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Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第2章

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)

この記事ではDennettの"Elbow Room"第2章「理性を実践的にする(Making Reason Practical)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com


本文要約

⒉ 理性を実践的にする(Making Reason Practical)

1 理由はどこから来たのか?(Where Do Reasons Come From?)

一般的に言われるところでは、意志の自由とは意志が理性の指導(dictates of reason)に全面的に従うことであるという。

カントはこの主張を彼の哲学の中心に据えた。

この章ではその見解の魅力の強さを再吟味し、私たちが現実的にそのような合理性にどう引き込まれるのかを示そうと思う。

どのようにして理性は物質的、機械的な世界に生まれてくるのだろうか?

始まりにおいては原因だけがあり、理性も、目的も、機能も存在しなかった。

それは何者も「関心(interests)」を持っていなかったからである。

複製子(replicator*1が生まれると、私たちはそれらに「自己複製」という関心を認めることができる。

そして関心を持った自己複製子は生存し自己を複製するために「悪い」ものを避け「良い」ものを探すようになる。

自己複製子は自己の関心を守る未熟な守護者となるのである。

そして進化によってその「関心」はより明確になっていく。

アナバチが上手く自分の関心を達成できないのは、関心を持っていてもそれを知ってはいないからだ。

生き物が関心を持つようになると出来事は好ましいもの、好ましくないもの、中立なものに切り分けられ、世界とその出来事はそれに対する「理由(reason)」を生み出す。

最初に生まれたこの理由(理性)はプラトンの形相、純粋に抽象的な存在に似ている。

というのもそれは認識されていたり表象されているかにかかわらず存在しているからだ。

アナバチなどの低級の動物は自分の行為の理由に気づかないが、それはCIAやMI5がいうところの「必知事項(Need to Know)」原則における情報統制に似たところがある。

「必知事項」原則とはそれぞれの人間に自分の役割を果たすのに必要な情報しか与えないという原則のことだ。

母なる自然はそれと同じように理解力の配分において出し惜しみをしているのである。

しかし私たちはそれに反して私たちに関わるすべての理由に気付くことができる。

常に理性の指示に従って自らの行為の方向を選択することができるというのはこういうことなのだろう。

カントは単に理性が指示するすることを行うことと「理性が指示したから」理性が指示することを行うことを区別した。

それは偶然「正しいこと」をするのと理性に駆り立てられてそれを行うことの区別である。

その両者の中間に、行為者がそのようにデザインされたことで正しい行いをする傾向にある(tend to do)が、無意識にそれを行うという場合がある。

以前例に出したアナバチがその例で、アナバチは理性が指示することを行うがそれは理性が指示したからなのではなく、そのようにデザインされているからなのだ。

より発展しているであろう生き物である私たちはどのようにして理性に直接応じることができるのであろうか?

カントの問いを言い換えれば、どのようにして真の合理性は可能となるのだろうか?

2 意味論機関、永久機関、欠陥のある直観ポンプ(Semantic Engines, Perpetual Motion Machines, and a Defective Intuition Pump)

どの反二元論的な連続主義者も「盲目的な」で「機械的な」行為と人間の理性に従い、意味を「掴み(grasp)」、真の「志向性(intentionality)」を持つ能力の間の橋渡しをしていないようだ。

意味が物理的な性質でないなら、どのようにして物理的な機構によって意味を扱うことができるのだろうか?

もしそれが不可能なら私たちは単なる物理的な識別機関ではないということになる。

そして理性もまた物理的な条件ではないから、どの私の行為もが物理的な条件によって引き起こされるならそれは理性によって引き起こされたものではない。

だから理性的でありたいという願いのためには、精神活動が物理的な因果性から解放されていなければならない。

カントは「意志を持つことは自然の原因ではなく理性に動かされることができるということを意味する」と言っている。

しかし精神、意志についてのこの見解は心身二元論の袋小路に行き着く*2

脳の純粋に物理的な能力によって精神活動を説明できるようになったならば、私たちは心身二元論を論破しなければならない。

脳とはなんなのだろうか?

脳は意味を操るもの、情報を処理するもの、そして私の言うところでは意味論機関(semantic engines)*3なのだ。

しかし同時に脳は物理的な器官でもあり、それならば構造的で形式的な性質にしか反応しない構文論機関(syntactic engines)でしかないはずだ。

命題の意味と構文は別のものであるのに、脳はどのようにして構文から意味を得てくるのだろうか?

構文論機関でも憎しみや愛、危険や懐疑論が現れていることを感知することはできるだろう。

しかし機械的に感知されうる構造の連関のどんな性質でも憎しみや愛、危険や懐疑論そのものであることは不可能なように思われる。

意味論機関は永久機関のように不可能なものなのだ!

それならば脳はなんのためにあるのか?

答えは次のようになるに違いない。

すなわち脳は(純粋な)意味論機関の振る舞いの近似に過ぎないのである。

しかし私たちの脳は意味論機関の非常に良い代替であり、それらはあいまいに意味上の変化を感じ取り実際上アナバチ性に脅かされることがないよう巧妙に設計されている。

さらに生物が、アナバチのように環境のパターンを感知するだけでなく、それに対する自己の反応のパターンを感知できるようになると彼らは大きな前進を遂げる。

ある生物は、メタ言語(meta-language)の言明を生み出すことで言語によってそのパターンを構文論的にも意味論的にも記述した*4

進化の過程の中で、脳というシステムの中に実際に意味に直接反応しているかのような錯覚が生み出されるに至ったのである*5

そのシステムは自己改良ができるのでどんどん完全な意味論機械に近づいていく。

しかし自分自身を完全に把握できるシステムは存在しない。

計算機理論における「停止性問題(halting problem)*6」が解決法を持たないことがその証拠である。

私たちは完全でないので少しだけアナバチ的であり、「原理上は」私たちが理性的でないことを示すような馬鹿げた状況に置かれうる。

だからといって衝撃を受けたり落胆することはありえないだろう。

誰が物理的な有限性と計算機理論によって私たちが完全な意味抽出機関であると証明されることを必要とするのだろうか?


哲学者たちはアナバチと私たちは全くの別物で、単に何かをすることと理性に従って何かをすることを対比させてきた。

脳内の因果性は「心理学的」と呼ばれ、その語が自由意志を妨げる「心理学的な決定要因(phychological determinants)」といったように使われる時、その用法はアメリカの子供達が使う「精神病の(mental)」という用法と同じように病的なニュアンスを想像させる。

哲学者たちは時折、行為や決断がある原因によって引き起こされたことからそれが(良い)理由からも引き起こされたものであることが帰結しないという事実を利用する。

しかしながら「全てを知ることは全てを許すことだ(tout comprendre c'est tout pardonner)*7」という格言はこれが間違いだと示している。

これは本当なのだろうか?

私たちが一目で理解出来る因果系列はあまりにも単純なので、因果を理解すること*8で理性的な価値判断と責任の割り当てが排除されるという直観を持つようになってしまう。

これは明白な直観ポンプの誤用の事例である。

私たちが因果律についてアナロジーによって考える時に想定するのは試験管やヒュームが使ったような球だが、それらは高等な動物と違って耳が聞こえないし目も見えないということを見落としがちだ。

実際上、一瞬一瞬周囲のほぼ全てを感じ取り続けている人間が別の場合に全く同じ「認知的状況」に置かれることは不可能である。

3 反省、言語、意識(Reflection, Language, and Consciousness)

私たちが擬似的な意味論機関であるとしても絶対論者たちからするとそれはただの模倣で本当のものではない。

我々が本当のものであると主張するためのどんな理由を人は持ちうるのだろうか?

もし私たちが非常に良い擬似物であるなら、どんな経験的リトマス試験も混同してしまうだろう。

先にアナバチと私たちの違いを述べた際に、意識と無意識の間の断裂をうっかり踏み越えてしまったのではないか?

ここまでで述べられてきた認識や理解は単に「振る舞い上の理解(behavioral comprehension)」とでも呼べるものに過ぎず、これは人間が持つ真の意識的な理解とは別のもののように思われる。

しかし、意識のどんな性質が振る舞い上の理解に付け加わるのか明白ではない。

この明らかな質的な違いは、極端な例に気を取られそれらの間の複雑な違いを無視することで生じたもう一つの幻想ではないだろうか?

意識についての探求において哲学者たちは内観的な方法を採用してきたが、生物学者や計算機科学者は純粋に工学的な、三人称的な方法を取ってきた。

ロックはメタレベルでの意識活動の重要性を知っていて、大切なのは対象についての思考ではなく対象を願っていることについての思考なのだと述べている。

私たちは自身の信念について考えることができるし、それらが望ましいものかどうか考えることもできるのだ。

この反省、メタ思考は意識的な思考なのか、それとも単なる振る舞い上の「思考」、例えば計算機でも遂行できる「情報処理」でありうるのだろうか?

直観的に、動機を意識的に認識する能力は真の自由の必要条件であるように見える。

無意識的な自己意識は可能だろうか?

単なる振る舞い上の擬似理解が意識的な理解や真の指向性に付け加わることはないという人もいるだろう。

しかし私を含めた他の人々は「真の意識」や「本当の指向性」は到達しうる物理的なプロセスの頂上にあるに違いないと考えている。

私自身の直観ポンプを使ってこの見方をより魅力的にしてみたいと思う。

大雑把に言って、進化の戦略には「マジノ線*9」と「ゲリラ戦」の二種類があり、ゲリラ戦略を採用した生物は認識の軍拡競争を繰り広げる。

不完全であっても自身の認識的、意志的状況を「評価」できることは大きな違いを生む。

自由意志について論じたものの中でよく用いられる思考実験では、被験者はその状況を操作するものについての認識を封じられている。

もし被験者が自分を騙している者に気づいたなら、幻想が続いていてもそれを無視することを学んだり、幻想そのものを経験できなくなったりすることでその偽装を打ち消してしまう。

さらに被験者が自分の信念や願望の出自や一貫性について反省する習慣を持つようになると、そのような偽装はほとんど不可能となってしまうのである。


しかし、このような自己観察や自己批判の能力はどのようにして発展するのだろうか?

その詳細は科学の発展を待つとして、ここではもっともらしい「ただそれだけの物語(Just So Story)*10」があれば十分だろう。

ある時、周囲の状況を完全に感知することができるが無意識的な生き物がいた。

その生活はとても複雑なので、「知る必要(Need to Know)」原則を適応すると彼らは自身の活動についても多くを知っている必要がある。

特に種の他のメンバーと協調するために「コミュニケーション」の能力が必要となる。

そして彼らはそのコミュニケーション相手を、双方が何を知っていて何を信じていて何を望んでいるかに基づいて、場合に応じて区別することでより良い結果が得られることに気づく。

さらに相互の助け合いのために、ある個体が助けを求められた時に「役立つ」発言を返す振る舞い上の能力が進化してくるだろう。

ある日、彼らの一個体が自分以外誰もいない場所で誤って助けを求めると、他者の要求に反応する能力が刺激されて、自身が直面する問いに対する答えを見つけ出したのである。

この自己刺激は直接結線されていない認知システムの部分同士の不完全な内的コミュニケーションである。

さて、この「ただそれだけの物語」において生き物は自分自身に対して話しかける習慣を得た。

特に小声の独り言という効果的なショートカットはのちに完全に無言の独り言へと繋がっていった。

こうして様々な無言で私的な独り言という振る舞いが相互に有益なコミュニケーションが発生している社会において進化してきた。

この認識プロセスは社会的なコミュニケーションのように直列的(一度に一つのことしかできない)で社会的な慣習を構成する公的な言葉に依存している。

さて、この単に振る舞い上の活動は意識と呼べるものなのだろうか?

見かけ上この内的な情報処理活動と私たちが考える意識はほとんど見分けがつかない。

私の直観ポンプがうまく動作しているなら、あなたはこの生き物が意識的であると判断したい誘惑に駆られているだろう。

しかしあなたの直感がこの想像された生き物がまだ意識的でないというなら、Strawsonの精神分析家の例を考えてみるとよい。

精神分析の施術者は被験者に彼の行動の意識的な意図について知らせることで被験者の自由を取り戻した。

私たちが今想像した生き物は言語的で反省的な情報操作ができるようになると、被験者と同じように確信し理性的な自己評価ができる。

また理性を表象した時にそれに適切に反応することができる。

これは自由が意識へと達するかどうかがかかっているポイントではなかっただろうか?

4 共同体、コミュニケーション、超越(Community, Communication, and Transcendence)

アナバチとカントが理性的なものとして考えた私たちの間には、自己観察や自己評価以外にもう一つ重要なステップがある。

言語によるコミュニケーションの発生によってもう一つのいかにもな物語、「道徳の起源」が得られるのだ。

ホッブスによるとかつては正しさも間違いもなく、万人の万人に対する闘争が行われていた。

あるとき人々は契約して社会を作り始め、そこで道徳的な正しさと間違いそのものが存在するようになった。

自己複製子の誕生が初めて行為の理由を生み出したのと同じように、この契約によって行為の新しい理由が生まれた。

ホッブスのいかにもな物語は歴史的には間違っていて、社会秩序や言語、意識、道徳の誕生を単純化しすぎている。

しかしこの物語は社会的なコミュニケーションが考慮に値する新しい理由を生み出すことを可能にするということを示してくれる。

理由を表象することによって私たちは、認知システムが遺伝的にコントロールされていない目標を得ることで「自分たちの生物学を超越」することができる。

そして私たち相互の社会的活動こそが、祖先から受け継いだ未熟な関心に優先する価値を作り出すのである。


私たちは他人を説得するだけでなくそれを道徳規定や原理に体系化して、これらの道徳を倫理学的な諸理論に反映させる。

そして「メタ倫理学」を始めてそこでアナバチ性からの自由という問題に対する影響を考え続ける。

しかし、メタ倫理学において価値そのものの価値というものをどのように考えることができるのか?

悲観的な者は、決定論がストローソンが他者や自己に対する「参加者態度」と呼ぶものを損なう恐れがあると主張する。

しかしそれは実践的には想像できない。

私たちがアナバチにとってそうであるような「上位の」観察者が存在するか、存在することができるように考えられても、私たちがたどりついた結論は必ずしも自分たちを貶め困惑させるものではない。

なぜなら想像できないものは不可能なものであり、この上位者を想像することは不可能性を考えることができないということから帰結させる伝統的な推論に反するからである。


自然が私たちに与えた理性は実践的なものだが、それを生み出す生物学的な目的に奉仕することに結びつけられてもいる。

ここまでで見てきたように、理性の特に強力な部分は私たちの言語能力によって生み出された。

一度言語が生まれると、噂話、なぞなぞ、詩、哲学といった生物学的には取りに足らず見当違いな試みが生じる余地ができる。

私たちは進化がどのように理性を実践的にするのかを見る中で、進化がどのようにして非実践的な理性を生み出すのかを見たのである。

我々は自身が物理的な存在であるということと理性的であるということのどちらについても信じるに足る理由をたくさん持っているのだから、必要なのはどのようにしてそうなったのかを理解することである。

完全にカント的な意志は不可能だが、だからと言ってアナバチの苦境に立たされるわけではない。

もしそれで十分でなく自由意志と責任のためにアナバチ性からの完全な自由が要求されるなら、私たちは科学的知見をすべて捨て去るか、敗北を認めなければならない。

コメント

私が思うに、自由意志の問題というのは「理由をもって自由に行為すること」を目標にしている。

理由なしの自由な行為はランダムなものに過ぎず、物理的な理由だけに従うならその行為は機械的である。

これを解決するためには「理由」を物理的な性質とみなさず二元論的に考える必要が出てくる。

それに対してデネットは(二元論が大嫌いなので)唯物論の枠内で「理由をもって自由に行為すること」を可能にしようとしているのだろう。

その方法が脳を擬似的な意味論機関とみなすというもので、それについては2章の2節で説明されている。

擬似的な意味論機関とは見かけ上は二元論(意味論)的に振る舞うことができるがそれを実現するメカニズムは唯物論(構文論)的であるということであり、対立する立場をうまく折衷しているように思う。

ただ、何と言っても究極的な観点からは唯物論であるので二元論を信奉する人々からは反対意見もあるだろう。

しかしながらそのあとで述べられる「全てを知ることは全てを許すことだ」ということわざの間違いという論点を見ると、唯物論的に考えることによって二元論者が考えるように何かが失われるということもないのだろう。

というよりそもそもすべての因果系列を把握することが実際上不可能なのだから、見かけ上意味論的に振る舞えるということで納得する他にないように思う*11


2章1節での、自己複製子の誕生と同時に「関心」が生まれたという論点はデネット『解明される意識』第2部第7章でも述べられている。

また2章3節でのコミュニケーションによって反省的意識が生まれるという論点は、同じく『解明される意識』第2部第7章でも展開されている。

この辺りについては以下の記事にまとめてある。
re-venant.hatenablog.com

英語の原書に徒手空拳で挑むよりはある程度論点を知っておいたほうが読みやすかったと思うので、『解明される意識』を読んでおいてよかった。


以降の章については以下の記事に書いた。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:ドーキンス以降の進化論において頻出する「自己複製子」のことで、ここでは遺伝子の祖先のことを言っている。

*2:心身二元論の袋小路」とは心と身体に別のプロパティを設定すると両者の関わりが不可能になる問題のことだろう。『解明される意識』第一部第2章で詳しく説明されている。 re-venant.hatenablog.com

*3:のちに出てくる「構文論機関(semantic engines)」と合わせて、論理学における意味論(semantics)と構文論(syntactics)に対応しているものと思われる。意味論は真理値などの命題の意味を扱い、構文論は推論の形式などを扱う。

*4:メタ言語による言明とは第4章で登場する自己評価のことだろう。 re-venant.hatenablog.com

*5:利用者錯覚(ユーザーインターフェース)としての意識という見方が『解明される意識』第10章で登場している。 re-venant.hatenablog.com

*6:ここでのデネットの説明によれば「どんなプログラムでも監視でき、またそれが無限ループを含むかどうかを決定できるプログラムは存在しない」という問題であるらしい。  停止性問題 - Wikipedia

*7:フランス語のことわざらしい。英語なら"to understand all is to forgive all"。

*8:心理学のこと?

*9:マジノ線 - Wikipedia

*10:Just-so story - Wikipedia 証明も反証もできない説明のこと。進化論における説明について言われる蔑称でもあるらしい。

*11:因果系列の全てを把握できないという点については九鬼周造が『偶然性の問題』でも同じことを言っていた。要検討。