読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第1章

学術書 レビュー

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)

Daniel C. Dennettの"Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting"(new edition)の第1章「お化けを育てないで(Please Don't Feed the Bugbears)」を読んだので、本文の内容の要約を書いていく。

本書では哲学史上で古くから争点となっている「自由意志」についてのデネットの見解が展開されている。

『解明される意識』や『ダーウィンの危険な思想』と違って和訳が出ていないので、日本語で論点を確認したい人にも役立つかもしれない。

本文要約

⒈ お化けを育てないで(Please Don't Feed the Bugbears)

1 終わらない、しかし魅力的な問題(The Perennial, Gripping Problem)

「運命」という概念は哲学自身より古い。

私たちは運命に従ってではなく自分で行為を選択していくのだということを証明するのは非常に重要なことだと考えられてきた。

物理的因果的なプロセスが私たちの行為を決定しているのではないか、という問題("determinisim"「決定論」)には古代ギリシャ哲学においてもすでに焦点が当たっている。

エピクロス派の人々は原子が「ランダムな逸脱」をするという説明によって決定論から逃れようとした。

しかしランダムな逸脱をするからといって私たちが欲している自由意志が可能となるわけではない。

なぜなら私たちの行為は原子のランダムな動きによって規定されて、行為の理由を持ち得ないからである。

行為に理由がなく盲目的であることは決定論よりも望ましくない。

ゆえに自由意志と決定論の別の融和(このような考え方は"reconciliationism"「融和主義」や"compatibilism"「両立主義」と呼ばれる)を目指さなければならない。

例えばストア派の人々は、ある種の自由は人が環境に応じて自分の欲望を制限すること(アパテイア)において見出されると考えた。

彼らによると私たちのそれぞれは人生の悲劇の役をアドリブの余地なく割り当てられている。

運命に抗ったところでそちらに引きずられていくが、そのことによってある種の自由が得られるのである。

このようにして哲学者は二千年以上自由意志の問題に取り組んできたが、それでもほとんど進歩が得られていないことを恥じるべきだろう。


哲学の困難は科学と芸術の両方が望むものを目指し、両方の方法論を用いなければならない点にある。

「私たちは自由意志を持っているのか?」というのは無視できない哲学的な問いだが、これをどのような方法で解決すればいいのかについては意見の一致を見ていない。

本書では科学を深刻に受け止め、一方で芸術の方法論により近い戦略を採用する。

その戦略とは製図家のように正しい線を一気に引くのではなく、彫刻家のように石を少しずつ削り出すことで正しい線を描いていく方法である。

この本で主に行われるのは哲学者たちが注意を払わず通り過ぎてしまう部分の形を素描することだ。

他の点に関しては哲学に無関心な人々も自由意志の問題には関心を持つが、それはなぜだろうか?

それはこの問題が宇宙における私たちの立ち位置についての問いに深く関連しているからだ。

哲学者たちは様々なお化け(bagbears)*1が存在するかどうかという点が自由意志ついての問題であるかのように見せかけて(思い込んで)きたが、これがこの問題における進歩を遅らせているのである。

そして自由意志は西洋世界でしか問題となっていないことから、それが本当に重大な問題なのかという点にも疑問が残る。

もし自由意志が問題となるとして、私たちは自由意志を持たないことを恐れるが、本当は何を恐れているのだろうか?

人が自由意志を持たないという展望を恐れる人は、その恐ろしい状況がどんなものなのか感づいていなければならない。

その状況とは「監獄に閉じ込められている」「催眠状態にある」「麻痺させられている」「人形である」といったように表現されてきた。

これらのアナロジーは単に便利なだけの説明であり、私はこれが自由意志の問題を困難にしている原因だと考えている。

このように捉えられた「古典的」、「伝統的」な自由意志の問題は、認識されている以上に哲学者たちが採用してきた方法論の産物なのだ。

さて、以下では「自由意志問題」を作り出すこれらの「お化け(bagbears)」の役割を解明し、それらのうちいくつかを解消していく。

2 小鬼(The Bogeymen)

最初のお化けは小鬼(Bogeymen)*2で、それらは私たちに代わって私たちの体をコントロールする「行為者(agent)」だと考えられている。

  • 不可視の看守(The Invisible Jailer)

あなたは本当に監獄の中にいないと言い切れるだろうか?

例えば見えない看守が窓の縦仕切りに鉄の棒を隠し、壁に偽のドアを据え付けているとしたらどうだろうか?

私たちは望む望まないに関わらず何らかの範囲のうちで生活しているが、そのことが問題なのではなく、私たちの生活の様式が不可視の看守によって制限されていることが問題なのである。

  • 邪悪な脳外科手術(The Nefarious Neurosurgeon)

あなたが眠っている間に誰かがあなたの脳に電極を刺してあなたを操っているとしたらどうだろうか?

この「邪悪な脳外科手術」の思考実験のバリエーションとして「恐ろしい催眠術士(the Hideous Hypnotist)」や「横柄な傀儡士(the Peremptory Puppeteer)」がある。

私たちが催眠術で操られていたり、傀儡士によって意思に反して動かされたりしているということも考えられるのだ。

  • 宇宙子供の人形(The Cosmic Child Whose Dolls We Are)

私たちは何らかの外的な力に操られる玩具であり、自由意志を持って行動しているわけではないとも考えられる。

  • 悪意ある読心術者(The Malevolent Mindreader)

この行為者はあなたの行動を引き起こしたり操作したりはしないが、あなたの行動を先読みして妨げる。


これらの小鬼(Bogeymen)が一つも存在しないと証明することはできないが、これらが存在すると信じるに足る証拠はないと示すつもりである。

3 アナバチ性とその他の心配(Sphexishness and Other Worries)

もし決定論が正しいなら私たちの意思決定のプロセスには「機械的」なものがなければならない。

私たちが自由な行為者ではなく、例えばアナバチの一種Sphex ichneumoneus*3といった昆虫のような自由意志を持たないオートマトンであるということである。

Sphex ichneumoneusは卵から孵化した子供の餌のためコオロギを麻痺させて巣穴に置いておくが、そのコオロギが動かされるとそれを穴の入り口まで運んで穴の中に入れることはない。

これはコオロギを何度動かしても同じ結果となり、Sphex ichneumoneusは目的を果たすことができない。

Douglas Hofstadterはその著書"Can Creativity be Mechanized?"でこのように機械的に行動することアナバチ性(Sphexishness)と呼んでいる。

私たちはアナバチより賢いが、だからと言って私たちの行為が(アナバチと違って)自動的でないとは言い切れない。


ここで本書で吟味される哲学者の想像の過度な単純化の危険性について言及しようと思う。

それはすなわち私が「直観ポンプ(intuition pump)」と呼ぶ思考実験のことだ。

直観ポンプは前提から帰結を導く論証ではなく、読者に「重要な」特徴に目を向けさせて直観を汲み出すだけのものである。

私たちがアナバチ性が恐ろしいものだと感じるのはその行動が自動的に引き起こされるからではなく、「単純に」引き起こされるからではないだろうか?

もしそうなら行為の原因の複雑さに違いのあるアナバチと私たちの間には差異があり、人間にアナバチ性の問題は起こらなくなる。

しかし正気でない人、発達の遅れた人や脳にダメージを受けた人はアナバチ的である例ではないだろうか。

この点は第2章で主題となる。


アナバチの例に潜むもう一つの問題は「消失する自己(The Dissappearing Self)」である。

ハチやアリは自分が何をしているか理解することはないし、理解する自己も存在していない。

これが「消失する自己」という恐怖である。

私たちは自己を見つけることができるのだろうか?

それとも科学によって自己は幻想であると示されてしまうのだろうか?

「恐ろしい秘密(The Dread Secret)」:科学はパンドラの箱を開けて自己や自由がないという恐ろしい秘密を開示し、私たちを無気力にさせてしまうように思われる。

決定論が正しいなら精神的活動や決断は、ゴルファーがスイングの後に球の軌跡を変えようとして身をよじること(body English)と同じく無意味なのではないだろうか。

この点については5章と7章で詳しく検討するつもりである。


伝統的な哲学においては自由意志を持つことは「別様にも行動できたこと」であるということが「明白な」前提として扱われている。

すると興味深くも「物理的に同じ状態において別の行動を取ることができる」ということが望まれる様になる。

しかしこの前提はなぜか疑われることはなかった。

4 概観(Overview)

直観ポンプは自由意志についての議論だけでなく様々な場所で威力を発揮している。

プラトンの洞窟、メノンが奴隷の少年に幾何学を教えたこと、デカルトの悪霊、ホッブスの自然状態、クワインの「ガヴァガイ」の翻訳、グッドマンのグルーのパラドックス*4ロールズの原初状態*5、ファーレルの「コウモリであるとはどのようなことか?」という問い、パトナムの双子地球説、サールの中国語部屋などが直観ポンプの例である。

直観ポンプは強力であり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」は広く受け入れられてきた。

直観ポンプが哲学において主要な役割を占めていることは哲学が科学ではないことを示しているし、そのことによって哲学は科学と共存しうるのである。

哲学の目的とは思考の悪習慣を打破することであり、その際に直観ポンプは理想的なツールたりうる。

その使命のためには、厳密な論証は直観をチェックする保険のようなものに過ぎない。

以下の章では自由意志の問題がこの章で素描された不安の仲間であると主張していく。

私の方法はそれらと、それらを肥大化するアナロジーや直観ポンプを調べて、実際には何が問題なのかを見て取ることだ。

第2章では理性的動物としての私たちの生物学的状態についての問いを扱い、アナバチ性の恐怖の根源を探る。

第3章では「自己制御」について検討する。

そこでの主要な問いは「あるものはどのようにして他のものを制御するのか?」もしくは「どのようなものが制御者たりうるのか?」ということである。

第4章では「自己」「行為者」という概念を主に扱う。

第5章ではカントの私たちは「自由の観念の元で行為」しなければならないという主張を検討する。

第6章では「できる(can)」「別様にできた(could have done otherwise)」ということの意味を研究する。

第7章では私たちはなぜ自由意志を求めるのかを問う。

私の結論は中庸なもので、革新的なものでも悲観的なものでもない。

私たちは自由意志を持っているし、それは科学と両立しうるのである。


以降の章については以下の記事に書いた。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:"bugbear"は「お化け」。ここでは過度に決定論を恐れる人たちの恐怖の対象を戯画化したものとして用いられている。

*2:プログレッシブ英和中辞典では「悪い子供をさらっていく小鬼」、オックスフォード新英英辞典では"an imaginary evil spirit, used to frighten children"と出ている。

*3:Sphex ichneumoneus - Wikipedia 和名が見つからなかった。

*4:New riddle of induction - Wikipedia

*5:Original position - Wikipedia