ソードアート・オンラインの感想(1期〜劇場版) / 仮想世界の実在論

アニメ『ソードアート・オンライン』の1期〜映画までを一気に見た。今までに見たアニメのオールタイムベストに食い込むほど感動したので感想を書き残しておきたい。

1. 本編感想 / 仮想世界のリアリティ

ソードアート・オンラインという作品が伝えたいことは

「仮想世界におけるXは本当のものだ」

という命題に集約される。このテーマは例えば『これはゲームであっても、遊びではない』というフレーズにも表れている。

このXに「時間」「愛情」(アインクラッド編)、「罪」「強さ」(ファントム・バレット編)、「生」(マザーズ・ロザリオ編)、「記憶」(オーディナル・スケール)という風に要素を代入していくことで物語が構成されている。

「仮想世界」はもちろん偽物の世界である。しかしそこを生きた人、生まれた感情、得られたものや残されたものは本物なのだ、ということを伝える物語だと私は考えている。

まずはアニメ1期から映画に至るまで、この「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマを軸として読解しながら感想を書いていきたい。そしてそこからこのテーマをどう考えられるのかという考察に進んでいく。

1.1 アインクラッド

アインクラッド編はデスゲームである。茅場晶彦ソードアート・オンライン(SAO)というゲームのプレイヤーに自らの命をベットさせることで、ゲームの世界を本物にしようとした。命がけのゲームなら、それは人生と変わらないだろう?というわけだ。

アニメではエピソードが時系列順に再構成されて、3話でキリトとサチの関わりが描かれる。ここでキリトはサチを「守れなかった罪」を背負うことになる。彼がパーティメンバーを過度に守ろうとするのはこの罪のためだ。

この「守れなかった罪」と、そして「二刀流」という特別なスキルを与えられてしまったことが彼を「英雄」へと変えていく(もともと背負いこみがちな体質というのもあるが)。彼はその英雄性によって、誰かを守るために他の誰かの命を奪うというさらなる罪を背負うことになる。この点は「罪」をテーマとしたファントム・バレット編に繋がっていく。

その一方でSAOでの生活におけるキリトのスタンスは割と楽観的で、気候のいい日には外で昼寝をしたりして楽しんでいる。それに対してアスナは「現実の時間が失われている」と反発する。そんなアスナもキリトとの生活を楽しむようになるのは、彼女もまた仮想世界での生活はある意味で現実なのだと受け入れられたからだろう。そしてアインクラッド編以降で描かれるように、そうした生活は彼女の中でかけがえのないものになっていく。

アインクラッド編の後半で特に印象深いのはキリトとアスナ、そしてユイの関わりだ。彼らは(システム上の)結婚をしたり、ユイを子供として扱ったりするが、それらは仮想的なことに過ぎない。キリトとアスナは16、7歳で、ユイはAIなので彼らの子供ではない。こうして仮想的な関係を作り出すことで、「仮想世界における愛情は本当のものなのか?」という問いが前景に現れてくる。

仮想的な家族において交わされた愛情は本物なのだろうか。SAOにおけるプレイヤーのメンタルヘルスケアを担うAIであるユイは、デスゲームにおけるプレイヤー達のネガティブな感情を観測し続け、崩壊しかかっていた。そんなユイにとってキリトとアスナの間に、そしてユイとの間に生まれた愛情は、仮想世界における仮想的な関係であっても確かな救いだったのだ。

ここで救われるユイの心もまたAIである以上仮想的である。それゆえに仮想世界における愛情が仮想的な心を救った(ように見える)に過ぎない。それでも、この愛情は本物だと言い切れる。そうでなければ、ユイと別れるキリトとアスナに、そしてそのシーンを見る私たちの心にこんなに深い悲しみが現れることはないだろうから。

1.2 フェアリィ・ダンス

ここで描かれるのはアインクラッド編のような仮想世界において絆が生まれることというより、そうした絆を再確認することである。物語の基本構造は、キリトがアスナを取り戻すことと、リーファとの関係を修復することにある。

ここで面白いのはキリトとリーファの兄妹関係もまた本物ではないという点だ。仮想世界であるアインクラッドで様々な絆を肯定することができたキリトは、現実における仮想的な兄妹関係もまた本物だと肯定できる強さを備えたと言える。

それゆえに彼は、本当の妹でないことを知ってから距離を置いていた直葉との関係を修復することができたのだろう。またそうした修復が行われる場もまた仮想世界であるという点で一貫している。

反対に須郷伸之とその関係者は実験体に与えていた神経刺激による仮想的な経験を本物ではないと考えてたり、仮想的な記憶を植えつけて相手を操ろうとしていた点で対照的である。彼らは「仮想的なものは本当ではない」という立ち位置で、物語のテーマに対してアンチテーゼをなしている。そうした彼らが打ち破られることに、本作のテーマを読み取ることができるだろう。

1.3 ファントム・バレット

ファントム・バレット編は主人公とヒロインというよりは、キリトとシノンのダブル主人公と言っていいような構成になっている。おそらくは考えすぎだが、ガンゲイル・オンライン(GGO)でのキリトのアバターが女性に見えるのは、男女のペアで主人公/ヒロインの構図に見えてしまうことを防ぎたかったからではないかとも思える。

この章のテーマの一つは「仮想世界における罪、責任」だ。キリトはSAOで殺人ギルト「ラフィン・コフィン」に襲撃されて返り討ちにした罪(デスゲームなので死んでしまう)に悩み続けている。キリトの殺人は仮想世界におけるものであり、法的に罪に問われているわけではない。それゆえに彼の罪は自分自身に課しているだけのものだと言えるだろう。

キリトがこの罪に対して忘れることを自分に許さず、真剣に向き合うことが仮想世界であっても犯した罪は本物であるというテーマを反映している。ソードアート・オンラインという物語が誠実なのは、こうして仮想世界におけるネガティブな産物も本当のものとして引き受けている点だ。ここまでで描かれた仮想世界における「本当のもの」は、愛情などポジティブなものであった。それゆえにこのファントム・バレット編は全体から見ても特異なパートであり、またこの章が存在することで「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマに深みと説得力が生まれている。

この章のもう一つのテーマは仮想世界で得た「強さ」である。その強さは本物であるがゆえに、シノンのトラウマからの脱却を後押しもするし、デス・ガン(弟)を狂わせもする。そしてデス・ガン(兄)はSAOで得た「人を殺せる強さ」を忘れられないがゆえに込み入ったトリックを用意してまで本当の殺人を続けている。

本章のもう一人の主人公であるシノンもキリトと同様に罪を抱えている。彼女は幼少期に強盗を射殺したトラウマによって銃の形をしたものに怯える暮らしを送ることになる。彼女がそれを乗り越える方法として思いついたのが、銃が大量に出て来るGGOで強くなることだった。GGOもまた仮想世界であるから、そこで得られた強さは本物でないように思われる。しかしシノンはBoB大会後に実際に現実世界で銃(エアガン)を操ることができるようになる。つまり仮想世界で得られた強さは、現実の彼女を一歩前に進ませる力を持っていたのだ。オープニングやエンディングにゲームのアバターであるシノンが現実の朝田詩乃を見つめるカットが印象深く描かれているのはこのテーマの一つの表れだろう。

キリトとシノンの罪悪感は、それを負うことによって救われた人がいるということに気づくことで少しだけ和らげられる。キリトはラフィン・コフィンに襲撃されたプレイヤーを、シノンは強盗に襲われた郵便局員とその子供を救っている。

キリトたちの導きでシノンがその職員に再開するシーンがファントム・バレット編の最後に描かれていて、非常に感慨深いものとなっている。そのシーンが感動的だと感じられるのは、その罪に立ち向かい続けた彼女の強さへの戦いが、仮想世界におけるものでも本物だという証拠でもある。

ファントム・バレット(幻の銃弾)というサブタイトルは一つにはデス・ガンとの決着シーンにおいて回収される。シノンがスコープなしでバレットライン(GGO内で可視化された照準線)をデスガンに当てて牽制、それがキリトとデス・ガンの勝負の決め手になる。もう一つはデス・ガンの使う拳銃の弾で、本来それ自体には人を殺す力はないもののそう錯覚させるようにトリックが組まれている。幻=本物でないものが本当の力を持つ、という点でこれら幻の銃弾は仮想性と現実性に関する本作のテーマの変奏だと言えるだろう。

1.4 マザーズ・ロザリオ

この章のテーマは仮想世界で「生きること」と、そうして「生きた証」だと思われる。ユウキ達のギルド『スリーピングナイツ』はターミナルケアとして仮想世界に接続している。ユウキに至っては無菌室から出られない状態で、彼女の生はもはや仮想世界にしかないと言える。

アインクラッドにおけるデスゲームが「死なないため」の戦いであるとすれば、彼らの戦いは仮想世界で「生きること」だ。これまで「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマを誠実に描いてきたソードアートオンラインという作品だからこそ、死に際に見る夢のような彼らの仮想世界における生を本物だと肯定できる。

アスナは単一パーティでのボス攻略によって記録に名前を残すという形で「生きた証」を残そうとするスリーピングナイツに協力することになる。本気で泣いたり笑ったりしながらそれを目指す彼らの姿が、仮想世界におけるその証もまた本当の生の証たりうるということを示している。

原作者のツイートに以下のような言葉があった。

彼らにとっては、《現実世界は数多ある世界のうちのたった一つ》であり、《現実世界での死は次の世界への旅立ち》なのです。全員が難しい病と闘う彼らには、それは救いでもあるのだと思います。*1

この言葉が示すように、仮想世界を本当に生きることは、現実世界を「たくさんの世界のうちの一つ」として相対化することにもつながる。それゆえに「仮想世界における生は本物だ」という信念は現実世界における救いともなるのだ。

ユウキ達に対して物語のもう一つの軸として描かれるのがアスナの家庭環境である。残された生を全力で生きようとするユウキの生き方から、母親に本気でぶつかる「強さ」を得てアスナは家庭における不和から一歩前進することができた。そうした意味でユウキの生きた証はアスナの中にもあると言える。だから本章のエンディングテーマ『シルシ』の

じっと見つめた キミの瞳に写ったボクが生きたシルシ
(LiSA『シルシ』)*2

この「キミ」と「ボク」はアスナとユウキを指しているのだろう。『シルシ』の歌詞では他に

何度も途切れそうな鼓動 強く強くならした 今日を越えてみたいんだ
(ibid)

という部分が、アスナと少しでも一緒に生きるために、宣告された余命以上に生き続けたユウキとリンクすることに最後に気づいて涙が溢れてきた。

ユウキのオリジナル・ソードスキルである「マザーズ・ロザリオ」は最期にアスナへと受け継がれて、例えば劇場版でも彼女を助けている。これもまた彼女の「生きた証」で、それが受け継がれていくことで彼女の剣は「絶剣」=「絶えることのない剣」となる。

アスナの判断で再び仮想世界に繋がれたユウキの最期には、アスナとスリーピングナイツ、そしてたくさんのALOプレイヤーが駆けつけてくれる。このシーンには以下のような意味もあるそうだ。

不特定多数の人間たちから浴びせられた悪意がAIDS発症のきっかけになったのかもしれないと倉橋医師は言っています。そんなユウキを、最後は数え切れないほどたくさんの人間たちの善意で見送りたいがためにこの展開となりました。*3

物語の登場人物に対する深い愛情を感じられる背景設定だと思う。仮想世界とそこにおける様々な感情という「本物でないもの」に対してここまで誠実に描くことのできる作者だからこそ、こうした架空のキャラクターに対する強い思入れは必然のようにも思われる。

そしてこのシーンでユウキは、ただ死を待つだけだった自分の人生を肯定することができた。

ずっと…ずっと考えてた。死ぬために生まれた僕がこの世界に存在する意味は何だろうって / 何も生み出すことも、与えることもせず、沢山の薬や機械を無駄遣いして、周りの人達を困らせて… / でも…でもね、ようやく答えが見つかった気がするよ…。意味なんてなくても、生きてていいんだって / だって最後の瞬間がこんなにも満たされているんだから…。こんなにたくさんの人に囲まれて、大好きな人の腕の中で旅を終えられるんだから…
ソードアート・オンラインⅡ 24話『マザーズ・ロザリオ』)

彼女のように仮想世界で生きることには意味がないかもしれない。それでも彼女の人生は本当に満たされていた。それ以上に何が必要なのだろうか。

ユウキが息を引き取った後にはこんなカットが挿入されている。

f:id:Re_venant:20181123014925j:plain *4

このVサインは、本章の中でスリーピングナイツがボスを攻略した後に、それを横取りしようとしていたプレイヤーに向けたのと同じものだ。つまりユウキは最期に、自身の人生に勝利したのだ。

少し余談だが、ユウキの病名が架空のものではなくAIDSという現実にある病名である理由について

ユウキが物語の中で短い時間を生き、そして去っていったことに意味が生まれるのではないか。そう考え、現実の病名を用いました。*5

とある。テーマに即して言い換えれば、架空のキャラクターの生でも現実の私たちを動かすことができる本当の力を持っていると信じてこうした設定がつけられたのだろう。

1.5 オーディナル・スケール

劇場版は「記憶」の物語である。重村教授はSAOで死亡した娘のユナに関する記憶をSAOプレイヤーから集めて、それを学習させたAIとして彼女を復活されることを目論む。その過程で記憶をスキャンされたプレイヤーはSAOに関する記憶を思い出せなくなってしまう。アスナがその被害にあうことでSAOにおけるキリトとの思い出も失われてしまうことになる。

記憶を思い出せなくなる原因は、SAOにおける死の恐怖を増幅されたことにある。つまり思い出せないのではなく、思い出したくなくなるということだ。重村教授や、アスナと同様の状況に陥ったクラインは「思い出さないほうがいいのかもしれない」と言う。確かに仮想世界でのデスゲームの記憶など、本当の経験でもないし辛いだけのものだから無いほうがいいのかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか。

SAOを生存した者たちは、その事件を忘れて生きていくことができる。しかし生存できなかった者たちはどうだろうか。ユナはSAOにおける敗者である。彼女たち敗者もまた、SAOという仮想世界を生きていたことは誰にも否定できない(ユウキの生がそうであったように)。SAOをクリアできたのは生存者たちだけの功績ではない。彼女のようなたくさんの敗者たちもまたゲームをクリアし、プレイヤー達が生きて帰るために戦っていたのだ。

生存者たちがSAOでの記憶を忘れて生きていくということは、そうした敗者たちの戦いをなかったことにしてしまうことに他ならない。仮想世界での偽物の記憶であっても、それはなかったことにはできない重み=実在性を持っている。

そしてアスナにとってのSAOの記憶は、キリトとの絆そのものでもある。だから彼女にとってのそれは死の恐怖を乗り越えてでも取り戻したい記憶だったのだ。そしてその恐怖を乗り越えるきっかけは、ユナが「圏外に出て」、つまり恐怖を乗り越えて戦って死んだという事実であった。だから仮想世界で死んでしまったユナの戦いの記録も、いま現実で生きている人を勇気付ける力を持っている。

重村教授の計画が破綻し、AIとしてユナを復活させることはできなかった。失意の彼の前にユナの幻が現れて、「私は記憶の中で生きている」と言う。このような結末は黒い方のYUNA(本来のユナとは別物)が歌う『Ubiquitous dB』の歌詞にすでに暗示されていたと言えるかもしれない。

だから“会いたい”なんてナンセンス
ユビキタするよ君のメモリー
(ユナ『Ubiquitous dB』)*6

わざわざAIとして復活させて「会う」ことをしなくても、彼女は記憶の中に偏在している。確かに記憶は過去のもので、SAOの場合それはさらに仮想世界での記憶ということになってしまうため、二重に偽物である。しかし以上に見たように仮想世界を生きた彼女の生は本物であり、またその記憶は本当の力を持っている。

劇場版にはエイジというキリトに対置されるアンチヒーローのようなキャラクターが登場する。彼はSAOにおいてユナを守れなかったことを後悔している。これはキリトがアインクラッド編で背負った「守れなかった罪」の物語の再話である。彼はユナを現実世界に帰すという約束を果たすために重村教授の計画に加担していた。

ユナ(白)は結局のところ機械学習によってオリジナルのユナの振る舞いを模倣するAIでしかない。エイジはユナとの約束を果たすことができたのだろうか。それでもこのソードアート・オンラインという物語なら、「できた」と答えられるのではないかと思う。なぜならこれは、偽物から本物が生まれる物語だからだ。

一方でYUNA(黒)はユナの記憶を集めるためのAIでしかない。つまり彼女はユナであることすら意図されておらず、その実存そのものが仮想であると言えるだろう。そんな彼女が

仮想(ゆめ)も現実(リアル)も真実(ほんと)だよ
(ユナ『Ubiquitous dB』)

と歌うのは、本作のテーマを端的に象徴しているように思われる。

YUNAは最後のステージで歌い終えて、そのことに満足して笑顔でステージの照明が消えるように一瞬で消えてしまう。私には(そしてこの作品のテーマに共感している人にもそうであれば嬉しいのだが)それが本当の生の重みを備えた彼女の死であるように感じられる。あまりにあっけなく消えてしまうことが、かえってその重みを際立たせる。彼女をただ道具として使い捨ててしまうことは、一つの罪なのではないか。それもまたこの作品が発する問いの一つだろう。

2. 考察 / 仮想世界の実在論

2.1 仮想と現実

1章ではソードアート・オンラインのテーマが「仮想世界におけるXは本当のものだ」であることを見た。そのテーマは物語の中核として、文句のつけようがないくらい綺麗に描かれていたように思う。この章では少し視点を変えて、理論的な面からこのテーマについて考えてみたい。

仮想世界は偽物の世界である。それは計算機プログラムによって構成され、そこでの経験は電気的に脳に書き込まれているに過ぎない。では現実世界はどうだろうか。現実世界は基礎物理学的な素粒子によって構成され、そこでの経験もやはり電気的に脳に書き込まれる。両者に大きな違いはないのだ。

プログラムによって情報的に構成されていることと、素粒子によって物理的に構成されていることの違いが重要だと考えることもできるかもしれない。しかし計算機もまた物理的に構成されていることに変わりはない。それらの違いは抽象化のレベルの違いである。プログラムは情報的な構造(要はソフトウェア)として、物理的な回路より抽象度が一段高い。

しかしその一方で、物理的な素粒子から構成される私たちの現実世界も抽象的なものである。この世界における「もの」は素粒子の世界には存在しない。それらは私たちが素粒子の大規模な集まりを抽象化することで初めて存在する。純粋な素粒子だけの世界では例えば机とラップトップの間の境界線は存在しない。そこにあるのは素粒子の雲で、それらを区別するのは私たちが持っている「机」や「素粒子」という概念なのだ。

すなわち仮想世界も現実も、物理的なものを実在するものと考える視点からはどちらも抽象物でしかない。それゆえに、両者は同質のものとして扱うことができる。このような視点は、スリーピングナイツにとって「《現実世界は数多ある世界のうちのたった一つ》」だったことを裏打ちしうるものだろう。

もう一つの要素、脳への電気信号に入力プロセスの違いに注目することもできるかもしれない。仮想世界での経験はフルダイブ機器によって脳へ入力され、現実世界での経験は身体の感覚器官から入力される。

これはいわゆる「水槽の中の脳*7」という思考実験と似た状況だと言えるだろう。この思考実験をここでの話題に即して換言すると、私たちは仮想世界に接続しているという自覚なしに、そのような状況に陥っている可能性を否定できない。

このような思考実験についての哲学的見解として、私が気に入っているものを一つ紹介しよう。それは私たちの「知る」とか「知覚する」という言葉は、こうした状況を想定して作られているわけではない、というものだ*8。確かに私たちは水槽の中の脳もしれないし、誰かが設計した「現実世界」というデスゲームをプレイしているのかもしれない。

私たちは現在置かれている状況がそのどちらにあるかを知ることはできない。なぜなら私たちの知識を得る能力はそうしたことを知るための能力ではないからだ。しかし仮にそうであったとしても、私たちの知識や知覚に問題が生じるわけではない。つまりどちらでも問題はないのだ。

そうした意味で、経験がフルダイブ機器によって入力されているか感覚器官から入力されているかは大きな問題ではない。なぜなら私たちはそのどちらの状況にあるかを知り得る立場にないからだ。

以上の二つの論点から、仮想世界は現実世界と理論的な違いを有していないと考えられる。そしてそれならば、現実世界における様々な思いが本物であるように、仮想世界におけるそれも本当のものだと言えるのではないだろうか。

2.2 拡張実在論

仮想世界が実在するということは、そこにおける出来事や経験もまた実在するということだ。こうした観点に立った上で、「何が実在するのか」という問いを問い直してみるならば、その答えは物理世界だけを本物だと扱う立場よりもはるかに拡張されたものとなるだろう。そこには仮想世界における絆、出会いや別れ、記憶などが「実在物」として含まれている。ソードアート・オンラインという物語を経た私たちにとっては、むしろこうした感覚の方が実感に近いと言えるのではないだろうか。

他にも例えば、物語を読む(見る、聞く)ことは仮想的な体験だと考えることもできる。それゆえに仮想世界における経験が実在するなら、物語によって仮想的に経験したことも実在する。そのことは、私たちがこのソードアート・オンラインという物語を享受することにも当てはまる。この作品によって動いた私たちの心や、その中で考えたこともまた本物なのだ。

そしてこの拡張された実在論を、仮想世界以外にも「偽物」だとされているものに広げていける可能性がある。

例えばユイやユナなどのAIについて。私たち自身の存在を考えてみるなら、それは物理的な身体とは一致しない。「わたし」という概念はその身体の振る舞いをある視点から抽象化した上で見えてくる主体なのだ。*9おおざっぱに言うと、「わたし」とはそうした振る舞いのパターンを説明するために置かれた「主語」のようなものということになる。

ソードアート・オンラインにおいて登場するような、人間と変わらない振る舞いをするAIを「彼女」という主語を使って記述することは可能である。だから「彼女」達もまた「わたし」達と同じように実在物として扱うことができる。この観点からは物理的な身体を持っているかどうかはあまり関係ない。

アニメ3期(アリシゼーション編)ではどうやらこのAIがメインテーマとしてフィーチャーされてくるようだ。本作のテーマは仮想世界における「命」もまた本物だと言えるほどの懐の深さを持っている。それゆえそれゆえにこの拡張された実在論は、そうしたAIも含むことのできるものへと成長していくだろう。

そしてまたこうした思考は物語のキャラクターへも向かいうるものだ。すなわちキャラクターの振る舞いも私たち人間のそれと同様に記述できるために、「彼ら」も実在物として扱うことができる。それゆえに本作のテーマをさらに広げて、本作の登場人物やその生が現実に劣らず本物だという主張を読み取ることも可能だろう。原作者がユウキの人生に少しでも意味を見出してあげたいと願ったことも、この点に一致するのではないかと思っている。

このように実在の範囲を広げることで、「偽物」だとされているものを「本物」へと引き上げていくことはそれ自体ドラマチックなものである。これがソードアート・オンラインという作品が持つ大きな魅力の一つであると私は考えている。そしてまた、この物語を経ることによって私たちの世界そのものが広がり、豊かになっていく。

しかしそこにはキリトが背負ったような責任の重さや罪も含まれることになる。だからこの作品は、そうして広がった世界の豊かさを享受するために引き受けなくてはならない重荷もあるということを伝えるものでもある。そうした意味でこれは未来への希望にあふれ、それでもそれに対する誠実さを失わない作品だと言えるだろう。


(2018/11/27 2.1の脚注と2.2の本文に追記)

*1:

*2:https://itunes.apple.com/jp/album/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%B7/943324708?i=943324713&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

*3:

*4:©2014 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-Ⅱ Project

*5:

*6:https://itunes.apple.com/jp/album/ubiquitous-db/1202777963?i=1202778052&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

*7:水槽の脳 - Wikipedia

*8:例えば「文脈主義」と呼ばれる。( Epistemic Contextualism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)) 個人的な参照元はこれ。

*9:この点について詳しくはre-venant.hatenablog.com