研究発表『二つのイメージにおける対象 - 「日常的イメージ」のデネット的解釈』

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1. 要旨

 本発表では科学的な世界観と日常的な世界観の関係という問題を論じる。日常的な世界観についてはその対象の実在性を否定したり、その枠組み自体を否定する主張がいくつか見られる。それに対してこの発表ではダニエル・デネットの議論をたどりながら反論を試みる。さらにその上で科学に対応して日常的な世界観を修正することが哲学の課題であることを見る。

2. 日常的イメージと科学的イメージ

 発達し続ける科学の提供する世界観は、私たちが日常的に持っている世界観と乖離していくように思われる。それらはどのように調停できるのだろうか。またはそのどちらかが正しく、もう一方は放棄されてしかるべきなのか。セラーズはこれら二つの世界観を日常的イメージ(manifest image:MI)と科学的イメージ(scientific image:SI)と呼んで別々の世界観として扱っている。

そこで、私たちが対比するのは二つの理想的な構築物、すなわち(a)私が「日常的イメージ」と呼ぶ「原始的イメージ」の相関的、カテゴリー的な洗練物と(b)公理に由来する理論構築物の産物に由来する、私が「科学的イメージ」と呼ぶものである。(Sellars 1963)

その上でこれら二つをどう関係付けるかという問題が、哲学の目的であるとさえ述べる。

私の今の目的は、科学的イメージと呼んだものに対して日常的イメージに対して与えた説明と同等のスケッチを付け加えることであり、また哲学の目的である世界内の人間の統一された視界に対するこれら二つのイメージのそれぞれの貢献についてのいくつかのコメントでこの論文を締めくくることである。(Sellars 1963)

 セラーズがこの問題をアピールする上で出す例えにエディングトンの「二つのテーブル」というものがある。

ここでエディングトンの「二つのテーブル」の問題、私たちの用語法では日常的イメージのテーブルと科学的イメージのテーブルという二つのテーブルの存在という問題の本質的な特徴が再び現れてくる。問題は日常的テーブルと科学的テーブルを「噛み合わせる」ことだ。(Sellars 1963)

二つのテーブルとは、SIで捉えられた観察できない素粒子(理論的に仮定されたもの)の集合としてのテーブルと、MIに存在する目の前にあるこのテーブルである。別々の世界観が二つあるなら、それに対応してテーブルも別々の二つが存在することに ある。そうなると選択肢は①MIの対象(O𝗆)が存在し、SIの対象(O𝗌)は存在しない。②O𝗆は存在せず、O𝗌は存在する、③O𝗆とO𝗌の両者が存在する、④O𝗆とO𝗌の両者が存在しない、の四つがあることにある。おそらく④は検討する必要がないだろう。④が正しいとなると、あらゆる対象が存在しないか、二つのイメージとは異なった新しい世界観を提出しなければならないからである。

3. 消去的唯物論

 「二つのテーブル」問題に対するセラーズの回答は、O𝗆の実在性を認めないというものである。

私が提示している見方によると、対応規則は物質の相においては観察可能なものについての枠組み[MI]の対象は実際に存在するわけではない[~]という意味のものとして現れるだろう。(Sellars 1963)

その理由は以下の二点に集約されるように思われる。⑴MIにおける観察可能な対象が「観察可能であること」は対象の実在性の証明に貢献しない。⑵MIと同等の経験的地位を持つSIの方が説明力が高い。まず⑴から説明する。セラーズは直接経験される対象が、知覚経験のみによって確証されるという考え方を「所与の神話」と呼んで否定する。経験対象はむしろ経験の背景となる知識によって初めてその対象として現れることができる。例えば赤色の経験をするためにはどのような状況でどのような光を知覚すると赤色に見えるのかを知っていなければならない。それゆえO𝗆が観察可能であるという理由によってO𝗌より存在論的に高い地位にあるわけではない。なぜならどちらも背景となる知識や理論によって措定された対象だからだ。次に⑵について、セラーズはMIにおける予測は真理の近似に過ぎないと述べている。

上記の結果を要約すると、微視的理論は観察言語の概念的枠組み[MI]内部の与えられた領域に関する帰納的一般化とあらゆるその洗練物がなぜたかだか真理の近似にすぎないのかを説明する。(Sellars 1963)

なぜならSIはMIよりも詳細な予測を出すからである。ゆえにSIの方が説明力において優れた枠組みなのだ。以上の二点から、セラーズはO𝗆は存在せずO𝗌は存在する(②)と結論する。なぜなら存在論的に同等なO𝗆とO𝗌について、どちらかを選ぶとするなら説明力の高い枠組みの対象であるO𝗌を選ぶのが合理的だからだ。本発表ではセラーズのこの主張に従ってO𝗌には実在性を認めることにする。しかしだからといってO𝗆の実在性を否定はしない。つまり選択肢③に向かうのである。
 さらに進んでMI(の一部)自体を消去してしまおうという試みに、チャーチランド(1981)のいう「消去的唯物論」がある。例えば自然言語によって捉えられる「民間心理学」は端的に誤った理論だとして消去されうるだろうとチャーチランドは主張する。その根拠として民間心理学は科学に比べて予測を誤ることが多く、また停滞した「リサーチ・プログラム」であるということが挙げられている。チャーチランド曰く、民間心理学は「二、三千年の間、[~]その内容と成功のいずれに関しても目立った進展を遂げていない」のである。それゆえに将来神経科学がより成功した理論を提供するなら、民間心理学はその対象を含めて放棄される。このことをさらにMI全体へ広げて考えることもできるだろう。つまり民間心理学だけでなくMIを放棄するタイプの消去的唯物論である。セラーズが言うようにMIの説明力がSIに劣っていて、またMIが停滞した枠組みであるなら、そのことがこのタイプの消去的唯物論の論拠になりうる。選択肢③を取るために、つまりO𝗆の実在性をも主張するためにはこの消去的唯物論にも反論する必要があるだろう。なぜならMIが消去されるべきなら、当然O𝗆が実在物だとみなされることはないだろうからである。

4. 日常的イメージの対象の実在性

 デネットはセラーズの枠組みに従ってO𝗌の実在性を認める。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。(Dennett 1991)

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

 その一方でデネットはO𝗆の実在性を明確に擁護する。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 さて、O𝗆の実在性を擁護するとなると、先にあげたセラーズの議論や消去的唯物論を否定する根拠が必要となる。まずデネットはMIが停滞した枠組みであることを否定する。その点についてデネットはO𝗆に含まれる典型的な存在者である「貨幣」について次のように述べている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自身の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

つまりMIは新しい概念を導入したり、既存の概念の抽象度を上げることで常に刷新され続けている。民間心理学についても、デネットが長年展開しているクオリア論批判や意識現象の様々な(再)解釈はその枠組みの修正として見ることができる。すなわちデネットチャーチランドが民間心理学が停滞していると批判したことに対して、その修正を実践することで反論しているのである。
 MIが停滞していることは否定されたが、それがSIに比べて誤った予測を出すことが多いという問題は残っている。デネットはこうしたノイズの存在を認めた上で、MIは多くのノイズを無視するからこそ有益なパターンを発見できるのだと主張する。

どこにおいても見られる理想化されたモデルの使用の実践は、予測の信頼性、正確さと計算的な追跡可能性の間のトレードオフの問題なのである。(Dennett 1991)

 具体的にはスケールに対応した三つのレベルのパターンの存在を認めている。それは「物理的」「デザイン的」「志向的」なパターンでありそれぞれが対応した「姿勢」によって見出される。Dennett(1991)ではコンウェイの「ライフゲーム」を用いてこの三つの「姿勢」が説明されている。ライフゲームを支配する法則、つまり隣接するマスのうち三つが「黒」ならそのマスは「黒」になる、などを見る視点は「物理姿勢」である。その法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダーガン」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 これら3種類の姿勢は高次のものになるにつれてより多くのノイズを無視しているが、そのことによって大局的なパターンを発見できると言える。そのような大きなパターンはSIにおいて細部に注目していては不可能な予測を出すことができる。そしてこれらのパターンを見出す姿勢がMIを構成している。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものであり、それは民間物理学、民間心理学、そしてそのほかの、データによって爆撃する五月蝿くまた魅力的な混乱に対して私たちが持っているパターン検知の視座によって構成されている。したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 それゆえにMIがそれが含むノイズによって単に誤った理論だとして退けられることはないだろう。なぜならデネットが述べるようにMIにはプラグマティックな利点があるからである。
 このようにしてチャーチランドの消去的唯物論(とさらにそれを過激化したもの)には反論できる。しかしMIの枠組み自体を捨てる必要がないからといって、O𝗆の実在性まで主張できるのだろうか。デネットが認めるように、O𝗆が実在しない「ユーザーインターフェース」でも問題はないのではないだろうか。デネットは以下のように述べる。

クワインが私たちに思い出させようとしなかった科学的な有益性が実在の何らかの基準であるのにもかかわらず、なぜ日常的イメージの有益性がそれと同様のものと数えられるべきではないのだろうか?(Dennett 2013)

O𝗌に対して実在性を認めることの根拠は、それが有用性を持っているからであった。しかしデネットによると(セラーズも同意するかもしれないが)、MIにもSIとは別レベルでの有用性がある。またO𝗌もO𝗆も同じように理論的枠組みにおいて想定される存在者だから、あえてO𝗌だけが存在してO𝗆が存在しないと主張する根拠はない。それゆえにO𝗆が存在すると考えることに不合理はない。さらにデネットはO𝗆としてしか存在しないものをいくつか挙げている。仮にO𝗆の実在性が全面的に否定されてしまうと、例えば先ほど挙げた「貨幣」や「声」「髪型」などが存在しないことになる。

5. 多重の実在

 本発表ではデネットの見方、つまりO𝗆とO𝗌のどちらにも実在性を認める立場(③)を是認する。この立場は例えばLadyman et al.(2007)では「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼ばれている。

問題となっている事実は(デネットではなく)私たちが存在論のスケール相対性と呼ぶものだ。(Ladyman et al. 2007)

デネットなどの議論ではO𝗆/O𝗌内部でも様々なスケールにおいてそれぞれ存在者が考えられるが、本発表では簡単のためO𝗆/O𝗌を一つの存在者のスケールのクラスとする。
 さて、O𝗆とO𝗌の両方に実在性を認めるとなると、また冒頭の「二つのテーブル」の問題に戻ってきてしまうのではないだろうか。つまり結局は目の前にあるテーブルが二重に存在しているという事態が発生しているのではないか。しかし私はO𝗆とO𝗌がどいらも実在していることはそのような二重性の問題を生じさせないと考える。なぜならO𝗆とO𝗌は時空に関しても全く別の存在者である、つまりそれぞれは別々の座標系に属しているからだ。
 それならばなぜ二つのテーブルが重複しているように感じられるのだろうか。それはセラーズの言葉を借りて言えばそれはMIとSIの間でアナロジーの関係が成立しているからだ。アナロジーの関係にあるMIとSIにおいて、あるO𝗆とO𝗌がそれが理論の枠組みの中で果たす役割が相似している。テーブルの場合、MIのテーブルは目で見える、手で触れられる、上に物を置くことができるといった役割を持つ。他方SIのテーブルは特定の波長の光を吸収したり反射する、分子の結合が比較的強固な固体である、時空間においてある座標を占めているといった役割を持つ対象として考えられる。この相似性のために私たちはテーブルが二重に存在しているように感じる。なぜならこれらの対象は時空という性質においても相似しているからだ。しかし実際にはO𝗆とO𝗌は相似しているだけの別の存在者であり、存在論的なコンフリクトを引き起こしているわけではない。

6. 日常的イメージの修正

 以上の議論からMIは放棄されるべきものではなく、またO𝗆に対しても実在性を認めてよいと結論する。しかしながらMIが停滞したリサーチ・プログラムとならないように、MIを所与の枠組みとするのではなくそれを不断に更新、修正していくことが必要となる。さらにその修正の結果として実在するO𝗆の外延もまた変化するだろう。これはセラーズの⑴の論点の帰結である。直接観察されるとはいえ、O𝗆もまた理論によって措定された対象であり、MIが修正されると私たちの経験の仕方が変わり、それによって存在するものも増えたり減ったりしうる。
 次なる問題はその修正をどのように行っていくのかという点だ。まず考えられるのが日々変化するSIとの整合性を保つという方向での修正だろう。ただしMIをSIと完全に一致させる形にすることはおそらくできない。なぜなら志向的パターンなどのMI上の高次の対象に対応するような物理的な対象は数多く存在しうるからだ。例えば貨幣について、10,000円という金額に対応する物理的対象は紙でできた一万円札や金属である百円玉100枚(を構成する素粒子)、もしくは1/200ビットコイン(バイナリデータ)かもしれない。要するにO𝗆/O𝗌の間で多重実現の関係が成り立つのである。ただしこうした多重実現可能性によってタイプの間の対応関係は成り立たないにしても、トークン同士の対応関係は成り立つ。それゆえにO𝗆/O𝗌の間でトークン対応が成り立つということがMIの修正の指針となりうるだろう。この観点からは例えば非物理的な魂といった物理的な対象とトークンとしても対応しない対象はMIから排除できる。
 この方針に付随した制約として、SIの修正に対応してMIは修正されるが、逆はありえないというものがある。例えばこのような非対称性の一種とみられるものがLadyman et al.(2007)において「物理学優先の制約(Primacy of Physics Constraint (PPC))として展開されている。

基礎物理学やそこにおける何らかの合意に矛盾する特殊科学の仮説は、ただそれだけの理由から拒絶されるべきである。基礎物理学の仮説は特殊科学の帰結に対して対称的に抵当に入れられるわけではない。(Ladyman et al.(2007))

この場合は物理学とその他の特殊科学との間の関係だが、これをより広く経験可能なものについての理論とそうでないもの、つまりMIとSIの関係に敷衍することも可能だろう。
 このような形でのMIの修正はセラーズが言うように二つのイメージを用いて「立体視的に見ること」を目指す試みだと言える。そして彼曰くこのことを通じて世界の見方を確立することが哲学の目的なのだ。しかしO𝗆/O𝗌がともに実在物である以上どちらかを消去することはできないし、また多重実現可能性によってどちらかを他方に還元することもできない。このような制約のもとで私たちはMIを修正してSIとともに世界を「立体視的に見る」ことができるのである。
 次に考えられるのがMIの内部で理論の有用性という基準において修正していく方針だ。時代それぞれにおいて環境は変化するから、有用な理論の基準もまた変化していく。それに対応してMIを修正していく必要があるだろう。ただし「何にとって有用なのか」という観点を特定することは難しい。例えばダーウィニズムに従って私たち人間の(または遺伝子の)生存のために有用な理論を採用し、そうでないものを放棄するという方針があり得る。他にもデネットの考え方に従えばMI自体がミームの集合体だから、MIにおける個々の理論はそれぞれの生存のために理論間で競争をしているとも言える。それならばMIは単に生き残った理論の集合体と捉えられるかもしれない。問題は、そのようなミームの生存競争に対して私たちの意志がどれだけ淘汰圧として関わっているのかという点になるだろう。

7. 結論

 結局、私たちはMIとSIを統一することができるのだろうか。またMIかSIのどちらかを捨てるべきなのだろうか。本発表での答えはどちらも否である。その上で本発表における私の主張は以下のように集約される。⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。
 三つめの主張におけるいくつかの方針については「科学主義」「プラグマティズム」などが挙げられるが、それらがMIの修正のために必要なすべてであるとは言えないかもしれない。それゆえにそれらの十分の吟味が今後の課題として残ることとなる。

参考文献

  • Churchland P.

Eliminative Materialism and the Propositional Attitudes (The Journal of Philosophy, Vol. 78, No. 2. (Feb., 1981), pp. 67-90.) 1981
http://stevewatson.info/courses/Mind/resources/readings/Churchland_ElimMater&PropAtts.pdf

  • Dennett D.

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
https://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/realpatt.htm

Kinds of Things—Towards a Bestiary of the Manifest Image (from “Scientific Metaphysics” (Ross D., Ladyman J.,Kincaid H.(Ed)) ) 2013
https://pdfs.semanticscholar.org/2245/ee8ee41880b17d5c56a8bb92beb4523a1c78.pdf

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

  • Ladyman J., Ross D., Spurrett D. & Collier J.

Every Thing Must Go : Metaphysics Naturalized(Clarendon Press) 2007

  • Sellars W.

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963

  • 太田紘史

経験科学における多重実現と多様性探求 (哲学論叢 (2006), 33: 79-90)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48854/1/TRonso33_Ota.pdf


頂いたコメントの検討

  • 物理学の話と生物学の話を分ける必要がある。

セラーズやエディングトンは明らかに物理学を対象として「科学的イメージ」を考えているのに対して、デネットが主に扱いたいのはやはり生物学である。それゆえにこの両者を同時に扱おうとするとそれらの齟齬が問題となってくる。私が研究したいのはやはりデネットの思想であり、生物学に話を絞ったほうがいいかもしれない。この点に関しては「科学的イメージ」という一つの単語に包摂されて隠れていたそれぞれの立場の違いが見えていなかったということになるだろう。

  • 物と構造どちらの実在論が取りたいのか。

セラーズの話はやはり物を対象にしているが、デネットはパターンつまり構造を問題としている。このデネットの立場はレディマン他の本では構造実在論として定式化されることになる。確かにこの発表ではその辺りの混同があった。私としてはデネットの立場から構造実在論に行きたいと考えているので、セラーズの話を使うことに対してもう少し慎重になったほうがいいかもしれない。

  • 結論における推論ステップの明確化

「⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。」という結論に関して、それぞれのステップの間の移行における論理的な関係を明確にした方が良いというコメントをいただいた。この発表では問題を大きく扱い過ぎたと思うので、次からはもう少し細かいところの議論をやったほうがいいかもしれない。特に1から2についてはデネットのオリジナルというよりパトナムが既にやっているらしいのでそちらを見る必要がある。

5章と6章の間でデネットの主張から私自身の主張に切り替わっているが、そこを明確にアピールしたほうが良いというコメントをいただいた。5章におけるデネットの立場の何が問題で、私がそこに何を付け加えたいのか。おそらくはデネットが言及しない日常的イメージにおけるダイナミズムや科学との対応がそれにあたるのだろう。私としてはデネットが割と簡単に日常的イメージの対象は実在すると言ってしまうのが不満で、そこに何らかの制約を課してその存在論が妥当なものになるようにしたいのである。

  • 「日常的イメージ」の多義性

セラーズとデネットの間でおそらく「日常的イメージ」という語が指す意味が変わっている。セラーズにとっては観察可能な対象を見る枠組みだが、デネットにとってのそれは様々な機能などを含んだ枠組みとなっている。その違いを明確にする必要があるだろう。その点にはおそらくセラーズとデネットの間で物理学から生物学へと関心が変わっている点、物の実在論から構造の実在論へとシフトしている点も関わっている。

  • 有用性を実在の起源とすることについて

この発表で言われている実在の起源は有用性である。そしてセラーズとデネットの間の最大の違いは認める有用性の種類で、それが実在物の種類の差につながっている。もし仮に有用性が複数あるなら、この発表で見た有用性(2種類)以外にも種類が考えられるのではないか。そうするとその有用性についてそれぞれに実在が考えられる事態に陥るのではないか。そうしてみると、極論すると個人個人で有用性の基準は違うので個人それぞれにおいて実在が異なっているという事態が発生する。この点についてはまだ手に負えていない感じがするのでさらに検討したい。