ハイデガー『存在と時間』(三)②



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事二つ目。

この記事では第二篇第二章(第五十四節〜第六十節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第二章 本来的な存在可能の現存在によるあかしと、決意性

第五十四節 本来的な実存可能性のあかしという問題

前章で確認された通り、現存在自身によって「あかし」を与えられている本来的な存在可能が求められている。

そしてそのためにはその「あかし」が見出されなければならない。

そのあかしは現存在の本来的な実存において自身を理解させるものである以上、その根源は現存在の存在体制にあるだろう。

またこのあかしは「ひと」として頽落している現存在に本来的な「自己」を理解させるものである。

この本来的な自己は「ひと」の変様としての規定されるが、その変様はどんなもので何がそれを可能にするのか明らかにしなければならない。

「ひと」に頽落することで現存在の様々な存在可能がすでに決定されてしまっている。

さらに「ひと」はその存在可能を選択することという重荷を奪い、それを隠している。

選択する主体は誰でもない「ひと」であり、選択することなく生きていくことで現存在は非本来的に存在することになってしまう。

このことを元に戻す、すなわち本来的なあり方へと変様することは、一つの選択を取り戻すことである。

これはまた選択を選択することであり、個別的な自己に基づいて決断することを意味する。

以上のことによって初めて現存在の本来的な存在可能が可能となる。

現存在が「ひと」ではなく自己でありうることのあかしは、「良心の声(Stimme des Gewissens)」として知られるものである。

以下の分析では純粋に実存論的に「良心(Gewissen)」を解釈の「あらかじめ持つこと」の中へと設定する。

この良心は目の前にあるものではなく、現存在の存在の仕方である。

また良心は何事かを理解させるものであるから、それは現存在の開示性から分析される。

そして良心は「呼び声(Ruf)」であるり、それは現存在を「呼び覚ます(Anruf)」ものであることが明らかとなる。*1

この呼び声に反応するためにはそれに対応する「聞くこと」が必要である。

また呼び声を理解することは「良心を持とうと意志すること(Gewissenhabenwollen)」であることが明らかにされるだろう。

そしてこの現象には個別的な存在を選択するという「決意性(Entschlossenheit)」がある。

第五十五節 良心の実存論的 — 存在論的な諸基礎

良心は何かを開示し、それゆえに「現」を構成する実存論的現象である。

この良心の解釈は情態性、理解、語り、頽落といった「現」の開示性について分析をさらに根源的に遂行することとなる。

「ひと」に頽落する現存在が「公共的に解釈されたあり方」でありうるのは、現存在が他者たちの語りを「聞き」うるからである。

そこで現存在は固有な自己を「聞き落とす」。

「ひと」の語りを「傾聴」することを中断する可能性が現存在に与えられなければならない。

それは「呼び声」によって媒介なく呼びかけられることのうちにふくまれている。

この「呼び声」、つまり良心はあいまいな空談や好奇心とは反対の性質、すなわち「物音も立てず、あいまいにではなく、好奇心に対しては何の手がかりも与えず*2」理解させると言う性質を持っている。

呼ぶことは「語り」の様態である。

この「語り」は「沈黙」という派生形を持ち、声に出すことを必ずしも必要とはしない。

そして良心は「語り」の開示性に基づいて理解されるものだから、悟性などの心的能力やその混合によっては説明されない。

第五十六節 良心の呼び声の性格

「語り」には話題の対象が属しているが、その変様である「良心の呼び声」の対象はなんなのだろうか。

それは現存在であり、またその日常的なあり方である「ひと」が射当て(trifft)られている。

そして「ひと」は固有の自己に向かって呼びかけられている。

ここでは世間的に理解された「ひと」としての現存在は「とおり過ぎられる」。

個別的な自己が呼びかけを聞いて自分自身に引き戻されるから、「ひと」として頽落したあり方は崩れ落ちることになる。

呼びかけられる自己は「外界」から「内界」に閉じこもるようなものではなく、それにもかかわらず世界内存在している自己である。

良心の呼び声は、言葉として発声され何かを伝達するものではない。

それはただ現存在を自分自身、もっとも固有な存在可能へと「呼び覚ます(aufgerufen)」ものなのである。

そして呼ばれた自己を「審理」するのではなく、固有な自己で「ありうること」へ呼び覚まし、固有な可能性へと「(前に)呼びだす(Vor- Rufen)」ものなのだ。

この呼び声が開示するものは一つであり、「錯覚」はその呼び声が本来的に理解されないことで生じる。

良心の存在論的な解釈を十分なものとするために、「呼んでいる者」が誰なのか、呼ばれる者と呼ぶ者はどのように関わるのか、この関わりは存在論的にどのように捉えられるのかを明らかにしなければならない。

第五十七節 気づかいの呼び声としての良心

良心の呼び声を呼ぶ者は規定されていないあり方、規定されえないあり方をしている。

しかし実存論的な分析においては呼ぶ者を問うことが必要となる。

この問いの答えは現存在にとってはすでに与えられている。

すなわち「現存在が良心において自分自身を呼ぶ*3」のである。

しかしこの答えはまだ十分なものではない。

なぜなら呼ばれる現存在と呼ぶ現存在が別の仕方で存在しているかもしれず、また呼び声は私たちの意志とは関係なく起こるからだ。

呼び声は私のうちから到来し、しかも私を超えて到来するのだ。*4

呼ぶ者を神と捉えたり、良心を生物学的に説明することは、このような現象学的な見方を飛び越えてしまっている。

現存在の実存論的体制が呼ぶ者のあり方を解釈する唯一の手引きなのだ。

現存在は不気味さにおいて被投性から「ひと」へと逃避していて、この不気味さは単独化された現存在を規定している。

さらにこの不気味さは「不安」という情態性において開示されている。

この不気味さのうちで情態づけられて存在している現存在が「良心の呼び声」の「呼ぶ者」なのではないだろうか。

不安における現存在はそこで開示された存在可能以外の何物も持っていないから、良心の呼び声はそのような固有の存在可能へと呼び覚ますものなのだ。

ゆえに良心は何事かを報告するものではないから、「沈黙」という不気味な様態で語りかける。

また呼び声が現存在自身を射当てるのは、不安における現存在が固有のものであることに基づいている。

不安において規定された呼び声が、現存在がもっとも固有な存在可能へと投企することを可能にする。*5

このことは不気味さが現存在の頽落したあり方を脅かすということを証明してもいる。

呼ぶ者は被投性によって(〈のもとでの存在〉)不安に思っていて、呼ばれる者は「ひと」へと頽落したあり方(〈内ですでに存在していること〉)からもっとも固有な存在可能(〈じぶんに先だって〉)へと呼び覚まされる。*6

ゆえに良心は現存在が気づかいであるということのうちに存在論的可能性を持っている。

だから、現存在以外に良心の「威力」を求める必要はない。

このような良心の通俗的な説明が逸脱してしまうのは、現存在を主観や意識を備えたものとして前提にしてしまうことによる。

そこでは良心の威力は客観的なものに求められ、その「普遍的な」良心は「世界良心」にまで高められる。

しかしこの「世界良心」は「ひと」の声なのではないだろうか。

反対に良心の声を現存在が把握しうるのは、それが自分自身から到来するからである。

以上のような解釈によって良心が主観的なものになったり、その威力が減衰することはない。

むしろその「仮借なさ」と「一義性」が開示される。

つまり良心の「客観性」が得られるのはその「主観性」を認めてこそであり、その主観性において「ひと」の支配を無化することができるのだ。

このような解釈に対して、良心は「叱責しかつ警告するものに過ぎない」という批判があるかもしれない。

ここで解釈された良心の呼び声は具体性を欠いている。

以上の良心についての解釈は現存在の実存論的体制に基づくものであり、このような課題を準備するものであったと言える。

また良心が何を開示しているのかが明らかになるためには、それと対応する「聴くこと」を分析しなければならない。

呼びかけられるものもまた現存在だから、自分の呼び声を聞き違えることもまた現存在の一つの存在体制なのだ。

呼びかけに対する理解を分析することで、「呼び声は何を理解させるように告知するのか」が明らかになる。

また以上の解釈によって良心に呼ばれる「負い目のあるあり方」を理解することができるようになっている。

第五十八節 呼びかけの理解と負い目

呼び声が呼び覚ますものを実存論的に解釈することは、具体的な実存可能性を定義することではなく、そのような存在可能を可能とする条件を確定することである。

呼びかけを理解することが本来的となるのは、聞くものが関連を欠いた個別的な存在である場合である。

このような本来的なあり方には何が含まれていて、呼び声のうちで理解されるよう告知されているのは何なのだろうか。

呼び声は具体的な知識を与えず、固有な存在可能へと向かうよう指示する。

そして呼び声は単独化された「不気味さ」から呼んでいて、その不気味さが呼び声とともに開示されている。

呼び声は、「そのときどきの現存在にぞくする、そのときどきに単独化された存在可能」を開示する。

このように呼び声を解釈して初めて、呼び声が何を理解させようとしているのかという問いが立てられるようになる。


良心の経験や解釈においては「負い目がある」ことが一致して経験されている。

しかしこの「負い目がある」ということが実存論的に明らかにされているわけではない。

ここで問われるのは以下のことである。

私たちはどのようなしかたで負い目あるものであり、また負い目とはなにを意味するのか。このことを語るのは誰なのか。*7

死や良心といった現象と同じく、負い目も日常的な現存在解釈がそれについて「語って」いることから分析を始めなければならない。

さて、負い目があることは日常的には「借りがある」「何か責任がある」「誘因である」といったことを意味する。

さらにこれらが一緒になって「罪を犯すこと」という意味を持つことがある。

このことは「他者に対して負い目を負うことになる」という意味を伴うことがありうる。

この意味での負い目があることは「ある他者の現存在における、何らかの欠如の根拠となっていること」と規定される。

さらにこの根拠自体が、共同存在に対する要求を満たさない欠如的なものとして規定される。*8

このような「負い目のある存在」は現存在のあり方の一つである。

ゆえにそのあり方を今度は存在論的に捉えなおさなければならない。

そのために目の前にあるものの欠如といった通俗的な現象は、「負い目があること」という概念から排除されなければならない。

しかしながら、それでもこの概念には「ない」という性格が属しているのである。

さらに、何らかの根拠であることも属しているから、負い目のあることは「ないことの根拠であること」と規定できる。

一般に言われる罪や過失はこの「負い目のある存在」という根拠に基づいて可能となる。

現存在は気づかいであり、それは被投性、投企、頽落によって構成されている。

被投性において、現存在は自身によって自分になったのでは「ない」。

しかしそれでも現存在は自らの存在可能に対する「根拠」なのである。

存在可能の根拠であることは、現存在が投企を行うことによる。

そして存在可能の根拠としての現存在は最も固有な存在を手にしてい「ない」。

以上が被投性に属する実存論的な「ない」、すなわち「無-性(Nichtigkeit)」である。*9

また、投企においてもある存在可能に投企することは他の存在可能に投企し「ない」ことである。

この「無-性」は現存在が諸可能性に対して開かれていて自由であることに属している。

以上から被投性と投企には「ない」「無-性」が含まれていることがわかった。

この「ない」は頽落における非本来的な「無-性」を可能とするものでもある。

気づかいそのものが、その本質において徹底して「無-性」によって侵されている。*10

それゆえに気づかいである現存在はそのものが負い目のある存在なのである。

しかしこの「ない」の実存論的な意味は明らかになっていない。

負い目のある存在は道徳を可能にする存在論的な条件である。

また負い目のある存在は頽落の中で開示されていない状態にある。

だからこそ、呼び声がこの負い目のある存在を理解するよう告げているために、良心が可能となる。

不気味さからの呼び声によって現存在は「ない」を理解させられ、そこで最も固有な存在可能が可能となる。

良心は被投的な現存在を存在可能へと「呼び出し」、その被投性を理解させるために被投性へと「呼び返す」。

このことによって良心は、現存在が自分を「ひと」から個別の自分自身へと連れ戻すべきである、すなわち自分は負い目のある存在であるということを理解させる。

このような良心の機能は知識を与えたり負い目のある邪悪な存在へと呼び覚ますことではない。

それならば、負い目のある存在へと呼び覚ますことの意味は何なのだろうか。

呼び声を正しく聴くことは、最も固有な負い目のある存在可能へと自分を投企していくことに等しい。

つまりここで現存在は呼び声が呼びかけることに対して準備し、呼び声に対して自由に開かれている。

このようにして現存在は固有な自分自身を選択しているのである。

この固有で負い目のある存在は「ひと」に対しては閉ざされたままである。

他方その「ひと」が固有で負い目のある存在へと呼びかけられている。

この呼び声を理解することは、「良心を持つこと」を選択することを意味する。

そして良心を持つことは固有で負い目のある存在に対して自由に開かれていることなのだ。

呼びかけを理解することとは、良心をもとうと意志することを意味するのである。*11

このように意志することは「事実的に」負い目のあるものとして存在することの実存論的条件である。

すなわち、呼び声を理解することによって現存在は初めて責任のあるものとなるのだ。

現存在は事実的な道徳的過失を免れず、被投性と投企の「無-性」のために共同存在において他者たちに負い目があるため、必然的に良心を欠いている。*12

良心を持とうと意志することは、このように良心を欠いたあり方を受け入れることである。

そしてそのようなあり方においてのみ「善く」存在することが可能となるのだ。

呼び声が負い目のある存在を開示する、という以上の分析によって良心が「本来的な存在可能」の「あかし」であることが明らかとなった。

さて、このような良心の解釈においては現実的(通俗的)な良心の概念はどのように捉えられるのだろうか。

第五十九節 良心の実存論的解釈と通俗的な良心解釈

前節で規定された良心は「ひと」がそれに従ったり従わなかったりする通俗的な良心と一致しないどころか矛盾するようにも見える。

しかし実存論的な良心と通俗的な良心は一致しなければならないのだろうか。

通俗的な良心は現存在の頽落したあり方から解釈されるものだから、存在論的に疑わしいものである。

しかしそのような良心解釈も前存在論的に良心という現象を射当てているはずだから、実存論的解釈はそれを無視していいわけではない。

さて、呼び声としての良心に対して通俗的な解釈が提示する問題は以下の四つである。

  1. 良心は批判的機能を持つ。
  2. 良心はすでに行われた行為に関わる。
  3. 良心の声は現存在の存在に関わるわけではない。
  4. 呼び声としての良心解釈は「やましい」良心や「やましくない」良心を射程に収めていない。

四つ目から分析を始める。

通俗的な良心解釈では「やましい」良心、すなわち「とがめる」良心である。

その良心の体験は行為の後から生じてくる。

これは負い目のある存在へと呼び覚ますことではなく、負い目を想起させそれを指示することである。

この解釈は現存在を目の前にある体験が継起する連関だと捉える着手点に基づいている。

実存論的には負い目のある存在が良心の呼び声に後続するから、この捉え方は根源的な現象に到達していない。

同様のことが「やましくない」良心にも当てはまる。

自分が善であることがが告知されることは不可能だから、「やましくない」良心は「やましい」良心の欠如だと捉えられる。

このような欠如の経験だと思われているのは、行いが現存在によって行われていない、現存在には負い目がないと自己確証することなのだ。

この確証は良心を忘却すること、最も固有で負い目のある存在を抑圧することに他ならない。

「やましくない」良心に方向付けられているために、「とがめる」良心も良心という現象を正しく指し示すものではない。

行為を先取りして「警告する」良心という解釈は、呼び覚ますことという性格を共有しているように見えるが、それは見せかけに過ぎない。

なぜなら「警告する」良心は意志された行為に方向付けられているからだ。

しかし意志された行為は負い目のある存在においてのみ防止されるので、その良心は行為を抑制する機能を持っていない。*13

結局は「警告する」良心も「ひと」が解釈した範囲で良心を考えたものに過ぎないのだ。

第三の疑いは日常的には実存論的な良心概念が明らかになっていないということに基づいている。

しかし通俗的な良心概念が存在論的に正しく行われているということは保証されていない。

さしあたっては配慮的な気づかいにおいて自分を理解し、存在を目の前にあることとして規定していることで二重の隠蔽が生じる。

すなわち、第一にこのような良心概念においては存在的に未規定な体験や心理的な出来事が問題とされ、第二に計算において取引される良心が問題となる。

このような日常的な良心体験が引き合いに出されることが正当化されるのは、日常性において良心が接近可能な時だけである。

このことから第二の疑問も効力を失うことになる。

呼び声が行為に関係して経験されるということを否定することはできない。

しかしそれは呼び声が開示する射程をあらかじめ制限してしまっているのである。

このように「警告する」良心などが良心の根源的な機能を表現していないなら、第一の疑問も基礎を失っていることになる。

良心が批判的機能を持つという見方も、良心が積極的に何かを語りかけることがないという点では正しい。

しかしこのことは良心が消極的であることを意味しない。

良心に積極性を期待するのは、良心が行為の可能性を指示してくれると期待することに基づいている。

このような期待は配慮的気づかいにおける解釈に従って現存在が存在することを「統制可能な仕事の進行」に押し込める。

またこれはメタ倫理学に対して規範倫理学的な要求を行う根底にもある。

しかし良心は最も固有な存在可能へと現存在を呼び覚ますから、この期待は達成されない。

すなわち、良心は配慮的に気づかわれるものに関しては積極的でも消極的でもない。

しかし実存論的には「もっとも積極的なもの」つまりもっとも固有な可能性を開示するのである。

以上の分析で通俗的な良心解釈も存在論的に見られたなら実存論的な良心を指示していること、またその解釈が気づかいに属する頽落から生じる以上自明であり偶然的なものではないことが示された。

このような分析は日常的な現存在の「道徳的質」について何らかの判断を下すものではない。

良心の理解が不十分であることで実存が損なわれるわけではないし、反対に実存論的に良心を理解したから呼び声を正しく理解することが保証されるわけでもない。

「真摯さ」と「不誠実」はそれらの解釈とは関わらず可能なのである。

しかし実存論的解釈が経験から切り離されていな限り、その解釈は良心の呼び声をより根源的に理解する可能性を開示するのである。

第六十節 良心にあってあかしを与えられた本来的な存在可能の実存論的構造

良心の呼び声を呼ぶ者が現存在であることから、最も固有な存在可能の「あかし」が現存在のうちに存在していることがわかった。

そして呼び声を現存在の存在様態だと理解することで、「あかし」を与えられた本来的な存在可能の現象的な成り立ちが与えられることになる。

本来的に良心の呼び声を理解することは、良心を持とうと意志することであると規定された。

このことは最も固有の自己を、負い目のある存在において行為させることである。

そしてこれは現存在自身においてあかしを与えられた本来的な存在可能を示している。

このような本来的な存在可能の実存論的な構造を発掘し、現存在自身において開示される「本来性」の根本体制を明らかにしよう。

良心を持とうと意志することは最も固有な存在可能に対する自己理解(=投企)であるから開示性の一つの様態である。

開示性は理解の他に情態性と語りによって構成されているから、この理解に対応して気分や語りがあるはずだ。

まず気分については、「不安」が対応する。

それは呼び声を理解することで現存在が単独化されて不気味さを感じるからだ。

「語り」についてであるが、良心の呼び声には返答が存在しない。

良心の呼び声によって現存在は「ひと」の空談から連れ戻されるから、良心を持とうと意志することは沈黙という様態を持っているのである。

以上のように特徴付けられた開示性は本来的なものであり、

もっとも固有な負い目ある存在へと向けて、沈黙したままで、不安に耐えつつ自己投企すること*14

である。

このことを「決意性(Entschlossenheit)」と名付けることにする。

さて、開示性は「根源的真理」であることがわかっている。

この真理は世界内存在の構成要素であり、実存カテゴリーであるから、現存在の根源的開示性は実存の真理として示されている。

現存在の本来性の分析は、この実存の真理を非真理から境界づけるために要求されていたのである。

決意性という概念を手に入れたことで、本来的で根源的な真理が獲得されている。

良心の呼びかけが決意性によって理解される時、その本来的な開示性によって世界の覆いをとって発見されたあり方と共同現存在の開示性が変容する。

つまり、「手もとにあるものへと配慮的に気づかいながらかかわる存在」「他者たちと共にある顧慮的に気づかう共同存在」がもっとも固有な自己でありうること(存在可能)から規定されるのである。

決意性は固有な自己として現存在を世界から引き離すのではなく、「手もとにあるものへと配慮的に気づかいながらかかわる存在」「他者たちと共にある顧慮的に気づかう共同存在」へと押し戻す。

なぜなら決意性もまた世界内存在としてしか存在としてしか存在できないからである。

ここで初めて他者たちをそれぞのに固有な存在可能において存在させ、その他者たちの存在可能を顧慮的な気づかいにおいて開示することが可能となる。

すなわち、決意性を持った現存在は他者たちにとっての良心となりうるのである。

つまり、本来的な自己存在である決意性によって本来的な共同相互性が成立するのだ。

決意性はその時々の事実的な現存在において実現されていて、それは理解しながら投企する「決意」として実存している。

そこで現存在は何に基づいて、何に向けて決意するのだろうか。

その答えは決意のみが与えうる。

なぜなら決意は事実的な可能性を開示しながら投企し、それを規定することだからである。

決意性には規定されていないあり方が属しているが、それはその時々の決意によって規定されることになる。*15

現存在が「現」において開示されていることは、現存在が真理と非真理のうちに身を置いていることを意味した。

同じことが決意性についても当てはまる。

すなわち、現存在は「ひと」によって解釈されたあり方で存在することという「非決意性」のうちで存在しているのだ。

「ひと」は決意性によって呼び覚まされた現存在をまだ支配しているが、決意を取り消させることはできない。

決意性と同様に決意も「気づかいながらかかわる存在」「共同存在」に向かっているから、決意によって事実的に可能なものが開示される。

しかしそれは単に事実的なのではなく、もっとも固有な存在可能として可能であると開示するのである。


このように決意した現存在の実存論的に規定されたあり方は、「状況(Situation)」と名付けられる現象の契機を含んでいる

状況という語には空間的な意味が含まれているが、それは「現」にも含まれるものなので除去する必要はない。

「現」の空間性が「距たりを取り去り方向を合わせること」として世界内存在の開示性に基づいているように、状況は決意性に基づいている。

状況とは、決意性において開示される「現」なのである。

「現」に向かって決意することでその時々の事実的な適所性が開示される。

すなわち決意というあり方においてのみ「偶然」的な事象が共同世界や周囲世界から現存在に降りかかることが可能となるのである。

このような状況は「ひと」においてはありえない。

決意性は「良心を持とうと意志すること」の実存論的構造を確定している。

良心の呼び声は「状況」へと呼び出すものなのである。

良心はこのように実存論的には積極的な意義を持っているので、良心が批判的にしか作用しないという解釈は表面的なものに過ぎない。

以上のように良心の呼び声を決意性と解釈することで、それが現存在の「根拠」のうちにある存在の仕方であることが明らかになる。

そしてそのようなあり方において現存在は最も固有な存在可能に「あかし」を与えながら、決意することで事実的な実存を可能とするのだ。

上のように決意性を定義することで現存在の「本来的な全体的存在可能」の意味が決定できるようになった。

そして死へとかかわる現存在の本来的存在は空虚な理念ではないことも示された。

しかしその本来的存在は純粋に実存論的な投企に過ぎず、それが現存在に適合的であるというあかしが欠けている。

そのあかしが与えられて初めて現存在の「本来的な全体的存在可能」が提示され、現存在の存在の意味への問いが準備されることとなる。

コメント

第二篇第二章では、第一章で論じられた「死に関わる本来的な存在可能」が可能なのかどうか、それが現存在の構造から正当化されるかどうかが議論される。

そのような正当化が「良心」「負い目のある存在」「決意性」といった道具立てによって行われることになる次第は本文要約を参照してほしい。

疑問に思ったのが「自由」という概念の扱いである。

現存在は良心の呼び声に対して自由に開かれていて、固有の自己を選択すると記述されているが、それは可能なのだろうか。

これについてはその可能性自体がこの章の争点であったように思う。

現存在が頽落して状態すなわち「ひと」の支配から脱しうるのは「良心」が呼んでいるからであり、その良心は現存在の構造そのものから生じてくる。

そして現存在がその本質からして良心の声を聞きうる「負い目のある存在」であることも確認されている。

良心と負い目のある存在はどちらも現存在の構造から導かれたものだから、それらが対応しているというのも納得できる。


さて、自由については他に投企の「無-性」というところで現存在が諸可能性に開かれて自由であることが述べられている。

この場合被投性がある以上現存在はすでに投企してしまっているわけだから、自由だと言えないと思える。

しかしその投企が固有な現存在における「決意」なら、そこにおいては一旦全ての関連が途絶えているので自由だと言えるかもしれない。

ここで思うのはこのような自由とか決意は「行為者原因」、つまり不動の動者としての人間精神へと帰ってくる理念ではないかということだ。

世界内存在というものを基礎に据えながら、結局は世界と独立な自己を設定してしまっているのではないか。

そもそもハイデガーが固有な本来的存在を世界と独立な自己と考えていない可能性もあるので、その辺りはさらに読み込みたい。


他にここで明らかになるハイデガーの真理観が面白かった。

先に真理は現存在の開示性であると述べられたが、その現存在の本来性はここでの特徴付けを待たなければならなかった。

現存在が本来的であって初めてその開示性としての真理も本来的になるのである。

そして本来的な現存在は死に先駆したり負い目があったりする固有な存在であり、そこにおいてもまた決意という形で世界の中へと投企している。

だから本来的な真理(改めて見ると変な表現だが)は一旦このような本来的なあり方を経由することで可能となるのである。

世界の真実を知るために自分の死を意識したり負い目を感じたりする必要があるというのはかなり面白い帰結だろうと思う。

*1:普段使う言葉で言えば良心によって「我に帰る」ということだろう。

*2:1.2.2.55.807. p223

*3:1.2.2.57.820 p240

*4:1.2.2.57.821 p241

*5:「本来的な存在可能」の可能性というテーマから読もう。

*6:

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

ハイデガー『存在と時間』(三)① - Revenantのブログ

*7:1.2.2.58.842 p266

*8:他者における欠如と根拠における欠如の二重性に注意。のちの被投性と投企それぞれの「ない」につながる。

*9:Nichtigkeitを「無-性」と訳すのはわかりづらい気がする。「否定性」とかでいいのでは。

*10:1.2.2.58.855 p287

*11:1.2.2.58.866 p300

*12:これは「事実的な」良心なのか?

*13:負い目のある存在=固有な現存在=死=関連をもたない存在

*14:1.2.2.60894 p338

*15:決意性が規定されていないのは死が規定されていないから?