ハイデガー『存在と時間』(一)③
『存在と時間』第一分冊について記事の三つ目。
この記事では第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)の内容とそれについての感想を書いていく。
序論(第一節〜第八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。
本文内容
第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明
第一篇 現存在の予備的な基礎分析
第三章 世界が世界であること
第十四節 世界一般の世界性の理念
世界内存在を解明するために、まずその構造契機となっている「世界」について考えていかなければならない。
「世界」について考えることが通常意味しているのは、世界の内部で現存在に出会われる存在者たちについて記述することである。
その記述は存在者の見た目や関係性を存在的に物語ることでしかないので、存在そのものを解明することはできない。
「世界」を存在的にではなく存在論的に記述することは、現存在が世界内で出会う存在者の存在そのものを提示してそれをカテゴリー的に規定することだろう。
存在者には自然的事物(実体)と人間が価値を付与した「価値を帯びた事物」の二種類があり、価値を帯びた事物も実体に基づいているのだから、まず実体を存在論的に探求するべきだということになる。
しかし自然や実体といった存在者の存在を解明していくことが「世界」という現象そのものを解明することにつながるのかといえばそうではないし、反対に価値を帯びた事物の存在の解明も「世界」そのものの解明には至らない。
世界内部的な存在者を存在的に描写すること(ontische Abschilderung)も、そうした存在者の存在を存在論的に解釈すること(ontologische Interpretation)も、そのものとしては「世界」という現象に到達しない。*1
すると「世界」を世界内部的な存在者を規定するカテゴリーとして考えることはできないのだろうか。
「世界」がカテゴリーではなく現存在の実存カテゴリーなのだとしたら、それぞれの現存在が固有の世界を持っていることになるのだろうか。
そうすると現存在同士に共通の世界、すなわち世界一般の世界性というのはどのようにして考えられるのだろうか。
ここでいう「世界性」は世界内存在としての現存在を構成する実存カテゴリーである。
しかし「世界」が現存在以外の存在者のカテゴリーではないからと言って、その存在者の存在を解明することが不要になるのかといえばそうではない。
このような論点から、世界を現象学的に解明するというのは一体どういうことなのかを前もって考察しておかなければならないということがわかる。
そもそも「世界」という言葉が多義的で混乱を生み出しているので、以下の四つに分類整理する。
- 存在的な意味での「世界」 これは目の前にある存在者の総体として捉えられる。
- 存在論的な用語としての世界 これは存在者の存在を意味しているが、数学者のいう「世界」のように存在者の多様なあり方を包括する対象領域を指すこともある。
- 現存在が「そのうちで」生きている場所 この場合一般的な世界や周囲世界(Umwelt)を意味することもある。
- 世界性という概念
本書では一番目の意味での世界は「世界」と表記され、世界という語は三番目の意味で用いられる*2。
また「世界的」という語は現存在のあり方を指していて、他の存在者が世界内にあることは「世界内部的」と表記する。
人は現存在の世界性からでなく、世界内部的な存在者の存在構造をカテゴリー的に総括したものである「自然」から世界を理解しようとしているが、それでは「世界性」を理解することはできない。
逆に自然という概念は現存在を解明して世界性を理解することで初めて存在論的に理解可能になる。
そこでなぜ現存在は世界内存在というあり方と自らの世界性を見過ごしてしまうのか、という点が示される必要がある。
またその見過ごしを防ぐために現存在はもっとも身近な存在のし方である「平均的日常性」から分析されなければならない*3。
この日常的な現存在において身近な世界は「周辺世界」であり、世界内部的な存在者の存在論的解釈をすることなしにこの周辺世界の世界性(周辺世界性)を直接解明していくことが必要になってくる。
しかしこの「周辺」という語は空間的に周囲にあることを意味しない。
デカルトの二元論では空間性から世界を延長するもの(res extensa)として解釈し、それは思考するもの(res cogitans)と対立しているが、世界性の分析はそれとは全然違っている。
この二元論とここでの世界性の分析を見分けていくため以下の第三章A「周辺世界性と世界性一般との分析」B「デカルトにおける「世界」の存在論に対して、世界性の分析を例示的にきわだたせること」C「周辺世界に属する〈周囲であること〉と、現存在の「空間性」」という三段階で考察が進んでいく。
第三章A 周辺世界性と世界性一般との分析
第15節 周辺世界のうちで出会われる存在者の存在
日常的な世界内存在は操作したり使用したりすることである「配慮的気づかい」として存在している。
そこでまず現象学的に解明されるべき対象はこの「配慮的気づかい」としての現存在が出会う存在者である。
様々な解釈によってそのような操作され使用される存在者と「配慮的気づかい」というあり方が覆い隠されてしまう。
この誤りについては、どのような存在者が存在を解明する前の予備的な主題となるのかを考察する中で明らかになっていくだろう。
普通、人は主題となるべき存在者は「事物」だと考えるが、事物についての存在論的分析では配慮的気づかいの中で出会われる存在者が見落とされている。
他にも人は事物を「価値を帯びた事物」と特徴付けたりするが、その特徴によって配慮的気づかいにおいて出会われる物の性質を表現できているのだろうか。
ギリシャ語に「事物」を表す適切な用語として「実用品(プラグマタ)」というものがある。
これは「行為(プラクシス)」の対象となるもののことであるが、実用的な意味を曖昧なままにして単に「事物」として用いられていた言葉である*4。
本書では配慮的気づかいにおいて出会われる存在者を「道具(Zeug)」と名付ける。
この道具とはどういうもので、どういったあり方で存在していうのだろうか。
まずこの道具は一つの全体の中で存在していて、一個の独立なものとしてあるのではない。
道具は何かのためにあるものであり、その指向性の連関が例えば部屋といった道具全体を形作っている。
そして人はまず「部屋」という住むための道具全体に出会っていて、その中で扉や机などの個々の調度が道具として現れてくる。
個々の道具に合わせて指示の連関を限定した「交渉」の内でのみ道具は全体性から切り離されて現象として現れてくる。
しかし例えばハンマーを振ることでハンマーが事物として現れてくるのではなく、そうした交渉において配慮的な気づかいは道具とその指向性を自分のものとしている。
こうして用いることで現存在は道具と根源的な形で出会うことができるのだ。
このような道具の存在のし方を「手もとにあるありかた(Zuhandenheit)」と名付ける。
事物をただ眺めるだけではこの手元にあるありかたを理解することはできない。
だからと言って道具とのこの交渉は視覚を欠いたものではないし、むしろ固有な〈見ること〉を有している。
現存在が道具の使用においてのその指向性に適応しながら行うこの〈見ること〉が「目くばり(Umsicht)」と呼ばれるものである。
そしてまた観察することも一つの配慮的気づかいなのだから、理論的観察と行為の二分法で考えることは間違っている。
「手もとにあるもの」はこの「目くばり」において主題化されているわけではないし、目立たない形で存在している。
現存在が気遣っているのは道具を用いてなされる仕事であったり作られる製品の方で、それらは道具の指向性の全体を形作っている。
そしてまたそのような仕事や製品も何かのためにあるという指向性を有しているから、現存在は配慮的気づかいにおいてその指示されている対象にも出会っている。
また逆に製品には「材料」としてそれを形作る素材が指向されている。
素材には、そのものは何からも制作されず自分で自分を生成している動物や植物などの存在者も含まれる。
それら「自然産物」としての自然もこの指示の連関の中で現存在に出会われているのだ。
また、制作された製品はそれを使う者として人間を想定しているから、製品とともに現存在は人間という存在者にも出会っている。
現存在はこれとともにその指示された人間が住んでいる世界にも出会っているが、その世界とは自分が住んでいる世界と同じ世界なのである。
そしてまた、例えば屋根のある駅のプラットホームは雨や雪を想定して作られているから、現存在は気づかいにおいて「周辺世界という自然(Umweltnatur)」にも出会っている。
配慮的に気づかいながら、もっとも身近な製品世界にそのときどきに没入することが、覆いをとって発見する機能を有する。その機能の本質にぞくしているのは製品世界のうちに没入していくそのしかたにしたがって、世界内部的な存在者——製品において、すなわちその製品を構成する様々な指示にあって、ともに関与させられている存在者——が、明示性の様々な度合において、つまり目くばりしてすすんでいく多様なひろがりとともに、覆いをとって発見されるものでありつづけていることなのである。*5
こうしたあり方が「手もとにあるありかた」だが、それは事物に主観的に意味づけすることによって生まれるのではない。
仮に主観的に意味づけされたものなら、まず存在者は「目の前にあるもの」として発見されてその上で意味を付与されなければならない。
しかし認識作用は常に配慮的気づかいとして存在者に関わっている世界内存在の様態であり、認識するためには対象との交渉を停止しなければならない。*6
だから現存在は手元にある存在とまず出会っていて、それとの関係を一時中断することで対象を認識することができる。
「目の前にあるもの」まず認識してそれを「手もとにあるもの」として主観的に意味づけすることはこの認識作用の構造に矛盾している。
しかし、「手もとにあるありかた」が世界内部的な存在者の存在体制で、それが「目の前にあるありかた」を基礎づけていることが分かったとしても、それら世界内部的存在の総体としてあるわけではなく、むしろそれらが前提としている世界現象の解明につながっていくのだろうか。
第十六節 世界内部的な存在者にそくしてじぶんを告げる、周囲世界の世界適合性
世界は、それ自身は一箇の世界内部的な存在者ではない。*7
しかし世界は手もとにある存在者や世界内存在を規定しているのだから、現存在は存在についての先だった了解と同じように世界について前現象学的な了解を有しているのではないだろうか。
配慮的な気づかいにおいての世界内部的な存在者との出会いでそれが「世界に適合していること(Weltmäßigkeit)」が発見される。
例えば道具が破損していたり目的に不向きで「利用できない」ことがあると、それは「手もとにないもの」として目立ってくる。
その時道具は「目の前にあるもの」として現れるがそれはあくまで「手もとにあるありかた」を前提としていて、修理されたりすることによってまた「手もとにあるもの」に戻っていく。
また配慮的な気づかいの交渉の中で欠けていて「持ち合わせていない」ものに気づくこともある。
そうすると現状手もとにあっても仕方ないものは「押し付けるようなありかた」で現れてきて、「目の前にあるもの」として捉えられる。
他にも使っている時間がなかったり場違いで邪魔になったりするものも「手に負えないもの」、「手もとにないもの」として現れ、同じように「目の前にあるありかた」をするようになる。
これら「利用できないこと」「押し付けがましいこと」「手に負えないこと」は道具を「目の前にあるもの」として浮かび上がらせる機能を持っている。
しかしそれはただ目の前にある事物なのではなく常に「手もとにあること」に基づいて存在している。
道具は「手もとにあるありかた」を失うのではなくそれに「別れを告げ」ていて、その時それら道具の世界に対する適合性が見えてくる。
道具は存在構造は指示の連関によって規定されていて、道具は配慮的な気づかいの中で出会われる。
その中で利用できないものに出会う時配慮的気づかいは指示が妨げられて連関が欠落していることに気づく。
そこで逆説的に指示そのものが明示的に認識されて、それに伴って指示の連関の全体すなわち世界が見てとられる。
同様に欠けているものに気づくときもその指示連関の「破れ」を見つけていて、そこでも周囲世界が見てとられるようになる。
このようにして「開示(Erschließen)*8」された世界は、存在者の認識や観察に先立ってすでにそこにあるもので、「目の前にあるもの」ではない。
またこの世界は「手もとにあるもの」から構成されているのではない。
指示性の連関としての世界が見てとられる時、道具が手もとにあるものとして了解されることをやめて単に目の前にある事物として捉えられるようになる。
また反対に道具が手もとにあるものとして扱われている時それが持つ指示性は明示的なものとならないのである。
「利用できなくはない」「押し付けがましくない」「手に負えなくはない」という否定形で表されるのが手もとにある道具の性質である。
このように自体的な道具を「目の前にあるもの」に帰属させて考えていては存在論的に十分ではない。
しかし道具について「目の前にあるもの」として語って解釈することが存在論において必要となるのではないかと考えられるかもしれない
その際人はこの存在者を存在的に引き合いに出すが、世界内部的な存在者は世界現象そのものに基づいてのみ解明されうるためそれもまた存在論的に不十分だ。
世界を何らかの仕方で見て取ることができるならそれはあらかじめ開示されているので、現存在はすでにそこにいる世界から出発して存在論的探求を行いそこに帰ってくるのである。
以上から世界内存在というのは道具の指示連関に没入していることを意味していることがわかる。
この世界との親しみの中で現存在は自分を忘れて世界内部的な存在者に気を取られている。
さてそのような指示連関の全体性はどのようなもので、それに適合していることが理解できるのはどうしてなのか。
この問いは世界性の現象と問題を解明することを目指していて、またそれに答えるためにそうした指示連関の中でその問いが問われるという構造についても解き明かされなければならない。
第十七節 指示としるし
ここまでで道具について見てきたが、その中で「指示」というものがその存在構造として現れてきた。
さらにそのような道具の指示構造が世界を構成していることも分かったので、道具とそれが有する指示構造を解明することが世界さらなる理解につながっていくだろう。
道路標識や信号といった「しるし(Zeichen)」という道具においてこの指示構造が多層的に現れてくる。
このしるしの関連様式を形式化していくと、存在者一般の特徴の理解に役立つ手引きが得られる。
さて、そのしるしの形式的な意味とは関連づけることだ。
しかし関連することのすべてが示すことを意味しているわけではないので、指示という現象を関連することに結びつけて考えても得られるところはない。
むしろ指示という現象に関連という概念の存在論的な基礎があることが明かされなければならない。
まずは「指示」と「しるし」を区別して考えることが必要となってくる。
「しるし(Zeichen)」は「兆候、前兆と形跡、標識、目印(Anzeichen, Vor- und Rückzeichen, Merkzeichen, Kennzeichen )」などで、それらは「痕跡、遺物、記念物、記録、証書、象徴、表現、あらわれ、意義(Spur, Überrest, Denkmal, Dokument, Zeugnis, Symbol, Ausdruck, Erscheinung, Bedeutung )」と区別されなければならない。
こうした諸現象を安易に形式化して「関連」から見ていっても何を言ったことにもならない。
しるしの例として車の行き先を示すウィンカーを用いる。
このウィンカーは運転手の配慮的気づかいにおいて操作されているが、それだけでなくその表示を見た人が車の行き先を知るためにウィンカーという道具を使用している。
ウィンカーは「手もとにあるもの」として道具の指示連関の中にあるが、ウィンカーが方向を「示す」ことは道具の存在論的な構造ではない。
何かの役に立つことという意味での「指示」はすべての道具が持つ存在構造だが、「示す」ことは「しるし」という一部の道具が偶然持っている性質である。
だからこの「指示」と「示すこと」は一致していない。
例えばウィンカーにおいてそれが車の部品として自分を点灯させるボタンを「指示」したりするのと、ウィンカーが車の行き先を「示す」ことは異なっている。
さて、そのような「示すこと」とは何を意味しているのだろうか。
ウィンカーを見たときその方向から身をそらしたり立ち止まったりするが、それは常にどこかを向いていて何かをしている世界内存在の本質的なあり方に他ならない。
しるしはこのように空間的にある現存在の配慮的に気づかう交渉の目くばりに向けられていて、その目くばりはしるしに従って周囲世界が「周囲にあること」を見わたすことになる。
この「見わたし」によって「手もとにあるもの」の全体が有する(指示)連関構造を知ることができて、配慮的に気づかう交渉に方向づけがなされる。
(しるしとは)道具全体を明示的に目くばりの中に引きあげて、その結果、それとともに、手もとにあるものが世界に適合していることが告げられるような、一箇の道具なのである。*9
しるしを作り出すことにおいてその性質がさらに明らかになる。
しるしは「あらかじめ見ること(Vorsicht)」において作られ、「あらかじめ見ること」が成り立つためには周囲世界がを目くばりの中に現れてくることが可能でなければならない。
手もとにあるものは普通目立たない形で存在しているから、特別な道具であるしるしがそれを目立たせることが必要となる。
そしてまたしるしの制作においてはしるし自体も目立つものであることも考慮されなければならない。
その場合しるしは単に恣意的に選ばれるのではなく「容易に接近可能となる」ことを意図して設置される。
またしるしは手もとに存在していない道具が新たに制作されることだけでなく、すでに手もとにあるものの中から選ばれることによっても作られる。
しるしとして選ばれたものは手もとにあるあり方を通じて初めて「目の前にあるもの」として接近可能となる。
例えば雨を告げる南風は気象学的に目の前にあってその上で前兆としての機能を与えられるのではなくて、農業の計画(指示連関)の目くばりの中で計算に入れられるという形で初めて発見されるのだ。
しるしとして取り上げられるものはそれに先立って把握されていなければならないが、それは「理解されていない道具」として出会われている。
しかし理解されていなくても手もとにあるものは単なる事物として考えられてはならない。
しるしは単に目立つあり方で制作されているだけでなく、自力で目立たないあり方から目立つあり方を取り出してくる。
例えばハンカチの結び目というしるしは示すものが曖昧だがしるしという性質を失うことはなく、むしろ人はそれをなんとなく気にしてしまって「押し付けがましいもの」として目立ってくる。
以上のしるしの解釈によって以下のことがわかった。
- 「示す」ことは道具一般が持つ「指示」に基礎付けられている。
- しるしの作用は道具の指示連関の全体に属している。
- しるしが手元にあることで周囲世界が接近可能になる。
しるしは一箇の存在的に手もとにあるものであって、そうした特定の道具として同時に、手もとにあること、指示全体性並びに世界性が有する、存在論的な構造を暗示する或るものとして機能している。*10
「指示」は「しるし」の基礎だからしるしから指示を考えることはできない。
「指示」はどのような形で道具の存在論的な前提なのか、さらにそのような「指示」はどこまで世界性一般を構成しているのかが解明されなければならない。
第十八節 適所性と有意義性——世界の世界性
世界は手もとにあるもの全ての前提となっているし、現存在が世界内部的な存在者に出会う時常に同時に出会われている。
さて、世界内部的存在者が配慮的気づかいにおいて出会われることの意味は何であり、それはどのように世界を存在論的に際立たせるのだろうか。
まず世界はどのようにして指示という体制を持った道具を出会わせることができるのか。
道具の存在論的構造を記述する「属性」は道具の具体的なあり方ではなく「何かに向いていること/向いていないこと」である。
道具の存在体制である「指示」はこの「向いていること」を道具の具体的な機能として実現することを可能にする条件に過ぎない。
この「指示」は手もとにあるものが何かに指し向けられているという性質を持っていることを意味している。
指示はある存在者の「〜(それ自身)によって〜のもとで(mit…bei…)」というあり方の関連を暗示していて、その関連によって存在者は適所性を得る。
例えばハンマーという道具は、ハンマーという道具それ自身に「よって」釘を打つこと「のもとで」世界のうちで適所性を得るのだ。
適所性は存在者についての存在論的な言明であり、それに基づいてそのつど存在者は開示されている。
この適所性は同時に役立つあり方であり利用可能なあり方でもある。
例えば、そのことのゆえにハンマーと呼ばれる、この手もとにある存在者によって手にとって振るうことのもとで適所性がえられ、この振るうことによって釘を打つことのもとで適所性がえられ、この釘を打つことによって風雨を防ぐことのもとで適所性がえられる。風雨を防ぐことは、現存在の宿りのために、つまり現存在のひとつの可能性のために「存在して」いる。*11
どのような適所性がえられるかは、適所全体性(指示連関の全体性)において先立って決められている。
この適所全体性は最終的に、世界内存在として世界性をその存在体制のうちに含んでいる現存在に「なんのゆえに」という形でたどり着く*12。
道具存在は現存在の存在に関わっているが、現存在においては自分の存在すなわち実存が問題なのである。
この構造についてはさておき、まずは「適所をえさせること」を詳しく解明していく。
適所をえさせるとは、存在的には、或る手もとにあるものを、事実的な配慮的気づかいの内部でそれがいまや存在しているとおりに、またそのことによってそのように存在しているとおりに(wie es nunmehr ist und damit es so ist)、これこれのように存在させることにほかならない(sein lassen)。*13
この「存在させること」は今まで存在していなかったものを製作して新たに存在させることではなく、すでに存在しているものを発見することだ。
これは「ア・プリオリ」に適所をえさせることでそれは現存在が道具に出会うことを可能にする条件であり、その中で現存在は「存在的に」道具の置き場所を変えたりして適所をえさせることができる。
ア・プリオリにすでに道具を適所に配置していることは現存在の存在を特徴付けている。
適所をえさせることを存在論的に捉えると、「なにのもとで」の用途の側からその物自体の存在(「なにによって」)が開示されることである。
道具の適所性は適所全体性が先立って発見されていることの中で発見されるが、この適所全体性は世界への関連を内蔵している。
存在者を適所全体性のうちで開示することのうちでは、「覆いをとって発見されているありかた(Endeckenheit)*14」を取らず、道具が出会われることの前提となる世界があらかじめ開示されている。
このことは先だった存在了解を有している現存在が世界内存在であることから、現存在がすでに関わっている世界を理解していることを意味している。
適所性の全体(世界)は現存在に先立って了解されているが、それによって現存在は「そのゆえに」存在している自身の存在可能性から或るものに「〜のために」という形で指し向けられている。
つまり現存在は最終的に自分へと立ち返ってくる指示連関の「なにのゆえに」から一定の適所性を目指して自分を指示している。
そして現存在は自分を指示することを「そのうちで」行っている世界を先立って理解しているが、その世界が現存在が存在者と出会うことを可能にしている。
そこで、現存在が自分を指示することの連関は存在論的にはどのようなものなのだろうか。
まず指示作用の関連が持っている「関連させる作用」を「有意義的に指示する作用(bedeuten)」と捉える。
このような関連と親しむ中で現存在は自分を有意義的に指示している。
道具に最終的に指示された現存在が何かしらの適所性を得ていく関連は、有意義的に指示されたものであるのでその関連を有意義性と名付ける。
この関連性は入れ子状の構造になっていて、そして世界の構造を形作っている。
現存在は、自分がこの有意義性と親しんでいることで、存在者が覆いをとって発見されることに対して、それを可能にする存在的な条件であって、その場合存在者は、適所性(手もとにあるありかた)という存在の仕方をともなって、何らかの世界のうちで出会われ、かくて自らの自体的なありかたにおいて、自分を告知することができるのだ。*15
現存在は存在していることにおいて既にこの連関を了解して自分を世界へと「割り当てて」しまっていて、このことも現存在の本質である。
この有意義性は「意義」を理解するための存在論的な条件や、適所全体性を発見するための条件でもある。
さて、このように適所性や世界性を有意義性によって捉えると、存在者の実体が関係の体系に還元されたり、関係が思考によって捉えられるものであることから「純粋な思考」に還元されてりしてしまうのではないだろうか。
存在についての研究の中では存在論的な問題系の様々な構造、次元をきっちり区別しておかなければならない。
- 世界内部的な存在者(手もとにある道具)の存在
- 操作を控えることで現れてくる「目の前のあるもの」の存在
- 世界内部的な存在者を発見する条件の存在(世界性)
初めの二つは存在者のカテゴリー、最後の一つは実存カテゴリーだ。
有意義性を形式的に捉えると、存在者の内実が失われてしまう。
有意義性における関係は思考によって生み出されたものではなく、配慮的な気づかいが既にその中にあるもので、世界の世界性に基づく存在者の自体的なあり方において発見される。
その関係が数学的に捉えられるのは、そのような存在者が目の前にあるあり方を取っている時のみであり、そのあり方は常に手もとにあるあり方に基づいている。
さて、世界性をさらに分析していく前にデカルト的な極端な世界性の解釈を取り上げるべきだろう
感想
この部分で最も興味深かったのは道具としての存在者と「配慮的な気づかい」としての私たち現存在の関わりについての考察だった。
現存在を「平均的日常性」から捉えて「配慮的な気づかい」だとするという考え方は(私が知らなかっただけだが)革新的だと思う。
配慮的気づかいとして現存在があるというのは、私たちは常に「何か」をするという形でその対象となる「何か」とセットで存在しているということだろう。
主観や客観がどうとか意志と表象がどうとか考える際に確かに「私たちは常に何かをしている」ということを忘れてしまっていた。
確かにその点を見過ごしていては現存在が実際にどうあるのかは解明できないだろうと思う。
また、現存在以外の存在者が何らかの指向性を持った道具として現存在に出会われるというのは納得できる考え方だった。
存在者は感覚の寄せ集めや表象など単なる事物として捉えられがちだが、それだけではダメで世界全体における連関と現存在との関わりの中で捉えられて初めてその存在がわかってくる。
しかし現存在が道具の指示連関の最終目的であるという点についてはカントを参考にしているということでカントを読んでいない自分にとっては論の進み方がわからなかった。
ただ、道具は例えばドーキンスにおける「延長された表現型効果*16」のように人間の役立つように作られていることは間違いない。
そして自然現象も人間が利用するものとして捉えられる限りでは現存在を指向している。
このようにして世界内存在全てに指向された現存在は、しかし何かをする者としてあるのだからそれ自身指向性を持っている。
だから指向性の全体すなわち世界は円環構造を取っている。
ところで現存在は有意義性の全体を見て取ることである適所性へと差し向けられると書いてあるが、その辺りが具体的にどうなるのかがわからなかった。
そうした連関との親しみの中で現存在は、じぶん自身を「有意義的に指示する」。*17
と書いてあるから現存在は自分のあり方を自分で選んでいくだろうか。
となると現存在はあらかじめ決められた有意義性の連関の中で自身のあり方をすでに決められた存在者ではなく、自由な存在者だということになる。
しかしその自由はどのようにして保証されているのだろうか。
唯物論の観点から見れば私たちの行いは遺伝子やミームによって定められているし、「主体」があり方自由に選び取るということはなさそうに思える。
しかし全てを「目の前にあるもの」として見て存在への問いを見過ごしている唯物論はハイデガーの存在論的枠組みにおいて前提から批判されている。
また現存在の分析が主観と客観の二分法を批判している点から、「主体」というものについても今まで通りに考えていてはいけなさそうである。
その辺りを今後の内容から読み取っていければいいなと思う。
第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
*1:1.1.3.14.179 p312~313
*2:ただし注解によるとその区別は必ずしも一貫していないらしい。ちゃんとしてほしい。
*3:いわゆる認識論で「認識する私」として捉えられるようなあり方は日常的ではなく、そのような捉え方では現存在の本来的なあり方が解明できないということが言いたいのだろう。
*4:ここから対象を「実用品」ではなく「事物」と捉える傾向が生まれたと言いたいのだと思う。
*5:1.1.3A.15.203 p344
*6: 世界内存在は配慮的気づかいとして世界に気を取られているが、認識するためには対象の制作や操作をやめてそれらのもとで立ち止まらなければならない。
ただしこのあたりは自分の解釈である。
*7:1.1.3A.16.206 p349 注解によるとカントやフッサールは世界は独立のものではないと考えていたようだ。
*8:erschließenには「推論する」という意味もあるがここではそれは意味されていない。
*9:1.1.3A.17.229 p381
*10:1.1.3A.17.235 p393
*11:1.1.3A.18.238 p401
*12:注解によるとここの主張はカントの「人間は手段ではなく目的である。(『実践理性批判』)」「自然の究極目標は人間である。(『判断力批判』)」という思想を参考にしているようだ。
*13:1.1.3A.18.239 p404
*14:以降現存在以外の存在者のありかたがこう呼ばれる。
*15:1.1.3A.18.246 p416
*17:1.1.18.246 p416