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ハイデガー『存在と時間』(三)①

学術書 レビュー


熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事一つ目。

この記事では第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第四十五節 現存在の予備的な基礎分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的解釈の課題

第一篇において「気づかい」として現存在を特徴付けたが、それは根源的な解釈なのだろうか。

存在論的探究もまたひとつの「解釈」であり、その解釈とは理解された有意義性の全体を個々の存在者へと分節化することであった。

さらにそのような解釈が個々の存在者の全体を適切に分節化しているか確認されなければならない。*1


これまでの現存在の解釈は日常性から出発するものであったから、それは「本来性」を問う根源性が欠けていた。

また現存在の全体は「気づかい」として見て取られたけれど、日常的な現存在は「誕生と死」の間にある存在である。

そして「存在可能」として存在している限り、現存在はまだ現実的な何者でもない。

ゆえに現存在を全体的に解釈すること(個々の存在者として分節化すること)は失敗する運命にあるのではないか。


以上のことからわかるのは、ここまでの現存在の解釈は根源的なものではなかったということだ。

それを根源的にするために、現存在の存在の本来性と全体性に光をあてなければならない。

このようにして現存在の全体を解釈の「あらかじめ持つこと」において捉えなければならないことになるが、このことは現存在の存在可能の全体を問うことを意味する。

存在可能としての現存在は常に可能性として存在しているが、しかしその可能性には「死」というおわりが属している。

このおわりによって現存在の全体性は境界付けられているため、現存在の全体を解釈するために「死」を実存論的に究明する必要がある。

また現存在が「本来的」に存在していることの基準がなければならないが、それを明らかにするのは「良心」である。

さらに現存在の存在根拠は「時間性」である。

この時間性から現存在が「歴史的」であること、また気づかいが時間を計算に入れなければならないことが示される。

また「時間」の根源である「時間内部性」を解明することで明らかになる「時間化可能性」によって「時間化」に対する了解が準備される。

この時間化に現存在の「存在了解」が基づいているのである。

第一章 現存在の可能な全体的存在と、死へと関わる存在

第四十六節 現存在に適合的な全体的な存在を存在論的に把握し、規定することの見かけ上の不可能性

現存在は全体的に解釈されうるものなのだろうか。

気づかいには「自分に先立って」という契機を持っているため、現存在は常に存在可能として、すなわち「可能性」として存在している。

だから現存在は「未完結」であり、存在可能に対して「未済」なのである。

現存在の「未済」が失われたとき可能存在としての現存在はもはや存在していない。

だから現存在の全体を経験することは不可能である。

そうであるならば現存在の全体を解釈しようという試みは不可能ということになるのではないか。

ここで疑問となるのは、ここまでの論証で「先立って」ということが実存論的な意味で捉えられていたかということだ。

「おわり」や「死」を改めて実存論的に分析しなければならないだろう。

第四十七節 他者たちの死の経験可能性と、全体的な現存在の把握可能性

現存在は他者との共同存在だから、他者たちの死は一見客観的に接近可能なもののように見える。

しかし他者たちが死んで世界に存在しないことは、それも一つの存在の仕方なのである。

他者は死によって現存在から目の前にあるものに「反転(Umschlag)」する。

それでも死者は葬式などにおいて配慮的な気づかいの対象であるから、死者が立ち去った世界の側では故人とともに存在することができる。

私たちは他者の死を経験することはできず、ただその場に居合わせることができるに過ぎない。

そこでは死の存在論的な意味は解明されないのである。

まずもって現存在の死について他者の死を主題にするという考えは、現存在は他者と代替可能であるという前提に基づいている。

確かに共同相互存在の配慮的気づかいは代替可能である。*2

またこの代替可能性は世界に共に没入していること、現存在同士が相互に頽落していることに基づいている。

しかしこの代替可能性は現存在の全体を問題とした時には成り立たない。

だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。(Keiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen)*3

誰かが代わりに犠牲になることはあり得るが、それは気づかいの「何かについて」犠牲になるというだけのことであり、他者の死を免除することにならない。

だから死はそれぞれの現存在に固有のものであり、そこでは現存在に固有の存在(実存)が問題となっている。

ゆえに死は実存論的に分析されなければならない現象なのだ。

現存在の死は生きているものが世界から立ち去ること(「生きおわること」)とは区別される。

この区別を明確にし、また「全体性」や「おわり」という現象を規定しなければならない。

第四十八節 未済、おわり、および全体性

本節で見るように「おわり」「全体性」についてのさしあたり得られる概念は現存在を存在論的に特徴づけるものとしては不適切である。

現存在がおわりに到達することの意味は現存在そのものから取り出され、また「おわり」が現存在の全体的存在をどのように構成するのかが示されなければならない。

ここまでで「死」についてわかったことは以下の三つである。

  1. 現存在には常に「なお〜ない(Noch-nicht)」、つまり「未済」が属している。*4
  2. その未済が除去されたとき、もはや現存在は存在しない。
  3. おわりに到達することは他の現存在によって代替不可能である。

さて、現存在が「なお〜ない」ということは「未済」と理解していいものなのだろうか。

未済というのはあるものが「属している」が欠落している状態のことである。

例えば貸金が返ってきていないとき、未済の金は貸した人に属しているがまだ手に入ってはいない。

ゆえに未済の金は「手もとにないもの」であり、それ対してすでに返ってきている金は「手もとにあるもの」として存在している。

このような欠落によっては手もとにあるものとしては存在しない現存在の「なお〜ない」を規定することはできない。

現存在の「なお〜ない」が補充されることによって現存在が完成するのではない。

それどころか現存在は常に「なお〜ない」が属するしかたで存在しているのだ。

他にも月が欠けているとき「なお〜ない」と語られるかもしれない。

その場合月は初めから全体として目の前にあり、ただ欠けている部分が認識されないというだけである。

しかし現存在の「なお〜ない」は認識不可能であるだけでなくまだ存在していない。

それならば「ない〜ない」とは生成変化ということを意味するのだろうか。

生成変化するものとして例えば未熟な果実が挙げられる。

成熟へと「みずからをもたらす」ことによって未熟な果実は特徴付けられる。

しかし成熟と現存在の死は異なったものである。

なぜなら、果実は成熟において自分を完成されるが、完成した現存在が死ぬというわけではないからだ。

さて、それでは死はどのような意味で現存在の「おわり」として理解されなければならないのだろうか。

さしあたり「おわること」は止むことや仕上がることを意味するが、それらは手もとにあるものや目の前にあるものの規定である。

ゆえにそのような意味の「おわり」が現存在に妥当することはない。

現存在が常に自分の「なお〜ない」であるのと同様に、現存在は常に自分の「おわり」なのである。

おわることとしての死は現存在がおわりに達することではなくて、おわりに関わっていることを示している。

死は現存在が誕生した時から常に伴っている存在可能、存在する様式なのだ。

このことが実存論的に解明されなければならず、またそれによって「なお〜ない」という存在可能が理解できるようになるだろう。

そして死によって構成される現存在の全体性について語ることの意味も明らかにされるはずである。

死とおわりを実存論的に分析するならそれは現存在の根本体制である「気づかい」を手引きとして行われるだろう。

第四十九節 死の実存論的分析を、当の現象について他に可能な解釈に対して境界づけること

死についての存在論的な解釈はなにを問うことができず、またそこからなにを得ることができないかを明らかにしておかなければならない。

死を生命現象として見る生物学的—生理学的な研究の根底には死についての存在論的な問題系がある。

現存在は単に「生きおわる」わけではないが、生命としての死を持ってもいる。

この中間現象を「生をはなれること」と呼ぶことにしよう。

それに対して「死ぬこと」は現存在が死に関わり続けている存在様式である。

「死ぬこと」がある限りで現存在は生をはなれることができる。

同様に死の実存論的な解釈は死についての伝記的—歴史的研究や民俗学的—心理学的探究を基礎づけている。

また死後の世界などの「彼岸」について問われうるのは、「此岸」すなわち現存在の中に立ち現れてくる死という現象が把握された時である。

他に「死どのようにして現れたのか」、「死はどのような意味を持っているのか」というような「死の形而上学」も実存論的分析の外にある。

第五十節 死の実存論的—存在論的構造をあらかじめ素描すること

死という現象は現存在の根本体制に基づいて解釈することが必要であるとわかったが、その根本体制とは「気づかい」である。

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

この三つの契機はそれぞれ頽落、実存、事実性と言い換えられる。

これらが死という現象に即してどのように提示されてくるかを明らかにしなければならない。

おわりは「未済」ということではなく、現存在は常におわりに関わって存在している。

だからおわりは現存在に「さし迫っている(Bevorstand)」。

しかし目の前にあるものも世界内存在にさし迫ることができるので、さし迫ることだけで死を特徴づけることはできない。

一方、他者と対決することといった共同存在に基づいた存在可能も現存在にさし迫ることができる。

死は自らの最も固有な存在可能として現存在にさし迫っている。

そして死はもはや存在できないという存在可能であり、死において現存在は他者への全ての連関を断ち切られている。

このようにして死は際立って特徴付けられた「さし迫っていること」なのである。

このことが可能なのは現存在が〈じぶんに先だって〉開示されていることに基づいている。*6

そして現存在は常に死という可能性に投げ込まれている。

この事態はまた「不安」という情態性において露呈されている。*7

多くの人は死について無知でいるが、それは現存在が死という存在可能から逃避していることを示している。

気づかわれた世界に頽落していることが、ここでは死、そして死への不安からの逃避として提示されたことになる。

以上から〈のもとでの存在〉〈じぶんに先だって〉〈内ですでに存在していること〉という気づかいの契機が死の実存論的概念を構成していることが明らかとなった。

死が現存在の全体を分節化するものであるなら、それと関連する気づかいは現存在の構造全体の全体性を表現する名称となるだろう。

しかしこの死と気づかいの連関は、さらに現存在の日常性に即して正当化されるべきである。

第五十一節 死へとかかわる存在と、現存在の日常性

日常性において現存在は「ひと」として頽落していて、そのあり方は「空談」によって特徴付けられている。

その空談のなかにある情態的な理解によって、死へと関わる存在がどのように開示されているかが問題となる。

「ひと」において「死」は他者の「死亡事例」として語られ、それは自分には関係ないことだと捉えられる。

「ひと」の死は誰でもない者の死なのである。

空談に属するあいまいさによって「死」についての語りはあいまいなものとなる。

すなわち、死が現実的な事例であると語られることで死が可能性であること、そしてそこにおいて現存在は関連を欠きそれ以上存在できないという死の性格が覆い隠される。

このような逃避にあって、人は死にゆく者に死を免れて配慮的気づかいの日常に帰れるという慰めの言葉をかける。

これは関連を欠いた存在可能である「死」を覆い隠すことなのだ。

この隠蔽は死にゆく者にとっても周りの現存在にとっても慰めである。

また「ひと」の公共性は「生をはなれること」によってかき乱されてはならないから、他者の死に「社交的な不愉快さ」が見出される。

「ひと」は現存在が「死」に対してどのように関わるべきかということも規定している。*8

「ひと」は死への「不安」を到来しつつある出来事についての「恐れ」に転倒させてしまう。

「恐れ」となった死への「不安」は弱さであり、それに無関心でなければならないとされてしまう。*9

このことによって現存在は「死」から疎外されてしまう。

しかし、頽落して死から逃避することで現存在は「ひと」そのものが死へと関わる存在であることを開示してしまう。

つまり現存在にとっては「ひと」という日常的なあり方においても、死に対して無関心という形で気づかうことで死が問題となっている。

この死から逃避している日常的な現存在を解釈することで「おわりへとかかわる存在」が完全に実存論的に分析されるだろう。

第五十二節 おわりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念

前節とは反対に、おわりにかかわる日常的な存在から死の完全な実存論的な概念が獲得されなければならない。

日常性において、「死なない人間はいない」という形で「ひと」は死の確実性を認めている。

しかしその死は現存在固有の存在可能としては認識されていない。

だから日常性においては死の確実性は曖昧に承認されるにとどまり、「死のうちへの被投性」は軽減されることになる。

本来的な「死の確実性」はどのようなものなのだろうか。

ある存在者に確実性を認めることは、その存在者を真なるものとして保存することである。

すなわち、確実性は覆いをとって発見することである真理に属している。

真理が根源的には現存在の開示性であったように、確実性も「確実であるとする」という現存在の存在の仕方である。

そしてそこから導出された意義によって存在者が確実であると言われることになる。

この確実性の一様態として「確信」がある。

確信において現存在は覆いをとって発見された現象そのものに基づいてのみ、その事象と関わる存在となる。

真なるものとして保存することが、真理のうちで存在すること(真理内存在)となるのは、そのような現象に関わり、またそれに適合したものとして自分を見通している場合のみである。

この真なるものとして保存することが十分であるかどうかは、開示される存在者の存在の仕方や開示に方向によって正当化される「真理要求」によって測られる。

なぜなら、存在者やその開示の方向の差異に応じて真理であるあり方や確実性も変化するからである。

当面の考察は死の確実性についてのものだが、この考察によって現存在の際立って特徴付けられた確実性が示されることになる。

現存在が日常性に置いて死を覆い隠していることは、現存在が非真理のうちで存在している(非真理内存在)を確証している。

ゆえにこの隠蔽に帰属する確実性は、適切でない形で真理を保存することであるはずだ。

「ひと」は死を出会われる出来事だと見ているから、そこにおける確実性では死へと関わる存在が隠蔽されたままである。

だから「ひと」が死は確実だと語るとき、個々の現存在が死を自身の存在可能としてそのつど確実だと認識しなければならないことが見過ごされている。

日常的な「ひと」による確実性の根拠はどこにあるのだろうか。

それは「ひと」が他者の死を常に経験し続けていることである。

この場合死に帰属させうるのは経験的な確実性、つまり蓋然性だ。

しかしこのことによっては死の確実性について何の決定も下されていない。

だが「ひと」が死の経験的な確実性についてしか語らないとしても、現存在はそれとは別の仕方で死を確実なものとしている。

頽落した現存在は死の本来的な確実性を見知っていながら、それでも死を確実なものとすることを回避している。

そしてこの回避によってその対象として死が「確実な可能性として把握されなければならない」ということが明らかになるのである。

人は「死は確実だが、当分まだやってこない」と言うが、それは「ひと」の自己解釈でありそれによって配慮的気づかいが可能なものへと自分を指示している。*10

配慮的に気づかうものに頽落することで現存在は死という存在可能を忘れているのだ。

こうして〈ひと〉は死の確実性の特有なことがら、つまり死はあらゆる瞬間に可能であることを覆い隠してしまう。*11

また死の確実性には死がいつ訪れるのか決まっていないことが属している。

このことをまた「ひと」は直近の気づかいの対象の背後に覆い隠してしまう。

以上から死の確実であるが規定されていない、つまりどの瞬間でも可能であるという性格が「ひと」によって隠蔽されることがわかった。

そしてこの考察で死の実存論的概念は以下のようなものであることがわかった。

すなわち、現存在のおわりとしての死とは、現存在が有する、もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性である。死は現存在のおわりとして、おわりへとかかわる現存在という存在者の存在のうちで存在しているのである。*12

この死の概念は現存在の全体性を解釈するために役立つ。

日常的な現存在も常に死にかかわって存在しているから、死は現存在が生を離れる際に達成されるものではない。

気づかいの「なお〜ない」という「自分に先立っていること」から、現存在を全体として解釈することができないということは帰結しない。

むしろこの「自分に先立って」こそがおわりへとかかわる現存在を可能とするのだ。

すなわち現存在の全体を問題として取り上げることができるのは、その根本体制である気づかいが死と「連関する」場合のみなのである。

しかしこの問題はまだ完全に仕上げられているわけではない。

死から頽落して回避することは死に関わる非本来的な存在であるが、現存在は常にその非本来的なあり方をしていなければならないわけではない。

現存在は実存しているからこそ、自分が理解しまたそれ自身であるところの可能性から自身を規定している。

しかし現存在はこの節で特徴付けられたような死を理解しうるのだろうか。

すなわち、死へとかかわる本来的なあり方を獲得できるのだろうか。

この本来的なあり方が存在論的に規定されない限り、死の実存論的な分析は不完全である。

死へとかかわる本来的なあり方もまた存在可能であるが、この可能性の実存論的な条件、またそれがどのようにして接近可能であるかを問わなければならない。

第五十三節 死へとかかわる本来的な存在の実存論的投企

死へとかかわる本来的なあり方へと投企することは本当に可能なのだろうか。

現存在はこの本来的なあり方の存在論的な可能性を客観的に特徴付けてくれるのだろうか。

死の実存論的概念が解明されることで死へとかかわるあり方が関係すべきものが明らかになり、また非本来的なあり方が解明されることで本来的なあり方がそうでないはずのものが明らかにされた。*13

そこから死へとかかわる本来的な存在が実存論的に構築されなければならない。

現存在は開示性、すなわち情態的な理解によって構成されているから、死へとかかわる本来的な存在においては死を前にして回避したり、隠蔽したり、転釈することはできない。

死へとかかわる本来的な存在への投企によってその存在を構成するこれらの契機が取り出されなければならない。

まず問題となるのは、死へとかかわる存在を「ひとつの可能性へとかかわる存在」として特徴づけることだ。


手もとにあるものや目の前にあるものの可能性を現実化するあり方は何かを探して外にいることを意味する。

しかし現実化されたものも適所性を持っていて〜のために可能的なものであるから、その区分は相対的である。

この何かを探して外にいることは可能的なものから「目くばり」によって「何のために可能的か」ということに目を移していることなのだ。

それは死へとかかわる存在ではありえない。

なぜなら死は手もとにあるものや目の前にあるものではないし、死を現実化すれば現存在は存在できなくなってしまうからだ。

死へとかかわる存在がそれを現実化することではないのなら、それは「死のことを考えること」なのだろうか。

しかしそこにおいては死の可能性は最小にすべきだと考えられて、可能性という死の性格が弱められてしまう。

死へとかかわる存在において死をそのままに開示しなければならないとしたら、それも不適当だろう。

可能的なものを可能性として扱うあり方は「期待」である。

しかし期待は可能性の現実化を待ち受けていることであり、結局は現実的なものが期待されている。

一方死へとかかわる存在は死を可能性として開示しなければならない。

そのように可能性へとかかわる存在を「可能性へと先駆すること(Vorlaufen in die Möglichkeit)」と呼ぶことにする。

先駆することによる接近は可能性を配慮的に気づかいながら現実化することではなく、むしろ可能性を「より大きく」する。

可能性としての死へとかかわる存在の示すもっとも身近な近さは、現実的なものから可能な限り遠いのだ。*14

死という可能性に先駆することでその可能性が大きくなるとは、死がどのような尺度も持たない現存在の不可能性という可能性として開示されることを意味する。

死へとかかわる存在は先駆することとしての現存在が「有する」存在可能への先駆である。

このように先駆することで現存在は自分自身に対して自分を開示する。

その時もっとも固有で極端な存在可能を理解すること、すなわち本来的に実存することが可能となる。

この本来的実存の構造は、死への先駆の具体的構造をその諸性格を規定することによって特徴づけることで見て取られるだろう。

なぜなら「先駆しながら開示すること」が純粋に理解されるのは死という存在可能によってだからだ。

注意すべきことは、理解は投企によって開示される存在可能において自分を理解することだということだ。

死は最も固有な存在可能でありそこで現存在は「ひと」から引き離されることが可能である。

同時に死は関連を欠いているから、現存在は頽落することなくそれを「自分の側から」引き受けなければならない。

すなわち、死において現存在は「単独化」される。

同時にこれは「現」を開示するひとつの様式なのだ。

しかしこの時気づかいが現存在から切り離されているわけではない。

現存在が本来的に存在するのは、気づかいとして死に投企しながら「ひと」の可能性には投企しないときなのである。

先駆は追い越すことのできない死にむかって自分を明け渡す。

死に向かって先駆しながら自由になることで偶然的に迫ってくる可能性から解放され、死の手前に広がっている可能性が理解され、選択される。

死への先駆によって「自己放棄」が開示されて、そのつど到達された実存に固執することを防ぐ。

おわりによって規定される有限的なものとして理解された可能性に自由に開かれている現存在は、他人の可能性を自分のものと混同したり、それによってもっとも固有な実存を捨ててしまう危険性を回避している。

また死への先駆によって有限的となることで、全体的な現存在を先取りする、すなわち「全体的存在可能」として存在する可能性が開かれる。

現存在が死を確実な可能性として開示するのは、先駆によって死が開示され可能となることによる。

だから開示されたものを確実にすることのためには先駆することが必要である。

そしてその確実性は目の前にあるものの確実性とは全く異なり、またより根源的なものなのだ。

なぜなら先駆することによって初めて現存在は自分の固有な可能性を自分の全体性において確信できるからである。

死は未規定的だが先駆はこの性格をどのように開示するのだろうか。

未規定的な死に先駆することにおいて現存在は常に脅かされている。

この脅かしを開示する情態的な理解とは「不安」なのである。*15

すなわち未規定的な死を前にして現存在は不安という情態にありそれを理解している。

このことから先駆によって現存在の全体を開示することには不安という情態が属していることがわかる。*16

以上から死へとかかわる本来的な存在は以下のような特徴を持っていることがわかる。

先駆することで「ひと」から解放された個別の現存在としてありうる可能性の前に置かれ、またこの個別の現存在とは不安にとらわれている死へとかかわる自由を持つ存在なのだ。

このような死へとかかわる本来的な存在は実存論的には可能だが、それが現存在そのものから証明されていない限り一個の空想的なものにとどまる。

現存在はこの本来的な存在可能を自分の固有な存在の根拠から要求するものなのだろうか。

この問いに答えるため、現存在が実存の可能な本来性について自身の本来的な存在可能から証拠を与えているのか、またそれを要求しているのかを解明しなければならない。

これまではたんにその存在論的可能性において投企されてきたにすぎない死への先駆は、はたして、あかしを与えられた本来的な存在可能と、その本質からする連関のうちに置かれるのだろうか。*17

コメント

存在と時間』の読解も第三分冊に入った。

この第二篇第一章で問題となるのは「死」である。

そもそもなぜ死が問題となるのかというと、その死をもって初めて現存在が一つの個別として完結するからである。

「魂」や「思惟」という実体から現存在の考察を始めないことによって、まずさしあたって存在するのは無差別的に溶け合った世界ということになる。

だからその世界から個別の現存在を切り出すという課題が生じるのである。

個別のものを切り出すというのは第一篇において「解釈」や「語り」として分析された現象である。

ゆえにまず「解釈」という概念からこの第三分冊はスタートすることになる。


第一章ではこの「死」について、その性格やそれと現存在の関わり方が考察された。

概ねすんなりと読めたが、第五十三章での「死」と「自由」の関わりがうまく飲み込めなかった印象がある。

死への先駆によって自由が得られるというというということが記述されているが、それは具体的にどういうことなのだろうか。

そもそも問題なのが、ハイデガーが「自由」という概念をどのように捉えているのかがここでは明瞭でないというところだ。

「選択」という言葉は登場するのでとりあえずは選択の自由をもっていることだと解釈してみよう。

それならば、現存在は可能存在として複数の可能性を持っていて(可能性として存在していて)そこから選択することが可能となるのだろうか。

しかし死によってそれが可能となるというのがよくわからない。

他に「ひと」の支配を受けないことが自由なのだと解釈することもできそうである。

その場合死によって現存在が「ひと」に頽落することができなくなって単独化することと繋がるだろう。

「ひと」は現存在のあるべきあり方をすでに決定しているから、そこから解放されることは「〜すべき」からの自由を意味することができそうである。

なんにせよ記述が少なくここだけでの読解は難しそうなので、のちに自由について記述があるならそこを参照しながら考えたい。


疑問点以外に面白かったのは現存在が常に死の可能性「であり」、それを隠蔽して生きているというところだ。

考えてみれば私たちが次の瞬間も生きているという保証はどこにもない。

しかしそれを考え続けて生きることは本当に可能なのだろうか。

そういった点が「死へとかかわる本来的な存在」が可能なのかどうかという問題意識になったのだろうと思う。

ここについてのハイデガーの記述もまた抽象的なので、これを具体的な生活に即して考えてみる必要があるだろう。

*1:分節化とは初めと終わりを境界づけることだが、誤った範囲での境界付けもありうる。

*2:例えば道具を他者の代わりに使うなどのことができる。

*3:1.2.1.47.713 p92

*4:「なお〜ない」は現存在が可能存在として存在していることだろう。

*5:1.2.1.50.745 p131

*6:死への先駆による開示(第五十三節の内容)を意識しているのだろう。

*7:有意義性を見失う情態が「不安」であるという解釈に沿うだろう。死においてあらゆる有意義性は存在しない。

*8:この辺りの話で思うのだが、おそらく倫理や道徳についてこの「ひと」が規定しているという形でハイデガーは考えているのだろう。

*9:恐れには、何かを脅かすものとして適所性がある。しかし不安には一切の適所性がない。

*10:死はまだやってこないのだから何か(気づかい)をしていようということ。

*11:1.2.1.52.711 p168

*12:1.2.1.52.773 p170

*13:前々節、前節の内容

*14:1.2.1.53.785 p186

*15:情態的な理解≒被投的な投企。

*16:第五十一節の内容を参照。

*17:1.2.1.53.796 p207