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Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第5章

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第5章「自由の観念のもとで行為すること(Acting Under the Idea of Freedom)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章、第3章、第4章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
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re-venant.hatenablog.com


本文要約

5 自由の観念のもとで行為すること(Acting Under the Idea of Freedom)

1 こんな時にどうやったら考え続けることができるのか?(How Can You Go On Deliberating at a Time like This?)

私たちは熟慮(deliberation)することに重きをおくが、もし決定論(determinism)が正しいならそれは無駄なものなのではないか、と恐れている。

神の視点から見れば創造から世界の終わりまで全ては決まっていて、私たちが未来の行動の選択肢を持っているというのは狭い視野からくる誤った考え方なのではないだろうか?

もし熟慮が意思決定の複数の可能性を前提するなら、決定論と熟慮は共存しないように思われる。

しかし、本当はそれらは共存可能なのである。

共存しないという主張の一つのやり方は、決定論が正しいなら熟慮は不可能だというものだ。

しかし私たちは実際に熟慮して行動している。

だがこのことが決定論が間違いだと示すことはまずない。

第二の試み:決定論が正しいなら熟慮は効果的なものにはならない。

しかし、完全に決定された世界でも私たちの関心ごとについての因果関係に重大な寄与を行う熟慮とそうでないものの区別のための余地はたくさんある。

第三の試み:決定された熟慮が因果関係に対していかに効果的でも、その結果はすでに決定されているのでそれは本当の熟慮ではない。

本当の熟慮では、どちらの分岐も可能であることで行為者に真の機会(opportunity)が与えられていなければならない、と主張される。

もし結果が決定されているなら本当の機会は与えられていない。

この第三の試みは明瞭で親しみやすく魅力的だが、完全に間違っている。

この章で私は、熟慮の本性、そして機会とは何で、何かを避けるとはどういうことで、従って「回避できない(unavoidable)」という語が何を意味しているのかについての思い違いを示していこうと思う。

だがその前にまずこの結論がとても奇妙で安定しないということを見てもらいたい。

決定論の信奉者がいるとして、彼女は本当の熟慮も機会も存在しないと信じている。

彼女が取るべき態度は決定論的に引き起こされているが、それでもそれは理性的思考によって導かれたものだ。

彼女が理性的だと仮定するなら、彼女は無意味なことが明白な熟慮を捨てるよう強制されるだろう。

決定論的世界は段階的に理性を獲得して、その結果それが無意味であることを知るような生き物を作り出すことになる。

これは第三の試みと第二の試みを混同する事から起こる事態である。

第二の試みでは決定論と宿命論(fatalism)が混同されている。

宿命論において私たちは、例えばオイディプス王のように、それに干渉する自身の軌道がどんなものであってもある特定の環境に必然的にたどり着く。

決定論はこの宿命論を含意しないし、宿命論が一般的に正しいとする他の理由もない。

しかし「局所的宿命論(local fatalism)」と呼べるような事例は存在していて、そのような事例から熟慮が無意味であるという考え方が出てくる。

例えばゴールデンゲートブリッジから飛び降りながら「これは本当にいい考えなのだろうか」と考え出す場合などである。

しかしこれは熟慮に関する一般的な事例ではない。

他にも通常の環境よりもはっきりしない局所的宿命論の事例として、「不可視の監獄(the Invisible Jail)」の直観ポンプがある。

このような局所的宿命論にとらわれることが決定論的流れの中で生きることと混同されてはならない。

また、人が感情が高まるあまり理性の声を聞けなくなった場合も局所的宿命論が現れてくる。

この場合においても熟慮の通常の事例と区別できるだろう。

他にも喫煙者は自分を偽って喫煙の理由をでっちあげたり意志の弱さから喫煙を止められなかったりする。

この場合も異常な事例であり、これら局所的宿命論によって人間の状態が悩まされていると恐れる必要はない。

しかし、熟慮のプロセス自体とその産物が決定されているという状況下でそれを続けることには何か不条理があるはずだという感覚はいまだに存在する。

その感覚を持つ人は恐ろしい真実を受け入れることなくアナバチ的な盲目に陥るか、知性的活動を止めなければならないだろう。

だが、熟慮を続けている人は「私が愚かだとして、なぜ私はこんなに成功しているのか?」と返答するだろう。

これは魅力的な希望的観測に過ぎないが、熟慮が決定されていたとしてもそれを正当化することはできるのだろうか?

2 完全な思考者を設計すること(Designing the Perfect Deliberator)*1

私たちは未来が開かれているかのように熟慮することに真剣になって、自由の観念のもとで行為することをやめられない。

しかしこの傾向について非難したり残念に思うべき何かがあるのだろうか?

決定論と熟慮が共存するという仮説を検証するため、決定論が正しいと仮定してみて決定論的にデザインされた思考者がどんな特徴を持っているのか見ていく。

思考者は将来の環境を早くそして正確に予想しなければならないが、速さや正確さの分コストがかかる。

ゆえにリアルタイムの予想を妨げないよう必要ないデータを捨てて単純化しなければならないが、それは予想の信頼性を保つために「正しく」行われなければならない。

この二律背反の最適なバランスは種や環境、能力によって異なる。

情報はまず以下のように区別される。

(1)固定のもの(fixed):それ以上チェックする必要のないデータ
(2)閾域下のもの(beneath notice):そのシステムの関心に関係がなく、固定されているかどうかにかかわりなく無視できるデータ
(3)変化するもの(changing):注意するに値するデータ

そして変化する特徴はさらに区別される。

(3a)追跡可能(trackable):効果的に予測できるデータ
(3b)混沌、予測不能または「ランダム」(chaotic or capricious or "random"):予測できないが関係がなく注意するに値しないデータ(この場合予測できないというのは実際上のことであり、予測するほどのリソースを避けないことを意味する)

追跡できないデータの不明瞭性自体は追跡されなければならない。

すなわち追跡されない、もしくは追跡できないものが占める時空間は、追跡が可能なものと不可能なものに分けられなければならない。

この概念的構造に導入される様々な可能性は認識上の可能性であり、思考者が知っていたり注意したりすることのできる出来事だけが分類される。

しかし認識上の由来が無視される概念が存在している。

それは、例えば犬が吠えるかもしれないといった潜在的な可能性である。

犬がいつ吠えるかは予想できないが、無視することもできない。

ゆえに思考者は犬を吠えるか吠えないかの二つの状態を取りうる自由なシステムとして分類する。

このように単純化された犬の概念によってこれらの思考者は「私はこの吠えるものをオフの状態にしておくことができるだろうか?」という制御理論上の潜在的に解決可能な問題を編み出すことができるようになる。

このように特定のタイプの思考する行為者は、世界についての情報を集め分類する特有の能力を持っているだろう。

そのような行為者は世界を考える方法を持っていてその中で効果的に活動することができる。

セラーズの概念を借りて、この「概念的構成」を「顕在的イメージ(manifest image)」と呼ぶことにしよう。

この顕在的イメージにおいていくつかの物事は「可能な」状態にある。

可能な状態においてそれらは単に予測不可能であったり、予兆によって信頼できる形で予測できたり、思考者の行為によって間接的に制御可能であったり、直接制御可能だったりする。

この慎重な情報処理において重要な点は、遅きに失する前に思考者が対象を制御することを効果的な形で決心することを可能にするということである。

そしてこの意思決定は思考者の目標だけでなく、以下の種類の信頼できる予想に基づかなければならない。

(1)思考者が何をするかにかかわらず次に何が起こるのか
(2)思考者がもしAをするか、Bをしなければ次に何が起こるのか

前章で見たように自分に行動を予測することは自己制御する思考者との競合の中で重要な役割を果たす。

その自己予測は、先ほど見た予測のカテゴリーに加えて以下のカテゴリーを有する。

(3)思考者が次に何をしようと決心するか

この三つ目のカテゴリーは最初の二つとは別物である。

自身の軌道を計画する目で熟慮のプロセスを追う試みは無限退行に陥る恐れがあるが、それでも少しでも将来の意思決定の範囲を狭めることができる。

従って、予測できない出来事には二つの重要なバリエーションがあるに違いない。

一つは他者に関わる予測できない出来事で、もう一つは自身の熟慮の結果に関わる出来事である。

その行為者自身に関わる限り、認識論的に開かれている将来の出来事は不可避的に存在している。

ゆえに思考者とそれを設計するものにとっての教訓はそれに挑戦すらしないことだ。

この認識論的に開かれていることが、熟慮のために必要な余地(elbow room)を作り出すのである。

たとえ意思決定の内容が決定されているとしても、それを知ることはできない。

ゆえに人は熟慮することの正当化が存在するような立場にいるだろう。


我々は特定の制約を所与のものとみなしていて、問題を解決するための「すべての可能性」を思い浮べようとはしない。

どの範囲の可能性を検討するかはどの思考者やそれをデザインする者にとっても重要なものである。

天井を塗る際に部屋を上下逆さまにすると言った可能性を考えないことは利益を生むが、他方アナバチ的な状況に陥るかもしれない。

私たち人間は顕在的イメージ以外にも科学的なイメージを持つことができる。

たとえば、自然に備わった器官では電子を見ることはできないが、顕微鏡によって分子を認識することもできる。

ゆえに、顕在的イメージを捨てて世界についてのまた違った、よりきめ細かいレベルの記述を新たに抱くことも私たちの関心たり得る。

その時、顕在的イメージは不完全なものとして捉えられ、それは限定されて、バイアスがかかり、破棄できる視座としてとらえ直される。

私たちのリアルタイムの熟慮は顕在的イメージに基づいているが、それはまた認識の不完全さから生じる幻想のようにも思われるのだ。

ゆえに私たちは実践的な考え方と実践的でないが理性的な見方の間で揺れ動くことになる。

しかし私たちはいくらか進歩したと言える。

私たちは宇宙での自身の位置についての偏狭な直感が、それについて考える唯一の方法ではないが、それは有限で理性的な思考者にとっては、決定論が正しいかどうかにかかわらず唯一の方法なのだとする幾つかの理由を見つけた。

もし熟慮して行動したいと考えるなら、世界は本当の機会、開かれた未来を持つというように行動することが理性的なのだ。

しかし、未来が開かれているという幻想を抱いたままでいるのは理性的ではないのではないか?

必ずしもそうではない。

私は決定論的世界における決定論的な思考者について議論してきたと仮定したが、本当の機会を持たずに活動している思考者がいるとは仮定していない。

決定論は機会を締め出してしまうように思えるが、機会についてより詳しく見ると別の考え方が生まれる。

3 本当の機会(Real Opportunities)

決定論が正しいなら、私たちは見かけ上の機会を持つに過ぎないのだろうか?

そもそも真の機会とはなんなのだろう?

機会は行為者が「違いを生み出す(make a difference)」であろう「何かをする(do something)」「好機(chance)」であると考えられている。

決定論的な世界で機会がどのような意味を持つのか見ていこう。

もう一度探索ロボットの例を取り上げる。

そのロボットの制御システムは完全に決定論的で、ノイズやランダムな動揺に影響されることはない。

また探索している星に他の行為者がいないので、その行為によって影響を受けることもない。

このロボット、決定論的思考者MarkⅠは自身の機会を最大限生かすように設計されている。

またこのロボットは2章で見たようにして発達してきた特有の関心を持っている。

そしてロボットは「考え」たり、計画したり実行するに値するような、特別関心のある出来事が引き起こされるときならいつでも、「ロボット的機会(robot-opportunity)」を持っている。

日常生活において、人々の機会を妨げる方法は主に二つある。

一つ目は、彼がそれを望んでいてもできないように障壁や制限を作ることだ。

これは刃物のついた工場の機械が閉じるときに人の手を引っ張って退けられるようレバーに鎖で繋げておく場合など、人のためになることもある。

他にもたとえば監獄の気まぐれな看守が月に一回囚人が寝静まった後、すべてのドアの鍵を開けておく場合を考えて欲しい。

彼は逃げる機会を作っているように見えるが、囚人たちは機会があるという情報を持っていない。

これが機会を妨げる第二の方法である。

このように認識されず想像もされない機会を「単なる機会(bare opportunity)」と呼ぶことにする。

単なる機会は十分でなく、私たちは行動する際に機会を探知するかそれについての情報を得たいと望む。

これらの事例で重要なのはこれがある行為者が他の行為者の機会を妨げるために、機会を生かして行動するために必要な条件が満たされないように計画的に条件を連結することで、世界の様相を制御する事例であるということだ。

しかしこの種の邪な敵対行為者が存在しない場合、環境は行為者から計画的に機会を隠すようなことはしない。

ゆえに本当の機会とは自己制御者がその結果に続く「熟慮」が決定的な要因であるような状況に「直面する」(それについての情報を得る)場面のことである。

このような状況で行為者もしくは自己制御者が関わる限りひとつ以上の選択肢が「可能」である。

先ほど登場したロボットはロボットの動きを予測するものがロボットの探索パターンに同調して物事を並べ替えない限り機会を最大限に生かすだろう。

ロボットが情報に従って正しく行為したにもかかわらず、単に失敗すると言う滅多にない場面はどのようなものだろうか?

ロボットは決定論的に行動するので、その失敗は決定されている。

その時、ロボットは本当の機会を持っていたのだろうか?

人間の場合なら単にその機会を捕まえるのに失敗したのだと言われるだろう。

人間についてそのような議論をすることは適切ではないが、決定論的状況にあるロボットについてはそうでないとは限らない。

ロボットが、正しい考え方に到達しなかったか情報に正しく重み付けできなかったかによって、正しい解決法に辿りつかなかった場合についてよく見てみよう。

このロボットは私たちと同じように有限である。

また決定論的だが、発見学習プロセスを用いて「ランダム」に思考を生成するリアルタイムの自己制御者である。

これは「乱数生成器」によって作られるが、それは擬似的にランダムな数列を生み出すだけで、量子論的に非決定論的なプロセスを経ていないし数学的な意味でランダムなのではない。

このロボットが正しい解決法に至れなかった場合のそのプログラムを細かく見てみよう。

たとえば乱数生成器から5や6と言う数字が出て来ればプログラムは正しく動作するが、そのとき実際には3と言う数字が出てきたとする。

そして3と言う数字が出ることは決定されているわけだから、ロボットにはチャンスはないことになる。

おそらくあなたはロボットは決して機会を持ちえないと主張したくなるだろう。

そのときさらにランダム思考者MarkⅡを考えてみよう。

それは本当のラジウム・ランダマイザー(ラジウムの崩壊を観測するガイガーカウンター)を装備していてラプラスの悪魔でさえそのロボットがどう動くのか前もって知ることはできない。

このロボットは本当のチャンスを持っているのだろうか?

MarkⅡの行動はMarkⅠのそれと比べてうまくいくわけではないしその逆でもない。

しかし、あなたはMarkⅡはMarkⅠと違って本当の機会を持っているから、形而上学的により良いものだと考えるだろう。

だが何故、MarkⅡにおけるチャンスがより本当のものなのだろうか?

少し違う文脈で考えてみると、この直感が幻想であることがわかる。

以下の二つの宝くじを比べてみよう。

宝くじAは売られた後にランダムに当たりくじが決まるが、宝くじBは売られる前に当たりくじが決まっている。

多くの人はBの宝くじは買う前から当たりくじが決まっていてハズレのくじはただの紙だから不公平だと考える。

しかし、実際どちらの宝くじも公平で、買った全ての人の勝つ確率は同じである。

勝者が選ばれるタイミングは全く本質的ではないのだ。

さて、私たちの世界が決定されているとしても、私たちは擬似乱数生成器を持っていてる。

いわばそれは宝くじの全てのあたりが最初から決まっていて、封筒に包まれ、人生の中で必要な時に分け与えられるようなものである。

それでは最初から勝者が決まっているから平等ではない、と言う人もいるだろう。

しかし幸運は平均化されてしまうことを思い出して欲しい。

またある人は、生まれる前から全てが決まっているなら他者より幸運を得る運命にある人がいる、と言うだろう。

しかしそれは私たちが生まれてから決定されても同じことである。

真に決定されていない抽選においてもある人々が他者に勝利するであろうことは決まっている。

完全に平等でランダムなコイントスのトーナメントでも勝者を生み出すことを思い出してもらいたい。

平等さは全員が勝つことを含意しないのだ。


ここでは行為者がそれを利用するという点に触れる形で機会というものを分析してきたが、行為者以外の物理や科学の世界にもこの概念は適用できる。

たとえば減数分裂する細胞の中にいる遺伝子は子孫たちの先祖となるチャンスを持っている。

この点については第6章で見ていこうと思う。

さて、ここで触れられているのは特に人間の機会であり、ここでの結論は私たちが本当の機会を持っているかどうかは決定論が正しいかどうかと全く関係がないというものである。

もし本当の機会がないとしたら、ハーバード大学スタンフォード大学かスワースモア大学のどれに入学するかで悩んでいる人と、何も悩まずに工場へ働きに出る人との間に本当の違いは存在しないことになる。

自由の欠落は貧困や権利のないことだけに限らない。

たとえば仕事を辞めて庭師になりたい銀行総裁のことを考えてみると良い*2

もしそんなことをすれば彼の妻は白髪になり子供は大学をやめなくてはならず友人は唖然とするだろう。

彼のように愛着とコミットメントに絡め取られていない私たちでもにたような根本的な破局を実行できないだろう。

選択肢が開かれている社会経済上の状態にある人は賢く幸運である。

放浪者の自由は銀行総裁が羨むもので、放浪者と奴隷がどちらも経済的政治的力を持たないとしても奴隷にはないものである。

これは物事の組織の中での自身の位置について問う際に頭に留めておくに値するものだ。

4 「回避」、「回避できる」、「不可避」("Avoid", "Avoidable", "Inevitable")

決定論的思考者MarkⅠが真の機会を持っているとしても、それは決定されているから「不可避(inevitable)」である。

そしてもし決定論が正しいなら、私たちの行動は改訂できない過去の出来事の不可避の結果であるから全て不可避である。

この考え方はよく知られているが、つじつまの合わないものだ。

それは「決定された」もしくは「因果的に必然」から「不可避」への不法な移動を含んでいる。

この見方は決定論が正しいならどの行為者も何かについて何かすることができないという推論を正当化するように見える。

しかしこれは単なる宿命論であり、私たちは宿命論と決定論を混同してはならない。

「不可避」という語は当然単に「回避できない(unavoidable)」ということを意味し、そしてその言葉を使う時あるものが誰かもしくは全ての人にとって回避できないということが意味されている。

しかしもし私たちがその語が何かが誰かにとって回避できないということを意味していると知ったとしても、私たちはまず何かが回避できるということの意味を見たほうが良い。

そして何かを回避することについて知るために必要なものについて明確にしなければならない。

「回避する(Aviod)」は「予想する」「防ぐ」「実行する」といった熟慮の結果について論じるときに使う動詞の仲間である。

これらは「歴史の流れを変える(change the course of universe)」「宇宙をかき乱す(disturb the universe)」「差異を生み出す(make a difference)」ものについて語る際に使われる。

私たちは歴史の流れを変えることを望むが決定論的世界ではそれは叶わない。

この章の初めで世界の過去と未来の全てを想像してみたが、それが実際の歴史の流れならイメージされたその歴史は分岐を持たない。

何が起こると決まっていても一つの出来事しか起こらず、私たちが「未来」と名付けるイメージは実際に起こる出来事のみから構成されている。

非決定論的な宇宙を想像する際に私たちが抱くイメージは決定論的なそれのイメージと区別できないだろう。

今日の未来は明日の過去、実際に起こる出来事の流れである。

歴史の流れを変えるといのは、ひとつの未来の出来事を別のもので置き換えることなのだろうか?

この考え方にはつじつまの合わないところがある。

未来がこれから起こる出来事の流れなら過去が変えならないのと同じように未来は回避できない。

回避するとはどういうことなのだろうか?

私たちが回避ということを語る時、その対象は災難、不運や災害といった痛ましい出来事である。

「〜できる(-able)」という単語において私たちは、実際の事例を指示することで何かがその能力を持っているということに納得する。

例えば「溶ける(soluble)」なら実際に溶ける対象を思い浮かべる。

しかし私たちは回避された実際の事例を指示することができない。

実際に起こった出来事、今起こっている出来事、これから起こる出来事は全て回避されたものではないからである。

1981年のロンドン大地震といった実際に起こらなかった出来事は回避されたもののように思われるが、それは想像上のものに過ぎない。


第3章で制御は制御下にない因果的な力ではなく、予測できない因果的な力や、克服できない力によって妨げられることを見た。

後者(克服できない力)の事例が「無慈悲さ(inexorability)」というモデルと生み出す。

例えば天文学者が地球を滅ぼすような巨大彗星の接近を発見したとしよう。

私たちはそれに対して為す術なく、奇跡を祈るしかない。

しかし別の彗星が現れてそれに衝突し、危機は回避された。

これは奇跡ではなく、ただ何百年も前からその軌跡が決まっていた彗星の存在が後になってから判明しただけである。

二つ目の彗星が破滅を防いだのではなく、それは最初から存在しなかったのだ。

この危機を私たちに見せたのは天文学者の信頼できない予測である。

私たちはそのような(誤って)予測された未来の背後に阻止できる出来事の事例を見てとる。

「差異を生み出す」動詞は見かけ上の世界と実際の世界の比較を暗に含んでいる。

そして「歴史の流れを変える」ことは予測された世界の軌道から判断して実際の世界の軌道に対して顕著な働きかけを行う行為者であることである。

この概念を用いることで常態の慣性の原理のようなものが呼び起こされる。

それは行為者の行動に対して「他のものが同じなら(other things being equal)」物事がこうなるという予想という暗黙の背景に立脚していて、その事例では他の何かが同じでなければ「全てが違ってくる(makes all the difference)」。

私たちの予想の習慣はゆるぎないものであり、それによって説明される必要があるものやないものを見てとる科学的想像力の大きな飛躍が生まれる。

ニュートンが重力の存在に気づくのはりんごが宙に飛び出していくのを妨げたり中空に止まったりするのを妨げるのは何かを問うときだけである。

ニュートン物理学における説明を必要とするのは加速だけであり、その他は等速直線運動という普通の出来事に過ぎない。

そして一旦基本的な力が設定されてしまうと、私たちはさらなる説明を必要とするものの閾値を上げてしまう。

私たちは石が重力に従って落ちないのがなぜかを問うがそれが燃えたりティーカップに変身しないのはなぜかは問わないのだ。


機会という概念と同じように防止という概念は人間の思考を行う人生における役割について最もよく分析されてきた。

しかしこれは人間以外の領域に適応できないものではない。

決定論が正しいなら、ドアから入ってくる人は決まっているのだからドアに鍵をかける必要はないという主張に耳を貸す人はいないだろう。

母なる自然は有機体に抗体などのあらゆる防衛手段を備え付けていて、防止と回避なしに世界を理解することはできない。

これら近しい概念の観察によって、それらが私たちのような存在によって予想できることと結びついていることがわかった。

私たちは熟慮したり計画するとき常に「通常」継続していくであろう世界や私たちが計画したりそう望めば変わるだろう世界の特徴と言う見地から世界を見る。

そして私たちはそれら予想されたもののいくつかを、特定の行動を起こさなければ起こらないだろうもの、特定の行動を起こしたから起こるだろうもの、どんな行動を起こそうとも起こるだろうものに分類する。

後者がそれに対して何もできず、それについて考えることに意味がないために「不可避の」ものだと呼ばれる。

以上から「不可避である」ことが「因果的に必然である」、「決定されている」と言うことを意味しないし、またそれらによって示唆されることもないことがわかった。


決定論を論じる際に哲学者などは行為者が決定論的な因果プロセスに属していると考える一方で別の場面では行為者が決定論的世界から独立だと考える。

特に科学者は観察対象が属する因果関係から観察者が独立していると想定するが、それに観察者も当然因果の編み物の中にいると付け加える。

第3章で見たようにこの両極端な考えは必要なく、彼らは絶対的に形而上学的に因果の編み物から独立でなくても良い。

彼らに必要なのは高いレベルで観察対象の因果プロセスから離れていることだけである。

絶対主義者は自由な行為者の行動によって偶然的で前もって決められた調和は破壊されるが世界の本当の規則は守られると主張する。

しかし「本当の規則」を示すために世界にそれを押し付けるという目標が達成できるのは、私たちの探索活動がどんな規則にも一致していないかどんな悪魔にも追跡されない場合である。

それらの活動がカオス的もしくは擬似ランダムプロセスに基づいている限り、その活動は追跡できないので私たちは絶対的ではないが科学的探求に十分な探索上の影響力を持っている。

理性が指導する自身の因果的プロセスに対して盲目であることで達成されるこの関係を断ち切る戦略が実行された時、「絶対行為者性」の幻想が生み出される。

そしてこれが宿命論的思考を行う機会を与えるのである。

コメント

第5章は決定論と私たちの日常生活の関係を「機会」「不可避」などのタームから分析していた。

世界が因果関係によって決定されているなら私たちは機会を持ちえないし全ての出来事は不可避である、という見方への反論である。

まず1節で問題となるのは、決定されている世界であれこれ考えて行動する意味はないのではないかというものだ。

しかしながら日常的なレベルで考えると将来の出来事を完璧に予測することは不可能であり、未来が決定されていないとして行動するより他にない。

また予測しながら行動することは進化論的にも適応度が高く、熟慮しながら行動することはこの観点からも支持される。


しかしその決定論的世界ではそもそも何かをする機会もないのではないかという問いに答えるのが3節だった。

デネットは「機会」を熟慮することが決定的に差異を生み出す状況に直面する場面だと定義している。

熟慮することが正当化されるなら私たちは本当の機会を持ちうるだろう。

だがその熟慮の結果失敗することが決定されているのならそれは機会を持っているとは言えないのではないか?

それについては宝くじの例を用いて、思考プロセスが決定されていようがいまいが成功する可能性は同じだという反論がなされている。

ゆえに決定論が機会の有無に関わることはない。


4節では「不可避」という語が何を意味しているのかが検討されている。

結局のところ私たちは自身が予測した将来の出来事が自分の行動に関わりなく起こるなら、それが不可避だと言っているだけなのである。

ゆえにこれも世界が決定されているかどうかと関わりのない概念ということが示された。

差異を生み出すことのその「差異」が予測された出来事と実際の出来事の差異でしかないなら、決定論的世界でも熟慮することで差異を生み出すことが可能である。

その点からも熟慮して行動することが正当化されている。


この章で面白かったのは私たちは常に自分が予想した世界の流れとの比較の中で物事を考えているという点だった。

ここでは書かなかったが原著ではフレーム問題との関係も指摘されている*3

全ての概念は私たちの限定された思考フレームの中で作られたものなので、神の視点を持ち出して世界が決定されていると主張してもそれは種々の概念との不整合をきたしてしまう。

この思考フレームは自己評価(第4章)=物語(『解明される意識』第13章*4)とも繋がってくる概念だろう*5

自己を定義する物語は因果系列の形をしていて、それが未来方向に伸びていけば将来の出来事の予想を形成する。

予想された世界=物語=自己評価から自己(=意識)が生み出されるという関係性はデネットの意識論を読み解くうえで重要な点となってくるように思われる。

ところでショーペンハウアーは現象界は因果関係によって決定されているのでそこでの自由はないと結論づけているが、この議論を見ているともっと自由という概念を分析する必要があったのではないかと思えてくる。

もし現象界において自由が実現するなら、人間の自由を世界そのものである「意志」との合一に求める必要がなくなる。

認識が最高度に高まると意志と一体化して得られた自由は、意志の盲目性から自由というより放銃と言った方がいいものだろう。

ゆえに現象界の内部で自由を確保しておいた方が理論として通りがいいもののように思われる。

*1:「熟慮(deliberation)」と「思考者(deliberator)」の原語上のつながりに注意。その辺りが表現できるように訳せればよかったがうまい訳が見つからなかった。

*2:この銀行総裁の例はここまでの分析を踏まえて本当の意味で「機会」が損なわれている場合を例示しているものと思われる。

*3:フレーム問題 - Wikipedia

*4:re-venant.hatenablog.com

*5:第4章の自己定義と自己を作り出す物語の関係については前記事のコメントを参照。 re-venant.hatenablog.com