『宇宙よりも遠い場所』10話/友情のソリテス・パラドックス

 『宇宙よりも遠い場所』というアニメが現在12話まで放送されている。非常に評判の高い本作だが、「どの話が一番好き?」と訊くと「5話…」「8話が良かった」「11話…」「三宅日向……」「12話がヤバすぎる」など結構まちまちな返答が返ってくる。おそらく、これはそれぞれのストーリーの品質自体で甲乙がつけられているのではなく、各人がどのキャラクターのどの場面に共感したかによって答えが変化しているからではないかと思う。さて、そんな中で私にとっては10話「パーシャル友情」が一番好きな回となった。

第10話「パーシャル友情」あらすじ
見渡す限り延々と続く真っ白な世界。ついに南極へとやってきたキマリたちは、目の前の広がる景色に思わず息を呑む。前回から3年ぶりとなる昭和基地ではやらなければならないことが山積みで、基地へと案内されたキマリたちも次から次へと言い渡される仕事に大忙し。そんな中、結月が意を決したかのような面持ちでキマリたちを見ながら、とある出来事を話し始める。

 とある出来事というのは朝ドラのオーディションに合格したということで、その結果結月は他のメンバーとあまり会えなくなることを心配し始める。そこで「もう親友だから大丈夫」というキマリに対して結月は「いつ親友になったんですか?」と問いかける。この問いこそがこの話の主題をなしている。人はいつ友達になるのか?結月は友達である証明が欲しくて、「友達誓約書」なるものを作ってサインを求める(私がこのアニメで一番好きなシーン)。


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figure 1. 友達誓約書*1


それにサインした時、友達という関係が発生するのだろうか?報瀬はその誓約書を「意味がない」と言って突きかえす。キマリは「わからないんだもんね」と泣きながら結月に抱きつく。そう、「わからない」。今まで友達ができたことのない結月はもちろん、おそらく他のメンバーの誰も、そして私も友情が発生する瞬間を、友情の定義を知らない。なぜならそんなものは存在しないからだ。ただめぐみという親友を持つキマリは、誰かと「友達である」という実感を持っている*2。どの瞬間どのようにそうなったかはわからないが、いつの間にか人と人は友達になっている。その曖昧な感覚だけが友情というものの拠り所なのである*3
 ソリテス・パラドックス、または砂山のパラドックスという哲学上の問題がある。*4例えば砂山から一つずつ砂粒を取り出していって、どの瞬間から砂山は砂山でなくなるのか?という問いに答えられないという問題である。私はこの問題について、「砂山である」と「砂山でない」の二つの状態という言語上の区分を用いて思考していることに原因があると考えている。本来砂山と砂粒という状態同士は連続的(アナログ)な関係にある。つまりそれらの間に明確な境界線はなく、存在するのは砂山と砂粒という両極なのだ。そして個々の状態はその中間にあり、私たちに言えるのはそれがどちらの極に「近い」のかということのみである。しかしながら私たちは言語という1か0か、つまり「砂山」か「砂山でない」かという離散的(デジタル)なものを使って思考している。思考せざるを得ないとさえ言えるかもしれない。それゆえに砂山と砂粒という二項対立を想定して、本来存在しないその境界線という問題に悩むことになる。このようにソリテス・パラドックスはアナログな世界をデジタルな言語によって思考しようとすると不可避的に発生する。つまりこのパラドックスは言語という「知恵の果実」を得た人類に課せられた「原罪」なのだ。
 さて、友情に関しても同様のことが言える。『宇宙よりも遠い場所』では3話で報瀬たちが自分たちを指して「同じところに向かおうとしているだけ」だという。そこで二つの極を「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」と設定してみよう。おそらく3話で4人が出会ってから、この11話で再び友情が話題に上がるまでの間で、彼女たち4人の状態はこの二つの極の間を遷移したはずである。しかし、その二つの状態の間に明確な境界線、つまりここまでは「同じところに向かおうとしている人々」でここからは「親友」だという線は存在しない。結月以外の三人はおそらく自分たちが「親友」であるという実感をいつからともなく持っていた。だが結月にはそれが「わからない」。なぜなら彼女には今まで友達がいなかったために、友達であるとはどういうことかを理解していなかったからだ。実感を持てない彼女が自分たちの関係性を思考した時、感覚的でない以上その思考は言語的なものとなってしまう。そこには「同じところに向かおうとしている人々」と「親友」という二項しか存在せず、キマリは自分たちが親友だと言うがいつ親友になったのかがわからない。なぜなら明確な境界線は存在せず、他の三人が語るのは曖昧な実感だけだからだ。それゆえの「友達誓約書」であり、このシーンが(私にとって)本当に感動的なのは、友達であることに明確な定義と根拠がないことへの不安に深く共感できるからだろう。それは言語によって人間関係を思考する私のような人間たちにとって、生まれてから今までずっとつきまとってきた不安だ。
 それで、このアニメはいかにしてこの問題に挑むのか、つまり結月は友情の実感をいかにして得るのか、そしてそれをどのように言葉にするのかという点がこの分析の最終段階となる。結論から言うとこの話では結月が祝われなかった誕生日を改めて祝ってもらうことで友情の実感を得る。そしてその実感を伝える言葉は「ね」という一文字なのだ。結月が誕生日ケーキを前にして涙するシーンは、人間が生まれて初めて友情を実感する瞬間というものをこの上なくわかりやすく、美しく描写している。そこにケーキの上のチョコプレートの言葉以外には友情というものを直接表現する言葉はない。しかし手書きであろうその文字の拙さ、手作り感満載のケーキ、南極でケーキを作ってくれたことなど、言葉以外のものが結月に友情の実感を与えてくれる。やはりここでもアナログな関係性を表現するためにデジタルな言語は役に立たない。しかしながら、私たち人間が対話するためにはどうしても言語が必要となる。特にLINEなどのメッセージサービスを使おうと思うとなおさらそうだ。こうしたメッセージサービスにおいてアナログな友情をいかに表現して伝えるのか、その点に対する答えにおいてこのアニメは天才的なものを示していると言えるだろう。それこそが先に述べた「ね」の一文字である。


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figure 2. 「ね」*5


友情というアナログな関係性を表現するためには「ゆうじょう」の五文字ですら長すぎる。なぜなら繰り返すようだが言語はデジタルなもので、それはアナログな世界に絶対にたどり着けないからだ。そして語りえないものを語るために私たちに残された手段は、言語に頼らないこと、つまり0文字の沈黙のみである。この一文字の「ね」はその壁を前にして、言葉をギリギリまで切り詰めることでなんとかアナログな友情を伝えたいという努力の結果生まれたものだと言えるだろう。それによって言語が不可避的に持つパラドックスを解決できたわけではない。しかしそれでも曖昧で掴み所のない友情というものに、極めて真摯に向き合った結果生まれた表現だと思う。言葉では伝わらない、けれど言葉で伝えるしかない、そして伝えたいという気持ちが作るもどかしさが胸を熱くさせる。だからこそこのシーンは感動的で、私はこの『宇宙よりも遠い場所』10話が本当に好きなのだ。

*1:©YORIMOI PARTNERS

*2:ここで結月と向き合う役割をキマリが担うのは、他の2人に関してこの4人の関係以外の友人関係が(この話までに)描写されていないという事情が絡んでいるだろう。こうしたキャラクター同士の組み合わせの巧妙さもこのアニメの特徴の一つである。

*3:作中でも、報瀬「友達って言葉じゃないと思うから」/日向「いやぁだから…気持ち?」などのセリフがある。

*4:砂山のパラドックス - Wikipedia

*5:©YORIMOI PARTNERS

研究発表『二つのイメージにおける対象 - 「日常的イメージ」のデネット的解釈』

www.academia.edu

1. 要旨

 本発表では科学的な世界観と日常的な世界観の関係という問題を論じる。日常的な世界観についてはその対象の実在性を否定したり、その枠組み自体を否定する主張がいくつか見られる。それに対してこの発表ではダニエル・デネットの議論をたどりながら反論を試みる。さらにその上で科学に対応して日常的な世界観を修正することが哲学の課題であることを見る。

2. 日常的イメージと科学的イメージ

 発達し続ける科学の提供する世界観は、私たちが日常的に持っている世界観と乖離していくように思われる。それらはどのように調停できるのだろうか。またはそのどちらかが正しく、もう一方は放棄されてしかるべきなのか。セラーズはこれら二つの世界観を日常的イメージ(manifest image:MI)と科学的イメージ(scientific image:SI)と呼んで別々の世界観として扱っている。

そこで、私たちが対比するのは二つの理想的な構築物、すなわち(a)私が「日常的イメージ」と呼ぶ「原始的イメージ」の相関的、カテゴリー的な洗練物と(b)公理に由来する理論構築物の産物に由来する、私が「科学的イメージ」と呼ぶものである。(Sellars 1963)

その上でこれら二つをどう関係付けるかという問題が、哲学の目的であるとさえ述べる。

私の今の目的は、科学的イメージと呼んだものに対して日常的イメージに対して与えた説明と同等のスケッチを付け加えることであり、また哲学の目的である世界内の人間の統一された視界に対するこれら二つのイメージのそれぞれの貢献についてのいくつかのコメントでこの論文を締めくくることである。(Sellars 1963)

 セラーズがこの問題をアピールする上で出す例えにエディングトンの「二つのテーブル」というものがある。

ここでエディングトンの「二つのテーブル」の問題、私たちの用語法では日常的イメージのテーブルと科学的イメージのテーブルという二つのテーブルの存在という問題の本質的な特徴が再び現れてくる。問題は日常的テーブルと科学的テーブルを「噛み合わせる」ことだ。(Sellars 1963)

二つのテーブルとは、SIで捉えられた観察できない素粒子(理論的に仮定されたもの)の集合としてのテーブルと、MIに存在する目の前にあるこのテーブルである。別々の世界観が二つあるなら、それに対応してテーブルも別々の二つが存在することに ある。そうなると選択肢は①MIの対象(O𝗆)が存在し、SIの対象(O𝗌)は存在しない。②O𝗆は存在せず、O𝗌は存在する、③O𝗆とO𝗌の両者が存在する、④O𝗆とO𝗌の両者が存在しない、の四つがあることにある。おそらく④は検討する必要がないだろう。④が正しいとなると、あらゆる対象が存在しないか、二つのイメージとは異なった新しい世界観を提出しなければならないからである。

3. 消去的唯物論

 「二つのテーブル」問題に対するセラーズの回答は、O𝗆の実在性を認めないというものである。

私が提示している見方によると、対応規則は物質の相においては観察可能なものについての枠組み[MI]の対象は実際に存在するわけではない[~]という意味のものとして現れるだろう。(Sellars 1963)

その理由は以下の二点に集約されるように思われる。⑴MIにおける観察可能な対象が「観察可能であること」は対象の実在性の証明に貢献しない。⑵MIと同等の経験的地位を持つSIの方が説明力が高い。まず⑴から説明する。セラーズは直接経験される対象が、知覚経験のみによって確証されるという考え方を「所与の神話」と呼んで否定する。経験対象はむしろ経験の背景となる知識によって初めてその対象として現れることができる。例えば赤色の経験をするためにはどのような状況でどのような光を知覚すると赤色に見えるのかを知っていなければならない。それゆえO𝗆が観察可能であるという理由によってO𝗌より存在論的に高い地位にあるわけではない。なぜならどちらも背景となる知識や理論によって措定された対象だからだ。次に⑵について、セラーズはMIにおける予測は真理の近似に過ぎないと述べている。

上記の結果を要約すると、微視的理論は観察言語の概念的枠組み[MI]内部の与えられた領域に関する帰納的一般化とあらゆるその洗練物がなぜたかだか真理の近似にすぎないのかを説明する。(Sellars 1963)

なぜならSIはMIよりも詳細な予測を出すからである。ゆえにSIの方が説明力において優れた枠組みなのだ。以上の二点から、セラーズはO𝗆は存在せずO𝗌は存在する(②)と結論する。なぜなら存在論的に同等なO𝗆とO𝗌について、どちらかを選ぶとするなら説明力の高い枠組みの対象であるO𝗌を選ぶのが合理的だからだ。本発表ではセラーズのこの主張に従ってO𝗌には実在性を認めることにする。しかしだからといってO𝗆の実在性を否定はしない。つまり選択肢③に向かうのである。
 さらに進んでMI(の一部)自体を消去してしまおうという試みに、チャーチランド(1981)のいう「消去的唯物論」がある。例えば自然言語によって捉えられる「民間心理学」は端的に誤った理論だとして消去されうるだろうとチャーチランドは主張する。その根拠として民間心理学は科学に比べて予測を誤ることが多く、また停滞した「リサーチ・プログラム」であるということが挙げられている。チャーチランド曰く、民間心理学は「二、三千年の間、[~]その内容と成功のいずれに関しても目立った進展を遂げていない」のである。それゆえに将来神経科学がより成功した理論を提供するなら、民間心理学はその対象を含めて放棄される。このことをさらにMI全体へ広げて考えることもできるだろう。つまり民間心理学だけでなくMIを放棄するタイプの消去的唯物論である。セラーズが言うようにMIの説明力がSIに劣っていて、またMIが停滞した枠組みであるなら、そのことがこのタイプの消去的唯物論の論拠になりうる。選択肢③を取るために、つまりO𝗆の実在性をも主張するためにはこの消去的唯物論にも反論する必要があるだろう。なぜならMIが消去されるべきなら、当然O𝗆が実在物だとみなされることはないだろうからである。

4. 日常的イメージの対象の実在性

 デネットはセラーズの枠組みに従ってO𝗌の実在性を認める。

これらの同じプラグマティックな考え方が存在論の最終的な権威者と広く見なされている科学的イメージにも適用されるだろうか?科学は自然を、もちろんその本当の割れ目において刻み出すと考えられている。(Dennett 1991)

ときどき日常的イメージの全てを含む全面的に否定的な主張がなされる。科学的イメージの公式存在論に含まれる品物は実際に存在するが、硬い対象、色、日没、虹、愛、憎しみ、ドル、ホームラン、法律家、歌、言葉などは実際には存在しないのだと。(Dennett 2017)

 その一方でデネットはO𝗆の実在性を明確に擁護する。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 さて、O𝗆の実在性を擁護するとなると、先にあげたセラーズの議論や消去的唯物論を否定する根拠が必要となる。まずデネットはMIが停滞した枠組みであることを否定する。その点についてデネットはO𝗆に含まれる典型的な存在者である「貨幣」について次のように述べている。

[~]抽象化の方向への歴史的な進歩が存在するということを注記しておくべきだろう。私たちがドルが物として存在することを認める自身の源泉の多くは、今日のドルが実際に10セント硬貨やニッケルや銀のドルといった金属でできていたり形や重さを持っていた模範例的なものの子孫であることにあるということは疑いようがない。(Dennett 2013)

つまりMIは新しい概念を導入したり、既存の概念の抽象度を上げることで常に刷新され続けている。民間心理学についても、デネットが長年展開しているクオリア論批判や意識現象の様々な(再)解釈はその枠組みの修正として見ることができる。すなわちデネットチャーチランドが民間心理学が停滞していると批判したことに対して、その修正を実践することで反論しているのである。
 MIが停滞していることは否定されたが、それがSIに比べて誤った予測を出すことが多いという問題は残っている。デネットはこうしたノイズの存在を認めた上で、MIは多くのノイズを無視するからこそ有益なパターンを発見できるのだと主張する。

どこにおいても見られる理想化されたモデルの使用の実践は、予測の信頼性、正確さと計算的な追跡可能性の間のトレードオフの問題なのである。(Dennett 1991)

 具体的にはスケールに対応した三つのレベルのパターンの存在を認めている。それは「物理的」「デザイン的」「志向的」なパターンでありそれぞれが対応した「姿勢」によって見出される。Dennett(1991)ではコンウェイの「ライフゲーム」を用いてこの三つの「姿勢」が説明されている。ライフゲームを支配する法則、つまり隣接するマスのうち三つが「黒」ならそのマスは「黒」になる、などを見る視点は「物理姿勢」である。その法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダーガン」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 これら3種類の姿勢は高次のものになるにつれてより多くのノイズを無視しているが、そのことによって大局的なパターンを発見できると言える。そのような大きなパターンはSIにおいて細部に注目していては不可能な予測を出すことができる。そしてこれらのパターンを見出す姿勢がMIを構成している。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものであり、それは民間物理学、民間心理学、そしてそのほかの、データによって爆撃する五月蝿くまた魅力的な混乱に対して私たちが持っているパターン検知の視座によって構成されている。したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 それゆえにMIがそれが含むノイズによって単に誤った理論だとして退けられることはないだろう。なぜならデネットが述べるようにMIにはプラグマティックな利点があるからである。
 このようにしてチャーチランドの消去的唯物論(とさらにそれを過激化したもの)には反論できる。しかしMIの枠組み自体を捨てる必要がないからといって、O𝗆の実在性まで主張できるのだろうか。デネットが認めるように、O𝗆が実在しない「ユーザーインターフェース」でも問題はないのではないだろうか。デネットは以下のように述べる。

クワインが私たちに思い出させようとしなかった科学的な有益性が実在の何らかの基準であるのにもかかわらず、なぜ日常的イメージの有益性がそれと同様のものと数えられるべきではないのだろうか?(Dennett 2013)

O𝗌に対して実在性を認めることの根拠は、それが有用性を持っているからであった。しかしデネットによると(セラーズも同意するかもしれないが)、MIにもSIとは別レベルでの有用性がある。またO𝗌もO𝗆も同じように理論的枠組みにおいて想定される存在者だから、あえてO𝗌だけが存在してO𝗆が存在しないと主張する根拠はない。それゆえにO𝗆が存在すると考えることに不合理はない。さらにデネットはO𝗆としてしか存在しないものをいくつか挙げている。仮にO𝗆の実在性が全面的に否定されてしまうと、例えば先ほど挙げた「貨幣」や「声」「髪型」などが存在しないことになる。

5. 多重の実在

 本発表ではデネットの見方、つまりO𝗆とO𝗌のどちらにも実在性を認める立場(③)を是認する。この立場は例えばLadyman et al.(2007)では「存在論のスケール相対性(the scale relativity of ontology)」と呼ばれている。

問題となっている事実は(デネットではなく)私たちが存在論のスケール相対性と呼ぶものだ。(Ladyman et al. 2007)

デネットなどの議論ではO𝗆/O𝗌内部でも様々なスケールにおいてそれぞれ存在者が考えられるが、本発表では簡単のためO𝗆/O𝗌を一つの存在者のスケールのクラスとする。
 さて、O𝗆とO𝗌の両方に実在性を認めるとなると、また冒頭の「二つのテーブル」の問題に戻ってきてしまうのではないだろうか。つまり結局は目の前にあるテーブルが二重に存在しているという事態が発生しているのではないか。しかし私はO𝗆とO𝗌がどいらも実在していることはそのような二重性の問題を生じさせないと考える。なぜならO𝗆とO𝗌は時空に関しても全く別の存在者である、つまりそれぞれは別々の座標系に属しているからだ。
 それならばなぜ二つのテーブルが重複しているように感じられるのだろうか。それはセラーズの言葉を借りて言えばそれはMIとSIの間でアナロジーの関係が成立しているからだ。アナロジーの関係にあるMIとSIにおいて、あるO𝗆とO𝗌がそれが理論の枠組みの中で果たす役割が相似している。テーブルの場合、MIのテーブルは目で見える、手で触れられる、上に物を置くことができるといった役割を持つ。他方SIのテーブルは特定の波長の光を吸収したり反射する、分子の結合が比較的強固な固体である、時空間においてある座標を占めているといった役割を持つ対象として考えられる。この相似性のために私たちはテーブルが二重に存在しているように感じる。なぜならこれらの対象は時空という性質においても相似しているからだ。しかし実際にはO𝗆とO𝗌は相似しているだけの別の存在者であり、存在論的なコンフリクトを引き起こしているわけではない。

6. 日常的イメージの修正

 以上の議論からMIは放棄されるべきものではなく、またO𝗆に対しても実在性を認めてよいと結論する。しかしながらMIが停滞したリサーチ・プログラムとならないように、MIを所与の枠組みとするのではなくそれを不断に更新、修正していくことが必要となる。さらにその修正の結果として実在するO𝗆の外延もまた変化するだろう。これはセラーズの⑴の論点の帰結である。直接観察されるとはいえ、O𝗆もまた理論によって措定された対象であり、MIが修正されると私たちの経験の仕方が変わり、それによって存在するものも増えたり減ったりしうる。
 次なる問題はその修正をどのように行っていくのかという点だ。まず考えられるのが日々変化するSIとの整合性を保つという方向での修正だろう。ただしMIをSIと完全に一致させる形にすることはおそらくできない。なぜなら志向的パターンなどのMI上の高次の対象に対応するような物理的な対象は数多く存在しうるからだ。例えば貨幣について、10,000円という金額に対応する物理的対象は紙でできた一万円札や金属である百円玉100枚(を構成する素粒子)、もしくは1/200ビットコイン(バイナリデータ)かもしれない。要するにO𝗆/O𝗌の間で多重実現の関係が成り立つのである。ただしこうした多重実現可能性によってタイプの間の対応関係は成り立たないにしても、トークン同士の対応関係は成り立つ。それゆえにO𝗆/O𝗌の間でトークン対応が成り立つということがMIの修正の指針となりうるだろう。この観点からは例えば非物理的な魂といった物理的な対象とトークンとしても対応しない対象はMIから排除できる。
 この方針に付随した制約として、SIの修正に対応してMIは修正されるが、逆はありえないというものがある。例えばこのような非対称性の一種とみられるものがLadyman et al.(2007)において「物理学優先の制約(Primacy of Physics Constraint (PPC))として展開されている。

基礎物理学やそこにおける何らかの合意に矛盾する特殊科学の仮説は、ただそれだけの理由から拒絶されるべきである。基礎物理学の仮説は特殊科学の帰結に対して対称的に抵当に入れられるわけではない。(Ladyman et al.(2007))

この場合は物理学とその他の特殊科学との間の関係だが、これをより広く経験可能なものについての理論とそうでないもの、つまりMIとSIの関係に敷衍することも可能だろう。
 このような形でのMIの修正はセラーズが言うように二つのイメージを用いて「立体視的に見ること」を目指す試みだと言える。そして彼曰くこのことを通じて世界の見方を確立することが哲学の目的なのだ。しかしO𝗆/O𝗌がともに実在物である以上どちらかを消去することはできないし、また多重実現可能性によってどちらかを他方に還元することもできない。このような制約のもとで私たちはMIを修正してSIとともに世界を「立体視的に見る」ことができるのである。
 次に考えられるのがMIの内部で理論の有用性という基準において修正していく方針だ。時代それぞれにおいて環境は変化するから、有用な理論の基準もまた変化していく。それに対応してMIを修正していく必要があるだろう。ただし「何にとって有用なのか」という観点を特定することは難しい。例えばダーウィニズムに従って私たち人間の(または遺伝子の)生存のために有用な理論を採用し、そうでないものを放棄するという方針があり得る。他にもデネットの考え方に従えばMI自体がミームの集合体だから、MIにおける個々の理論はそれぞれの生存のために理論間で競争をしているとも言える。それならばMIは単に生き残った理論の集合体と捉えられるかもしれない。問題は、そのようなミームの生存競争に対して私たちの意志がどれだけ淘汰圧として関わっているのかという点になるだろう。

7. 結論

 結局、私たちはMIとSIを統一することができるのだろうか。またMIかSIのどちらかを捨てるべきなのだろうか。本発表での答えはどちらも否である。その上で本発表における私の主張は以下のように集約される。⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。
 三つめの主張におけるいくつかの方針については「科学主義」「プラグマティズム」などが挙げられるが、それらがMIの修正のために必要なすべてであるとは言えないかもしれない。それゆえにそれらの十分の吟味が今後の課題として残ることとなる。

参考文献

  • Churchland P.

Eliminative Materialism and the Propositional Attitudes (The Journal of Philosophy, Vol. 78, No. 2. (Feb., 1981), pp. 67-90.) 1981
http://stevewatson.info/courses/Mind/resources/readings/Churchland_ElimMater&PropAtts.pdf

  • Dennett D.

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
https://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/realpatt.htm

Kinds of Things—Towards a Bestiary of the Manifest Image (from “Scientific Metaphysics” (Ross D., Ladyman J.,Kincaid H.(Ed)) ) 2013
https://pdfs.semanticscholar.org/2245/ee8ee41880b17d5c56a8bb92beb4523a1c78.pdf

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

  • Ladyman J., Ross D., Spurrett D. & Collier J.

Every Thing Must Go : Metaphysics Naturalized(Clarendon Press) 2007

Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized

Every Thing Must Go: Metaphysics Naturalized

  • Sellars W.

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963

Science, Perception, and Reality (English Edition)

Science, Perception, and Reality (English Edition)

  • 太田紘史

経験科学における多重実現と多様性探求 (哲学論叢 (2006), 33: 79-90)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48854/1/TRonso33_Ota.pdf


頂いたコメントの検討

  • 物理学の話と生物学の話を分ける必要がある。

セラーズやエディングトンは明らかに物理学を対象として「科学的イメージ」を考えているのに対して、デネットが主に扱いたいのはやはり生物学である。それゆえにこの両者を同時に扱おうとするとそれらの齟齬が問題となってくる。私が研究したいのはやはりデネットの思想であり、生物学に話を絞ったほうがいいかもしれない。この点に関しては「科学的イメージ」という一つの単語に包摂されて隠れていたそれぞれの立場の違いが見えていなかったということになるだろう。

  • 物と構造どちらの実在論が取りたいのか。

セラーズの話はやはり物を対象にしているが、デネットはパターンつまり構造を問題としている。このデネットの立場はレディマン他の本では構造実在論として定式化されることになる。確かにこの発表ではその辺りの混同があった。私としてはデネットの立場から構造実在論に行きたいと考えているので、セラーズの話を使うことに対してもう少し慎重になったほうがいいかもしれない。

  • 結論における推論ステップの明確化

「⒈MIという理論の枠組みを放棄する必要はない。⒉MIにおける対象(O𝗆)は実在物とみなしてよい。⒊しかしSIとの対応を確保する方向でMIを修正していく試みが必要である。」という結論に関して、それぞれのステップの間の移行における論理的な関係を明確にした方が良いというコメントをいただいた。この発表では問題を大きく扱い過ぎたと思うので、次からはもう少し細かいところの議論をやったほうがいいかもしれない。特に1から2についてはデネットのオリジナルというよりパトナムが既にやっているらしいのでそちらを見る必要がある。

5章と6章の間でデネットの主張から私自身の主張に切り替わっているが、そこを明確にアピールしたほうが良いというコメントをいただいた。5章におけるデネットの立場の何が問題で、私がそこに何を付け加えたいのか。おそらくはデネットが言及しない日常的イメージにおけるダイナミズムや科学との対応がそれにあたるのだろう。私としてはデネットが割と簡単に日常的イメージの対象は実在すると言ってしまうのが不満で、そこに何らかの制約を課してその存在論が妥当なものになるようにしたいのである。

  • 「日常的イメージ」の多義性

セラーズとデネットの間でおそらく「日常的イメージ」という語が指す意味が変わっている。セラーズにとっては観察可能な対象を見る枠組みだが、デネットにとってのそれは様々な機能などを含んだ枠組みとなっている。その違いを明確にする必要があるだろう。その点にはおそらくセラーズとデネットの間で物理学から生物学へと関心が変わっている点、物の実在論から構造の実在論へとシフトしている点も関わっている。

  • 有用性を実在の起源とすることについて

この発表で言われている実在の起源は有用性である。そしてセラーズとデネットの間の最大の違いは認める有用性の種類で、それが実在物の種類の差につながっている。もし仮に有用性が複数あるなら、この発表で見た有用性(2種類)以外にも種類が考えられるのではないか。そうするとその有用性についてそれぞれに実在が考えられる事態に陥るのではないか。そうしてみると、極論すると個人個人で有用性の基準は違うので個人それぞれにおいて実在が異なっているという事態が発生する。この点についてはまだ手に負えていない感じがするのでさらに検討したい。

2017年に出た本の感想

2017年に読んだ本の感想をまとめておこうと思ったが、多いので2017年に出た本だけに絞って感想を書いておく。大体読んだ順に並べているつもりである。

宮澤伊織『裏世界ピクニック』

ネットロアを題材に女子大学生二人が異世界(裏世界)を探訪する短編連作。一年に2冊出たので2冊読んだ。ユーモラスでテンポよく話が進んでいくのだが、要所要所でネットロアの奥底から異質なものが顔を覗かせてきてぞっとさせられる。個人的に高校生の頃ネットロアをひたすら読み漁っていたので知っている話が多くて楽しい。しかしながらそれでも知らない話(例えば「須磨海岸にて」など)が登場することもあり、勉強になる(?)。

Daniel C. Dennett『From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds』

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

哲学者ダニエル・デネット最新の著作にして彼の思考の2017年バージョンアップデート。内容というか問題設定は例えば『解明される意識』『ダーウィンの危険な思想』と共通の部分が多いが、ギブソンの「アフォーダンス」やチューリングに着想を得たのだろう「デジタル化」、他にも「ポスト・インテリジェント・デザイン」など新しい思考ツールが展開されている。特に最後の章では機械学習というものを題材にダーウィニズムという「危険な思想」を工学的に用いている最近の情勢を分析していて、常に現代の先端を追い続ける姿勢に感嘆する。おそらくデネットの思想の入門書としても役立つだろうと思う。

ケンリュウ『母の記憶に』

同じくケンリュウの『紙の動物園』が大変に良かったので短編集和訳第二作のこちらも読んだ。正直『紙の動物園』の方が良かったが、こちらにも良い短編はいくつかあった。例えば「訴訟師と猿の王」は(全然SFではないが)物語の展開に求心力があり、また見たこともない中国の情景が描かれるのにリアリティを感じさせる。他にも表題作「母の記憶に」はウラシマ効果を用いたSF短編だがとにかく短いのがすごい。

今井哲也アリスと蔵六 8』

今年アニメ化したこのシリーズは漫画も読んでいて、今年出たこの8巻は非常に良かった。色々あって主人公の紗名が一度死んで全く同じ身体を持った新しい紗名が作られる。思考実験の「スワンプマン」を想起してもらえばこの状況がわかりやすいだろう。その自分が偽物だという紗名に対して蔵六はそれでも同じように家族として受け入れてくれる。ここまではありがちといってしまってもいいような展開だが、この作品はそこで終わらない。一度死んでも同じ身体が再生されるなら同一人物だと認めてもらった紗名は蔵六の死んだ妻、クロエを生き返らせようと提案するのである。純粋に論理的に考えればこれは蔵六を喜ばせる行為であるように見える(おそらく紗名はそう思っている)。しかしそれに対する蔵六の反応は怒りであった。ここに物理主義に対する論理で割り切れない人間の感情的反応が端的に描かれているように思う。私は物理主義者であるため全く同じ身体を再現できるならそれは同一人物だと論理的には信じるが、感覚としてはまだその理論に追いついていない。実在する不滅の魂が死後天国へ行くとは信じないが、葬式を済ませて火葬した人間が同じ体でもう一度現れることは許せないというのが私たちの現実感覚なのだ。

乙野四方字『正解するマド』

野崎まどがシリーズ構成・脚本を務めるアニメ『正解するカド』のスピンオフ。なぜ野崎まどが書かないのか、

野崎まどが脚本を手がけたTVアニメ『正解するカド』のノベライズを依頼された作家は、何を書けばいいのか悩むあまり精神を病みつつあった。次第にアニメに登場するキャラクター・ヤハクィザシュニナの幻覚まで見え始め……

というあらすじからどうやったらスピンオフになりうるのか、様々な疑問はさておきアニメを見た人はとりあえず読んでほしい。内容に触れずに書くと非常によく練られたメタフィクション/言語SFで、1アニメのスピンオフとして埋もれてしまうに惜しい傑作である。メタフィクションとして明確に「読んでいる私」というところまで視点を引き戻される体験は何度しても楽しい。

九岡望,小川一水,野崎まど,酉島伝法,飛浩隆,弐瓶勉BLAME! THE ANTHOLOGY』

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

BLAME! THE ANTHOLOGY (ハヤカワ文庫JA)

実は『BLAME!』は読んだことがないが、映画は見たのでいいだろうと思って購入した。実際のところこの作家陣が並んだアンソロジーを買わないわけにはいかないだろう。九岡望という人だけは知らなかったが、それを含めて全編素晴らしい出来だったと思う。まあ例によって酉島伝法の文章はよくわからないのだが(それでも今回はわかる方だったと思う)、他に例えば飛浩隆の「射線」という短編は『象られた力』や『グラン・ヴァカンス』に類する圧倒的なスケール感を『BLAME!』の枠組みで展開しており素晴らしい。九岡望「はぐれ者のブルー」の最後の一文には高速バスの中でため息をつかされた。小川一水のはなんかすごい性癖が出ている。そういえば来年は『天冥の標』の最終巻が出るらしいので楽しみだ。

オキシタケヒコ筺底のエルピス 5 -迷い子たちの一歩-』

友人に勧められたライトノベルシリーズの最新刊。なんと円城塔が帯に推薦文を書いている。なぜだろう。このシリーズはギリギリSFと言えなくもない異能力バトルものだが、主人公たちと敵対者が使う能力に厳格な法則が存在している。そのルールを遵守しながら完全に予想外の方向へと能力や話が展開していくところに作者の技量を感じる。と前半はそんな風にで感心しながら読んでいたのだが、4巻から時間遡行や並行世界を踏まえた上でキャラクターの心理が深く描かれるようになる。それが最高潮に達するのがこの5巻で、特にヒロインの生い立ちに関わる「空手」と物語の状況を綺麗にリンクさせた最後の一文には感嘆した。単なるライトノベルと思わず(そもそも円城塔が推薦している時点でそんなことを思わなかったが)読んでみてよかった。

大今良時不滅のあなたへ

マルドゥック・スクランブル(コミカライズ)』、『聲の形』の大今良時の最新作が2017年に5巻まで出た。主人公「フシ」(不死なので)が道中で出会った様々な物や動物、人をコピーしながら旅を続けていく、というのがストーリーの中核をなしている。コピーするといえば自己複製子、と考えてしまう癖があるが、思いの外そういう方向に話が進んでいる気がする。フシがコピーすることができるのは死者のみである。死者がコピーされるという形でなんらかの情報を残すということは、そのものずばり自己複製子の複製プロセスだと言える。この物語は(あくまで予想だが)自己複製子の複製という現代的な観点から『火の鳥』を再解釈する試みになるのではないかと思う。『火の鳥』は永遠の命に憧れる人間の愚かさを描くが、こちらは永遠なるものの側から有限の世界をどう記憶していくかという視点の対称性がある。複製される限りにおいて情報は不死であり、不滅の魂という信仰を持てない現代における一つの救済の形の提示とも読めると思っている。個人として永遠に生き続けることではなく、「私」という情報が複製されていくことによって永遠の魂は達成されるのである。

信原幸弘(編)『心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い (ワードマップ)』

心の哲学の入門書はないだろうかと聞かれてこれを読んで見たが特に入門書という感じではなかった。哲学をある程度やっている人間が心の哲学の基本的な論争を追うために読むなら良いと思う。個人的に良かったのはデネットの「志向姿勢」とデイヴィッドソンの「解釈主義」のつながりが見えたところで、デイヴィッドソンの論文を読んで見たくなった。あとは「予測誤差最小化理論」の項などはベイズ推定を用いたりした感覚予測の理論を紹介していて面白い。デネットが『解明される意識』の冒頭あたりで幻覚や夢の構造としてこの理論を紹介していたのも思い出す。

野崎まど『バビロン3 ―終―』

バビロン3 ―終― (講談社タイガ)

バビロン3 ―終― (講談社タイガ)

野崎まどの『バビロン』シリーズ三作目。善と悪という哲学史の古くから問われてきたテーマを文庫本一冊である程度突き詰め、その上でエンターテイメントとして成立させる手法は鮮やかの一言だった。そして最後には最悪の女「曲世愛」がまたやってくる。多くの人間が人生をかけて出した答え、「善=続くこと」を一瞬で反転させる構成のカタルシスが素晴らしい。ちなみに倫理学的には「善」という規範(〜すべき)に関する概念を事実(この場合は続くこと)の概念に還元することはできないとされている。*1ある程度もっともらしいので物語としては問題ないだろうが、反例を出すこともできる。例えば食人という習慣はおそらく明確に悪だが「善=続くこと」と定義してしまうとその習慣が続くことも善だと言えてしまう。他にも理論的な問題として何かを続けるためには他の何かを止めなければならない状況は多くあり、その上でどれを続けるのが善いことなのかという比較判断の基準がさらに必要となってしまうという点が考えられる。こうしたことは物語としての良さとは全く無関係な妄言であり、特に作品を批判する意図はないことを付記しておく。

樋口恭介『構造素子』

構造素子 (早川書房)

構造素子 (早川書房)

今年のハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。作中作の階層構造を「L-P/V基本参照モデル」として形式化してみたり、後半やたらデリダの引用があったりと難解な印象だが、円城塔『エピローグ』よりわかりやすいと思う。むしろそうしたSF的な部分よりも心に残ったのは死んだ父と主人公の間で「物語を書くこと」によって交わされる対話だった。それは子に対する愛情表現と父に対する追悼であり、作者はおそらく小説はそのようなものを物語でしか表現できないということを意識しながら書いている。そのことが言葉で何かを語ることの限界を常に念頭に置きながら書くという作者本人としては面倒な、しかしそれゆえに真摯な態度を感じさせる。

言葉は愛を定義することができない。
しかし、物語は愛を喚起することができる。(p349)

という短いパラグラフが非常によくその点を表しているだろう。さらに作者(そして登場人物)は言葉そのものの自律性にも自覚的である。

言葉は言葉を描き出そうとする意識や意思とは無関係に分岐していきます。この世界が終わり、わたしたちがいなくなったとしても、それは、言葉という生命体にとっては仮初の乗り物が一時的になくなることしか意味しません。(p318)

この辺りは大雑把にミーム論と言っていいようなものだが、参考文献表にそれらしい本は挙がっていない。おそらくデリダなどが同様のことを言っているのだと思う。その辺りを比較研究してみても面白いかもしれない。

平鳥コウ『JKハルは異世界で娼婦になった』

JKハルは異世界で娼婦になった (早川書房)

JKハルは異世界で娼婦になった (早川書房)

読んだのは「小説家になろう」のバージョンだが、書籍版が出版されたので一応書いておく。話題になっていたようにジェンダー論の文脈で読むことも可能かもしれないが、個人的には(そうした話題に関心がないのもあって)そういう風には読まなかった。キャラクターの造形や性行為の取り扱いについても、ライトノベルとしてみれば特異かもしれないがそのほかの文芸ジャンルではそこまで変わったものとはみなされないだろう。ただし「異世界転生」という枠組みにこうした手触りの物語を落とし込んで来た点は評価できると思う。また主人公が所謂オタク的でない人物として描かれていて、その視点からライトノベル的な文脈に対してシニカルな視点が投げかけられるのも面白い。そうした話の導入から最終局面では一転してその文脈が畳み掛けるように展開するのもなかなかよくできていると思った。

舞城王太郎, 大暮維人バイオーグ・トリニティ

今年は舞城王太郎原作のバイオーグ・トリニティの11,12,13巻が出た。前半、というか10巻くらいまでは世界観と絵のかっこよさで読んでいた感じだったが、11巻あたりから伏線の回収と謎の解明が一気に始まって非常に面白い。特に11巻の後半で謎解きが始まるまさにそのシーンで、

この世界は密室でできてる。

というセリフが出てくるのには感動する。これは舞城王太郎の2002年(!)の本『世界は密室でできている。』のタイトルをセルフオマージュしているのだろう。そういえば今年は舞城王太郎原作で『龍の歯医者』というアニメが放送され、そちらも大変良かったがそれについては項を分けた方が良いだろう。2017年には舞城王太郎自身の著作は出なかったので来年に期待したい。

小川一水『アリスマ王の愛した魔物』

年末ギリギリに出た小川一水の短編集。収録作のうち「ゴールデンブレッド」は読んだことがあったがそれ以外は初めて読んだ。「ろーどそうるず」はバイクに搭載されたAIの限られた視点(視覚などがない)から人間関係を描く手法が鮮やか。自分は小説を書くのが上手いという自信がないとこういった短編は書けなさそうだが実際上手いので文句のつけようがない。「アリスマ王の愛した魔物」はファンタジー調の世界観だが計算機と計算そのものの話である。チューリングマシン(というかアルゴリズム全般)は基盤中立性を持っているから当然手動でも計算機を実装できる。そうしたSF的な面白さの上に計算されたもの(AI)の自我の創発というさらなるテーマが潜んでいるのが良い。そう考えると書き下ろしの「リグ・ライト」はこの二つの短編からのテーマの連続を感じさせなくもない。自我の芽生えたAIの「人権」というテーマが取り扱われるのは、「機械は自我を持つか?」という問いがもう古いということを示してはいないだろうか?機械はもちろん自我を持つし、それはなぜかというとタンパク質でできた機械である私たちが自我を持ち得たからである。その上で、AIの人権を人間社会においてどう位置付けるかというのが現代的な問いなのだ。この短編では人間は人間として生まれたから人権を持っているという自然権思想が社会通念として描かれているが、ダーウィニズムの登場以降「人間」の定義を厳密に線引きすることは不可能である。思想上の変化だけでなくこうしてAIの発展という実際上の変化を経験する社会において、こうした人権の概念を問い直す必要が迫っているのだ。

割内@タリサ『異世界迷宮の最深部を目指そう 7-3章.愛よりも命よりも』

ncode.syosetu.com
最後に刊行されているわけではないネット小説だが、この作品の感想を書いておきたい。一応は順次書籍化している途中なのでこの章もいつか本となって世にでるだろう。この章で最も素晴らしいのが『342.いま六十層が産声で満たされる。貴方と二人、同じ日に生まれる為に。』(https://ncode.syosetu.com/n0089bk/362/)である。この作品は感情が最高潮に達したことを詩的な詠唱や階層名の宣言で表現するのだが、この節はまさにそれが冴え渡っている。ところでこの節から話はそれるが、この作品における魔法の「詠唱」が登場人物の人生そのものを読み込むことだと提示されたことで、メタフィクショナルな読み筋もあり得るように思えてきている。すなわち「このような人生(=文脈)があった」ということの提示がその魔法の使用者の来歴を「承認」させ、それによって強力な魔法であるを納得させることがその強さの本質なのである。こうしたことは『幻想再帰のアリュージョニスト』などの物語装置を読み込み過ぎだとも言えるだろうが、そういうのが好きなのだから仕方ない。

*1:例えば「is/ought gap」とか「ヒュームの法則」と呼んだりする。ヒュームの法則 - Wikipedia

ダニエル・デネット『クオリアの歴史(2017)』和訳とコメント

原文:http://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/History_of_Qualia.pdf

要旨

 クオリアという哲学者たちの概念は悪い理論化、特に(例えば)信念の志向的対象とその信念の原因の区別を認識し損ねるのことの遺物である。クオリアは、サンタクロースやイースターのうさぎのように歴史を持っているが、そのことによってそれらが実在のものとなるわけではない。例えば幻覚の原因は幻覚の志向的対象とは全く似ていないだろうし、脳内の表象は特別に主観的な性質(クオリア)に変換されはしない。

本文

 何人かの著作家が神の歴史について本を書いている。彼らは神の存在を主張しているのだろうか。それとも神の観念や概念について語っているのだろうか。それとも他の何か?かつて尼僧だったカレン・アームストロングは1993年に『神の歴史:ユダヤ教キリスト教そしてイスラム教の4000年の探求』という本を出版した。彼女は無心論者のように見えるが、彼女自身がそう言っているわけではない。宗教社会学者のロドニー・スタークは2001年の彼の著書『一つの真なる神:一神教の歴史的な帰結』という本を同じような曖昧さを示す以下のような段落から始めている。

あらゆる偉大な一神教はそれらの神が歴史を通して働いており、これから示す予定だが、少なくとも社会学的にはそれらは極めて正しいといことを提示している。すなわち歴史の大部分は—偉業と同時に災害もまた—一つの真なる神によって作られたのである。これ以上明白なことがあるだろうか?[2001, p. 1]

 極めて明白に彼らがしていることは、「社会学的」または「人類学的」ではなく「文学的」な親しみやすい書き方を用いているということだ。オデュッセウス、ポール・バニヤンまたはサンタクロースの歴史は完全に学問に値する仕事で、それについて大変よく知っている人によって書かれた説明であり、そして幸いなことにその話題が実在の人物ではなく架空のキャラクターについてのものであることが知られている。しかし、神が話題となると、誠実な不可知論(いくつかの事例において)や外交、村八分への恐怖からよく知ることを控えるという長く確立された伝統がある。私たちはこの原理で親しみ深い沈黙を、ドーキンス(2006)の旧約聖書における神を「あらゆるフィクションのうちでもっとも不快なキャラクター」とする歯に衣着せぬ—そして多くの人にとっては衝撃的な—記述と対比することで照らし出すことができる。私たちはドーキンスがどこに立っているか知っている。ヤハウエは単に架空のキャラクターであり、実在する超自然的な主君や主人ではない。
 クオリアについての著述においても似たような曖昧さがあり、私はそれをずっと前から白日のもとに晒そうとしてきた。しかし「クオリアクワインする」(1984)という冗談じみたタイトルが、どうやら多くの人を私がクオリアがレプラカーン(もちろんそれについても本が書けるのだが)と同じような架空のものだとは実際には言っていないか、もしくは実際にそう言っていて、明白な間違いを犯している(「これ以上明白なことがあるだろうか?」)と勘違いさせたようである。30年以上にわたって哲学者たちと認知科学者たちは、クオリアについて語るときに自身が語っているのが何なのか知っているし、それらが完璧に実在物だと知っていると主張し続けてきた。実際、彼らは「ハードプロブレム」を解決困難にしているのはクオリアの否定不可能な存在なのだ!としばしば主張する。このように考える人々によると、私は1991年には意識を説明しておらず、むしろそれを言い抜けようとしていたのだ。(笑)。冗談はそこまでにして、この話し方を真面目に取りそれが非常に優れた思想家(またはその読者)をいかにして騙して意識についての本当の進歩を成す機会を失わせることができるのかを見てみよう。
 私はニコラス・ハンフリーの『意識の発明』というエッセイを使って私が何を言わんとしているのか示そうと思う。私はハンフリーがこのエッセイで言っていることの大半に同意しているか、または教授されている。私は事実、誤解を招くと思われる過度に外交的で、彼が実際に精力的に転覆させようとしていると見る人々に偽りの安心感を与えると思われる彼の説明戦略や言葉の選択のいくつかを除いた全てに同意するだろう。

1. 志向的対象は何でできているのか?

 アームストロングやスタークに例示される差し障りのない言い方はブレンターノ(1874)が「志向的対象」と呼んだものを語る際には必要不可欠である。言い伝えによるとポンセ・デ・レオンは若さの泉—存在しないものを探していた。その言い伝えにはなんらの事実的な証拠も知られていないので、もう少し有名でないが歴史的に申し分ない事例、ウォルター・ローリー卿が南アメリカでエルドラド、黄金の街を探して何度か遠征を行なった事例を考えてみよう。エルドラドについて学問的な真実に満ちていて、読者にそれが存在しないと知らせないような本を書くことができるかもしれない。その本は実在物について、すなわち実在する人、実在する脳(もしお好みなら心)、実在する旅、実在する本や会話、実在する地図、実在する詐欺師やぺてん師、実在する落胆についてのものになるだろう。そしてローリーが実際にエルドラドの観念を彼の心に抱いていたこと(大雑把にはそう言えるだろう)が真実である一方で、その精神状態は彼の探求の対象ではない。彼はすでにそれを持っていた!彼は自分の心の中にある観念を追い求めていたわけではない。彼は街を探していたのだ。そしてエルドラドは何でできていたのか?大理石?金?煉瓦?それ、すなわち志向的対象は何物でもできていない。架空の対象は多くの性質、本当の性質を持っていると正しく言うことができる。サンタの外套は赤く、彼の髭は白く、そして彼のお腹は大きく丸い(赤い外套を除いて私もその性質を持っている)。エルドラドはローリーが持っていると信じていたどんな性質も持っていた。それは存在しなかったが、ローリーはそれを見つけるためい彼の人生の大半を費やす用意があるほどにそれが存在すると信じていた。この存在しない(志向的に非存在の)エルドラドはウォルター・ローリー卿のもっとも重要な信念や願望のうちいくつかの志向的対象であった。
 さて、通常の正しい信念や知覚の志向的対象についてはなんと言うべきなのだろうか。通常、私の前のテーブルの上に赤い林檎があることを信じているなら、目の前にある赤いりんごによってその信念は引き起こされている。その林檎は存在し、そして赤色であり、私の信念の間接的で末端の原因である(それは最終的に目の前に林檎があることを信じると言う精神状態に導く、私の目と視覚野における出来事を引き起こす)。その信念は赤くも丸くも美味しそうでもない。それは赤くて丸くて美味しそうなもの「について」の信念なのだ。またそれらは赤さや丸さや美味しそうさの信念の近接的な原因でもない。その信念の志向的対象は私の目の前にある赤い林檎であり、私の心の中の観念ではない。そしてこれは私がその林檎について話したり手を伸ばしたりそれを掴んでかじったり(その側の熟していない林檎を無視したりしながら)することで表現できる信念なのだ。志向的対象が架空の、非実在の、幻覚や想像上のものであることを忘れない限りで、日常的な実践においては真なる信念、知覚もしくは他の精神状態の志向的対象を、その精神状態の創造と維持において(普通は間接的に)因果的役割を担っている実在する対象と単純に同一視することによる害はほとんどない。代替的な実在物、「全く同じ性質を持った」内的な実在的対象にはその精神状態のより近接的な原因としての役割は存在しない。内的な表象を安定させるシステムには役割があるが、それらは小説の文章が架空のキャラクターを表象するのとだいたい同じやり方で架空の対象の性質を表象しているのである。実在の赤い林檎を実在するものだと見なすことは一つの果実と信念の間に介在する「直接見られた」現象的/主観的な赤い林檎を脳が生み出すことを要求しない。赤い林檎の幻覚を持つこともまた、内的な表現を要求しない。
 私はこれがほとんどの人にとって受け入れがたいほどに直観に反する考え方だと言うことを学んだ。人が赤い林檎の幻覚を見るとき、そこには何か(おそらくは何か特別な、主観的な意味で)赤くて丸いもの、それが幻覚を生むかどうかに関わらず心によって作り出された(物理的でないかもしれないある「次元」や「領域」における)実在が伴わなければならないようだということは確からしい。人が意識的な経験について語る際に語っているのはその対象、その現象なのである。私はこれは間違いであり内観と内省の疑い得ない帰結などではないと主張しているのだ。人がこの間違いを犯すときにしていることは信念の志向的対象と信念の近接的な原因を混同することである。小説家が彼女の小説の登場人物の権威であるのと同じように、人はその人の信念の志向的対象についての「権威」である。しかしそれらの信念の近接的な原因についてはほとんど権利も知識も持っていない。
 なぜ目の前に赤い林檎があると言うのかを問われたら、私はそれを自分の目でちょうど今見たからだ、と心から答えることができる。これは原因についての主張だ。もし私が正しければ、目の前に「素晴らしい」赤色の性質(デネット 1991)、通常のクラスの観察者に相対的にのみ定義できる性向的性質を含んだこれこれの物理的性質を備えた物理的な対象がある。しかし私は間違っているかもしれない。例えば私は幻覚を見ているか、放物線状の鏡、またはその林檎に手を差し伸べた際に気付くであろう何者かに欺かれているかもしれない。私たちは普通何がその他の信念(そして信念についての信念、その他)を引き起こしたかについての正しい信念を持っているにも関わらず、原因についてのそのような信念が真実であること保証するなんらの「特権的アクセス」も持ち合わせていない。そしてもし人が目の前に赤い林檎があるという信念が視覚システムによって信念の直接的な源泉として生産された「現象的な」赤い林檎の表象によって近接的に引き起こされたと信じているなら、それはおそらく間違っている。(私はそうであることを確信しているが、しかしこの論文での目標は私が正しいだろうことを示すことにあり、それゆえ最初から私が正しいと想定しないことにする)ウォルター・ローリー卿の安定した、高度に発達して心を奪われていたエルドラドについての信念は黄金でできた実在の街によって引き起こされたわけではない。私たちはそれについて強く確信することができる。民話、偽証、希望的観測、そして消化不全のもつれたネットワークが何を意味しているのか誰が知っているるだろうか?[~]
 ローリーの頭の中にあった、エルドラドについて持っていた信念や願望に錨を下ろし、近接的に引き起こし、促進するものはなんだったのだろうか?ここで私たちは慎重に歩を進めなければならない。なぜなら実際に物理的、因果的に彼の脳で起こっていることはローリーが、もし彼が当時では抜きん出たアマチュア認知神経科学者でなければ、それについてなんらの信念も持っていないものだからだ。彼は疑いようもなくエルドラドについての彼の「観念」、それに対する熱望、そしてエルドラドの想像図についての多くの信念を持っていた。彼がこれらの「観念」全てに対するアクセスを有していたと主張することは、広範なアマチュア認知神経学なしに彼がそれらを非常に安定したやり方で区別したり、報告したり、記述することができたと主張することになる。それは彼が自身の次なる行動を導きうる、それら(これらの信念の表現)についての報告を含んだ明らかに内的な出来事についての信念を持っていたということである。これらの信念はもちろん独自の志向的な対象を持っていて、彼はその志向的な対象が「持っていた」性質について間違い得ない(究極の権威者である)が、彼はどの志向的な対象が実在するのか、またどれが(彼がそうであると期待したものでは全くない)原因を持っているのかについて間違い得ないわけではない。

2.クオリアとは何か?

 クオリアは自身の精神状態について持ちうる内省的または内観的な信念の志向的対象である。これ以上明白なことがあるだろうか?志向的対象についてそのような言い方をすると、人々が彼らのクオリアについて実際に考えたり、語ったり、迷ったり、喜んだりできることは明白である。それはウォルター・ローリー卿がエルドラドを探していたという事実と同じくらい否定し難い事実だ。明白でないのは、クオリアが実在のものであること、つまりクオリアが存在することだ。それらが実在しないなら、ローリーのエルドラドと同じように現代の科学に対してなんら問題を提起するものではない。ハード・プロブレム(チャーマーズ 1995, 1996)は問題ではないと判明するか、むしろそれは(私が長い間主張してきたように)どのようにして人々がクオリアが実在するという考えに誘惑されたのかについての多くの「簡単な」問題へと崩壊するだろう。その問題は私たちに人々がクオリアを信じる際にその脳の中では実際には何が起こってそうさせているのかについての多くの問題を提起し、そしてそれに答えることを要求するだろう。
 これは「行動主義的」ではないだろうか?そう、当たり障りなくイデオロギー的でない意味であらゆる科学は行動主義的だ。気象学もこの意味で行動主義的である。一旦気象学的な振る舞いの全てを説明してしまえば、あらゆる現象を説明したことになる。この定式化での「振る舞い」には、自身に対するものであれ他者に対するものであれ、完全に実際の言葉として発音されるか半分しか具体化されないにせよ、言語的な反応を生み出させるあらゆるプロセスに伴うあらゆる階層で記述され、有用な、情緒を生み出したり、嗜好を形成したり、域値を高めたり低めたり、条件づけられた反応を引き出したり、記憶を喚起したり、判断を調整したり、痛みを鈍くしたり、注意を散漫にさせたり、性欲や攻撃性や従順な反応を高めたりするあらゆるものを含んだ脳内でのあらゆる出来事が含まれている。
 私が気に入っている意識の比喩的な描写、ブラックによるものだと彼が考えている絵をみている人を描いたソール・スタインベルクのニューヨーカーの表紙*1を考えてみてほしい。この巧みな思考の風船は、彼が絵を見るために立ち止まった数秒に起こったかもしれない一連の振る舞いの不完全な目録である。それらは筋肉と骨の振る舞いではなく、内的な、目に見えない振る舞いである。そしてそれらが共有する、彼の骨の内側で起こっている他の全ての認知的、情緒的、代謝的な振る舞いによる競合を制してその目録へ登記されるための性質は、(私たちにとっては間接的にせよ)ヘテロ現象学的テキストに従って(デネット 1991)彼がそれらを報告、説明、記述、その他できるためにそれらがその人にとって「アクセス可能」であることなのだ。
 ここが足元が滑りやすい場所なのである。これら内的な振る舞い、脳内で起こる物事がアクセス可能だという地位を占めるために、それらは彼がその時どのように感じたかを私たちに伝える際に表明する信念の信頼できる原因、形成するもの、生み出すものでなければならない。しかしこれらの内的なものはこれらの信念の志向的対象と同一視されるべきではない。なぜならその志向的対象はサンタクロース(それは存在しないという性質を持っているために、誰かの信念の原因であるわけではない)のように架空のものかもしれないからだ。これが「錯覚主義」の核心である。(フランキッシュ2016, デネット2016)今そこに赤く丸い林檎があるという私の信念を引き起こす赤く丸い林檎を末端の原因、そしてその信念の志向的対象と同一視することと、丸いクオリアと結びつけられた赤いクオリアを経験しているという私の信念を引き起こす内的な神経の状態を志向的対象、そしてその信念の近接的な原因と同一視することは別である。なぜなら、私たちが確かに言えることとして、その[近接的な]原因は赤くも丸くもないからである。
 もし、ある作者の小説の悪魔的な女性キャラクターが、彼が否定しようとも実際に作者の母親であるというフロイト的な批判のような特定の偏向した態度を取りたいならこの同一性を主張することもできる。そのように批判する人は架空のキャラクターと筆者の母親が様々な性質を共有しているのは偶然ではなく、そのことがその小説に現れる内容のいくつかをどうにかして(因果的に)説明すると考える。事実、信念の内的な神経の原因をその信念の志向的対象と同一視することは、精神分析されている小説家の事例より魅力的である。なぜなら性質の大きな違いにも関わらず多くの状況証拠がその同一性を支持するだろうからだ。一つ例として、黒い背景に明るい青色の大文字のAが描かれているのを想像してほしい。私があなたにその「A」について伝えるとあなたは私に(それはセリフ体で、青さは10月の空のようで、淡い青ではないのだが)それは実際にはこのワードのファイルにおける描写と同じように青色ではないと言う。しかしそれは本当に(もしあなたがよく目を凝らして脳鏡のいい位置でそれを見たら)Aの形なのかもしれない!この、大文字のAの内的な神経の表象(あなたが大文字のAを想像しているという内観の表象の実際の近接的な原因)は実際にレチノトピックマップ上に並んだ、視覚野のある部分における実際の刺激の本当にAに似た形をしたパターンを含んでいるかもしれないものを利用しているかもしれない!空間的な性質を表象するのに空間的な性質を使うことは時折非常に良い手法であることがあるが、その手法があなたの脳で使われているかどうかは、それについてあなたがなんらの特権的なアクセスも有していない開かれた、経験的な問いである。それについては例えばシェパード/コスリン/ピリシンの精神イメージについての論争を見てほしい。ピリシン(2002)(そのコメンタリーを含む)は良い概観である。そして何がその青を神経的に表象しているのだろうか?Aの形の表象を多くの性向、記憶、嗜好、情動的反応を結びつけるいくつかの発火パターンがその空のように青い影のあなたの神経上の表象として集まった。そんな感じのものが私たちがデカルト劇場のディスプレイに映し出されていると想像する青いクオリアという二元論的な幻影の自然主義的な代替物である。(デネット 1991)しかしどのようにしてこんな非人格的な、神経の発火の退屈なパターンが、輝かしく、人生を肯定し、鮮やかで、胸が張り裂けるほど素晴らしい主観的な青のひとかけらの代わりになることができるだろうか?それは肯定的な情動的反応、詩的で、自信を強めるものを増やす性向などを引き出すトリガーの多くを備えることによってである。(青い影を想像することと実際に青い影を見ることの違いは程度の問題であり、種類の違いではない。これについてさらには以下に)その情動は組み込まれた、つまりそれに関わる単なる表層的な性質の同一性に伴う進化によってデザインされた表象の特徴なのだ。(進化は表象にジャムを塗って美味しくする必要はないし、酢を塗って不味くする必要もない。それらの後遺症は彼らが表象する美味しいまたは不味い性質に反応する傾向を持った人々である。)

3.ニコラス・ハンフリーの発明

 今や私たちはハンフリーがどのようにこの辺りを主張したかを見る準備ができた。なぜなら彼は、私の言い方には賛成しないかもしれないが、私がちょうど今言った内容のほとんど全てに同意するだろうと考えられるからだ。彼は「発明(invention)」という言葉の二つの異なった意味、すなわち発明やプロセス、または「偽り、気に入られたり説得するために設計されたもの」を記すことから始める。彼は次に「意識はこの二つの意味で「発明」である」と主張する。(ハンフリー 2017)

すなわち、意識は
1.自然選択によって進化し、自身とその周囲を理解するために設計された認知的能力
だがしかし、別のレベルでは
2.私たちの存在の評価方法を変えるために設計された、脳によって作り出された空想
である。

 まさしく両者とも重要である。私が述べたように(デネット 1991,2016,2017)意識はユーザーイリュージョンであり、変化し続ける困難な世界で脳が大きく複雑な身体を制御する仕事を果たすために慎重にかつ素早くサンプリングされる必要がある、(例えば分子や細胞のレベルにおいての)因果と相互作用の乱雑な喧騒の優れた単純化である、脳それ自体のユーザーイリュージョンなのだ。さらに詳しく言えば、意識は脳の様々な構成要素がそれぞれに異なった判別や制御の仕事をこなすためのユーザーイリュージョンの多様体の全体である。私たちがデカルト劇場からホムンクルスを消去して劇場自体も取り去ってしまうと、その全ての仕事を行う分散され撒き散らされた主体は情報や影響を回送する必要がある。これは情報的な出来事(お好みなら信号)を別の媒体、想像された意識の私-媒体(MEdium)へ送信することを含まないが、信号を表象のユーザーに彼らが求めるものを引き出させるのによく適した神経上の表象へと翻訳や変形することは含んでいる。(初期のロボット、シェーキーの翻訳プロセスについてのまとまりのある記述と議論についてはデネット1991を見よ)
 しかし、さらに吟味してみると、二つめの意味はどうなのだろうか?ハンフリーはどの空想のことを言っているのだろうか?彼は私たちの人生に存在している志向的対象、すなわち私たちが考えたり、味わったり、熱望したり、拒絶したりする「もの」の群れを指していると考えるられるかもしれない。これら志向的対象のうちいくつかは世界にある完全な実在物、例えば赤い林檎や恐ろしい虎や素晴らしい夕暮れであり、またいくつかは単なる想像の産物である。それら想像の産物はシャーロックホームズが「虚構霊体」で出来ているわけではないように、「作り物」で出来ているわけではない。しかし彼が言っているのは志向的対象のより制限された集合、すなわち私たちが内面に注意を向け、それについて信念を持ったり予感したり、特定の感覚を熱望したりするとき私たちが「より直接的に」味わったり忌避したりする「もの」、私たちの知覚信念や願望の全てではないにせよその多くに伴い、それらを修正し、豊かにする内的な出来事である。ハンフリーは言う。

私が言っている空想とは、主観的な感覚の世界を構成し、そしてそれ以外の何物にも関わらないクオリアまみれの志向的対象の家庭菜園である。知覚はクオリア次元を持っていない。それは赤い林檎があることを知覚するものに似ていない。しかし感覚はほとんど常にそれを持っている。それは私の網膜で赤い光が感覚するものに似ているのだ。(個人的会話で 2017)

 私はこれがプラグマティックな、ビジネスライクな認知とそれが有益でなかろうが存在し続けてきた熱狂的で感情を伴った情動の区別を復活させると思う。ハンフリーは彼のエッセイで「私はクオリアが認知的能力にほとんど貢献しないということを論じようと思う。それらが空想のどれだけ中核に位置していようとも」と言っている。私は、それとは対照的に、(ハンフリーが快く受け入れるであろう意味における)クオリアは「正当な」認知において大きな役割を果たしていると考える。私たちは(視覚システムの能力と色の区別に対する貪欲さを利用した)ダイアグラムでの色分けや、(聴覚パターンを判別し飽くことなく求める聴覚システムの能力を利用した)押韻による記憶術における有用性といった小さな現象においてもそれらが行う様々な貢献を見て取ることができる。私はハンフリーの、A+やB−に位置付けられた刺激を承認し、一方たかだかD−などの他のいくつかを混ぜ合わせ、さらにその他を無視することによる、脳のほとんど全ての入力に対する慢性的なバランス化に対する賞賛に同意する。実際、この視点に目を開かせてくれたのはハンフリーが初めてなのだ。私たちが脳がその内部で起こっていることに常に無関心だと見なすと、実際に起こっている精神的生活のコントロールの仕方がわかり始める。それは誘発された(「感情の」)神経活動同士の競合と協働によるのである。脳には次に何を考えるべきなのかを理解している司令官は存在しない。そこにはいくつかの思考を抑圧し他に集中しようと熱心に働く仮想の司令官いるだけであるが、私たちの皆が知っているように、これは成熟した、また間欠的な業績であり、下層にある心のオペレーティングシステムの部分ではない。
 しかし私がクオリアがこれらの重要な因果的役割を果たしたいると言うとき、もちろん私は内観を行う人がそれがどんなものかを私たちに伝える際に表明される信念の内的な、近接的な原因のことを言っている。感覚はエルドラドが黄金でできていたのと同じようにクオリアを持っている。そしてこれはハンフリーがクオリアは認知的能力にほとんど何の貢献もしないと述べる際におそらく彼が言っていることなのだ。認知に関わる貢献のほとんどは物語が劇へと分節化される前に為される(または少くとも引き起こされる)。寝ている間に襲ってくる「感じられない痛み」はそれでも関節のダメージを避けるために私たちの手足を良い位置に保つし、手足が脅威を判別することによって生まれるアドレナリンの奔流はその脅威の志向的対象が主体の意識経験に現れる前に起こる。
 さて、問題の段落へとたどり着いた。

誰もクオリアが存在しなくなることを望まないだろう。実際、意識的経験がその他についてほとんど関わらないなら、私たち皆にいくらかの機会が与えられるだろう。クオリアを無視する意識についての科学は部屋の中の像を無視しているのではなく、部屋「である」像を無視しているのだ。(ハンフリー 2017)

 しかしもちろん、私はクオリアが存在しないことを望んでいる!これは、クオリアに対する私の態度がシャーロック・ホームズネス湖の怪獣、雪男に対する態度とちょうど同じであるということだ。私はこれら志向的対象が、ワクワクするし、様々な用途において示唆的な伝承の話題であることが嬉しい。しかし私は誰かがそれらを実在のものだと信じることを全く望まない。もし彼らがそう信じるなら、彼らは有害な妄想に襲われている。(クオリアを信じることはそれとは対照的に差し障りがないか、悪くともその人がクオリアがするりと逃げ、捉えられず定式化できなず、それによって彼のモデルに恐ろしい穴が残ると考えている認知科学者なら困った妄想である)
 私が世界にある物体の感覚上の性質、すなわち色、音、香り、手触り、液体性や固体性などの存在を否定しているわけではないことを注記しておこう。それは私がドル、ポンド、スターリング、ユーロの存在を否定していないのと同じである。これらは可能な限り実在的な世界内の実在物であり、またそれらは精神上の出来事の性質ではなく、精神上の出来事によって表象される性質なのだ。そして(大雑把に言って、ボイルとロックが一次性質と呼んだ)他の多くの性質とは違ってこれら「二次」性質はそれら自身の存在と精神上の出来事によって表象されたものとの同一性を有している。ヒュームは心の「外的対象に自身を広げていく強い傾向」(人間本性論 1739)に注意を向けさせがちであるが、この素晴らしい表現はその比喩的な意図を露骨に匂わせている。ヒュームは心が、例えば灯台の光線のようにして対象の近しい表面に色をどうにかして投射しているという馬鹿げた提案をしていたわけではない。ヒュームの知見のより同情的な読み方は心が世界内の対象が心の所有者の需要や好みによく適した性質、ギブソン(1966, 1979)ならアフォーダンスと呼ぶものを持っているものとして扱う傾向を持っているということだ。アフォーダンスは実在する性質であり、世界のどこでも具体化されており、心はそれらを探知するのに適している。(さらに幅広い議論についてはデネット2015, 2017を見よ)しかしそれらは一つの種、または他の、普通は私たちホモ・サピエンスの(通常の)心の嗜好という言葉で特定され定義されているために、私たちの進化したユーザーイリュージョンの親切な幻想の例だと認識されうる。
 ここに謎がある。赤いものはどのように機会に似ているのだろうか?そしてその答えは、機会はもし私たちの頭の中で起こる物事でなければ機会ではないが、頭の中で起こるそれらが機会ではないように、世界内の赤いものはその赤さを私たちの頭の中で起こっている物事に依存しているが、赤いものが私たちの頭の中で起こっているわけではないということだ!(素晴らしくまた疑わしい性質についてはデネット1991, pp. 379-380を見よ)
 ハンフリーはクオリアについて実在論者になりたくないが、錯覚主義に対して不安を抱いている。「錯覚主義は人間の経験の謎を台無しにし、多くの人にとっては切り下げと映ってしまう」(ハンフリー2017)これは重要な反論ではないと私は考える。私はそこでは聖なる嘘、すなわち私が父親的態度で普及させたいと思う神聖で人生を救う(少なくとも人生を豊かにする)偽りを保存したいと思う環境を提示することができるが、クオリア非実在という衝撃的な真実を受け入れることはナッシーや雪男や人魚を信じることをやめることと同じように人を不安にさせるものではないだろうと思う。結局、「クオリア」は哲学者たちが発明した「テクニカルターム」であり、それを明らかにすることはエーテルや求心的な力を失うことと同じように人を悩ませるものではない。色はそれでも実在的で非常に美しいだろうし、香りはそれでも私たちの記憶に付きまとうだろし、痛みはそれでも忌まわしいだろう。そしてどこにでもある絶頂への探求はウォルター・ローリー卿の有名な強迫観念を矮小化するだろう。
 ハンフリーはスタン・ドゥアンヌは十分奇妙なことに「クオリア否定者」であるとついでに言った後何も言わずに、自身では巧みにクオリア実在論を回避している。

もし私たちが赤い光が網膜に触れ、主体が赤いクオリアについて主張するまでのそれぞれのニューロンから意識経験がどのように作り出されるか詳細に知っていたとしても、私たちはそれが何の役に立つのかを知らないだろう。(ハンフリー2017)

 ここで彼は網膜から報告までの道筋を媒介する(実在の)変数としてのクオリアにコメントすることなく飛ばしている。これは彼がクオリア-信念が私たちの心に引き起こされることの進化上の理由は何なのかを正しく探求するためにクオリアが脳(または心)内の出来事の実在の性質であることを必要としないことの認識の良い兆候である。そこで彼はクオリア実在論者であるという定義上の誤りを犯しているフォーダーとサールの両者に鋭く釘を刺している。彼らはウォルター・ローリー卿(想像上の)批判者であり、ローリーがそんなにも長い間存在しない何ものか、つまりエルドラドに突き動かされていたことに驚くだろう。これは不思議なことではない。しかしここで最初私を当惑させたハンフリーの主張に向き直る時が来た。

クオリアに晒されることがどのように人々の心理を変化させるのだろうか?どんな信念や態度が生み出されるのだろうか?それは自分たちが何者で、どんな世界に生きているのかについての人々の観念にどのように影響するのだろうか?

 彼の用語「クオリアに晒されること」は注意深く分析されなければならない。フランキッシュ(2016, p. 29)はハンフリーがが是認する読み方を見つける。

ハンフリーは刺激に対する内面化された評価反応が複雑なフィードバック・ループを形成するために入力される感覚信号と相互作用するとき、感覚が起こると主張しているのだ。それは内的に監視されたとき、この世のものとは思えないほど現象的な性質を持つように見えるのである。

 これらのフィードバック・ループの内的な監視こそが、素晴らしい志向的な対象を生産する、自分の内部で何が起こっているのかについての高次の信念を作り出している。「感覚経験をそのような謎めいていて、非物理的な高地へと押し上げることで、クオリアはあなた自身の表れの感覚を深め、豊かにする。あなたは厚みのある時間を生きていると知る(ハンフリー2017)」
 私はこれに納得していない。ハンフリーは不当なステップを組み込んだように思う。それはおそらくクオリアについての標準的で素朴な考え方の改善ではあるが、それでも1ステップ過剰である。ウォルター・ローリー卿は明らかに、彼の探求に深く豊かな意味を持って厚みのある時間を生きていたし、それは彼がエルドラドが妖精の国だとかエクトプラズムで出来ているという信念を持っていなかったことによるのでは決してない。彼はそれが実在で本当の黄金で出来ていると思っていた。人間の黄金に対する執着はそれ自体研究に値する話題で、例えば蜂蜜への愛着とは違ってその執着には直接的で明白な進化上の理由がない。しかし私は黄金の心理学的な重要性において非物質性の教説が何らの役割も果たしていないと考える。またそれと同様にハンフリーに従って、非物質性への信念、または逆説的な「不可能性」が自分たちの人生やそれをどう生きるのかに注意を向けさせるために一役買っていることに納得していない。彼は以下のように言っている。

クオリアを作り出すのがあなた自身の脳だとしても、あなたは感覚の特別な質を外的な世界の知覚対象に投射することはできない。そうすることであなたはある種の妖精の粉を撒き散らすことになる。あなたは世界を魔法にかける。この魔法の絵の具を取り去ると、世界はその重要性の多くを失うだろう。あなたはそこがあまり素晴らしい場所ではなく、またそこがあまり楽し苦なく、楽しみでないと理解するだろう。(ハンフリー2017)

私たちは感覚が「特別な質」を持っていると考えるかもしれないが、私が主張しているのは、事実私たちの感覚は(脳内の出来事と考えると)世界内のアフォーダンスという特別な質を表象すること(持つことではなく)としてより良く見えるということだ。感覚における私たちの信念の原因ではなく志向的対象と考えられた感覚は、非常に便利な錯覚である。これらの質を「投射すること」は世界内の物に、私たちにとっての使いやすさのために歪められたこれらの性質を与えることを意味しなければならない。世界内の物は実際にこれらの素晴らしい(または恐ろしい、退屈な、ワクワクさせる……)質を持っており、それはそれらについての事実であるのと同様に私たちについての事実でもある。これらの性質は意識的状態の性質ではなく、私たちがそれについて意識を持っている世界内の物の性質である。私たちがより内観的になり自身の中で起こる「物」(ハンフリーの言う感覚)へ注意を向けたなら、「それら」がクオリアを持った感覚であり、求心的な力と言う錯覚をなしで済ませるようにそれなしで済ませることを学ぶことができる便利な錯覚だと理解する。
 最後にイーノック・ランベルトが私の志向的対象についての考え方が人々を説得することの難しさについて鋭い診断を下しているのを見てみよう。

「全ての志向席対象が等しく作り出されるわけではない」…ローリーのエルドラドを見つける意図の表明によって表象される志向的対象と、ローリーの大変な旅の最後に谷の下にエルドラドを見たという幻覚を区別することは難しい。人々はそこには明白な心理学的差異があると考え、それらを表象の性質によって説明しようと望む。(個人的な会話で 2017)

 そう、そして人々が表象の性質を見ようとするのは間違っていない。しかし彼らは概ねその性質を間違った場所に見るのだ!この大きく明白な違いを説明する性質は、脳の神経上の表象に埋め込まれた機能的/因果的な性質であって、クオリアという魔法のような性質ではない。私たちは単純な事例を初めに見ることから初めてランベルトのローリーの幻覚という良い事例に這い上がっていくことができる。黒い背景の上の青い大文字のAを考えること、わざわざそれを想像すること、その幻覚を見ること、そして実際にそれを見ることの間の違いはなんなのだろうか?それぞれの場合に私たちは志向的対象を持っているが、それらを認知神経科学者の助けを借りずに区別する大雑把ですぐ使える方法も持っている。単なるAについての考えは非常に大雑把であり、それを一つのフォントや特定の青色に固定することに煩わされずとも実際に黒い背景の上の青い大文字のAについて考えていると心から主張することができる。想像されたAは、なんらかの努力を伴って意図的に主張されなければならないが、「意志の働き」(それについて私たちは深い知識を持っていないのだが)によってその色や形を容易に変えることができる。幻覚のAは非常に持続的だが、真面目な探求の元では離れていく傾向にある。(トマスが自分が何をしていたのか知っていなかったのではないかと疑うこと)見られたAはさらなる調査のあらゆる条件の元で頑強である。重要なことは、そこでは人はいくらかの間どのカテゴリーの志向的対象を見ているのか確信できないような境界線上の事例がありえるということだ。それは私たちが「内側から」知っていることの重要な部分であり、その知識には私たちが考えている志向的対象の非魔術的な性質を除いたクオリアについての何物も含まれない。
 このことは人間の脳は再生可能で「アクセス可能な」量の詳細においてそれらが喚起する表象を生み出すよう刺激されうるということを強く示唆する。赤く丸い林檎以外のものが原理的には可能な、その情報を求めた調査を持続させることはほとんど不可能に近く、私たちはびっくりハウスや他の奇妙な環境にいるのでない限りは、その証言を額面通り受け取る。幻覚はそれが珍しいから機能する。LSDを日常的に使用してトリップする人は、それがどれほど魅力的だろうと幻覚に騙されないだろう。想像と幻覚の境界性もまた曖昧で、パーティでのおしゃべりを聞いていると彼が騒々しいロバに似ていることに突然釘付けにされて、その確信を振り落すことができずに会話についていくのを妨げられるのは、厳密には幻覚ではないが近いものである。そして細部が乏しいレベルにおいても、そのような表象は情動的な効果を持ちうるし、その効果はそれらが現実から消えることで鈍くなるのではなく増幅される。環境について含んでいる情報が多すぎるかもしれない実際のセックスに関わることよりもポルノグラフティによってより欲望を喚起される人もいる。ゆえに私が今あなたにセックスについて考えさせたが、その文章について思考することはあなたの欲望を喚起しないだろう。その文章によって性的な空想に引き込まれることは思考することとは別物なのである。
 ランベルトの例に戻る時が来た。ローリーがエルドラドを信じたりそれを探したり、それに言及する問いや主張や命令を発すことその他は、志向的対象のたくさんの根拠である。ローリーのエルドラドは、他の人のエルドラドとはかなり異なっているかもしれない(サンタクロースがペールノエルと異なっているように)。長い日の終わりにローリーが彼の探求の幻覚を見たとしたら、彼はエルドラドについての思いもよらなかったことを発見するかもしれない。その街は彼が想像したよりも小さく、屋根は黄金ではなくテラ・コッタで覆われており、中央広場にエリザベス女王一世の巨大な像が立っている!しかしそのとき何が起こるのだろうか?彼が急いで彼のベースキャンプに戻り、彼の幻覚を疑ったり、エルドラドという志向的対象の内容に「目で見た証拠」を付け加えることは決して疑い得ないだろう。もしくは彼はその新しい細部に驚いて立ち止まるが、いざ日誌の記録しようとしたときにはその詳細は霧に消えるか、数秒前にそうであった様子からは変わったように見えるだろう。彼は自分が幻覚を見ていた、または見ていることを発見するだろうが、このことによって彼は新しく異なったエルドラド、すなわち南アメリカのジャングルに幻視したエルドラドを志向的対象として得る。この志向的対象は彼を探索へと駆り立てた志向的対象とは全く異なっているが、それは前の志向的対象が持っていなかったクオリアを持っていることによるわけではない。
 ハンフリーの主張に潜んでいる、白日のもとに晒したいと思っているが解決しようとは思わないもう一つのテーマがある。私たちの内観への嗜好、すなわち人生のいくつかの時点で私たちが自分たちが何者なのかを考えそれについて悩むであろう可能性が高いことは、生き残ったり繁殖するために必要な要素なのだろうか?ハンフリーはそうだと主張しているように見えるが、動物や昆虫が私たちが自身の人生を愛するように彼らの人生を愛するかどうか、彼らの自己保存と自己複製の本能は私たちのものより重いものであるように私には思える。

コメント

 この記事はDaniel C. Dennettの論文"A History of Qualia"(2017)を和訳してコメントをつけようというものである。原文で7ページくらいの論文なのでそんなに長くならないかと思いきやすでに17000字もあるがご容赦願いたい。内容としては冒頭の要約にあるようにクオリアの存在の否定が趣旨となっている。このクオリアの存在の否定という論点はデネットが長年主張してきたことだが、2017年にもなってまた新たな論文が出るということはなかなか浸透していないらしい。例えば今年出た『心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』という本でもクオリア論や表象主義といった見方にかなり好意的に書かれている。
 さて、この論文の冒頭二段落ほどは本筋にほとんど関わらないので無視して構わない。その後にはクオリアが哲学的な問題を引き起こしていて、デネット自身が80年台からそれに反論していた事情が述べられている。クオリアは人が自分の感覚や意識について考えるとき主観的に、またなんの媒介もなく直接知られる感覚質(例えば「赤さ」や「痛み」)だと考えられている。これは信念(「〜と思う」などの形で記述される思考)の直接的な内容であり、それを引き起こす原因でもある。そしてそのようなクオリアは普通に林檎を見ている時と林檎の幻覚を見ている時に現れる信念に共通した対象である。この意味でのクオリアは信念の対象の精神における非物理的な現れ、つまり「現象」と呼ばれるものだと考えられる。またクオリアの特徴として物理的な説明を拒否するというものがある。例えば「メアリーの部屋」という思考実験ではクオリアは「物理的な知識の全て」以外にメアリーが得る知識だとされているのだ。それゆえにこのクオリアは物理主義に対してチャーマーズが「意識のハードプロブレム」と呼ぶ問題を突きつけるのである。
 「1. 志向的対象は何でできているのか?」ではエルドラド(黄金郷)というものに例えながら「志向的対象」というものが分析されている。志向的対象とは、簡単に言えば言葉や考えが指している対象のことだ。例えば「林檎」という言葉は赤くて丸い果実を志向している。さて、エルドラドは存在しないが、ローリーが「エルドラド」と口にしたり考えたりするときその言葉の志向的対象ではある。そしてその志向的対象は例えば黄金で出来ているといった性質を持っている。ローリーが探し求めたのがエルドラドのイメージではなく実際のエルドラドであるように、信念の志向的対象はクオリアではなく実際の対象(例えば林檎)である、ということが言いたいらしい。このような志向的対象と信念が生まれる直接の原因(実際には脳神経の発火)の混同がクオリア問題を起こしているのだとデネットはいう。つまりローリーはエルドラドについての信念を持っていたし、エルドラドは実際にその信念の志向的対象だが、彼はそのクオリアを持っていたわけではない。というより実在しないエルドラドについてのクオリアなど持ちようがない。そしてローリーのエルドラドについての信念は小説がキャラクターを表象するようにエルドラドを表象している。つまりローリーは言語としての思考を持っていて、エルドラドは単にその言語的思考の対象なのである*2
 「2.クオリアとは何か?」では、クオリア論の起源が信念の志向的対象と信念の近接的原因を同一視することだという中心的なテーゼが詳しく展開される。「近接的な」というのは信念を引き起こす原因の系列のうちで直近のもの、つまり信念を直接引き起こすものを指している。これは例えば脳神経の相互作用などで、実在の林檎に光が反射することなどは直接の原因ではないのでそこに含まれない。ここでデネットはこの原因が「行動主義的」に、つまり自然科学によって記述可能な形で明らかにできると述べている。そしてまた信念の志向的対象が実在物ではなく架空のものかもしれないと扱う自身の立場を「錯覚主義」と呼んでいる。クオリア論では信念の志向的対象は必ず存在しなければならないと考えられ、幻覚の可能性などを加味してその志向的対象が外界にではなく私たちの意識の中に求めている。なぜなら幻覚の場合信念の志向的対象は存在しないことになるが、脳内のクオリアだとしておけばその場合でも志向的対象が存在するからだ。ここでデネットが提案している代案は、その志向的対象は実在しなくてもよいというものなのだ。その例がまさしくエルドラドである。
 さて、次の論点はクオリアは情動を引き起こすものだという点である。クオリア論者はそれらが人生を豊かにしていると主張するが、それが実在しないというデネットはそのような情動的な世界すら存在しないと主張するのだろうか。すなわち世界は物理学の方程式で記述される無味乾燥な世界なのだろうか。答えはもちろん否である。この点を詳しく見るために、デネットは次の節でハンフリーの議論を引き合いに出しながら自説を展開していく。
 「3.ニコラス・ハンフリーの発明」ではまずハンフリーの論文の一節が引き合いに出され、意識が二つの意味で「発明(invention)」であることが述べられる。一つには便利なものとして、もう一つにはでっち上げられた空想として意識は考えられる。前者に関してはデネットの意識についての見解と完全に一致している。意識は進化の過程で獲得された、我々の適応度を上げるための発明であるというのがデネットの基本的な姿勢だ。意識は自分や世界の状態を単純化して見るが、それは複雑な世界を複雑なまま認識していては素早く判断して行動できないからである。そして私たちの思考活動にはデカルトが考えたように中心点があるわけではなく脳内で分散処理されているから、脳内のモジュール間のインターフェースとして意識が存在している。
 二つ目の意味での「発明」についてはデネットは同意しかねているようである。この空想というのはクオリアのことであり、意識は実際には存在しないクオリアを「でっち上げた」ものでもあるのだとハンフリーは言う。この言い方だと実際上の有益さ、つまり適応度を高める価値を持った認識とそうでない情動を区別しているのではないかとデネットは懸念している。デネットにとってクオリア(この場合は単に質感)を伴った感覚もまた生存上の有益さを持っている。ここで言われる有益なクオリアは単に内的な信念の原因であるに過ぎず、実在物ではない。
 しかしながら次にデネットは現金の存在を否定しないのと同じように「感覚上の性質」の存在を否定しているわけではないと言う。これはかなり微妙なポイントであるように思われる。つまりここで言われているクオリアは感覚の質が誤って非物理的かつ実在的な現象に変化させられてしまったものなのだろう。それゆえに正しい意味での感覚の質は存在していると言える。この現金や感覚の質はロックが「二次性質」と呼んだもののことだと説明される。二次性質は物体に付属した性質(一次性質)ではなく私たちの側からそこに付与する性質のことを指す。この性質はなんらかの非物理的なものを指しているのではなく、ギブソンアフォーダンス*3と呼ぶような私たちにとっての有用さという側面で切り出された(表象された)性質のことだ。これら二次性質は実際にその性質(例えば赤色)として私たちの脳内に「現れて」いるわけではない。それは単に(見かけ上は言語という形で*4)表象されているだけに過ぎないのである。ここで言えるだろうことは、表象の志向的対象は物理的な物体として存在するし、表象もまた存在するが、それらは別のものであってそれを混同することがクオリアという問題を発生させるということだ。そしておそらくデネットはここで、クオリアの持つ情動を喚起させるような特徴はアフォーダンスという形で説明できると想定しているのだと思われる。脳神経の作用でしかない痛みがこんなにも「痛い」、つまり特別なものであるのはクオリアとして非物理的に与えられているからではなく、それが意味を持ったアフォーダンスとして表象されているからなのだ。
 ハンフリーは感覚内容が非物理的なクオリアと考えられることでそれらが人生に対する有意義性を獲得すると述べている。しかしデネットはそこに同意しない。なぜならウォルター・ローリーはエルドラドの非物理的なクオリアを持ってはいなかったが、それでもそのエルドラドは彼の人生に対して大きな意義を有していた。その人生に対する有意義性とはアフォーダンスのことであり、それは完全に物理的な性質なのだ。それゆえにクオリアが存在せず、意識が自然主義的に説明されたとしても今私たちが感じている世界の有意義性が失われるわけではない。
 最後にデネットは自分の理論において、対象の思考、知覚や幻覚などをどう区別できるのかを述べる。なぜこれが問題となるのかというと、デネットが「錯覚主義」として信念の志向的対象が実在しなくてもよいと述べてしまった段階で、実在する対象としない対象を区別する必要が生じるからである。しかし普通考えられるようにその違いは信念の原因となるクオリアからではなく、他の状況証拠などの背景知識との整合性によって判断される。セラーズは知識を感覚内容自体から正当化することを否定し、それを支持する背景知識による正当化の枠組みを主張したが、おそらくそのような全体論的な認識論を意識しているのだろう。
 
 この論文はアブストラクトで書いてあることとは違ってクオリアの存在否定はやや薄味に終わり、むしろその後、クオリア無しの世界観がどんなものかを説明することに主眼が置かれているように思われる。クオリア論の論駁については長年やっているのでもう飽きているのかもしれない。注目すべきは最近デネットが気に入っている概念「アフォーダンス」を用いてクオリア無しに感覚の情動性を説明している点だろう。これは以前のクオリア論批判にはなかった観点だと(私が見た限りでは)思われる。クオリア論者たちがクオリアにこだわる理由はまさにそこ、感覚の情動性にあるとデネットは見ているので彼としては重要な点なのだろう。例えば哲学的ゾンビの思考実験がこんなにも不気味に見えるのは、クオリアを欠いた人間が私たちと同じように世界の中で人生を生きていると思えないところから来ている。そのような不気味さを取り去ることができれば、この思考実験に対して「ゾンビだから何?」と返答することができるだろう。デネットはそのような情動的な感覚質が物理的に説明可能な性質であることを示して、その不安を取り去ろうとしているのだと考えられる。
 クオリア論の原理的な批判のパートには短くまとめられているからこそ凝縮された論証となっていて感心させられる。言ってしまえばクオリア論の誤謬とは「信念の志向的対象と信念の直接原因の混同」なのである。信念の志向的対象は実在する林檎かもしれないし、実在しないエルドラドかもしれない。そして信念の直接原因はもちろん脳神経に入力される信号であり、それがその志向的対象によって引き起こされたものであるかどうかは問題ではない。(エルドラドの場合例えば言い伝えなどによってその信念は引き起こされる)その信念が真実であるかどうかは、背景知識や状況証拠によって判断されるのであって、なんらかのクオリアを直接与えられることによるのではないのである。このことが可能となるためにエルドラドという架空の対象についての信念を持ったローリーという人物を引き合いに出して、信念の志向的対象が存在しなくてもよいという論証を行なったのだろう。またこの辺りの話は何度か触れたようにセラーズ的な認識論を継承したものだと思っている。その視点で見ると、私たちの持つ意識や信念は志向的対象とアナロジーの関係で結ばれているに過ぎない。すなわち、林檎という対象についての信念は当然林檎の形や色をしているわけではなく、それとアナロジカルな神経回路の興奮なのである。この説を持ち込むと、デネットが小説とそのキャラクターを引き合いに出している意図も見えてくる。小説は単に文字列であって、登場する人間それ自体を完璧に記述しているわけではない。それでも小説はキャラクターを描いているのであり、それと同じように意識は世界を表象している。
 最後に参考としてだいぶ前に書いたデネット『解明される意識』のレビューも貼っておく。『解明される意識』は本文で(デネット1991)と指示されていた文献である。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:https://mitpress.mit.edu/sites/default/files/9780262541916.jpg

*2:こういった考え方はセラーズが「心理的唯名論」と呼んだものから来ていると思われる。またこうしたクオリア論批判はセラーズが「与件の神話」と呼んだものの批判と似ている。セラーズの意図は観察によって知識を基礎づけるという考え方がうまくいかないことを示すことだったが、その過程で知覚システムに直接与えられる「感覚与件」というものが批判される。詳しくは以下。

経験論と心の哲学

経験論と心の哲学

*3:アフォーダンス - Wikipedia

*4:「言語という形で」と言い切れないのは実際には神経回路の興奮という形で表象されているからだ。表象は世界と同型であり、その表象と同型な言語によって私たちの意識は働いている。つまり意識的思考は世界を二回類推しているのである。その辺りはセラーズ"Science, Perception and Reality"の三つめの論文"Being and Being Known"で述べられている。

Science, Perception, and Reality (English Edition)

Science, Perception, and Reality (English Edition)

夏季合宿での発表『アナログ的な世界について』

大学院の夏季合宿で『アナログ的な世界について(About the Analog World)』という題で発表をした。先生方からいろいろとコメントをいただいたのでそれを思い出したり検討したりするついでに原稿とスライドを丸上げしておこうと思う。原稿はこの記事にそのまま載せ、スライドは以下のリンク先にアップロードしてある。
www.academia.edu

1. はじめに

 本稿での私の中心的主張は「世界はアナログ的だ」というものである。そのことを以下のような根拠から主張したい。すなわち、世界をアナログ的だと考えることにはいくつかの問題を解決できるというメリットがある。そしてメリットがあるならその理論を受け入れて良い。ゆえに私は世界はアナログ的だと考える。この主張を明確化するために、まずデネットの三つの「姿勢(stances)」「デジタル化(digitization)」などの議論を参考にデジタル/アナログという用語法について明確化する。次にアナログな世界が存在すると想定するメリットについて説明する。そのメリットとは生物学の哲学における「粒度問題(grain problem)」と呼ばれる問題を解決できる点と、デネットのいう「明示的イメージ(manifest image)」上での存在論を洗練することができるという点である。

2. 「リアルパターン」と「デジタル化」

2.1 リアルパターン(Real patterns)

 ”Real patterns”(1991)でデネットコンウェイの「ライフゲーム」を用いて三つの「姿勢」を説明している。ライフゲームとは以下の四つのルールに基づいてマス目(セル)が黒くなったり白くなったりするゲームである。

誕生 : 死んでいるセルに隣接する生きたセルがちょうど3つあれば、次の世代が誕生する。
生存 : 生きているセルに隣接する生きたセルが2つか3つならば、次の世代でも生存する。
過疎 : 生きているセルに隣接する生きたセルが1つ以下ならば、過疎により死滅する。
過密 : 生きているセルに隣接する生きたセルが4つ以上ならば、過密により死滅する。
ライフゲーム - Wikipedia

以上のライフゲームを支配する法則を見る視点は「物理姿勢」である。またその法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダー銃」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。

f:id:Re_venant:20170807140236g:plain
(ゴスパーのグライダー銃 https://ja.wikipedia.org/wiki/ライフゲーム

そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 そしてこのことはライフゲームに限らず私たちの認識対象全てに当てはまるものである。例えば生物の器官や有機体は一つのデザインのパターン、つまり「デザイン姿勢」において私たちに見出されるパターンとして存在している。他にも動物や人間の意図的な振る舞いは「志向姿勢」によって予想され、それが「民間心理学」として普及しているのだ。これらの姿勢はそれぞれのレベルでの対象の振る舞いを予想する上で役に立つ。仮に人間の振る舞いを脳神経の発火の様子から予想しようとすると、計算的なコストがかかりすぎそもそも予想が終わる前に行動が始まってしまう。だから大きなスケールの現象は適切なレベルのパターンによって説明、予想することが合理的なのである。それゆえにこれら諸姿勢は進化のプロセスの中で身についたものであるとデネットは主張する。またそれらはセラーズ(1963)のいう「明示的イメージ(manifest image)」を構成するものでもある。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものである。(中略)したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 そしてデネットは「明示的イメージ」上にあるこれらのパターンが存在論的に存在する「リアルパターン」であると主張している。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 この考え方はすなわち、志向姿勢において見出される信念や志向性というものがプラグマティカルに想定されるだけでなく、実在物であるということを意味する。しかし私はこの考え方には多少の問題点があると考えている。この点についてはのちに説明する。

2.2 デジタル化(Digitization)

 “From bacteria to Bach and Back”(2017)においてデネットは「デジタル化」という概念を導入している。これは例えば個々の言葉のトークンから抽象的な言葉のタイプを抽出することである。トークンは言葉の場合ならフォントや発音などの連続的な差異を含んでいて、一つとして同じものはないアナログ的なものである。反対にタイプは繰り返し可能なパターンとして現れてくる。

連続的な現象を非連続的な、全か無かの現象へ強制的に整理すること、これはデジタル化の核心である。[~]チューリングが述べたように、自然の何物も本当にデジタルなわけではなく、連続的な種差が存在する[~]。(Dennett 2017)

 三つの姿勢を持つことは小さいスケールから大きいスケールへと垂直的なレベルの差異を設定することである。それに対して「デジタル化」では同じサイズのトークンからタイプが抽出されるので水平的だと言える。しかし三つの姿勢によって見出されるパターン同士もアナログに連関していると考えることができる。つまりパターン認識についても本来無限の中間段階が存在して連続的な差異が考えられるのに、物理、デザイン、志向の三つの非連続的レベルが認識されているのである。それゆえこれも同様にデジタル化と呼ぶことができ、区別のため前者を垂直的デジタル化、後者を水平的デジタル化と呼ぶことにする。
 デジタル化される以前の世界、つまりデジタルなパターンの背後にある世界はアナログ的だと考えられる。トークンはそれぞれが無限の差異を持っていて同じものは存在しない。また三つの姿勢で見出されるパターンはそれぞれのスケール間に連続的な中間段階を含んでいると考えられる。しかしこのアナログに連関した世界を直接経験できるかどうかは定かでない。それでも私はここであえて世界はアナログ的であり、個的対象はデジタル的に考えることは誤りであると主張したい。なぜならデジタルな対象が非連続的で固定的だと考える立場では以下に見るような「粒度問題」といった問題が生じるからである。

3. 粒度問題(grain problem)

3.1 生物体/相互作用子

 生物個体とはなんだろうか。生物の進化という文脈において個体を定義することは難しい。例えば蜂などの社会性昆虫は個体ではなく群れのレベルで選択される。そのためこの群れを選択の単位、つまり生物学的な個体と呼ぶことも可能である。しかし蜂や蟻などの個々の生物体を個体と呼ぶこともできる。反対に群れよりもさらに大きな生態系そのものが選択と単位と考えることもできるかもしれない。つまり個体(選択の単位)は視点に相対的なのである。
 それでは遺伝子の塩基配列に対する「相互作用子(interactor)」から選択の単位を定義することができるのではないだろうか。しかしドーキンスの言う「延長された表現型」を考えるなら、遺伝子の表現型は生物体のみとは限らない。例えばビーバーの作るダムなども遺伝子の表現型として考えられる。それならばダムを含めたビーバーの生活全体が選択の単位(個体)となるのだろうか。これは直感に反するように思われる。結局はSterelny & Griffiths1999で述べられるように、相互作用子は視点、つまり「デザイン姿勢」に相対的に設定されるものに過ぎない。

デネット的な見方は生物学的なシステムはどれも、予想上または発見上有益であるようなそれについての「相互作用子姿勢」であるという限りにおいて相互作用子である、ということを提案している。(Sterelny & Griffiths 1999)

3.2 粒度/パターン

 ゆえに生物個体を有機体や遺伝子/相互作用子の対応から定義することは難しい。SterelnyとGriffithsは”Sex and Death”(1999)においてこれらの問題を「粒度問題(grain problem)」と呼んでいる。見方によって単位の大小は変動するが、どの大きさの単位が正当なものであるか決定することは難しい。そして私はこの粒度問題はデネットにおける「リアルパターン」の相対性から生じる問題であると考える。
 また生物個体という単位は「デザイン姿勢」を投影されることで見出されるものである。様々なスケールの「姿勢」を持つことができるために、私たちは様々なスケールの「粒度」を設定することができる。例えば細胞という単位、臓器という単位、個体という単位、個体群という単位、さらには生態系という単位などが考えられる。
 世界がアナログ的であると主張することは、これらのパターンが大きいレベルから小さいレベルまで連続的だと考えることである。確かに私たちが持ちうる視点は限られていて、これらの諸パターンが離散的に、別々のものとして存在しているように感じられるかもしれない。しかしそう考えるとレベルの間で還元や統一ができなくなる。だからアナログ的に繋がっているものを視点の違いによって離散的に解釈しているのだと考えるのである。
 デジタル化されたパターンが固定的な単位であると考えると、生物個体とは何かという問いに対して一意的な答えを用意しなければならなくなる。しかしそのパターンは相対的な視点によって見出されるものであることを認めれば、粒度問題に対して一つの答えを出す必要がないということになる。そして視点に相対的な諸パターンの内どれを説明に用いるのかについては、有用性という観点から決定される。例えば人間などの複雑なシステムの振る舞いを「志向姿勢」によって解釈することが適切なのは、それが人間の振る舞いを予測する上で有用だからである。

4. 漸進主義としてのダーウィニズム(Darwinism as Gradualism)

 “Darwin’s Dangerous Idea”(1995)においてデネットダーウィニズムは漸進的プロセスであると述べている。

どれほど唐突に断絶が発生して私たちの祖先が突然デザイン空間に現れようとも、奇跡や「期待される怪物」でない限りそれは自然淘汰圧のもとでの漸進的なデザインの発達である。(Dennett 1995)

デネットダーウィニズムアルゴリズムの集積であると考えている。またその上で我々が語るデザインを二つに分類している。それは「スカイフック」と「クレーン」であり、まずスカイフックは以下のように定式化される。

スカイフックは「精神が先行した」力やプロセスであり、あらゆるデザインやデザインに見えるものは究極的には精神を欠き、動機を持たない機構の産物だという原理の例外である。(Dennett 1995)

反対にクレーンはこの「精神を欠き、動機を持たない機構」つまりアルゴリズムによって構成されるものである。
 ダーウィニズム上で考えられるデザインはすべてクレーンであり、そしてクレーンはアルゴリズムに還元可能でなければならない。これは自然界に現れるすべてのデザイン、単細胞生物から私たち人間に至るまでが連続的、つまりアナログなスペクトラムの中に置かれるということだ。そして私たちはそのアナログな世界から三つの姿勢を用いて様々なパターンを見出している。 
スカイフックは段階主義としてのダーウィニズム上では認められないデザインである。しかしこのスカイフック、例えばある種のデザインを意図的に設計する神であったり、物質とは別の実体である(つまり物質と同じようにアルゴリズムに還元できない)魂が明示的イメージ上に存在していると主張することができるかもしれない。この場合、明示的イメージ上のものが実在すると主張するデネットはこれらスカイフックも実在物と認めなければならなくなるのだろうか。デネットは明らかに無神論者であり反二元論者であるから、物理的に還元できないこれらスカイフックの実在を認めるとは考えられない。ならばどのようにしてデネット存在論からこれらスカイフックを排除することができるのだろうか。
 私は「世界はアナログ的である」と主張している。つまり私たちの明示的イメージ上にあるパターンがどれほど離散的に見えてもそれらはアナログ的に連関しているのだ。スカイフックはそれ以外の世界とデジタル的に断絶している。この事実から、段階主義としてのダーウィニズム上ではスカイフックの存在は認められないのだ。ここで世界がアナログ的だという想定によって明示的イメージ上の存在論を制限する。つまりデジタル的に見えても実際はアナログ的であるようなもの以外に実在性を認めないのである。このことによって明示的イメージ上の存在論からスカイフック、つまり純粋にデジタル的なものを排除することができる。

5. 結論

 本発表では「世界がアナログ的である」と考えることの二つのメリットを紹介した。それは第一に「粒度問題」を解決(ないし回避)することができるという点と、第二にからスカイフックを明示的イメージから排除することでデネット存在論の問題を解決できるという点である。しかし依然としてアナログ的な世界に対する認識論は不足している。ゆえに私はここでは「世界がアナログ的である」と単に想定するにとどめている。

頂いたコメントとその検討

  • 量子論で考えられるような世界はデジタル的である

量子論にそこまで詳しくないのでこの点に関してはさらに調べてみる必要があると思う。ただしここで世界がアナログ的であると言っているのは形而上学的な想定であり、それと量子論の世界観は果たして一致するのかという問題もある。量子論で考えられる世界観が即形而上学的な世界観を構成するというのは物理主義に偏重している気もする。量子論というか物理学はこの発表でいう「物理姿勢」が投影されて見出されるパターンであるから、それはすでに「デジタル化」されてしまった物であるとも考えられる。

  • 個体のスケールの問題と心身問題は別

つまり個体のスケールの問題は「デザイン姿勢」ないでのスケールの問題で、心身問題、つまり「物理/デザイン姿勢」と「志向姿勢」の連絡はまた別の問題である。この点についてはいろいろなことを大雑把に語りすぎてしまったという反省がある。もう少し論点を絞ったほうが良かっただろう。

  • スカイフックの例としての人間のデザイン

魂や神というものは世界がアナログ的だということで排除できるかもしれないが、人間が作るデザインはどうだろうかというコメントである。しかしデネットは"From Bacteria to Bach and Back"で人間の「知的デザイン」もダーウィニズム的な、アルゴリズムに還元可能なプロセスとして扱っているから、これがスカイフックだとは一概には言えないと思う。ただこの点にもっと焦点を当てて議論するとより良いかもしれない。

  • 遺伝子がデジタルなものだと考えるから進化が可能となる

確かに遺伝子がアナログにつながっていると考えると自然淘汰の単位として機能しないだろう。そして種というものも(大部分は)相互に交配不可能なデジタルな単位である。つまりダーウィニズムの本質としての「漸進主義」と世界がアナログ的であることは別の話なのである。おそらくデネットがここで重要だと考えているのはレベル間の還元可能性であり、そこに世界が垂直的にアナログ的だという想定は必要ない。だからこの還元可能性の方に焦点を当てた方がいいかもしれない。私が念頭に置いていた「線引き問題」、つまりデザインと志向性などの間の境界線を決めることが難しいことは、世界がアナログ的であることを含意しないとも考えられる。なぜなら実際に世界はデジタル的に様々なレベルを持っているが、それを私たちが認識できないだけかもしれないからだ。この場合世界がデジタル的でもそれらが相互に還元可能ならデネット的には問題ないだろう。

  • デジタルな認識がなぜうまくいくのかを検討した方がいいのではないか

この発表ではデジタルな認識は単にプラグマティカルに有用であると述べるにとどめていたが、確かにその点を持って掘り下げてもいいかもしれない。今後の指針としていきたい。

参考文献

  • Richard Dawkins

The Selfish Gene 30th anniversary edition (Oxford University Press) 2006

The Selfish Gene (Oxford Landmark Science)

The Selfish Gene (Oxford Landmark Science)

  • Daniel C. Dennett

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
http://ruccs.rutgers.edu/images/personal-zenon-pylyshyn/class-info/FP2012/FP2012_readings/Dennett_RealPatterns.pdf

Darwin’s Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life (Simon & Schuster) 1995

Darwin's Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life

Darwin's Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

  • Kim Sterelny, Paul E. Griffiths

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations series) 1995

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations)

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations)

  • Wilfrid Sellars

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963

Science, Perception, and Reality (English Edition)

Science, Perception, and Reality (English Edition)

Daniel C. Dennett "The Singularity—an Urban Legend?" 和訳

"Edge"という評論系のサイトに哲学者ダニエル・デネットが「シンギュラリティ」*1について語った記事が載っているのを見つけた。

https://www.edge.org/response-detail/26035

2015年のものだが面白い内容なので人に勧めたところ日本語で読みたいとのことだったので和訳してみようと思う。

シンギュラリティ—都市伝説?(The Singularity—an Urban Legend?)

シンギュラリティ—AIが知性においてその創造者を凌駕し、世界の支配を受け継ぐ決定的な瞬間—は思案に値するミームである。それは都市伝説の特徴、つまり心底ぞっとさせるようなパンチライン(「ロボットに支配される!」)を伴った一定の科学的説得力(「あー、原理的には可能だと思うよ!」)を持っている。もしもくしゃみ、げっぷ、おならを同時にしたら死んでしまうのは知っているかな?(笑)。数十年に渡るAIの過大広告に伴って、シンギュラリティはパロディや冗談であるかのように考えられるかもしれない。しかしそれは顕著な説得力の増加を見せている。イーロン・マスクスティーヴン・ホーキングデイヴィッド・チャーマーズやその他の人々といった何人かの著名な転向者たちが出現して、私たちはどうしてそれを真剣に考えずにいられるだろう?この途方も無い出来事が発生するのが10年だったり100年だったり1000年後だったとしても、今から計画を始め、必要な障壁を準備して破局の兆候を凝視し続けるのが賢明なことなのだろうか?

反対に、私はこれらの警笛はより差し迫った問題、ムーアの法則や転換点*2に到達するための理論上のさらなる突破口を必要としない切迫した災害から私たちの目をそらさせてしまうと考えている。他の生物では得難い自然に対する理解を持ち、歴史上初めて自身の運命の多くの局面をコントロールすることができる数世紀にわたる時代の後に、私たちは思考できない人工的なエージェントのコントロールを失う瀬戸際に立たされ、早まって文明を自動操縦化しようとしている。そのプロセスは知らない間に進行している。なぜならそれぞれのステップは局所的に合理的であり、その申し出を拒むことができないからである。大きな数の計算を鉛筆と紙で行うのは、電卓がより早く計算を行いさらにほぼ完璧に信頼できる(切り捨て誤差はあるものの)今日では愚かなことであり、スマートフォンですぐに見られるのに電車の時刻表を記憶する理由があるだろうか?地図を見ることと道案内をGPSシステムに任せよう。GPSシステムは意識的ではない。つまりどのような意味においても思考していないが、あなたよりも現在地から行きたいところへの道を辿ることに秀でている。

さらに段階を上げて、医師たちはさらにおそらく人間の診断者の誰よりも信頼できる診察システムにますます依存している。命に関わる治療の選択をする際に、医師に機械の判断を無視して欲しいと考えるだろうか?これはIBMのワトソン*3を支える技術のもっとも成功して、現在もっとも有用な適用だろう。ワトソンが考える(もしくは意識を持つ)と正当に言えるかというのはまた別の話題である。もしワトソンが利用可能な情報から診断を下す際に人間の専門家よりも優れているとわかったなら、その診断を私たちに役立てる道徳的な義務が発生するだろう。機械の診断を無視する医師は医療ミスの訴訟を起こされるだろう。人間の営為のあらゆる領域がそのようなパフォーマンスを増幅させる補綴の機械の侵入を明確に禁止できない。そしてそれら自身が証明するかどうかにかかわらず、いつもそうであったように強制された選択は人間味を超えて信頼できる結果となるだろう。手作りの法律や科学でさえもが職人の陶芸や手編みのセーターと隣接したニッチを占めることになるかもしれない。

AIの黎明期においては、人工知能と認知シミュレーションの間に明確な線引きを強く主張する試みが存在した。前者は工学の一分野であり、それが効果的な方法だと判明したとき以外は人間の思考プロセスを真似ることなくどうにかこうにか開発されてきた。反対に、認知シミュレーションはコンピューターによるモデリングによって為される心理学や神経科学だとされてきた。人間のミスや混乱を認識可能な形で示すことのできる認知シミュレーションモデルは成功例であり、失敗例ではないだろう。野心における区別は生き残っているが、大衆の意識からは大部分が消去された。一般人にとってAIはチューリングテストに合格した、人間そっくりなものを意味する。最近のAIにおける躍進は人間の思考プロセス(私たちが自身が理解すると考えているもの)から関心を移し、彼ら自身に何をしているのか理解させようとせずにデータを掘り起こして重要なつながりやパターンを咀嚼して取り出すスーパーコンピューターの素晴らしい力を用いた結果である。皮肉にも、印象的な結果の数々は多くの認知科学者に再考を促した。脳がどのようにして未来を作り出すという素晴らしい仕事をデータマイニング機械学習の技術を適用することによってなし遂げるかについて学ぶべきことがたくさんあるとわかったのである。

しかし大衆は(最新のAIならどれでも遂行できる)それが可能などのブラックボックスも、実際にその箱の中にあるものが、気の散りやすさ、心配、感情的コミットメント、記憶、忠誠を伴う人間精神一般を付け加えることなしにその力を増加させる奇妙に不完全な、二次元の網目であっても、それは人間に似た知性的なエージェントに違いないと想像し続けるだろう。それは決して人間に似たロボットではなく精神のない奴隷であり、自動操縦の最近の進歩なのである。

思考の骨折り仕事をこのようなハイテク機器に任せることにどんな問題があるのだろうか?(1)私たちが自身を欺かず、(2)また私たちがなんとかして自分たちの認知的技術を萎縮させないようにすれば、何の問題もない。

(1)このように価値のあるアシスタントとなりうるものの限界を想像する(そして心に留める)ことはとても、とても難しく、1970年代初期のジョセフ・ワイゼンバウムの悪名高いイライザ*4以来知られるように人間はいつも過度に「理解」という能力を認める傾向を持っている。これは巨大な危険である。なぜなら私たちは常に彼らAIが実際に遂行することのできる以上のものを要求し、そうすべきでない時にその結果を信用してしまうという誘惑にかられるだろうからである。

(2)「使わなければ駄目になる」。私たちがこれらの認知的補綴器官により頼るようになるほどに、それらがシャットダウンしてしまったなら無力になるという危険性が高まる。インターネットは知性的なエージェントではない(えーと、幾つかの考え方ではそうである)がしかし私たちはそれがもしクラッシュしたらパニックになって社会が数日で崩壊してしまい得るほどにそれに依存している。それは私たちが今努力をして回避すべき出来事である。なぜならそれはいつか起こりうるのだから。

本当に危険なのは私たちより賢く私たちの運命の船長としての役割を奪い取る機械ではなく、それらの能力をはるかに超えた権威を譲渡される基本的には愚かな機械なのである。

コメント

今年2月に出たデネットの新刊"From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds"*5の最終章"The Age of Post-Intelligent Design"でこれと似た論点が展開されている。上に訳した記事では話題になっていないが、それ以前の「トップダウン」式のAIと違って機械学習など「ボトムアップ」式のAIはその動作の詳細に至るまで理解することのできるような機械ではない。社会が「自動運転」になっていくというのは技術的な知識を持たない一般人にとってだけではなく、科学者や技術者を含めた人類全体にとってそうなのである。そのような技術を指してデネットは"Post-Intelligent Design"と呼んでいる。ややファジーな言い方をすれば「魔法と区別のつかない科学」の時代とも言えるかもしれない。

創造できないものは理解できないということが真であり続けているにしても、創造することはもはやかつてのようにそれを理解することを保証しない。
While it may still be true that what you cannot create you cannot understand, creating something is no longer the guarantee of understanding that it used to be.
*6

この"Post-Intelligent Design"の時代において、機械の動作を理解する努力は放棄されて良いのだろうか?もちろん否である。もしスマートフォンが壊れて、それを修理するべき手段を知らないとしても買い換えれば事足りる。しかし、"Post-Intelligent Design"で満たされた文明が故障した時に修理の方法がわからないからといって、文明全体を取り替えてしまうことはできない。

他の論点として機械に対して過度の「理解」を認めてしまうという問題がある。これは人間が他者に対して"intentional stance"を見出すというデネットが長年してきた主張とつながっている。

コンピューターと関わるとき、コンピューターと関わっていることを知っているべきだ。
When you are interacting with a computer, you should know you are interacting with a computer.*7

つまり、機械が適切な情報の入力に対して適切な出力をしたとき、その機械が実際にはアルゴリズムに従って動作していてもそれが人間と同じように理解して動作していると誤解してしまう傾向を私たちは持っている。そのことに無自覚なまま"Post-Intelligent Design"の時代を生きると、機械を過度に信頼して重要な局面で間違った選択をしてしまいかねないとデネットは警鐘を鳴らしているのだ。

ちなみにこのようなAIが「理解」をしているかどうか、そもそも人間的な理解となんなのかという議論も"From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds"で展開されているので気になる方は読んでみてほしい。

*1:技術的特異点 - Wikipedia

*2:シンギュラリティのこと

*3:ワトソン (コンピュータ) - Wikipedia

*4:ELIZA - Wikipedia

*5:

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds

*6:Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.385). Penguin Books Ltd. Kindle 版.

*7:Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.403). Penguin Books Ltd. Kindle 版.

ハイデガー『存在と時間』(三)③

 



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事三つ目。

この記事では第二篇第三章(第六十一節〜第六十六節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に
re-venant.hatenablog.com

第二編第二章(第五十四節〜第六十節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com



なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第三章 現存在の本来的な全体的存在可能と、気づかいの存在論的意味としての時間性

第六十一節 現存在の本来的な全体的存在の劃定から、時間性の現象的な発掘へと至る方法的な歩みをあらかじめ素描すること

死へとかかわる本来的な存在は「先駆すること」として明らかになり、現存在の本来的な存在可能は「決意性」として提示された。

この二つの現象はどのように結合されるべきなのだろうか。

決意性が実存的な存在可能において「あかし」を与えられていたことから、決意性が自身の存在傾向において「先駆的決意性」をその本来的な可能性として提示するかどうかが問われなければならない。

決意性は身近な可能性に投企するのではなく、「もっとも極端な可能性」に投企する。

その場合にこそ決意性は本来性を得るのならどうだろうか。

また決意性は現存在の本来的な真理だから、それが死へと先駆することで本来性を獲得するならばどういうことになるのだろうか。

死への先駆によって決意性が持つ事実的な「先駆する性格」が本来的に理解されるならどうなるのだろうか。

実存論的解釈は現存在の存在に基づかなければならないから、先駆と決意性を「実存的な可能性」において理解し、その可能性を「おわりまで思考する」ことが必要となる。

このことによって初めて実存的に可能な本来的な全体的存在可能としての「先駆的決意性」が恣意的な構築でないことが明らかになる。

以上のようなプロセスによって実存論的解釈の方法論が提示されることになる。

その正しい方法には対象の根本体制をあらかじめ適切に把握することが含まれる。

このような方法論的思考は気づかいの存在意味の解釈を準備するものである。

他方この解釈はここでで分析された現存在の実存論的構造を「再現前化」しながら遂行されなければならない。

現存在は目の前にあるものではなく、気づかいとして存在する「自己」である。

気づかいのうちに含まれる自己は「ひと」と根源的かつ本来的に区別されなければならない。

そしてこのことによって初めて、どのような問いが「自己」に向けられうるのかが明らかになる。

このようにして十分理解された気づかいという現象に対して、次にその存在論的意味を探求する。

ここでさらに「時間性」が発見されるだろう。

この時間性は「先駆的決意性」に基づいて経験されることになる。

先駆的決意性に基づく時間性はその際立った様態であり、この時間性が「時間化」することによって現存在の本来的、非本来的存在が可能となる。

時間性という根源的な現象の提示は、ここまでで分析された現存在の構造の全てが時間的であり時間化の様態であることを示すことで遂行される。

第六十二節 先駆的決意性としての、現存在の実存的に本来的な全体的可能性

決意性は負い目のある存在へと投企していくが、この「負い目」を引き受けることを本来的に遂行するためには、決意性において現存在が不断に負い目のある存在として開示されるほどに、決意性が明瞭に理解できることが必要である。

このことはまた現存在の存在可能の全体が開示されることによって可能となる。

そして現存在の存在可能の全体が明らかになることは「おわりへと関わって存在している」こと、つまり死への先駆を意味する。

だから、決意性が本来的なものとなるのは、それが死への先駆としてある時なのだ。

決意性は、死へとかかわる本来的存在を、みずからに固有の本来性にぞくする可能な実存的様相としてじぶんのうちに蔵している。*1

決意性が投企していく負い目のある存在は現存在の存在だが、それは第一義的に「存在可能」として特徴付けられた。

だから、負い目のある存在は「負い目のある存在可能」なのである。

自身の存在可能へとかかわる存在の根源的なものは、死、すなわち現存在の際立った可能性へとかかわる存在である。

そして先駆においてこの死が可能性として開示される。

だから負い目のある「存在可能」に投企する決意性は「先駆的」決意性であって初めて根源的なものとなる。

負い目のある存在とは被投性と投企の「無-性」であったが、このことは現存在が「自身の無-性の無的な根拠である」と言い換えられる。

また死は現存在の実存の「不可能性」の可能性であるから、現存在の際立った「無-性」なのである。

そして気づかいとしての現存在はその時々にこの死(無-性)の被投的(無的)根拠なのだ。

だから死への先駆においてこのような現存在の根源的な無-性、すなわち負い目のある存在が開示されているのだ。

ゆえに先駆的決意性のみが負い目のある存在可能を本来的かつ全体的に理解する。

決意性によって「ひと」から呼び戻された「もっとも固有な存在可能」が本来的なものとなるのは、それが「もっとも固有な可能性」である死へと先駆する時である。

良心の呼び声行う現存在の単独化は「容赦のなさ」「先鋭さ」が伴うが、それらは死という関連を欠いた可能性が示すものである。

負い目のある存在はあらゆる罪や過失に先行している。

このことが明示的になるのは、追い越すことのできない可能性である死へとこのあり方が組み込まれる時である。

決意性が先駆することで死の可能性をみずからの存在可能へと取り戻したとき、現存在の本来的実存はなにものによってももはや追いこされることができない。*2

真理には、真とみなして保持すること、すなわち確信が属していたが、決意性における本来的真理にもそれに対応する確信がある。

この確信の確実性は、決意性が開示するもののうちで自分を保持することを意味する。*3

決意性は事実的な「状況」を現存在にもたらす。

この状況は目の前にあるものではないから未規定的だが、可能性を規定していく自由な決意において開示される。

このような決意性に帰属する確実性は、決意性によって開示された状況だけでなく、決意によって開示された事実的な可能性において自分を保持することであるべきだ。

だからこの確実性は現存在が決意における諸可能性に対して自由なあり方で保持されていることを意味するのだ。*4

決意の確実性は個別的な自己から世界内存在として投企し直すこと、すなわち「つかみ直し」に対して自由な状態で保持されることなのだ。

このことは非決意性への逆戻りではなく、「みずから自身を反復しようとする本来的な決意性」なのである。*5

これはさらに現存在の全体的な存在可能へと向かって自由に保持される傾向を不断に持っている。

このような不断の確実性が保証されるのは、決意性が現存在の最も確実な可能性、つまり死へと関わる場合である。

なぜなら死において個別化された現存在は自らをつかみ直さなければならないからである。*6

ゆえに死へと先駆することで決意性の確実性が獲得されるのだ。

しかし現存在は非真理のうちでも存在してもいる。

だから先駆的決意性が現存在を自由に保持するのは「ひと」という非決意性へと頽落する可能性に対してなのである。

明瞭となった決意性においては、現存在は存在可能のこのように未規定的なありかたから決意によって規定されていく。

決意によって確実になるとしてもこの存在可能は未規定的であり続ける。

このことが全体的に明らかになるのは、未規定的な可能性である死へと先駆することにおいてである。

すなわち本来的な決意性における未規定的な存在可能は死なのだ。

死が未規定的であることは不安という情態性において開示されている。

そして決意性はこの不安からの良心の呼び声に答えることなのだ。

不安は現存在の根拠における無-性、すなわち死への被投性を開示している。


以上から先駆的決意性が本来的かつ全体的な決意性であることがわかった。

反対にこのことによって先駆が完全に実存論的に了解されたことになる。

それは現存在そのものにおいて「あかし」を与えられた存在可能の様態であり、決意性の本来性の可能性なのだ。

また先駆は実存的に「あかし」を与えられた決意性のうちに隠され、そのうちでそれとともに正当化されたものである。

だから

本来的に「死を思うこと」は実存的にみずからを見とおすにいたった〈良心をもとうと意志すること〉なのだ。*7

そして実存によって正当化された決意性によって、先駆を経由して「現存在の本来的な全体的存在可能」が共に正当化されたことになる。

だから「現存在の本来的な全体的存在可能」が現象的に示されたのである。

以上のように現存在の実存の存在論的解釈が行われてきたが、この根底には実存についての一つの理想があったのかもしれない。

このことは積極的な必然性において把握されなければならない。

哲学はその前提をただ否定したり肯定したりするだけでなく、前提を把握してそれが何のためにあるのかを探求していくものである。

その機能を持っているのが前節で述べられた「方法論的な省察」なのだ。

第六十三節 気づかいの存在意味を解釈するために獲得された解釈学的状況と、実存論的分析論一般の方法的な性格

先駆的決意性によって現存在を現象的に見ることができるようになり、その全体的存在可能を解釈が「あらかじめ持つこと」にもたらされた。

そしてその解釈を導く理念である「あらかじめ見ること」も規定されたのである。

また目の前にあるものに対置される現存在の構造が具体化されたことで、解釈の分節化「あらかじめ掴むこと」が十分に遂行された。

ここまでの分析は「私たちがそのつど自身それである存在者は、存在論的にはもっとも距たっているものである*8」というテーゼを具体的に論証してきた。

このテーゼは現存在が日常的には「ひと」へと頽落している事に根拠づけられている。

だから現存在の根源的な存在は「ひと」に方向付けられた解釈傾向に「逆行して」、「奪い取られ」なければならない。

またそれゆえに実存論的分析は日常的な解釈に対して常に「暴力的」なのだ。

しかしこの暴力性はどのような解釈にも伴っている。

なぜなら解釈のうちで理解が形成され、理解は投企という構造を持っているからだ。

存在論的な解釈は固有な存在に向けて投企(理解)しその構造を概念化する。

この投企には従うべき道標があるのだろうか。

さらに現存在が自分の存在する仕方に従って自分の存在を隠すとすればどうだろうか。*9

このことを考えるために「現存在の分析論」そのものが明瞭にされなければならない。

現存在には自己解釈が属していて、配慮的に気づかうことで世界を覆いをとって発見しながら、「配慮的気づかいそのもの」も発見されている。

すなわち現存在は自分の存在を一定の可能性の中で理解しているのだ。

だから現存在の存在への問いは現存在のあり方を通じて準備されていたことになる。

しかし現存在の本来的な実存は何を以って非本来的なものと区別されるのだろうか。

ここまでの分析には「存在的」な前提があったのではないか。

しかし現存在は第一に事実的な(「存在的」)存在可能や頽落した「ひと」として存在していて、存在論的解釈によって固有な可能性(先駆的決意性)にもたらされる。

だから存在論的な解釈は「存在的な」諸可能性、すなわち様々な事実的存在可能の様式を根底に置き、その可能性を実存論的な可能性へと投企することでしかない。

ゆえに日常的なあり方に逆行した「暴力的な」解釈の傾向は、それが開示する現存在に適合したものなのである。

現存在は死以上の「審級」を持たないから、死への先駆的決意性は恣意的な可能性ではない。

しかしそれが恣意的な可能性ではないとしても、ここまでの実存論的分析はそれによって正当化されるのだろうか。

この分析の正当性が基づいている理念はどこからその権利を得てきたのだろうか。

この理念は現存在が前存在論的に持っている存在了解によって暗示されている。

この存在了解によって提示されているのは、現存在は存在可能として私たち自身であり、その存在可能においてはその存在者であることが問題なのだ、ということだ。

だから現存在はどのような解釈においても「じぶんをそのつどすでに理解してしまっている」のである。

ゆえの先に述べた実存理念は現存在自身が持つ存在了解をあらかじめ素描するものであったのだ。

この理念に導かれて気づかいという構造が解釈され、そこで実存と実在性を区別するための基礎が与えられた。

そのような実存理念は、実存と実在性という二つの「存在」の区別を行うために「存在一般」の何らかの理念を前提としているはずである。

しかしこの「存在一般の理念」は現存在の存在了解を明晰にすることで得られるということであった。

そうならばこの分析は一つの循環のうちにあることになる。

この循環とはすなわち、「実存並びに存在の理念が「前提とされた」うえで、「そののちに」現存在が解釈され、そこから存在の理念が獲得されようとしている*10」ということだ。

しかし存在論的分析は前提から帰結を推論形式にしたがって導く演繹ではない。

そして理念を「あらかじめ定立すること」は理解しながら投企するという性格を備えていて、そこでなされる解釈によって現存在が初めて言葉として現れてくる。

ゆえにこの循環は避けることのできないものなのだ。

循環を批判する考え方は、頽落している「ひと」にとって投企することが理解できないということにも基づいている。

理解についての循環を問題とするのは、理解が現存在の存在体制であること、そして現存在が気づかいという在り方をしていることを理解していないことの証拠である。

以上で根源的な実存論的分析における解釈学的状況の意味が明らかになった。

先駆的決意性の分析によって本来的な真理という概念に到達したが、さしあたりの存在了解は存在を「目の前にあること」として考えてこの真理を覆い隠している。

しかし真理が存在する限りで存在が与えられ、真理のあり方に従って存在了解も変容する。

ならば本来的な真理は現存在の存在とその存在一般の了解を保証するものでなければならない。

すなわち存在論的な「真理」は「根源的な実存的真理」に基づいているのである。

この「もっとも根源的で、かつ基礎となる実存的真理」こそが「気づかいの存在意味が有する開示性」なのだ。

これを明らかにするために、気づかいの構造をくまなく分析しておく必要がある。

第六十四節 気づかいと自己性

気づかいという構造はここまでの分析で分節化(解釈)されてきた。

そこで気づかいの構造の全体性の統一への実存論的な問いが持ち上がってくることになる。

現存在はそのつど自分自身「である」というあり方において統一的に実存している。

ここで実体と考えられてきた「自我」というものが構造全体を統一しているように見えるかもしれない。

他方、ここまでの分析でも現存在は「誰」なのかという問いが持ち上がっていて、その答えは「ひと」だということだった。

現存在の本質が「実存」にあるなら、この「自己」が実存論的に把握されなければならない。

現存在は気づかいという構造を持っているから、この気づかいと自己の関係が明らかにされる必要がある。

出発点として設定される日常的な自己解釈は、現存在が自分に言及するのは「私と語ること(Ich-sagen)」においてであるということだ。

この「私」は単純で、決して述語にならない主語だと見なされている。

しかし「単純性」「実体性」「人格性」といったカテゴリーにおいて実存論的な分析を行うことはできない。

カントは「純粋理性の誤謬推理」で「自己」に実体性を与えられないこと、そして「自我」は「私は考える」であることを示した。

しかし不適切な存在論的基礎に基づいたために、自己を目の前にある主観と捉えてしまったのである。

自我は「私は考える」ではなく「私はなにごとか考える」である。*11

この「なにごとか」が世界内部的な存在者を指しているなら、これは世界を前提においている。

そして世界によって自我の存在体制は規定されているのだ。

すなわち、「私と語ること」は何らかの仕方で世界のうちにすでに存在している存在者、つまり世界内存在を指しているのである。

しかし、頽落することで日常的な自己解釈では自己は配慮的に気づかわれた世界の側から理解される。

ここでの自己は「不断に自同的でありながら未規定的で空虚で単純なもの」である。

本来的な自己性は気づかいの本来性に即してのみ読み取られる。

そしてこの本来性によって「不断に自己であること(Ständigkeit des Selbst)」が明らかになる。

このことが日常的には自己という実体が永続することと捉えられているのだ。

そして本来的な存在可能によって「立場を獲得している」という意味での「不断に自己であること」が見てとられるようになる。

この立場の堅固さは、頽落した「ひと」の非自立性の反対の概念である。

そして自立性は先駆的決意性に他ならない。

沈黙し、不安を要求する決意性が本来的な「自己」を形作るなら、それは「私」とは語らない沈黙した存在である。

このような沈黙した自己こそが自我の問題への現象学的な地盤となるのだ。

気づかいの構成要素としての本来的実存が現存在が自己であり続けるような存在体制を与えている。

ゆえに気づかいが何らかの「自己」によって基礎づけられる必要はない。

そしてこのように自己であり続けることには、気づかいの構造に即して、自己でないことに頽落することが付随している。

このように気づかいの構造に含まれた自己性を明らかにすることが、気づかいの「意味」の解釈なのである。

第六十五節 気づかいの存在論的意味としての時間性

気づかいと自己性の連関の分析は、現存在の構造全体をとらえるための最後の準備でもあった。

気づかいの意味、そして「意味」とはなんなのだろうか。

以前に(第三十二節)分析されたことだが、意味とは理解という投企の対象である可能性、すなわち「それにもとづいて」であり、この「それにもとづいて」においてあるものがその可能性から理解される。*12

だから気づかいの意味を明らかにすることは、現存在の根源的解釈において作動している理解を詳しく見て、その理解によって理解の「それにもとづいて」を明らかにすることだ。

また理解されるものは先駆的決意性のうちで開示されている現存在の存在である。

この気づかいの意味は、現存在の存在を気づかいとして構成することを可能とするものだ。

だから問われているものは、分肢化した気づかいの構造全体を統一的に可能にするものは何なのかということである。

厳密には意味は「存在」を理解する際の第一次的な「それにもとづいて」を意味する。

世界内存在は自身の存在と共に気づかわれる世界内部的な存在者の存在を理解している。

存在者の存在が意味を持つのは、その「それにもとづいて」(可能性)へと現存在が投企(理解)している場合のみである。

存在を理解するという第一次的な投企が意味を「与える」。*13

だから存在の意味の探求は、存在理解の「それにもとづいて」を主題にするのであり、その存在理解はすべての存在の根底にある。*14

現存在は実存することで自らの存在を理解しているが、その理解は事実的な存在を形成している。

このような事実的な実存を可能にするものは何なのだろうか。

根源的な投企によって投企(理解)されるものは先駆的決意性であった。

この本来的な全体的存在を統一的に可能にするのは何なのだろうか。

先駆的決意性はもっとも固有な可能性へと関わることであり、それが可能になるのはそのもっとも固有な可能性が「到来」することが可能であり、それを可能性として開示することができることによる。

もっとも固有な可能性に先駆しながらそのうちで自身を「到来」させることが「将来(die Zukunft)」という現象なのである。

それはまだ実現していない未来ではなく、「まさに来ようとしているもの」なのだ。

そして先駆が本来的な将来的存在を可能にし、さらに先駆は現存在の存在が将来的なものであることによって可能となる。

先駆的決意性は現存在を負い目のある存在として理解する。

負い目のある存在とは「無-性」の無的な根拠「として存在していること」だ。

被投性とは「みずからがそのつど存在していたがままに本来的に現存在として存在していること*15」だ。

このことが可能となるのは「将来的な」現存在が「既在(Gewesen)」として存在することができる場合のみである。

現存在は既在としてある時だけ「回帰的に」将来的なものとして自身に到来することができる。

死へと先駆することは、既在へと回帰しながら到来することなのである。

そして決意において周囲世界的に存在するものを開示することは、この存在者を「現在化」することによって可能となる。

このような「既在しつつある現在化する将来」という統一的な現象を「時間性」と名付ける。*16

この時間性は本来的な気づかいの意味なのだ。

そしてこの時間性からは「未来」「現在」「過去」という通俗的な時間概念は取り除かれなければならない。

それらの時間概念は非本来的な時間性から出現する派生的なものにすぎないからである。

先に問われた気づかいの構造の統一は、時間性のうちに存している。

気づかいの構造の、〈じぶんに先だって〉は「将来」に〈内ですでに存在していること〉は「既在」に、〈のもとでの存在〉は現在化に対応する。

この「先」を通俗的な時間観念からくる前後関係と捉えてはならない。

そうしてしまうと、現存在が「時間の中で」通過していく目の前にあるものとなってしまうからだ。

この「先」は将来を意味し、現存在が将来的に存在しうるのはそれが存在可能だからだ。

投企は将来に基づき、また投企は実存することの本質的性格の一つだから、「実存的なありかたの第一次的な意味は将来なのである」。

同様に既在も現存在の実存論的な意味であるから、現存在はそれが存在する限りにおいて被投的なのだ。

しかしそれは目の前にあるもののように過ぎ去ってしまっていることを意味しない。

現存在は常に既在として存在しているのである。

だから事実性の第一次的な意味は既在なのである。

ゆえに気づかいの被投的投企という構造は「先」「すでに」という表現によって、実存的なあり方と事実性の時間的な意味を示していたのである。

このような暗示は気づかいの第三の契機〈のもとでの存在〉にはない。

これは頽落が第一次的にもとづく「現在化」が将来と既在とによって「鎖されて」いることを示している。

現存在は決意において頽落から個別化され、開示された状況で「現」として存在する。

このようにして時間性によって実存、事実性、頽落が統一されて気づかいの構造全体が把握される。

時間性は存在するのでなく時間化するものだが、それが気づかいの意味「である」などと言わなければならなかった。

そのことは存在一般の理念が明らかになって初めて理解可能となる。

時間性は様々な様式で時間化を行い、そのことによって本来的、もしくは非本来的に存在することができる。

「将来」「既在」「現在化」によって示されるのは「じぶんへ向かって」「の方へと回帰して」「を出会わせる」という性格である。

さらにこれらは「脱自」としての時間性を示している。

時間性とは、根源的な「じぶんの外にあること」それ自体そのものなのである。*17

このことから「将来」「既在」「現在化」を時間の「脱自的なあり方(Extasen)」と名付ける。

通俗的な時間領海においては時間は「いま」の連続と考えられるが、その考え方ではこの脱自的な性格が水平化されてしまう。

時間性の脱字的な統一においては「将来」が優位性を持っている。

本来的な時間性は、「将来的に既在しながら、そのことではじめて現在を喚起する」ことで時間化を行う。

このことは非本来的な時間性にも現れてくる。

死へと関わる現存在は「自分が終焉する終わり」を持っているのではなく、有限的に実存する。

このことは本来的な将来が有限的な将来として提示されることから明らかになるだろう。

しかし、自身の死後も時間は流れていき、将来には無限の事柄が含まれているのではないだろうか。

これらはその通りであるが、しかし根源的な時間性についてあてはまる議論ではない。

問題となるのは「自分へと到来させること」自体がどのように規定されているかである。

「到来」の有限性は終焉ではなく時間化そのものの性格であり、その性格は現存在が投企(理解)することの可能なもののうちで示されている。

なぜなら本来的な将来は追い越しえない可能へと投企することで「じぶんへ向かって」いることだからである。

有限的で本来的な時間性が、どのようにして無限的で非本来的な時間性へと派生するのかが問題である。

「現存在の意味は時間性である」というテーゼは、これまでの分析の土台から離れて現存在の具体的な根本体制に即して確証される必要がある。

第六十六節 現存在の時間性、ならびにその時間性から発現する、実存論的分析のより根源的な反復という課題

時間性に基づいて現存在の存在体制を示すことを「時間的」な解釈と名付ける。

そこでの課題は、現存在の本来的な全体的存在可能を時間性に基づいて分析し、さらには非本来的なあり方も視野に収めることである。

すなわち、これまでの実存論的分析を時間性という観点から反復することで、日常性の時間的な意味が明らかにされなければならない。

しかしそれは単なる反復ではなく、考察の関連性を明確にし、偶然や恣意を取り除くものである。

「自己性」が気づかいの構造、そして時間性の構造の中で分析されたので、自己であることや自己でないことの時間的な解釈に特別な重要性が生じている。

さらにその解釈によって「歴史性(Geschichtlichkeit)」としての「時間化構造」が根源的に捉えられるのである。

そして日常性と歴史性の時間的解釈によって「根源的時間」の分析が準備されたことになる。

現存在は第一次的に自分を自身のために役立てる。

自分を使用し尽くすことで、現存在は時間を使用し、それによって時間を計算するのである。

さらに時間を計算に入れることが世界内存在を構成する。

覆いをとって発見することが時間を計算しつつ行われることで、発見されたものと時間の中で出会うことになる。

すなわち世界内部的な存在者は時間の中に存在するのである。

このように時間に規定されたあり方を「時間内部性」と名付けることにする。

この時間内部性は根源的時間に属する時間化の一つの様態として現れる。

以上のような分析によって、現存在の存在論の「錯綜したありかた」に対する見通しが与えられるようになるだろう。

コメント

存在と時間』第三分冊はこれで終わりになる。

この章では「死への先駆」と「決意性」という二つの現象の間にどのような関係があるのかということが考察された。

その結論とは、決意性の本来的なものが死への先駆への決意性、すなわち先駆的決意性なのだ、というものだ。

そしてこの先駆的決意性が「自己」を与えることや、気づかいの意味としての時間性の分析の導入もなされている。

時間性については第四分冊の主題となりさらなる考察が行われるだろう。


第六十二節の「決意の確実性」の部分がなかなか難解だった。

現存在は気づかわれるものと一体のものとして開示され、その開示性が「真理」と呼ばれている。

「決意性が開示するもののうちで自分を保持すること」といった書き方は、自分(現存在)と開示されるものが区別されないことから読みづらくなっているのだと思う。

他に第六十五節での「意味」が「投企の「それにもとづいて」」であるといった記述も最初何のことだかわからなかった。

意味は解釈によって分節化された有意義性、すなわち世界の可能性の一部分である。

理解は可能性へと投企することと定義されていて、解釈は理解を「あらかじめ持つこと」としてその契機に含んでいる。

つまり意味を解釈することは理解という形で可能性へと投企することなのだ。

ゆえにこの「それにもとづいて」を理解され投企される対象となる可能性と考えるなら、それが意味であるというのにも一応の納得はいく。

そして解釈することで世界が分節化されて意味が生み出されるので、存在の意味を解釈することで初めて存在に意味が与えられると言われるのだろう。


決意性によって「つかみ直」される自己、存在論の分析の循環、時間性における回帰という性格、以上のようにここでの論考にはループする構造が幾つか登場する。

現状ではこれらは別々のものだがそれらが統一的な現象として示されてくるのかが気になっている。

特に統一されなくても複数のループが絡み合う構造として現存在を考えるのも面白そうだ。

*1:1.2.3.62.917 p372

*2:1.2.3.62.922 p379

*3:現存在=開示性。開示されるというのはそこで存在すること。

*4:状況と決意における可能性の両方で保持されること?

*5:時間性において現存在が自分に回帰するという議論と関係があるかも。

*6:決意が開示する「状況」の本来的なもの=「死」であるということが言いたいのだろう。

*7:1.2.3.62.926 p387

*8:1.2.3.63.932 p394

*9:現存在自身が頽落への道標を与えているということ?

*10:1.2.3.63.943 p408

*11:フッサールの影響が感じられる。

*12:理解するものとされるものの区別はないので、「それにもとづいて」は現存在の存在可能でもあり、ゆえに理解は投企である。

*13:1.2.3.65.966 p450

*14:存在することと開示は一致するから?もしくは存在に常に存在了解が備わっているから?

*15:1.2.3.65.969 p454,455

*16:死への先駆(既在へと回帰しながら到来すること)→決意(現在化)の流れ。

*17:1.2.3.65.978 p469