Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第6章
この記事ではDennettの"Elbow Room"の第6章「「別のやり方もできた」("Could Have Done Otherwise")」の本文要約とコメントを書いていく。
第1章、第2章、第3章、第4章、第5章については以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com
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本文要約
6 「別のやり方もできた」("Could Have Done Otherwise")
1 私たちは別のやり方もできたかどうかを気にするのだろうか?(Do We Care Whether We Could Have Done Otherwise?)
自由意志について見解の分かれる中で、行為者がある行為に責任を持つためには行為者がその行為を控えることができたという信念が必要であるという点については広く同意が得られている。
これまでの章で私はこの「別のやり方もできた(could have done otherwise)」原則についての意見を表明してこなかった。
まずはこの原則が単純に間違っていることを示し、しかるに「できる(can)」という言葉の意味についての残余の問題に取り組みたい。
自由意志と決定論が共存すると示さねばならない両立論者は「別のやり方もできた」が一見したところの意味を持っておらず、決定論によって否定されるこの言葉の意味が自由とは無関係であると主張する。
しかしこれが懐疑論的見方対しての苦しい弁解であることは明白だ。
私は「別のやり方もできた」が何を意味していようとも、行為が自由で責任のあるものかどうかを考える際に関心の対象となるものでないと論じたい*1。
フランクフルトは「別のやり方もできた」原則の反例として、行為者が熟慮の上で行動を選択したが、彼の脳を操作する脳科学者が彼がその行為を選択しなかった場合はそれを強制したという例を挙げている。
この場合行為者は彼の行為に責任を持っているが、別のやり方は可能ではない。
この反例によって「別のやり方もできた」原則が間違っていることは示せても、この事例が特殊なので原則を守る者に修正の機会を与えてしまう。
つまり人がある行為を控えることができなかったなら、彼は責任を持たないという原則が生まれるのだ。
しかし、これから見ていくが、人が別のやり方ができたか否かが気にすることはほとんどないし、気にする時もそれはほとんど責任について伝統的なものとは反対の結論を引き出したいからなのである。
ある人が「他に何もできない」と言う時、それは理性の指導によって彼の意識がその行為を撤回することを不可能にしている場合がある。
これは彼は他に何もできないと考えることによって私たちが彼を非難や賞賛の対象から外さないということを示している*2。
彼が何をしたとしても、彼は責任を回避しようとはしていないのだ。
「別のやり方もできた」原則の支持者は全く同じ環境において別のやり方もできたということを主張するが、だいたい同じ環境にあっても別のやり方のできない事例が存在する。
例えば千ドルあげるから罪のない人を拷問して欲しいと言われても、その勧誘がどんな声の調子で行われても、私がどれほどお腹が空いていても私はそれを行うという選択肢を持たないだろう。
これが正しいとしてもこのような私の拒絶が責任のある行為でないと考える人がいるのはなぜだろうか?
それは私はこの申し出を拒絶するようプログラムされたゾンビかもしれないからである。
もし私が理性の声を聞くことができるなら、柔軟に物事の両面を見るべきで独断的であってはならない*3。
また、常に物事の両面を見るためにはどんな特定の事例においても「別のやり方もできた」と言えなければならない、と彼らは考えるだろう。
だが柔軟であるための一般的な能力は特定の事例で「別のやり方もできた」ことを必要とはしない。
それが必要とするのはその環境において人が幾つかのバリエーションを持って他のやり方をしたかもしれないことだけなのだ*4。
私たちは道徳教育などの先だった努力によって、自分がしたかもしれない(would have done)非道徳的行為が考えられない(できない)ようにする。
責任のある人間であることには自分が非難に値するような行為をできないようにしておくことも含まれるのではないか*5?
そしてまた、もし責任が別のやり方もできたかどうかという問いに依拠しているなら、人が責任を持っているかどうかが誰にもわからないという奇妙な問題に直面することになる。
量子論的なレベルでは物事は決定されていないが、脳においてその効果を打ち消して行為が決定されているかもしれない。
脳の構造はあまりに複雑なので決定されているか否か決める証拠を見つけることはとてもできそうにない。
ゆえに責任を持っているかどうかを意思決定が因果関係によって決定されているかどうかに基づかせてしまうと、私たちが特定の行為が責任のあるものだと信じるどんな理由も持ちえない公算は非常に高くなる。
人が本当に関心を持っているのは別のやり方もできたかどうかではなくて、答えることができその答えが重要であるような問いだ。
ある機会において人が別のやり方ができなかったということを知ることで、その人の性格を知ったことにはならない。
なぜなら人は学んだり、記憶したり、飽きたり、別のものに注意を向けたりするために全く同じ心理的もしくは認知的状況に置かれることはないからである。
ゆえに全く同じ状況で別のやり方もできたかどうかという問いの答えは、世界の道行きになんらの違いも生み出さない。
2 私たちが気にしているもの(What We Care About)
別のやり方もできたかどうかが関係なさそうだとしたら、私たちは本当は何に対して関心を持っているのだろうか?
決定論的ロボットMarkⅠを再び登場させてみよう。
ある日、そのロボットが誤って大切なものを壊してしまったとしたら、設計者はそのロボットは他のやり方はできなかったのか、と問うことになるだろう。
当然そのロボットは決定論的なので、設計者が問題にしているのはロボットの設計である。
彼らはこのような出来事がより起こりにくいように再設計することを望む。
しかしこのロボットは発見学習的な手続きを最大限活用していて、その時は不運にもそれが失敗につながっただけなので、ロボットのシステムを改善することはできない。
そして同じ状況に置かれたとき擬似乱数生成機によって違う行動が生み出され、それは多くの場合は正しい行動なのだ。
さらに言うならそのロボットは正しいことができた(could)。
これが意味するのはそのロボットは正しいことができるようよく設計されていた(その「性格」は非難されない)ということだ。
このような失敗は設計者がそのシステムが「別のやり方もできた」事例に数えるものの唯一の例ではない。
例えば埃がシステムを妨げて誤りを犯す場合があるが、このように些細な事例に対して設計者はそれを防ぐようシステムを再設計しようとは思わないだろう。
最もよく設計されていることと間違いを犯さないことの間には違いがあるのだ。
このような事例は常に存在していて、目標となるのはコストパフォーマンスの制約下でそれを最小にとどめることだ。
ゆえに設計者はシステムが誤りを起こしたときそれがシステム上の弱点を示す繰り返されうるものなのか、繰り返されない偶然のものなのか問うことになる*6。
私たちが別のやり方もできたのではないかと問うのはなぜだろうか?
ある行為が行われると、私たちはそれがどのように為されたのか、なぜ為されたのか、それにどんな意味付けを行うべきかを知りたいと思う。
すなわち別のやり方もできたのではないかという問いが起こるのは、その行為から未来についてのどんな結論を引き出すべきか知りたいと望むからである。
その問いかけから分かるのはそのような行為を行った者の性格である。
また、この問いが自分の行為に向いたとき、この理由付けはより明確となる。
自分が何か恐ろしい行為をしたとして、全く同じ状況で同じことを行うかどうかを誰が気にするだろうか?
この問いかけによって自身の性格を知り、同じ過ちを犯さないように思考の習慣を調整したりすることができる。
これがロボットの設計者のシステムの脆弱性に対する態度の自己適用版である。
健全な自己制御者は自身の過ちを事故として片付けるのではなくそれに責任を持つ。
それによって将来事故の被害者となる可能性を少なくするのである。
3 虫の「できる」(The Can of Worms)
これらの考えは最後の懐疑論的指摘を招く。
それは、決定論が正しければ起こった出来事は何であれ起こることが可能だった唯一の出来事であり、自分の性格を改善する自己制御者のあがきは意味をなさないというものだ。
それが正しいなら人が行ったことは常に最善で最悪のものである。
さらに回顧的な判断や評価も意味のないものとなる。
なぜなら起こった出来事はすべて起こりえた出来事と同じくらい良く、そして悪いものであるからだ。
ゆえに「別のやり方もできた」原則を捨てたとしても、決定論においては私たちは実際に行った事以外何も為しえないという問題が残っている。
この事から得られる結論は、どの水素原子とも結合しない酸素原子はそう決定されているために、それが水素原子と結合する事は物理的に「不可能」だという事である。
エイヤーズは決定論のこの含意を実際のものだけが可能であるという意味で「実際主義(actualism)」と呼んでいる。
しかしこれは間違いであり、以下の短い論証から決定論自体の反証も得られる。
すなわち酸素原子は2の原子価を持っていて二つの水素原子と結びつき水分子を形成する事が「できる」ので、決定論は間違いである。
ゆえに「できる」という言葉を使う事で実際の物事の周りに余裕を作っておく事が必要である。
そして「できる」という言葉の意味を人間の自由や社会科学だけでなく生物学や工学、そして統計や確率論に依拠するあらゆる分野のために知る必要がある。
例えば生物学者はある種の特徴が他の「可能な」特徴より優れていると言う際に何を意味しているのか?
進化における適応の傾向を記述する際に私たちは良いものとして選択されたデザインと他の「可能な」デザインを区別する。
例えば足の短い馬や模様のないキリンなどといった存在しないが可能な種はたくさんある。
また確率論で私たちはコイントスを表と裏の二つの可能な結果を持つものとして扱い、重力に反して上に飛んで行ったりする可能性は不可能だとして除外する。
このように人はどこを見ても物事のどんな結果が可能でどんな結果が不可能(論理的に不可能ではない)なのか主張する根拠を見つける。
オースティンは「「もし」と「できる」(Ifs and Cans)」の中で「別のやり方もできた」を「もし…なら別のやり方をしたかもしれない(would have done otherwise if…)」と定義しようとしている。
そこでオースティンは「Xができる」は「もしやってみたらXをすることに成功するだろう」そして「Xができた」は「もしやっていたらXをすることに成功しただろう」を意味していると主張している。
しかし彼は現代の科学ではそのような主張は受け入れられないだろうと述べている。
だがこの行き詰まりは現代科学での「できる」が伝統的な行為者性の信念と同じである必要があるという幻想である。
私たちは何かが「できる」という時、細かい状態ではなくもっと一般的なものに関心を向けているのだ。
この点はオノレのオースティンの論文への批判的注釈でよく表されている。
そこで彼は私たちは「できる」の二つの意味、「できる(特定)」と「できる(一般)」を使い分けていると主張している。
そして特定の意味はほとんど退化して「だろう(will)」とほとんど同じで、過去形なら成功を記述する際にしか使われないという。
より便利な概念が「できる(一般)」で、行為者の場合は能力に帰属させたり、動かないものの場合は5章で議論された潜在的状態に帰属させたりする。
しかしこの「できる」の意味は認識論的な概念であり、自己制御者が物事の状態を区分することで生まれてくる。
哲学の伝統では可能性を幾つかの種類に区分してきた。
(a)論理的な可能性:無矛盾に記述できるもの
(b)物理的な可能性:物理法則に反しないもの
(c)認識論的な可能性:ある人が知っていることと矛盾しないもの
哲学の伝統では認識論的な可能性を他のものと区別して無視してきた。
しかしこれが「できる」の謎を解く鍵となるのである。
「できる」の便利な概念、個人的な計画や熟慮だけでなく科学にも基づく概念は可能性の概念である。
そしてそれは一見に反して基本的に「認識論的な」概念なのだ。
スロートはこの概念を「偶然の」出会いの例によって説明している。
ジュールズが彼の友人ジムに偶然銀行で出会った。
それは偶然のように思えるがジュールズが銀行にいるのもジムがそこいるのも予定通りで偶然ではない。
この時ジュールズが時点tにLにいることもジムが時点tにLにいることも偶然ではないが、ジュールズとジムが時点tにLにいること、これが偶然なのだ。
彼らの予定を知っている私たちはこの出会いを予言することができ、彼らの出会いは偶然ではない。
しかしこれは物事の能力がそれが実行される初期状態や背景から独立であることを記述する必要がある偶然性の概念に過ぎない。
例えば虫が鳥に見つからないような模様を持っていることは偶然ではないし、鳥がその虫を捕まえる遺伝子を持っていることも偶然ではない。
しかしその鳥が虫を実際に捕まえることは偶然である。
そしてこのような偶然の積み重ねによって虫と鳥はデザインされてきた。
すなわち自然選択が起こる「可能性」が生じたのである。
生物学者のジャック・モノーは進化における機会、彼のいうところでは「絶対的偶然」の重要性を著している。
その絶対的偶然とはラプラス的世界における運命を認めない限り存在する偶然のことで、そこでモノーは実際主義の罠に陥っている。
ラプラスの世界が決定論的世界を意味しているならモノーは間違っていて、自然選択は「絶対的」偶然を必要とはしない。
自然選択にとって「本質的」ランダム性も完全な独立性も必要ではなく、必要なのは実践的な独立性、ジュールズとジムのようにそれぞれの軌道にありながら「単に偶然に」交差することなのだ。
なぜなら進化が必要とするのは素材のパターン化されない生成器であり、原因のないそれではないからだ。
プロセスにおいて「本当の」もしくは「客観的な」量子論的もしくは数学的ランダム性が必要とされたり、検知されたりするのかははっきりしない。
ハードウェアコンピューターにおいて、本当にランダムな数列が用いられているか擬似ランダム数列が用いられているかが違いを生み出すのだろうか?
実際の動作上はそれは何の違いも生み出さないのである。
しかし実践上の不可分性は本当の、客観的な可能性ではない。
いわゆる古典物理学もしくはニュートン物理学は決定論的だが、ニュートン的世界のどんな事象でも予測することはできない。
なぜならその予測は無限に正確な初期状態の観察を要求するからである。
ゆえにピンボールの動きでさえも限界のある観察者にとっては予測できないものである。
この結果は「単に認識論的」なものであり、これは自由意志にどんな作用を及ぼすのだろうか?
それは以下のようなことだろうと私は考える。
すなわちカオス的なシステムは世界を混ぜ返して度重なる機会を生み出す物の「実践的」独立性の源泉なのだ*7。
そしてこれは私たちの認識論的限界についての事実ではなく、世界そのものに当てはまる事実なのだ。
これによって得られる機会は私たちの機会であるだけでなく母なる自然の、例えば酸素原子が水素原子と結合する機会でもある。
なぜなら局所的に予測可能な「偶然の」衝突を予測することができるような高次の視座は自然のどこを探しても存在しないからである。
安定したものとカオス的なものという物事の特徴の区別は統計的もしくは確率論的に扱わなければならない。
そしてこの区別は私たちだけのものではない。
母なる自然は擬態する虫たちが虫を食べる鳥と出会う可能性を持っていることを知っているので、虫を鳥に見つからないようにデザインした方がいい。
これが彼らによりよく行動する力を授けるのである。
コメント
第6章では「別のやり方もできた(could have done otherwise)」ということが自由意志の条件であるという主張への反論が展開されている。
この主張を鵜呑みにすると、別のやり方ができない決定論的世界では自由意志は存在しないことになってしまう。
ゆえに世界が決定論的だとしても自由意志の存在を主張したいデネットとしてはこの原理を突き崩すことが必要となってくる。
第1節ではそもそも私たちが自由や責任について考える際に「別のやり方もできた」ことが必要ないということが説明されている。
非道徳的な行為を「できる」ことは決して道徳的なことではない。
そして自由のために必要なのは「したかもしれない(would)」ことであり、非道徳的な行為を「できない」ようにしておくのが道徳的なのだ。
第2節では「別のやり方もできた」かどうかを問うことで私たちが知りたいことがなんなのか説明されている。
それは自分の性格を知ることであり、これは第4章で登場した自己評価=自己定義と重なってくる行為だ*8。
そしてそれによって自分の性格を修正して第1節で見たような非道徳的な行為を「できない」ようにしておくことが可能となってくる。
またこの自己修正のプロセスは同じく第4章で登場した漸進的に責任のある人間となっていくプロセスのことを表現しているのだろう*9。
3節の内容は事象が予測できなことから認識論的な可能性が生まれるという話から始まって、そのことから人間以外が持つ可能性までもが確保されるに至った。
実際に起こる出来事しか起こりえないという実際主義は決定論を考える際に陥りがちな考え方だが、それは可能性という概念をよく考えることで回避できるとデネットは言う。
どれほど高次であっても有限な観察者からすると世界の事象は予測できないものであり、それらは物事の状態を確定的に予測するのではなく可能性の形で保留しておくしかない。
ゆえに「母なる自然」は可能性を加味して生物をデザインするより他にないのだ。
これは擬人法なので正確な言い方をすると、様々な可能性を考慮した形質を持っている方が適応的(淘汰されにくい)だということになる。
またこのように予測ができないことから自然選択が発生する可能性が生まれるので、予測できないことは進化そのものが成り立つ条件でもある*10。
ただよくわからなかったのは酸素原子と水素原子が結合する可能性の話で、これは可能性の概念がそもそも認識論的だから実際主義が退けられて結合が可能となるという解釈でいいのだろうか。
それとも無機物においても「安定なものの生存」という意味で自然選択が行われるがゆえに、結合できる原子が適応的(安定的)で生き残ってきたということなのだろうか*11。
ランダム性の話も分かりづらかったが、これは可能性が認識論的である以上本当にランダムなものと擬似的にランダムなものが認識上区別できないことからどちらでも構わないということだと思う。
認識論上の可能性が重要となってくるという論点は第5章第3節での予測と「不可避」という概念の関係を踏襲しているものと思われる。
結局人間は予測の範囲(思考フレーム)内でしか考えられないので可能性という概念も予測と対応する形で考えていけばいいのだ。
だから自由という概念もラプラスの悪魔的な視点からはなくなってしまうのかもしれないが人間の限られた視点からは存在している。
そして自由が存在してしまうがゆえに私たちは考えることをやめられないとも言える。
ちょうど読んでいた京極夏彦の『鬼談』の「鬼棲」という短編に「恐怖は人間が常に行う予感から生まれる」という話があり、この思考フレームの話とつながっているように思うので引用しておく*12。
「予感は、根拠が何もなくたってするものなのよ。人は、何もなくても何かを感じるものなの。直接的な因果関係がなくたって構わないの。人は常に何かを予感しているんだわ。希望だったり絶望だったり、そういう内面の動きも予感を作り出すわよね。人だけが予感を持つのよ。というか、予感するから人なのよね。一番わかりやすいのは、恐怖ね。」(p188)
「恐怖は、死や暴力そのものではないのよ。死や暴力を受けることを、予感することが恐怖なの。(中略)恐怖というものは、何かが起こる前に感じるものなの。」(p196)
これは人間が常に自分の思考フレーム(予測)の中で生きいて、そうであるがゆえに恐怖が生まれることを示しているのだろう。
常に何かを予感しているという論点は『解明される意識』第1章で夢や幻覚が作り出されるプロセスの説明でも登場している*13。
*1:デネットも決定論と自由意志が両立するという両立主義(compatibilist)である。
*2:理性の指導によって他の行為が選択できない場合にも責任が伴うということだろう。
*3:理性の声を聞くことができる=ゾンビではない
*4:千ドルもらって拷問ができたことが必要なのではなくそうしたかもしれない(実際にはできない)ことだけで要件を満たすということ。
*5:第4章における責任のある人間となっていくプロセスを参照。 re-venant.hatenablog.com
*6:後に出てくる予測できる事象とカオス的な事象の区別を先取りしているのだろう。
*7:決定論的な因果関係からの独立のことを言っているのだろう。実践的には非決定論に扱わなければならないということ。
*8:第4章第2節参照。 re-venant.hatenablog.com
*9:ここは第4章第3節の内容。
*10:第3節の鳥と虫の例を参照。
*11:『利己的な遺伝子』の第1章冒頭に「安定なものの生存」についての話がある。
*12: