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Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第4章

学術書 レビュー

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)

Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting (MIT Press)


この記事ではDennettの"Elbow Room"の第4章「自作の自己(Self-Made Selves)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章、第3章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

本文要約

4 自作の自己(Self-Made Selves)

1 消失する自己の問題(The Problem of the Disappearing Self)

脳の中に自己や魂を求めることはカテゴリーミステイクのようなものであるかもしれない。

ここまでの自己制御についての議論では自己が何でどこにあり何でできているのかは触れられておらず、「消失する自己」の問題*1は残されたままである。

また、制御に関する説明は決定論における責任の問題に対する解決の一部でしかない。

因果関係の編み物における糸に対立するものとして、行為者であるというのはどのようなことなのだろうか*2

私たちは行為者について何かする者、単なる反応以上のものの源泉というイメージを持っている。

また私たちは自分たちがそのような行為者であると考えている。

このことから「行為者原因性(agent-causation)」という教義が生まれる。

それはある行為について、それが自由なもので行為者に帰せられるものかのか、それとも何か原因を持っていて行為者に帰せられないものなのかの二択であるという教義である。

この教義に従うと、もし私たちが自由に行為できるなら「不動の動者」という神にのみ帰せされる特権を得ることになる。

私たちは自己と行為者についての自然主義的な説明を得て、行為者を十分に因果の編み物から区別し、この曖昧でビクビクした形而上学を回避することがだろうか。

これがこの章の目的である。

さて、確かに私たちは不動の動者でなければならないように思われるのだが、そうとしか思えないというなら何がそうさせているのだろうか?

第一に、神経システムが生み出す結果の拡大によるスケールの幻想がある。

私たちは情報処理システムであり、それは小さな原因から大きな結果を生み出すスイッチの構造物である。

さらに、入力のスイッチ、すなわち感覚器官も増幅器である。

それらによって感覚による情報が増幅されることで、最終的にはその原因が結果に比して小さいために探索不可能な劇的な結果(行為)を生み出すに至る。

ゆえに私たちは行為者の行為に原因が何もないような仮説へと誘惑されていくのだ。

さらにこの原因の道筋は、一人称視点からの内省においても見えないものである。

ゆえに自分の意思決定にしても、それが自発的に生まれるのか偶然起こるものなのか分からない。

このことが、「中央司令塔」が内省する私たちがいるポイントとは別であり、それは私たちの中のより深いアクセスできない場所であるという奇妙な考え方を生む。

しかし、一体なぜ中央が存在しなければならないのだろうか?

この究極の中央という幻想が生じるのは、単一で一貫した観点としての自己という考え方から来るのだ。

そしてその考えを私たちの責任という先入観の元で推し進めると、「私たちがそれをしたのか?(Did I Do that ?)」と自分に問うことになる。


責任というものについての伝統的な考え方では、感覚などのインプットには責任は生じず、「自発的な」行動には責任が生じる。

しかし推定された中心*3を取り除いた時、私たちが検討している出来事は前後に揺らめき始める。

私たちは感覚的な現象に対する判断を保留することができないだろうか?

また、私たちの行動をよく見ると、自発的な行動はそれしていることではなく、正しくはそれをしようとすること(trying)ではないか?

さらに言えば、結局感覚の受容(acceptance)か何かをしようとすること(trying)のどちらかが自発的だということは明らかなのだろうか?

自由な行動の源泉となる中央が見えないことと、自分たちが実際に何かをしているという確信を捨てたくないことから、私たちは不動の動者、活動的な自己という不思議で神秘的なもので自己知識のギャップを埋めようとするのだ。

理論的な飛躍は、意思決定に行動が伴わない場合により明らかになる。

例えば、ベッドから起きて仕事に行こうと決意してもなかなか起き上がれない場合などだ。

私たちは意思決定が中央司令塔で発生すると考えるが、それは実際の行動を理想化し拡張し、理論が要求するところに意思決定を挿入して作り上げた心理学的な理論に過ぎない。

確かに昨日決意していなかったことを今日は決意しているわけだから、どこかで意思決定が生じなければならないのだが、そのことが不動の動者としての中央の行為者というものを生み出しているのだ。

このようなミスディレクションは生き残り得るはずもないが、それに代わる自然主義的な説明が与えられなければ未だに魅力的であり続ける。

次に私が行うのは、そのような説明を試みることだ。

2 自己定義の技術(The Art of Self-Definition)

まず私たちが自身になるプロセスを検討する。

それによって私たちは自由意志の問題を引き起こす恐怖から逃れることができるだろう。

特に自己の発達に寄与する「運(luck)」について見ていく。


とりわけ、自己は自己制御の座である。

鏡に映る自分が自分であるとわかるのは、それが似ているからでなくそれを制御することができるからだ。

私とは私が直接制御できる部分の総体なのだ。

しかし、全ての自己制御者が自己なのだろうか?

どんな有機体も自分を制御しているが、それらに備わる自己は私たちは自分たちに備わるものと比べてそれがとても初歩的なものだという直感を抱く。

さて、もう一度低次の生物と私たちの自己の間の違いを見てみよう。

そのような違いは進化プロセスの中でも見られるが、しかし人間個人の成長の中でも生じている。

生物学的、社会的な学習と成熟のプロセスのいくつかが幼児を自意識のある倫理的な大人に変えるのだ。

人間個人は人生の始まりにおいて、自身をどのように制御すればいいのかという問題を抱えている。

私たちはこの問題を解決するのに限られた資源しか持ち合わせていない。

このことは瑣末な問題に思えるが、サルトルの「根源的選択(radical choise)」という自己選択の考え方においては大きな影響を持つ。

根源的選択というのは昨日得たものを伴わない選択のことである。

サルトルのこのメタファーは私たちの誰もが持ちえない不思議な力を要求し、人々は科学がそれが存在しないことを証明してしまうと自由もまたないのだと信じてしまう。

新生児は真っ白な石板*4ではないし、学習し発達する能力が先天的に備わっている。

「硬い決定論(hard determinism)」を信じる人が心配するような過去からの制御はないことがわかったが、現在の私の意思決定や制御の能力については確証が得られない*5

どんな「性格変化(character transformation)」の決定論的プロセスが責任のない人間を意思決定だけでなくその性格にも責任のある人間に変えるのだろうか?

責任のない選択から責任のある自己が生じるプロセス、すなわち段階的に責任を得るプロセスを見つけない限り、不快な代案を選ばなければならない。

その代案とは、私たちが責任のある自己を持つことを否定するか、サルトルの考え方を採用して絶対行為者性に似た神秘的な教義を支持するかということである。

性格形成のプロセスには最初のステップが必要であり、それが行為者に制御できない意思決定であるなら、その産物には責任は生じないと考えられる。

二つ目のステップも同じであり、ゆえにそのようなプロセスは自身に性格に責任のある行為者による意思決定を生み出すことはない。

この考え方に従えば哺乳類は存在しないことになる。

なぜなら哺乳類は哺乳類の母から生まれなければならないが、私たちの祖先には明らかに哺乳類でないものがいるからだ。

しかしながら私たちは自分たちが哺乳類であることを知っている。

この議論における誤りは、人は何かが完全に自分が作ったものでない限りそれに対する十全な責任を持ちえないことを前提していることだろう。

その人が神でない限り当然何かが完全にその人が作ったものではありえない。

だから私が作り一般社会に影響を及ぼすものすべてについて私は責任を持つ。

そして私は自身であるところの行為者を作り解き放ったのだから、その行動が害をなすなら、製造者である私がその責任を負う。


それでは、どのようなプロセスによって自己創造がなされたのだろうか*6

前章で見たメタレベルの戦略を子供達が学ぶ最良の方法は「本を読む」ことだ。

洗練された自己制御者が直面する問いとは、自分が今採用している戦略をより良いものに改訂することができるのか、というものだがこの問いに答える「本」は存在しない。

そしてチェスのゲームの途中では教本を捨てて、発見学習をすることのリスクを負わなければならない。

またこのメタレベルの思考プロセスに携わるために、より高次の自己制御を望む者は彼の現在の信念、欲望、意図そして方針を、評価対象として表象できなければならない。

私たちの自身の思考に対する調査には不可避的に限界があるため、思案のプロセスの中で「正しい」思考が「早く」起こることが重要となってくる。

しかし決断に時間制限のある私たちはこの思考の順序を直接制御することはできない。

ゆえに私たちはこの思考の順序のままに行動することになるが、それを予想し自己改善を行うことでその信頼性を向上させることができる。

しかしこの自己批判やメタレベルの制御プロセスさえも時間制限を設けられている。

そしてどの程度の自己批判が適切なのかを教えてくれる「本」も存在しない。

私たちはなぜより高次の反省や自己評価を行い、行為者の「性格」を改善させようとする傾向を持っているのだろうか?

第3章で見たように私たちが将来出会う制約を予想することがメタレベルの制御を向上させるから、自己知識は有利に働く。

しかしそのシステムはあまりにも多くの自己知識によってオーバーロードしてしまう可能性を常に抱えている。

ゆえにこの自己評価の仕事に必要な特徴は客観的にそれより高次のものがなく、しかし同時に評価をより高次のものへと引き上げていくことである。

テイラーが言うところでは、根本的な再評価(re-evaluation)とは、それを評価するメタ言語が利用不可能であるようなものであるという。

自己内省があまりにうますぎる人は深みにはまってしまう。

最高次元の自己評価における信頼できなさは、有限な行為者は限られた時間やその他の資源内で大きな問題に直面した時、発見学習メソッドを使用しなければならないことに起因する。

探索空間が大きくなるほどに、盲目的に行為を選択しなければならない発見学習メソッドのリスクは大きくなるからだ。

この盲目的な選択はサルトル実存主義における「根源的選択」なのか?

テイラーは「根源的選択」によって選ばれなかった方の選択肢に価値がないとは言えない場合が存在するという。

私たちは何をすべきなのかについて客観的で「決定的」な答えは存在せず、答えを決める実現可能な「決意手順」もない。

しかし時間は迫り、私たちは行為しなければならず、後になってそれが間違いだったと学ぶのだ。

根源的選択という観点からは、時間に迫られて指した誤った手への非難を受け流すチェスプレイヤーのように自身の難しい選択への非難をただ受け流すのでない理由を持ちえない*7

この選択を行ったのが自分であると認めるにしてもそれは道徳的責任にとって十分でないのだ。

テイラーの言うところでは責任のさらなる地平は根源的な再評価を遂行する方法の特定の性質に由来する。

そしてこの再評価はそれを評価するメタ言語が存在せず、利用可能な定式の中で実行される。

例えば哲学において私たちは、始まりにおいて不正確に定式化されたと知っている問いから始める。

そして私たちは哲学上の問題との戦いの中で、その言葉が変形されていることを発見し、はじめにおいては正しく想像することのできなかった問いに答えられるようになることを期待する。

私たちが大切に持っているものを定式化しようとする試みは、何かに忠実であるよう努めなければならない。

しかしその何かは定まった度合いや証明方法を持った独立した対象ではなく、何が大切なのかについてのはっきりと言い表されない感覚である。

もしテイラーの言うような定式化の試みが成功したなら、この成功は私たち自身によると認められる行為以上のものに達する。

それは不完全で間違って定式化されたものをはっきり言い表して明確化することで定義された自分自身である。

これがテイラーの考える自己創造に伴う価値の創造の方法である。

カントも、自身に課す法そのものが自身を構成しているというこれと同じような内容を主張している。

さらにミルの言うところでは、「私」は快楽への願望と良心の咎めなどの衝突のどちら側でもある。

そして衝突の片側にあるということで同定された私の意志が「私」を作るのだ。

またノジックは自己定義について量子力学において量子の状態を確定させる観測のアナロジーを使っている。

この自己定式化という見方は、物質の変化のプロセスとは違った自己の段階的な発展という見方を再提出する。

自己定式化は情報的に敏感であり、曖昧に多数のレベルを持つメタレベルの批判の影響を受ける。

しかしこの立場は、私が理性の声を聞くことができるのは幸運からであり、ある人が誤りを起こすのは不運にも先祖の欠点を受け継いだからである、という批判を受けやすい。

私たちのどちらも生まれた日の自分に責任を持ちえず、ゆえにそれに続いて決定論的に形成された自己にも、それが構成的で創造的なものであっても責任を持ちえない。

私たちが十分な才能を持って生まれ、「良い」性格を作り上げたのは「ただの運」なのだろうか?

驚いたことに、運という概念と自由意志と責任の議論におけるその役割は哲学者たちにあまり注目されてこなかった。

3 自分の運を試す(Trying Our Luck)

運というものが実際に存在すると信じる人はいないが、私たちは出来事や属性を単なる幸運と特徴づける迷信的でない方法があると考える。

例えばアメリカとロシアが今後の外交上の問題を両国の代表者によるコイントスで決めることにして、その代表者を選出するトーナメントが開催されるとしよう。

この大会で勝ち上がって人間はランダムに選ばれた市民より今後のコイントスで勝利する確率が高いのだろうか?

運というものが存在してそれが人に備わる属性ならばそうだろうが、当然そうではない。

このトーナメントの勝者は、自身が生き残ったという事実から運は現実のものであり自然の何らかの力が彼を勝利させたと信じたい強い誘惑にかられるだろう。

また、そのトーナメントに勝利することに責任を感じる人もいるだろう。

それなら、勝者がトーナメントの存在に気付かなかった場合を考えてみると良い。

運というものが存在しなくとも、トーナメントはそれが行われる限り勝者を生み出すのである。

私たちはこの場合と似たように私たちの行為についても誤って責任を感じているのだろうか?

コイントスのトーナメントの勝者と同じように、私たちは一人の先祖も淘汰されていないという幸運によってここに存在している。

生存競争のコイントスのトーナメントとの違いは、そこにおける勝利が個人に帰されるのではなく遺伝子に帰されるという点だ。

遺伝子の競争は純粋な能力のテストであり、私たちは遺伝子の生存競争のこのラウンドを勝ち抜く能力を受け継いでいるに違いない。

能力は運と違って人に投影できるものだ。

不運にも能力に恵まれなかった人に責任があるとは考えないが、そうでない人には責任を求める正しい理由がある。

能力と運の関係は複雑である。

能力があればあるほど自身の活動を制御することができるので、人は幸運を必要としなくなるし、その人の成功が単なる幸運であると言われることもなくなる。

自己改善の能力が高い人間の成功は彼の幸運に帰されず、私たちは彼に対して多くを望む。

それは「ノブレスオブリージュ」と言うことわざにある通りである。

しかしさらに、単なる運だと言われる行為者の環境には生まれた当初の才能と彼が自己創造の中で出会った好機の多さの二種類があると言いたくなるだろう。

マラソンにおいては最初の有利は、道中の他の好機によって相殺されてしまう。

結局、運は長い競争の中では平均化されてしまうのだ。

道徳の発達や行為者性の取得も短距離走ではなくマラソンに似ている。

しかしこれらは競争ではなく、母国語を学ぶプロセスと同じように人々を遅かれ早かれ発展の高地へと連れていくプロセスである。

ゆえに最初に持っている才能とそれに続く幸運は一般的には平均化されてしまう。

能力を得る機会を得られた幸運というものを突き詰めて考えると、あらゆる出来事が幸運に帰されてしまうし、そもそもその人が生まれてきたことが天文学的な幸運である。

この考え方では能力というものは全て幸運に帰されてしまうが、それは間違いだ。

幸運な成功と不運な失敗の間に能力が入る余地(elbow room)を認識すると誰も責任を持ち得ないという主張は蒸発してしまう。

私たちは思考と自己制御の能力に優れ、お互いを信用して責任を求め、正しいことを行うよう期待する。

そのような地位にある人々が正しいことを行うとそれは幸運とは呼ばれない。

私たちは、スター選手が完全に運を超越しているわけでないのと同じように、責任のある行為者であることに完全な責任を持っているわけではない。

責任のある行為者である私たちは自身の思考と自己制御の能力と責任ある市民としての地位を失う確率の高い環境を避ける傾向を持つようデザインされている。

ただし時折予期せぬ事態によってその能力を失ってしまうが、それは不運であったということだ。

また思考能力の低い子供や不運にも意思決定が下手な人間に対しては期待を抱かない。

ゆえに彼らにとって運に含まれるものは私たち大人には運に含まれないのだ。

4 概要(Overview)

この章で焦点が当てられた恐怖とは単なるドミノの列から自己を区別する自然主義的な理論が存在しないのではないかというものだった。

私たちは単なるドミノではなく、道徳的な行為者でありたがる。

自然主義的に考えられた自己の特別な点を見返してみよう。

物理的宇宙のある一部だけが熱力学の第二法則による崩壊に抗い得ると言う性質を持っている。

そしてそのうちのいくつかだけが次に何が起こるのかを予測し、自身を含む物事を制御するという性質を持っている。

さらにそのうちのいくつかだけが自己改善の能力を持ち、そしてそのうちの少数が言語による自己記述を必要とする「根本的な自己評価」の制限のない能力を持っている。

そしてこの部分は自己制御、才能、意思決定の座であり、計画、関心、自身が自己評価と自己定義の中で作り出した価値を持っている。

一つのドミノが物理的世界のこの一部たりえるだろうか?

コメント

第4章「自作の自己(Self-Made Selves)」は行為の責任と道徳性の座である「自己」をいうものを物理主義の世界観からどう導き出すのかという議論であった。

二元論的に物理世界とは関係のない「自己」(「魂」とも言うだろう)を想定すれば話は簡単なのだが、二元論はどうにも具合が悪い。

しかし物理主義においては因果関係が全てであり、一般的には自由や責任を持った「自己」は存在しないと考えられている。

そこでデネットは物理主義においてもそのような「自己」が存在することを示そうとするのである。


第4章1節では「行為者原因性(agent-causation)」という考え方(デネットの言い方では教義(dogma))が登場した。

感覚刺激と反応の大きさのギャップが「不動の動者」としての行為者を想定させるという点そのルーツとなっているという点が興味深かった。

また『解明される意識』ではカルテジアン劇場(ここでは「中央司令塔」)と呼ばれていたものも議論されている。

この幻想に取り付かれていることも「行為者-因果関係」を生み出す原因となっているようだ。

ここでは述べられていないがデネットの論ではこのカルテジアン劇場は存在せず、意識は「多元的草稿」と呼ばれるモデルで説明される。

この辺りは『解明される意識』第二部に書かれている*8


2節では責任というものが段階的に発生する様子と、自己定義による「自己」の創造について説明された。

責任のない状況や選択から責任のある自己が作り出されてくることは、一見して「砂山のパラドックス*9なのだが、デネットはこのパラドックス自体を直感に反するとして否定しているようだ。

私はこの問題は、言語自体が「砂山である」/「砂山でない」、「責任がある」/「責任がない」という二項対立でしか思考できないように作られている点に原因があると思っている。

そして言語がそのような構造であるのは、意識が「多元的草稿」の二つ以上の草稿間のインターフェースとして生じているという点に起因するのではないだろうか。

また自己定義によって「自己」が生じるという点については同じく『解明される意識』第三部で登場した「物語重力の中心」としての「自己」とリンクしているように思った*10

「物語重力の中心」というのは私の行動や思考を言語によって記述するときに、言語が構造上必然的に指定する一人称のことであり、「自己」とはそのようなものに過ぎないという見解である。

この"elbow room"で言う「自己定義」がそのまま「物語」を作ることだと言い換えられるだろう。

そしてその「物語」の作成が自己をモニタリングすることであるとされている点も「自己評価」=「自己定義」という論点と重なる。

また"elbow room"第4章4節で自己評価の能力が言語を必要とすると言っているのもこの関係を示しているのだろう。

自分を見つめ直し葛藤することがそのまま自己の獲得に繋がるのだから、伊藤計劃『ハーモニー』*11のようにあらゆる意思決定が技術的に制御されるようになれば「自己」が消失するということも現実にあり得るように思う。

伊藤計劃デネットその他を読んでいたという話は有名だが、なるほどそういうつながりがあるのかという納得があった*12


3節における議論の基礎は、ある選択が可能であるような能力を持った人間にしかその選択の責任を求められない、ということだろう。

この見方自体は直感的にも支持できるものだと思う。

また「砂山のパラドックス」を否定したことから責任のない最初の選択から、選択の積み重ねの中から少しずつ責任のある「自己」が生み出されることが可能となってくる。

この考え方は「責任がある」/「責任がない」という二項対立を否定して、「運」と「能力」のスペクトラムの中で行為を位置付けるということだろう。

確かに「責任のない子供」「責任のある大人」をきっちりと分ける境界線は実際上存在しないし、この考え方の方が現実に適しているように思われる。

ただ、生まれた当初は自分ではどうしようもない性格や能力から発するプロセスで生じた「自己」に責任を求められることに納得できない人もいると思う。

しかし段々と責任が生じてくるプロセスを受け入れないとなると、二元論的な「不動の動者」「魂」といった絶対的なものに責任を帰するしかなくなる。

そもそも生まれた当初の完全に責任のない状態の差異は、長い人生の中での出来事と辿り着く場所の広さから平均化されてしまうので、スタート地点における差異をそこまで気にする必要もないのである。


以降の章については次の記事。
re-venant.hatenablog.com

*1:詳しくは第1章の記事の第2節の部分を参照。 re-venant.hatenablog.com

*2:原語では"What is it to be an agent…?"となっていて、ネーゲルの思考実験"What Is it Like to Be a Bat?"( What Is it Like to Be a Bat? - Wikipedia )を意識しているものと思われる。ちょうどこれが書かれている段落でネーゲルが引用されている。

*3:「中央司令塔」のこと。これらの例えはカルテジアン劇場( カルテジアン劇場 - Wikipedia )のことを指しているのだろう。

*4:タブラ・ラサ」の事。Tabula rasa - Wikipedia

*5:過去からの制御の否定については第3章6節参照。 re-venant.hatenablog.com

*6:以下の論の進みが見えづらいと思うが、メタレベルの制御を得るために行う自己批判のプロセスにおいて自己を表記することが自己を生み出すことなのだという話になっていく。

*7:根源的選択という考え方で行動しても自身の行為に責任を持ちえないということだろう。

*8:re-venant.hatenablog.com

*9:砂山のパラドックス - Wikipedia

*10:『解明される意識』第三部第13章参照。 re-venant.hatenablog.com

*11:

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

*12:「Anima Solaris」の『虐殺器官』著者インタビューに"だから、ピンカーの著書やデネットの「自由は進化する」はすでに読んでいましたが、このアイデアを思いついてから進化心理学に関する本をいくつか急いで読みました。マイケル・ガザニガの『脳のなかの倫理』はとりわけ刺激を受けました。"とある。http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml