研究発表『日常的イメージにおける構造実在論』

www.academia.edu

0. Abstract

 本稿では科学哲学における「構造実在論(structural realism:SR)」を日常的な思考のフレームワークに応用することを目指す。この応用によってダニエル・デネットがしばしば用いるウィルフリッド・セラーズの概念「日常的イメージ(manifest image)」の内容が明確になることが期待される。この分析は日常的イメージと科学的イメージ(scientific image)との関係というさらに包括的な関心に導かれている。SRはLadyman & Ross(2007)で指摘されているようにデネットの実在的パターン(real patterns)という論点と(厳密に一致するわけではないが)相性が良い。この議論を起点にしつつ日常的イメージ上でSRを取ることの可否を論じ、その上でSRを採用することのメリットを検討する。

1. introduction

 まずはじめに構造実在論(structural realism:SR)について概観する。特に焦点を当てたいのが構造実在論を取る二つの主要な動機と、経験的構造実在論(epistemic structural realism:ESR)と存在的構造実在論(ontic structural realism:OSR)の対立軸である。次に基本的に物理学の領域において議論されるSRをそれ以外の領域、特に生物学(French 2011)と心の哲学(McCabe 2006)へと応用していく研究を紹介、分析する。その上でそれらを包括する日常的イメージへのSRの応用について議論する。ここではLadyman et. al. (2007)でデネットの”Real patterns (1995)”に即して展開されるOSRのバリエーション、情報理論的構造実在論(Information-Theoretic Structural Realism:ITSR)を用いるのが良いだろう。この分析においては日常的イメージに含まれる対象は(第一義的には)個物ではなく構造であるという結論に至る。しかしながらデネットの議論を詳細に分析すると、ITSRをそのままデネットの思想の発展系とするには不備があることがわかる。その点について論じながら、ITSRの立場を修正することで日常的イメージにおけるSRがどういったものになるかを考察する。そして最後に日常的イメージにおいてSRを採用するメリットを、SRという立場が生まれるに至ったそもそもの動機に即して提示する。

2.構造実在論

2.1 科学的実在論

 SRは広く科学的実在論の一種である。科学的実在論を採用する根拠として第一に挙げられるものに「奇跡論法(no-miracle argument)」がある。これは科学の措定する観察不能な対象がもし存在しないならその科学の成功が奇跡となってしまい、また奇跡を信じるよりもその対象の実在性を信じる方が良いという論法を指す。特に予想という側面について、科学の想定する対象が自然種として存在するならその予想は理論の「投射可能性(projectabil-ity)」として正当化されることになる。(Boyd 1990)
 また単に科学の措定する対象は私たちの活動(説明、予想など)において有用であるというプラグマティックな観点からその実在性を主張することもできる。本稿のメインターゲットであるダニエル・デネットもそうした立場にあると言えるだろう。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。時折発生する誤解とその結果として生まれる誤った予測を受容することになるほどに単純な判別システムを科学において採用することは許されるのだろうか?それは往往にして起こっている。(Dennett 1991b)

2.2 構造実在論

 この科学的実在論は基本的に個物を科学の対象として想定している。そのような科学的実在論に対して様々な批判が考えられるが、本稿では構造実在論の議論に関わるそのうちの二つを扱う。一つは「悲観的帰納法(pessimistic meta-induction)」で、もう一つは量子力学における過少決定の議論である。悲観的帰納法とは、理論変化の前後で例えばフロギストンという対象へのコミットメントは停止されるが、こうした事例から帰納的に推論すると現在私たちがコミットしている科学の対象についても将来その実在性が認められなくなるだろうと予想できる。本稿ではこの問題を理論変化における存在論的不連続の問題として扱うことにする。なぜなら理論変化前後で存在論的な不連続がないなら、悲観的帰納法は成り立たないからだ。
 次に量子力学における過少決定の問題について、これは特に科学的実在論が対象を個物として扱う場合に発生する。

実際に特定の条件下で量子的な対象は個物だと主張することもでき、このことは物理学が個物としての粒子と非-個物として粒子という二つの異なった存在論的「パッケージ」を支持するというある種の形而上学的過少決定を生じさせる。(French & Ladyman 2011)

 こうした点から、個物ではなく例えば数式で記述されるような構造を対象とした構造実在論(SR)が提唱されるようになった。その構造は例えばニュートン力学相対性理論の近似として保存されているように、理論変化の前後でも同じようにコミットされている。それゆえにSRでは存在論的な不連続は発生しない。そして個物を対象としない以上、量子論における対象の過少決定という問題は生じない。なぜならそれを記述する数式こそが実在的な構造であり、その数式が含意する対象は個物でもそうでなくても構わないからだ。
 以上からSRを採用するメリットはFrench(2011)でまとめられているように二つあると言える。

構造実在論は二つの動機を持っているおおまかに理解することができる。第一には科学におけるしばしば劇的な存在論的変化という明白な歴史的事実に立ち向かうという問題を提示する、いわゆる悲観的帰納法を乗り越えること、そして第二には現代科学(特に量子物理学)の対象の存在論的な地位に関する形而上学的な含意に対応することである。(French 2011)

2.3 ESR/OSR

 このSRについて、大きく分けてさらに二つの立場がある。それぞれ経験的構造実在論(ESR)と存在的構造実在論(OSR)と呼ばれる。簡単に言って、SRが対象とする構造が認識上私たちの前に現れるものであるという立場がESRであり、反対にそのような構造が世界のあり方そのものであるという立場がOSRとなる。

ESRの大雑把な主張は私たちが知りうるすべてはもの間の関係の構造でありそのもの自体ではない、というものでそれに対応したOSRの大雑把な主張は「もの」は存在せず構造こそが存在するすべてであるというものだ。(Ladyman 2014)

さらにESRでは構造の実在性について私たちの認識の制約上の限界として認められ、実際の世界のあり方については個物であると主張するか、不可知論を取るかで分かれている。

二つのバージョンのESRが考えられる。ESR1ではそのような対象[観察不能な個物]は存在するがそれを知ることはできない、またESR2ではそのような対象が存在するかもしれないししないかもしれないが、どちらとも知ることはできないしそのような対象が存在してもそれを知ることはできないと主張される。
(French & Ladyman 2011)

OSRについても、構造の実在性を認めた上でそこから定義される個物の実在性も二次的に認めるかどうかで立場が分かれている。

従って二つの型のOSRが考えられる。一つは文脈から個別化された「薄い」対象の概念を残すものであり、もう一つは完全に対象なしで済ませるものである。この二つの違いを明確化することは現行の議論の課題ではあるが、後者の「結節点」が前者の「薄い」対象に他ならないと論じることもできる。(French & Ladyman 2011)

ここで言われているように、OSRにおいては構造同士のつなぎ目である「結節点」はどちらにせよ存在しているため二つの立場のどちらを取ってもあまり変わりはない。それゆえに本稿ではOSRとしてまとめてしまうこととする。本稿ではこのOSRを応用した一形態をデネットの思想を元に組み立てた立場をのちに見ることにする。次節ではSRの特殊科学への応用例を二つ見ることにする。これらは本稿の目的であるSRの日常的イメージの応用に関わっている。その点については4章で詳しく見る。
 

3. 構造実在論の応用

3.1 生物学

 Steven Frenchの“Shifting to Structures in Physics and Biology- A Prophylactic for Promiscuous Realism(2011)”ではOSRを生物学に応用することが試みられている。特に生物学におけるモデルが物理学における物理法則と同じように実在する構造と捉えられる点、また生物学においてSRを取ることで「⑴遺伝子の同一性、⑵遺伝子多元論と階層的アプローチの論争、⑶メタジェノミクスと生物学的個体の一般的問題」に一つの解釈が可能である点がトピックとなっている。
 これらの論点について重要な点は、SRにおいては遺伝子の存在はその機能から考えられるという点である。

機能的な同一性を上記のようにOSRの信奉者の一部が採用する「薄い」または関係性から定義された個別性の一形態に等しいと捉えることができるだろう。そのような説明において、生物学的な物質としての「遺伝子」は(多面的な)生物学的な関係性の結合という言葉において構造として再定義され、その関係性によってか、言い換えるとおそらくそれが持つ役割によって機能的に定義されることを通じて「薄い」やり方で個別化される。(French 2011)

それゆえに遺伝子がメンデルにおいて考えられたのと違う形(DNA)で考えられるようになったとしても理論変化の前後で遺伝子について存在論的な不連続はないことになる。なぜなら機能的に定義されている以上、それがどのような物質によって例化されているかは問題にならないからだ。
 またフレンチが指摘する構造実在論の二つ目の動機、つまり過少決定についても、適応の単位においてそれが起こっていると述べられている。これは自然淘汰の単位が遺伝子なのか、個体なのか、それともより上位のカテゴリーである群なのかという論争である。例えばSterelny & Griffiths(1999)で「粒度問題(grain problem)」として扱われており、生物学の哲学上の問題となっている。それについて彼はSRを採用することで解決の道が開かれるとしている。

もし代替案同士の間の区別を根本的に形而上学的なものと捉えるなら、この論争を選択の単位を構造的に理解する道を開くものと見ることができるかもしれない。この姿勢を取ることによって選択の基礎となる物質についての形而上学的な問題から離れることができるだろう。(French 2011)

3.2 心の哲学

 McCabe “Structural realism and the mind(2006)”では心の哲学においてSRを採用する可能性について論じられている。彼の出す結論は、機能主義的に考えられた心の概念、特に命題的態度の表象内容はSRから捉えることができるというものだ。

心理の表象説の支持者の多くは信念、願望その他の志向的状態の内容を提供する精神の表象は内的な構造を持っていると主張している。彼らは表象の内的システムは集合的に思考の言語と呼ばれる記号、構文、意味論を持っていると考える。(McCabe 2006)

またここでESRはこうした表象の背後に(一階の)無意識的な心理的性質の存在を認めるが、それに対してOSRはこうした構造が実在し、またそれだけが実在物であると考える。

ESRは無意識の精神の二階の構造が私たちに知りうるすべてだと主張し、OSRはその二階の構造が無意識の精神について存在するすべてだと主張する。(McCabe 2006)

 心の哲学におけるSRについてもフレンチのいうSRの二つのモチベーションを見いだすことができるだろう。第一の悲観的帰納法への論駁という点について、私たちの心理の表象という一つの説明のフレームワークの変化に伴って存在論的な不連続が発生することを回避できる。また第二の過少決定について、例えば「逆転クオリア」の思考実験を考えてみたい。この実験からは概ね以下のような帰結が得られるとされている。

私のクオリアは私の性向の全てを逆転させることなしに逆転させることができる。私がいま緑色に対して持っている反応や連想の全てをいま赤色に対して持っているクオリアに伴わせることができるし、逆も可能である。(Dennett 1991a)

この逆転によって生じる問題は経験的に計測可能な振る舞いや反応から主観的なクオリアを特定することができないという点だと言える。ここにある意味で過少決定が生じていると考えられないだろうか。つまり経験的なデータからは感覚内容(クオリア)を一意的に決定することができない。心の哲学にSRを導入することで、この感覚内容を関係的な性質から定義することにすればこの過少決定は回避できる。

4. 日常的イメージにおけるSR

4.1 日常的イメージ

 以上の研究からデネットのいう「実在的パターン(real patterns)」や「日常的イメージ(manifest iamge)」に話を移したい。実在的パターンはDennett(1991b)で導入された概念で「物理的(physical)」「設計的(design)」「志向的(intentional)」の三種類の「姿勢(stance)」に対してそれぞれのレベルのパターンが想定されている。また日常的イメージはデネットの用法ではこの実在的パターンから構成されたイメージを指す。本稿の目的はこの実在的パターンをSRから捉え、日常的イメージという語の意味を詳細に検討することである。前節ではSRの生物学と心の哲学への応用を見た。設計姿勢は「リバースエンジニアリング」としての生物学(Dennett 1995)に、志向姿勢は命題的態度に関わっている。それゆえにこれら二つの応用例は日常的イメージにおけるSRの特殊例として見ることができるだろう。それゆえにSRを日常的イメージに応用することは可能だと思われる。次の問題はこの日常的イメージにおけるSRのフレームワーク全体を定義することができるかどうかという点になる。その定義の一つの例として用いられるのが、次に紹介する「情報理論的構造実在論」である。
 

4.2 情報理論的構造実在論

 デネットの実在的パターンをOSRの観点から捉える試みにLadyman & Ross(2007)の情報理論的構造実在論(Information-Theoretic Structural Realism:ITSR)がある。

存在するとは実在的パターンであることであり、x → yというパターンが実在的であるということの必要十分条件
(1)それは投射可能である。そして
(2)それは少なくとも一つのパターンPについての情報を担ったモデルであり、符号化の際にPのビットマップの符号化よりも低い論理深度を持つ。そしてPはx → yよりも低い他の実在的パターンについての情報を処理する物理的に可能な装置によって投射可能でない。(Ladyman & Ross 2007)

このITSRのOSRとの違いは、構造を投射の際の情報の圧縮可能性から定義している点である。「投射」は同じパターンを別の時空で見つけることを言う。そしてビットマップ(非圧縮の投射)よりも効率的に情報を伝達できることが「論理深度が低い」と表現されている。この定義においては物理学の方程式以外にも上で見た生物学のモデルや志向的なパターンも(それらが最も低い論理深度を持つ限りで)存在すると言える。このような事態を彼らは「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼んでいる。このような相対性を許容できる点は、デネットの思考をサポートする上での大きなメリットだと言える。なぜなら彼は三種類の実在的パターンがそれぞれ実在物だと述べているからだ。 

4.3 ITSR vs Dennett

 しかしながらITSRはデネットの立場と完全に同じものだとは言い難い。デネット(1991b)では抽象化されたものとその抽象化の対象、abstractaとillataが区別されている。abstractaは例えば志向的パターンなどを指し、illataは物理的パターンを指す(Ladyman & Ross 2007)。ただしここでいう物理的パターンが「物理姿勢」によって見出されるものかどうかは一つの問題である。物理姿勢はあくまで「民間物理学」を構成するもので、レディマンたちが想定する現代の物理学には相当しない。それゆえにここでのillataは物理姿勢で見出されるパターンではないと言える。
 ITSRの叩き台であるRoss ”Rainforest Realism”(2000)ではデネットにおけるこのabstracta/illataの区別は廃止されるべきだと述べられている。

私はabstracta-illataの区別を廃止するという小さいコストによって彼[デネット]は自身の特別な種類の反還元主義、自然主義実在論を無矛盾な全体として織り上げる存在論的なテーゼを手に入れることができると論じてきた(Ross 2000)

この区別を廃止することでロスの立場はそれぞれのパターンに関して同程度の実在性を認めている。それゆえにITSRにおける存在論のスケール相対性はそれぞれのスケールに同程度の実在性を認めることになる。
 それに対してデネットは以下のように述べる。

厳密に言って、これらのパターンの理想化された描写はそれらが過度の単純化であるために何ものも記述してはいない。しかしそれらは乱雑な現実に対して便利な抽象化を課す。ノイズの多いデータの非可逆圧縮は抽象物を生み出すのだ。(Dennett 2000)

志向的パターンなどのabstractaはillataからノイズを無視して「非可逆圧縮」(抽象化)することで構成されている。しかしだからと言って志向的パターンが実在しないということにはならない。なぜならそれらのパターンはノイズを除去しているとはいえどもillataの一側面に他ならないからだ。それゆえにabstractaも「実在的」パターンと言えるのだ。また投射可能性についても成り立つことになる。しかしノイズを無視していることから100%の予想の成功は見込めない。その度合いはノイズを無視する閾値の高さに応じて低くなるだろう。 
 デネットはなぜこの二者の区別を必要としているのか。それはおそらく”Darwin’s Dangerous Idea (1995)”などで言われる「漸進主義(gradualism)」という発想を擁護したいためだと思われる。漸進主義では私たちの意識などがアルゴリズムへと還元できると主要されているが、志向的パターンが非可逆圧縮のパターンならそれはより下位のスケールのパターンとトークン対応もしない(弱い還元主義が成り立たない)。それゆえに還元主義が成り立つillataの世界を想定する必要があるのだ。
 日常的イメージの対象である実在的パターンがabstractaであるならば、日常的イメージにおけるSRは厳密にOSRだと言えるものではなくなる。しかしながらillataが完全に不可知であるわけでもないためESRであるわけでもない。ただITSRの語彙は日常的イメージの内実を解き明かすために非常に有用だと言えるため、そのまま採用したい。それゆえにこのSRは情報理論的に定義されながらも存在論的にはOSRとESRを折衷した立場となる。
 

4.4 日常的イメージにおけるSRのメリット

以上から日常的イメージというものを捉えると、それは実在的で情報理論的な構造(abst-racta)からなるイメージということになる。デネットは例えば以下のように日常的イメージの対象が個物であるような言い方をしばしばするが、この観点からはこの言い回しはミスリーディングであると思われる。

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

本当に日常的イメージが実在的「パターン」から構成されていると言いたいなら、デネットはSRにコミットすべきである。
 以下ではフレンチの提示した二つのモチベーションに即して日常的イメージにおいてSRを採用するメリットをより詳しく見たい。これらの点から私は日常的イメージにおいてもSRを採用すべきだと考える。第一に悲観的帰納法への論駁について、日常的イメージにおいても理論変化は起こりうるとデネットは考えている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自信の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

この例で言えば、過去貨幣だと考えられていたニッケルや銀のドルは現在貨幣だとは考えられなくなっている。ここでフレンチが提示した遺伝子の例と同じような悲観的帰納法を考えることもできるだろう。つまり貨幣について存在論的な不連続が発生しているのだ。しかし日常的イメージにおいてSRを採用することでこうした問題は解決できる。なぜなら遺伝子の例と同じようにこの貨幣の存在もまたその機能から定義され、どのような素材によって個別化されているかは存在論的な問題にならないからだ。
 また志向姿勢における理論変化について、デネットが論じるクオリアの「消去」がそれに該当すると私は考えている。私たちの心理的表象における説明から非物理的な感覚質といったものが消去されたとしても、SRを採用する限りで存在論的な不連続は回避される。
 第二に過少決定について、特に該当するのは上で挙げた「逆転クオリア」の場合だろう。また遺伝子が日常的イメージの対象であるかは別として、設計姿勢において見いだされたパターンにも過少決定の問題は生じうる。それゆえに日常的イメージにおいてSRを採用することにはこの問題を回避するというメリットがある。

5. 結論

 本稿では構造実在論の紹介とESR/OSR二つの立場、またSRの特殊科学への応用を見た。その上でデネットがいう日常的イメージにおいて展開すべきSRはITSRをabstracta/illataの区別を保存しながら少し修正した立場であることがわかった。そしてそのようにしてSRを採用することで、日常的イメージにおける⑴理論変化前後での存在論的不連続⑵形而上学的過少決定がそれぞれ回避できるというメリットがあることを見た。

参考文献

  • Boyd, R. (1990). Realism, Anti-Foundationalism and the Enthusiasm for Natural Kinds. Philosophical Studies, Vol. 61 , pp. 127-14. https://philpapers.org/rec/BOYRAA
  • Ross, D. (2000). Rainforest realism: A Dennettian theory of existence. Dennett's Philosophy A Comprehensive Assessment. D. Ross, A. Brook, and D. Thompson (eds.). MIT Press.