2018年のアニメ10選(単話)

『衛宮さんちの今日のごはん』第1話 年越しそば

emiya-gohan.com
どの選択肢をどうやったらこんな世界に行き着くのかというFate stay/nightの派生作品。1話の年越しそばに込められた意味、「末長くそばにいられますように」という願いは、「セイバーがサーヴァントにならないこと」=「もう二度と会えないこと」がセイバーを本当に愛することの答えだったstay/nightのセイバールートでは決して叶わないもので、それが叶うこの世界の優しさが沁みる。

DEVILMAN crybaby』X 泣き虫

devilman-crybaby.com

10話は特にクライマックスの場面のバトンを渡そうとし続ける描写が素晴らしかった。

「大嫌いだけど大好き」/「悪魔だけど信じる」/「お前のために泣いてやりたいけど、涙も枯れ果てた」/「殺したけどどこかにいて欲しかった」 というようにこの作品は悪魔でありながら人間でもあるという「矛盾」した存在であるデビルマンを象徴として、様々なキャラクターの矛盾した心が描かれていたように思う。 しかしそれは批判ではなく、矛盾を含めて受け入れるという優しさに満ちた描かれ方であったように感じる。

宇宙よりも遠い場所』STAGE10 パーシャル友情

yorimoi.com

どの話も良かったので一つ選ぶのが難しい。10話は個人的な共感があって心に残っている。詳しくは以下の記事に書いてある。
re-venant.hatenablog.com

グランクレスト戦記』第11話 一角獣城、落つ

grancrest-anime.jp

戦記ものなので人が死ぬ。その死に方に物語の焦点が当たるといってもいい。11話ではアルトゥーク陣営のそれぞれの負け方、死に様が1話に凝縮して描かれていて、そのどれもがかっこいい。

ダーリン・イン・ザ・フランキス』最終話 わたしを離さないで

darli-fra.jp

この話の少し前にヘラクレイトスの「同じ川に二度入ることはできない」を引いておいて、それでも川が流れ続けていれば宇宙のどこかでまた同じ川が現れるかもしれない、つまり世界が変化し続けるならまた出会えるかもしれないというラストに持っていくのがすごく良い。永遠の停滞に対する生成変化の肯定、だからこそここで終わるとしても「生まれてきてよかった」。

このラストはトップをねらえ!の変奏ではあるけど「帰還」を「回帰」に読み替えて本作のテーマを貫いているのも素晴らしい。

ところでこのサブタイトル『わたしを離さないで』はノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの同名作品から来ている。この話から興味が出て元ネタの方を読んで見たところ、とても良くできた作品だったので二重にこの話が印象に残っている。

異世界魔王と召喚少女の奴隷魔術』最終話 真贋対戦

isekaimaou-anime.com

お色気面で話題になっていた様子なこの作品だが、話自体も非常に良く練られている。特に最終話で奴隷魔術を活用した問題の解決があったり、転生前は独りだったディアヴロがこの世界で居場所を得られたことがアリシアに救いの道を示すことになったりと無駄がない。「転生」や「チート能力」が本人だけでなくその異世界の人間も救っていく展開が好きなので満足感が高かった。

『プラネット・ウィズ』第12話 見ろ、宇宙は祝福に満ちている

planet-with.com

11話の予告時点でこの「見ろ、宇宙は祝福に満ちている」というセリフがこう回収されるんだろうなぁ……と想像していた最高の展開が実際にやって来て、そしてその上でもう一段階超えていった感じだった。竜の行いはシリウス人にとっては災厄でもリエル人にとっては救いであり、「愛」の視点からそうして見る側面を変えることで全てに祝福を見出すことができる。そうした信念を証明するために戦い抜いた先生がかっこいい。

少女☆歌劇 レヴュースタァライト』第12話 レヴュースタァライト

revuestarlight.com

これも1話選ぶのが難しい作品。あえて選ぶとすれば、個人的に待ち望んでいた「台本」を超えていく展開にたどり着いた最終話だろうか。舞台に立つたびに「再生産」されていく「アタシ」が「スタァライト」を超えていくから「レヴュースタァライト」。台本が決められた舞台の上でも、彼女たちはそれを超えて自由にスタァライトする(?)ことができる。

キリンがこちらに語りかけてくる展開もメタ性があり、物語の登場人物とそれを見る私たちという構図が2017年の『Re:CREATORS』からの流れが感じられて嬉しい(ちょっと牽強付会な気もするけど)。

あと英語版の台本を読んで新しい解釈を思いつく展開から、やっぱり哲学書とかも翻訳じゃなくて原著を読まなきゃダメだなぁと思ったりした。

ハイスコアガール』ROUND2

hi-score-girl.com

ハイスコアガールはとても心に残るラブコメだった。特に2話で大野が春雄の自転車の後ろに乗って遠くの変なゲーセンまで行き、帰りには二人で河川敷を歩いてメンチカツを食べたりした思い出が彼女の心にずっと残り続けることを考えて感動していた。大野が一切喋らないので、その表情の細かな変化で心情が上手く表現されていたのも良かった。

やがて君になる』第13話 終着駅まで/灯台

yagakimi.com

このアニメ化は非常に素晴らしい出来栄えだった。特にオープニングの映像が美しい。

13話の前半では、「終着駅まで」というサブタイトル、墓、川を流れて行く蝉の羽、通過する電車に向かって一歩踏み出す橙子など「死」のモチーフが繰り返し現れる。生徒会劇が終わって姉のやり残したことを終えてしまったら、その姉「として」生きて来た橙子は行き場を失って死んでしまう。その行き詰まりの転機となるが侑の存在だ。彼女は橙子の手を引いて明るい場所へと連れていってくれる。勝手に『やがて君になる』のテーマソングに脳内設定しているKalafinaの『君が光に変えて行く』の「こんなに明るい世界に 君が私を連れて行く」という歌詞まんまのシーンがあって感動した。

そしてアニメの最後の水族館から二人で電車で帰るシーンでは侑が橙子に「乗り換え」を告げる。つまり彼女と一緒なら「終着駅」ではない別の場所へと行けることが示されている。姉として生きる橙子からやがて「君」、すなわち橙子自身になり、他でもない自分として生きる彼女へと乗り換えていくことができるのだ。

ところでこうした自己の非自己性、つまり人が通常は他の誰かとして生きていることはハイデガー的な論点かもしれないと思った。「やがて君になる」とは他者へと頽落した現存在が本来的な自己を取り戻すことだ、とか言ってみると面白いかもしれない。

ソードアート・オンラインの感想(1期〜劇場版) / 仮想世界の実在論

アニメ『ソードアート・オンライン』の1期〜映画までを一気に見た。今までに見たアニメのオールタイムベストに食い込むほど感動したので感想を書き残しておきたい。

1. 本編感想 / 仮想世界のリアリティ

ソードアート・オンラインという作品が伝えたいことは

「仮想世界におけるXは本当のものだ」

という命題に集約される。このテーマは例えば『これはゲームであっても、遊びではない』というフレーズにも表れている。

このXに「時間」「愛情」(アインクラッド編)、「罪」「強さ」(ファントム・バレット編)、「生」(マザーズ・ロザリオ編)、「記憶」(オーディナル・スケール)という風に要素を代入していくことで物語が構成されている。

「仮想世界」はもちろん偽物の世界である。しかしそこを生きた人、生まれた感情、得られたものや残されたものは本物なのだ、ということを伝える物語だと私は考えている。

まずはアニメ1期から映画に至るまで、この「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマを軸として読解しながら感想を書いていきたい。そしてそこからこのテーマをどう考えられるのかという考察に進んでいく。

1.1 アインクラッド

アインクラッド編はデスゲームである。茅場晶彦ソードアート・オンライン(SAO)というゲームのプレイヤーに自らの命をベットさせることで、ゲームの世界を本物にしようとした。命がけのゲームなら、それは人生と変わらないだろう?というわけだ。

アニメではエピソードが時系列順に再構成されて、3話でキリトとサチの関わりが描かれる。ここでキリトはサチを「守れなかった罪」を背負うことになる。彼がパーティメンバーを過度に守ろうとするのはこの罪のためだ。

この「守れなかった罪」と、そして「二刀流」という特別なスキルを与えられてしまったことが彼を「英雄」へと変えていく(もともと背負いこみがちな体質というのもあるが)。彼はその英雄性によって、誰かを守るために他の誰かの命を奪うというさらなる罪を背負うことになる。この点は「罪」をテーマとしたファントム・バレット編に繋がっていく。

その一方でSAOでの生活におけるキリトのスタンスは割と楽観的で、気候のいい日には外で昼寝をしたりして楽しんでいる。それに対してアスナは「現実の時間が失われている」と反発する。そんなアスナもキリトとの生活を楽しむようになるのは、彼女もまた仮想世界での生活はある意味で現実なのだと受け入れられたからだろう。そしてアインクラッド編以降で描かれるように、そうした生活は彼女の中でかけがえのないものになっていく。

アインクラッド編の後半で特に印象深いのはキリトとアスナ、そしてユイの関わりだ。彼らは(システム上の)結婚をしたり、ユイを子供として扱ったりするが、それらは仮想的なことに過ぎない。キリトとアスナは16、7歳で、ユイはAIなので彼らの子供ではない。こうして仮想的な関係を作り出すことで、「仮想世界における愛情は本当のものなのか?」という問いが前景に現れてくる。

仮想的な家族において交わされた愛情は本物なのだろうか。SAOにおけるプレイヤーのメンタルヘルスケアを担うAIであるユイは、デスゲームにおけるプレイヤー達のネガティブな感情を観測し続け、崩壊しかかっていた。そんなユイにとってキリトとアスナの間に、そしてユイとの間に生まれた愛情は、仮想世界における仮想的な関係であっても確かな救いだったのだ。

ここで救われるユイの心もまたAIである以上仮想的である。それゆえに仮想世界における愛情が仮想的な心を救った(ように見える)に過ぎない。それでも、この愛情は本物だと言い切れる。そうでなければ、ユイと別れるキリトとアスナに、そしてそのシーンを見る私たちの心にこんなに深い悲しみが現れることはないだろうから。

1.2 フェアリィ・ダンス

ここで描かれるのはアインクラッド編のような仮想世界において絆が生まれることというより、そうした絆を再確認することである。物語の基本構造は、キリトがアスナを取り戻すことと、リーファとの関係を修復することにある。

ここで面白いのはキリトとリーファの兄妹関係もまた本物ではないという点だ。仮想世界であるアインクラッドで様々な絆を肯定することができたキリトは、現実における仮想的な兄妹関係もまた本物だと肯定できる強さを備えたと言える。

それゆえに彼は、本当の妹でないことを知ってから距離を置いていた直葉との関係を修復することができたのだろう。またそうした修復が行われる場もまた仮想世界であるという点で一貫している。

反対に須郷伸之とその関係者は実験体に与えていた神経刺激による仮想的な経験を本物ではないと考えてたり、仮想的な記憶を植えつけて相手を操ろうとしていた点で対照的である。彼らは「仮想的なものは本当ではない」という立ち位置で、物語のテーマに対してアンチテーゼをなしている。そうした彼らが打ち破られることに、本作のテーマを読み取ることができるだろう。

1.3 ファントム・バレット

ファントム・バレット編は主人公とヒロインというよりは、キリトとシノンのダブル主人公と言っていいような構成になっている。おそらくは考えすぎだが、ガンゲイル・オンライン(GGO)でのキリトのアバターが女性に見えるのは、男女のペアで主人公/ヒロインの構図に見えてしまうことを防ぎたかったからではないかとも思える。

この章のテーマの一つは「仮想世界における罪、責任」だ。キリトはSAOで殺人ギルト「ラフィン・コフィン」に襲撃されて返り討ちにした罪(デスゲームなので死んでしまう)に悩み続けている。キリトの殺人は仮想世界におけるものであり、法的に罪に問われているわけではない。それゆえに彼の罪は自分自身に課しているだけのものだと言えるだろう。

キリトがこの罪に対して忘れることを自分に許さず、真剣に向き合うことが仮想世界であっても犯した罪は本物であるというテーマを反映している。ソードアート・オンラインという物語が誠実なのは、こうして仮想世界におけるネガティブな産物も本当のものとして引き受けている点だ。ここまでで描かれた仮想世界における「本当のもの」は、愛情などポジティブなものであった。それゆえにこのファントム・バレット編は全体から見ても特異なパートであり、またこの章が存在することで「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマに深みと説得力が生まれている。

この章のもう一つのテーマは仮想世界で得た「強さ」である。その強さは本物であるがゆえに、シノンのトラウマからの脱却を後押しもするし、デス・ガン(弟)を狂わせもする。そしてデス・ガン(兄)はSAOで得た「人を殺せる強さ」を忘れられないがゆえに込み入ったトリックを用意してまで本当の殺人を続けている。

本章のもう一人の主人公であるシノンもキリトと同様に罪を抱えている。彼女は幼少期に強盗を射殺したトラウマによって銃の形をしたものに怯える暮らしを送ることになる。彼女がそれを乗り越える方法として思いついたのが、銃が大量に出て来るGGOで強くなることだった。GGOもまた仮想世界であるから、そこで得られた強さは本物でないように思われる。しかしシノンはBoB大会後に実際に現実世界で銃(エアガン)を操ることができるようになる。つまり仮想世界で得られた強さは、現実の彼女を一歩前に進ませる力を持っていたのだ。オープニングやエンディングにゲームのアバターであるシノンが現実の朝田詩乃を見つめるカットが印象深く描かれているのはこのテーマの一つの表れだろう。

キリトとシノンの罪悪感は、それを負うことによって救われた人がいるということに気づくことで少しだけ和らげられる。キリトはラフィン・コフィンに襲撃されたプレイヤーを、シノンは強盗に襲われた郵便局員とその子供を救っている。

キリトたちの導きでシノンがその職員に再開するシーンがファントム・バレット編の最後に描かれていて、非常に感慨深いものとなっている。そのシーンが感動的だと感じられるのは、その罪に立ち向かい続けた彼女の強さへの戦いが、仮想世界におけるものでも本物だという証拠でもある。

ファントム・バレット(幻の銃弾)というサブタイトルは一つにはデス・ガンとの決着シーンにおいて回収される。シノンがスコープなしでバレットライン(GGO内で可視化された照準線)をデスガンに当てて牽制、それがキリトとデス・ガンの勝負の決め手になる。もう一つはデス・ガンの使う拳銃の弾で、本来それ自体には人を殺す力はないもののそう錯覚させるようにトリックが組まれている。幻=本物でないものが本当の力を持つ、という点でこれら幻の銃弾は仮想性と現実性に関する本作のテーマの変奏だと言えるだろう。

1.4 マザーズ・ロザリオ

この章のテーマは仮想世界で「生きること」と、そうして「生きた証」だと思われる。ユウキ達のギルド『スリーピングナイツ』はターミナルケアとして仮想世界に接続している。ユウキに至っては無菌室から出られない状態で、彼女の生はもはや仮想世界にしかないと言える。

アインクラッドにおけるデスゲームが「死なないため」の戦いであるとすれば、彼らの戦いは仮想世界で「生きること」だ。これまで「仮想世界におけるXは本当のものだ」というテーマを誠実に描いてきたソードアートオンラインという作品だからこそ、死に際に見る夢のような彼らの仮想世界における生を本物だと肯定できる。

アスナは単一パーティでのボス攻略によって記録に名前を残すという形で「生きた証」を残そうとするスリーピングナイツに協力することになる。本気で泣いたり笑ったりしながらそれを目指す彼らの姿が、仮想世界におけるその証もまた本当の生の証たりうるということを示している。

原作者のツイートに以下のような言葉があった。

彼らにとっては、《現実世界は数多ある世界のうちのたった一つ》であり、《現実世界での死は次の世界への旅立ち》なのです。全員が難しい病と闘う彼らには、それは救いでもあるのだと思います。*1

この言葉が示すように、仮想世界を本当に生きることは、現実世界を「たくさんの世界のうちの一つ」として相対化することにもつながる。それゆえに「仮想世界における生は本物だ」という信念は現実世界における救いともなるのだ。

ユウキ達に対して物語のもう一つの軸として描かれるのがアスナの家庭環境である。残された生を全力で生きようとするユウキの生き方から、母親に本気でぶつかる「強さ」を得てアスナは家庭における不和から一歩前進することができた。そうした意味でユウキの生きた証はアスナの中にもあると言える。だから本章のエンディングテーマ『シルシ』の

じっと見つめた キミの瞳に写ったボクが生きたシルシ
(LiSA『シルシ』)*2

この「キミ」と「ボク」はアスナとユウキを指しているのだろう。『シルシ』の歌詞では他に

何度も途切れそうな鼓動 強く強くならした 今日を越えてみたいんだ
(ibid)

という部分が、アスナと少しでも一緒に生きるために、宣告された余命以上に生き続けたユウキとリンクすることに最後に気づいて涙が溢れてきた。

ユウキのオリジナル・ソードスキルである「マザーズ・ロザリオ」は最期にアスナへと受け継がれて、例えば劇場版でも彼女を助けている。これもまた彼女の「生きた証」で、それが受け継がれていくことで彼女の剣は「絶剣」=「絶えることのない剣」となる。

アスナの判断で再び仮想世界に繋がれたユウキの最期には、アスナとスリーピングナイツ、そしてたくさんのALOプレイヤーが駆けつけてくれる。このシーンには以下のような意味もあるそうだ。

不特定多数の人間たちから浴びせられた悪意がAIDS発症のきっかけになったのかもしれないと倉橋医師は言っています。そんなユウキを、最後は数え切れないほどたくさんの人間たちの善意で見送りたいがためにこの展開となりました。*3

物語の登場人物に対する深い愛情を感じられる背景設定だと思う。仮想世界とそこにおける様々な感情という「本物でないもの」に対してここまで誠実に描くことのできる作者だからこそ、こうした架空のキャラクターに対する強い思入れは必然のようにも思われる。

そしてこのシーンでユウキは、ただ死を待つだけだった自分の人生を肯定することができた。

ずっと…ずっと考えてた。死ぬために生まれた僕がこの世界に存在する意味は何だろうって / 何も生み出すことも、与えることもせず、沢山の薬や機械を無駄遣いして、周りの人達を困らせて… / でも…でもね、ようやく答えが見つかった気がするよ…。意味なんてなくても、生きてていいんだって / だって最後の瞬間がこんなにも満たされているんだから…。こんなにたくさんの人に囲まれて、大好きな人の腕の中で旅を終えられるんだから…
ソードアート・オンラインⅡ 24話『マザーズ・ロザリオ』)

彼女のように仮想世界で生きることには意味がないかもしれない。それでも彼女の人生は本当に満たされていた。それ以上に何が必要なのだろうか。

ユウキが息を引き取った後にはこんなカットが挿入されている。

f:id:Re_venant:20181123014925j:plain *4

このVサインは、本章の中でスリーピングナイツがボスを攻略した後に、それを横取りしようとしていたプレイヤーに向けたのと同じものだ。つまりユウキは最期に、自身の人生に勝利したのだ。

少し余談だが、ユウキの病名が架空のものではなくAIDSという現実にある病名である理由について

ユウキが物語の中で短い時間を生き、そして去っていったことに意味が生まれるのではないか。そう考え、現実の病名を用いました。*5

とある。テーマに即して言い換えれば、架空のキャラクターの生でも現実の私たちを動かすことができる本当の力を持っていると信じてこうした設定がつけられたのだろう。

1.5 オーディナル・スケール

劇場版は「記憶」の物語である。重村教授はSAOで死亡した娘のユナに関する記憶をSAOプレイヤーから集めて、それを学習させたAIとして彼女を復活されることを目論む。その過程で記憶をスキャンされたプレイヤーはSAOに関する記憶を思い出せなくなってしまう。アスナがその被害にあうことでSAOにおけるキリトとの思い出も失われてしまうことになる。

記憶を思い出せなくなる原因は、SAOにおける死の恐怖を増幅されたことにある。つまり思い出せないのではなく、思い出したくなくなるということだ。重村教授や、アスナと同様の状況に陥ったクラインは「思い出さないほうがいいのかもしれない」と言う。確かに仮想世界でのデスゲームの記憶など、本当の経験でもないし辛いだけのものだから無いほうがいいのかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか。

SAOを生存した者たちは、その事件を忘れて生きていくことができる。しかし生存できなかった者たちはどうだろうか。ユナはSAOにおける敗者である。彼女たち敗者もまた、SAOという仮想世界を生きていたことは誰にも否定できない(ユウキの生がそうであったように)。SAOをクリアできたのは生存者たちだけの功績ではない。彼女のようなたくさんの敗者たちもまたゲームをクリアし、プレイヤー達が生きて帰るために戦っていたのだ。

生存者たちがSAOでの記憶を忘れて生きていくということは、そうした敗者たちの戦いをなかったことにしてしまうことに他ならない。仮想世界での偽物の記憶であっても、それはなかったことにはできない重み=実在性を持っている。

そしてアスナにとってのSAOの記憶は、キリトとの絆そのものでもある。だから彼女にとってのそれは死の恐怖を乗り越えてでも取り戻したい記憶だったのだ。そしてその恐怖を乗り越えるきっかけは、ユナが「圏外に出て」、つまり恐怖を乗り越えて戦って死んだという事実であった。だから仮想世界で死んでしまったユナの戦いの記録も、いま現実で生きている人を勇気付ける力を持っている。

重村教授の計画が破綻し、AIとしてユナを復活させることはできなかった。失意の彼の前にユナの幻が現れて、「私は記憶の中で生きている」と言う。このような結末は黒い方のYUNA(本来のユナとは別物)が歌う『Ubiquitous dB』の歌詞にすでに暗示されていたと言えるかもしれない。

だから“会いたい”なんてナンセンス
ユビキタするよ君のメモリー
(ユナ『Ubiquitous dB』)*6

わざわざAIとして復活させて「会う」ことをしなくても、彼女は記憶の中に偏在している。確かに記憶は過去のもので、SAOの場合それはさらに仮想世界での記憶ということになってしまうため、二重に偽物である。しかし以上に見たように仮想世界を生きた彼女の生は本物であり、またその記憶は本当の力を持っている。

劇場版にはエイジというキリトに対置されるアンチヒーローのようなキャラクターが登場する。彼はSAOにおいてユナを守れなかったことを後悔している。これはキリトがアインクラッド編で背負った「守れなかった罪」の物語の再話である。彼はユナを現実世界に帰すという約束を果たすために重村教授の計画に加担していた。

ユナ(白)は結局のところ機械学習によってオリジナルのユナの振る舞いを模倣するAIでしかない。エイジはユナとの約束を果たすことができたのだろうか。それでもこのソードアート・オンラインという物語なら、「できた」と答えられるのではないかと思う。なぜならこれは、偽物から本物が生まれる物語だからだ。

一方でYUNA(黒)はユナの記憶を集めるためのAIでしかない。つまり彼女はユナであることすら意図されておらず、その実存そのものが仮想であると言えるだろう。そんな彼女が

仮想(ゆめ)も現実(リアル)も真実(ほんと)だよ
(ユナ『Ubiquitous dB』)

と歌うのは、本作のテーマを端的に象徴しているように思われる。

YUNAは最後のステージで歌い終えて、そのことに満足して笑顔でステージの照明が消えるように一瞬で消えてしまう。私には(そしてこの作品のテーマに共感している人にもそうであれば嬉しいのだが)それが本当の生の重みを備えた彼女の死であるように感じられる。あまりにあっけなく消えてしまうことが、かえってその重みを際立たせる。彼女をただ道具として使い捨ててしまうことは、一つの罪なのではないか。それもまたこの作品が発する問いの一つだろう。

2. 考察 / 仮想世界の実在論

2.1 仮想と現実

1章ではソードアート・オンラインのテーマが「仮想世界におけるXは本当のものだ」であることを見た。そのテーマは物語の中核として、文句のつけようがないくらい綺麗に描かれていたように思う。この章では少し視点を変えて、理論的な面からこのテーマについて考えてみたい。

仮想世界は偽物の世界である。それは計算機プログラムによって構成され、そこでの経験は電気的に脳に書き込まれているに過ぎない。では現実世界はどうだろうか。現実世界は基礎物理学的な素粒子によって構成され、そこでの経験もやはり電気的に脳に書き込まれる。両者に大きな違いはないのだ。

プログラムによって情報的に構成されていることと、素粒子によって物理的に構成されていることの違いが重要だと考えることもできるかもしれない。しかし計算機もまた物理的に構成されていることに変わりはない。それらの違いは抽象化のレベルの違いである。プログラムは情報的な構造(要はソフトウェア)として、物理的な回路より抽象度が一段高い。

しかしその一方で、物理的な素粒子から構成される私たちの現実世界も抽象的なものである。この世界における「もの」は素粒子の世界には存在しない。それらは私たちが素粒子の大規模な集まりを抽象化することで初めて存在する。純粋な素粒子だけの世界では例えば机とラップトップの間の境界線は存在しない。そこにあるのは素粒子の雲で、それらを区別するのは私たちが持っている「机」や「素粒子」という概念なのだ。

すなわち仮想世界も現実も、物理的なものを実在するものと考える視点からはどちらも抽象物でしかない。それゆえに、両者は同質のものとして扱うことができる。このような視点は、スリーピングナイツにとって「《現実世界は数多ある世界のうちのたった一つ》」だったことを裏打ちしうるものだろう。

もう一つの要素、脳への電気信号に入力プロセスの違いに注目することもできるかもしれない。仮想世界での経験はフルダイブ機器によって脳へ入力され、現実世界での経験は身体の感覚器官から入力される。

これはいわゆる「水槽の中の脳*7」という思考実験と似た状況だと言えるだろう。この思考実験をここでの話題に即して換言すると、私たちは仮想世界に接続しているという自覚なしに、そのような状況に陥っている可能性を否定できない。

このような思考実験についての哲学的見解として、私が気に入っているものを一つ紹介しよう。それは私たちの「知る」とか「知覚する」という言葉は、こうした状況を想定して作られているわけではない、というものだ*8。確かに私たちは水槽の中の脳もしれないし、誰かが設計した「現実世界」というデスゲームをプレイしているのかもしれない。

私たちは現在置かれている状況がそのどちらにあるかを知ることはできない。なぜなら私たちの知識を得る能力はそうしたことを知るための能力ではないからだ。しかし仮にそうであったとしても、私たちの知識や知覚に問題が生じるわけではない。つまりどちらでも問題はないのだ。

そうした意味で、経験がフルダイブ機器によって入力されているか感覚器官から入力されているかは大きな問題ではない。なぜなら私たちはそのどちらの状況にあるかを知り得る立場にないからだ。

以上の二つの論点から、仮想世界は現実世界と理論的な違いを有していないと考えられる。そしてそれならば、現実世界における様々な思いが本物であるように、仮想世界におけるそれも本当のものだと言えるのではないだろうか。

2.2 拡張実在論

仮想世界が実在するということは、そこにおける出来事や経験もまた実在するということだ。こうした観点に立った上で、「何が実在するのか」という問いを問い直してみるならば、その答えは物理世界だけを本物だと扱う立場よりもはるかに拡張されたものとなるだろう。そこには仮想世界における絆、出会いや別れ、記憶などが「実在物」として含まれている。ソードアート・オンラインという物語を経た私たちにとっては、むしろこうした感覚の方が実感に近いと言えるのではないだろうか。

他にも例えば、物語を読む(見る、聞く)ことは仮想的な体験だと考えることもできる。それゆえに仮想世界における経験が実在するなら、物語によって仮想的に経験したことも実在する。そのことは、私たちがこのソードアート・オンラインという物語を享受することにも当てはまる。この作品によって動いた私たちの心や、その中で考えたこともまた本物なのだ。

そしてこの拡張された実在論を、仮想世界以外にも「偽物」だとされているものに広げていける可能性がある。

例えばユイやユナなどのAIについて。私たち自身の存在を考えてみるなら、それは物理的な身体とは一致しない。「わたし」という概念はその身体の振る舞いをある視点から抽象化した上で見えてくる主体なのだ。*9おおざっぱに言うと、「わたし」とはそうした振る舞いのパターンを説明するために置かれた「主語」のようなものということになる。

ソードアート・オンラインにおいて登場するような、人間と変わらない振る舞いをするAIを「彼女」という主語を使って記述することは可能である。だから「彼女」達もまた「わたし」達と同じように実在物として扱うことができる。この観点からは物理的な身体を持っているかどうかはあまり関係ない。

アニメ3期(アリシゼーション編)ではどうやらこのAIがメインテーマとしてフィーチャーされてくるようだ。本作のテーマは仮想世界における「命」もまた本物だと言えるほどの懐の深さを持っている。それゆえそれゆえにこの拡張された実在論は、そうしたAIも含むことのできるものへと成長していくだろう。

そしてまたこうした思考は物語のキャラクターへも向かいうるものだ。すなわちキャラクターの振る舞いも私たち人間のそれと同様に記述できるために、「彼ら」も実在物として扱うことができる。それゆえに本作のテーマをさらに広げて、本作の登場人物やその生が現実に劣らず本物だという主張を読み取ることも可能だろう。原作者がユウキの人生に少しでも意味を見出してあげたいと願ったことも、この点に一致するのではないかと思っている。

このように実在の範囲を広げることで、「偽物」だとされているものを「本物」へと引き上げていくことはそれ自体ドラマチックなものである。これがソードアート・オンラインという作品が持つ大きな魅力の一つであると私は考えている。そしてまた、この物語を経ることによって私たちの世界そのものが広がり、豊かになっていく。

しかしそこにはキリトが背負ったような責任の重さや罪も含まれることになる。だからこの作品は、そうして広がった世界の豊かさを享受するために引き受けなくてはならない重荷もあるということを伝えるものでもある。そうした意味でこれは未来への希望にあふれ、それでもそれに対する誠実さを失わない作品だと言えるだろう。


(2018/11/27 2.1の脚注と2.2の本文に追記)

*1:

*2:

シルシ

シルシ

  • LiSA
  • アニメ
  • ¥250

*3:

*4:©2014 川原 礫/KADOKAWA アスキー・メディアワークス/SAO-Ⅱ Project

*5:

*6:

Ubiquitous dB

Ubiquitous dB

  • ユナ(神田沙也加)
  • アニメ
  • ¥250

*7:水槽の脳 - Wikipedia

*8:例えば「文脈主義」と呼ばれる。( Epistemic Contextualism (Stanford Encyclopedia of Philosophy)) 個人的な参照元はこれ。

Epistemology: A Contemporary Introduction

Epistemology: A Contemporary Introduction

*9:この点について詳しくはre-venant.hatenablog.com

他者、AI、虚構 / 「志向姿勢」入門

An introduction to “intentional stance”

1. はじめに

 他者の振る舞いを予想することができるのはどうしてだろうか?AIは考えることができるのだろうか?フィクションの登場人物と実在の他者の間にはどういった違いがあるのだろうか?こうした一見関わりのない問いのそれぞれに対して、哲学者ダニエル・デネットの思考ツール「志向姿勢 (intentional stance)」は一定の答えを与えてくれる。この記事はあまり日本語の文献のアクセシビリティが良くない志向姿勢という考え方について簡単に説明し、デネットのその他の文献の読解の助けとなることを意図している。デネットというと『解明される意識 (1991)』『ダーウィンの危険な思想 (1995)』などが有名でそれから読み始める人が多い(自分を含む)のだが、これらの著書の哲学的なフレームワークを理解するためには実は志向姿勢というものについて知っている必要がある。私は最近になってデネットの70年代から80年代の本や論文を読んでこの重要性が理解でき、また『解明される意識』などを読んでいた時に感じたモヤモヤが解消されたのでこの記事によって同じ轍を踏む人が少しでも少なくなれば幸いである。

2. チェスプログラムと志向姿勢

 デネットがしばしば用いる例にチェスを行うプログラムとチェスを指すという状況がある。こうした状況において、私たちは普通どんなことをしているだろうか。もし指し手が計算機プログラミングの専門家(かつチェスが上手い)でチェスプログラムの書き方を熟知しているなら、対戦相手(プログラム)の実装を脳内で想像しながらチェスを指すかもしれない。しかしながら我々一般人には対戦相手の内部で動いているプログラムを想像することは不可能と言っていい。こうした場合でも私たちはそのプログラムとチェスを指すことができる。なぜだろうか?それは私たちがチェスプログラムが何を「考えて」次にどの手を指すかを予想することができるからだ。この時私たちはプログラム内部の細部について熟知している必要は全くない。ただチェスのルール、現在の盤面の状況、その盤面からのチェックメイトへの道筋とそこから逆算した次の手の最適解を知っていれば予想が可能なのだ。こうした予想を行う視点をデネットは「志向姿勢」と呼ぶ。相手がどんな振る舞いを「志向」(意図 intention)しているか、つまり何を考えているかを読む「姿勢 (stance)」、それが志向姿勢である。そしてこの志向姿勢はこのチェスプログラムの例に限らず私たちが他者の振る舞いを予想する際の一般的な視点でもある。私たちが他者の行動を予測する時、その振る舞いを発生させる中枢神経の細部を知っている脳神経学者である必要は全くない。むしろそうした神経の状態を詳細に見る視点は余計に時間がかかって邪魔だとさえ言えるだろう。
 ただし、相手が上で述べたような(例えばチェックメイトへの)最適解を取るという合理的な選択を行うという前提なしには志向姿勢による予想は成り立たない。ルール上最適解以外の手は無数に存在するし、対戦相手はそれを取ることが可能ではある。しかしそこまで思考の枠を広げてしまうと制限時間内の予想は不可能となってしまう。こうした選択肢の刈り込みを行うのが「合理性(rationality)」という前提なのだ。想定する必要のある選択肢の幅をあえて狭めることでシンプルでスピーディな予想を可能にするのが志向姿勢の重要な役割だと言えるだろう。言い換えると志向姿勢は予想の精度を少し落とす代わりに結果を出す速度を高め、また私たちの脳の限られた計算力でも予想が可能なようにしているのだ。反対に志向姿勢をとらない予測の方法(プログラム自体や脳神経を見る視点)は志向姿勢よりも精度が高い代わりに結果が出るのが遅いし、私たちの脳が持ち得ないような膨大な計算力を必要とする。また予想の速度(とそれに伴う意思決定の速度)は自然界における生存や繁殖において非常に重要なファクターである。なぜならどれだけ正確に予想を出すことができるとしてもその結果が捕食者に食べられてから出るのでは意味がないからだ。デネットは進化論を強く信奉しているので、こうした意味で私たちは志向姿勢を持つように進化してきたのだと論じる。(詳しくは『ダーウィンの危険な思想』『心の進化を解明する (2017)』)

3. 志向姿勢と他者

 こうした志向姿勢を用いると、他者は「信念」「願望」などを持って振る舞う主体として解釈されることになる。反対にいえば主体としての他者は合理性を持っているという前提のもとで解釈された「パターン」に過ぎない。(このパターンという語は解釈が難しいが単に信念、願望、行動という一連の流れを指していると考えてもらっていい。)志向姿勢を用いないで他者を見た時、それは物理的な原子の塊であるかもしれないし、様々な機能を持った器官の集合体であるかもしれない。そうしたシステムが真に主体として存在するためには、志向姿勢によって解釈されなければならないのだ。*1いやいや、解釈されようがされまいが他者は「魂」を持っているではないか、「主観的な経験」を、そうした記述に還元され得ない「クオリア」を持っているではないか、といった反論が出ることはそれこそ容易に「予想」できる。こうした批判にデネットは様々な本、論文で様々な形を取りながら答えている。簡単にいえばデネットは「物理主義」とか「自然主義」といった立場をとっていて、物理的なもの以外の存在を認めない。それゆえに魂やクオリアは「デカルト負の遺産」として否定される。この議論について詳しくは『解明される意識』や『スウィート・ドリームズ (2005)』などが参考になるだろう。

4. 志向姿勢と自己、意識

 そしてこうした志向姿勢に関する議論は「他者」に止まらず「自己」にも適用できる。結論からいえば、「自己」すらも志向姿勢によって解釈されたパターンにすぎない。世界の成り行きを正確に予想するためには他者や環境の振る舞いだけでなく自身の振る舞いもまた予想のうちに組み込まなければならない。それゆえに並列処理システムである私たちの脳は自分を含めたシステムの振る舞いを志向姿勢を用いて観察し予想している。そうして自分自身に対する志向姿勢によって出力されたパターンが、例えば「私はいま赤いリンゴを見ている」といった形で現れて「思考」や「意識」と呼ばれるのである。そしてこの「私はいま赤いリンゴを見ている」の主語である「私」が「自己」の正体、デネットが「物語的重力の中心」と呼ぶものなのだ。ちょっと待った、「私はいま赤いリンゴを見ている」と考えている「私」がいるじゃないか、それこそが自己なのではないか?という疑問が出てくるのは当然だと思う。しかしながらその考え方は「「「私はいま赤いリンゴを見ている」と考えている「私」」と考えている「私」」……と無限に遡ることができてあまり良いやり方とは言えない。そうではなくて「物語的重力の中心」としての自己が現れる前、つまり志向姿勢を用いて解釈している主体はまだ「私」ではないのだ。なぜなら他者と同様に自己にも魂はなく、解釈されて初めて主体として確立されるからだ。

5. 志向姿勢とAI

 こうして他者や自己といった思考と振る舞いの主体を再定義してみると、人間とAIの違いについての新しい見方が可能になる。最初のチェスプログラムの例でも示唆されているが、AIの振る舞いもまた志向姿勢によって解釈することができる。そして、主体であるとは志向姿勢によって解釈されることである。それゆえにAIもまた人間と同様に思考と振る舞いの主体たり得るのだ。こうした意味でデネットは「強いAI」を肯定する論者だと言われる。チェスプログラムの例では志向姿勢をとらなくても、プログラムの内容を詳細に検討すればその振る舞いを予想することは可能ではあった。しかしながらデネットが「ポスト知性的デザイン」と呼ぶような機械学習型のAIはそうはいかない。なぜなら例えばニューラルネットの詳細を見たとしてもAIがどのように考えて振る舞っているのかを理解することが不可能だからだ。それゆえにAIの振る舞いを志向姿勢を用いて解釈せざるを得ない、つまりはAIを思考する主体として扱わざるを得ない時代が来る可能性は大いにある。このことに対してデネットはAIを志向的な主体としてむしろ「過大に評価しすぎる」ことに警鐘を鳴らしている。私たちは無意識に志向姿勢を用いてAIの振る舞いも解釈してしまう。それゆえに本来AIに備わっていないような「合理性」をAIに対して前提して行動してしまうのだ。現行のAIはまだ人間と同じような合理性を持っているとは言えない。しかしこの合理性をいう志向姿勢による解釈の前提は無意識に働いてしまうために、AIが人間と同じように「普通こうするだろう」という前提を持って考えてしまい、重大な過ちが起こる可能性がある。さらに詳しくは『心の進化を解明する 』の最終章とこの記事"Daniel C. Dennett "The Singularity—an Urban Legend?" 和訳 - Revenantのブログ"。

6. 虚構、ヘテロ現象学的テキスト

 このように解釈されたものとしての主体や自己は、ある意味でフィクションの登場人物に近いしいものとなっている。なぜならあるシステムから志向姿勢によって解釈されたものとしての自己や他者と、文章から読み出されたフィクションの登場人物は、志向的なパターンという点で同様のものだからだ。デネットがしばしばフィクションを例として用いて意識や日常的な視点を説明しているのはこうした事情による。例えば『解明される意識』ではそれぞれの人間の発話行為コナン・ドイルの小説のようなある種のフィクションのテキストとして扱い、それを意識現象の探求の一つのリソースにしようという発想が登場する。こうしたテキストをデネットは「ヘテロ現象学的テキスト」と呼ぶ。このヘテロ現象学的テキストは志向姿勢によって解釈された、自分や他者の振る舞いを記述した物語だと言える。「自己」や「他者」というものはこのヘテロ現象学的テキストという一種のフィクション(「私はいま赤いリンゴを見ている」)の登場人物、すなわち先に述べた「物語的重力の中心」なのだ。こうした意味でデネットは「物語」という言葉をこの用語に取り入れている。
 そしてデネットは自己の振る舞いを観察し予想するために用いられるこのような志向的パターン/意識を「便利なフィクション」や「ユーザーイリュージョン」と呼んだりする。これらは例えばスマートフォンのホーム画面に並んだアイコンのように自分というシステムを簡単に把握するのに役立つ。しかしながらそのユーザーインターフェースは実際に脳内で行われている計算を厳密に表現したものではない。そうした意味で志向的パターン/意識はフィクションに近いのである。
 ただしデネットは物理的に存在する人間とそうでないフィクションのキャラクターは違っていることは認めている。以下は私の解釈になるが、そうした意味での違いは志向姿勢とは別の物の見方で発見される物理的な世界での違いである。逆に言えば、純粋に志向姿勢の枠内で考えるときにはそのような違いは現れてこない。例えば小説に熱中して読んでいる時、目の前にあるものが紙(もしくはKindle端末)に書かれた文字であることを意識するだろうか?純粋に志向姿勢によって登場人物の振る舞いを観察し、予想している状態においては彼らは私たち実在の主体と同様に解釈されている。こうした意味で志向姿勢の哲学において私たちはフィクションの登場人物は限りなく接近しているのだ。*2

7. おわりに

 はじめに立てた問い、「他者の振る舞いを予想することができるのはどうしてだろうか?AIは考えることができるのだろうか?フィクションの登場人物と実在の他者の間にはどういった違いがあるのだろうか?」にそれぞれ答えてこの記事を終えよう。まず他者の振る舞いを予想できるのは、他者が合理的に振る舞いという前提のもとで選択肢を限定しているからだ。そしてAIはこうした予想の枠組み内で扱われる限りで思考し行動する主体として扱われうる。最後に私たち実在の人物は解釈されたパターンであるという意味でフィクションの登場人物と同列に語ることができる。 
 この記事で志向姿勢という思想の持つ広い含意のいくつかは紹介できたと思う。ただし志向姿勢と倫理の関係など自分がまだうまく消化できていない部分については紹介できていないので、また成長したら書き加えたい。またデネットが構想する「姿勢」は志向姿勢だけでなく「物理姿勢 (physical stance)」「設計姿勢 (design stance)」を含めた三つである。この三つの姿勢の内容と関係性も非常に重要なトピックなので、機会があったらそちらも紹介したいと思う。

文献案内

1981年に出た論文集。特に最初の論文"Intentional Systems"が志向姿勢や三つの姿勢の導入としてわかりやすい。ただし和訳がない。

1989年に出た論文集。最初の二つの論文"True Believers"と"Three Kinds of Intentional Psychology"で志向姿勢について論じられている。ただしやや論争的なので個人的には"Intentional Systems"の方がわかりやすいと思う。和訳があるが当然本屋では見かけないので図書館などを探すしかない。

最初に読んだデネットの本として思い出深い。和訳にして上下二段組が600ページぐらいあって辟易とするかもしれないが、様々な分野の知識を総動員して意識という問題に立ち向かう冒険はなかなか得難い経験となるだろう。この記事で紹介した「ヘテロ現象学」「物語的重力の中心」については前者が先に登場するのだが、説明の順番として志向姿勢→「物語的重力の中心」→「ヘテロ現象学」が正しいと思う。そうした意味で哲学的に読むとわかりづらい本。

進化論を論じた本で志向姿勢の話は直接は出てこないが、その成り立ちが進化のプロセスにあると想定していることが読み取れる。グールドとの論争部分がややかったるいが「メンデルの図書館」などの考え方のモデル構築の手腕が遺憾無く発揮されていてそうした部分は感動する。

これも論文集。特に"Real Patterns"という論文はよく引用される重要な論文。コンウェイライフゲームなどを例に用いながら、三つの姿勢が説明されている。志向姿勢について知る上でも役立つだろう。これも和訳はない。

『解明された意識』に対する反論や、それ以前からある批判に対して答えることが目的の本なのでこれだけ読んでもよくわからない気がする。背景となる論争をある程度知ってから読むと面白いかもしれない。

最近出た本。個人的にはデネットの著作の中で一番おすすめ。彼の思想の大部分をカバーしていて、また論争的な部分が少ないので読みやすい。最近和訳も出た。志向姿勢の話も登場する。

個人的に訳したもの1。AIについて書かれたウェブ上の記事で、『心の進化を解明する』のAIについての記述も含めて解説してある。

個人的に訳したもの2。クオリアについて論駁した論文。志向姿勢にはあまり関わりがない。

*1:もしかすると「志向姿勢によって解釈されることが「可能」でなければならない。」つまりパターンとしてはアプリオリに存在していて解釈される「可能性」のみが主体である条件かもしれない。この点については目下研究中であるし、また存在論のややこしい議論に踏み入ってしまうので割愛する。

*2:例えばフィクションの登場人物に対して「こうすべきだ」「この振る舞いは許されない」といった判断をすることはこうした見方を裏打ちするものではないだろうか。

研究発表『日常的イメージにおける構造実在論』

www.academia.edu

0. Abstract

 本稿では科学哲学における「構造実在論(structural realism:SR)」を日常的な思考のフレームワークに応用することを目指す。この応用によってダニエル・デネットがしばしば用いるウィルフリッド・セラーズの概念「日常的イメージ(manifest image)」の内容が明確になることが期待される。この分析は日常的イメージと科学的イメージ(scientific image)との関係というさらに包括的な関心に導かれている。SRはLadyman & Ross(2007)で指摘されているようにデネットの実在的パターン(real patterns)という論点と(厳密に一致するわけではないが)相性が良い。この議論を起点にしつつ日常的イメージ上でSRを取ることの可否を論じ、その上でSRを採用することのメリットを検討する。

1. introduction

 まずはじめに構造実在論(structural realism:SR)について概観する。特に焦点を当てたいのが構造実在論を取る二つの主要な動機と、経験的構造実在論(epistemic structural realism:ESR)と存在的構造実在論(ontic structural realism:OSR)の対立軸である。次に基本的に物理学の領域において議論されるSRをそれ以外の領域、特に生物学(French 2011)と心の哲学(McCabe 2006)へと応用していく研究を紹介、分析する。その上でそれらを包括する日常的イメージへのSRの応用について議論する。ここではLadyman et. al. (2007)でデネットの”Real patterns (1995)”に即して展開されるOSRのバリエーション、情報理論的構造実在論(Information-Theoretic Structural Realism:ITSR)を用いるのが良いだろう。この分析においては日常的イメージに含まれる対象は(第一義的には)個物ではなく構造であるという結論に至る。しかしながらデネットの議論を詳細に分析すると、ITSRをそのままデネットの思想の発展系とするには不備があることがわかる。その点について論じながら、ITSRの立場を修正することで日常的イメージにおけるSRがどういったものになるかを考察する。そして最後に日常的イメージにおいてSRを採用するメリットを、SRという立場が生まれるに至ったそもそもの動機に即して提示する。

2.構造実在論

2.1 科学的実在論

 SRは広く科学的実在論の一種である。科学的実在論を採用する根拠として第一に挙げられるものに「奇跡論法(no-miracle argument)」がある。これは科学の措定する観察不能な対象がもし存在しないならその科学の成功が奇跡となってしまい、また奇跡を信じるよりもその対象の実在性を信じる方が良いという論法を指す。特に予想という側面について、科学の想定する対象が自然種として存在するならその予想は理論の「投射可能性(projectabil-ity)」として正当化されることになる。(Boyd 1990)
 また単に科学の措定する対象は私たちの活動(説明、予想など)において有用であるというプラグマティックな観点からその実在性を主張することもできる。本稿のメインターゲットであるダニエル・デネットもそうした立場にあると言えるだろう。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。時折発生する誤解とその結果として生まれる誤った予測を受容することになるほどに単純な判別システムを科学において採用することは許されるのだろうか?それは往往にして起こっている。(Dennett 1991b)

2.2 構造実在論

 この科学的実在論は基本的に個物を科学の対象として想定している。そのような科学的実在論に対して様々な批判が考えられるが、本稿では構造実在論の議論に関わるそのうちの二つを扱う。一つは「悲観的帰納法(pessimistic meta-induction)」で、もう一つは量子力学における過少決定の議論である。悲観的帰納法とは、理論変化の前後で例えばフロギストンという対象へのコミットメントは停止されるが、こうした事例から帰納的に推論すると現在私たちがコミットしている科学の対象についても将来その実在性が認められなくなるだろうと予想できる。本稿ではこの問題を理論変化における存在論的不連続の問題として扱うことにする。なぜなら理論変化前後で存在論的な不連続がないなら、悲観的帰納法は成り立たないからだ。
 次に量子力学における過少決定の問題について、これは特に科学的実在論が対象を個物として扱う場合に発生する。

実際に特定の条件下で量子的な対象は個物だと主張することもでき、このことは物理学が個物としての粒子と非-個物として粒子という二つの異なった存在論的「パッケージ」を支持するというある種の形而上学的過少決定を生じさせる。(French & Ladyman 2011)

 こうした点から、個物ではなく例えば数式で記述されるような構造を対象とした構造実在論(SR)が提唱されるようになった。その構造は例えばニュートン力学相対性理論の近似として保存されているように、理論変化の前後でも同じようにコミットされている。それゆえにSRでは存在論的な不連続は発生しない。そして個物を対象としない以上、量子論における対象の過少決定という問題は生じない。なぜならそれを記述する数式こそが実在的な構造であり、その数式が含意する対象は個物でもそうでなくても構わないからだ。
 以上からSRを採用するメリットはFrench(2011)でまとめられているように二つあると言える。

構造実在論は二つの動機を持っているおおまかに理解することができる。第一には科学におけるしばしば劇的な存在論的変化という明白な歴史的事実に立ち向かうという問題を提示する、いわゆる悲観的帰納法を乗り越えること、そして第二には現代科学(特に量子物理学)の対象の存在論的な地位に関する形而上学的な含意に対応することである。(French 2011)

2.3 ESR/OSR

 このSRについて、大きく分けてさらに二つの立場がある。それぞれ経験的構造実在論(ESR)と存在的構造実在論(OSR)と呼ばれる。簡単に言って、SRが対象とする構造が認識上私たちの前に現れるものであるという立場がESRであり、反対にそのような構造が世界のあり方そのものであるという立場がOSRとなる。

ESRの大雑把な主張は私たちが知りうるすべてはもの間の関係の構造でありそのもの自体ではない、というものでそれに対応したOSRの大雑把な主張は「もの」は存在せず構造こそが存在するすべてであるというものだ。(Ladyman 2014)

さらにESRでは構造の実在性について私たちの認識の制約上の限界として認められ、実際の世界のあり方については個物であると主張するか、不可知論を取るかで分かれている。

二つのバージョンのESRが考えられる。ESR1ではそのような対象[観察不能な個物]は存在するがそれを知ることはできない、またESR2ではそのような対象が存在するかもしれないししないかもしれないが、どちらとも知ることはできないしそのような対象が存在してもそれを知ることはできないと主張される。
(French & Ladyman 2011)

OSRについても、構造の実在性を認めた上でそこから定義される個物の実在性も二次的に認めるかどうかで立場が分かれている。

従って二つの型のOSRが考えられる。一つは文脈から個別化された「薄い」対象の概念を残すものであり、もう一つは完全に対象なしで済ませるものである。この二つの違いを明確化することは現行の議論の課題ではあるが、後者の「結節点」が前者の「薄い」対象に他ならないと論じることもできる。(French & Ladyman 2011)

ここで言われているように、OSRにおいては構造同士のつなぎ目である「結節点」はどちらにせよ存在しているため二つの立場のどちらを取ってもあまり変わりはない。それゆえに本稿ではOSRとしてまとめてしまうこととする。本稿ではこのOSRを応用した一形態をデネットの思想を元に組み立てた立場をのちに見ることにする。次節ではSRの特殊科学への応用例を二つ見ることにする。これらは本稿の目的であるSRの日常的イメージの応用に関わっている。その点については4章で詳しく見る。
 

3. 構造実在論の応用

3.1 生物学

 Steven Frenchの“Shifting to Structures in Physics and Biology- A Prophylactic for Promiscuous Realism(2011)”ではOSRを生物学に応用することが試みられている。特に生物学におけるモデルが物理学における物理法則と同じように実在する構造と捉えられる点、また生物学においてSRを取ることで「⑴遺伝子の同一性、⑵遺伝子多元論と階層的アプローチの論争、⑶メタジェノミクスと生物学的個体の一般的問題」に一つの解釈が可能である点がトピックとなっている。
 これらの論点について重要な点は、SRにおいては遺伝子の存在はその機能から考えられるという点である。

機能的な同一性を上記のようにOSRの信奉者の一部が採用する「薄い」または関係性から定義された個別性の一形態に等しいと捉えることができるだろう。そのような説明において、生物学的な物質としての「遺伝子」は(多面的な)生物学的な関係性の結合という言葉において構造として再定義され、その関係性によってか、言い換えるとおそらくそれが持つ役割によって機能的に定義されることを通じて「薄い」やり方で個別化される。(French 2011)

それゆえに遺伝子がメンデルにおいて考えられたのと違う形(DNA)で考えられるようになったとしても理論変化の前後で遺伝子について存在論的な不連続はないことになる。なぜなら機能的に定義されている以上、それがどのような物質によって例化されているかは問題にならないからだ。
 またフレンチが指摘する構造実在論の二つ目の動機、つまり過少決定についても、適応の単位においてそれが起こっていると述べられている。これは自然淘汰の単位が遺伝子なのか、個体なのか、それともより上位のカテゴリーである群なのかという論争である。例えばSterelny & Griffiths(1999)で「粒度問題(grain problem)」として扱われており、生物学の哲学上の問題となっている。それについて彼はSRを採用することで解決の道が開かれるとしている。

もし代替案同士の間の区別を根本的に形而上学的なものと捉えるなら、この論争を選択の単位を構造的に理解する道を開くものと見ることができるかもしれない。この姿勢を取ることによって選択の基礎となる物質についての形而上学的な問題から離れることができるだろう。(French 2011)

3.2 心の哲学

 McCabe “Structural realism and the mind(2006)”では心の哲学においてSRを採用する可能性について論じられている。彼の出す結論は、機能主義的に考えられた心の概念、特に命題的態度の表象内容はSRから捉えることができるというものだ。

心理の表象説の支持者の多くは信念、願望その他の志向的状態の内容を提供する精神の表象は内的な構造を持っていると主張している。彼らは表象の内的システムは集合的に思考の言語と呼ばれる記号、構文、意味論を持っていると考える。(McCabe 2006)

またここでESRはこうした表象の背後に(一階の)無意識的な心理的性質の存在を認めるが、それに対してOSRはこうした構造が実在し、またそれだけが実在物であると考える。

ESRは無意識の精神の二階の構造が私たちに知りうるすべてだと主張し、OSRはその二階の構造が無意識の精神について存在するすべてだと主張する。(McCabe 2006)

 心の哲学におけるSRについてもフレンチのいうSRの二つのモチベーションを見いだすことができるだろう。第一の悲観的帰納法への論駁という点について、私たちの心理の表象という一つの説明のフレームワークの変化に伴って存在論的な不連続が発生することを回避できる。また第二の過少決定について、例えば「逆転クオリア」の思考実験を考えてみたい。この実験からは概ね以下のような帰結が得られるとされている。

私のクオリアは私の性向の全てを逆転させることなしに逆転させることができる。私がいま緑色に対して持っている反応や連想の全てをいま赤色に対して持っているクオリアに伴わせることができるし、逆も可能である。(Dennett 1991a)

この逆転によって生じる問題は経験的に計測可能な振る舞いや反応から主観的なクオリアを特定することができないという点だと言える。ここにある意味で過少決定が生じていると考えられないだろうか。つまり経験的なデータからは感覚内容(クオリア)を一意的に決定することができない。心の哲学にSRを導入することで、この感覚内容を関係的な性質から定義することにすればこの過少決定は回避できる。

4. 日常的イメージにおけるSR

4.1 日常的イメージ

 以上の研究からデネットのいう「実在的パターン(real patterns)」や「日常的イメージ(manifest iamge)」に話を移したい。実在的パターンはDennett(1991b)で導入された概念で「物理的(physical)」「設計的(design)」「志向的(intentional)」の三種類の「姿勢(stance)」に対してそれぞれのレベルのパターンが想定されている。また日常的イメージはデネットの用法ではこの実在的パターンから構成されたイメージを指す。本稿の目的はこの実在的パターンをSRから捉え、日常的イメージという語の意味を詳細に検討することである。前節ではSRの生物学と心の哲学への応用を見た。設計姿勢は「リバースエンジニアリング」としての生物学(Dennett 1995)に、志向姿勢は命題的態度に関わっている。それゆえにこれら二つの応用例は日常的イメージにおけるSRの特殊例として見ることができるだろう。それゆえにSRを日常的イメージに応用することは可能だと思われる。次の問題はこの日常的イメージにおけるSRのフレームワーク全体を定義することができるかどうかという点になる。その定義の一つの例として用いられるのが、次に紹介する「情報理論的構造実在論」である。
 

4.2 情報理論的構造実在論

 デネットの実在的パターンをOSRの観点から捉える試みにLadyman & Ross(2007)の情報理論的構造実在論(Information-Theoretic Structural Realism:ITSR)がある。

存在するとは実在的パターンであることであり、x → yというパターンが実在的であるということの必要十分条件
(1)それは投射可能である。そして
(2)それは少なくとも一つのパターンPについての情報を担ったモデルであり、符号化の際にPのビットマップの符号化よりも低い論理深度を持つ。そしてPはx → yよりも低い他の実在的パターンについての情報を処理する物理的に可能な装置によって投射可能でない。(Ladyman & Ross 2007)

このITSRのOSRとの違いは、構造を投射の際の情報の圧縮可能性から定義している点である。「投射」は同じパターンを別の時空で見つけることを言う。そしてビットマップ(非圧縮の投射)よりも効率的に情報を伝達できることが「論理深度が低い」と表現されている。この定義においては物理学の方程式以外にも上で見た生物学のモデルや志向的なパターンも(それらが最も低い論理深度を持つ限りで)存在すると言える。このような事態を彼らは「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼んでいる。このような相対性を許容できる点は、デネットの思考をサポートする上での大きなメリットだと言える。なぜなら彼は三種類の実在的パターンがそれぞれ実在物だと述べているからだ。 

4.3 ITSR vs Dennett

 しかしながらITSRはデネットの立場と完全に同じものだとは言い難い。デネット(1991b)では抽象化されたものとその抽象化の対象、abstractaとillataが区別されている。abstractaは例えば志向的パターンなどを指し、illataは物理的パターンを指す(Ladyman & Ross 2007)。ただしここでいう物理的パターンが「物理姿勢」によって見出されるものかどうかは一つの問題である。物理姿勢はあくまで「民間物理学」を構成するもので、レディマンたちが想定する現代の物理学には相当しない。それゆえにここでのillataは物理姿勢で見出されるパターンではないと言える。
 ITSRの叩き台であるRoss ”Rainforest Realism”(2000)ではデネットにおけるこのabstracta/illataの区別は廃止されるべきだと述べられている。

私はabstracta-illataの区別を廃止するという小さいコストによって彼[デネット]は自身の特別な種類の反還元主義、自然主義実在論を無矛盾な全体として織り上げる存在論的なテーゼを手に入れることができると論じてきた(Ross 2000)

この区別を廃止することでロスの立場はそれぞれのパターンに関して同程度の実在性を認めている。それゆえにITSRにおける存在論のスケール相対性はそれぞれのスケールに同程度の実在性を認めることになる。
 それに対してデネットは以下のように述べる。

厳密に言って、これらのパターンの理想化された描写はそれらが過度の単純化であるために何ものも記述してはいない。しかしそれらは乱雑な現実に対して便利な抽象化を課す。ノイズの多いデータの非可逆圧縮は抽象物を生み出すのだ。(Dennett 2000)

志向的パターンなどのabstractaはillataからノイズを無視して「非可逆圧縮」(抽象化)することで構成されている。しかしだからと言って志向的パターンが実在しないということにはならない。なぜならそれらのパターンはノイズを除去しているとはいえどもillataの一側面に他ならないからだ。それゆえにabstractaも「実在的」パターンと言えるのだ。また投射可能性についても成り立つことになる。しかしノイズを無視していることから100%の予想の成功は見込めない。その度合いはノイズを無視する閾値の高さに応じて低くなるだろう。 
 デネットはなぜこの二者の区別を必要としているのか。それはおそらく”Darwin’s Dangerous Idea (1995)”などで言われる「漸進主義(gradualism)」という発想を擁護したいためだと思われる。漸進主義では私たちの意識などがアルゴリズムへと還元できると主要されているが、志向的パターンが非可逆圧縮のパターンならそれはより下位のスケールのパターンとトークン対応もしない(弱い還元主義が成り立たない)。それゆえに還元主義が成り立つillataの世界を想定する必要があるのだ。
 日常的イメージの対象である実在的パターンがabstractaであるならば、日常的イメージにおけるSRは厳密にOSRだと言えるものではなくなる。しかしながらillataが完全に不可知であるわけでもないためESRであるわけでもない。ただITSRの語彙は日常的イメージの内実を解き明かすために非常に有用だと言えるため、そのまま採用したい。それゆえにこのSRは情報理論的に定義されながらも存在論的にはOSRとESRを折衷した立場となる。
 

4.4 日常的イメージにおけるSRのメリット

以上から日常的イメージというものを捉えると、それは実在的で情報理論的な構造(abst-racta)からなるイメージということになる。デネットは例えば以下のように日常的イメージの対象が個物であるような言い方をしばしばするが、この観点からはこの言い回しはミスリーディングであると思われる。

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

本当に日常的イメージが実在的「パターン」から構成されていると言いたいなら、デネットはSRにコミットすべきである。
 以下ではフレンチの提示した二つのモチベーションに即して日常的イメージにおいてSRを採用するメリットをより詳しく見たい。これらの点から私は日常的イメージにおいてもSRを採用すべきだと考える。第一に悲観的帰納法への論駁について、日常的イメージにおいても理論変化は起こりうるとデネットは考えている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自信の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

この例で言えば、過去貨幣だと考えられていたニッケルや銀のドルは現在貨幣だとは考えられなくなっている。ここでフレンチが提示した遺伝子の例と同じような悲観的帰納法を考えることもできるだろう。つまり貨幣について存在論的な不連続が発生しているのだ。しかし日常的イメージにおいてSRを採用することでこうした問題は解決できる。なぜなら遺伝子の例と同じようにこの貨幣の存在もまたその機能から定義され、どのような素材によって個別化されているかは存在論的な問題にならないからだ。
 また志向姿勢における理論変化について、デネットが論じるクオリアの「消去」がそれに該当すると私は考えている。私たちの心理的表象における説明から非物理的な感覚質といったものが消去されたとしても、SRを採用する限りで存在論的な不連続は回避される。
 第二に過少決定について、特に該当するのは上で挙げた「逆転クオリア」の場合だろう。また遺伝子が日常的イメージの対象であるかは別として、設計姿勢において見いだされたパターンにも過少決定の問題は生じうる。それゆえに日常的イメージにおいてSRを採用することにはこの問題を回避するというメリットがある。

5. 結論

 本稿では構造実在論の紹介とESR/OSR二つの立場、またSRの特殊科学への応用を見た。その上でデネットがいう日常的イメージにおいて展開すべきSRはITSRをabstracta/illataの区別を保存しながら少し修正した立場であることがわかった。そしてそのようにしてSRを採用することで、日常的イメージにおける⑴理論変化前後での存在論的不連続⑵形而上学的過少決定がそれぞれ回避できるというメリットがあることを見た。

参考文献

  • Boyd, R. (1990). Realism, Anti-Foundationalism and the Enthusiasm for Natural Kinds. Philosophical Studies, Vol. 61 , pp. 127-14. https://philpapers.org/rec/BOYRAA
  • Ross, D. (2000). Rainforest realism: A Dennettian theory of existence. Dennett's Philosophy A Comprehensive Assessment. D. Ross, A. Brook, and D. Thompson (eds.). MIT Press.

『宇宙よりも遠い場所』10話/友情のソリテス・パラドックス

 『宇宙よりも遠い場所』というアニメが現在12話まで放送されている。非常に評判の高い本作だが、「どの話が一番好き?」と訊くと「5話…」「8話が良かった」「11話…」「三宅日向……」「12話がヤバすぎる」など結構まちまちな返答が返ってくる。おそらく、これはそれぞれのストーリーの品質自体で甲乙がつけられているのではなく、各人がどのキャラクターのどの場面に共感したかによって答えが変化しているからではないかと思う。さて、そんな中で私にとっては10話「パーシャル友情」が一番好きな回となった。

第10話「パーシャル友情」あらすじ
見渡す限り延々と続く真っ白な世界。ついに南極へとやってきたキマリたちは、目の前の広がる景色に思わず息を呑む。前回から3年ぶりとなる昭和基地ではやらなければならないことが山積みで、基地へと案内されたキマリたちも次から次へと言い渡される仕事に大忙し。そんな中、結月が意を決したかのような面持ちでキマリたちを見ながら、とある出来事を話し始める。

 とある出来事というのは朝ドラのオーディションに合格したということで、その結果結月は他のメンバーとあまり会えなくなることを心配し始める。そこで「もう親友だから大丈夫」というキマリに対して結月は「いつ親友になったんですか?」と問いかける。この問いこそがこの話の主題をなしている。人はいつ友達になるのか?結月は友達である証明が欲しくて、「友達誓約書」なるものを作ってサインを求める(私がこのアニメで一番好きなシーン)。


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figure 1. 友達誓約書*1


それにサインした時、友達という関係が発生するのだろうか?報瀬はその誓約書を「意味がない」と言って突きかえす。キマリは「わからないんだもんね」と泣きながら結月に抱きつく。そう、「わからない」。今まで友達ができたことのない結月はもちろん、おそらく他のメンバーの誰も、そして私も友情が発生する瞬間を、友情の定義を知らない。なぜならそんなものは存在しないからだ。ただめぐみという親友を持つキマリは、誰かと「友達である」という実感を持っている*2。どの瞬間どのようにそうなったかはわからないが、いつの間にか人と人は友達になっている。その曖昧な感覚だけが友情というものの拠り所なのである*3
 ソリテス・パラドックス、または砂山のパラドックスという哲学上の問題がある。*4例えば砂山から一つずつ砂粒を取り出していって、どの瞬間から砂山は砂山でなくなるのか?という問いに答えられないという問題である。私はこの問題について、「砂山である」と「砂山でない」の二つの状態という言語上の区分を用いて思考していることに原因があると考えている。本来砂山と砂粒という状態同士は連続的(アナログ)な関係にある。つまりそれらの間に明確な境界線はなく、存在するのは砂山と砂粒という両極なのだ。そして個々の状態はその中間にあり、私たちに言えるのはそれがどちらの極に「近い」のかということのみである。しかしながら私たちは言語という1か0か、つまり「砂山」か「砂山でない」かという離散的(デジタル)なものを使って思考している。思考せざるを得ないとさえ言えるかもしれない。それゆえに砂山と砂粒という二項対立を想定して、本来存在しないその境界線という問題に悩むことになる。このようにソリテス・パラドックスはアナログな世界をデジタルな言語によって思考しようとすると不可避的に発生する。つまりこのパラドックスは言語という「知恵の果実」を得た人類に課せられた「原罪」なのだ。
 さて、友情に関しても同様のことが言える。『宇宙よりも遠い場所』では3話で報瀬たちが自分たちを指して「同じところに向かおうとしているだけ」だという。そこで二つの極を「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」と設定してみよう。おそらく3話で4人が出会ってから、この11話で再び友情が話題に上がるまでの間で、彼女たち4人の状態はこの二つの極の間を遷移したはずである。しかし、その二つの状態の間に明確な境界線、つまりここまでは「同じところに向かおうとしている人々」でここからは「親友」だという線は存在しない。結月以外の三人はおそらく自分たちが「親友」であるという実感をいつからともなく持っていた。だが結月にはそれが「わからない」。なぜなら彼女には今まで友達がいなかったために、友達であるとはどういうことかを理解していなかったからだ。実感を持てない彼女が自分たちの関係性を思考した時、感覚的でない以上その思考は言語的なものとなってしまう。そこには「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」という二項しか存在せず、キマリは自分たちが親友だと言うがいつ親友になったのかがわからない。なぜなら明確な境界線は存在せず、他の三人が語るのは曖昧な実感だけだからだ。それゆえの「友達誓約書」であり、このシーンが(私にとって)本当に感動的なのは、友達であることに明確な定義と根拠がないことへの不安に深く共感できるからだろう。それは言語によって人間関係を思考する私のような人間たちにとって、生まれてから今までずっとつきまとってきた不安だ。
 それで、このアニメはいかにしてこの問題に挑むのか、つまり結月は友情の実感をいかにして得るのか、そしてそれをどのように言葉にするのかという点がこの分析の最終段階となる。結論から言うとこの話では結月が祝われなかった誕生日を改めて祝ってもらうことで友情の実感を得る。そしてその実感を伝える言葉は「ね」という一文字なのだ。結月が誕生日ケーキを前にして涙するシーンは、人間が生まれて初めて友情を実感する瞬間というものをこの上なくわかりやすく、美しく描写している。そこにケーキの上のチョコプレートの言葉以外には友情というものを直接表現する言葉はない。しかし手書きであろうその文字の拙さ、手作り感満載のケーキ、南極でケーキを作ってくれたことなど、言葉以外のものが結月に友情の実感を与えてくれる。やはりここでもアナログな関係性を表現するためにデジタルな言語は役に立たない。しかしながら、私たち人間が対話するためにはどうしても言語が必要となる。特にLINEなどのメッセージサービスを使おうと思うとなおさらそうだ。こうしたメッセージサービスにおいてアナログな友情をいかに表現して伝えるのか、その点に対する答えにおいてこのアニメは天才的なものを示していると言えるだろう。それこそが先に述べた「ね」の一文字である。


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figure 2. 「ね」*5


友情というアナログな関係性を表現するためには「ゆうじょう」の五文字ですら長すぎる。なぜなら繰り返すようだが言語はデジタルなもので、それはアナログな世界に絶対にたどり着けないからだ。そして語りえないものを語るために私たちに残された手段は、言語に頼らないこと、つまり0文字の沈黙のみである。この一文字の「ね」はその壁を前にして、言葉をギリギリまで切り詰めることでなんとかアナログな友情を伝えたいという努力の結果生まれたものだと言えるだろう。それによって言語が不可避的に持つパラドックスを解決できたわけではない。しかしそれでも曖昧で掴み所のない友情というものに、極めて真摯に向き合った結果生まれた表現だと思う。言葉では伝わらない、けれど言葉で伝えるしかない、そして伝えたいという気持ちが作るもどかしさが胸を熱くさせる。だからこそこのシーンは感動的で、私はこの『宇宙よりも遠い場所』10話が本当に好きなのだ。

*1:©YORIMOI PARTNERS

*2:ここで結月と向き合う役割をキマリが担うのは、他の2人に関してこの4人の関係以外の友人関係が(この話までに)描写されていないという事情が絡んでいるだろう。こうしたキャラクター同士の組み合わせの巧妙さもこのアニメの特徴の一つである。

*3:作中でも、報瀬「友達って言葉じゃないと思うから」/日向「いやぁだから…気持ち?」などのセリフがある。

*4:砂山のパラドックス - Wikipedia

*5:©YORIMOI PARTNERS

研究発表『二つのイメージにおける対象 - 「日常的イメージ」のデネット的解釈』

www.academia.edu

1. 要旨

 本発表では科学的な世界観と日常的な世界観の関係という問題を論じる。日常的な世界観についてはその対象の実在性を否定したり、その枠組み自体を否定する主張がいくつか見られる。それに対してこの発表ではダニエル・デネットの議論をたどりながら反論を試みる。さらにその上で科学に対応して日常的な世界観を修正することが哲学の課題であることを見る。

2. 日常的イメージと科学的イメージ

 発達し続ける科学の提供する世界観は、私たちが日常的に持っている世界観と乖離していくように思われる。それらはどのように調停できるのだろうか。またはそのどちらかが正しく、もう一方は放棄されてしかるべきなのか。セラーズはこれら二つの世界観を日常的イメージ(manifest image:MI)と科学的イメージ(scientific image:SI)と呼んで別々の世界観として扱っている。

そこで、私たちが対比するのは二つの理想的な構築物、すなわち(a)私が「日常的イメージ」と呼ぶ「原始的イメージ」の相関的、カテゴリー的な洗練物と(b)公理に由来する理論構築物の産物に由来する、私が「科学的イメージ」と呼ぶものである。(Sellars 1963)

その上でこれら二つをどう関係付けるかという問題が、哲学の目的であるとさえ述べる。

私の今の目的は、科学的イメージと呼んだものに対して日常的イメージに対して与えた説明と同等のスケッチを付け加えることであり、また哲学の目的である世界内の人間の統一された視界に対するこれら二つのイメージのそれぞれの貢献についてのいくつかのコメントでこの論文を締めくくることである。(Sellars 1963)

 セラーズがこの問題をアピールする上で出す例えにエディングトンの「二つのテーブル」というものがある。

ここでエディングトンの「二つのテーブル」の問題、私たちの用語法では日常的イメージのテーブルと科学的イメージのテーブルという二つのテーブルの存在という問題の本質的な特徴が再び現れてくる。問題は日常的テーブルと科学的テーブルを「噛み合わせる」ことだ。(Sellars 1963)

二つのテーブルとは、SIで捉えられた観察できない素粒子(理論的に仮定されたもの)の集合としてのテーブルと、MIに存在する目の前にあるこのテーブルである。別々の世界観が二つあるなら、それに対応してテーブルも別々の二つが存在することに ある。そうなると選択肢は①MIの対象(O𝗆)が存在し、SIの対象(O𝗌)は存在しない。②O𝗆は存在せず、O𝗌は存在する、③O𝗆とO𝗌の両者が存在する、④O𝗆とO𝗌の両者が存在しない、の四つがあることにある。おそらく④は検討する必要がないだろう。④が正しいとなると、あらゆる対象が存在しないか、二つのイメージとは異なった新しい世界観を提出しなければならないからである。

3. 消去的唯物論

 「二つのテーブル」問題に対するセラーズの回答は、O𝗆の実在性を認めないというものである。

私が提示している見方によると、対応規則は物質の相においては観察可能なものについての枠組み[MI]の対象は実際に存在するわけではない[~]という意味のものとして現れるだろう。(Sellars 1963)

その理由は以下の二点に集約されるように思われる。⑴MIにおける観察可能な対象が「観察可能であること」は対象の実在性の証明に貢献しない。⑵MIと同等の経験的地位を持つSIの方が説明力が高い。まず⑴から説明する。セラーズは直接経験される対象が、知覚経験のみによって確証されるという考え方を「所与の神話」と呼んで否定する。経験対象はむしろ経験の背景となる知識によって初めてその対象として現れることができる。例えば赤色の経験をするためにはどのような状況でどのような光を知覚すると赤色に見えるのかを知っていなければならない。それゆえO𝗆が観察可能であるという理由によってO𝗌より存在論的に高い地位にあるわけではない。なぜならどちらも背景となる知識や理論によって措定された対象だからだ。次に⑵について、セラーズはMIにおける予測は真理の近似に過ぎないと述べている。

上記の結果を要約すると、微視的理論は観察言語の概念的枠組み[MI]内部の与えられた領域に関する帰納的一般化とあらゆるその洗練物がなぜたかだか真理の近似にすぎないのかを説明する。(Sellars 1963)

なぜならSIはMIよりも詳細な予測を出すからである。ゆえにSIの方が説明力において優れた枠組みなのだ。以上の二点から、セラーズはO𝗆は存在せずO𝗌は存在する(②)と結論する。なぜなら存在論的に同等なO𝗆とO𝗌について、どちらかを選ぶとするなら説明力の高い枠組みの対象であるO𝗌を選ぶのが合理的だからだ。本発表ではセラーズのこの主張に従ってO𝗌には実在性を認めることにする。しかしだからといってO𝗆の実在性を否定はしない。つまり選択肢③に向かうのである。
 さらに進んでMI(の一部)自体を消去してしまおうという試みに、チャーチランド(1981)のいう「消去的唯物論」がある。例えば自然言語によって捉えられる「民間心理学」は端的に誤った理論だとして消去されうるだろうとチャーチランドは主張する。その根拠として民間心理学は科学に比べて予測を誤ることが多く、また停滞した「リサーチ・プログラム」であるということが挙げられている。チャーチランド曰く、民間心理学は「二、三千年の間、[~]その内容と成功のいずれに関しても目立った進展を遂げていない」のである。それゆえに将来神経科学がより成功した理論を提供するなら、民間心理学はその対象を含めて放棄される。このことをさらにMI全体へ広げて考えることもできるだろう。つまり民間心理学だけでなくMIを放棄するタイプの消去的唯物論である。セラーズが言うようにMIの説明力がSIに劣っていて、またMIが停滞した枠組みであるなら、そのことがこのタイプの消去的唯物論の論拠になりうる。選択肢③を取るために、つまりO𝗆の実在性をも主張するためにはこの消去的唯物論にも反論する必要があるだろう。なぜならMIが消去されるべきなら、当然O𝗆が実在物だとみなされることはないだろうからである。

4. 日常的イメージの対象の実在性

 デネットはセラーズの枠組みに従ってO𝗌の実在性を認める。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。(Dennett 1991)

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

 その一方でデネットはO𝗆の実在性を明確に擁護する。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 さて、O𝗆の実在性を擁護するとなると、先にあげたセラーズの議論や消去的唯物論を否定する根拠が必要となる。まずデネットはMIが停滞した枠組みであることを否定する。その点についてデネットはO𝗆に含まれる典型的な存在者である「貨幣」について次のように述べている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自身の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

つまりMIは新しい概念を導入したり、既存の概念の抽象度を上げることで常に刷新され続けている。民間心理学についても、デネットが長年展開しているクオリア論批判や意識現象の様々な(再)解釈はその枠組みの修正として見ることができる。すなわちデネットチャーチランドが民間心理学が停滞していると批判したことに対して、その修正を実践することで反論しているのである。
 MIが停滞していることは否定されたが、それがSIに比べて誤った予測を出すことが多いという問題は残っている。デネットはこうしたノイズの存在を認めた上で、MIは多くのノイズを無視するからこそ有益なパターンを発見できるのだと主張する。

どこにおいても見られる理想化されたモデルの使用の実践は、予測の信頼性、正確さと計算的な追跡可能性の間のトレードオフの問題なのである。(Dennett 1991)

 具体的にはスケールに対応した三つのレベルのパターンの存在を認めている。それは「物理的」「デザイン的」「志向的」なパターンでありそれぞれが対応した「姿勢」によって見出される。Dennett(1991)ではコンウェイの「ライフゲーム」を用いてこの三つの「姿勢」が説明されている。ライフゲームを支配する法則、つまり隣接するマスのうち三つが「黒」ならそのマスは「黒」になる、などを見る視点は「物理姿勢」である。その法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダーガン」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 これら3種類の姿勢は高次のものになるにつれてより多くのノイズを無視しているが、そのことによって大局的なパターンを発見できると言える。そのような大きなパターンはSIにおいて細部に注目していては不可能な予測を出すことができる。そしてこれらのパターンを見出す姿勢がMIを構成している。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものであり、それは民間物理学、民間心理学、そしてそのほかの、データによって爆撃する五月蝿くまた魅力的な混乱に対して私たちが持っているパターン検知の視座によって構成されている。したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 それゆえにMIがそれが含むノイズによって単に誤った理論だとして退けられることはないだろう。なぜならデネットが述べるようにMIにはプラグマティックな利点があるからである。
 このようにしてチャーチランドの消去的唯物論(とさらにそれを過激化したもの)には反論できる。しかしMIの枠組み自体を捨てる必要がないからといって、O𝗆の実在性まで主張できるのだろうか。デネットが認めるように、O𝗆が実在しない「ユーザーインターフェース」でも問題はないのではないだろうか。デネットは以下のように述べる。

クワインが私たちに思い出させようとしなかった科学的な有益性が実在の何らかの基準であるのにもかかわらず、なぜ日常的イメージの有益性がそれと同様のものと数えられるべきではないのだろうか?(Dennett 2013)

O𝗌に対して実在性を認めることの根拠は、それが有用性を持っているからであった。しかしデネットによると(セラーズも同意するかもしれないが)、MIにもSIとは別レベルでの有用性がある。またO𝗌もO𝗆も同じように理論的枠組みにおいて想定される存在者だから、あえてO𝗌だけが存在してO𝗆が存在しないと主張する根拠はない。それゆえにO𝗆が存在すると考えることに不合理はない。さらにデネットはO𝗆としてしか存在しないものをいくつか挙げている。仮にO𝗆の実在性が全面的に否定されてしまうと、例えば先ほど挙げた「貨幣」や「声」「髪型」などが存在しないことになる。

5. 多重の実在

 本発表ではデネットの見方、つまりO𝗆とO𝗌のどちらにも実在性を認める立場(③)を是認する。この立場は例えばLadyman et al.(2007)では「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼ばれている。

問題となっている事実は(デネットではなく)私たちが存在論のスケール相対性と呼ぶものだ。(Ladyman et al. 2007)

デネットなどの議論ではO𝗆/O𝗌内部でも様々なスケールにおいてそれぞれ存在者が考えられるが、本発表では簡単のためO𝗆/O𝗌を一つの存在者のスケールのクラスとする。
 さて、O𝗆とO𝗌の両方に実在性を認めるとなると、また冒頭の「二つのテーブル」の問題に戻ってきてしまうのではないだろうか。つまり結局は目の前にあるテーブルが二重に存在しているという事態が発生しているのではないか。しかし私はO𝗆とO𝗌がどいらも実在していることはそのような二重性の問題を生じさせないと考える。なぜならO𝗆とO𝗌は時空に関しても全く別の存在者である、つまりそれぞれは別々の座標系に属しているからだ。
 それならばなぜ二つのテーブルが重複しているように感じられるのだろうか。それはセラーズの言葉を借りて言えばそれはMIとSIの間でアナロジーの関係が成立しているからだ。アナロジーの関係にあるMIとSIにおいて、あるO𝗆とO𝗌がそれが理論の枠組みの中で果たす役割が相似している。テーブルの場合、MIのテーブルは目で見える、手で触れられる、上に物を置くことができるといった役割を持つ。他方SIのテーブルは特定の波長の光を吸収したり反射する、分子の結合が比較的強固な固体である、時空間においてある座標を占めているといった役割を持つ対象として考えられる。この相似性のために私たちはテーブルが二重に存在しているように感じる。なぜならこれらの対象は時空という性質においても相似しているからだ。しかし実際にはO𝗆とO𝗌は相似しているだけの別の存在者であり、存在論的なコンフリクトを引き起こしているわけではない。

6. 日常的イメージの修正

 以上の議論からMIは放棄されるべきものではなく、またO𝗆に対しても実在性を認めてよいと結論する。しかしながらMIが停滞したリサーチ・プログラムとならないように、MIを所与の枠組みとするのではなくそれを不断に更新、修正していくことが必要となる。さらにその修正の結果として実在するO𝗆の外延もまた変化するだろう。これはセラーズの⑴の論点の帰結である。直接観察されるとはいえ、O𝗆もまた理論によって措定された対象であり、MIが修正されると私たちの経験の仕方が変わり、それによって存在するものも増えたり減ったりしうる。
 次なる問題はその修正をどのように行っていくのかという点だ。まず考えられるのが日々変化するSIとの整合性を保つという方向での修正だろう。ただしMIをSIと完全に一致させる形にすることはおそらくできない。なぜなら志向的パターンなどのMI上の高次の対象に対応するような物理的な対象は数多く存在しうるからだ。例えば貨幣について、10,000円という金額に対応する物理的対象は紙でできた一万円札や金属である百円玉100枚(を構成する素粒子)、もしくは1/200ビットコイン(バイナリデータ)かもしれない。要するにO𝗆/O𝗌の間で多重実現の関係が成り立つのである。ただしこうした多重実現可能性によってタイプの間の対応関係は成り立たないにしても、トークン同士の対応関係は成り立つ。それゆえにO𝗆/O𝗌の間でトークン対応が成り立つということがMIの修正の指針となりうるだろう。この観点からは例えば非物理的な魂といった物理的な対象とトークンとしても対応しない対象はMIから排除できる。
 この方針に付随した制約として、SIの修正に対応してMIは修正されるが、逆はありえないというものがある。例えばこのような非対称性の一種とみられるものがLadyman et al.(2007)において「物理学優先の制約(Primacy of Physics Constraint (PPC))として展開されている。

基礎物理学やそこにおける何らかの合意に矛盾する特殊科学の仮説は、ただそれだけの理由から拒絶されるべきである。基礎物理学の仮説は特殊科学の帰結に対して対称的に抵当に入れられるわけではない。(Ladyman et al.(2007))

この場合は物理学とその他の特殊科学との間の関係だが、これをより広く経験可能なものについての理論とそうでないもの、つまりMIとSIの関係に敷衍することも可能だろう。
 このような形でのMIの修正はセラーズが言うように二つのイメージを用いて「立体視的に見ること」を目指す試みだと言える。そして彼曰くこのことを通じて世界の見方を確立することが哲学の目的なのだ。しかしO𝗆/O𝗌がともに実在物である以上どちらかを消去することはできないし、また多重実現可能性によってどちらかを他方に還元することもできない。このような制約のもとで私たちはMIを修正してSIとともに世界を「立体視的に見る」ことができるのである。
 次に考えられるのがMIの内部で理論の有用性という基準において修正していく方針だ。時代それぞれにおいて環境は変化するから、有用な理論の基準もまた変化していく。それに対応してMIを修正していく必要があるだろう。ただし「何にとって有用なのか」という観点を特定することは難しい。例えばダーウィニズムに従って私たち人間の(または遺伝子の)生存のために有用な理論を採用し、そうでないものを放棄するという方針があり得る。他にもデネットの考え方に従えばMI自体がミームの集合体だから、MIにおける個々の理論はそれぞれの生存のために理論間で競争をしているとも言える。それならばMIは単に生き残った理論の集合体と捉えられるかもしれない。問題は、そのようなミームの生存競争に対して私たちの意志がどれだけ淘汰圧として関わっているのかという点になるだろう。

7. 結論

 結局、私たちはMIとSIを統一することができるのだろうか。またMIかSIのどちらかを捨てるべきなのだろうか。本発表での答えはどちらも否である。その上で本発表における私の主張は以下のように集約される。⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。
 三つめの主張におけるいくつかの方針については「科学主義」「プラグマティズム」などが挙げられるが、それらがMIの修正のために必要なすべてであるとは言えないかもしれない。それゆえにそれらの十分の吟味が今後の課題として残ることとなる。

参考文献

  • Churchland P.

Eliminative Materialism and the Propositional Attitudes (The Journal of Philosophy, Vol. 78, No. 2. (Feb., 1981), pp. 67-90.) 1981
http://stevewatson.info/courses/Mind/resources/readings/Churchland_ElimMater&PropAtts.pdf

  • Dennett D.

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
https://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/realpatt.htm

Kinds of Things—Towards a Bestiary of the Manifest Image (from “Scientific Metaphysics” (Ross D., Ladyman J.,Kincaid H.(Ed)) ) 2013
https://pdfs.semanticscholar.org/2245/ee8ee41880b17d5c56a8bb92beb4523a1c78.pdf

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (English Edition)

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (English Edition)

  • Ladyman J., Ross D., Spurrett D. & Collier J.

Every Thing Must Go : Metaphysics Naturalized(Clarendon Press) 2007

Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized (English Edition)

Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized (English Edition)

  • Sellars W.

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963

Science, Perception, and Reality (English Edition)

Science, Perception, and Reality (English Edition)

  • 太田紘史

経験科学における多重実現と多様性探求 (哲学論叢 (2006), 33: 79-90)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48854/1/TRonso33_Ota.pdf


頂いたコメントの検討

  • 物理学の話と生物学の話を分ける必要がある。

セラーズやエディングトンは明らかに物理学を対象として「科学的イメージ」を考えているのに対して、デネットが主に扱いたいのはやはり生物学である。それゆえにこの両者を同時に扱おうとするとそれらの齟齬が問題となってくる。私が研究したいのはやはりデネットの思想であり、生物学に話を絞ったほうがいいかもしれない。この点に関しては「科学的イメージ」という一つの単語に包摂されて隠れていたそれぞれの立場の違いが見えていなかったということになるだろう。

  • 物と構造どちらの実在論が取りたいのか。

セラーズの話はやはり物を対象にしているが、デネットはパターンつまり構造を問題としている。このデネットの立場はレディマン他の本では構造実在論として定式化されることになる。確かにこの発表ではその辺りの混同があった。私としてはデネットの立場から構造実在論に行きたいと考えているので、セラーズの話を使うことに対してもう少し慎重になったほうがいいかもしれない。

  • 結論における推論ステップの明確化

「⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。」という結論に関して、それぞれのステップの間の移行における論理的な関係を明確にした方が良いというコメントをいただいた。この発表では問題を大きく扱い過ぎたと思うので、次からはもう少し細かいところの議論をやったほうがいいかもしれない。特に1から2についてはデネットのオリジナルというよりパトナムが既にやっているらしいのでそちらを見る必要がある。

5章と6章の間でデネットの主張から私自身の主張に切り替わっているが、そこを明確にアピールしたほうが良いというコメントをいただいた。5章におけるデネットの立場の何が問題で、私がそこに何を付け加えたいのか。おそらくはデネットが言及しない日常的イメージにおけるダイナミズムや科学との対応がそれにあたるのだろう。私としてはデネットが割と簡単に日常的イメージの対象は実在すると言ってしまうのが不満で、そこに何らかの制約を課してその存在論が妥当なものになるようにしたいのである。

  • 「日常的イメージ」の多義性

セラーズとデネットの間でおそらく「日常的イメージ」という語が指す意味が変わっている。セラーズにとっては観察可能な対象を見る枠組みだが、デネットにとってのそれは様々な機能などを含んだ枠組みとなっている。その違いを明確にする必要があるだろう。その点にはおそらくセラーズとデネットの間で物理学から生物学へと関心が変わっている点、物の実在論から構造の実在論へとシフトしている点も関わっている。

  • 有用性を実在の起源とすることについて

この発表で言われている実在の起源は有用性である。そしてセラーズとデネットの間の最大の違いは認める有用性の種類で、それが実在物の種類の差につながっている。もし仮に有用性が複数あるなら、この発表で見た有用性(2種類)以外にも種類が考えられるのではないか。そうするとその有用性についてそれぞれに実在が考えられる事態に陥るのではないか。そうしてみると、極論すると個人個人で有用性の基準は違うので個人それぞれにおいて実在が異なっているという事態が発生する。この点についてはまだ手に負えていない感じがするのでさらに検討したい。

2017年に出た本の感想

2017年に読んだ本の感想をまとめておこうと思ったが、多いので2017年に出た本だけに絞って感想を書いておく。大体読んだ順に並べているつもりである。

宮澤伊織『裏世界ピクニック』

ネットロアを題材に女子大学生二人が異世界(裏世界)を探訪する短編連作。一年に2冊出たので2冊読んだ。ユーモラスでテンポよく話が進んでいくのだが、要所要所でネットロアの奥底から異質なものが顔を覗かせてきてぞっとさせられる。個人的に高校生の頃ネットロアをひたすら読み漁っていたので知っている話が多くて楽しい。しかしながらそれでも知らない話(例えば「須磨海岸にて」など)が登場することもあり、勉強になる(?)。

Daniel C. Dennett『From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds』

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (English Edition)

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (English Edition)

哲学者ダニエル・デネット最新の著作にして彼の思考の2017年バージョンアップデート。内容というか問題設定は例えば『解明される意識』『ダーウィンの危険な思想』と共通の部分が多いが、ギブソンの「アフォーダンス」やチューリングに着想を得たのだろう「デジタル化」、他にも「ポスト・インテリジェント・デザイン」など新しい思考ツールが展開されている。特に最後の章では機械学習というものを題材にダーウィニズムという「危険な思想」を工学的に用いている最近の情勢を分析していて、常に現代の先端を追い続ける姿勢に感嘆する。おそらくデネットの思想の入門書としても役立つだろうと思う。

ケンリュウ『母の記憶に』

同じくケンリュウの『紙の動物園』が大変に良かったので短編集和訳第二作のこちらも読んだ。正直『紙の動物園』の方が良かったが、こちらにも良い短編はいくつかあった。例えば「訴訟師と猿の王」は(全然SFではないが)物語の展開に求心力があり、また見たこともない中国の情景が描かれるのにリアリティを感じさせる。他にも表題作「母の記憶に」はウラシマ効果を用いたSF短編だがとにかく短いのがすごい。

今井哲也アリスと蔵六 8』

今年アニメ化したこのシリーズは漫画も読んでいて、今年出たこの8巻は非常に良かった。色々あって主人公の紗名が一度死んで全く同じ身体を持った新しい紗名が作られる。思考実験の「スワンプマン」を想起してもらえばこの状況がわかりやすいだろう。その自分が偽物だという紗名に対して蔵六はそれでも同じように家族として受け入れてくれる。ここまではありがちといってしまってもいいような展開だが、この作品はそこで終わらない。一度死んでも同じ身体が再生されるなら同一人物だと認めてもらった紗名は蔵六の死んだ妻、クロエを生き返らせようと提案するのである。純粋に論理的に考えればこれは蔵六を喜ばせる行為であるように見える(おそらく紗名はそう思っている)。しかしそれに対する蔵六の反応は怒りであった。ここに物理主義に対する論理で割り切れない人間の感情的反応が端的に描かれているように思う。私は物理主義者であるため全く同じ身体を再現できるならそれは同一人物だと論理的には信じるが、感覚としてはまだその理論に追いついていない。実在する不滅の魂が死後天国へ行くとは信じないが、葬式を済ませて火葬した人間が同じ体でもう一度現れることは許せないというのが私たちの現実感覚なのだ。

乙野四方字『正解するマド』

野崎まどがシリーズ構成・脚本を務めるアニメ『正解するカド』のスピンオフ。なぜ野崎まどが書かないのか、

野崎まどが脚本を手がけたTVアニメ『正解するカド』のノベライズを依頼された作家は、何を書けばいいのか悩むあまり精神を病みつつあった。次第にアニメに登場するキャラクター・ヤハクィザシュニナの幻覚まで見え始め……

というあらすじからどうやったらスピンオフになりうるのか、様々な疑問はさておきアニメを見た人はとりあえず読んでほしい。内容に触れずに書くと非常によく練られたメタフィクション/言語SFで、1アニメのスピンオフとして埋もれてしまうに惜しい傑作である。メタフィクションとして明確に「読んでいる私」というところまで視点を引き戻される体験は何度しても楽しい。

九岡望,小川一水,野崎まど,酉島伝法,飛浩隆,弐瓶勉BLAME! THE ANTHOLOGY』

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

実は『BLAME!』は読んだことがないが、映画は見たのでいいだろうと思って購入した。実際のところこの作家陣が並んだアンソロジーを買わないわけにはいかないだろう。九岡望という人だけは知らなかったが、それを含めて全編素晴らしい出来だったと思う。まあ例によって酉島伝法の文章はよくわからないのだが(それでも今回はわかる方だったと思う)、他に例えば飛浩隆の「射線」という短編は『象られた力』や『グラン・ヴァカンス』に類する圧倒的なスケール感を『BLAME!』の枠組みで展開しており素晴らしい。九岡望「はぐれ者のブルー」の最後の一文には高速バスの中でため息をつかされた。小川一水のはなんかすごい性癖が出ている。そういえば来年は『天冥の標』の最終巻が出るらしいので楽しみだ。

オキシタケヒコ筺底のエルピス 5 -迷い子たちの一歩-』

友人に勧められたライトノベルシリーズの最新刊。なんと円城塔が帯に推薦文を書いている。なぜだろう。このシリーズはギリギリSFと言えなくもない異能力バトルものだが、主人公たちと敵対者が使う能力に厳格な法則が存在している。そのルールを遵守しながら完全に予想外の方向へと能力や話が展開していくところに作者の技量を感じる。と前半はそんな風にで感心しながら読んでいたのだが、4巻から時間遡行や並行世界を踏まえた上でキャラクターの心理が深く描かれるようになる。それが最高潮に達するのがこの5巻で、特にヒロインの生い立ちに関わる「空手」と物語の状況を綺麗にリンクさせた最後の一文には感嘆した。単なるライトノベルと思わず(そもそも円城塔が推薦している時点でそんなことを思わなかったが)読んでみてよかった。

大今良時不滅のあなたへ

マルドゥック・スクランブル(コミカライズ)』、『聲の形』の大今良時の最新作が2017年に5巻まで出た。主人公「フシ」(不死なので)が道中で出会った様々な物や動物、人をコピーしながら旅を続けていく、というのがストーリーの中核をなしている。コピーするといえば自己複製子、と考えてしまう癖があるが、思いの外そういう方向に話が進んでいる気がする。フシがコピーすることができるのは死者のみである。死者がコピーされるという形でなんらかの情報を残すということは、そのものずばり自己複製子の複製プロセスだと言える。この物語は(あくまで予想だが)自己複製子の複製という現代的な観点から『火の鳥』を再解釈する試みになるのではないかと思う。『火の鳥』は永遠の命に憧れる人間の愚かさを描くが、こちらは永遠なるものの側から有限の世界をどう記憶していくかという視点の対称性がある。複製される限りにおいて情報は不死であり、不滅の魂という信仰を持てない現代における一つの救済の形の提示とも読めると思っている。個人として永遠に生き続けることではなく、「私」という情報が複製されていくことによって永遠の魂は達成されるのである。

信原幸弘(編)『心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い (ワードマップ)』

心の哲学の入門書はないだろうかと聞かれてこれを読んで見たが特に入門書という感じではなかった。哲学をある程度やっている人間が心の哲学の基本的な論争を追うために読むなら良いと思う。個人的に良かったのはデネットの「志向姿勢」とデイヴィッドソンの「解釈主義」のつながりが見えたところで、デイヴィッドソンの論文を読んで見たくなった。あとは「予測誤差最小化理論」の項などはベイズ推定を用いたりした感覚予測の理論を紹介していて面白い。デネットが『解明される意識』の冒頭あたりで幻覚や夢の構造としてこの理論を紹介していたのも思い出す。

野崎まど『バビロン3 ―終―』

バビロン3 ―終― (講談社タイガ)

バビロン3 ―終― (講談社タイガ)

野崎まどの『バビロン』シリーズ三作目。善と悪という哲学史の古くから問われてきたテーマを文庫本一冊である程度突き詰め、その上でエンターテイメントとして成立させる手法は鮮やかの一言だった。そして最後には最悪の女「曲世愛」がまたやってくる。多くの人間が人生をかけて出した答え、「善=続くこと」を一瞬で反転させる構成のカタルシスが素晴らしい。ちなみに倫理学的には「善」という規範(〜すべき)に関する概念を事実(この場合は続くこと)の概念に還元することはできないとされている。*1ある程度もっともらしいので物語としては問題ないだろうが、反例を出すこともできる。例えば食人という習慣はおそらく明確に悪だが「善=続くこと」と定義してしまうとその習慣が続くことも善だと言えてしまう。他にも理論的な問題として何かを続けるためには他の何かを止めなければならない状況は多くあり、その上でどれを続けるのが善いことなのかという比較判断の基準がさらに必要となってしまうという点が考えられる。こうしたことは物語としての良さとは全く無関係な妄言であり、特に作品を批判する意図はないことを付記しておく。

樋口恭介『構造素子』

構造素子 (早川書房)

構造素子 (早川書房)

今年のハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。作中作の階層構造を「L-P/V基本参照モデル」として形式化してみたり、後半やたらデリダの引用があったりと難解な印象だが、円城塔『エピローグ』よりわかりやすいと思う。むしろそうしたSF的な部分よりも心に残ったのは死んだ父と主人公の間で「物語を書くこと」によって交わされる対話だった。それは子に対する愛情表現と父に対する追悼であり、作者はおそらく小説はそのようなものを物語でしか表現できないということを意識しながら書いている。そのことが言葉で何かを語ることの限界を常に念頭に置きながら書くという作者本人としては面倒な、しかしそれゆえに真摯な態度を感じさせる。

言葉は愛を定義することができない。
しかし、物語は愛を喚起することができる。(p349)

という短いパラグラフが非常によくその点を表しているだろう。さらに作者(そして登場人物)は言葉そのものの自律性にも自覚的である。

言葉は言葉を描き出そうとする意識や意思とは無関係に分岐していきます。この世界が終わり、わたしたちがいなくなったとしても、それは、言葉という生命体にとっては仮初の乗り物が一時的になくなることしか意味しません。(p318)

この辺りは大雑把にミーム論と言っていいようなものだが、参考文献表にそれらしい本は挙がっていない。おそらくデリダなどが同様のことを言っているのだと思う。その辺りを比較研究してみても面白いかもしれない。

平鳥コウ『JKハルは異世界で娼婦になった』

JKハルは異世界で娼婦になった (早川書房)

JKハルは異世界で娼婦になった (早川書房)

読んだのは「小説家になろう」のバージョンだが、書籍版が出版されたので一応書いておく。話題になっていたようにジェンダー論の文脈で読むことも可能かもしれないが、個人的には(そうした話題に関心がないのもあって)そういう風には読まなかった。キャラクターの造形や性行為の取り扱いについても、ライトノベルとしてみれば特異かもしれないがそのほかの文芸ジャンルではそこまで変わったものとはみなされないだろう。ただし「異世界転生」という枠組みにこうした手触りの物語を落とし込んで来た点は評価できると思う。また主人公が所謂オタク的でない人物として描かれていて、その視点からライトノベル的な文脈に対してシニカルな視点が投げかけられるのも面白い。そうした話の導入から最終局面では一転してその文脈が畳み掛けるように展開するのもなかなかよくできていると思った。

舞城王太郎, 大暮維人バイオーグ・トリニティ

今年は舞城王太郎原作のバイオーグ・トリニティの11,12,13巻が出た。前半、というか10巻くらいまでは世界観と絵のかっこよさで読んでいた感じだったが、11巻あたりから伏線の回収と謎の解明が一気に始まって非常に面白い。特に11巻の後半で謎解きが始まるまさにそのシーンで、

この世界は密室でできてる。

というセリフが出てくるのには感動する。これは舞城王太郎の2002年(!)の本『世界は密室でできている。』のタイトルをセルフオマージュしているのだろう。そういえば今年は舞城王太郎原作で『龍の歯医者』というアニメが放送され、そちらも大変良かったがそれについては項を分けた方が良いだろう。2017年には舞城王太郎自身の著作は出なかったので来年に期待したい。

小川一水『アリスマ王の愛した魔物』

年末ギリギリに出た小川一水の短編集。収録作のうち「ゴールデンブレッド」は読んだことがあったがそれ以外は初めて読んだ。「ろーどそうるず」はバイクに搭載されたAIの限られた視点(視覚などがない)から人間関係を描く手法が鮮やか。自分は小説を書くのが上手いという自信がないとこういった短編は書けなさそうだが実際上手いので文句のつけようがない。「アリスマ王の愛した魔物」はファンタジー調の世界観だが計算機と計算そのものの話である。チューリングマシン(というかアルゴリズム全般)は基盤中立性を持っているから当然手動でも計算機を実装できる。そうしたSF的な面白さの上に計算されたもの(AI)の自我の創発というさらなるテーマが潜んでいるのが良い。そう考えると書き下ろしの「リグ・ライト」はこの二つの短編からのテーマの連続を感じさせなくもない。自我の芽生えたAIの「人権」というテーマが取り扱われるのは、「機械は自我を持つか?」という問いがもう古いということを示してはいないだろうか?機械はもちろん自我を持つし、それはなぜかというとタンパク質でできた機械である私たちが自我を持ち得たからである。その上で、AIの人権を人間社会においてどう位置付けるかというのが現代的な問いなのだ。この短編では人間は人間として生まれたから人権を持っているという自然権思想が社会通念として描かれているが、ダーウィニズムの登場以降「人間」の定義を厳密に線引きすることは不可能である。思想上の変化だけでなくこうしてAIの発展という実際上の変化を経験する社会において、こうした人権の概念を問い直す必要が迫っているのだ。

割内@タリサ『異世界迷宮の最深部を目指そう 7-3章.愛よりも命よりも』

https://ncode.syosetu.com/n0089bk/ncode.syosetu.com
最後に刊行されているわけではないネット小説だが、この作品の感想を書いておきたい。一応は順次書籍化している途中なのでこの章もいつか本となって世にでるだろう。この章で最も素晴らしいのが『342.いま六十層が産声で満たされる。貴方と二人、同じ日に生まれる為に。』(https://ncode.syosetu.com/n0089bk/362/)である。この作品は感情が最高潮に達したことを詩的な詠唱や階層名の宣言で表現するのだが、この節はまさにそれが冴え渡っている。ところでこの節から話はそれるが、この作品における魔法の「詠唱」が登場人物の人生そのものを読み込むことだと提示されたことで、メタフィクショナルな読み筋もあり得るように思えてきている。すなわち「このような人生(=文脈)があった」ということの提示がその魔法の使用者の来歴を「承認」させ、それによって強力な魔法であるを納得させることがその強さの本質なのである。こうしたことは『幻想再帰のアリュージョニスト』などの物語装置を読み込み過ぎだとも言えるだろうが、そういうのが好きなのだから仕方ない。

*1:例えば「is/ought gap」とか「ヒュームの法則」と呼んだりする。ヒュームの法則 - Wikipedia