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ハイデガー『存在と時間』(三)③

 



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事三つ目。

この記事では第二篇第三章(第六十一節〜第六十六節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に
re-venant.hatenablog.com

第二編第二章(第五十四節〜第六十節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com



なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第三章 現存在の本来的な全体的存在可能と、気づかいの存在論的意味としての時間性

第六十一節 現存在の本来的な全体的存在の劃定から、時間性の現象的な発掘へと至る方法的な歩みをあらかじめ素描すること

死へとかかわる本来的な存在は「先駆すること」として明らかになり、現存在の本来的な存在可能は「決意性」として提示された。

この二つの現象はどのように結合されるべきなのだろうか。

決意性が実存的な存在可能において「あかし」を与えられていたことから、決意性が自身の存在傾向において「先駆的決意性」をその本来的な可能性として提示するかどうかが問われなければならない。

決意性は身近な可能性に投企するのではなく、「もっとも極端な可能性」に投企する。

その場合にこそ決意性は本来性を得るのならどうだろうか。

また決意性は現存在の本来的な真理だから、それが死へと先駆することで本来性を獲得するならばどういうことになるのだろうか。

死への先駆によって決意性が持つ事実的な「先駆する性格」が本来的に理解されるならどうなるのだろうか。

実存論的解釈は現存在の存在に基づかなければならないから、先駆と決意性を「実存的な可能性」において理解し、その可能性を「おわりまで思考する」ことが必要となる。

このことによって初めて実存的に可能な本来的な全体的存在可能としての「先駆的決意性」が恣意的な構築でないことが明らかになる。

以上のようなプロセスによって実存論的解釈の方法論が提示されることになる。

その正しい方法には対象の根本体制をあらかじめ適切に把握することが含まれる。

このような方法論的思考は気づかいの存在意味の解釈を準備するものである。

他方この解釈はここでで分析された現存在の実存論的構造を「再現前化」しながら遂行されなければならない。

現存在は目の前にあるものではなく、気づかいとして存在する「自己」である。

気づかいのうちに含まれる自己は「ひと」と根源的かつ本来的に区別されなければならない。

そしてこのことによって初めて、どのような問いが「自己」に向けられうるのかが明らかになる。

このようにして十分理解された気づかいという現象に対して、次にその存在論的意味を探求する。

ここでさらに「時間性」が発見されるだろう。

この時間性は「先駆的決意性」に基づいて経験されることになる。

先駆的決意性に基づく時間性はその際立った様態であり、この時間性が「時間化」することによって現存在の本来的、非本来的存在が可能となる。

時間性という根源的な現象の提示は、ここまでで分析された現存在の構造の全てが時間的であり時間化の様態であることを示すことで遂行される。

第六十二節 先駆的決意性としての、現存在の実存的に本来的な全体的可能性

決意性は負い目のある存在へと投企していくが、この「負い目」を引き受けることを本来的に遂行するためには、決意性において現存在が不断に負い目のある存在として開示されるほどに、決意性が明瞭に理解できることが必要である。

このことはまた現存在の存在可能の全体が開示されることによって可能となる。

そして現存在の存在可能の全体が明らかになることは「おわりへと関わって存在している」こと、つまり死への先駆を意味する。

だから、決意性が本来的なものとなるのは、それが死への先駆としてある時なのだ。

決意性は、死へとかかわる本来的存在を、みずからに固有の本来性にぞくする可能な実存的様相としてじぶんのうちに蔵している。*1

決意性が投企していく負い目のある存在は現存在の存在だが、それは第一義的に「存在可能」として特徴付けられた。

だから、負い目のある存在は「負い目のある存在可能」なのである。

自身の存在可能へとかかわる存在の根源的なものは、死、すなわち現存在の際立った可能性へとかかわる存在である。

そして先駆においてこの死が可能性として開示される。

だから負い目のある「存在可能」に投企する決意性は「先駆的」決意性であって初めて根源的なものとなる。

負い目のある存在とは被投性と投企の「無-性」であったが、このことは現存在が「自身の無-性の無的な根拠である」と言い換えられる。

また死は現存在の実存の「不可能性」の可能性であるから、現存在の際立った「無-性」なのである。

そして気づかいとしての現存在はその時々にこの死(無-性)の被投的(無的)根拠なのだ。

だから死への先駆においてこのような現存在の根源的な無-性、すなわち負い目のある存在が開示されているのだ。

ゆえに先駆的決意性のみが負い目のある存在可能を本来的かつ全体的に理解する。

決意性によって「ひと」から呼び戻された「もっとも固有な存在可能」が本来的なものとなるのは、それが「もっとも固有な可能性」である死へと先駆する時である。

良心の呼び声行う現存在の単独化は「容赦のなさ」「先鋭さ」が伴うが、それらは死という関連を欠いた可能性が示すものである。

負い目のある存在はあらゆる罪や過失に先行している。

このことが明示的になるのは、追い越すことのできない可能性である死へとこのあり方が組み込まれる時である。

決意性が先駆することで死の可能性をみずからの存在可能へと取り戻したとき、現存在の本来的実存はなにものによってももはや追いこされることができない。*2

真理には、真とみなして保持すること、すなわち確信が属していたが、決意性における本来的真理にもそれに対応する確信がある。

この確信の確実性は、決意性が開示するもののうちで自分を保持することを意味する。*3

決意性は事実的な「状況」を現存在にもたらす。

この状況は目の前にあるものではないから未規定的だが、可能性を規定していく自由な決意において開示される。

このような決意性に帰属する確実性は、決意性によって開示された状況だけでなく、決意によって開示された事実的な可能性において自分を保持することであるべきだ。

だからこの確実性は現存在が決意における諸可能性に対して自由なあり方で保持されていることを意味するのだ。*4

決意の確実性は個別的な自己から世界内存在として投企し直すこと、すなわち「つかみ直し」に対して自由な状態で保持されることなのだ。

このことは非決意性への逆戻りではなく、「みずから自身を反復しようとする本来的な決意性」なのである。*5

これはさらに現存在の全体的な存在可能へと向かって自由に保持される傾向を不断に持っている。

このような不断の確実性が保証されるのは、決意性が現存在の最も確実な可能性、つまり死へと関わる場合である。

なぜなら死において個別化された現存在は自らをつかみ直さなければならないからである。*6

ゆえに死へと先駆することで決意性の確実性が獲得されるのだ。

しかし現存在は非真理のうちでも存在してもいる。

だから先駆的決意性が現存在を自由に保持するのは「ひと」という非決意性へと頽落する可能性に対してなのである。

明瞭となった決意性においては、現存在は存在可能のこのように未規定的なありかたから決意によって規定されていく。

決意によって確実になるとしてもこの存在可能は未規定的であり続ける。

このことが全体的に明らかになるのは、未規定的な可能性である死へと先駆することにおいてである。

すなわち本来的な決意性における未規定的な存在可能は死なのだ。

死が未規定的であることは不安という情態性において開示されている。

そして決意性はこの不安からの良心の呼び声に答えることなのだ。

不安は現存在の根拠における無-性、すなわち死への被投性を開示している。


以上から先駆的決意性が本来的かつ全体的な決意性であることがわかった。

反対にこのことによって先駆が完全に実存論的に了解されたことになる。

それは現存在そのものにおいて「あかし」を与えられた存在可能の様態であり、決意性の本来性の可能性なのだ。

また先駆は実存的に「あかし」を与えられた決意性のうちに隠され、そのうちでそれとともに正当化されたものである。

だから

本来的に「死を思うこと」は実存的にみずからを見とおすにいたった〈良心をもとうと意志すること〉なのだ。*7

そして実存によって正当化された決意性によって、先駆を経由して「現存在の本来的な全体的存在可能」が共に正当化されたことになる。

だから「現存在の本来的な全体的存在可能」が現象的に示されたのである。

以上のように現存在の実存の存在論的解釈が行われてきたが、この根底には実存についての一つの理想があったのかもしれない。

このことは積極的な必然性において把握されなければならない。

哲学はその前提をただ否定したり肯定したりするだけでなく、前提を把握してそれが何のためにあるのかを探求していくものである。

その機能を持っているのが前節で述べられた「方法論的な省察」なのだ。

第六十三節 気づかいの存在意味を解釈するために獲得された解釈学的状況と、実存論的分析論一般の方法的な性格

先駆的決意性によって現存在を現象的に見ることができるようになり、その全体的存在可能を解釈が「あらかじめ持つこと」にもたらされた。

そしてその解釈を導く理念である「あらかじめ見ること」も規定されたのである。

また目の前にあるものに対置される現存在の構造が具体化されたことで、解釈の分節化「あらかじめ掴むこと」が十分に遂行された。

ここまでの分析は「私たちがそのつど自身それである存在者は、存在論的にはもっとも距たっているものである*8」というテーゼを具体的に論証してきた。

このテーゼは現存在が日常的には「ひと」へと頽落している事に根拠づけられている。

だから現存在の根源的な存在は「ひと」に方向付けられた解釈傾向に「逆行して」、「奪い取られ」なければならない。

またそれゆえに実存論的分析は日常的な解釈に対して常に「暴力的」なのだ。

しかしこの暴力性はどのような解釈にも伴っている。

なぜなら解釈のうちで理解が形成され、理解は投企という構造を持っているからだ。

存在論的な解釈は固有な存在に向けて投企(理解)しその構造を概念化する。

この投企には従うべき道標があるのだろうか。

さらに現存在が自分の存在する仕方に従って自分の存在を隠すとすればどうだろうか。*9

このことを考えるために「現存在の分析論」そのものが明瞭にされなければならない。

現存在には自己解釈が属していて、配慮的に気づかうことで世界を覆いをとって発見しながら、「配慮的気づかいそのもの」も発見されている。

すなわち現存在は自分の存在を一定の可能性の中で理解しているのだ。

だから現存在の存在への問いは現存在のあり方を通じて準備されていたことになる。

しかし現存在の本来的な実存は何を以って非本来的なものと区別されるのだろうか。

ここまでの分析には「存在的」な前提があったのではないか。

しかし現存在は第一に事実的な(「存在的」)存在可能や頽落した「ひと」として存在していて、存在論的解釈によって固有な可能性(先駆的決意性)にもたらされる。

だから存在論的な解釈は「存在的な」諸可能性、すなわち様々な事実的存在可能の様式を根底に置き、その可能性を実存論的な可能性へと投企することでしかない。

ゆえに日常的なあり方に逆行した「暴力的な」解釈の傾向は、それが開示する現存在に適合したものなのである。

現存在は死以上の「審級」を持たないから、死への先駆的決意性は恣意的な可能性ではない。

しかしそれが恣意的な可能性ではないとしても、ここまでの実存論的分析はそれによって正当化されるのだろうか。

この分析の正当性が基づいている理念はどこからその権利を得てきたのだろうか。

この理念は現存在が前存在論的に持っている存在了解によって暗示されている。

この存在了解によって提示されているのは、現存在は存在可能として私たち自身であり、その存在可能においてはその存在者であることが問題なのだ、ということだ。

だから現存在はどのような解釈においても「じぶんをそのつどすでに理解してしまっている」のである。

ゆえの先に述べた実存理念は現存在自身が持つ存在了解をあらかじめ素描するものであったのだ。

この理念に導かれて気づかいという構造が解釈され、そこで実存と実在性を区別するための基礎が与えられた。

そのような実存理念は、実存と実在性という二つの「存在」の区別を行うために「存在一般」の何らかの理念を前提としているはずである。

しかしこの「存在一般の理念」は現存在の存在了解を明晰にすることで得られるということであった。

そうならばこの分析は一つの循環のうちにあることになる。

この循環とはすなわち、「実存並びに存在の理念が「前提とされた」うえで、「そののちに」現存在が解釈され、そこから存在の理念が獲得されようとしている*10」ということだ。

しかし存在論的分析は前提から帰結を推論形式にしたがって導く演繹ではない。

そして理念を「あらかじめ定立すること」は理解しながら投企するという性格を備えていて、そこでなされる解釈によって現存在が初めて言葉として現れてくる。

ゆえにこの循環は避けることのできないものなのだ。

循環を批判する考え方は、頽落している「ひと」にとって投企することが理解できないということにも基づいている。

理解についての循環を問題とするのは、理解が現存在の存在体制であること、そして現存在が気づかいという在り方をしていることを理解していないことの証拠である。

以上で根源的な実存論的分析における解釈学的状況の意味が明らかになった。

先駆的決意性の分析によって本来的な真理という概念に到達したが、さしあたりの存在了解は存在を「目の前にあること」として考えてこの真理を覆い隠している。

しかし真理が存在する限りで存在が与えられ、真理のあり方に従って存在了解も変容する。

ならば本来的な真理は現存在の存在とその存在一般の了解を保証するものでなければならない。

すなわち存在論的な「真理」は「根源的な実存的真理」に基づいているのである。

この「もっとも根源的で、かつ基礎となる実存的真理」こそが「気づかいの存在意味が有する開示性」なのだ。

これを明らかにするために、気づかいの構造をくまなく分析しておく必要がある。

第六十四節 気づかいと自己性

気づかいという構造はここまでの分析で分節化(解釈)されてきた。

そこで気づかいの構造の全体性の統一への実存論的な問いが持ち上がってくることになる。

現存在はそのつど自分自身「である」というあり方において統一的に実存している。

ここで実体と考えられてきた「自我」というものが構造全体を統一しているように見えるかもしれない。

他方、ここまでの分析でも現存在は「誰」なのかという問いが持ち上がっていて、その答えは「ひと」だということだった。

現存在の本質が「実存」にあるなら、この「自己」が実存論的に把握されなければならない。

現存在は気づかいという構造を持っているから、この気づかいと自己の関係が明らかにされる必要がある。

出発点として設定される日常的な自己解釈は、現存在が自分に言及するのは「私と語ること(Ich-sagen)」においてであるということだ。

この「私」は単純で、決して述語にならない主語だと見なされている。

しかし「単純性」「実体性」「人格性」といったカテゴリーにおいて実存論的な分析を行うことはできない。

カントは「純粋理性の誤謬推理」で「自己」に実体性を与えられないこと、そして「自我」は「私は考える」であることを示した。

しかし不適切な存在論的基礎に基づいたために、自己を目の前にある主観と捉えてしまったのである。

自我は「私は考える」ではなく「私はなにごとか考える」である。*11

この「なにごとか」が世界内部的な存在者を指しているなら、これは世界を前提においている。

そして世界によって自我の存在体制は規定されているのだ。

すなわち、「私と語ること」は何らかの仕方で世界のうちにすでに存在している存在者、つまり世界内存在を指しているのである。

しかし、頽落することで日常的な自己解釈では自己は配慮的に気づかわれた世界の側から理解される。

ここでの自己は「不断に自同的でありながら未規定的で空虚で単純なもの」である。

本来的な自己性は気づかいの本来性に即してのみ読み取られる。

そしてこの本来性によって「不断に自己であること(Ständigkeit des Selbst)」が明らかになる。

このことが日常的には自己という実体が永続することと捉えられているのだ。

そして本来的な存在可能によって「立場を獲得している」という意味での「不断に自己であること」が見てとられるようになる。

この立場の堅固さは、頽落した「ひと」の非自立性の反対の概念である。

そして自立性は先駆的決意性に他ならない。

沈黙し、不安を要求する決意性が本来的な「自己」を形作るなら、それは「私」とは語らない沈黙した存在である。

このような沈黙した自己こそが自我の問題への現象学的な地盤となるのだ。

気づかいの構成要素としての本来的実存が現存在が自己であり続けるような存在体制を与えている。

ゆえに気づかいが何らかの「自己」によって基礎づけられる必要はない。

そしてこのように自己であり続けることには、気づかいの構造に即して、自己でないことに頽落することが付随している。

このように気づかいの構造に含まれた自己性を明らかにすることが、気づかいの「意味」の解釈なのである。

第六十五節 気づかいの存在論的意味としての時間性

気づかいと自己性の連関の分析は、現存在の構造全体をとらえるための最後の準備でもあった。

気づかいの意味、そして「意味」とはなんなのだろうか。

以前に(第三十二節)分析されたことだが、意味とは理解という投企の対象である可能性、すなわち「それにもとづいて」であり、この「それにもとづいて」においてあるものがその可能性から理解される。*12

だから気づかいの意味を明らかにすることは、現存在の根源的解釈において作動している理解を詳しく見て、その理解によって理解の「それにもとづいて」を明らかにすることだ。

また理解されるものは先駆的決意性のうちで開示されている現存在の存在である。

この気づかいの意味は、現存在の存在を気づかいとして構成することを可能とするものだ。

だから問われているものは、分肢化した気づかいの構造全体を統一的に可能にするものは何なのかということである。

厳密には意味は「存在」を理解する際の第一次的な「それにもとづいて」を意味する。

世界内存在は自身の存在と共に気づかわれる世界内部的な存在者の存在を理解している。

存在者の存在が意味を持つのは、その「それにもとづいて」(可能性)へと現存在が投企(理解)している場合のみである。

存在を理解するという第一次的な投企が意味を「与える」。*13

だから存在の意味の探求は、存在理解の「それにもとづいて」を主題にするのであり、その存在理解はすべての存在の根底にある。*14

現存在は実存することで自らの存在を理解しているが、その理解は事実的な存在を形成している。

このような事実的な実存を可能にするものは何なのだろうか。

根源的な投企によって投企(理解)されるものは先駆的決意性であった。

この本来的な全体的存在を統一的に可能にするのは何なのだろうか。

先駆的決意性はもっとも固有な可能性へと関わることであり、それが可能になるのはそのもっとも固有な可能性が「到来」することが可能であり、それを可能性として開示することができることによる。

もっとも固有な可能性に先駆しながらそのうちで自身を「到来」させることが「将来(die Zukunft)」という現象なのである。

それはまだ実現していない未来ではなく、「まさに来ようとしているもの」なのだ。

そして先駆が本来的な将来的存在を可能にし、さらに先駆は現存在の存在が将来的なものであることによって可能となる。

先駆的決意性は現存在を負い目のある存在として理解する。

負い目のある存在とは「無-性」の無的な根拠「として存在していること」だ。

被投性とは「みずからがそのつど存在していたがままに本来的に現存在として存在していること*15」だ。

このことが可能となるのは「将来的な」現存在が「既在(Gewesen)」として存在することができる場合のみである。

現存在は既在としてある時だけ「回帰的に」将来的なものとして自身に到来することができる。

死へと先駆することは、既在へと回帰しながら到来することなのである。

そして決意において周囲世界的に存在するものを開示することは、この存在者を「現在化」することによって可能となる。

このような「既在しつつある現在化する将来」という統一的な現象を「時間性」と名付ける。*16

この時間性は本来的な気づかいの意味なのだ。

そしてこの時間性からは「未来」「現在」「過去」という通俗的な時間概念は取り除かれなければならない。

それらの時間概念は非本来的な時間性から出現する派生的なものにすぎないからである。

先に問われた気づかいの構造の統一は、時間性のうちに存している。

気づかいの構造の、〈じぶんに先だって〉は「将来」に〈内ですでに存在していること〉は「既在」に、〈のもとでの存在〉は現在化に対応する。

この「先」を通俗的な時間観念からくる前後関係と捉えてはならない。

そうしてしまうと、現存在が「時間の中で」通過していく目の前にあるものとなってしまうからだ。

この「先」は将来を意味し、現存在が将来的に存在しうるのはそれが存在可能だからだ。

投企は将来に基づき、また投企は実存することの本質的性格の一つだから、「実存的なありかたの第一次的な意味は将来なのである」。

同様に既在も現存在の実存論的な意味であるから、現存在はそれが存在する限りにおいて被投的なのだ。

しかしそれは目の前にあるもののように過ぎ去ってしまっていることを意味しない。

現存在は常に既在として存在しているのである。

だから事実性の第一次的な意味は既在なのである。

ゆえに気づかいの被投的投企という構造は「先」「すでに」という表現によって、実存的なあり方と事実性の時間的な意味を示していたのである。

このような暗示は気づかいの第三の契機〈のもとでの存在〉にはない。

これは頽落が第一次的にもとづく「現在化」が将来と既在とによって「鎖されて」いることを示している。

現存在は決意において頽落から個別化され、開示された状況で「現」として存在する。

このようにして時間性によって実存、事実性、頽落が統一されて気づかいの構造全体が把握される。

時間性は存在するのでなく時間化するものだが、それが気づかいの意味「である」などと言わなければならなかった。

そのことは存在一般の理念が明らかになって初めて理解可能となる。

時間性は様々な様式で時間化を行い、そのことによって本来的、もしくは非本来的に存在することができる。

「将来」「既在」「現在化」によって示されるのは「じぶんへ向かって」「の方へと回帰して」「を出会わせる」という性格である。

さらにこれらは「脱自」としての時間性を示している。

時間性とは、根源的な「じぶんの外にあること」それ自体そのものなのである。*17

このことから「将来」「既在」「現在化」を時間の「脱自的なあり方(Extasen)」と名付ける。

通俗的な時間領海においては時間は「いま」の連続と考えられるが、その考え方ではこの脱自的な性格が水平化されてしまう。

時間性の脱字的な統一においては「将来」が優位性を持っている。

本来的な時間性は、「将来的に既在しながら、そのことではじめて現在を喚起する」ことで時間化を行う。

このことは非本来的な時間性にも現れてくる。

死へと関わる現存在は「自分が終焉する終わり」を持っているのではなく、有限的に実存する。

このことは本来的な将来が有限的な将来として提示されることから明らかになるだろう。

しかし、自身の死後も時間は流れていき、将来には無限の事柄が含まれているのではないだろうか。

これらはその通りであるが、しかし根源的な時間性についてあてはまる議論ではない。

問題となるのは「自分へと到来させること」自体がどのように規定されているかである。

「到来」の有限性は終焉ではなく時間化そのものの性格であり、その性格は現存在が投企(理解)することの可能なもののうちで示されている。

なぜなら本来的な将来は追い越しえない可能へと投企することで「じぶんへ向かって」いることだからである。

有限的で本来的な時間性が、どのようにして無限的で非本来的な時間性へと派生するのかが問題である。

「現存在の意味は時間性である」というテーゼは、これまでの分析の土台から離れて現存在の具体的な根本体制に即して確証される必要がある。

第六十六節 現存在の時間性、ならびにその時間性から発現する、実存論的分析のより根源的な反復という課題

時間性に基づいて現存在の存在体制を示すことを「時間的」な解釈と名付ける。

そこでの課題は、現存在の本来的な全体的存在可能を時間性に基づいて分析し、さらには非本来的なあり方も視野に収めることである。

すなわち、これまでの実存論的分析を時間性という観点から反復することで、日常性の時間的な意味が明らかにされなければならない。

しかしそれは単なる反復ではなく、考察の関連性を明確にし、偶然や恣意を取り除くものである。

「自己性」が気づかいの構造、そして時間性の構造の中で分析されたので、自己であることや自己でないことの時間的な解釈に特別な重要性が生じている。

さらにその解釈によって「歴史性(Geschichtlichkeit)」としての「時間化構造」が根源的に捉えられるのである。

そして日常性と歴史性の時間的解釈によって「根源的時間」の分析が準備されたことになる。

現存在は第一次的に自分を自身のために役立てる。

自分を使用し尽くすことで、現存在は時間を使用し、それによって時間を計算するのである。

さらに時間を計算に入れることが世界内存在を構成する。

覆いをとって発見することが時間を計算しつつ行われることで、発見されたものと時間の中で出会うことになる。

すなわち世界内部的な存在者は時間の中に存在するのである。

このように時間に規定されたあり方を「時間内部性」と名付けることにする。

この時間内部性は根源的時間に属する時間化の一つの様態として現れる。

以上のような分析によって、現存在の存在論の「錯綜したありかた」に対する見通しが与えられるようになるだろう。

コメント

存在と時間』第三分冊はこれで終わりになる。

この章では「死への先駆」と「決意性」という二つの現象の間にどのような関係があるのかということが考察された。

その結論とは、決意性の本来的なものが死への先駆への決意性、すなわち先駆的決意性なのだ、というものだ。

そしてこの先駆的決意性が「自己」を与えることや、気づかいの意味としての時間性の分析の導入もなされている。

時間性については第四分冊の主題となりさらなる考察が行われるだろう。


第六十二節の「決意の確実性」の部分がなかなか難解だった。

現存在は気づかわれるものと一体のものとして開示され、その開示性が「真理」と呼ばれている。

「決意性が開示するもののうちで自分を保持すること」といった書き方は、自分(現存在)と開示されるものが区別されないことから読みづらくなっているのだと思う。

他に第六十五節での「意味」が「投企の「それにもとづいて」」であるといった記述も最初何のことだかわからなかった。

意味は解釈によって分節化された有意義性、すなわち世界の可能性の一部分である。

理解は可能性へと投企することと定義されていて、解釈は理解を「あらかじめ持つこと」としてその契機に含んでいる。

つまり意味を解釈することは理解という形で可能性へと投企することなのだ。

ゆえにこの「それにもとづいて」を理解され投企される対象となる可能性と考えるなら、それが意味であるというのにも一応の納得はいく。

そして解釈することで世界が分節化されて意味が生み出されるので、存在の意味を解釈することで初めて存在に意味が与えられると言われるのだろう。


決意性によって「つかみ直」される自己、存在論の分析の循環、時間性における回帰という性格、以上のようにここでの論考にはループする構造が幾つか登場する。

現状ではこれらは別々のものだがそれらが統一的な現象として示されてくるのかが気になっている。

特に統一されなくても複数のループが絡み合う構造として現存在を考えるのも面白そうだ。

*1:1.2.3.62.917 p372

*2:1.2.3.62.922 p379

*3:現存在=開示性。開示されるというのはそこで存在すること。

*4:状況と決意における可能性の両方で保持されること?

*5:時間性において現存在が自分に回帰するという議論と関係があるかも。

*6:決意が開示する「状況」の本来的なもの=「死」であるということが言いたいのだろう。

*7:1.2.3.62.926 p387

*8:1.2.3.63.932 p394

*9:現存在自身が頽落への道標を与えているということ?

*10:1.2.3.63.943 p408

*11:フッサールの影響が感じられる。

*12:理解するものとされるものの区別はないので、「それにもとづいて」は現存在の存在可能でもあり、ゆえに理解は投企である。

*13:1.2.3.65.966 p450

*14:存在することと開示は一致するから?もしくは存在に常に存在了解が備わっているから?

*15:1.2.3.65.969 p454,455

*16:死への先駆(既在へと回帰しながら到来すること)→決意(現在化)の流れ。

*17:1.2.3.65.978 p469

ハイデガー『存在と時間』(三)②

学術書 レビュー



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事二つ目。

この記事では第二篇第二章(第五十四節〜第六十節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第二章 本来的な存在可能の現存在によるあかしと、決意性

第五十四節 本来的な実存可能性のあかしという問題

前章で確認された通り、現存在自身によって「あかし」を与えられている本来的な存在可能が求められている。

そしてそのためにはその「あかし」が見出されなければならない。

そのあかしは現存在の本来的な実存において自身を理解させるものである以上、その根源は現存在の存在体制にあるだろう。

またこのあかしは「ひと」として頽落している現存在に本来的な「自己」を理解させるものである。

この本来的な自己は「ひと」の変様としての規定されるが、その変様はどんなもので何がそれを可能にするのか明らかにしなければならない。

「ひと」に頽落することで現存在の様々な存在可能がすでに決定されてしまっている。

さらに「ひと」はその存在可能を選択することという重荷を奪い、それを隠している。

選択する主体は誰でもない「ひと」であり、選択することなく生きていくことで現存在は非本来的に存在することになってしまう。

このことを元に戻す、すなわち本来的なあり方へと変様することは、一つの選択を取り戻すことである。

これはまた選択を選択することであり、個別的な自己に基づいて決断することを意味する。

以上のことによって初めて現存在の本来的な存在可能が可能となる。

現存在が「ひと」ではなく自己でありうることのあかしは、「良心の声(Stimme des Gewissens)」として知られるものである。

以下の分析では純粋に実存論的に「良心(Gewissen)」を解釈の「あらかじめ持つこと」の中へと設定する。

この良心は目の前にあるものではなく、現存在の存在の仕方である。

また良心は何事かを理解させるものであるから、それは現存在の開示性から分析される。

そして良心は「呼び声(Ruf)」であるり、それは現存在を「呼び覚ます(Anruf)」ものであることが明らかとなる。*1

この呼び声に反応するためにはそれに対応する「聞くこと」が必要である。

また呼び声を理解することは「良心を持とうと意志すること(Gewissenhabenwollen)」であることが明らかにされるだろう。

そしてこの現象には個別的な存在を選択するという「決意性(Entschlossenheit)」がある。

第五十五節 良心の実存論的 — 存在論的な諸基礎

良心は何かを開示し、それゆえに「現」を構成する実存論的現象である。

この良心の解釈は情態性、理解、語り、頽落といった「現」の開示性について分析をさらに根源的に遂行することとなる。

「ひと」に頽落する現存在が「公共的に解釈されたあり方」でありうるのは、現存在が他者たちの語りを「聞き」うるからである。

そこで現存在は固有な自己を「聞き落とす」。

「ひと」の語りを「傾聴」することを中断する可能性が現存在に与えられなければならない。

それは「呼び声」によって媒介なく呼びかけられることのうちにふくまれている。

この「呼び声」、つまり良心はあいまいな空談や好奇心とは反対の性質、すなわち「物音も立てず、あいまいにではなく、好奇心に対しては何の手がかりも与えず*2」理解させると言う性質を持っている。

呼ぶことは「語り」の様態である。

この「語り」は「沈黙」という派生形を持ち、声に出すことを必ずしも必要とはしない。

そして良心は「語り」の開示性に基づいて理解されるものだから、悟性などの心的能力やその混合によっては説明されない。

第五十六節 良心の呼び声の性格

「語り」には話題の対象が属しているが、その変様である「良心の呼び声」の対象はなんなのだろうか。

それは現存在であり、またその日常的なあり方である「ひと」が射当て(trifft)られている。

そして「ひと」は固有の自己に向かって呼びかけられている。

ここでは世間的に理解された「ひと」としての現存在は「とおり過ぎられる」。

個別的な自己が呼びかけを聞いて自分自身に引き戻されるから、「ひと」として頽落したあり方は崩れ落ちることになる。

呼びかけられる自己は「外界」から「内界」に閉じこもるようなものではなく、それにもかかわらず世界内存在している自己である。

良心の呼び声は、言葉として発声され何かを伝達するものではない。

それはただ現存在を自分自身、もっとも固有な存在可能へと「呼び覚ます(aufgerufen)」ものなのである。

そして呼ばれた自己を「審理」するのではなく、固有な自己で「ありうること」へ呼び覚まし、固有な可能性へと「(前に)呼びだす(Vor- Rufen)」ものなのだ。

この呼び声が開示するものは一つであり、「錯覚」はその呼び声が本来的に理解されないことで生じる。

良心の存在論的な解釈を十分なものとするために、「呼んでいる者」が誰なのか、呼ばれる者と呼ぶ者はどのように関わるのか、この関わりは存在論的にどのように捉えられるのかを明らかにしなければならない。

第五十七節 気づかいの呼び声としての良心

良心の呼び声を呼ぶ者は規定されていないあり方、規定されえないあり方をしている。

しかし実存論的な分析においては呼ぶ者を問うことが必要となる。

この問いの答えは現存在にとってはすでに与えられている。

すなわち「現存在が良心において自分自身を呼ぶ*3」のである。

しかしこの答えはまだ十分なものではない。

なぜなら呼ばれる現存在と呼ぶ現存在が別の仕方で存在しているかもしれず、また呼び声は私たちの意志とは関係なく起こるからだ。

呼び声は私のうちから到来し、しかも私を超えて到来するのだ。*4

呼ぶ者を神と捉えたり、良心を生物学的に説明することは、このような現象学的な見方を飛び越えてしまっている。

現存在の実存論的体制が呼ぶ者のあり方を解釈する唯一の手引きなのだ。

現存在は不気味さにおいて被投性から「ひと」へと逃避していて、この不気味さは単独化された現存在を規定している。

さらにこの不気味さは「不安」という情態性において開示されている。

この不気味さのうちで情態づけられて存在している現存在が「良心の呼び声」の「呼ぶ者」なのではないだろうか。

不安における現存在はそこで開示された存在可能以外の何物も持っていないから、良心の呼び声はそのような固有の存在可能へと呼び覚ますものなのだ。

ゆえに良心は何事かを報告するものではないから、「沈黙」という不気味な様態で語りかける。

また呼び声が現存在自身を射当てるのは、不安における現存在が固有のものであることに基づいている。

不安において規定された呼び声が、現存在がもっとも固有な存在可能へと投企することを可能にする。*5

このことは不気味さが現存在の頽落したあり方を脅かすということを証明してもいる。

呼ぶ者は被投性によって(〈のもとでの存在〉)不安に思っていて、呼ばれる者は「ひと」へと頽落したあり方(〈内ですでに存在していること〉)からもっとも固有な存在可能(〈じぶんに先だって〉)へと呼び覚まされる。*6

ゆえに良心は現存在が気づかいであるということのうちに存在論的可能性を持っている。

だから、現存在以外に良心の「威力」を求める必要はない。

このような良心の通俗的な説明が逸脱してしまうのは、現存在を主観や意識を備えたものとして前提にしてしまうことによる。

そこでは良心の威力は客観的なものに求められ、その「普遍的な」良心は「世界良心」にまで高められる。

しかしこの「世界良心」は「ひと」の声なのではないだろうか。

反対に良心の声を現存在が把握しうるのは、それが自分自身から到来するからである。

以上のような解釈によって良心が主観的なものになったり、その威力が減衰することはない。

むしろその「仮借なさ」と「一義性」が開示される。

つまり良心の「客観性」が得られるのはその「主観性」を認めてこそであり、その主観性において「ひと」の支配を無化することができるのだ。

このような解釈に対して、良心は「叱責しかつ警告するものに過ぎない」という批判があるかもしれない。

ここで解釈された良心の呼び声は具体性を欠いている。

以上の良心についての解釈は現存在の実存論的体制に基づくものであり、このような課題を準備するものであったと言える。

また良心が何を開示しているのかが明らかになるためには、それと対応する「聴くこと」を分析しなければならない。

呼びかけられるものもまた現存在だから、自分の呼び声を聞き違えることもまた現存在の一つの存在体制なのだ。

呼びかけに対する理解を分析することで、「呼び声は何を理解させるように告知するのか」が明らかになる。

また以上の解釈によって良心に呼ばれる「負い目のあるあり方」を理解することができるようになっている。

第五十八節 呼びかけの理解と負い目

呼び声が呼び覚ますものを実存論的に解釈することは、具体的な実存可能性を定義することではなく、そのような存在可能を可能とする条件を確定することである。

呼びかけを理解することが本来的となるのは、聞くものが関連を欠いた個別的な存在である場合である。

このような本来的なあり方には何が含まれていて、呼び声のうちで理解されるよう告知されているのは何なのだろうか。

呼び声は具体的な知識を与えず、固有な存在可能へと向かうよう指示する。

そして呼び声は単独化された「不気味さ」から呼んでいて、その不気味さが呼び声とともに開示されている。

呼び声は、「そのときどきの現存在にぞくする、そのときどきに単独化された存在可能」を開示する。

このように呼び声を解釈して初めて、呼び声が何を理解させようとしているのかという問いが立てられるようになる。


良心の経験や解釈においては「負い目がある」ことが一致して経験されている。

しかしこの「負い目がある」ということが実存論的に明らかにされているわけではない。

ここで問われるのは以下のことである。

私たちはどのようなしかたで負い目あるものであり、また負い目とはなにを意味するのか。このことを語るのは誰なのか。*7

死や良心といった現象と同じく、負い目も日常的な現存在解釈がそれについて「語って」いることから分析を始めなければならない。

さて、負い目があることは日常的には「借りがある」「何か責任がある」「誘因である」といったことを意味する。

さらにこれらが一緒になって「罪を犯すこと」という意味を持つことがある。

このことは「他者に対して負い目を負うことになる」という意味を伴うことがありうる。

この意味での負い目があることは「ある他者の現存在における、何らかの欠如の根拠となっていること」と規定される。

さらにこの根拠自体が、共同存在に対する要求を満たさない欠如的なものとして規定される。*8

このような「負い目のある存在」は現存在のあり方の一つである。

ゆえにそのあり方を今度は存在論的に捉えなおさなければならない。

そのために目の前にあるものの欠如といった通俗的な現象は、「負い目があること」という概念から排除されなければならない。

しかしながら、それでもこの概念には「ない」という性格が属しているのである。

さらに、何らかの根拠であることも属しているから、負い目のあることは「ないことの根拠であること」と規定できる。

一般に言われる罪や過失はこの「負い目のある存在」という根拠に基づいて可能となる。

現存在は気づかいであり、それは被投性、投企、頽落によって構成されている。

被投性において、現存在は自身によって自分になったのでは「ない」。

しかしそれでも現存在は自らの存在可能に対する「根拠」なのである。

存在可能の根拠であることは、現存在が投企を行うことによる。

そして存在可能の根拠としての現存在は最も固有な存在を手にしてい「ない」。

以上が被投性に属する実存論的な「ない」、すなわち「無-性(Nichtigkeit)」である。*9

また、投企においてもある存在可能に投企することは他の存在可能に投企し「ない」ことである。

この「無-性」は現存在が諸可能性に対して開かれていて自由であることに属している。

以上から被投性と投企には「ない」「無-性」が含まれていることがわかった。

この「ない」は頽落における非本来的な「無-性」を可能とするものでもある。

気づかいそのものが、その本質において徹底して「無-性」によって侵されている。*10

それゆえに気づかいである現存在はそのものが負い目のある存在なのである。

しかしこの「ない」の実存論的な意味は明らかになっていない。

負い目のある存在は道徳を可能にする存在論的な条件である。

また負い目のある存在は頽落の中で開示されていない状態にある。

だからこそ、呼び声がこの負い目のある存在を理解するよう告げているために、良心が可能となる。

不気味さからの呼び声によって現存在は「ない」を理解させられ、そこで最も固有な存在可能が可能となる。

良心は被投的な現存在を存在可能へと「呼び出し」、その被投性を理解させるために被投性へと「呼び返す」。

このことによって良心は、現存在が自分を「ひと」から個別の自分自身へと連れ戻すべきである、すなわち自分は負い目のある存在であるということを理解させる。

このような良心の機能は知識を与えたり負い目のある邪悪な存在へと呼び覚ますことではない。

それならば、負い目のある存在へと呼び覚ますことの意味は何なのだろうか。

呼び声を正しく聴くことは、最も固有な負い目のある存在可能へと自分を投企していくことに等しい。

つまりここで現存在は呼び声が呼びかけることに対して準備し、呼び声に対して自由に開かれている。

このようにして現存在は固有な自分自身を選択しているのである。

この固有で負い目のある存在は「ひと」に対しては閉ざされたままである。

他方その「ひと」が固有で負い目のある存在へと呼びかけられている。

この呼び声を理解することは、「良心を持つこと」を選択することを意味する。

そして良心を持つことは固有で負い目のある存在に対して自由に開かれていることなのだ。

呼びかけを理解することとは、良心をもとうと意志することを意味するのである。*11

このように意志することは「事実的に」負い目のあるものとして存在することの実存論的条件である。

すなわち、呼び声を理解することによって現存在は初めて責任のあるものとなるのだ。

現存在は事実的な道徳的過失を免れず、被投性と投企の「無-性」のために共同存在において他者たちに負い目があるため、必然的に良心を欠いている。*12

良心を持とうと意志することは、このように良心を欠いたあり方を受け入れることである。

そしてそのようなあり方においてのみ「善く」存在することが可能となるのだ。

呼び声が負い目のある存在を開示する、という以上の分析によって良心が「本来的な存在可能」の「あかし」であることが明らかとなった。

さて、このような良心の解釈においては現実的(通俗的)な良心の概念はどのように捉えられるのだろうか。

第五十九節 良心の実存論的解釈と通俗的な良心解釈

前節で規定された良心は「ひと」がそれに従ったり従わなかったりする通俗的な良心と一致しないどころか矛盾するようにも見える。

しかし実存論的な良心と通俗的な良心は一致しなければならないのだろうか。

通俗的な良心は現存在の頽落したあり方から解釈されるものだから、存在論的に疑わしいものである。

しかしそのような良心解釈も前存在論的に良心という現象を射当てているはずだから、実存論的解釈はそれを無視していいわけではない。

さて、呼び声としての良心に対して通俗的な解釈が提示する問題は以下の四つである。

  1. 良心は批判的機能を持つ。
  2. 良心はすでに行われた行為に関わる。
  3. 良心の声は現存在の存在に関わるわけではない。
  4. 呼び声としての良心解釈は「やましい」良心や「やましくない」良心を射程に収めていない。

四つ目から分析を始める。

通俗的な良心解釈では「やましい」良心、すなわち「とがめる」良心である。

その良心の体験は行為の後から生じてくる。

これは負い目のある存在へと呼び覚ますことではなく、負い目を想起させそれを指示することである。

この解釈は現存在を目の前にある体験が継起する連関だと捉える着手点に基づいている。

実存論的には負い目のある存在が良心の呼び声に後続するから、この捉え方は根源的な現象に到達していない。

同様のことが「やましくない」良心にも当てはまる。

自分が善であることがが告知されることは不可能だから、「やましくない」良心は「やましい」良心の欠如だと捉えられる。

このような欠如の経験だと思われているのは、行いが現存在によって行われていない、現存在には負い目がないと自己確証することなのだ。

この確証は良心を忘却すること、最も固有で負い目のある存在を抑圧することに他ならない。

「やましくない」良心に方向付けられているために、「とがめる」良心も良心という現象を正しく指し示すものではない。

行為を先取りして「警告する」良心という解釈は、呼び覚ますことという性格を共有しているように見えるが、それは見せかけに過ぎない。

なぜなら「警告する」良心は意志された行為に方向付けられているからだ。

しかし意志された行為は負い目のある存在においてのみ防止されるので、その良心は行為を抑制する機能を持っていない。*13

結局は「警告する」良心も「ひと」が解釈した範囲で良心を考えたものに過ぎないのだ。

第三の疑いは日常的には実存論的な良心概念が明らかになっていないということに基づいている。

しかし通俗的な良心概念が存在論的に正しく行われているということは保証されていない。

さしあたっては配慮的な気づかいにおいて自分を理解し、存在を目の前にあることとして規定していることで二重の隠蔽が生じる。

すなわち、第一にこのような良心概念においては存在的に未規定な体験や心理的な出来事が問題とされ、第二に計算において取引される良心が問題となる。

このような日常的な良心体験が引き合いに出されることが正当化されるのは、日常性において良心が接近可能な時だけである。

このことから第二の疑問も効力を失うことになる。

呼び声が行為に関係して経験されるということを否定することはできない。

しかしそれは呼び声が開示する射程をあらかじめ制限してしまっているのである。

このように「警告する」良心などが良心の根源的な機能を表現していないなら、第一の疑問も基礎を失っていることになる。

良心が批判的機能を持つという見方も、良心が積極的に何かを語りかけることがないという点では正しい。

しかしこのことは良心が消極的であることを意味しない。

良心に積極性を期待するのは、良心が行為の可能性を指示してくれると期待することに基づいている。

このような期待は配慮的気づかいにおける解釈に従って現存在が存在することを「統制可能な仕事の進行」に押し込める。

またこれはメタ倫理学に対して規範倫理学的な要求を行う根底にもある。

しかし良心は最も固有な存在可能へと現存在を呼び覚ますから、この期待は達成されない。

すなわち、良心は配慮的に気づかわれるものに関しては積極的でも消極的でもない。

しかし実存論的には「もっとも積極的なもの」つまりもっとも固有な可能性を開示するのである。

以上の分析で通俗的な良心解釈も存在論的に見られたなら実存論的な良心を指示していること、またその解釈が気づかいに属する頽落から生じる以上自明であり偶然的なものではないことが示された。

このような分析は日常的な現存在の「道徳的質」について何らかの判断を下すものではない。

良心の理解が不十分であることで実存が損なわれるわけではないし、反対に実存論的に良心を理解したから呼び声を正しく理解することが保証されるわけでもない。

「真摯さ」と「不誠実」はそれらの解釈とは関わらず可能なのである。

しかし実存論的解釈が経験から切り離されていな限り、その解釈は良心の呼び声をより根源的に理解する可能性を開示するのである。

第六十節 良心にあってあかしを与えられた本来的な存在可能の実存論的構造

良心の呼び声を呼ぶ者が現存在であることから、最も固有な存在可能の「あかし」が現存在のうちに存在していることがわかった。

そして呼び声を現存在の存在様態だと理解することで、「あかし」を与えられた本来的な存在可能の現象的な成り立ちが与えられることになる。

本来的に良心の呼び声を理解することは、良心を持とうと意志することであると規定された。

このことは最も固有の自己を、負い目のある存在において行為させることである。

そしてこれは現存在自身においてあかしを与えられた本来的な存在可能を示している。

このような本来的な存在可能の実存論的な構造を発掘し、現存在自身において開示される「本来性」の根本体制を明らかにしよう。

良心を持とうと意志することは最も固有な存在可能に対する自己理解(=投企)であるから開示性の一つの様態である。

開示性は理解の他に情態性と語りによって構成されているから、この理解に対応して気分や語りがあるはずだ。

まず気分については、「不安」が対応する。

それは呼び声を理解することで現存在が単独化されて不気味さを感じるからだ。

「語り」についてであるが、良心の呼び声には返答が存在しない。

良心の呼び声によって現存在は「ひと」の空談から連れ戻されるから、良心を持とうと意志することは沈黙という様態を持っているのである。

以上のように特徴付けられた開示性は本来的なものであり、

もっとも固有な負い目ある存在へと向けて、沈黙したままで、不安に耐えつつ自己投企すること*14

である。

このことを「決意性(Entschlossenheit)」と名付けることにする。

さて、開示性は「根源的真理」であることがわかっている。

この真理は世界内存在の構成要素であり、実存カテゴリーであるから、現存在の根源的開示性は実存の真理として示されている。

現存在の本来性の分析は、この実存の真理を非真理から境界づけるために要求されていたのである。

決意性という概念を手に入れたことで、本来的で根源的な真理が獲得されている。

良心の呼びかけが決意性によって理解される時、その本来的な開示性によって世界の覆いをとって発見されたあり方と共同現存在の開示性が変容する。

つまり、「手もとにあるものへと配慮的に気づかいながらかかわる存在」「他者たちと共にある顧慮的に気づかう共同存在」がもっとも固有な自己でありうること(存在可能)から規定されるのである。

決意性は固有な自己として現存在を世界から引き離すのではなく、「手もとにあるものへと配慮的に気づかいながらかかわる存在」「他者たちと共にある顧慮的に気づかう共同存在」へと押し戻す。

なぜなら決意性もまた世界内存在としてしか存在としてしか存在できないからである。

ここで初めて他者たちをそれぞのに固有な存在可能において存在させ、その他者たちの存在可能を顧慮的な気づかいにおいて開示することが可能となる。

すなわち、決意性を持った現存在は他者たちにとっての良心となりうるのである。

つまり、本来的な自己存在である決意性によって本来的な共同相互性が成立するのだ。

決意性はその時々の事実的な現存在において実現されていて、それは理解しながら投企する「決意」として実存している。

そこで現存在は何に基づいて、何に向けて決意するのだろうか。

その答えは決意のみが与えうる。

なぜなら決意は事実的な可能性を開示しながら投企し、それを規定することだからである。

決意性には規定されていないあり方が属しているが、それはその時々の決意によって規定されることになる。*15

現存在が「現」において開示されていることは、現存在が真理と非真理のうちに身を置いていることを意味した。

同じことが決意性についても当てはまる。

すなわち、現存在は「ひと」によって解釈されたあり方で存在することという「非決意性」のうちで存在しているのだ。

「ひと」は決意性によって呼び覚まされた現存在をまだ支配しているが、決意を取り消させることはできない。

決意性と同様に決意も「気づかいながらかかわる存在」「共同存在」に向かっているから、決意によって事実的に可能なものが開示される。

しかしそれは単に事実的なのではなく、もっとも固有な存在可能として可能であると開示するのである。


このように決意した現存在の実存論的に規定されたあり方は、「状況(Situation)」と名付けられる現象の契機を含んでいる

状況という語には空間的な意味が含まれているが、それは「現」にも含まれるものなので除去する必要はない。

「現」の空間性が「距たりを取り去り方向を合わせること」として世界内存在の開示性に基づいているように、状況は決意性に基づいている。

状況とは、決意性において開示される「現」なのである。

「現」に向かって決意することでその時々の事実的な適所性が開示される。

すなわち決意というあり方においてのみ「偶然」的な事象が共同世界や周囲世界から現存在に降りかかることが可能となるのである。

このような状況は「ひと」においてはありえない。

決意性は「良心を持とうと意志すること」の実存論的構造を確定している。

良心の呼び声は「状況」へと呼び出すものなのである。

良心はこのように実存論的には積極的な意義を持っているので、良心が批判的にしか作用しないという解釈は表面的なものに過ぎない。

以上のように良心の呼び声を決意性と解釈することで、それが現存在の「根拠」のうちにある存在の仕方であることが明らかになる。

そしてそのようなあり方において現存在は最も固有な存在可能に「あかし」を与えながら、決意することで事実的な実存を可能とするのだ。

上のように決意性を定義することで現存在の「本来的な全体的存在可能」の意味が決定できるようになった。

そして死へとかかわる現存在の本来的存在は空虚な理念ではないことも示された。

しかしその本来的存在は純粋に実存論的な投企に過ぎず、それが現存在に適合的であるというあかしが欠けている。

そのあかしが与えられて初めて現存在の「本来的な全体的存在可能」が提示され、現存在の存在の意味への問いが準備されることとなる。

コメント

第二篇第二章では、第一章で論じられた「死に関わる本来的な存在可能」が可能なのかどうか、それが現存在の構造から正当化されるかどうかが議論される。

そのような正当化が「良心」「負い目のある存在」「決意性」といった道具立てによって行われることになる次第は本文要約を参照してほしい。

疑問に思ったのが「自由」という概念の扱いである。

現存在は良心の呼び声に対して自由に開かれていて、固有の自己を選択すると記述されているが、それは可能なのだろうか。

これについてはその可能性自体がこの章の争点であったように思う。

現存在が頽落して状態すなわち「ひと」の支配から脱しうるのは「良心」が呼んでいるからであり、その良心は現存在の構造そのものから生じてくる。

そして現存在がその本質からして良心の声を聞きうる「負い目のある存在」であることも確認されている。

良心と負い目のある存在はどちらも現存在の構造から導かれたものだから、それらが対応しているというのも納得できる。


さて、自由については他に投企の「無-性」というところで現存在が諸可能性に開かれて自由であることが述べられている。

この場合被投性がある以上現存在はすでに投企してしまっているわけだから、自由だと言えないと思える。

しかしその投企が固有な現存在における「決意」なら、そこにおいては一旦全ての関連が途絶えているので自由だと言えるかもしれない。

ここで思うのはこのような自由とか決意は「行為者原因」、つまり不動の動者としての人間精神へと帰ってくる理念ではないかということだ。

世界内存在というものを基礎に据えながら、結局は世界と独立な自己を設定してしまっているのではないか。

そもそもハイデガーが固有な本来的存在を世界と独立な自己と考えていない可能性もあるので、その辺りはさらに読み込みたい。


他にここで明らかになるハイデガーの真理観が面白かった。

先に真理は現存在の開示性であると述べられたが、その現存在の本来性はここでの特徴付けを待たなければならなかった。

現存在が本来的であって初めてその開示性としての真理も本来的になるのである。

そして本来的な現存在は死に先駆したり負い目があったりする固有な存在であり、そこにおいてもまた決意という形で世界の中へと投企している。

だから本来的な真理(改めて見ると変な表現だが)は一旦このような本来的なあり方を経由することで可能となるのである。

世界の真実を知るために自分の死を意識したり負い目を感じたりする必要があるというのはかなり面白い帰結だろうと思う。

*1:普段使う言葉で言えば良心によって「我に帰る」ということだろう。

*2:1.2.2.55.807. p223

*3:1.2.2.57.820 p240

*4:1.2.2.57.821 p241

*5:「本来的な存在可能」の可能性というテーマから読もう。

*6:

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

ハイデガー『存在と時間』(三)① - Revenantのブログ

*7:1.2.2.58.842 p266

*8:他者における欠如と根拠における欠如の二重性に注意。のちの被投性と投企それぞれの「ない」につながる。

*9:Nichtigkeitを「無-性」と訳すのはわかりづらい気がする。「否定性」とかでいいのでは。

*10:1.2.2.58.855 p287

*11:1.2.2.58.866 p300

*12:これは「事実的な」良心なのか?

*13:負い目のある存在=固有な現存在=死=関連をもたない存在

*14:1.2.2.60894 p338

*15:決意性が規定されていないのは死が規定されていないから?

ハイデガー『存在と時間』(三)①

学術書 レビュー


熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事一つ目。

この記事では第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第四十五節 現存在の予備的な基礎分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的解釈の課題

第一篇において「気づかい」として現存在を特徴付けたが、それは根源的な解釈なのだろうか。

存在論的探究もまたひとつの「解釈」であり、その解釈とは理解された有意義性の全体を個々の存在者へと分節化することであった。

さらにそのような解釈が個々の存在者の全体を適切に分節化しているか確認されなければならない。*1


これまでの現存在の解釈は日常性から出発するものであったから、それは「本来性」を問う根源性が欠けていた。

また現存在の全体は「気づかい」として見て取られたけれど、日常的な現存在は「誕生と死」の間にある存在である。

そして「存在可能」として存在している限り、現存在はまだ現実的な何者でもない。

ゆえに現存在を全体的に解釈すること(個々の存在者として分節化すること)は失敗する運命にあるのではないか。


以上のことからわかるのは、ここまでの現存在の解釈は根源的なものではなかったということだ。

それを根源的にするために、現存在の存在の本来性と全体性に光をあてなければならない。

このようにして現存在の全体を解釈の「あらかじめ持つこと」において捉えなければならないことになるが、このことは現存在の存在可能の全体を問うことを意味する。

存在可能としての現存在は常に可能性として存在しているが、しかしその可能性には「死」というおわりが属している。

このおわりによって現存在の全体性は境界付けられているため、現存在の全体を解釈するために「死」を実存論的に究明する必要がある。

また現存在が「本来的」に存在していることの基準がなければならないが、それを明らかにするのは「良心」である。

さらに現存在の存在根拠は「時間性」である。

この時間性から現存在が「歴史的」であること、また気づかいが時間を計算に入れなければならないことが示される。

また「時間」の根源である「時間内部性」を解明することで明らかになる「時間化可能性」によって「時間化」に対する了解が準備される。

この時間化に現存在の「存在了解」が基づいているのである。

第一章 現存在の可能な全体的存在と、死へと関わる存在

第四十六節 現存在に適合的な全体的な存在を存在論的に把握し、規定することの見かけ上の不可能性

現存在は全体的に解釈されうるものなのだろうか。

気づかいには「自分に先立って」という契機を持っているため、現存在は常に存在可能として、すなわち「可能性」として存在している。

だから現存在は「未完結」であり、存在可能に対して「未済」なのである。

現存在の「未済」が失われたとき可能存在としての現存在はもはや存在していない。

だから現存在の全体を経験することは不可能である。

そうであるならば現存在の全体を解釈しようという試みは不可能ということになるのではないか。

ここで疑問となるのは、ここまでの論証で「先立って」ということが実存論的な意味で捉えられていたかということだ。

「おわり」や「死」を改めて実存論的に分析しなければならないだろう。

第四十七節 他者たちの死の経験可能性と、全体的な現存在の把握可能性

現存在は他者との共同存在だから、他者たちの死は一見客観的に接近可能なもののように見える。

しかし他者たちが死んで世界に存在しないことは、それも一つの存在の仕方なのである。

他者は死によって現存在から目の前にあるものに「反転(Umschlag)」する。

それでも死者は葬式などにおいて配慮的な気づかいの対象であるから、死者が立ち去った世界の側では故人とともに存在することができる。

私たちは他者の死を経験することはできず、ただその場に居合わせることができるに過ぎない。

そこでは死の存在論的な意味は解明されないのである。

まずもって現存在の死について他者の死を主題にするという考えは、現存在は他者と代替可能であるという前提に基づいている。

確かに共同相互存在の配慮的気づかいは代替可能である。*2

またこの代替可能性は世界に共に没入していること、現存在同士が相互に頽落していることに基づいている。

しかしこの代替可能性は現存在の全体を問題とした時には成り立たない。

だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。(Keiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen)*3

誰かが代わりに犠牲になることはあり得るが、それは気づかいの「何かについて」犠牲になるというだけのことであり、他者の死を免除することにならない。

だから死はそれぞれの現存在に固有のものであり、そこでは現存在に固有の存在(実存)が問題となっている。

ゆえに死は実存論的に分析されなければならない現象なのだ。

現存在の死は生きているものが世界から立ち去ること(「生きおわること」)とは区別される。

この区別を明確にし、また「全体性」や「おわり」という現象を規定しなければならない。

第四十八節 未済、おわり、および全体性

本節で見るように「おわり」「全体性」についてのさしあたり得られる概念は現存在を存在論的に特徴づけるものとしては不適切である。

現存在がおわりに到達することの意味は現存在そのものから取り出され、また「おわり」が現存在の全体的存在をどのように構成するのかが示されなければならない。

ここまでで「死」についてわかったことは以下の三つである。

  1. 現存在には常に「なお〜ない(Noch-nicht)」、つまり「未済」が属している。*4
  2. その未済が除去されたとき、もはや現存在は存在しない。
  3. おわりに到達することは他の現存在によって代替不可能である。

さて、現存在が「なお〜ない」ということは「未済」と理解していいものなのだろうか。

未済というのはあるものが「属している」が欠落している状態のことである。

例えば貸金が返ってきていないとき、未済の金は貸した人に属しているがまだ手に入ってはいない。

ゆえに未済の金は「手もとにないもの」であり、それ対してすでに返ってきている金は「手もとにあるもの」として存在している。

このような欠落によっては手もとにあるものとしては存在しない現存在の「なお〜ない」を規定することはできない。

現存在の「なお〜ない」が補充されることによって現存在が完成するのではない。

それどころか現存在は常に「なお〜ない」が属するしかたで存在しているのだ。

他にも月が欠けているとき「なお〜ない」と語られるかもしれない。

その場合月は初めから全体として目の前にあり、ただ欠けている部分が認識されないというだけである。

しかし現存在の「なお〜ない」は認識不可能であるだけでなくまだ存在していない。

それならば「ない〜ない」とは生成変化ということを意味するのだろうか。

生成変化するものとして例えば未熟な果実が挙げられる。

成熟へと「みずからをもたらす」ことによって未熟な果実は特徴付けられる。

しかし成熟と現存在の死は異なったものである。

なぜなら、果実は成熟において自分を完成されるが、完成した現存在が死ぬというわけではないからだ。

さて、それでは死はどのような意味で現存在の「おわり」として理解されなければならないのだろうか。

さしあたり「おわること」は止むことや仕上がることを意味するが、それらは手もとにあるものや目の前にあるものの規定である。

ゆえにそのような意味の「おわり」が現存在に妥当することはない。

現存在が常に自分の「なお〜ない」であるのと同様に、現存在は常に自分の「おわり」なのである。

おわることとしての死は現存在がおわりに達することではなくて、おわりに関わっていることを示している。

死は現存在が誕生した時から常に伴っている存在可能、存在する様式なのだ。

このことが実存論的に解明されなければならず、またそれによって「なお〜ない」という存在可能が理解できるようになるだろう。

そして死によって構成される現存在の全体性について語ることの意味も明らかにされるはずである。

死とおわりを実存論的に分析するならそれは現存在の根本体制である「気づかい」を手引きとして行われるだろう。

第四十九節 死の実存論的分析を、当の現象について他に可能な解釈に対して境界づけること

死についての存在論的な解釈はなにを問うことができず、またそこからなにを得ることができないかを明らかにしておかなければならない。

死を生命現象として見る生物学的—生理学的な研究の根底には死についての存在論的な問題系がある。

現存在は単に「生きおわる」わけではないが、生命としての死を持ってもいる。

この中間現象を「生をはなれること」と呼ぶことにしよう。

それに対して「死ぬこと」は現存在が死に関わり続けている存在様式である。

「死ぬこと」がある限りで現存在は生をはなれることができる。

同様に死の実存論的な解釈は死についての伝記的—歴史的研究や民俗学的—心理学的探究を基礎づけている。

また死後の世界などの「彼岸」について問われうるのは、「此岸」すなわち現存在の中に立ち現れてくる死という現象が把握された時である。

他に「死どのようにして現れたのか」、「死はどのような意味を持っているのか」というような「死の形而上学」も実存論的分析の外にある。

第五十節 死の実存論的—存在論的構造をあらかじめ素描すること

死という現象は現存在の根本体制に基づいて解釈することが必要であるとわかったが、その根本体制とは「気づかい」である。

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

この三つの契機はそれぞれ頽落、実存、事実性と言い換えられる。

これらが死という現象に即してどのように提示されてくるかを明らかにしなければならない。

おわりは「未済」ということではなく、現存在は常におわりに関わって存在している。

だからおわりは現存在に「さし迫っている(Bevorstand)」。

しかし目の前にあるものも世界内存在にさし迫ることができるので、さし迫ることだけで死を特徴づけることはできない。

一方、他者と対決することといった共同存在に基づいた存在可能も現存在にさし迫ることができる。

死は自らの最も固有な存在可能として現存在にさし迫っている。

そして死はもはや存在できないという存在可能であり、死において現存在は他者への全ての連関を断ち切られている。

このようにして死は際立って特徴付けられた「さし迫っていること」なのである。

このことが可能なのは現存在が〈じぶんに先だって〉開示されていることに基づいている。*6

そして現存在は常に死という可能性に投げ込まれている。

この事態はまた「不安」という情態性において露呈されている。*7

多くの人は死について無知でいるが、それは現存在が死という存在可能から逃避していることを示している。

気づかわれた世界に頽落していることが、ここでは死、そして死への不安からの逃避として提示されたことになる。

以上から〈のもとでの存在〉〈じぶんに先だって〉〈内ですでに存在していること〉という気づかいの契機が死の実存論的概念を構成していることが明らかとなった。

死が現存在の全体を分節化するものであるなら、それと関連する気づかいは現存在の構造全体の全体性を表現する名称となるだろう。

しかしこの死と気づかいの連関は、さらに現存在の日常性に即して正当化されるべきである。

第五十一節 死へとかかわる存在と、現存在の日常性

日常性において現存在は「ひと」として頽落していて、そのあり方は「空談」によって特徴付けられている。

その空談のなかにある情態的な理解によって、死へと関わる存在がどのように開示されているかが問題となる。

「ひと」において「死」は他者の「死亡事例」として語られ、それは自分には関係ないことだと捉えられる。

「ひと」の死は誰でもない者の死なのである。

空談に属するあいまいさによって「死」についての語りはあいまいなものとなる。

すなわち、死が現実的な事例であると語られることで死が可能性であること、そしてそこにおいて現存在は関連を欠きそれ以上存在できないという死の性格が覆い隠される。

このような逃避にあって、人は死にゆく者に死を免れて配慮的気づかいの日常に帰れるという慰めの言葉をかける。

これは関連を欠いた存在可能である「死」を覆い隠すことなのだ。

この隠蔽は死にゆく者にとっても周りの現存在にとっても慰めである。

また「ひと」の公共性は「生をはなれること」によってかき乱されてはならないから、他者の死に「社交的な不愉快さ」が見出される。

「ひと」は現存在が「死」に対してどのように関わるべきかということも規定している。*8

「ひと」は死への「不安」を到来しつつある出来事についての「恐れ」に転倒させてしまう。

「恐れ」となった死への「不安」は弱さであり、それに無関心でなければならないとされてしまう。*9

このことによって現存在は「死」から疎外されてしまう。

しかし、頽落して死から逃避することで現存在は「ひと」そのものが死へと関わる存在であることを開示してしまう。

つまり現存在にとっては「ひと」という日常的なあり方においても、死に対して無関心という形で気づかうことで死が問題となっている。

この死から逃避している日常的な現存在を解釈することで「おわりへとかかわる存在」が完全に実存論的に分析されるだろう。

第五十二節 おわりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念

前節とは反対に、おわりにかかわる日常的な存在から死の完全な実存論的な概念が獲得されなければならない。

日常性において、「死なない人間はいない」という形で「ひと」は死の確実性を認めている。

しかしその死は現存在固有の存在可能としては認識されていない。

だから日常性においては死の確実性は曖昧に承認されるにとどまり、「死のうちへの被投性」は軽減されることになる。

本来的な「死の確実性」はどのようなものなのだろうか。

ある存在者に確実性を認めることは、その存在者を真なるものとして保存することである。

すなわち、確実性は覆いをとって発見することである真理に属している。

真理が根源的には現存在の開示性であったように、確実性も「確実であるとする」という現存在の存在の仕方である。

そしてそこから導出された意義によって存在者が確実であると言われることになる。

この確実性の一様態として「確信」がある。

確信において現存在は覆いをとって発見された現象そのものに基づいてのみ、その事象と関わる存在となる。

真なるものとして保存することが、真理のうちで存在すること(真理内存在)となるのは、そのような現象に関わり、またそれに適合したものとして自分を見通している場合のみである。

この真なるものとして保存することが十分であるかどうかは、開示される存在者の存在の仕方や開示に方向によって正当化される「真理要求」によって測られる。

なぜなら、存在者やその開示の方向の差異に応じて真理であるあり方や確実性も変化するからである。

当面の考察は死の確実性についてのものだが、この考察によって現存在の際立って特徴付けられた確実性が示されることになる。

現存在が日常性に置いて死を覆い隠していることは、現存在が非真理のうちで存在している(非真理内存在)を確証している。

ゆえにこの隠蔽に帰属する確実性は、適切でない形で真理を保存することであるはずだ。

「ひと」は死を出会われる出来事だと見ているから、そこにおける確実性では死へと関わる存在が隠蔽されたままである。

だから「ひと」が死は確実だと語るとき、個々の現存在が死を自身の存在可能としてそのつど確実だと認識しなければならないことが見過ごされている。

日常的な「ひと」による確実性の根拠はどこにあるのだろうか。

それは「ひと」が他者の死を常に経験し続けていることである。

この場合死に帰属させうるのは経験的な確実性、つまり蓋然性だ。

しかしこのことによっては死の確実性について何の決定も下されていない。

だが「ひと」が死の経験的な確実性についてしか語らないとしても、現存在はそれとは別の仕方で死を確実なものとしている。

頽落した現存在は死の本来的な確実性を見知っていながら、それでも死を確実なものとすることを回避している。

そしてこの回避によってその対象として死が「確実な可能性として把握されなければならない」ということが明らかになるのである。

人は「死は確実だが、当分まだやってこない」と言うが、それは「ひと」の自己解釈でありそれによって配慮的気づかいが可能なものへと自分を指示している。*10

配慮的に気づかうものに頽落することで現存在は死という存在可能を忘れているのだ。

こうして〈ひと〉は死の確実性の特有なことがら、つまり死はあらゆる瞬間に可能であることを覆い隠してしまう。*11

また死の確実性には死がいつ訪れるのか決まっていないことが属している。

このことをまた「ひと」は直近の気づかいの対象の背後に覆い隠してしまう。

以上から死の確実であるが規定されていない、つまりどの瞬間でも可能であるという性格が「ひと」によって隠蔽されることがわかった。

そしてこの考察で死の実存論的概念は以下のようなものであることがわかった。

すなわち、現存在のおわりとしての死とは、現存在が有する、もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性である。死は現存在のおわりとして、おわりへとかかわる現存在という存在者の存在のうちで存在しているのである。*12

この死の概念は現存在の全体性を解釈するために役立つ。

日常的な現存在も常に死にかかわって存在しているから、死は現存在が生を離れる際に達成されるものではない。

気づかいの「なお〜ない」という「自分に先立っていること」から、現存在を全体として解釈することができないということは帰結しない。

むしろこの「自分に先立って」こそがおわりへとかかわる現存在を可能とするのだ。

すなわち現存在の全体を問題として取り上げることができるのは、その根本体制である気づかいが死と「連関する」場合のみなのである。

しかしこの問題はまだ完全に仕上げられているわけではない。

死から頽落して回避することは死に関わる非本来的な存在であるが、現存在は常にその非本来的なあり方をしていなければならないわけではない。

現存在は実存しているからこそ、自分が理解しまたそれ自身であるところの可能性から自身を規定している。

しかし現存在はこの節で特徴付けられたような死を理解しうるのだろうか。

すなわち、死へとかかわる本来的なあり方を獲得できるのだろうか。

この本来的なあり方が存在論的に規定されない限り、死の実存論的な分析は不完全である。

死へとかかわる本来的なあり方もまた存在可能であるが、この可能性の実存論的な条件、またそれがどのようにして接近可能であるかを問わなければならない。

第五十三節 死へとかかわる本来的な存在の実存論的投企

死へとかかわる本来的なあり方へと投企することは本当に可能なのだろうか。

現存在はこの本来的なあり方の存在論的な可能性を客観的に特徴付けてくれるのだろうか。

死の実存論的概念が解明されることで死へとかかわるあり方が関係すべきものが明らかになり、また非本来的なあり方が解明されることで本来的なあり方がそうでないはずのものが明らかにされた。*13

そこから死へとかかわる本来的な存在が実存論的に構築されなければならない。

現存在は開示性、すなわち情態的な理解によって構成されているから、死へとかかわる本来的な存在においては死を前にして回避したり、隠蔽したり、転釈することはできない。

死へとかかわる本来的な存在への投企によってその存在を構成するこれらの契機が取り出されなければならない。

まず問題となるのは、死へとかかわる存在を「ひとつの可能性へとかかわる存在」として特徴づけることだ。


手もとにあるものや目の前にあるものの可能性を現実化するあり方は何かを探して外にいることを意味する。

しかし現実化されたものも適所性を持っていて〜のために可能的なものであるから、その区分は相対的である。

この何かを探して外にいることは可能的なものから「目くばり」によって「何のために可能的か」ということに目を移していることなのだ。

それは死へとかかわる存在ではありえない。

なぜなら死は手もとにあるものや目の前にあるものではないし、死を現実化すれば現存在は存在できなくなってしまうからだ。

死へとかかわる存在がそれを現実化することではないのなら、それは「死のことを考えること」なのだろうか。

しかしそこにおいては死の可能性は最小にすべきだと考えられて、可能性という死の性格が弱められてしまう。

死へとかかわる存在において死をそのままに開示しなければならないとしたら、それも不適当だろう。

可能的なものを可能性として扱うあり方は「期待」である。

しかし期待は可能性の現実化を待ち受けていることであり、結局は現実的なものが期待されている。

一方死へとかかわる存在は死を可能性として開示しなければならない。

そのように可能性へとかかわる存在を「可能性へと先駆すること(Vorlaufen in die Möglichkeit)」と呼ぶことにする。

先駆することによる接近は可能性を配慮的に気づかいながら現実化することではなく、むしろ可能性を「より大きく」する。

可能性としての死へとかかわる存在の示すもっとも身近な近さは、現実的なものから可能な限り遠いのだ。*14

死という可能性に先駆することでその可能性が大きくなるとは、死がどのような尺度も持たない現存在の不可能性という可能性として開示されることを意味する。

死へとかかわる存在は先駆することとしての現存在が「有する」存在可能への先駆である。

このように先駆することで現存在は自分自身に対して自分を開示する。

その時もっとも固有で極端な存在可能を理解すること、すなわち本来的に実存することが可能となる。

この本来的実存の構造は、死への先駆の具体的構造をその諸性格を規定することによって特徴づけることで見て取られるだろう。

なぜなら「先駆しながら開示すること」が純粋に理解されるのは死という存在可能によってだからだ。

注意すべきことは、理解は投企によって開示される存在可能において自分を理解することだということだ。

死は最も固有な存在可能でありそこで現存在は「ひと」から引き離されることが可能である。

同時に死は関連を欠いているから、現存在は頽落することなくそれを「自分の側から」引き受けなければならない。

すなわち、死において現存在は「単独化」される。

同時にこれは「現」を開示するひとつの様式なのだ。

しかしこの時気づかいが現存在から切り離されているわけではない。

現存在が本来的に存在するのは、気づかいとして死に投企しながら「ひと」の可能性には投企しないときなのである。

先駆は追い越すことのできない死にむかって自分を明け渡す。

死に向かって先駆しながら自由になることで偶然的に迫ってくる可能性から解放され、死の手前に広がっている可能性が理解され、選択される。

死への先駆によって「自己放棄」が開示されて、そのつど到達された実存に固執することを防ぐ。

おわりによって規定される有限的なものとして理解された可能性に自由に開かれている現存在は、他人の可能性を自分のものと混同したり、それによってもっとも固有な実存を捨ててしまう危険性を回避している。

また死への先駆によって有限的となることで、全体的な現存在を先取りする、すなわち「全体的存在可能」として存在する可能性が開かれる。

現存在が死を確実な可能性として開示するのは、先駆によって死が開示され可能となることによる。

だから開示されたものを確実にすることのためには先駆することが必要である。

そしてその確実性は目の前にあるものの確実性とは全く異なり、またより根源的なものなのだ。

なぜなら先駆することによって初めて現存在は自分の固有な可能性を自分の全体性において確信できるからである。

死は未規定的だが先駆はこの性格をどのように開示するのだろうか。

未規定的な死に先駆することにおいて現存在は常に脅かされている。

この脅かしを開示する情態的な理解とは「不安」なのである。*15

すなわち未規定的な死を前にして現存在は不安という情態にありそれを理解している。

このことから先駆によって現存在の全体を開示することには不安という情態が属していることがわかる。*16

以上から死へとかかわる本来的な存在は以下のような特徴を持っていることがわかる。

先駆することで「ひと」から解放された個別の現存在としてありうる可能性の前に置かれ、またこの個別の現存在とは不安にとらわれている死へとかかわる自由を持つ存在なのだ。

このような死へとかかわる本来的な存在は実存論的には可能だが、それが現存在そのものから証明されていない限り一個の空想的なものにとどまる。

現存在はこの本来的な存在可能を自分の固有な存在の根拠から要求するものなのだろうか。

この問いに答えるため、現存在が実存の可能な本来性について自身の本来的な存在可能から証拠を与えているのか、またそれを要求しているのかを解明しなければならない。

これまではたんにその存在論的可能性において投企されてきたにすぎない死への先駆は、はたして、あかしを与えられた本来的な存在可能と、その本質からする連関のうちに置かれるのだろうか。*17

コメント

存在と時間』の読解も第三分冊に入った。

この第二篇第一章で問題となるのは「死」である。

そもそもなぜ死が問題となるのかというと、その死をもって初めて現存在が一つの個別として完結するからである。

「魂」や「思惟」という実体から現存在の考察を始めないことによって、まずさしあたって存在するのは無差別的に溶け合った世界ということになる。

だからその世界から個別の現存在を切り出すという課題が生じるのである。

個別のものを切り出すというのは第一篇において「解釈」や「語り」として分析された現象である。

ゆえにまず「解釈」という概念からこの第三分冊はスタートすることになる。


第一章ではこの「死」について、その性格やそれと現存在の関わり方が考察された。

概ねすんなりと読めたが、第五十三章での「死」と「自由」の関わりがうまく飲み込めなかった印象がある。

死への先駆によって自由が得られるというというということが記述されているが、それは具体的にどういうことなのだろうか。

そもそも問題なのが、ハイデガーが「自由」という概念をどのように捉えているのかがここでは明瞭でないというところだ。

「選択」という言葉は登場するのでとりあえずは選択の自由をもっていることだと解釈してみよう。

それならば、現存在は可能存在として複数の可能性を持っていて(可能性として存在していて)そこから選択することが可能となるのだろうか。

しかし死によってそれが可能となるというのがよくわからない。

他に「ひと」の支配を受けないことが自由なのだと解釈することもできそうである。

その場合死によって現存在が「ひと」に頽落することができなくなって単独化することと繋がるだろう。

「ひと」は現存在のあるべきあり方をすでに決定しているから、そこから解放されることは「〜すべき」からの自由を意味することができそうである。

なんにせよ記述が少なくここだけでの読解は難しそうなので、のちに自由について記述があるならそこを参照しながら考えたい。


疑問点以外に面白かったのは現存在が常に死の可能性「であり」、それを隠蔽して生きているというところだ。

考えてみれば私たちが次の瞬間も生きているという保証はどこにもない。

しかしそれを考え続けて生きることは本当に可能なのだろうか。

そういった点が「死へとかかわる本来的な存在」が可能なのかどうかという問題意識になったのだろうと思う。

ここについてのハイデガーの記述もまた抽象的なので、これを具体的な生活に即して考えてみる必要があるだろう。

*1:分節化とは初めと終わりを境界づけることだが、誤った範囲での境界付けもありうる。

*2:例えば道具を他者の代わりに使うなどのことができる。

*3:1.2.1.47.713 p92

*4:「なお〜ない」は現存在が可能存在として存在していることだろう。

*5:1.2.1.50.745 p131

*6:死への先駆による開示(第五十三節の内容)を意識しているのだろう。

*7:有意義性を見失う情態が「不安」であるという解釈に沿うだろう。死においてあらゆる有意義性は存在しない。

*8:この辺りの話で思うのだが、おそらく倫理や道徳についてこの「ひと」が規定しているという形でハイデガーは考えているのだろう。

*9:恐れには、何かを脅かすものとして適所性がある。しかし不安には一切の適所性がない。

*10:死はまだやってこないのだから何か(気づかい)をしていようということ。

*11:1.2.1.52.711 p168

*12:1.2.1.52.773 p170

*13:前々節、前節の内容

*14:1.2.1.53.785 p186

*15:情態的な理解≒被投的な投企。

*16:第五十一節の内容を参照。

*17:1.2.1.53.796 p207

ハイデガー『存在と時間』(二)④

学術書 レビュー


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事四つ目。

この記事では第一篇第六章後半(第四十三節〜第四十四節c)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com




また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第六章 現存在の存在としての気づかい

第四十三節 現存在、世界性、および実在性

存在の意味を問うことができるのは存在了解があるからであり、現存在の存在体制に存在了解が含まれているから、現存在の解明に成功するほどに基礎存在論的な問いは目標へと近づいていく。

現存在の開示性の中で世界内部的な存在者が発見されているから、現存在の存在了解は全ての存在者を包括しているが、それは様々な存在様態に即して分節化されているわけではない。

理解においても現存在は頽落して世界の側で存在しているから、存在了解は基本的に世界内部的な存在者の方に向かっている。

そしてその際に手もとにあるものは飛び越えられて目の前にある「事物の連関」として捉えられ、存在していることは「実体であること」と考えられる。

そこで現存在も同じように目の前にある「もの」として考えられて、こうして一般的に存在するということが「ものであること(Realität)」という意味を帯びることになる。

こうして存在論的探求において「実在性(Realität)」が主要な問題となってくるのだ。

この実在性の優位は現存在の正しい構造や手もとにあるものの分析を妨げてしまい、最後には存在論そのものの方向を逸らせてしまう。

だから存在への問いを正しく行う際には実在性への方向づけを脱しなければならない。

そのためには実在性が現存在、世界、手もとにあるあり方によって基礎づけられていること、そして実在性についての問題の「条件と限界」を示さなければならない。

「実在性の問い」は以下の四つが入り混じっている。

1「意識を超越している」と思いなされている存在者はそもそも存在しているのか、2「外界」のこうした実在性ははたして十分に証明されうるのか、3この存在者は、それが実在的であるなら、どこまでその自体存在において認識されうるのか、4この存在者の意味すなわち実在性とは、そもそも何を意味しているのか、がそれである。*1

実在性をめぐる探求では

a「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性、b存在論的問題としての実在性、c実在性と気づかい*2

が論じられる。

a 「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性

「実在性」への問いはまず第一に「実在性とは何を意味するのか」というものだが、それは外界の実在という問題と結びついている。

そして外界の実在性の分析は「直感的な認識作用」すなわち意識という通路に基づいている。

実在するものはこの意識に依存しないことが可能なのかどうか、反対にそれが超えていく意識とはどのようなものなのかが解明されなければならない。

この認識作用はここまでで見てきた通り気づかいという体制を備えた世界内存在に基底付けられている。

ゆえに実在的なものは世界内部的な存在者としてのみ接近可能なのだ。

外界が存在するかどうか、その存在が証明されるかどうかという問いは、世界内存在としての現存在を考えるなら無意味である。

なぜなら世界は現存在の存在と共に常に開示されているからである。

人々はそれを無視して外界の実在性への問いを設定しようとしている。

カントのいう「哲学の醜聞」は私たちの外側にある存在に対する証明が今までなされていないことではなく、そのような証明が要求されるということにある。

このような要求は現存在についての把握が不十分であることから生じている。

それなら外界は信念において想定されるべきであると考えても、この問題の転倒は解消されない。

なぜならその場合でも外界の実在に対する証明の要求は依然として存在しているからである。

また人は外界の存在を無意識的に前提としているという主張についても、世界内存在ではなく孤立化された主観という出発点が設定されていると言えるだろう。

現存在についてのあらゆる前提よりも「気づかい」という存在様態が先立っている。

以上から、提示されるべきことは現存在がなぜ外界を一旦見えなくして、その上で証明によって示そうとするのかということである。

その理由は「頽落」と、それに動機付けられて存在了解が目の前にあることとしての存在に向け変えられていることにある。


世界内存在とともに世界が開示されているという言明は、外界が実在しているという「実在論」と一致しているように見えるかもしれない。

しかし実在論は世界の実在について証明が必要でありまた可能であると捉えるという点が異なっている。

それに対して観念論は、存在や実在性は意識の内でのみ可能であると主張するならある点で優位を持っている。

その優位とは存在は存在者によっては説明されえないという了解である。

ただ観念論では現存在の存在了解やそれが存在体制に属していることが解明されないので、存在への適正な問題設定とはなりえない。

そのような解明を行う実存論的な分析においても、「意識の存在の分析」は不可避的な課題である。

存在は現存在によって理解可能である、すなわち意識の内にあるから、現存在は実在性という存在性格を理解できる。

そしてこのことによって非依存的な「実体」も「目くばり」において接近可能となるのである。

主観と客観の二項対立によって実在性の問題を考えることも可能だが、第一に世界内存在を考えるならその二項は事後的に認識されるものに過ぎない。

実在性への問いの認識論的な解決法の暗黙の前提を検討すると、この問いを実存論的分析論にうちに引き戻さなければならないことがわかる。

b 存在論的問題としての実在性

世界内部的な存在者は、世界という現象、それが属する現存在の存在体制が解明されて初めて分析が可能となる。

すなわち、世界内存在や現存在は実在性を解明するための基盤なのだ。

このような土台を書いた分析においても実在的なものの現象学的な特徴を与えることはできる。

それはディルタイの言うように、衝動や意志に対する抵抗や抵抗しているあり方である。

しかしディルタイはこのあり方について存在論的な分析を行えていない。

この抵抗は意志や衝動が狙っているもの、「それにもとづいているもの」に向かうことを妨げられることにおいて現れてくる。

それと同時に意志が「それにもとづいているもの」も開示されている。

さらにこの「〜にもとづいて狙っていること」、すなわち意志の働きは適所全体性の中に組み入れられている。

抵抗の経験、すなわち抵抗するものを努力によって覆いをとって発見することは、存在論的には世界の開示性にもとづいてのみ可能である。*3

抵抗という世界内部的な存在者の特徴によって、そのあり方がどこまで及び、どこを向いているのかが発見される。

しかしながらこの抵抗の総計として世界が開示されるのではなく、抵抗は適所全体性としての世界、そして世界内存在の開示に基づいている。

そして抵抗は独立な意志や衝動において経験されるものではない。

意志や衝動は気づかいとしての現存在の一つの様態だから、気づかいという存在の仕方を備えているものだけが抵抗に出会うことができるのだ。

実在性を抵抗によって規定する場合には、それが実在性の特徴の一つにすぎないこと、抵抗は世界全体の開示を前提とすることに注意しなければならない。

実在性を意識することは世界内存在の一つの存在様式だから、外界の実在性の問題は世界内存在という根本現象への回帰するのである。

"cogito sum"(私は考える、私は存在する)という命題は「私は存在する、私は考える」と逆転されなければならず、さらにその内容が存在論的に検証されなければならない。

「私は存在する」というのはその場合何らかの世界のうちで存在していることであり、それゆえに様々な態度に関わる存在可能性として存在している。

それに対してデカルトは思惟作用が目の前に存在しており、その上で思考する私が無世界的に目の前に存在していると主張しているのだ。

c 実在性と気づかい

実在性は世界内部的な存在者の存在様態の中で特権的なものではなく、世界や現存在を適切に特徴づけるものでもない。

現存在が存在し、存在了解があって初めて、実在的なものの非依存性やそれ自身の存在も与えられる。

それがなければ世界内部的な存在者とそのあり方は理解可能でも理解不可能でもありえない。

存在者ではなく存在そのもの、つまり実在するものではなく実在性そのものが気づかいとしての現存在に依存している。

この点に注意することで、現存在や「意識」「生」を実在性という基礎から分析することが防がれる。

このように現存在が実在性から把握されないことは「人間の実体は実存である*4」という命題によって表現される。

現存在を気づかいとして解釈することで実存論的な分析が終わるのではなく、様々な問題の錯綜が明確になることとなった。

その問題とは以下のようなものだ。

すなわち、存在了解が存在する場合にのみ存在者は存在者として接近可能となり、存在者が現存在という存在の仕方を備えている場合にだけ存在了解は存在者として可能なのである。*5

第四十四節 現存在、開示性、および真理

哲学では古来から真理と存在することが併置されてきた。

例えばパルメニデスは「存在者の存在」と「受け取りながら理解すること」を同一化し、アリストテレスに取って哲学は「真理についての学」であると同時に「存在について考察する学」でもある。

ここでの「真理」は認識論的に主題とされているのではなく、「ことがら」「自分自身を示すもの」として捉えられている。

その場合、存在者もしくは存在として使用される「真理」という語は何を意味しているのだろうか。

この「真理」は現存在、そして存在了解とどのように関わるのだろうか。

また存在了解からなぜ真理が存在を伴うのかが明らかにされるのだろうか。

この探求は伝統的な真理概念の発掘(a)、そこから明らかにされた根源的な真理概念から伝統的なそれが派生的であることの提示(b)、「真理が与えられている」と語ることの存在論的な意味の解明(c)という流れで進んでいく。

a 伝統的な真理概念とその存在論的な基礎

真理概念の伝統的な捉え方は以下の三つのデーゼによって特徴付けられる。

  1. 真理の場所は言明(判断)である。
  2. 真理の本質は判断とその対象との「一致」のうちに存する。
  3. 論理学の父であるアリストテレスは真理をその根源的な場所としての判断に割りあてるとともに、また「一致」としての真理の定義を軌道に乗せた。*6

この真理を一致によって特徴づけようという考え方はカントも言うように空虚であるけれども、それでも一貫されて維持されている以上は何らかの権利を有しているのだろう。

そこでこの一致という「関係」の存在論的な基礎を問うことにしよう。

この判断と対象の一致において非明示的にともに定立されているものは何であり、それはどのような存在論的性質を持っているのだろうか。

「一致」という術語には何かから何かへの関係という形式的な性格がある。

あらゆる一致、「真理」が関係なのであるが、全ての関係が一致なのではない。

例えばしるしは示されたものと関係しているが、一致しているわけではない。

6という数は「16−10」と一致するが、それは数の「どれだけ」という観点において同等だからである。

このように一致には「その観点において」という条件が付随しているのである。

さて、判断とその対象はどのような観点において一致するのだろうか。

判断と対象には同種性がないので同等性は成り立たないが、それでも認識はことがらをそのままに与えるべきではないだろうか。

その場合一致は「そのまま—そのとおり」という性格を持っているが、それはいかにして判断と対象の関係に当てはまるのだろうか。

このような問いから明確になるのは、真理概念は一致などの関係を前提としては解明できないということであり、この関係全体をになう存在連関へと遡って探求しなければならないということである。

認識作用そのものの存在の仕方の解明に必要な分析は、真理という現象を同時に視界に収めるようなものでなければならない。

認識作用において真理が明示的になるのは、認識作用自身が自分を「真なる認識」として「証示」する時である。

この自己証示によって認識作用の真理性が保証されるため、この連関において「一致」の関係が解明されるはずである。

例えば壁を背にしながら「壁にかかっている絵が曲がっている」と言明したとしよう。

この言明(判断)はその人が振り返って絵を知覚したときに証示されるが、そのとき証示されているものは何なのだろうか。

知覚することは表象することではなくて、存在する事物そのものへと関わる存在様式である。

ゆえに知覚することで証示されるのは、言明されたものが表象ではなく存在者そのものであること、そして言明する存在者(現存在)が言明された存在者を「覆いをとって発見する」ということである。

このとき認識作用は存在者そのものに関連付けられ、言明されたものは自分自身に即して自分を示す。

証示されているのは認識作用と対象の一致や意識内容の一致ではなく、存在者そのものが発見されていることであり、その存在者そのものなのである。

この証示が確証されるのは存在者が自分と等しいあり方において自分を示す時だ。

このことは認識作用が存在者そのものへと関わる「覆いをとって発見する存在」の一つである時のみ可能である。

言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。*7

このことはまた、世界内存在に基づいてのみ可能となる。

真理の根源的現象であるこの世界内存在という現存在の根本体制が追求されるべきである。

b 真理の根源的現象、ならびに伝統的真理概念が派生的であるということ

このような「真理」の定義は恣意的なものではなく伝統に根ざしたものである。

ギリシャ語の語源を見ても「真理」すなわち「アレーテイア(ἀλήθεια)」は「ἀ(否定辞)—λήθεια(隠されている、忘れられている)」、つまり「隠されていないあり方」なのである。

覆いをとって発見することとして真であるとは現存在の様態だが、さらにその基礎を問うことによって真理の根源的な現象が示されるだろう。

気づかいによって覆いをとって発見される存在者は二次的に「真」であり、一次的に「真」であるのは発見する現存在である。

なぜなら存在者の発見されたあり方は世界や現存在の開示性にその根拠を持っているからである。

「自分に先立って何らかの世界のうちですでに存在している」という気づかいの構造自体が開示性を自らのうちに持っているのであった。

この開示性によって存在者は発見され、「真理のもっとも根源的な現象」が可能となる。

現存在が開示性であり、また開示するために現存在は本質からして「真」であり、それゆえに「現存在は「真理の内で」存在している*8」のである。

このことは以下のような規定によって表現される。

  1. 現存在の存在体制には気づかいという現象によってあらわになる、(世界内部的な存在者も含めた)存在構造の全体を包括する開示性一般が属している。
  2. 現存在の存在体制には開示性の構成要素として「被投性」が属している。
  3. 現存在の存在体制には「投企」が属しているため、自身の存在可能を開示していく。*9
  4. 現存在の存在体制には「頽落」が属している。だから存在者は覆いをとって発見されているけれども、空談、好奇心、あいまいさによって「すり替え」られている。

第四の規定に関してはさらに、

現存在はその本質からして頽落するものであるがゆえに、その存在体制の面から言えば「非真理」のうちで存在している。*10

現存在は真理のうちに存在していると同時に、非真理のうちで存在している。

現存在や存在者が開示されているからこそ、それらは隠されたりすり替えられたりすることが可能なのだ。

したがって現存在はすでに発見されたものについても隠蔽やすり替えに対抗して繰り返し確認しなければならない。

その探求は隠されたあり方から出発するのではなく、見せかけという様態で発見されたものから出発する。

存在者は何らかの様式ですでに覆いをとって発見されていながら、それでもなおすり替えられているのだ。*11

だから真理は常に隠されたあり方から戦いとられなければならない。

世界内存在は「真理」と「非真理」によって規定されているが、その条件は被投的投企という存在体制のうちにある。

以上のことは「一致」としての真理が開示性に由来していながら変容していることと、開示性は真理の構造の解明を導いていくということが示されたとき完全に見とおされる。

現存在の開示性には「語り」が属していて、現存在は覆いをとって発見する自分を言表する。

そのように言表する言明は発見される存在者についてのものである。

言明は存在者がどのように発見されたかを伝達し、さらに伝達された現存在は話題となっている存在者に関わる存在として発見される、

存在者の発見されたあり方は言明において保存されていて、それは存在者への連関を持つ手もとにあるものとしてのあり方である。

覆いをとって発見されたあり方は、語られたり聞き伝えられることで把握される。

言明のうちで発見された存在者がそのあり方について明示的に把握されるべきであるなら、それは言明が覆いをとって発見するものとして証示されるべきであるということである。

言明は存在者の手もとにあるあり方を保存するものだから、それは言明が存在者へと関連することを証示することを意味する。

またこの言明はそれ自身が手もとにあるものとして、「〜(存在者)についての覆いをとって発見されたあり方」を持っている。

しかしこの言明と存在者の連関が目の前にあるものの間の関係に切り替わることで、それら(判断と対象)同時の適合性(「一致」)という真理概念を導き出してしまうのである。*12

以上で伝統的な真理概念が派生的なものであることが示された。

一般に考えられるように言明は真理の第一の場所なのではなくて、覆いをとって発見されたあり方を把握する現存在の様態である。

そしてそれは現存在の開示性に基づいているから、その開示性こそが最も根源的な真理である。

だから真理はひとつの実存カテゴリーなのだ。

c 真理が存在するしかたと、真理の前提

開示性は現存在が存在するときのみ発生するから、以下のことが帰結する。

真理が「与えられている」のは、ただ現存在が存在しているかぎりにおいてであり、またそのあいだのみである。*13

このことは、例えばニュートンの諸法則が発見される以前は偽であったということを意味するのではない。

そのような諸法則は発見される以前には真でも偽でもなかったのである。

法則の発見によって、その法則とともに存在者は接近可能となる。

そして覆いをとって発見された存在者はそれ以前にも既に存在していたものとして自分を示す。

そのようにして発見することが真理が存在するしかたなのである。

以上から真理は現存在に相対的であることになるが、それは真理が「主観的」であることを意味しているのではない。

なぜなら覆いをとって発見することは恣意的なものでなく、現存在は存在者そのものと出会うからである。

存在者が自身に即して発見されるからこそ「普遍妥当性」が確保される。


このようにして真理の存在の仕方が解明されたが、ここでさらに真理を前提することの意味も把握される。

私たちは真理を前提するのは私たち現存在が「真理のうちに」存在しているからなのである*14

このことからわかるのは、私たちが真理を前提しているのではなく、真理が「私たちが何かを前提して存在すること」を可能にするということだ。

つまり真理は「前提」というものを可能にする条件なのである。

前提することは、あるものを他の存在者の存在の根拠として理解することであり、このような存在の連関は開示性に基づいてのみ可能である。

このとき真理を前提にすることは現存在の存在の根拠として真理を理解するということである。

また現存在は世界に投げ込まれたものとして常に自分に先行している。

このように存在が先行していることが最も根源的な「前提すること」なのである。

現存在の存在体制に「前提すること」が属しているから、現存在は自分を開示性(真理)によって規定されているものとして前提しなければならない。

このことは現存在の被投性に基づいているが、それゆえにこそどのような存在者が発見されるべきで、なぜ真理と現存在が存在しなければならないのかは見通されないままである。

存在が与えられるのは真理(開示性)が存在する限りであり、反対に真理が与えられるのは現存在が存在するあいだのみである。

それゆえに真理と存在は等根源的なものなのだ。

存在と時間』第一篇における分析においては「存在の意味」への問いは未だに答えられていない。

次に問題となるのは全体としての(als Ganzes)現存在である。

コメント

第四十三節は「実在性」というものが問題となった。

哲学の伝統において認識論的な問題が意識されるにつれて「外界の実在」というものが疑問視されるようになる。

経験において与えられているものは幻覚かもしれず、そこでは実在性は保証されない。

ハイデガーが批判するのはこのような問題の立て方そのものである。

そこでは認識する「主観」と認識される「客観」の二項対立が前提されているが、ハイデガー存在論的に見てそのようなあり方は適切ではない。

現存在はまず第一に「気づかい」として、気づかわれる対象の元で存在しているから、そのような二項対立は事後的なものに過ぎないのである。

つまり主観と客観の存在は同じものであり、「私」は実在しているが「世界」は実在していないという事態はありえない。


次に第四十四節では「真理」というものが問題となった。

伝統的には真理は例えば信念と事実の適切な対応といった「一致」のことを指すものと考えられてきた。

それに対してハイデガーにとっての真理は現存在が存在することと等しく根源的な「開示性」そのものなのだ。

なぜなら「一致」というのは発見された存在者を「言明」によって把握する際に起こる真理の副次的な捉え方だからである。

この「開示性」というのがどのようなものか少し補足したい。

私が例えば目の前のラップトップのキーボードを見るとき、そこで「見る私」、「見られるキーボード」という二項の対立をなくすとどうなるだろうか。

そこにあるのはキーボード自身が「現われてくること」だけなのである。

このようにして現れることが開示であり、同時に「気づかい」としてキーボードの元で存在しているということでもある。

だから「存在と真理は等根源的」なのだ。


第四十三節〜第四十四節で興味深かったのはやはりハイデガーが認識論という問題系に切り込んできたことだ。

ここでは第一篇で用意した手札(「気づかい」「被投的投企」「頽落」など)を用いて既存の伝統的哲学を批判している。

気づかいという現存在、世界の捉え方が根本的なものであったのに対応してここでの批判も哲学の伝統を根本から問い直すものであった。

疑問点としてあるのは、ハイデガーの真理観では例えばニュートン物理学から相対性理論へのパラダイムシフトといった現象はどう説明されるのかという点である。

真理が存在者をそのままに開示することならば、一度発見されたそのあり方が覆るということが可能なのだろうか。

それともそれらの理論は単に空談などによってすり替えられる可能性のある「言明」であって、科学理論は開示性そのものへは到達していないのだろうか。

これらの点はもう少し吟味しながら再読する必要があるだろう。


第三分冊の記事は以下
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.6.43.586 p424,425

*2:ibid

*3:1.1.6.43b.610 p459

*4:1.1.6.43c.617 p466

*5:1.1.6.43c.617 p467

*6:1.1.6.44a.623 p474

*7:1.1.6.44a.636 p493

*8:1.1.6.44b.644 p501

*9:「現存在の最も固有な存在可能」について言及されているが、後の話となるだろうし省略する。ただしその話が出てきたら参照すること。

*10:1.1.6.44b.649 p505

*11:1.1.6.44b.650 p507

*12:「言明」において目の前にあるものの連関が問題となる次第は第三十三節参照。 re-venant.hatenablog.com

*13:1.1.6.44c.666 p524

*14:証明はそれ以上遡れない仮定から出発する。それを「真理」だと前提することで初めて学問が可能であるということを意識しているのだろう。 ミュンヒハウゼンのトリレンマ - Wikipedia

心身二元論史

院試のために哲学史を勉強したのでついでに思ったことを書き留めておこうと思う。

哲学史は見方によって様々な面を切り取ることができるが、ここでは心身二元論の起源と発展、批判に注目してみたい。

基本的に私は心身問題に対してデネットの物理主義的立場に共感しているので、二元論に対してはかなり批判的な書き方となるだろう。

参考にしたのは以下の二冊である。

西洋哲学史 (教養全書)

西洋哲学史 (教養全書)

物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために (中公新書)

物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために (中公新書)

岩崎武雄『西洋哲学史』はミレトス学派からハイデガーや日常言語学派までを一貫したクリアな見地から概観することができる。

伊藤邦武『物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために』は「魂」「意識」「言語」そして「生」という四局面の移り変わりとして哲学史を捉えた面白い本だった。

1. 古代 — 心身二元論の発生

ソクラテス以前の哲学者は自然を「アルケー」から捉えようとしたとされる。

そこでは自然世界と人間を区別する観点はなく、自然はそれ自体として生きて動いているという物活論が取られていた。

しかしデモクリトスによる完全な唯物論が出てくると、それに対する反省としてソクラテスは人間に独自な「魂」と言うものを問題とした。

人間の行動や思考は機械的な自然世界と同じ原理では説明できないのではないかというのがその根底にある問題意識である。

しかし、今まで生きたものと考えられており、したがって人間と本質的に異ならないとされていた自然というものが生命のないものとして把握し直されてくるとともに、人間と自然との対立を意識し、人間についての原理を自然学的な原理に求めず他に求めようとする傾向が生じてくることは、容易に理解されることであろう。(岩崎 p29)

ここに心身二元論の起源を見ることができるだろう。

すなわち、「生きた」人間の振る舞いを機械的な原理から説明できそうにもないという「思い込み」こそが心身二元論を生み出したのである。

さて、そのようにして自然と区別される魂にはそれに対応した能力やその対象が必要となる。

その能力こそが「理性」であり、その理性の対象となるのがプラトンなら「イデア」、アリストテレスなら「形相」なのである。

また後に見るように、自然と区別された存在者として魂には実体性が付与されることになる。

2. 近世 — 二元論の前景化

中世の哲学は「神」が中心であり「魂」は二の次であったため近世まで飛ばすことにする。

心身二元論を哲学の中心に据えた哲学者として最も有名なのがデカルトだろう。

デカルトは「思惟」と「延長」を精神と物体世界を構成するそれぞれ別の実体と考え、そこから自然学を基礎づけようとした。

当然その際に問題となるのがその二つの実体の間にどのようにして相互関係が成り立つのかということだ。

デカルトの後のゲーリンクスやマルブランシュは「機会因論」といって神を媒介としてその関係が成り立つと考えた。

他にスピノザは二つの実体が「神」の属性に過ぎないとしてそれらが並行関係にあると考えることでその問題を回避しようとした。

またライプニッツにおいては実体は「モナド」であり精神も世界もその集合に過ぎない。

そしてモナドの振る舞いは神によってあらかじめ予定されているので、それによって精神と世界の間の調和が達成される。

このように近世では心身二元論が中心的に論じられるようになったが、依然として「神」という道具立てでしか解決を図ることはできなかったと言えるだろう。

このような解決しか図れないという点で心身二元論には根本的な欠陥があると言わざるをえない。

なぜなら現代においてたとえ道具としてであっても「神」を持ち出す哲学思想が受け入られることはないだろうからである。

3. カント — 純粋理性の誤謬推理

カントは魂について「超越論的仮象」であるとしてその実体性を(『純粋理性批判』の枠内では)否定している。

その経緯を簡単に述べると以下のようになるだろう。

すなわちすべての表象に伴う「私は考える」という表象が常に伴い、そのことで思考が成り立っている。

しかしその「私は考える」という命題の主語は論理定な主体に過ぎないのに、人間の理性はそれを形而上学的な実体として考える「誤謬推理」を行ってしまう。

そこから形而上学的な主体、「魂」という実体が生み出されてしまうのである。

カントにとって実体性を持つものは直観において与えられていなければならないから、この推理は仮象を生み出すだけの誤りでしかない。

つまりここで、心身二元論の起源について「誤謬推理」というものが設定されている。

元は人間の振る舞いには自然とは別種の説明原理を必要とする(気がする)から区別しようという考えから出発して、「魂」に実体性が付与されるに至る事情にはこのような経緯があったのである。

4. 現代 — 心の哲学

さて、現代の心の哲学においても心身二元論の残滓は存在している。

例えばクオリアという感覚の質は物理的な説明を寄せ付けないとされている。

人間の精神に自然世界から独立な実体性を認めるという考え方は誤謬推理から生まれた仮象なのだから、これは不合理だと言わざるをえないだろう。

なぜなら人間の精神が実体ではないならそれは自然世界と同じ存在者のはずであり、同じ原理によって説明されることが可能なはずだからである。

結局クオリアのような思想は古代ギリシャにおける、人間は自然と同じ原理から説明できないという(当時の科学レベルからすれば当然の)思い込みを引きずっているだけだと言えるだろう。

人間の脳や振る舞いに対する経験的な知見がはるかに豊富になった2500年後の現代でそのような思い込みを引きずるのは適切だとは思えない。

5. 結論

ここで私が示したかったのは、心身二元論には正当な根拠などなくただ人間の精神が驚くほど巧妙にできていることによる思い込みが起こした幻想だということだ。

そして魂はカントのいう誤謬推理を通じて実体性を与えられることでさらに神秘的なものと考えられるようになった。

確かに人間の精神は自然界で見出される他のものとは比べ物にならないほど多くのことを為すことができる。

だからと言ってそれが自然世界と独立な実体であり、別の説明原理を要求するものであるということは証明されない。

しかし、魂が実体でないとしても精神的なものについて内側から語ることがすべて否定されてしまうわけではないと私は考える。

自然科学と精神についての分析は、全く別の原理による説明なのではなくそれぞれが別のレベルでの説明なのだ。

例えば生物学が物理学に還元可能であってもそうされないように、超越論哲学や現象学は自然科学に還元可能であっても還元されることはない。

なぜならそのような還元は生物の振る舞いをいちいち物理法則から説明するように、説明の直感性を著しく損なってしまうからである。

ゆえにそのような哲学は自然科学と地続きのものでありながらも別のレベルの説明原理として存在し続けるべきなのだ。

最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』

小説 レビュー

アリス・イン・カレイドスピア 1 (星海社FICTIONS)

アリス・イン・カレイドスピア 1 (星海社FICTIONS)


この記事では最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』を解釈していく。

『アリス・イン・カレイドスピア 1』(以下、本作)は以下のリンク先で最後まで読むことができるので未読の方は是非先に読んでほしい。

sai-zen-sen.jp


1. はじめに

この記事ではいわゆる「心の哲学」と呼ばれる分野の知識を背景とし、特に哲学者ダニエル・デネットの立場から『アリス・イン・カレイドスピア 1』の解釈を試みる。

そのためまずは前提となるいくつかの概念について説明したのち、それらが本作の世界観とどう関係するのかについて考察していく。

次にその視点に立って本作の具体的なストーリー展開を解釈する。

2. 物理主義と「地底」の人々

本作の主要な対立軸となっているのは地上と地底、すなわち魂の実在を認める心身二元論と物理的なものしか認めない物理主義*1の世界の対立である。

そして魂を持たない「地底」の人々は「哲学的ゾンビ*2と呼ばれる。

さらに本作後半では登場人物の一人「ミラ」が情報システムの索引としての擬似人格であったり、本作のヒロイン「アリス」が物語の登場人物としての存在であることが明かされる。

「私は、あらゆる普遍的な物語類型を参照し続けながら『私という物語』を自動生成する、お話の妖精。そのあり方は典型的な物語に影響を受けます」
(7章 p282)

ミラは心の哲学での主要な争点の一つである人工知能の問題を意識したキャラクターだと思われる*3

この人工知能の実現可能性について、人間の意識を物理的なものから説明できないとする心身二元論者は否定し、物理主義者は肯定している。

ダニエル・デネットは物理主義の主要論客であり、人工知能についても一貫して肯定的な立場を取っている。

さて、そのようなデネットの物理主義的な見方から「哲学的ゾンビ」「人工知能」そして「物語的重力の中心としての自己」というものについて説明したい。

まずデネット心身二元論は理論的に行き詰まっていると主張する。

もし意識が物理法則から完全に自由な魂だとすると、その魂はどうやっても物理的な世界と関わることができない。

それゆえに私たちの意識は物理的世界になんらの影響も及ぼさないものだということになってしまう。

この結論は私たちの直感と明らかに相容れないものであり(私たちは意識が物理的な身体を動かしていると確信している)、デネットはこの点から心身二元論を退ける*4

心身二元論が否定されたことで、私たちはすべて非物理的な魂を持たず物理法則に支配された「哲学的ゾンビ」であると考えられる。

またデネットは進化論を自身の理論の主要な位置に据えていて、意識は進化のプロセスから生まれてきたと主張する。

進化のプロセスとは単純なアルゴリズムの集積が様々なデザインを生み出していくことだから、人間の複雑な意識活動は部分では単純な脳神経回路から生み出されることが可能である*5

それゆえに人間の知能と同じ能力を持つ人工知能もまた単純な機械の集積から構成可能であるとデネットは考える。

また、脳の神経の活動は並列的なプロセスであるためその産物である人間の意識には中心的な視座(カルテジアン劇場)が認められなくなる*6

それゆえに意識は並列的な脳のプロセスそれぞれがお互いに編集し合う中で生み出される「多元的草稿」なのである。

ならば「私」や「自己」とは一体なんなのだろうか。

それは「物語的重力の中心」であるとデネットは言う。

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

平たく言うと脳の並列的な活動の結果として出力された物語(この文章もそれに当たる)における一人称こそが「自己」というものの正体なのだ。

そして物語は因果関係による文脈によって構成されているから並列的な脳の活動から直列的な「自己」が生まれるのである。

このように考えると、物語の登場人物であるアリス(正確に言うと「物語の登場人物」としての本作の登場人物)が単なる作中でのフィクションではなく、現実に存在する私たちの「自己」と同様の存在者であると考えることができる。

3. ミーム論から見た呪術

次に進化論における思考ツールの一つ「ミーム」というものと作中の主要なガジェットである「呪術」の関係を考察したい。

ミームとは遺伝子のような自己複製子の一種であり、情報の形をとって私たちの脳から脳へとコピーされることで飛び移っている*7

デネットによるとこのミームは私たちの脳内で複雑に組み合わさって、脳というハードウェアに対するソフトウェアとしての意識を形成している。

さらに意識を構成するミームたちはそれぞれが自身の複製という目的を達成するために互いに競合していて、その勝者が意識にのぼって他者に伝達される。

さて、そのようなミームの伝播が呪力を生み出すということが本作での呪術観であるが、それはどういうことなのだろうか。

まず重要なのが『アリス・イン・カレイドスピア』という物語自体が一つのミーム複合体であるということだ。

本作、そして『幻想再帰のアリュージョニスト』が沢山のオマージュから構成されているのは物語=ミーム複合体であるという点を強調するためだとも考えられる。

そしてその物語を生み出すのは作者である「最近」という人間の脳であり、それは競合するミームたちの巣である。

ゆえに作者の脳内においてあるミームが影響力を強めるということは、それが脳から出力される物語を自分の都合のいいように改変していくということを意味する。

何故ならそのようにしてミームが出力されることが自然淘汰を勝ち抜いたということであり、そのようなミームだけが生き残ってきたからだ*8


では呪術の4系統それぞれについてこのような観点から考察してみよう。

呪術の4系統とは以下のようなものである。

  • 邪視:世界観の拡張
  • 呪文:言語の拡張
  • 使い魔:関係性の拡張
  • 杖:身体性の拡張

邪視者はメタ的なレベルから直接的に物語世界(ミーム環境)を改変するが、彼らは作者の脳内に存在するミーム群だと考えられる。

なぜなら先ほど述べたように物語(=作者の意識)はミーム群が競合し編集しあう中で生み出されるからだ。

そして邪視者が認識するということは物語世界においてそれが言葉によって記述されるということであり、記述されることは物語を直接形成していく。

このようにして邪視者の認識は物語世界を改変するに至るのである。

次に呪文は言葉の呪術だが、これは直接的にミームの表現であるだろう。

物語が小説という形を取る以上それは言葉によって構成されていて、言葉(ミーム)を操ることは物語世界を操ることと同義である。

そして使い魔は関係性の呪術だが、この関係性とはミーム同士の関係性のことを指す。

ミームは相互にただ争っているだけでなく、時に共生したり、さらには一つのユニットとして脳内の自然選択を生き抜いている*9

そのようなミーム同士の関係はやはり物語世界に直接表現されていくだろう。

最後に杖は身体性の呪術であり自然科学に対応するが、それはミームたちの活動基盤である物理世界を意味している。

「『杖』が底辺であるのは、それが万物の基礎であるから。『邪視』が頂点であるのは抽象度が高いから。土台が無ければ、天井は支えを失って崩れてしまうでしょう」
(三章 p64)

いかに物語世界で自由に振舞えるミームといえどもそれを実装している作者の脳神経、小説が書かれる紙やインクといった物理的なもの、すなわち物理法則に規定されている。

それゆえに自然科学は現実世界と同じように物語世界の基盤となるのだ。

さて、呪術は類推によって生まれるとされているが、以上の議論から考えると類推とはミーム同士を結合させる脳の働き一般を指すと言えるだろう。

杖=自然科学も呪術と考えられている以上、自然科学を構成する因果関係の思考も類推の一種であると見做されていると言える*10

このようなミーム同士をつなぎ合わせる類推という脳の働きがミーム複合体である物語世界を作り出し、それを動かす呪術として捉えられるに至るのだ。

さらに意識は脳が多元的草稿の相互編集の中からミーム(言語)を編んで作り出した物語であるから、この類推という呪術は意識そのものを構成している。

そしてもし世界を思考の対象として存在する現象界だと考えるなら、私たちの世界自体が本作と同様に類推(呪術)によってミームをつなぎ合わせることでできていると考えられるだろう。

だから、呪術は本作の単なる作中ガジェットではなく、私たちの世界に実際に存在する力なのだ。

以上のような呪術の考察をもとに、次は本作の具体的な内容を解釈していこう。

4. 魂が無いとはどのようなことか?

本作で対立軸となるのが地上と地底、すなわち心身二元論と物理主義である。

地上の人々は魂を持ち邪視の呪術を用いて自由に世界を改変することができる。

対して地底の人々は魂を持たず物理法則に支配された杖の呪術によって地上と戦争している。

主人公である『 』は魂を持った邪視者から魂を持たない哲学的ゾンビへと立場を変え、地底の人びとに対して徹底して拒絶の態度をとる。

これは二元論的立場にあった人間にとっていかに物理主義の世界観が受け入れ難いかということの表現だろう。

「魂は実在する」それを認めないということは、あらゆる生き物は哲学的ゾンビという冷たい機械と認めることになる。そんな寒々しい世界はとうてい受け入れることはできなかった。
(五章 p185)

しかし『 』はアリスや他の哲学的ゾンビたちと関わる中で魂を持たない人々を邪視者の間に違いはないのではないかという考えに至る。

事実、魂の有無が(それが非物理的な実体である以上は)周囲の物理的世界に影響を及ぼすことはない。

「あなたは勘違いしています。私にとって振る舞いや周囲の目にどのように映るのかこそが重要なのです。内面や心といった形のないものに人の本質はありません」
(5章 p159)

地底の世界観を受け入れた『 』は今まで拒絶するだけだったアリスに対しても新しい関係を結ぶことができるようになった。

このアリスは前述の通り物語の登場人物として存在しているのだが、それはどのようなことを意味しているのだろうか。

まず重要なのはアリス自体が一つのミームであるという点だ。

「だって、退屈は辛いこと。それは死と同じくらいひどい仕打ち。楽しくないと嫌。私は、死にたくない」
(4章 p120)

「楽しくないと死ぬ」というのは、快楽を以って受け入れられないミームは自身のコピーを多く残すことができないということを意味する。

誰にも見向きもされないということはすなわちミームの死であり、それゆえにアリスは自身が登場する物語が退屈なものとなれば死んでしまう。

「必要とされること。読まれること。感じてもらうこと。それが私の願い。物語の喜び」
(7章 p286)

さて、デネットの考え方によると私たちの「自己」もアリスと同じように物語中の一人称として存在するのであった。

そして一元的な視座=魂を持たない『 』も、同じように魂を持たない物理主義的な世界での人間の表現である。

それゆえにアリスたち自身の存在の問題は私たちの実存の問題に直結してくるのである。

だからアリスと魂を取り戻してもあえてそれを捨てて「スワンプマン」として戦う『 』の出す結論がどのようなものかが注目すべきポイントとなる*11

そしてその結論とは、魂は混沌から生まれるというものである。

心身二元論でも物理的な還元論でもない、複雑性の雲の中に魂の息吹は存在している」
(7章 p316)

これは作中のクライマックスで展開される部分で、スピード感のためにやや明瞭ではないので詳しく説明したい。

物理主義と進化論を組み合わせるデネットの思想では、人間の精神的能力は世界が単純なものから複雑なものへと発展していく中で獲得される*12

それならば私たちが魂と呼んでいるものも同様の進化のプロセスの中から生み出されてもいいのではないか。

心身二元論では魂は物理的世界と完全に独立しているのでこのようなことはありえない。

反対に物理的なもの以外を否定する単なる物理主義的な還元論においては魂の存在そのものが否定されてしまう。

そういう意味でアリスたちがたどり着いた結論は「心身二元論でも物理的な還元論でもない」のだ。

それならば魂とは一体なんなのかというと、それは複雑系の予測不可能性から私たちが見いだすものだ。

比較的単純な原理で記述されるニュートン物理学においても、物理的世界の未来を予測することは実際上ほぼ不可能であることが知られている。

それならば原理的には物理法則で記述可能な哲学的ゾンビやAIの振る舞いを予測することもまた不可能である。

だからそこに物理法則から自由な魂を見出しても何の問題もないのだ*13

そのようにして、魂を否定するのではなく魂という言葉の意味そのものを書き換えてしまうことがアリス達が出した結論だと言えるだろう。

言うまでもないがここにも予測不可能性と魂という二つのミームを類推によって結びつける呪術の力学が働いている。

ミームによって構成される物語世界だからこの類推は世界を更新し得るし、同様に言語で記述された物語でしかない私たちの世界においてもそれは可能だ。

だから物語の登場人物や哲学的ゾンビは新しい意味で魂を持つことができる。

ところで、二元論的な魂は物理法則から完全に自由だがそれゆえに物理世界に干渉できないという理論的な欠陥を持っている。

しかし私たちの予想を超えるところに見出される新しい意味での魂にはそのような理論的瑕疵がない。

ゆえにアリスたち「偽物」の魂は邪視者の「本物」の魂を超えることができる。

「本物を超えたと証明することだけが私が作り出された価値だと教わりました」
(7章 p282)

以上のように物語の登場人物であるアリスに魂が認められるということは何を意味しているのだろうか。

5. 自由な物語

アリスは本作のクライマックスで以下のように言っている。

「私は物語の住人。そして神(さくしゃ)を殺すもの。私を縛るものは何もない。世界はもう、開かれている!」
(7章 p318)

魂を持たない一元論的な存在者の振る舞いは物理法則に完全に決定されているがゆえに、自由を持たないと二元論者は主張する。

同様に物語の登場人物も、その振る舞いは既に作者によって書き終えられているのだから自由を持たないように思われる。

しかし私たちの予想を超える複雑系に魂を見出すということによって、哲学的ゾンビも物語の登場人物も私たちの予想持つかない振る舞いをするという意味で自由だと認めることができる。

そのような意味で既にその振る舞いを作者(=神)に書き終えられているアリスたち本作の登場人物は自由を獲得する。

すなわち物語の世界は予測不可能な未来へと開かれたのだ。

以上の点から本作を物語という環境の中にあるミームたちが自己の自由を勝ち取るための戦いだと読むこともできる。

地底の人々(登場人物たち)と邪視者たち(作者の脳内ミーム)との戦いは、まさに登場人物たちによる自分を作り出した神に対する自己の実存をかけた戦いなのだ。


そしてこのことはそのまま私たち人間の自由についての議論と並行関係にある。

なぜなら物理主義を認めると、人間もまた物理法則によってその振る舞いを決定されているということが帰結してしまうからだ*14

そのような人間にも振る舞いの予測不可能性から魂=自由を認められるなら、アリスたち同様私たちも物理法則(=汎神論的な神、または神の創造したもの)から自由となる。

さらにこのことは「物語的重力の中心」として考えられる私たちの「自己」の自由とも関係する。

「『私という物語』を自動生成する、お話の妖精」であるアリスが自由を獲得するなら、脳が出力する物語の一人称でしかない私たちもまた自由であるといえるからだ。

6. おわりに

以上が私の本作の解釈となる。

ここで提示した『アリス・イン・カレイドスピア 1』の読解そのものが一つの物語(=呪術)であり、今あなたが認識する世界を改変している。

呪術は意識対象としてのこの世界に現に存在しているし、「物語的重力の中心」でしかない「私」たちはアリスたちと同じ戦いを現在進行形で戦っているのだ。



この記事は「ゆらぎの神話・アリュージョニスト・アリスピ Advent Calendar 2016」の12/22分の記事となる。

www.adventar.org


本作の作者最近は「小説家になろう」サイト上で『幻想再帰のアリュージョニスト』を連載している。

本作と世界観を共有しているので興味がある方は読んでみてほしい。

ncode.syosetu.com

*1:作中では「唯物論」(materialism)とされるが現行の心の哲学では物理主義(physicalism)と呼ばれるのでそちらに習う。

*2:哲学的ゾンビ - Wikipedia

*3:また「コウモリであるとはどのようなことか?」という有名な思考実験のオマージュでもある。  コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia

*4:詳しくは『解明される意識』第一部 

解明される意識

解明される意識

re-venant.hatenablog.com

*5:詳しくは『ダーウィンの危険な思想』第三部 

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化

*6:カルテジアン劇場 - Wikipedia

*7:自己複製子について詳しくはリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』、ミームについては同書第11章。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

ミーム - Wikipedia

*8:このミーム群の競合から行為が生まれてくる過程をデネットは「パンデモニアム(百鬼夜行)モデル」と呼んでいる。

*9:本作では直接関係しないが『幻想再帰のアリュージョニスト』での「融血呪」はミーム同士の融合(すなわち登場人物たちの融合)を描いているものだろう。

*10:ヒュームの懐疑論やカントの超越論的哲学に近いものがある。

*11:スワンプマン - Wikipedia

*12:進化が複雑なものを「目指して」いるわけではないことに注意。進化論は徹底して目的論を否定する。

*13:予想不可能性と自由の関係については デネット"Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting"第6章に関連する話題がある。re-venant.hatenablog.com

*14:このことについて有名な思考実験として「ラプラスの悪魔」がある。 ラプラスの悪魔 - Wikipedia

大今良時/山田尚子『聲の形』

アニメ 漫画 レビュー

koenokatachi-movie.com


大今良時の『聲の形』が山田尚子監督、京都アニメーションによって映画化された。

本記事では原作、映画双方の内容を視野に入れながら作品のテーマを探っていく。

どちらについても内容に踏み込んで書くのでまだ読んでいない、見ていない方は注意してほしい。

1. 過去はすべてを決めるのか?

この作品でまず描かれるのは小学生時代の「いじめ」である。

この出来事についての将也の罪悪感がまず物語の動因となっていく。

さらに硝子の側にも「自分が原因で今度は将也がいじめられることになった」という罪悪感があることが明らかとなる。

この出来事は作中では「過去」であり、その過去は現在を束縛しているように見える。

将也はこの事件をきっかけに周囲の声に対して自ら耳を閉ざしてしまうし、硝子が花火の夜にベランダから飛び降りたのもこのことが(間接的にせよ)原因だと言えるだろう。

さて、過去というものは現在に対して一体どのような関係を持っているのだろうか。

例えば決定論という考え方がある*1

これは原因と結果の関係が必然的であるから、ある過去から生まれる未来は一つに決まっているという思想だ。

これについては様々な主張があるが、ここで取り上げたいのは決定論が生じる原因は人間の思考方法だという意見である*2

その人間の思考方法とは複数の出来事を「原因」と「結果」という形で結びつける能力のことだ。

これは別にカントの純粋悟性概念などを引き合いに出すまでもなく、日常的な自分の思考を振り返ってみればおのずと納得できることだろうと思う。

ところで、ある結果が生まれた原因を本当に厳密に知るためには人間の脳の処理能力では全然足りない(それどころか有限なシステムならどんなものでも不可能である)。

ゆえに人間はとりあえず自分が見渡せる範囲で出来事の原因と結果を見出して納得するしかない。

だから、過去と現在、未来の因果関係が語られるとき、それはその人の思考が一つの解釈として作り出した「物語」なのだ。

さて、本論に戻ると、小学生時代の「いじめ」というのが「原因」、そしてそれに対する罰として将也たちが考えるもの(贖罪や自殺)が「結果」に対応するだろう。

しかしその罰というのは実は彼らが勝手に作り出した「物語」の内部で存在するものでしかない。

誰かがそれを望んでいるわけでも、客観的に必然であるわけでもないのだ。

しかしながら彼らはお互いに対する罪の意識から誰も望んでいない「自殺」という選択肢を一度は選ぶことになる。

ここに自身の「物語」にとらわれること、言い換えればコミュニケーションの不全が存在している。

2. 「物語」とコミュニケーション不全

『聲の形 公式ファンブック』に掲載されている著者インタビューに以下のような文章がある*3

植野のがんばりが竹内先生やクラスメイトに認められていたら、彼女はそこまでストレスを抱えなかったと思います。が、そのはけ口をみんなにも迷惑をかけていた硝子に向けることによって「自分は悪くない」というストーリを完成させ、植野は言い訳をする。だから植野は「硝子に悪いことをした」と認めてしまうと、自分のなかにあるストーリーが壊れてしまうんです。(p182)

この例では植野が取り上げられているが、この「ストーリー(物語)」にとらわれるという現象はすべての登場人物に起こる。

なぜならそれが人間が必然的に備えている思考の方法であるからだ。

そして、自分で作り上げた「物語」にとらわれることはコミュニケーションの不全を引き起こす。

誰かの話を聞いているつもりでも、自分の解釈で「物語」を作って納得してしまうことがほとんどだと言ってもいいだろう。

その解釈に固執すればするほど周囲の人間が作る「物語」との不整合が起こり、さらなる孤独へと追いやられていく。

この作品においてそれは最初から周りの声を「聞くことができない」硝子と周りの声を「聞こうとしなくなった」将也の対比において焦点を当てられることとなる。

例えば原作第5話で将也が高校のクラスメイトが話している内容を自分への悪口だと想像している場面がある。

ここで解釈される他人の言葉は実際に言われているものではなく将也が勝手に解釈した(将也の「物語」内部の)ものであり、ここに将也のコミュニケーション不全の状態が象徴されている。

このコミュニケーション不全は、特に映画版でこの作品の主要テーマとして描かれている。

映画版のラストシーンは原作とは違い将也が周りの人間の顔に貼り付けた「×印」が取り払われるシーンとなっているが、それはこのテーマにより焦点を当てた構成とするためだろう。

ここにおいて将也はついに周囲の声を聞くことへと踏み出し、自分の「物語」の外側にある豊かさに気づく。

自身の作る「物語」の呪縛から逃れることは簡単ではないが、それでもそこから一歩踏み出すというのがこの作品の一つの結論であるだろう。

余談だがこのシーンのBGM(サウンドトラック一枚目39曲目"lit (var)")はこれまでのシーンで登場したメロディを開放的にアレンジしたものであり非常にうまくシーンを盛り立てているので是非注目してみてほしい*4

さて、自分の「物語」にとらわれることはこのようにコミュニケーションの不全を引き起こし、孤独を生み出す。

それだけでなくこの呪縛はさらに深刻な実存的問題を発生させる。

このことについて次節で解説してみたい。

3. 「物語」と「因果応報」

「因果応報」という考え方がある。

1節で見た「原因」と「結果」によって「物語」を作り出す人間の機能がこれに影響を与えているのは明白である。

ある原因に対して結果が見出されるのに対応してある罪に対して罰が与えられ、罰を与えることに正当性が見出される。

同じく『聲の形 公式ファンブック』の著者インタビューに以下のような文章がある。

登場人物たちが自分の人生を生きる上で便利な逃げ道として、起きている出来事に「因果応報」という言葉を当てはめて自分を納得させているわけです。私としては「因果応報」を大事な要素だとは捉えていません。(p172)

原作第32話で西宮母は硝子の聴覚障害について前世での「因果応報」だと夫の両親に言われて離婚を迫られる。

ここで登場する「因果応報」という言葉が引用文での「便利な逃げ道」としての用法を象徴しているだろう。

そうやって自分の「物語」の中で納得することで硝子の父とその両親は硝子と西宮母を切り捨てることを正当化しているのだ。

これは最も露悪的に描かれた例だが、その他にも「因果応報」というテーマは作品全体を通して登場人物の行動を束縛している。

例えば将也と硝子が頑なに自分を罰しようとするのも自分で作り上げた「因果応報」という「物語」にとらわれているからだ。

しかしながらこの作品は誰かが罰されて、「因果応報」によって過去が清算されることによる解決を肯定していない。

それが最もよく表現されるのは硝子の代わりに落下して昏睡した将也が目覚めてすぐに二人が橋の上で出会うシーンである。

「……俺も…同じこと考えてた。でも…それでもやっぱり、死に値するほどのことじゃないと思ったよ」

「だから…その…本当は君に泣いてほしくないけど…泣いて済むなら…泣いてほしい。もし俺が今日からやらないといけないことがあるとしたら、もっとみんなと一緒にいたい。たくさん話をしたり、遊んだりしたい。それを手伝ってほしい。君に、生きるのを手伝ってほしい」
(第54話)

なぜ「死に値することではない」のか、「生きることを手伝う」とはどういうことなのか。

この点は『聲の形』という作品を理解する上で要となる部分だろう。

これを読み解く上でまず重要なのが二人が陥っている、お互いがお互いに対して加害者意識を持ち続けているという特異な関係性である。

彼らは二人ともが自殺という結論に至るが、それによって何が起こるのだろうか。

自殺した方は自身の加害者意識から「贖罪」としてそれを行い、自身の「因果応報」という物語内である一定の納得を得るだろう。

しかしながら残された側もまた純粋な被害者ではない(と自分では思っている)。

すると結局のところ、相手が自殺することではその加害者意識はさらに膨らみ、一方の罪が裁かれることで救われるどころか状況はさらに悪化するのだ。

ならば、本当の意味での救いはどうしたら得られるのか。

それはお互いが自身の罪を乗り越えて幸福を得ることによってである。

川井によって将也の過去が暴かれたあと、また自分のせいで将也が不幸になったと思いつめる硝子の前で努めて明るく振る舞う将也の様子は、そのことに気づき始めていることを示している。

しかし硝子はまだ自分の「因果応報」という物語に捉えられて相手の声が聞こえておらず、本当の救いへの道が見えていない。

だがこの引用文のシーンでついに彼らは自身の「物語」の外へと手を伸ばすことができた。

「生きるのを手伝って欲しい」というのは一見身勝手なセリフに見えるが、これは自分が幸せであることが相手の幸せの条件であり、その逆もまた成り立つというこの構造から出ている。

すなわち将也自身が幸せでなければ、加害者意識を持ち続ける硝子も幸せになれないということに気づいた上でのセリフなのだ。

これによって彼ら二人は自分で作り上げた「因果応報」という物語から踏み出して、真の意味で救われる道が開かれたと言えるだろう。

それは過去を清算することでも忘れることでもなく、真の意味で過去を受け入れて前に進むことだ。

4. 硝子はなぜ恋をしたのか?

原作第23話において硝子は将也に対する想いを告白するが、それは伝わらない。

これは単に彼らの間で未だにコミュニケーションがうまくいっていないことを表現するシーンと解することも可能だが、もう少し本論のテーマに沿って解釈してみたい。

そもそも硝子が恋愛感情を持つのは唐突な印象を受けるし、様々なところで作品の批判の対象となっている。

私も原作を初めて読んだときは驚いたし、この点はずっと疑問が残り続けてきた。

恋が突然襲いかかるものだということで納得するには、作者の意図が見えなかったのである。

しかしながらこの点も「物語」からの離脱というテーマから考えると一つの解釈が生まれる。

その前に少し補足説明として人間の思考の起源について考えたい。

「物語」を作る因果による思考は人間が脳を発達させる過程で身につけた能力であると考えられる。

そしてこの能力は過去の経験を因果の形で結びつけて様々な因果関係を考えることで、現在という原因から未来という結果を予想するために用いられる。

この能力が進化したのは、より詳しく、より遠くまで未来を予測することができる個体の方が厳しい自然の中で生存する確率が高いからだ。

しかしながら、恋はもっと早い進化の過程で生まれる感情で、より心の基礎の部分に存在していると言えるだろう。

なぜなら未来を予測する能力を持たないような生物でも(性別があるなら)恋をするからだ。

だから、恋には「物語」を、因果を飛び越える力が備わっている。

大今良時がこの作品で恋を描いたのは、「物語」を超えていくというテーマを表現する最も強い感情の一つが恋だったからだろう。

硝子はそのときはまだ「因果応報」という物語にとらわれたままであるが、心のもっと奥から湧き上がる感情はそれを軽々と超えていく。

だから恋愛感情は将也の過去の行いを許すことや硝子自身の罪悪感とは無関係に飛び出してくるのだ。

ゆえに「硝子はなぜ恋をしたのか?」というこの節のタイトルの問いはそれ自体ナンセンスということになるだろう。

なぜなら恋を合理的に解釈することがすでに「物語」 の合理性のレベルでの議論であり、大今良時はそういう合理性にとらわれることを批判しているからだ。

5. 物語において「物語」を超えること

ここで浮かび上がってくるのが「物語」を超えることを語ることの難しさである。

「物語」という形式を批判すると言っても、そもそもこの文章も『聲の形』という作品も一つの筋道を持った物語だ。

つまり、因果的に合理性を持った物語という形の中でその因果からの離脱、すなわち不合理の肯定を宣言するという一つの矛盾が発生している。

そもそも完全に不合理なストーリーを描くことでこの矛盾を解消する方法もあるが、それでは誰に対しても何を言っているのか伝わらない。

ここで分かるとおり、コミュニケーションは「物語」という形式を前提としているのだ。

それでは『聲の形』という作品はどのようにしてこの問題を乗り越えているのだろうか。

それは一つのストーリーに二重のテーマを織り込むという仕方によってである。

まず一見して分かる通り、この作品はコミュニケーションをテーマとしている。

コミュニケーションというテーマについて語る限りでストーリーとしては整合性があり、問題提起とその解決が得られるようになっている。

ただその中に「物語」の超越という裏のテーマとでも呼べるものが寄り添っているのだ。

すると、特にコミュニケーションというテーマに焦点を当てて簡素化された映画版を見た時ある部分については不合理なストーリーだという印象を受けるだろう。

過去の「いじめ」という罪は「因果応報」という形で清算されず、硝子はなぜか自分をいじめていた人間に恋をする。

しかしながらその不合理は、一つのテーマとして作者によって意図されたものなのだ。

この手法によって「物語」において「物語」を超えることを一面では整合性のあるストーリーの中で表現、伝達することが可能となった。

『聲の形』がストーリーの不合理性によって批判を受けることは、この矛盾を乗り越えるための必要経費と言えるだろう。

そしてまた、「物語」を超えることを描くためにその「物語」という形式を必要とするコミュニケーションをテーマとしてストーリーの中核に据えたことも興味深いポイントであるだろう。

それは生きる上で必要な「物語」(それは進化の過程で生き残るために身につけた能力であった)が時として人間を縛り付け不幸へ導くことの表現であるように思われる。

人間が持つ様々な能力は長い進化の歴史の中で場当たり的に身につけたものであり、それらは時に現在の環境との不整合を引き起こす。

そのような人間の不完全さをこの作品のテーマとして読み取ることも可能だろう。

*1:決定論 - Wikipedia

*2:re-venant.hatenablog.com 決定論と人間の思考方法の関係についてはこの辺りが参考になるだろう。

*3:

*4:

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