読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ハイデガー『存在と時間』(二)①


引き続き熊野純彦訳の『存在と時間』を読んでいて第二分冊に入った。

この記事では第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第四章 共同存在ならびに自己存在としての世界内存在「ひと」

現存在が日常的に世界に没入していることと内存在によって世界内存在という現象は規定されている。

ここでは日常性において現存在なのは「だれ」なのかという問いを手掛かりにその現象の解明に挑戦する。

この「だれ」と問うあり方もまた現存在の実存論的なあり方であり、まずはこの問いに正しく着手する方法を見つけなければならない。

「だれ」という問いによって導かれるのは現存在の構造で、それは世界内存在と同じように根源的な「共同存在と共同現存在(das Mitsein und Mitdasein)」である。

このあり方に「自己存在(Selbstsein)」と「主体(Subjekt)」が基づいている。

以下の三つの節で現存在が「だれ」であるのかを解明していく。

第二十五節 現存在が〈だれ〉であるかへの、実存論的な問いの着手点

第九節で見たように、現存在は常に私であり実存は常に私の存在である。

これは現存在の存在体制を暗示しているという点では正当だが、それだけにとどまっている。

この「私」によって現存在を考える時、現存在は「自我」「主体」「自己」として考えられている。

この場合自己は世界との関わりや態度の変転においても同一なものとして持続しながら、現存在の多様なあり方に関わるものとして了解される。

私たちはこれを目の前にあり根底にある「基体(Subjectum)」として考えるが、これは魂という実体と同じような着手点である。

「だれ」という問いにこの実体によって答えて、現存在を目の前にある実体と捉えるのは間違っている。

「私が現存在である」という言明は存在的には自明かもしれないが存在論的にはそうとは限らない。

だからその言明からではなくて現存在についての現象学的な解釈から「だれ」という問いに答えなければならない。

確かに自分を省みたときに自我が与えられていることを発見するのは妥当なことのように感じられるが、そのやり方は日常的な現存在を開示するものなのだろうか。

内省から発見される自我は惑わしであり、現存在が私のものであるということは実は現存在が現存在自身ではないことを意味しているのだ*1

「自我」という言葉はその反対のものを形式的に暗示するものでしかなく、「非-自我(Nicht-Ich)」は自己の、例えば自己を喪失しているといった存在のしかたを指している。

また、ここまでの世界内存在の解明から世界とは独立に主観が存在しているわけではないとわかったから、世界に先立った「自我」を出発点とすることは間違っていることになる。

自我が孤立しているのでないとしたら現存在は他者と「共に現に存在している(mit da sind)」が、それは存在論的に自明なことではなく解明を必要とする。

また現存在が「だれ」であるかというのは実際には存在論的にだけでなく存在的にも不明なままだ。

そうすると「だれ」という問いへの手がかりがそもそもないように思われるかもしれないが、現存在は本質的に「実存」に基づいているのだからそこを手引きにすればいい。

そしてまた現存在が私であるということが本質的ならば、自我はこの実存から解釈されなければならないのである。

他方人間の実体は心と身体を合体させた「精神(Geist)」ではなく実存だから、現存在を「目の前にあるもの」すなわち事物として見る観点は捨てなければならない。

第二十六節 他者たちの共同現存在と日常的な共同存在

世界の解明において世界内存在の世界以外の契機もすでに視界の中に入っていて、「だれ」という問いへの答えもその中に含まれている。

周囲世界の適所性の連関を考えた際に、仕事や製品の対象として他者に出会った。

道具は同じく現存在である他者の周囲世界において手もとにあって、その他者の周囲世界は私たちの世界でもある。

これら他者は自身が現存在として世界内存在であるのと同時に、自身も世界内部的な存在者として出会われている。

つまり他者「もまた共に現にそこに存在している(es ist auch und mit da)」のである。

この他者たちは「私以外の人々」としてあるわけではなく、現存在がその元で存在している人々なのだ*2

「他者たちと共にまた現にそこに存在していること(Auch-da-sein mit ihnen)」の「共に」は目の前にあるものとして並んでいることではなく、「また」は配慮的に気づかう存在において同等であることである。

だから「共にまた現にそこに存在していること」は現存在の実存カテゴリーとして理解されなければならない。

この「共に」によって私たちは共同世界の中にいて、現存在の存在は共同存在なのである。

この「共に」を帯びた(mithaft)世界内存在にもとづいて、世界はそのつどすでに私が他者たちと分かちあっている世界なのだ。現存在の世界は共同世界(mitwelt)であり、内存在とは他者たちとの共同存在(mitsein)である。他者たちが世界内部的に自体的に存在するとは、ともに現に存在することなのである。*3

他者は配慮的に気づかう現存在がそのもとで存在している周囲世界の側から出会われるので目の前にある事物ではない。

現存在が自分を「ここにいる私」とみなしていても、その「ここ」は周囲世界の道具の場所から遡って考えれられるので、「ここにいる私」は自我の一点を意味しているわけではない。


現存在が出会うのは人格としての他者ではなく、周囲世界において仕事をして手もとにあるものと出会っている世界内存在としての他者である。

そもそもは孤独な現存在が可能な様態として他者と「共に」存在することができるというわけではなく、現存在は先立って本質的に「共同存在」なのである。

現存在の世界内存在は本質からして共同存在によって構成されている。
(das In-der-Welt-sein des Daseins wesenhaft durch das Mitsein konstituiert ist)
*4

この共同存在は他者が目の前にいないときでも現存在を規定している。

むしろ他者の「不在」ということがあり得るのは現存在が共同存在だからである。

そしてまた他者たちが現存在の共同存在において出会われることができるという点で「共同現存在」が他者たちの現存在の特徴となっている。

個々の現存在は共同存在という構造を有しているからこそ、他者と出会うことのできる共同現存在なのである。

共同存在は世界内存在の構成要素なので、それは「気づかい」という点から解釈されなければならない。

しかし他者は道具と同じように配慮的に気づかわれるのではなく、「顧慮的な気づかい(Fürsorge)」の対象である。

この顧慮的な気づかいという現存在のあり方は基本的には欠如していて、それゆえに社会的な諸制度としての顧慮的な気づかいが必要となってくる。

配慮的に気づかわれる道具が目立たないあり方をしているのと同じように顧慮的に気づかわれる他者も日常においては目立たない。

この点から他者が目の前にあり、共に存在することは複数の主体が目の前に並んでいることだという誤った解釈が生まれる。


他者への顧慮的な気づかいには二つの極がある。

一つ目は他者の周囲世界に対する配慮的な気づかいを他者の代わりに引き受ける顧慮的な気づかいだ。

その時他者は自分の周囲世界への気づかいを取り去られて「依存し支配される者」となっている場合がある。

二つ目は他者の道具にではなく他者の実存に対して行われて、他者の存在可能性に「先立って飛ぶ(voraussoringt)」顧慮的な気づかいだ。

そのような顧慮的な気づかいが他者を助けて、自分がその気づかいのうちにあることを見とおさせ、自分の気づかいに向かって自由になること(für sie frei zu werden)を可能とさせるのだ。*5

つまりこの顧慮的気づかいは他者の周囲世界に対する配慮的気づかいを取り去るのではなく、むしろをそれを他者に対して「与えかえす(zurückzugeben)」のである。

このように顧慮的な気づかいは現存在の存在体制でありその存在に深く関わっている。

「共同相互存在(miteinandersein)」は複数の現存在が共通して気づかっている道具や仕事によって基礎づけられる。

第一の極の顧慮的な気づかいにおいて共通の仕事が行われる場合、現存在同士は間隔を持って互いに遠慮している。

しかし第二の極の顧慮的な気づかいにおいて共通の仕事に没入している場合その仕事はそれぞれの現存在によって規定されていて、このとき現存在同士は本来的に結びついている。

このような結びつきというあり方において他者は「自分の気づかいに向かって自由に」なって他者自身を捉えることができるようになる。

この二極の間で相互共同存在は営まれていて、それは多様なあり方を示す。

手元にあるものを気づかう様式として「目くばり」があったのと同じように他者に対する顧慮的な気づかいには「かえり見(Rücksicht)」と「見まもり(Nachsicht)」がある。

そしてそれぞれが欠如的な様態として「かえり見ないこと(Rücksichtslosigkeit)」と「(何もかもを)見てやること(Nachsehen)」に至ることがある。

道具だけではなく共同現存在における他者も周囲世界において出会われ、この存在者は共同世界のうちで内存在である。

第十八節で世界は有意義性の連関だと理解されたが、この有意義性の連関(世界)を先立って了解していることで現存在は手もとにある道具が適所にあることを発見する*6

そしてその有意義性の連関は現存在の存在に「なにのゆえに」という形で行き着く*7

ここまでで見たように現存在の存在には共同存在が含まれているから、現存在は他者たち「のゆえに」存在している。

存在に対する先だった了解と同じく、共同存在において現存在は他者たちを先立って了解している。

その先だった他者の了解とともに有意義性の連関が形成され、世界は現存在の「なにのゆえに」としてある。

そしてこのように構成された世界において手もとにある道具と「共に現に存在している」他者が出会われる。

つまり共同存在に対する先だった了解によって共同現存在としての他者が接近可能となるのだ。

このことが意味するのは現存在の存在了解には他者たちへの了解も含まれているということだ。

これは認識作用から得られる知識ではなく、むしろ認識作用を生み出す基礎である。

現存在どうしの「たがいの知(Sichkennen)」は共同存在に基づき、その知は現存在たちが手もとにあるものを配慮的に気づかいながら理解するとき得られるものとなる。

このようにして他者は「配慮的に気づかう顧慮的な気づかい(besorgende Fürsorge)」において理解されている*8

しかし顧慮的な気づかいは基本的に欠如しているか無差別な様態(無関心)であるので、「たがいの知」は直接面識を得ることで初めて得られる。

ただこの「たがいの知」が目立たなかったり偽られたりして失われると、特別な方法で互いを理解しなければならなくなる。

とは言っても現存在どうしの間で隠し事をしたりや偽ったりすることも共同相互存在のあり方の一つなので、同じように互いに正しく知ることも共同存在に基づいている。

このような相互理解は他者を主題的に開示することではあるが、それは「理論的-心理学的」なものではない。

人は現存在と他者の関わりを「自分の存在についての存在了解」という自己に対する関係と同じものが他者と他者自身の間にも成り立つとして、個々の現存在が他者を理解することだと考えるがそれでは他者は自分の複製となってしまう。

この考えは現存在自身の存在が他者の存在にも関わるということを前提しているが、その前提においてはなぜ現存在の自分自身への関係が他者にも当てはまるのか解明されていない。


「他者へと関わる存在」という存在連関は共同存在として現存在の存在をすでに先だって構成している。

確かに自己理解が他者の理解につながることは否定できないが、自己を理解すると他者を理解できるのはその際に自己を構成する「共同存在」を理解できるからである。

心理学的な「感情移入」は共同存在に基づいて初めて可能となり、感情移入が常に要求されるのは顧慮的な気づかいが普段は欠如しているからなのだ。

さて、現存在が周囲世界に没入しているとき気づかわれる道具の側で存在していたように、現存在は他者たちとの関わりである共同存在に没入しているとき他者の側に存在していて、そのとき現存在は現存在自身ではない。

ならば現存在が「だれ」なのかという問いに対する答えとは一体何なのだろうか。

第二十七節 日常的な自己存在と〈ひと〉

ここまでの分析から他者たちの「主体性格」がある存在様式から規定されていることがわかった。

他者たちは彼らが配慮的に気づかっている対象において存在していて、その対象となっているものとして出会われる。

現存在は「他者たちと共に、他者たちのために、他者たちと対抗して(mit, für und gegen die Anderen)」周囲世界における道具を配慮的に気づかっている。

そのうちには他者からの遅れを取り戻したり遅れている他者を押さえつけたりという形の、他者と自分の間の区別への気づかいが基づいている。

すなわち共同相互存在はこのようにしてそれぞれの間の「間隔(Abstand)」を保っている。

現存在は常に顧慮的に気づかっている他者のもとで存在しているから、他者の意向が他者との間隔を保っている現存在のあり方のすべてを規定してしまう。

だから「間隔を保っていること」には現存在が他者による「支配のもとにあること(in der Botmäßichkeit der Anderen)」も含まれている。

この他者たちは有意義性の連関全体の中にいる他者全てであるため、特定の人物ではなくまた手もとにある道具と同じように目立たないあり方をしている。

そして他者たちこそが共同現存在として「現存在する(da sind)」するものだ。

だから「だれ」という問いの答えは特定の他者ではなく人間自身でもない「ひと(das Man)」なのだ。

現存在たちは交通機関や報道機関を利用することで共通で公共的な周囲世界を一緒に気づかっているから、すべての現存在は他の者と同じように存在して個々の現存在は他者たちの中に解消されていく。

このように現存在が他者の中に溶け込んでいくことでさらに他者たちは目立たないものになっていく。

そして現存在は他者と同じように感情を持ったり判断したりする。

「群衆」とは違うやり方で考えようとしてもその行為すらも「ひと」が規定している。


共同存在の間隔を保とうとする傾向は共同相互存在が「平均的なあり方(Durchschnittlichkeit)」を配慮的に気づかうことに基づいている。

「ひと」は実存論的に平均的であるので、平均的なあり方が気遣われる中でその平均性において人がして良いこととしてはいけない事を予め規定している

この平均性への気づかいは現存在が持つ傾向でもあり、それを存在可能性を「均等化すること(Einebnung)」と呼ぶ。

以上で見てきた「間隔を保つこと」「平均的なあり方」「均等化すること」が「公共性(Öffentlichkeit)」と呼ばれるものを構成していて、その公共性は世界と現存在の本来的な解釈を遠ざけている。

公共性はことがらそれ自身へ立ち入らないことに基づいていて、全てを覆い隠して隠されたものは自明なものだと思い込ませてしまう*9


「ひと」は現存在の決断を全て規定していて、現存在から責任を奪う。

人々は決断に際して「「ひと」がそう言っているから」など「ひと」を引き合いに出すが、その「ひと」は誰でもないので責任を取る者はいない。

「ひと」このようにして現存在から存在することという「重荷を取りさる(entlastet)」。

さらに現存在は軽率に行為しようとする傾向を持っているから「ひと」はそのような現存在の意向を汲み取るものとなるし、その場合「ひと」はますます現存在を支配する。

そして

だれもが他者であり、だれもがじぶん自身ではない。
(Jeder ist der Andere und Keiner er selbst)
*10

だから現存在は「だれ」なのかという問いの答えは誰でもない「ひと」だということになる。

そして共同存在としての現存在は常に誰でもない者、「ひと」に支配されているのだ。


以上から共同現存在は「間隔を保っていること」「平均的なあり方」「均等化すること」「公共性」「重荷を取り去ること」「意を迎えること」という性格を持っていることがわかった。

これらの存在性格の中に現存在の実存に関わる「変わらないあり方(Ständigkeit)」がある。

このあり方をしている時現存在の自己と他者の自己の区別はなされておらず、現存在は非自立的、非本来的に存在している。

誰でもない「ひと」が無ではないのと同じく、現存在が他者の中に解消されても現存在が目の前にあるということ(事実性)がなくなるわけではない。

むしろこの存在様式において現存在はもっとも実在的とも言えるのである。


「ひと」は目の前に存在するわけではないが、存在への問いの中でそれを見ると日常性における「もっとも実在的な主体」としてその姿を表す。

「ひと」は現存在の存在を規定しているので、存在への問いは「ひと」という現象を標準的なものとして進めていかなければならない。

また「ひと」は現存在という存在者の性質(カテゴリー)ではなく実存カテゴリーである。

だから目の前にあるものについての存在論を基礎とする伝統的な論理学は「ひと」という現象の解明には役立たない。

また実存カテゴリーとしての「ひと」は現存在に適合した様々な形で具体化していくことができて、それゆえに「ひと」による現存在の支配やその明示性は時代によって変わっていく。

日常的な現存在の「自己」は「ひと」から考えられた「ひとである自己」で、これは個々の現存在の個別的な自己とは異なっている。

「ひと」の中に分散した現存在の「ひとである自己」は周囲世界を気づかいながら没入している。

現存在が「ひとである自己」を先立って了解しているなら、「ひと」によって現存在や世界についての解釈があらかじめ与えられているということになる。

「ひとである自己」は現存在の存在の源泉である「なにのゆえに」でありそれによって有意義性の指示連関がそれぞれの道具について区分けされている。

日常的な現存在は平均的な解釈によって明らかにされる共同世界の中に存在していて、固有の「私」ではなく「ひと」としての他者たちが存在しているのである。

「ひと」の側から、また「ひと」として、私は私「自身」にさしあたり「与えられて」いる。*11

現存在の本来的なあり方は「ひと」によって現存在自身に対して覆い隠されているので、その隠すものを取り去ることで初めて現存在は自身の本来的な存在を発見して世界に固有な仕方で接近することができる。


日常的な現存在は「ひと」という存在様式から先だった存在了解を得ている。

周囲世界に没入している時世界という現象は見過ごされているので、世界内部的な存在者が目の前にあるものとして現れてくる。

その時共に現に存在している他者も目の前にあるものとして解釈される。

「ひと」という日常的な現存在のあり方が「ひと」自身を自明なものと思い込ませて覆い隠しているのである。

また「ひとである自己」は現存在が本来的に掴み取っている自己からは区別される。

この「本来的な自己存在(Das eigentliche Selbstsein)」は目の前にあるものではないので、「ひと」から分離されたものではなく、「ひと」が実存論的に変容したものなのだ。

そして「本来的に実存する自己が自己自身であること(Selbigkeit des eigentlich existierenden Selbst)」は多様な体験の中での自我の同一性ということも意味していない。


感想

第一篇第四章では現存在が「だれ」なのかという問いが立てられ、それに対する答えが提示された。

私たちは「ここ」という一点にいるのではなく世界内存在として様々な他者のところで存在しているが、その他者も同じように世界内存在だから「そこ」という一点にはいない。

だからそのようにして分散された共同現存在である「ひと」だけが存在しているのである。

第一編第三章ではデカルトの延長実体が批判されていたが、ここではデカルトの思惟実体すなわち「思考する我」とのちの哲学における思惟実体の変形としての主観や主体が批判されているのだと思う。

「だれもが他者であり、だれもがじぶん自身ではない。」というのは「確固たる私」というのが無いということを表明している。

ここで心身二元論はどちらの実体についてもその根底を崩されたことになる。

偶然だが直前に読んでいたデネットデカルト二元論批判という点ではハイデガーのこの辺りの主張と共通している。

デネットの『解明される意識』における「物語的重力の中心としての自己」も「確固たる中心主体としての私」というものを批判して、人が紡ぐ物語の解釈の中に「自己」というものが措定されるという主張だったがこれもデカルト二元論を捨てた上で「自己」を考えるという試みの一つだ*12

そしてまた同じ本で主張される意識の「多元的草稿」理論は中心的な一点としての自己を否定するという点ではハイデガーがここで言っている「分散された現存在」と似通っているとも言える*13

この「物語的重力の中心としての自己」「多元的草稿としての意識」と「「ひと」である自己」という考え方を知って衝撃を受けたし、自分はこれまで主観と客観の枠組みや主体と環境の二元論的区別を掘り下げて批判できていなかったという反省が生まれた。

その意味で自己についての新しい見方を連続して得られたことで思考の枠組みを更新することができてよかったと思える。


ところで現存在が「ひと」によって支配されているというのはなかなかに恐ろしい事実だと感じた。

これはマスメディアなどによって画一化される「大衆」論であるのと同時に、そもそも人は存在の根本のところで他者との間隔を意識して平均的にあろうとしているということも言っている。

そしてその中で「ひと」の意向が現存在の行為を規定していて、責任すらもが現存在から剥奪されている。

また個々の現存在というのは元からないのだから、それぞれが自由な意志の元で行為するということもない。

ここで「中心主体としての私」に基づく倫理学や自由についての議論は役に立たないことがわかる。

以降のハイデガーの考察を読む中でこの「ひと」としての現存在において倫理や当為の問題がどのように解明されていくのか、という点を考えていきたい。


この記事の続き、第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下
re-venant.hatenablog.com

第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)は以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:第二十七節の内容を先取りしている。

*2:

現存在は道具がある場所から遡って自分がいる場所を把握していて、だから現存在は配慮的な気づかいとして道具がある場所に存在しているのである。(第二十三節)

ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ
ここでも同じように「他者」がある場所から遡って自分のいる場所を把握しているということだと思う。

*3:1.1.4.26.324 p81

*4:1.1.4.26.329 p88

*5:1.1.4.26.333 p97

*6:現存在が適所性の連関をあらかじめ知っていることで、道具がどんな適所性を持っていてそれらがどう連関しているかを理解することができるということだろう。

*7:現存在は問いに先立って存在(実存)しているが、その存在は世界(有意義性の連関)があるからこそ可能となるのである。その意味で有意義性の連関が現存在の存在にとって「なにのゆえに」だと言っているのだと思う。

*8:「配慮的に気づかう顧慮的な気づかい」は顧慮的な気づかいの第二の極を指しているのだと思う。

*9:物事を現象的に解明しようとしない公共性が存在への問いを忘却させてしまうということだろう。

*10:1.1.4.27.355 p122

*11:1.1.4.27.360 p130

*12:詳しくは以下の記事に書いている。 re-venant.hatenablog.com

*13:「多元的草稿」については以下の記事。 re-venant.hatenablog.com