Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第3章

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この記事ではDennettの"Elbow Room"の第3章「制御と自己制御(Control and Self-Control)」の本文要約とコメントを書いていく。

第1章、第2章については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

本文要約

3 制御と自己制御(Control and Self-Control)

1 私たちの制御を超えた環境のために("Due to Circumstances Beyond Our Control")

もし決定論が正しいなら、ラプラスが言ったようにある出来事がそれに続く出来事を現在と未来に至るまで決定していることになる*1

全てが私たちに制御できない過去によって決定されているなら人は現在の出来事を制御することができない。

私たちは自分自身と自身の運命を制御することを望むが、制御とは一体なんでありそれが因果関係や決定論とどのような関係を持つのかという問いが哲学者によってなされたことは少ない。

2 単純な制御と単純な自己制御(Simple Control and Simple Self-Control)

制御とは、そして何者かの制御下にあるとはどういうことなのか?

サイバネティクスオートマトン理論における制御の定義は「AがBを制御するというのは、AがBをAが望むBの正常な範囲内のどの状態にでも移行させることができることである」というものである。

この定義に従うなら制御されるものは様々に異なった状態でありうる必要があるし、制御するものはなにかしらの願望を持っていなければならない。

そして人は制御されるものの自由の度合い、すなわちそれができることの範囲内でのみ状態や活動を制御することができる。

例えばラジコンの飛行機を操作している時、それを制御できていてもまっすぐ上昇したりさせることはできない。

また同じラジコンのコントローラーを持って自分の動きを真似する人が現れてどちらが本当に制御しているのかわからなくなっても、あなたは真似をする人の動きを制御することで彼を通して飛行機を操作することができる。

このような他の行為者を経由した制御も我々にとっては十分信頼できるものだ。

そしてラジコンを完全に操作している時でもその飛行機の動きに影響を及ぼす全ての因果関係を制御している訳ではない。

そのような因果関係の中で、飛行機にかかる重力はそれを知っているので制御を妨げることはないが、予測できない突風は制御を乱すことがあり得る。

あらかじめ知っていることが制御を可能とするのだ。

人は環境を変えることはできないが、環境に適応することはできる。


何かを制御する時、人はそれと接触し続けなければならない。

例えば火星にある火星探査機を地球から状況に応じて適切に制御することは、指令が届くのが遅すぎるためにほぼ不可能である。

ゆえに探査機はもはや操り人形ではなく、自分自身を操作するロボットでなければならない。

彼らは操作するものに必要な願望のようなものと自身の環境についての知識を備える必要がある。

地球の人々は一般的な方針を送信したりや特定の方法で考えるように設計することができるため、ロボットは完全に制御を離れている訳ではない*2

以上で見てきたように、xがyを制御しているということから、何か他のzもxを制御することでyを制御していないことは帰結しない*3

これはxとyが同一である(xが自身を制御している)場合にも当てはまる。

つまり人は自身を制御するものを制御することができる。しかし私たちはこのようにして、自己を制御しながらも他者に制御されることを好まない。

3 行為者なしの制御と私たちの因果関係の概念(Agentless Control and Our Concept of Causation)

ある行為者が他の行為者を制御しようとすると、事態はより複雑になる。

外側にいる行為者が何かを制御するものを、その環境を操作することで制御することは可能である。

それならば、環境自体をある種の行為者と呼ぶこと、すなわち環境が制御を行うと言うことは可能なのだろうか?

スキナーが行動主義という見方の中心に据えたこの主題は環境が私たちに何かしらの行為をするように望んでいるのだという考え方を暗示する。

しかしスキナーの考えは、環境はもちろん人や有機体の中にさえも願望のような現象はないというものである。

それでも彼は単なる因果関係と制御を区別し、この制御を私たちが望むべきものだと考えた。

したがってスキナーはNASAの技術者は探査機が火星の環境によって適切に制御されるように設計すべきだというだろう。

しかし彼は適切に制御されていることと不適切に制御されていることの区別を重要視していない。

もし制御下にあることがいいことだとしても、それは正しい方法で制御されている時だけでなければならない。

それでは、何が正しい方法なのだろうか?

一つは真実に基づいた制御である。

真に慈悲深い世界は自身についてよく知らせてくれるだろう。

しかしながら世界は私たちにとって、正しく導いてくれる良いものでも騙して罠にかける悪いものでもない。

環境が私たちに何をすべきか教えてくれるよう設計されているのではなく、無関心な環境から私たちが何をすべきか読み取るよう設計されているのだ。

スキナーに賛同する者の制御の定義では「AがBを制御するというのはBにおける変化がAにおける変化を確かに反映するということである」となるだろう。

Aは行為者である必要はないし、Bは何らかの関心を抱く有機体でなくてもいい。

ゆえにBにおける変化がAにおける変化によって制御されていることが、Bである有機体にとって適切かどうかという疑問は生まれないだろう。

スキナーのこの概念は物理的な因果関係の別名でしかないように見えるが、実は制御と因果関係の中間であり決定論への恐怖を育てるものだ。

因果関係と制御の混乱の説明の一部分は一般的な科学的実践、特にそれに対する想像上の理解から得られる。

実験において実験者は様々な条件を制御し、特定の従属変項が非従属変項に関連付けられることで実験者の制御下に置かれる。

そこで幾つかの現象にパターンが観察され、何がそれを引き起こしたのかが問われる。

そして実験者の思い通りにそのパターンが生まれるならその因果関係は判明したものとなる。

そうするために予測できない外側の影響を排して実験環境をできるだけ斉一で単純なものにしなければならない。

「制御された条件」における成功は私たちが一般的に因果関係を考える時に影響を与える。

大部分が偶然の複雑な網目の中に消えていく因果関係を完全に知ることはできないが、それでもそれは因果関係であり続ける。

私たちが因果関係を考える時、私たちはいつも関係や行為者による制御が明白であるような場合を考える。

結局、私たちが因果関係と呼ぶものは知性的な活動によって抽出されたもので、それは認識論的に扱いやすく制御可能な特徴なのだ。

私たちに制御できない因果関係は「ランダム化」プロセスと呼ばれる。

ランダムなプロセスが制御できないものの典型と考えれれるために、これも因果関係から逃れられるわけではないということが忘れられがちである。

4 競合する行為者(Agents in Competition)

行為者でない環境は私たちを制御しないが、進化の時間の中で私たちの設計に大きく関わる。

「母なる自然」「悪い自然」という見方に対する標準的な解毒剤は、進化のプロセスは見通しと目標を欠くものであると思い出すことである。

もし飛行機のパイロットが前方にそこに入ると飛行機の制御を失う危険があるような雷雲があると知らされたなら、彼は飛行機の制御の余地を保ち増やすために迂回するだろう。

過失までの余地が少ないほどにパイロットが持つ自由は少なくなる。

パイロットは常に飛行機を制御しようとするだけでなく、制御の余地を増やすというメタレベルの制御計画や活動に従事してもいる。

これは私たちが常に求めるもの、すなわち多くの余裕(elbow room)の明白な事例だ。

私たちは制御を維持する機会が増えるように過失までの余地を求め、選択を開かれた状態にしておきたがる。


将来私たちの選択を制限するであろうものを評価する際に、競合する行為者がいるかいないかは大きな違いを生む。

なぜなら自分以外に情報を集めフィードバックを行う行為者がいると、その行為者によって活動を予測され、妨害されるかもしれないからだ。

もしAがBを制御しようとするなら、AはBの行動のパラメーターを確認するという認識論的な課題を解決しなければならない。

ゆえに競合する行為者間では、互いに自分の計画を隠し相手の計画を知ろうとする情報の競争が起こる。

そして行為者は敵対する行為者が優位に立つと生物学者がアナバチを制御するように自分を制御して不利益に導くのではないかと考える。

それが哲学上の「邪悪な脳外科手術」の直観ポンプにつながる。

しかしこれはなぜ演説者、教師や哲学者ではなく脳科学者でなければならないのだろうか。

脳科学者が直接脳を操作することと、哲学者などが間接的に操作することに違いがあるのだろうか?

私たちはこのような行為者に無意識的にではなく十分に承知の上で影響を受ける。

もちろん私たちはこのような仲介者を取り除きたいと望み、世界との直接の交流を持ちたいと考えるだろう。

なぜならそうすることで他の行為者のバイアスを受けずに情報を得ることができるからだ。

しかし、例えばスーパーで商品を選ぶ際に私たちは色やたなにおける位置などによって決断を制御されている。

ゆえに重要で関係のある特徴から影響を受けない「根本的な自由」を望むことはできない。

しかし私たちの心を読む悪賢い広告から自身を守りたいなら、制御を失う状況に陥らないためのメタレベルの計画を持つ必要がある。

従ってメタレベルの制御についての思考によって、私たちは競合する者によって完全に理解され予測される危険のある戦略を避けることを望むのである。

5 無秩序の使用(The Uses of Disorder)

私たちは他人に自分の心を読まれたくないというメタレベルの欲求を持つが、そのためには自分の活動にパターンを作り出してはならない。

それが可能となる唯一の方法は活動をランダムなものとすることだ。

ある系列が数学的、情報理論的な意味でランダムと言われるのは、それが情報的に圧縮できない場合である。

またほとんどのコンピューターに備わる乱数発生プログラムによって生成される擬似ランダム数列がある。

これらは因果的に決定されていないわけではないだけでなく、情報的に圧縮できないこともない。

しかし「外側」から本当にランダムな数列と区別することはほとんど不可能である。

この完全な探索不可能性は自由意志と可能性の本性に深く関わっている。

この点に関しては第6章で扱うが、ここではそれが私たちの制御と自己制御において果たす役割を示したい。

私たちはすでにゲームの中で対戦相手に制御されないためにパターンを作らないことの戦略上の価値を見てきた。

それに加えて、ゲームには自然を相手にしたものもある。

たとえば何かの標本をとって調査するとき、対象群の中からランダムに標本をとらなければならない。

それはあなたが世界の中に求めるパターンと用いる標本のパターンが偶然にも一致してしまう危険性を最小化するためである。

体系的でパターン化された調査は現象におけるあらゆるパターンに対して盲目である必要があるのだ。

ランダム化するという知恵は設計されたシステムの世界に適用可能だが、コイントスによって「偶然」を呼び出すというもう一つの慣れ親しんだ技術も同様に適用可能である。

選択を偶然に任せることによって面倒な意思決定を解決することができる。

それは効果的かつスピーディに意思決定を行うという関心の下で低次の合理性(行為の正しい理由を見つけること)の一部を捨てるという高次の合理性(長く考え込みすぎてチャンスを逃すリスクを回避すること)なのだ。

6 「好きにすればいい」("Let Yourself Go")

理性的思考において時間制限の中で行為や決定を行うという必要を計算に入れると、私たちは理性的思考についての伝統的な合理主義者が持つのと全く違うモデルを得た。

例えばある程度の気まぐれさや情報への不感性は時間制限のある合理性の重要な特徴なのだ。

それがなければ行為を決意することを決意することを決意する…というような無限退行から脱することができない。

もし理性の指導のみに従って行為するなら、真実と正しい行為を行うことへの導管だけがあって私たちは個性を奪われてしまうだろう。

理性の指導のみに従うという誤った合理性のモデルが正しいなら、例えばチェスにおいて私たちは常に同じゲームを行うだろう。

しかしながらチェスの手の選択肢全てを計算して最良のゲームを行うことは不可能である。

そこで有限な知性にとってもっとも合理的なやり方は、時間を節約するために幾つかの恣意的な方法で分析を終える決定の発見学習プロセスだ。


このような制約下でもっとも理性的なやり方は常に同じゲームを行わないことである。

このことは以下の幾つかの理由から正しい。

まず、常に同じゲームを行おうとする戦略はパターンを作り敵対者に付け入る隙を与える。

次に、ゲーム中の意思決定をランダム化することで「遺伝的多様性」が生まれ、そこから新しくより効果的な戦略が発見される可能性がある。

最後にこのような奔放な戦略は行為者がそのようなものを好むように設計されているというだけの理由で好まれるかもしれない。

さらにチェスには人生のゲームにおいても問題となる特徴がまだある。

チェスにおいては時に駒の動きがルールによって強制されるし、ルール上複数の手が可能でも自殺的でない手が一つしかない場合がある。

この手はルールや物理法則に強制されているのではなく、理性の指導に強制されている。

時に自然は私たちの生存欲求がある特定の行為を目指すように強要する。

私たちはこのような状況を恐れ、全てを考える時間がないほどではないがより多くの選択肢を自発的に探索できる状況を好む。

また自発性への嗜好は遺伝的に促進され私たちの性格の一部に強く結びついているが、理性に指導されたものでもある。

ゆえに自発性と理性的思考の対立は幻想である。

理性が指導する方針には「好きにすればいい」というものがかなりの量含まれている。

この章で見てきた慣れ親しんだ見方と対照的に、決定論は「制御を侵食」することはない。

決定論的な機器は自身を制御することができるだけでなく、自身を制御する者たちが彼らを制御しようとする試みを逃れることもできる。

もし私たちも決定論的な機器*4だとしても、自身や運命を制御できないと恐れる必要はない。

さらに、過去が私たちを制御するということもない。

過去はNASAが宇宙船を制御できないのと同じように私たちを制御することはできない。

それは過去と現在に因果的なつながりがないということではなく、因果的なつながりでは制御には不十分だということだ。

制御のためには制御者に情報を伝えるフィードバックがなければならないが、現在から過去へのフィードバック信号は存在しない。

さらに過去には私たちの特定の行為を予測するものが何もない。

私たちは先祖や遺伝的な過去の制御下にあるというより、それらの遺産が私たちを自己制御者として誂えたのだ。

この章の制御という概念の調査によって私たちがどのようにありたいのかという理想が描き出された。

その理想とは、可能な限り他者の操作を受けないこと、そして余裕(選択までのマージン)をより多く持てるように可能な限り未来の出来事の先触れに敏感であることだ。

このことは私たちは世界が多様性に満ち、持続性と喜びに満ちていること、しかしさらにこの文脈で重要なことだが、私たちの選択肢を制限するほどに過酷に要求しないことを望んでいるということを示唆している。

コメント

第3章では「制御(control)」という概念の分析が行われた。

私たちは制御と因果関係を混同して決定論的世界観において自身の制御が奪われると恐怖している。

しかしこの章で示されたように制御と因果関係は別物なので、因果関係が決定しているからといって制御ができないわけではない。

遺伝子やミームが私たちの行為を因果的に決定づけているとしても、私たちは自分の行動を制御することができるのである。

そしてその制御を行うのが第2章で出てきた「擬似意味論機関」であり、そこにおいて理性というプロパティが(振る舞い上)存在している。

この章で面白かったのが制御するためのマージンを確保するという「メタレベル」での戦略の存在だった。

このマージン(デネットの言い方では"Elbow Room")が適応的であるがゆえに、理性も私たちに自律すること("Let Yourself Go")を指導する。


疑問点としては3節におけるスキナーの理論の批判がどういう結論に至ったのかがよくわからなかった。

おそらくデネットはスキナーが言うように環境に制御されることが一概にいいことだとは言えない点、またスキナーがデネットの定義からすると制御と因果関係を混同しているという点を問題視しているのだろう。

また4節で再び持ち出された脳科学者の例がどう解決したのかも明記されていないように思えたが、自分なりに答えを考えるなら次のようになると思う。

すなわち脳科学者も被験者の脳をいじって制御するためには被験者の行為を予測できなければならない。

しかし私たちは他者に予測されることを回避するというメタレベルの戦略のために意思決定の一部をランダムに行っている。

ゆえに脳科学者は対象の行動を予測して制御下に置くことはできず、「邪悪な脳外科手術」の直観ポンプは退けられるとデネットは言いたいのだろう。


以降の章については次の記事。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:ラプラスの悪魔 - Wikipedia

*2:この例はおそらく遺伝子(地球の人々)と私たちの意識(火星探査ロボット)の関係を示しているのだろう。

*3:直訳したので分かりづらいが、zがxを通じてyを間接的に制御することが可能だということ。またxがyを制御しているからといってzに制御されていないとは限らないということだろう。

*4:生物が遺伝子の生存機械であるというような見方を意識しているのだろうか。