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ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部

学術書 レビュー

解明される意識

解明される意識

re-venant.hatenablog.com
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一部読むごとにまとめていくシリーズ三つ目。

第Ⅲ部のタイトルは「意識についての哲学的問題」で、意識の「多元的草稿」モデルを使って様々な哲学的問題への回答が試みられる。

なお本文引用の際は脚注に「章番号.節番号.段落番号 ページ数」を付記した。

本文内容

10. 「見せる」と「告げる」

まず心の中でのイメージの問題が扱われる。

複雑な図形を提示されて次にそれを回転させたものを見せられた時、私たちは自分の中のイメージ上の図形を回転させてそれらが同じ図形であると認識することができる。

これは一見「カルテジアン劇場」の発見であるように思われる。

しかしこれはより複雑な例を考えれば間違いであることがわかる。

立体の正面に開いた四角い穴から立体のある部分に付けられた×印が見えるかどうか、頭の中のイメージを回転させて確かめよと言われると、どうにもできそうにない。

これはイメージが全て「見せる」ことによって認識されているのではなく、諸々の空間的特性を「告げる」ことによっても認識されているからである。

そしてその空間特性はわざわざ「カルテジアン劇場」を見ているホムンクルスのために画像の形に再構成される必要はないし、再構成はあまりにも手間がかかる。

しかしながら、完全ではないにせよ心の中に何らかのイメージを表象する機能があり、それは脳のパターン認識プロセスを内側から刺激して認識をより深めるために存在している。


私たちは交通ルールやプログラミング言語民法などの新しい抽象的構造に出会うと、その構造を自分のコントロールシステムの中に組み込んでしまう。

そのような抽象的構造の中でも最も強力に私たちの心を規定しているのは自然言語の文法構造であろう。

この文法構造は脳の中のデータベースから要求されている知識を引き出す方法を定めている。

ジャスティン・ライバーはこの自然言語が脳のプログラミング言語として私たちの心的生活を形成していると主張するが、自然言語の文法構造は高次のプログラミング言語である仮想機械を構成する「アセンブリー言語」に過ぎない。


次に「カルテジアン劇場」を素朴に信じた結果生まれる「民間心理学」の内容を見て、その問題点を指摘する。

我々は発話行為を行う際、その発話内容を前もって吟味する「内なる私」があると考えるが、実際には発話が生じて思考から行為へ導くプロセスについて何ら知り得るところはない。

おそらくそれは発話がパンデモニアム構造によって行われるからであろう。

しかし、自分の意識状態を述べるときには、その意識状態を内的に了解していなければならないのではないだろうか。

私たちの日常的な考えの前提には「私たちは行為によって自分の信念を表明する」というものがある。

そして誰かに向かって何かを言うことはその信念の報告である。

内的な意識現象を報告する際にそれを了解していなければならないのだとしたら、意識現象について何かを述べるときその意識現象についての信念を表明することになる。

意識と無意識をそれが報告されることが可能か否かという点で分けるとするなら、意識現象はすべて報告されることが可能でなければならない。

すると自分の何らかの意識的な考えを報告する際に生じるそれについての二次的信念が意識的であるためには、またそれについて報告できなければいけないわけだから三次的な信念が発生しなければならず、以下無限退行が生じる。

しかし「民間心理学」では二次的信念は無意識的で構わないとされて、この退行が断ち切られる。


8章で見た発話行為のパンデモニアムモデルでは私たちは「哲学的ゾンビ」と同じように、自分の発話行為に際してそれをどうして言いたいのか認識できない。

この哲学的ゾンビについて自分の内的活動を(無意識的に)反省できるもっと複雑なバージョンを考えることができ、デネットはそれを「ジンボ(Zimbo)*1」と名付ける。

先ほどの民間心理学の帰結に従えばこの反省は人間においても無意識的に起こるわけだから、ジンボがチューリングテストをクリアする可能性は人間と変わらないだろう。

そしてジンボ自身も自分が意識的存在だと了解した上で作業を続けるが、この時仮想機械の「利用者錯覚(ユーザー・イリュージョン)」に囚われることになる。

この利用者錯覚は例えばコンピューターのGUI*2における諸々の視覚的メタファーのように、私たちが意識の働きを仮想機械のメタファーを通して見ることである。

しかし、この利用者と仮想機械の二元的で明白な分離を主張するとカルテジアン劇場に後退してしまう。

この章の最初の節で見たように脳の部分同士で交流する際にある一箇所で全てを「上映」するのは非合理的である。

しかし脳の諸部分同士でフォーマットが異なるためにそれらの間での交流にはインターフェースが必要となってくる。

そのような諸部分間のインターフェース上で利用者錯覚が起こるのである。

ここで利用者そのものが仮想機械の中に取り込まれている。

さて、無意識的反省が意識の要件だとするなら哲学的ゾンビは意識的存在ということになり、哲学的ゾンビの思考実験は失敗する。

なぜならゾンビやコンピューターが発話行為を行う際に、それを生み出すプロセスは無意識的であるにせよ発話内容の反省であるはずだからだ*3

こうなると哲学的ゾンビは意識を持っていて私たちとゾンビに違いはないとしてしまうか、意識を持たない哲学的ゾンビは存在すると主張し続けて民間心理学の方を捨ててしまうかの二択である。


民間心理学では何らかの考えの報告にはその内容についての信念が必要不可欠であると主張されるが、我々が8章で見たパンデモニアムモデルではそのような信念はむしろデーモン同士の競合である発話行為によって初めて作られる。

7章で見たように私たちは自分に向かって話しかけるプロセスを自己モニタリングという厄介な機能の代わりにしたと考えられる。

自分に向かって話すことができないかぎり、自分が何を考えていたのかを知る道はないだろう。*4

ただし、自分に向けての発話はイメージなど言語の形を取らないこともある。

さて、民間心理学での一時的思考と二次的信念の区別を突き詰めていくと、主体的体験、それについての信念、その信念から生まれる思考、それを伝えようという意図、現実の表出行為というようにさらに細かい文節が生まれる。

すると、それらそれぞれの間で間違いが起こる可能性が生じて、意識体験への主観的な馴染み深さ、揺るぎなさを失ってしまう。

以上の点からデネットは民間心理学での信念やメタ信念の区別をやめて、情報産出とその表明行為をフィットさせるプロセス*5に注目すればよいと主張する。

11. 証人保護プログラムの解除

脳の視覚皮質にダメージを受けると、「盲視」という現象が起こることがある。

盲視とは、特定の部位(暗点)が目の盲点のように見えなくなるにもかかわらず、そこで起こった変化に気づくことのできる現象である。

これは無意識的に視覚情報を受容していることによって起こると解釈されている。

さらに盲視患者は自分の発話行為などからフィードバックを受けて、暗点内の視覚についての意識的な戦略を得ることも可能である。

しかしこのような「気づき」からは、通常対象を意識する際にある指向性が欠けているのではないだろうか。


何かを見ていることとその特定の対象に気づくことは異なっている。

例えばピアノの調律師見習いは初めは音同士の干渉による「うなり」を聞けと言われても、何か響きの悪さや調子外れを認識できても「うなり」という言葉に対応するものには気づけない。

しかし訓練を積んでいくとその「うなり」に対して意識的に気づくことができるようになる。

盲視者が暗点内の物を認識する仕方もこの「うなり」の認識と同じで、巧みな質問によってそれについて答えることも可能だが、それ自体としては認識できていない。

そして盲視者も調律師見習いと同じように訓練によって暗点内の対象に意識的に気づくことが可能であるはずだ。

それでも盲視者の視覚に欠けているものがあるのではないかと主張する人がいて、それは「クオリア*6」と呼ばれる。

クオリアは感覚から得られる情報の量が増えれば生まれるものではなく、例えば視覚情報が独自に持つ「質」である。


多くの人はデカルト的二元論の影響から盲点内の対象やノイズの中の人の声、焦点の外のテキストを脳が「補填」してしまうのだと考える。

しかしながらカルテジアン劇場などはないわけだから、いちいち補填する必要もまたない。

例えば人物の顔が連続的に印刷された壁紙を見る際に、見たものをそれと認識できる網膜の中心窩に入る顔が一つか二つしかないにもかかわらず、壁中にその顔が印刷されていることをはっきりと見てとる。

これは脳が見えていない部分を補填するのではなく、脳がその他の部分に「同じ顔が続いている」というレッテルを張ることによって起こる。

脳はそのレッテルに矛盾した情報が入ってこない限りそのレッテルで認識を満足させてしまうのである。

二元論からは脳が時間的空隙をも補填して「意識は連続的である」という主張が生み出されるが、実際には意識は不連続的でそれに気づかないだけである。


しかし、このレッテルによって私たちに見えるようになったものは脳の中になくても「心」の中にあって、またしても二元論に戻ってしまうのではないか、という疑問が生まれる。

これについての反論としてデネットは眼球の動き(サッカード)についての実験を挙げる。

パソコンでテキストを読んでいる時に中心窩には入ってきて正確に認識できる単語はせいぜい2、3個であり、中心窩に入らずぼんやりとしか見えていない単語を入れ替えてもテキストを読んでいる人は気付かない。

ゆえにレッテルによって補完されている部分について、補完内容の詳しい知識を得ることは不可能で、それは経験を左右し得るという意味においては心の中にはない。

12. 資格を失うクオリア

色彩はどこにあるのだろうか。

物理学の世界では波長によって色彩が説明されるが、では私たちが見る「赤色」は実際にはどこにもなくて、ただそれが「赤色」であるという私たちの判断だけがあることになる。

しかし私たちは二つの対象の色を比較するときなどに心の中に実際に「赤色」が現れてくるように感じられる。

ゆえに哲学者たちは「赤色」を自らの心のなかに「クオリア」として存在しているのだと主張してきた。

だが、このような色の比較の際に行われるのは色を認識する機械と質的には同じプロセスであり、クオリアが存在するように思われるだけだとデネットは主張する。


私たちの色彩感覚は自然環境と同時並行で進化してきたものである。

リンゴの実が赤いのは、熟したリンゴを食べてその種を運ぶ者がそれを見分けやすいように進化したからであり、逆にリンゴを食べる者の色彩感覚も赤いリンゴを見分けられるように進化してきた。

その他の生存に直接関係しない色彩感覚はそのような進化によって得られた感覚の副産物に過ぎない。

では空はどうして青いのだろう。それは、リンゴが赤くてブドウが紫色だからであり、その逆ではない。*7

色彩はある特定のクラスの観察者と結びついて相対的に存在していて、その観察者がいなければ意味をなさない。

結局のところ、私たちが「赤色」だと判断するということは何かが私たちが「赤色」だと呼ぶ特性を持っていると判断することであり、その特性とは私たちが「赤色」だと判断する特性のことでしかない。


色彩だけでなく香りや味も進化の過程の中で生まれた感覚システムである。

それら感覚システムは自分の利益になるものを好み不利益になるものを嫌悪するように進化してきた。

さらにこれらのシステムは多数のミームから形成されたより複雑な組織の中に取り込まれていき、生物的に嫌悪するものをあえて好むという新たな性向を生み出すことも可能になる。

クオリアをこのような好悪の原因だと主張しても、クオリアがなぜ好悪の感情を引き起こすのかという点についての説明にはならない。

むしろ人が享受する質感を伴った体験は、進化の中で身につけた性向と学習された性向の総体から得られるものでしかない。

時代や場所の隔たった人の体験を再現しようとするなら、その人が持っている性向をリストアップしてそれらを自分の中に再現すれば事足りるのである。

しかし、クオリアを信じる人々はそのような性向の総体では説明できない残余があり、それがクオリアだと主張する。

するとこのクオリアは私たちの振る舞いについて何らの働きもしないことになる。

そして彼らはクオリアは私たちの性向や反応を全く変えないままに別のものに入れ替わることができるし、その逆も可能なのだと主張する。


この説を支持する証拠としてクオリア論者は外科的手術によって脳の配線が繋ぎ変えられて、クオリアが入れ替わってもそれに対する反応は元のクオリアに対するものと変わらない場合という思考実験を持ち出す。

これはクオリアが上映されてそれを見たホムンクルスによって反応が引き起こされるという直列的なプロセスを前提としていて、明らかにカルテジアン劇場が思考の前提として残っている。

別バージョンとして反応が外科的手術によって入れ替わるのではなく単に適応によって入れ替わる場合も論拠として提出される。

その場合でも多元的草稿モデルに基づけばクオリアが入れ替わったのか、それともクオリアが生み出す反応の方が入れ替わったのかを明確に区別することはできない。

さらに現時点で得ているクオリアが過去に得たものと同じであると内在的に知る方法はない。

ゆえにクオリア「だけが」入れ替わったと明確に分かる場合など存在しないのである。


フランク・ジャクソンが提出している思考実験に、「メアリーの部屋(Mary's Room)*8」というものがある。

生まれてからずっと白黒の部屋で白黒のモニターを使って外界を探索している神経生理学者のメアリーは、色と実際に経験したことはないが視覚に関する物理的情報の全てを知っている。

このメアリーが初めて外界に出た時、何かを学ぶのだろうか。

物理的情報をすべて持っているのだから、部屋を出た時に真っ青なバナナを見せられてもメアリーはそれが青色だと答えることができる。

ゆえにこの思考実験からはメアリーが部屋を出た時に何かを学ぶことは証明されない。

またジャクソンはこの例から視覚現象は付帯現象的なクオリアを持っているのだと結論づける。

哲学においてある現象Xが付帯現象であることの意味とは、「Xは一つの結果として生じた作用であるが、物理的世界では作用を持たない」ということである。

この付帯現象は経験的に検証できないし何らの経験的意味も持っていない。

また付帯現象的クオリアが二元論的な心的世界において意味を持つとしても、それについての信念も経験的に検証できない心的世界においてのものとなり、その信念を経験的に正当化することができなくなる。

その場合クオリア論者は物理的世界との繋がりを絶たれた世界に引きこもるしかなくなる。

13. 自己の実態

自己というものは実在的なものなのだろうか、それとも抽象的なものなのだろうか。

7章で「理由」が誕生すると同時に自己と世界の境界が誕生するということを見た。

この自己は抽象的な「内側」でしかなく、その境界も曖昧なものである。

リチャード・ドーキンスが言うビーバーのダムやオーストラリア・ニワシドリの閨房などの「延長された表現型効果*9」は自己と世界の境界を外側に押し広げるものだ。

そしてこのような構造物と同じようにして人間は「自己」を作り上げる。

この自己は網の目状の発話と行為を紡ぎ出し、それがあまりに高度なので「自己」にあらゆる命令を発する中心的な主体が存在するように思われたのである。

私たちの自己は蜘蛛が巣を作るように言葉を用いて「物語」を紡ぎ出して環境を形成していく。

そして言葉(ミーム)たちは私たちの脳の中で仮想機械としての意識を形成していく。

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

私たちのお話は紡ぎ出されるものであるが、概して言えば、私たちがお話を紡ぎ出すのではない。私たち人間の意識は、そしてまた私たちの物語的自己性は、私たちのお話の所産ではあっても、私たちのお話の源泉ではないのである。*10


このような自己は厳密に「一人に一つ」備わっていなければならないわけではない。

多重人格障害の人や、「一人」として行動する双子といった例からもこのことがわかる。

そして11章で見たように意識というものは非連続的であるから、自己の時間的な同一性もはっきりしない。

結局のところ異なった自己であるということはそれらが異なった物語を生み出すということである。

二つの自己を持つように考えられてきた分離脳の患者についても、左脳と右脳がそれぞれに一時独自の物語を紡いで物語的重力の中心を生み出すことがあっても、リソースの不足からそれは少しの間しか持たないためしっかりとした二つ自己を持つことはない。


すべての行為主体は自己を認識する必要がある。

私たちは自分の体の動きなどの外的な指標を確認して外的な状態を確認するだけでなく、内的な状態も認識しなければならない。

この内的状態の確認のためには自分の心的状態を色々に変化させてそれを追跡するのが手っ取り早い。

そのために私たちは自分というものを定義していく様々な物語を作り、自らそれを点検する。

自己が物語的重力の中心であるなら自己は単なるフィクションの登場人物と同じ存在でしかない。

すると行為の主体であり責任者としての自己はどうなるのだろうか。

確かにその点は問題になるが魂という矛盾を抱えたもので説明を試みるよりは、自己についての自然主義的な理解の上で新たにそれについて考える方が良い。

そして物語的重力の中心としての自己は、物語が存在する限り存在し続けるし物語が伝播し続ける限りで伝播していく。

14. 想像された意識

もし自己が物語的重力の中心でしかなく意識現象が仮想機械の働きでしかないとするなら、ロボットに正しいプログラムを入れればそれは意識と自己を持つということになる。

「意識を持つロボットを想像することは難しい」とよく言われるが、本当は「ロボットがいかにして意識を持つようになるのか想像することが難しい」だけだ。

この難しさは神経回路でしかない人間の脳がいかにして意識を持つようになるのかを想像することの難しさと同じである。

本書では脳から意識が生まれるプロセスの現象学的でも機械的でもない説明が試みられたが、そのプロセスを思い描くことは不可能だとする哲学者もいる。

そのような哲学者にジョン・サールがいて、「中国語部屋(Chinese Room)*11」という思考実験が有名である。

ある部屋に閉じ込められた中国語を全く理解していない人が、チューリングテストにパスするくらい自然に中国語を用いて受け答えをするプログラムに基づいて部屋の外の人とやりとりをする。

その時中国語部屋の中にいる人は本当の意味で中国語を理解しているのだろうか。

ここからサールは正しい入力に正しい出力が返されるからといってそこに心があるわけではないと結論する。

しかし、自然な会話を行うプロセスはサールが思い描いたものよりずっと複雑である。

心身二元論から言えばどれほど複雑なシステムからも心は生み出されないため中国語部屋の中に心はないが、唯物論の観点からは脳も中国語部屋も同じように複雑なプロセスの積み重ねから心を生み出す。

中にいる人を含めた中国語部屋のシステム自体が物語を紡ぎ出して「物語的重力の中心」としての自己を生み出すのだから、この場合中にいる人ではなくシステムそのものという新たな自己が理解を生み出すのである。


トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか?(What is it like to be a bat?)*12」という思考実験は意識に関する最も有名な実験である。

ネーゲルはそれを想像することは不可能だと結論付けていて、多くの科学者や哲学者もその結論を受け入れている。

しかし12章で見たようにクオリアは存在しないし、別の主体の体験を自分のうちに生じさせるためにはそれが持っている性向や記憶をリストアップしてそれを再現すればいいのである。

これはコウモリの体験について考える時にも当てはまり、コウモリの認識についての三人称的な知識を集めて、コウモリが(非言語的に)紡ぐヘテロ現象学的テキストと照らし合わせればコウモリであるとはどのようなことか知ることができる。

ただ、言語というものが私たちの意識を構成するのに重大な役割を持っている以上、言語を持たない動物の意識は私たちのものと大きく違っているはずだ。

ここで気をつけなければならないのは、意識というのは「有るか無いか」できっぱり二つのカテゴリーに分かれるものでは無いということである。

しかし、このようにして唯物論的に意識を解き明かしてしまうことを恐れる人は、動物を玩具のように扱ったりロボットを人間扱いしたりするといった事態が起こって私たちの道徳的感覚が失われてしまうのではないかと危惧している。


ベンサムなどによって、道徳的に尊重されるべき動物は「苦しむ能力」持つものであるという主張がなされている。

その苦しむ能力とは自分の心的状態を高度な識別力を備えたものとして体験する機能の一部であり、そこに意識があるかどうかは問題にならない。

そしてまた、苦しみから逃れる手段を持たない者は苦しむ能力を進化させることもない。

こうして苦しみの存在について客観的にわかったとしても、意識が機械論的に説明されてしまうことへの道徳的感情がなくなるわけではない。

死体をないがしろにすることは強い反発を起こすが、それは死体にまだ魂が宿っているという神話的理由からではなく物語的重力の中心を生み出している我々の信念の環境を保存するためである。

信念はミームとして文化の中に行き渡って、それが重要であるべきかに関わらず重要であったりそうでなかったりする。

なら魂などの神話に基づく道徳の信念の環境が脅かされるからといって、その環境の根本を破壊する理論の提出を差し控えるべきなのだろうか。

デネットの答えは否である。

例えば死刑や堕胎や肉食や動物実験などの問題をめぐる〈両刃の剣〉でもあるような道徳的議論は、私たちがどのみち護りきることのできないような神話をきっぱりと捨てたとき、もっと適切でもっと高い水準にまで高められるのである。*13

感想

本書の主張を要約すると以下のようになる。

カルテジアン劇場は無く、意識は相互に編集し続ける「多元的草稿」で、遺伝子とミームが作るノイマン型の仮想機械としてユーザーインターフェースを持っている。

そして我々は皆ゾンビであり、クオリアは無く、〈私〉はその「私」という言葉とそれにまつわる物語が作る「物語的重力の中心」である。


「物語的重力の中心」として自己を生み出されてくるという主張を読んで、伊藤計劃円城塔の『屍者の帝国*14』で魂を持たない屍者である「フライデー」が意識を持つようになるくだりを思い出した。

ぼくの中に蓄えられた「ウィクターの手記」。今語るのはその手記だ。いや、それこそがぼくであるのかも知れない。あるいはこれはぼくが書き連ねてきた数多の文字を拾い集めて並べ直した文章だ。ぼくがこれまで不器用になんとか試みようとしてきたように。*15

フライデーが記録したワトソンについての物語に登場する、〈この私、フライデー〉といった文章/物語の重力の中心としてフライデーの自己が生まれたと考えられる。

円城塔は度々「物語」が〈私〉を生み出すというモチーフで小説を書いているが、これもやはり『エピローグ』でのストーリーラインの構造と多元的草稿と同じくデネットの主張を参考にしているのではないだろうか。


さて、唯物論の問題はそこから「生きる意味」であったり「我々は何をすべきなのか」という当為の問題にどう答えていくかということだ。

本書では14章でその点について触れられているが、具体的な答えは書かれていない。

私個人としての現在の問題意識もそこにあって卒業論文でその辺りを書きたいと思っている(書けるかどうかわからないが)。

人間という存在の全てを遺伝子とミームが決定してしまうなら人生はあまりに自動的で、そこに積極的な意志を持って生きる意味があるようには思えない。

しかし唯物論的な世界に生の意味が無いという考え自体が間違っている可能性もあるし、人間の意志そのものが唯物論的に説明されてしまうなら「意志を持つこと」についての自由もまた無いのかもしれない。

なんにせよこの本を読んで人間の意識の唯物論的分析について様々に学べたので良かったと思う。

*1:Zombi→Zimbo

*2:グラフィカルユーザインタフェース - Wikipedia

*3:哲学的ゾンビは「無意識的に」受け答えをするが、受け答えが成立するためには聞かれた内容について何かを答えるプロセスが必要で、そのプロセスには聞かれた内容と答える内容が反省的に組み込まれていなければならない、ということだと思う。

*4:10.5.5 p376

*5:よくわからなかったがおそらくパンデモニアムモデルのことだと思う。

*6:Qualia (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*7:12.2.9 p448

*8:Knowledge argument - Wikipedia この思考実験についてのデネットの反応も掲載されている。

*9:リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』第13章「遺伝子の長い腕」や『延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子』(未読)などに登場する概念。生存機械が遺伝子の生存のために外界に及ぼす作用も遺伝子の表現型効果に含めるという主張で、例えば人間が作った服などが延長された表現型効果と呼ばれる。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子

延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子

*10:13.1.17 p495

*11:The Chinese Room Argument (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*12:What Is it Like to Be a Bat? - Wikipedia こちらにもデネットの反論が少し掲載されている。

*13:14.3.15 p540

*14:

屍者の帝国

屍者の帝国

*15:伊藤計劃, 円城塔屍者の帝国』p457