礎づけられていること、そして実在性についての問題の「条件と限界」を示さなければならない。

「実在性の問い」は以下の四つが入り混じっている。

1「意識を超越している」と思いなされている存在者はそもそも存在しているのか、2「外界」のこうした実在性ははたして十分に証明されうるのか、3この存在者は、それが実在的であるなら、どこまでその自体存在において認識されうるのか、4この存在者の意味すなわち実在性とは、そもそも何を意味しているのか、がそれである。*1

実在性をめぐる探求では

a「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性、b存在論的問題としての実在性、c実在性と気づかい*2

が論じられる。

a 「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性

「実在性」への問いはまず第一に「実在性とは何を意味するのか」というものだが、それは外界の実在という問題と結びついている。

そして外界の実在性の分析は「直感的な認識作用」すなわち意識という通路に基づいている。

実在するものはこの意識に依存しないことが可能なのかどうか、反対にそれが超えていく意識とはどのようなものなのかが解明されなければならない。

この認識作用はここまでで見てきた通り気づかいという体制を備えた世界内存在に基底付けられている。

ゆえに実在的なものは世界内部的な存在者としてのみ接近可能なのだ。

外界が存在するかどうか、その存在が証明されるかどうかという問いは、世界内存在としての現存在を考えるなら無意味である。

なぜなら世界は現存在の存在と共に常に開示されているからである。

人々はそれを無視して外界の実在性への問いを設定しようとしている。

カントのいう「哲学の醜聞」は私たちの外側にある存在に対する証明が今までなされていないことではなく、そのような証明が要求されるということにある。

このような要求は現存在についての把握が不十分であることから生じている。

それなら外界は信念において想定されるべきであると考えても、この問題の転倒は解消されない。

なぜならその場合でも外界の実在に対する証明の要求は依然として存在しているからである。

また人は外界の存在を無意識的に前提としているという主張についても、世界内存在ではなく孤立化された主観という出発点が設定されていると言えるだろう。

現存在についてのあらゆる前提よりも「気づかい」という存在様態が先立っている。

以上から、提示されるべきことは現存在がなぜ外界を一旦見えなくして、その上で証明によって示そうとするのかということである。

その理由は「頽落」と、それに動機付けられて存在了解が目の前にあることとしての存在に向け変えられていることにある。


世界内存在とともに世界が開示されているという言明は、外界が実在しているという「実在論」と一致しているように見えるかもしれない。

しかし実在論は世界の実在について証明が必要でありまた可能であると捉えるという点が異なっている。

それに対して観念論は、存在や実在性は意識の内でのみ可能であると主張するならある点で優位を持っている。

その優位とは存在は存在者によっては説明されえないという了解である。

ただ観念論では現存在の存在了解やそれが存在体制に属していることが解明されないので、存在への適正な問題設定とはなりえない。

そのような解明を行う実存論的な分析においても、「意識の存在の分析」は不可避的な課題である。

存在は現存在によって理解可能である、すなわち意識の内にあるから、現存在は実在性という存在性格を理解できる。

そしてこのことによって非依存的な「実体」も「目くばり」において接近可能となるのである。

主観と客観の二項対立によって実在性の問題を考えることも可能だが、第一に世界内存在を考えるならその二項は事後的に認識されるものに過ぎない。

実在性への問いの認識論的な解決法の暗黙の前提を検討すると、この問いを実存論的分析論にうちに引き戻さなければならないことがわかる。

b 存在論的問題としての実在性

世界内部的な存在者は、世界という現象、それが属する現存在の存在体制が解明されて初めて分析が可能となる。

すなわち、世界内存在や現存在は実在性を解明するための基盤なのだ。

このような土台を書いた分析においても実在的なものの現象学的な特徴を与えることはできる。

それはディルタイの言うように、衝動や意志に対する抵抗や抵抗しているあり方である。

しかしディルタイはこのあり方について存在論的な分析を行えていない。

この抵抗は意志や衝動が狙っているもの、「それにもとづいているもの」に向かうことを妨げられることにおいて現れてくる。

それと同時に意志が「それにもとづいているもの」も開示されている。

さらにこの「〜にもとづいて狙っていること」、すなわち意志の働きは適所全体性の中に組み入れられている。

抵抗の経験、すなわち抵抗するものを努力によって覆いをとって発見することは、存在論的には世界の開示性にもとづいてのみ可能である。*3

抵抗という世界内部的な存在者の特徴によって、そのあり方がどこまで及び、どこを向いているのかが発見される。

しかしながらこの抵抗の総計として世界が開示されるのではなく、抵抗は適所全体性としての世界、そして世界内存在の開示に基づいている。

そして抵抗は独立な意志や衝動において経験されるものではない。

意志や衝動は気づかいとしての現存在の一つの様態だから、気づかいという存在の仕方を備えているものだけが抵抗に出会うことができるのだ。

実在性を抵抗によって規定する場合には、それが実在性の特徴の一つにすぎないこと、抵抗は世界全体の開示を前提とすることに注意しなければならない。

実在性を意識することは世界内存在の一つの存在様式だから、外界の実在性の問題は世界内存在という根本現象への回帰するのである。

"cogito sum"(私は考える、私は存在する)という命題は「私は存在する、私は考える」と逆転されなければならず、さらにその内容が存在論的に検証されなければならない。

「私は存在する」というのはその場合何らかの世界のうちで存在していることであり、それゆえに様々な態度に関わる存在可能性として存在している。

それに対してデカルトは思惟作用が目の前に存在しており、その上で思考する私が無世界的に目の前に存在していると主張しているのだ。

c 実在性と気づかい

実在性は世界内部的な存在者の存在様態の中で特権的なものではなく、世界や現存在を適切に特徴づけるものでもない。

現存在が存在し、存在了解があって初めて、実在的なものの非依存性やそれ自身の存在も与えられる。

それがなければ世界内部的な存在者とそのあり方は理解可能でも理解不可能でもありえない。

存在者ではなく存在そのもの、つまり実在するものではなく実在性そのものが気づかいとしての現存在に依存している。

この点に注意することで、現存在や「意識」「生」を実在性という基礎から分析することが防がれる。

このように現存在が実在性から把握されないことは「人間の実体は実存である*4」という命題によって表現される。

現存在を気づかいとして解釈することで実存論的な分析が終わるのではなく、様々な問題の錯綜が明確になることとなった。

その問題とは以下のようなものだ。

すなわち、存在了解が存在する場合にのみ存在者は存在者として接近可能となり、存在者が現存在という存在の仕方を備えている場合にだけ存在了解は存在者として可能なのである。*5

第四十四節 現存在、開示性、および真理

哲学では古来から真理と存在することが併置されてきた。

例えばパルメニデスは「存在者の存在」と「受け取りながら理解すること」を同一化し、アリストテレスに取って哲学は「真理についての学」であると同時に「存在について考察する学」でもある。

ここでの「真理」は認識論的に主題とされているのではなく、「ことがら」「自分自身を示すもの」として捉えられている。

その場合、存在者もしくは存在として使用される「真理」という語は何を意味しているのだろうか。

この「真理」は現存在、そして存在了解とどのように関わるのだろうか。

また存在了解からなぜ真理が存在を伴うのかが明らかにされるのだろうか。

この探求は伝統的な真理概念の発掘(a)、そこから明らかにされた根源的な真理概念から伝統的なそれが派生的であることの提示(b)、「真理が与えられている」と語ることの存在論的な意味の解明(c)という流れで進んでいく。

a 伝統的な真理概念とその存在論的な基礎

真理概念の伝統的な捉え方は以下の三つのデーゼによって特徴付けられる。

  1. 真理の場所は言明(判断)である。
  2. 真理の本質は判断とその対象との「一致」のうちに存する。
  3. 論理学の父であるアリストテレスは真理をその根源的な場所としての判断に割りあてるとともに、また「一致」としての真理の定義を軌道に乗せた。*6

この真理を一致によって特徴づけようという考え方はカントも言うように空虚であるけれども、それでも一貫されて維持されている以上は何らかの権利を有しているのだろう。

そこでこの一致という「関係」の存在論的な基礎を問うことにしよう。

この判断と対象の一致において非明示的にともに定立されているものは何であり、それはどのような存在論的性質を持っているのだろうか。

「一致」という術語には何かから何かへの関係という形式的な性格がある。

あらゆる一致、「真理」が関係なのであるが、全ての関係が一致なのではない。

例えばしるしは示されたものと関係しているが、一致しているわけではない。

6という数は「16−10」と一致するが、それは数の「どれだけ」という観点において同等だからである。

このように一致には「その観点において」という条件が付随しているのである。

さて、判断とその対象はどのような観点において一致するのだろうか。

判断と対象には同種性がないので同等性は成り立たないが、それでも認識はことがらをそのままに与えるべきではないだろうか。

その場合一致は「そのまま—そのとおり」という性格を持っているが、それはいかにして判断と対象の関係に当てはまるのだろうか。

このような問いから明確になるのは、真理概念は一致などの関係を前提としては解明できないということであり、この関係全体をになう存在連関へと遡って探求しなければならないということである。

認識作用そのものの存在の仕方の解明に必要な分析は、真理という現象を同時に視界に収めるようなものでなければならない。

認識作用において真理が明示的になるのは、認識作用自身が自分を「真なる認識」として「証示」する時である。

この自己証示によって認識作用の真理性が保証されるため、この連関において「一致」の関係が解明されるはずである。

例えば壁を背にしながら「壁にかかっている絵が曲がっている」と言明したとしよう。

この言明(判断)はその人が振り返って絵を知覚したときに証示されるが、そのとき証示されているものは何なのだろうか。

知覚することは表象することではなくて、存在する事物そのものへと関わる存在様式である。

ゆえに知覚することで証示されるのは、言明されたものが表象ではなく存在者そのものであること、そして言明する存在者(現存在)が言明された存在者を「覆いをとって発見する」ということである。

このとき認識作用は存在者そのものに関連付けられ、言明されたものは自分自身に即して自分を示す。

証示されているのは認識作用と対象の一致や意識内容の一致ではなく、存在者そのものが発見されていることであり、その存在者そのものなのである。

この証示が確証されるのは存在者が自分と等しいあり方において自分を示す時だ。

このことは認識作用が存在者そのものへと関わる「覆いをとって発見する存在」の一つである時のみ可能である。

言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。*7

このことはまた、世界内存在に基づいてのみ可能となる。

真理の根源的現象であるこの世界内存在という現存在の根本体制が追求されるべきである。

b 真理の根源的現象、ならびに伝統的真理概念が派生的であるということ

このような「真理」の定義は恣意的なものではなく伝統に根ざしたものである。

ギリシャ語の語源を見ても「真理」すなわち「アレーテイア(ἀλήθεια)」は「ἀ(否定辞)—λήθεια(隠されている、忘れられている)」、つまり「隠されていないあり方」なのである。

覆いをとって発見することとして真であるとは現存在の様態だが、さらにその基礎を問うことによって真理の根源的な現象が示されるだろう。

気づかいによって覆いをとって発見される存在者は二次的に「真」であり、一次的に「真」であるのは発見する現存在である。

なぜなら存在者の発見されたあり方は世界や現存在の開示性にその根拠を持っているからである。

「自分に先立って何らかの世界のうちですでに存在している」という気づかいの構造自体が開示性を自らのうちに持っているのであった。

この開示性によって存在者は発見され、「真理のもっとも根源的な現象」が可能となる。

現存在が開示性であり、また開示するために現存在は本質からして「真」であり、それゆえに「現存在は「真理の内で」存在している*8」のである。

このことは以下のような規定によって表現される。

  1. 現存在の存在体制には気づかいという現象によってあらわになる、(世界内部的な存在者も含めた)存在構造の全体を包括する開示性一般が属している。
  2. 現存在の存在体制には開示性の構成要素として「被投性」が属している。
  3. 現存在の存在体制には「投企」が属しているため、自身の存在可能を開示していく。*9
  4. 現存在の存在体制には「頽落」が属している。だから存在者は覆いをとって発見されているけれども、空談、好奇心、あいまいさによって「すり替え」られている。

第四の規定に関してはさらに、

現存在はその本質からして頽落するものであるがゆえに、その存在体制の面から言えば「非真理」のうちで存在している。*10

現存在は真理のうちに存在していると同時に、非真理のうちで存在している。

現存在や存在者が開示されているからこそ、それらは隠されたりすり替えられたりすることが可能なのだ。

したがって現存在はすでに発見されたものについても隠蔽やすり替えに対抗して繰り返し確認しなければならない。

その探求は隠されたあり方から出発するのではなく、見せかけという様態で発見されたものから出発する。

存在者は何らかの様式ですでに覆いをとって発見されていながら、それでもなおすり替えられているのだ。*11

だから真理は常に隠されたあり方から戦いとられなければならない。

世界内存在は「真理」と「非真理」によって規定されているが、その条件は被投的投企という存在体制のうちにある。

以上のことは「一致」としての真理が開示性に由来していながら変容していることと、開示性は真理の構造の解明を導いていくということが示されたとき完全に見とおされる。

現存在の開示性には「語り」が属していて、現存在は覆いをとって発見する自分を言表する。

そのように言表する言明は発見される存在者についてのものである。

言明は存在者がどのように発見されたかを伝達し、さらに伝達された現存在は話題となっている存在者に関わる存在として発見される、

存在者の発見されたあり方は言明において保存されていて、それは存在者への連関を持つ手もとにあるものとしてのあり方である。

覆いをとって発見されたあり方は、語られたり聞き伝えられることで把握される。

言明のうちで発見された存在者がそのあり方について明示的に把握されるべきであるなら、それは言明が覆いをとって発見するものとして証示されるべきであるということである。

言明は存在者の手もとにあるあり方を保存するものだから、それは言明が存在者へと関連することを証示することを意味する。

またこの言明はそれ自身が手もとにあるものとして、「〜(存在者)についての覆いをとって発見されたあり方」を持っている。

しかしこの言明と存在者の連関が目の前にあるものの間の関係に切り替わることで、それら(判断と対象)同時の適合性(「一致」)という真理概念を導き出してしまうのである。*12

以上で伝統的な真理概念が派生的なものであることが示された。

一般に考えられるように言明は真理の第一の場所なのではなくて、覆いをとって発見されたあり方を把握する現存在の様態である。

そしてそれは現存在の開示性に基づいているから、その開示性こそが最も根源的な真理である。

だから真理はひとつの実存カテゴリーなのだ。

c 真理が存在するしかたと、真理の前提

開示性は現存在が存在するときのみ発生するから、以下のことが帰結する。

真理が「与えられている」のは、ただ現存在が存在しているかぎりにおいてであり、またそのあいだのみである。*13

このことは、例えばニュートンの諸法則が発見される以前は偽であったということを意味するのではない。

そのような諸法則は発見される以前には真でも偽でもなかったのである。

法則の発見によって、その法則とともに存在者は接近可能となる。

そして覆いをとって発見された存在者はそれ以前にも既に存在していたものとして自分を示す。

そのようにして発見することが真理が存在するしかたなのである。

以上から真理は現存在に相対的であることになるが、それは真理が「主観的」であることを意味しているのではない。

なぜなら覆いをとって発見することは恣意的なものでなく、現存在は存在者そのものと出会うからである。

存在者が自身に即して発見されるからこそ「普遍妥当性」が確保される。


このようにして真理の存在の仕方が解明されたが、ここでさらに真理を前提することの意味も把握される。

私たちは真理を前提するのは私たち現存在が「真理のうちに」存在しているからなのである*14

このことからわかるのは、私たちが真理を前提しているのではなく、真理が「私たちが何かを前提して存在すること」を可能にするということだ。

つまり真理は「前提」というものを可能にする条件なのである。

前提することは、あるものを他の存在者の存在の根拠として理解することであり、このような存在の連関は開示性に基づいてのみ可能である。

このとき真理を前提にすることは現存在の存在の根拠として真理を理解するということである。

また現存在は世界に投げ込まれたものとして常に自分に先行している。

このように存在が先行していることが最も根源的な「前提すること」なのである。

現存在の存在体制に「前提すること」が属しているから、現存在は自分を開示性(真理)によって規定されているものとして前提しなければならない。

このことは現存在の被投性に基づいているが、それゆえにこそどのような存在者が発見されるべきで、なぜ真理と現存在が存在しなければならないのかは見通されないままである。

存在が与えられるのは真理(開示性)が存在する限りであり、反対に真理が与えられるのは現存在が存在するあいだのみである。

それゆえに真理と存在は等根源的なものなのだ。

存在と時間』第一篇における分析においては「存在の意味」への問いは未だに答えられていない。

次に問題となるのは全体としての(als Ganzes)現存在である。

コメント

第四十三節は「実在性」というものが問題となった。

哲学の伝統において認識論的な問題が意識されるにつれて「外界の実在」というものが疑問視されるようになる。

経験において与えられているものは幻覚かもしれず、そこでは実在性は保証されない。

ハイデガーが批判するのはこのような問題の立て方そのものである。

そこでは認識する「主観」と認識される「客観」の二項対立が前提されているが、ハイデガー存在論的に見てそのようなあり方は適切ではない。

現存在はまず第一に「気づかい」として、気づかわれる対象の元で存在しているから、そのような二項対立は事後的なものに過ぎないのである。

つまり主観と客観の存在は同じものであり、「私」は実在しているが「世界」は実在していないという事態はありえない。


次に第四十四節では「真理」というものが問題となった。

伝統的には真理は例えば信念と事実の適切な対応といった「一致」のことを指すものと考えられてきた。

それに対してハイデガーにとっての真理は現存在が存在することと等しく根源的な「開示性」そのものなのだ。

なぜなら「一致」というのは発見された存在者を「言明」によって把握する際に起こる真理の副次的な捉え方だからである。

この「開示性」というのがどのようなものか少し補足したい。

私が例えば目の前のラップトップのキーボードを見るとき、そこで「見る私」、「見られるキーボード」という二項の対立をなくすとどうなるだろうか。

そこにあるのはキーボード自身が「現われてくること」だけなのである。

このようにして現れることが開示であり、同時に「気づかい」としてキーボードの元で存在しているということでもある。

だから「存在と真理は等根源的」なのだ。


第四十三節〜第四十四節で興味深かったのはやはりハイデガーが認識論という問題系に切り込んできたことだ。

ここでは第一篇で用意した手札(「気づかい」「被投的投企」「頽落」など)を用いて既存の伝統的哲学を批判している。

気づかいという現存在、世界の捉え方が根本的なものであったのに対応してここでの批判も哲学の伝統を根本から問い直すものであった。

疑問点としてあるのは、ハイデガーの真理観では例えばニュートン物理学から相対性理論へのパラダイムシフトといった現象はどう説明されるのかという点である。

真理が存在者をそのままに開示することならば、一度発見されたそのあり方が覆るということが可能なのだろうか。

それともそれらの理論は単に空談などによってすり替えられる可能性のある「言明」であって、科学理論は開示性そのものへは到達していないのだろうか。

これらの点はもう少し吟味しながら再読する必要があるだろう。


第三分冊の記事は以下
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.6.43.586 p424,425

*2:ibid

*3:1.1.6.43b.610 p459

*4:1.1.6.43c.617 p466

*5:1.1.6.43c.617 p467

*6:1.1.6.44a.623 p474

*7:1.1.6.44a.636 p493

*8:1.1.6.44b.644 p501

*9:「現存在の最も固有な存在可能」について言及されているが、後の話となるだろうし省略する。ただしその話が出てきたら参照すること。

*10:1.1.6.44b.649 p505

*11:1.1.6.44b.650 p507

*12:「言明」において目の前にあるものの連関が問題となる次第は第三十三節参照。 re-venant.hatenablog.com

*13:1.1.6.44c.666 p524

*14:証明はそれ以上遡れない仮定から出発する。それを「真理」だと前提することで初めて学問が可能であるということを意識しているのだろう。 ミュンヒハウゼンのトリレンマ - Wikipedia