夏季合宿での発表『アナログ的な世界について』

大学院の夏季合宿で『アナログ的な世界について(About the Analog World)』という題で発表をした。先生方からいろいろとコメントをいただいたのでそれを思い出したり検討したりするついでに原稿とスライドを丸上げしておこうと思う。原稿はこの記事にそのまま載せ、スライドは以下のリンク先にアップロードしてある。
www.academia.edu

1. はじめに

 本稿での私の中心的主張は「世界はアナログ的だ」というものである。そのことを以下のような根拠から主張したい。すなわち、世界をアナログ的だと考えることにはいくつかの問題を解決できるというメリットがある。そしてメリットがあるならその理論を受け入れて良い。ゆえに私は世界はアナログ的だと考える。この主張を明確化するために、まずデネットの三つの「姿勢(stances)」「デジタル化(digitization)」などの議論を参考にデジタル/アナログという用語法について明確化する。次にアナログな世界が存在すると想定するメリットについて説明する。そのメリットとは生物学の哲学における「粒度問題(grain problem)」と呼ばれる問題を解決できる点と、デネットのいう「明示的イメージ(manifest image)」上での存在論を洗練することができるという点である。

2. 「リアルパターン」と「デジタル化」

2.1 リアルパターン(Real patterns)

 ”Real patterns”(1991)でデネットコンウェイの「ライフゲーム」を用いて三つの「姿勢」を説明している。ライフゲームとは以下の四つのルールに基づいてマス目(セル)が黒くなったり白くなったりするゲームである。

誕生 : 死んでいるセルに隣接する生きたセルがちょうど3つあれば、次の世代が誕生する。
生存 : 生きているセルに隣接する生きたセルが2つか3つならば、次の世代でも生存する。
過疎 : 生きているセルに隣接する生きたセルが1つ以下ならば、過疎により死滅する。
過密 : 生きているセルに隣接する生きたセルが4つ以上ならば、過密により死滅する。
ライフゲーム - Wikipedia

以上のライフゲームを支配する法則を見る視点は「物理姿勢」である。またその法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダー銃」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。

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(ゴスパーのグライダー銃 https://ja.wikipedia.org/wiki/ライフゲーム

そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 そしてこのことはライフゲームに限らず私たちの認識対象全てに当てはまるものである。例えば生物の器官や有機体は一つのデザインのパターン、つまり「デザイン姿勢」において私たちに見出されるパターンとして存在している。他にも動物や人間の意図的な振る舞いは「志向姿勢」によって予想され、それが「民間心理学」として普及しているのだ。これらの姿勢はそれぞれのレベルでの対象の振る舞いを予想する上で役に立つ。仮に人間の振る舞いを脳神経の発火の様子から予想しようとすると、計算的なコストがかかりすぎそもそも予想が終わる前に行動が始まってしまう。だから大きなスケールの現象は適切なレベルのパターンによって説明、予想することが合理的なのである。それゆえにこれら諸姿勢は進化のプロセスの中で身についたものであるとデネットは主張する。またそれらはセラーズ(1963)のいう「明示的イメージ(manifest image)」を構成するものでもある。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものである。(中略)したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 そしてデネットは「明示的イメージ」上にあるこれらのパターンが存在論的に存在する「リアルパターン」であると主張している。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 この考え方はすなわち、志向姿勢において見出される信念や志向性というものがプラグマティカルに想定されるだけでなく、実在物であるということを意味する。しかし私はこの考え方には多少の問題点があると考えている。この点についてはのちに説明する。

2.2 デジタル化(Digitization)

 “From bacteria to Bach and Back”(2017)においてデネットは「デジタル化」という概念を導入している。これは例えば個々の言葉のトークンから抽象的な言葉のタイプを抽出することである。トークンは言葉の場合ならフォントや発音などの連続的な差異を含んでいて、一つとして同じものはないアナログ的なものである。反対にタイプは繰り返し可能なパターンとして現れてくる。

連続的な現象を非連続的な、全か無かの現象へ強制的に整理すること、これはデジタル化の核心である。[~]チューリングが述べたように、自然の何物も本当にデジタルなわけではなく、連続的な種差が存在する[~]。(Dennett 2017)

 三つの姿勢を持つことは小さいスケールから大きいスケールへと垂直的なレベルの差異を設定することである。それに対して「デジタル化」では同じサイズのトークンからタイプが抽出されるので水平的だと言える。しかし三つの姿勢によって見出されるパターン同士もアナログに連関していると考えることができる。つまりパターン認識についても本来無限の中間段階が存在して連続的な差異が考えられるのに、物理、デザイン、志向の三つの非連続的レベルが認識されているのである。それゆえこれも同様にデジタル化と呼ぶことができ、区別のため前者を垂直的デジタル化、後者を水平的デジタル化と呼ぶことにする。
 デジタル化される以前の世界、つまりデジタルなパターンの背後にある世界はアナログ的だと考えられる。トークンはそれぞれが無限の差異を持っていて同じものは存在しない。また三つの姿勢で見出されるパターンはそれぞれのスケール間に連続的な中間段階を含んでいると考えられる。しかしこのアナログに連関した世界を直接経験できるかどうかは定かでない。それでも私はここであえて世界はアナログ的であり、個的対象はデジタル的に考えることは誤りであると主張したい。なぜならデジタルな対象が非連続的で固定的だと考える立場では以下に見るような「粒度問題」といった問題が生じるからである。

3. 粒度問題(grain problem)

3.1 生物体/相互作用子

 生物個体とはなんだろうか。生物の進化という文脈において個体を定義することは難しい。例えば蜂などの社会性昆虫は個体ではなく群れのレベルで選択される。そのためこの群れを選択の単位、つまり生物学的な個体と呼ぶことも可能である。しかし蜂や蟻などの個々の生物体を個体と呼ぶこともできる。反対に群れよりもさらに大きな生態系そのものが選択と単位と考えることもできるかもしれない。つまり個体(選択の単位)は視点に相対的なのである。
 それでは遺伝子の塩基配列に対する「相互作用子(interactor)」から選択の単位を定義することができるのではないだろうか。しかしドーキンスの言う「延長された表現型」を考えるなら、遺伝子の表現型は生物体のみとは限らない。例えばビーバーの作るダムなども遺伝子の表現型として考えられる。それならばダムを含めたビーバーの生活全体が選択の単位(個体)となるのだろうか。これは直感に反するように思われる。結局はSterelny & Griffiths1999で述べられるように、相互作用子は視点、つまり「デザイン姿勢」に相対的に設定されるものに過ぎない。

デネット的な見方は生物学的なシステムはどれも、予想上または発見上有益であるようなそれについての「相互作用子姿勢」であるという限りにおいて相互作用子である、ということを提案している。(Sterelny & Griffiths 1999)

3.2 粒度/パターン

 ゆえに生物個体を有機体や遺伝子/相互作用子の対応から定義することは難しい。SterelnyとGriffithsは”Sex and Death”(1999)においてこれらの問題を「粒度問題(grain problem)」と呼んでいる。見方によって単位の大小は変動するが、どの大きさの単位が正当なものであるか決定することは難しい。そして私はこの粒度問題はデネットにおける「リアルパターン」の相対性から生じる問題であると考える。
 また生物個体という単位は「デザイン姿勢」を投影されることで見出されるものである。様々なスケールの「姿勢」を持つことができるために、私たちは様々なスケールの「粒度」を設定することができる。例えば細胞という単位、臓器という単位、個体という単位、個体群という単位、さらには生態系という単位などが考えられる。
 世界がアナログ的であると主張することは、これらのパターンが大きいレベルから小さいレベルまで連続的だと考えることである。確かに私たちが持ちうる視点は限られていて、これらの諸パターンが離散的に、別々のものとして存在しているように感じられるかもしれない。しかしそう考えるとレベルの間で還元や統一ができなくなる。だからアナログ的に繋がっているものを視点の違いによって離散的に解釈しているのだと考えるのである。
 デジタル化されたパターンが固定的な単位であると考えると、生物個体とは何かという問いに対して一意的な答えを用意しなければならなくなる。しかしそのパターンは相対的な視点によって見出されるものであることを認めれば、粒度問題に対して一つの答えを出す必要がないということになる。そして視点に相対的な諸パターンの内どれを説明に用いるのかについては、有用性という観点から決定される。例えば人間などの複雑なシステムの振る舞いを「志向姿勢」によって解釈することが適切なのは、それが人間の振る舞いを予測する上で有用だからである。

4. 漸進主義としてのダーウィニズム(Darwinism as Gradualism)

 “Darwin’s Dangerous Idea”(1995)においてデネットダーウィニズムは漸進的プロセスであると述べている。

どれほど唐突に断絶が発生して私たちの祖先が突然デザイン空間に現れようとも、奇跡や「期待される怪物」でない限りそれは自然淘汰圧のもとでの漸進的なデザインの発達である。(Dennett 1995)

デネットダーウィニズムアルゴリズムの集積であると考えている。またその上で我々が語るデザインを二つに分類している。それは「スカイフック」と「クレーン」であり、まずスカイフックは以下のように定式化される。

スカイフックは「精神が先行した」力やプロセスであり、あらゆるデザインやデザインに見えるものは究極的には精神を欠き、動機を持たない機構の産物だという原理の例外である。(Dennett 1995)

反対にクレーンはこの「精神を欠き、動機を持たない機構」つまりアルゴリズムによって構成されるものである。
 ダーウィニズム上で考えられるデザインはすべてクレーンであり、そしてクレーンはアルゴリズムに還元可能でなければならない。これは自然界に現れるすべてのデザイン、単細胞生物から私たち人間に至るまでが連続的、つまりアナログなスペクトラムの中に置かれるということだ。そして私たちはそのアナログな世界から三つの姿勢を用いて様々なパターンを見出している。 
スカイフックは段階主義としてのダーウィニズム上では認められないデザインである。しかしこのスカイフック、例えばある種のデザインを意図的に設計する神であったり、物質とは別の実体である(つまり物質と同じようにアルゴリズムに還元できない)魂が明示的イメージ上に存在していると主張することができるかもしれない。この場合、明示的イメージ上のものが実在すると主張するデネットはこれらスカイフックも実在物と認めなければならなくなるのだろうか。デネットは明らかに無神論者であり反二元論者であるから、物理的に還元できないこれらスカイフックの実在を認めるとは考えられない。ならばどのようにしてデネット存在論からこれらスカイフックを排除することができるのだろうか。
 私は「世界はアナログ的である」と主張している。つまり私たちの明示的イメージ上にあるパターンがどれほど離散的に見えてもそれらはアナログ的に連関しているのだ。スカイフックはそれ以外の世界とデジタル的に断絶している。この事実から、段階主義としてのダーウィニズム上ではスカイフックの存在は認められないのだ。ここで世界がアナログ的だという想定によって明示的イメージ上の存在論を制限する。つまりデジタル的に見えても実際はアナログ的であるようなもの以外に実在性を認めないのである。このことによって明示的イメージ上の存在論からスカイフック、つまり純粋にデジタル的なものを排除することができる。

5. 結論

 本発表では「世界がアナログ的である」と考えることの二つのメリットを紹介した。それは第一に「粒度問題」を解決(ないし回避)することができるという点と、第二にからスカイフックを明示的イメージから排除することでデネット存在論の問題を解決できるという点である。しかし依然としてアナログ的な世界に対する認識論は不足している。ゆえに私はここでは「世界がアナログ的である」と単に想定するにとどめている。

頂いたコメントとその検討

  • 量子論で考えられるような世界はデジタル的である

量子論にそこまで詳しくないのでこの点に関してはさらに調べてみる必要があると思う。ただしここで世界がアナログ的であると言っているのは形而上学的な想定であり、それと量子論の世界観は果たして一致するのかという問題もある。量子論で考えられる世界観が即形而上学的な世界観を構成するというのは物理主義に偏重している気もする。量子論というか物理学はこの発表でいう「物理姿勢」が投影されて見出されるパターンであるから、それはすでに「デジタル化」されてしまった物であるとも考えられる。

  • 個体のスケールの問題と心身問題は別

つまり個体のスケールの問題は「デザイン姿勢」ないでのスケールの問題で、心身問題、つまり「物理/デザイン姿勢」と「志向姿勢」の連絡はまた別の問題である。この点についてはいろいろなことを大雑把に語りすぎてしまったという反省がある。もう少し論点を絞ったほうが良かっただろう。

  • スカイフックの例としての人間のデザイン

魂や神というものは世界がアナログ的だということで排除できるかもしれないが、人間が作るデザインはどうだろうかというコメントである。しかしデネットは"From Bacteria to Bach and Back"で人間の「知的デザイン」もダーウィニズム的な、アルゴリズムに還元可能なプロセスとして扱っているから、これがスカイフックだとは一概には言えないと思う。ただこの点にもっと焦点を当てて議論するとより良いかもしれない。

  • 遺伝子がデジタルなものだと考えるから進化が可能となる

確かに遺伝子がアナログにつながっていると考えると自然淘汰の単位として機能しないだろう。そして種というものも(大部分は)相互に交配不可能なデジタルな単位である。つまりダーウィニズムの本質としての「漸進主義」と世界がアナログ的であることは別の話なのである。おそらくデネットがここで重要だと考えているのはレベル間の還元可能性であり、そこに世界が垂直的にアナログ的だという想定は必要ない。だからこの還元可能性の方に焦点を当てた方がいいかもしれない。私が念頭に置いていた「線引き問題」、つまりデザインと志向性などの間の境界線を決めることが難しいことは、世界がアナログ的であることを含意しないとも考えられる。なぜなら実際に世界はデジタル的に様々なレベルを持っているが、それを私たちが認識できないだけかもしれないからだ。この場合世界がデジタル的でもそれらが相互に還元可能ならデネット的には問題ないだろう。

  • デジタルな認識がなぜうまくいくのかを検討した方がいいのではないか

この発表ではデジタルな認識は単にプラグマティカルに有用であると述べるにとどめていたが、確かにその点を持って掘り下げてもいいかもしれない。今後の指針としていきたい。

参考文献

  • Richard Dawkins

The Selfish Gene 30th anniversary edition (Oxford University Press) 2006

  • Daniel C. Dennett

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
http://ruccs.rutgers.edu/images/personal-zenon-pylyshyn/class-info/FP2012/FP2012_readings/Dennett_RealPatterns.pdf

Darwin’s Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life (Simon & Schuster) 1995

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

  • Kim Sterelny, Paul E. Griffiths

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations series) 1995
[asin:0226773043:detail]

  • Wilfrid Sellars

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963