『宇宙よりも遠い場所』10話/友情のソリテス・パラドックス

 『宇宙よりも遠い場所』というアニメが現在12話まで放送されている。非常に評判の高い本作だが、「どの話が一番好き?」と訊くと「5話…」「8話が良かった」「11話…」「三宅日向……」「12話がヤバすぎる」など結構まちまちな返答が返ってくる。おそらく、これはそれぞれのストーリーの品質自体で甲乙がつけられているのではなく、各人がどのキャラクターのどの場面に共感したかによって答えが変化しているからではないかと思う。さて、そんな中で私にとっては10話「パーシャル友情」が一番好きな回となった。

第10話「パーシャル友情」あらすじ
見渡す限り延々と続く真っ白な世界。ついに南極へとやってきたキマリたちは、目の前の広がる景色に思わず息を呑む。前回から3年ぶりとなる昭和基地ではやらなければならないことが山積みで、基地へと案内されたキマリたちも次から次へと言い渡される仕事に大忙し。そんな中、結月が意を決したかのような面持ちでキマリたちを見ながら、とある出来事を話し始める。

 とある出来事というのは朝ドラのオーディションに合格したということで、その結果結月は他のメンバーとあまり会えなくなることを心配し始める。そこで「もう親友だから大丈夫」というキマリに対して結月は「いつ親友になったんですか?」と問いかける。この問いこそがこの話の主題をなしている。人はいつ友達になるのか?結月は友達である証明が欲しくて、「友達誓約書」なるものを作ってサインを求める(私がこのアニメで一番好きなシーン)。


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figure 1. 友達誓約書*1


それにサインした時、友達という関係が発生するのだろうか?報瀬はその誓約書を「意味がない」と言って突きかえす。キマリは「わからないんだもんね」と泣きながら結月に抱きつく。そう、「わからない」。今まで友達ができたことのない結月はもちろん、おそらく他のメンバーの誰も、そして私も友情が発生する瞬間を、友情の定義を知らない。なぜならそんなものは存在しないからだ。ただめぐみという親友を持つキマリは、誰かと「友達である」という実感を持っている*2。どの瞬間どのようにそうなったかはわからないが、いつの間にか人と人は友達になっている。その曖昧な感覚だけが友情というものの拠り所なのである*3
 ソリテス・パラドックス、または砂山のパラドックスという哲学上の問題がある。*4例えば砂山から一つずつ砂粒を取り出していって、どの瞬間から砂山は砂山でなくなるのか?という問いに答えられないという問題である。私はこの問題について、「砂山である」と「砂山でない」の二つの状態という言語上の区分を用いて思考していることに原因があると考えている。本来砂山と砂粒という状態同士は連続的(アナログ)な関係にある。つまりそれらの間に明確な境界線はなく、存在するのは砂山と砂粒という両極なのだ。そして個々の状態はその中間にあり、私たちに言えるのはそれがどちらの極に「近い」のかということのみである。しかしながら私たちは言語という1か0か、つまり「砂山」か「砂山でない」かという離散的(デジタル)なものを使って思考している。思考せざるを得ないとさえ言えるかもしれない。それゆえに砂山と砂粒という二項対立を想定して、本来存在しないその境界線という問題に悩むことになる。このようにソリテス・パラドックスはアナログな世界をデジタルな言語によって思考しようとすると不可避的に発生する。つまりこのパラドックスは言語という「知恵の果実」を得た人類に課せられた「原罪」なのだ。
 さて、友情に関しても同様のことが言える。『宇宙よりも遠い場所』では3話で報瀬たちが自分たちを指して「同じところに向かおうとしているだけ」だという。そこで二つの極を「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」と設定してみよう。おそらく3話で4人が出会ってから、この11話で再び友情が話題に上がるまでの間で、彼女たち4人の状態はこの二つの極の間を遷移したはずである。しかし、その二つの状態の間に明確な境界線、つまりここまでは「同じところに向かおうとしている人々」でここからは「親友」だという線は存在しない。結月以外の三人はおそらく自分たちが「親友」であるという実感をいつからともなく持っていた。だが結月にはそれが「わからない」。なぜなら彼女には今まで友達がいなかったために、友達であるとはどういうことかを理解していなかったからだ。実感を持てない彼女が自分たちの関係性を思考した時、感覚的でない以上その思考は言語的なものとなってしまう。そこには「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」という二項しか存在せず、キマリは自分たちが親友だと言うがいつ親友になったのかがわからない。なぜなら明確な境界線は存在せず、他の三人が語るのは曖昧な実感だけだからだ。それゆえの「友達誓約書」であり、このシーンが(私にとって)本当に感動的なのは、友達であることに明確な定義と根拠がないことへの不安に深く共感できるからだろう。それは言語によって人間関係を思考する私のような人間たちにとって、生まれてから今までずっとつきまとってきた不安だ。
 それで、このアニメはいかにしてこの問題に挑むのか、つまり結月は友情の実感をいかにして得るのか、そしてそれをどのように言葉にするのかという点がこの分析の最終段階となる。結論から言うとこの話では結月が祝われなかった誕生日を改めて祝ってもらうことで友情の実感を得る。そしてその実感を伝える言葉は「ね」という一文字なのだ。結月が誕生日ケーキを前にして涙するシーンは、人間が生まれて初めて友情を実感する瞬間というものをこの上なくわかりやすく、美しく描写している。そこにケーキの上のチョコプレートの言葉以外には友情というものを直接表現する言葉はない。しかし手書きであろうその文字の拙さ、手作り感満載のケーキ、南極でケーキを作ってくれたことなど、言葉以外のものが結月に友情の実感を与えてくれる。やはりここでもアナログな関係性を表現するためにデジタルな言語は役に立たない。しかしながら、私たち人間が対話するためにはどうしても言語が必要となる。特にLINEなどのメッセージサービスを使おうと思うとなおさらそうだ。こうしたメッセージサービスにおいてアナログな友情をいかに表現して伝えるのか、その点に対する答えにおいてこのアニメは天才的なものを示していると言えるだろう。それこそが先に述べた「ね」の一文字である。


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figure 2. 「ね」*5


友情というアナログな関係性を表現するためには「ゆうじょう」の五文字ですら長すぎる。なぜなら繰り返すようだが言語はデジタルなもので、それはアナログな世界に絶対にたどり着けないからだ。そして語りえないものを語るために私たちに残された手段は、言語に頼らないこと、つまり0文字の沈黙のみである。この一文字の「ね」はその壁を前にして、言葉をギリギリまで切り詰めることでなんとかアナログな友情を伝えたいという努力の結果生まれたものだと言えるだろう。それによって言語が不可避的に持つパラドックスを解決できたわけではない。しかしそれでも曖昧で掴み所のない友情というものに、極めて真摯に向き合った結果生まれた表現だと思う。言葉では伝わらない、けれど言葉で伝えるしかない、そして伝えたいという気持ちが作るもどかしさが胸を熱くさせる。だからこそこのシーンは感動的で、私はこの『宇宙よりも遠い場所』10話が本当に好きなのだ。

*1:©YORIMOI PARTNERS

*2:ここで結月と向き合う役割をキマリが担うのは、他の2人に関してこの4人の関係以外の友人関係が(この話までに)描写されていないという事情が絡んでいるだろう。こうしたキャラクター同士の組み合わせの巧妙さもこのアニメの特徴の一つである。

*3:作中でも、報瀬「友達って言葉じゃないと思うから」/日向「いやぁだから…気持ち?」などのセリフがある。

*4:砂山のパラドックス - Wikipedia

*5:©YORIMOI PARTNERS