ダニエル・デネット『クオリアの歴史(2017)』和訳とコメント

原文:http://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/History_of_Qualia.pdf

要旨

 クオリアという哲学者たちの概念は悪い理論化、特に(例えば)信念の志向的対象とその信念の原因の区別を認識し損ねるのことの遺物である。クオリアは、サンタクロースやイースターのうさぎのように歴史を持っているが、そのことによってそれらが実在のものとなるわけではない。例えば幻覚の原因は幻覚の志向的対象とは全く似ていないだろうし、脳内の表象は特別に主観的な性質(クオリア)に変換されはしない。

本文

 何人かの著作家が神の歴史について本を書いている。彼らは神の存在を主張しているのだろうか。それとも神の観念や概念について語っているのだろうか。それとも他の何か?かつて尼僧だったカレン・アームストロングは1993年に『神の歴史:ユダヤ教キリスト教そしてイスラム教の4000年の探求』という本を出版した。彼女は無心論者のように見えるが、彼女自身がそう言っているわけではない。宗教社会学者のロドニー・スタークは2001年の彼の著書『一つの真なる神:一神教の歴史的な帰結』という本を同じような曖昧さを示す以下のような段落から始めている。

あらゆる偉大な一神教はそれらの神が歴史を通して働いており、これから示す予定だが、少なくとも社会学的にはそれらは極めて正しいといことを提示している。すなわち歴史の大部分は—偉業と同時に災害もまた—一つの真なる神によって作られたのである。これ以上明白なことがあるだろうか?[2001, p. 1]

 極めて明白に彼らがしていることは、「社会学的」または「人類学的」ではなく「文学的」な親しみやすい書き方を用いているということだ。オデュッセウス、ポール・バニヤンまたはサンタクロースの歴史は完全に学問に値する仕事で、それについて大変よく知っている人によって書かれた説明であり、そして幸いなことにその話題が実在の人物ではなく架空のキャラクターについてのものであることが知られている。しかし、神が話題となると、誠実な不可知論(いくつかの事例において)や外交、村八分への恐怖からよく知ることを控えるという長く確立された伝統がある。私たちはこの原理で親しみ深い沈黙を、ドーキンス(2006)の旧約聖書における神を「あらゆるフィクションのうちでもっとも不快なキャラクター」とする歯に衣着せぬ—そして多くの人にとっては衝撃的な—記述と対比することで照らし出すことができる。私たちはドーキンスがどこに立っているか知っている。ヤハウエは単に架空のキャラクターであり、実在する超自然的な主君や主人ではない。
 クオリアについての著述においても似たような曖昧さがあり、私はそれをずっと前から白日のもとに晒そうとしてきた。しかし「クオリアクワインする」(1984)という冗談じみたタイトルが、どうやら多くの人を私がクオリアがレプラカーン(もちろんそれについても本が書けるのだが)と同じような架空のものだとは実際には言っていないか、もしくは実際にそう言っていて、明白な間違いを犯している(「これ以上明白なことがあるだろうか?」)と勘違いさせたようである。30年以上にわたって哲学者たちと認知科学者たちは、クオリアについて語るときに自身が語っているのが何なのか知っているし、それらが完璧に実在物だと知っていると主張し続けてきた。実際、彼らは「ハードプロブレム」を解決困難にしているのはクオリアの否定不可能な存在なのだ!としばしば主張する。このように考える人々によると、私は1991年には意識を説明しておらず、むしろそれを言い抜けようとしていたのだ。(笑)。冗談はそこまでにして、この話し方を真面目に取りそれが非常に優れた思想家(またはその読者)をいかにして騙して意識についての本当の進歩を成す機会を失わせることができるのかを見てみよう。
 私はニコラス・ハンフリーの『意識の発明』というエッセイを使って私が何を言わんとしているのか示そうと思う。私はハンフリーがこのエッセイで言っていることの大半に同意しているか、または教授されている。私は事実、誤解を招くと思われる過度に外交的で、彼が実際に精力的に転覆させようとしていると見る人々に偽りの安心感を与えると思われる彼の説明戦略や言葉の選択のいくつかを除いた全てに同意するだろう。

1. 志向的対象は何でできているのか?

 アームストロングやスタークに例示される差し障りのない言い方はブレンターノ(1874)が「志向的対象」と呼んだものを語る際には必要不可欠である。言い伝えによるとポンセ・デ・レオンは若さの泉—存在しないものを探していた。その言い伝えにはなんらの事実的な証拠も知られていないので、もう少し有名でないが歴史的に申し分ない事例、ウォルター・ローリー卿が南アメリカでエルドラド、黄金の街を探して何度か遠征を行なった事例を考えてみよう。エルドラドについて学問的な真実に満ちていて、読者にそれが存在しないと知らせないような本を書くことができるかもしれない。その本は実在物について、すなわち実在する人、実在する脳(もしお好みなら心)、実在する旅、実在する本や会話、実在する地図、実在する詐欺師やぺてん師、実在する落胆についてのものになるだろう。そしてローリーが実際にエルドラドの観念を彼の心に抱いていたこと(大雑把にはそう言えるだろう)が真実である一方で、その精神状態は彼の探求の対象ではない。彼はすでにそれを持っていた!彼は自分の心の中にある観念を追い求めていたわけではない。彼は街を探していたのだ。そしてエルドラドは何でできていたのか?大理石?金?煉瓦?それ、すなわち志向的対象は何物でもできていない。架空の対象は多くの性質、本当の性質を持っていると正しく言うことができる。サンタの外套は赤く、彼の髭は白く、そして彼のお腹は大きく丸い(赤い外套を除いて私もその性質を持っている)。エルドラドはローリーが持っていると信じていたどんな性質も持っていた。それは存在しなかったが、ローリーはそれを見つけるためい彼の人生の大半を費やす用意があるほどにそれが存在すると信じていた。この存在しない(志向的に非存在の)エルドラドはウォルター・ローリー卿のもっとも重要な信念や願望のうちいくつかの志向的対象であった。
 さて、通常の正しい信念や知覚の志向的対象についてはなんと言うべきなのだろうか。通常、私の前のテーブルの上に赤い林檎があることを信じているなら、目の前にある赤いりんごによってその信念は引き起こされている。その林檎は存在し、そして赤色であり、私の信念の間接的で末端の原因である(それは最終的に目の前に林檎があることを信じると言う精神状態に導く、私の目と視覚野における出来事を引き起こす)。その信念は赤くも丸くも美味しそうでもない。それは赤くて丸くて美味しそうなもの「について」の信念なのだ。またそれらは赤さや丸さや美味しそうさの信念の近接的な原因でもない。その信念の志向的対象は私の目の前にある赤い林檎であり、私の心の中の観念ではない。そしてこれは私がその林檎について話したり手を伸ばしたりそれを掴んでかじったり(その側の熟していない林檎を無視したりしながら)することで表現できる信念なのだ。志向的対象が架空の、非実在の、幻覚や想像上のものであることを忘れない限りで、日常的な実践においては真なる信念、知覚もしくは他の精神状態の志向的対象を、その精神状態の創造と維持において(普通は間接的に)因果的役割を担っている実在する対象と単純に同一視することによる害はほとんどない。代替的な実在物、「全く同じ性質を持った」内的な実在的対象にはその精神状態のより近接的な原因としての役割は存在しない。内的な表象を安定させるシステムには役割があるが、それらは小説の文章が架空のキャラクターを表象するのとだいたい同じやり方で架空の対象の性質を表象しているのである。実在の赤い林檎を実在するものだと見なすことは一つの果実と信念の間に介在する「直接見られた」現象的/主観的な赤い林檎を脳が生み出すことを要求しない。赤い林檎の幻覚を持つこともまた、内的な表現を要求しない。
 私はこれがほとんどの人にとって受け入れがたいほどに直観に反する考え方だと言うことを学んだ。人が赤い林檎の幻覚を見るとき、そこには何か(おそらくは何か特別な、主観的な意味で)赤くて丸いもの、それが幻覚を生むかどうかに関わらず心によって作り出された(物理的でないかもしれないある「次元」や「領域」における)実在が伴わなければならないようだということは確からしい。人が意識的な経験について語る際に語っているのはその対象、その現象なのである。私はこれは間違いであり内観と内省の疑い得ない帰結などではないと主張しているのだ。人がこの間違いを犯すときにしていることは信念の志向的対象と信念の近接的な原因を混同することである。小説家が彼女の小説の登場人物の権威であるのと同じように、人はその人の信念の志向的対象についての「権威」である。しかしそれらの信念の近接的な原因についてはほとんど権利も知識も持っていない。
 なぜ目の前に赤い林檎があると言うのかを問われたら、私はそれを自分の目でちょうど今見たからだ、と心から答えることができる。これは原因についての主張だ。もし私が正しければ、目の前に「素晴らしい」赤色の性質(デネット 1991)、通常のクラスの観察者に相対的にのみ定義できる性向的性質を含んだこれこれの物理的性質を備えた物理的な対象がある。しかし私は間違っているかもしれない。例えば私は幻覚を見ているか、放物線状の鏡、またはその林檎に手を差し伸べた際に気付くであろう何者かに欺かれているかもしれない。私たちは普通何がその他の信念(そして信念についての信念、その他)を引き起こしたかについての正しい信念を持っているにも関わらず、原因についてのそのような信念が真実であること保証するなんらの「特権的アクセス」も持ち合わせていない。そしてもし人が目の前に赤い林檎があるという信念が視覚システムによって信念の直接的な源泉として生産された「現象的な」赤い林檎の表象によって近接的に引き起こされたと信じているなら、それはおそらく間違っている。(私はそうであることを確信しているが、しかしこの論文での目標は私が正しいだろうことを示すことにあり、それゆえ最初から私が正しいと想定しないことにする)ウォルター・ローリー卿の安定した、高度に発達して心を奪われていたエルドラドについての信念は黄金でできた実在の街によって引き起こされたわけではない。私たちはそれについて強く確信することができる。民話、偽証、希望的観測、そして消化不全のもつれたネットワークが何を意味しているのか誰が知っているるだろうか?[~]
 ローリーの頭の中にあった、エルドラドについて持っていた信念や願望に錨を下ろし、近接的に引き起こし、促進するものはなんだったのだろうか?ここで私たちは慎重に歩を進めなければならない。なぜなら実際に物理的、因果的に彼の脳で起こっていることはローリーが、もし彼が当時では抜きん出たアマチュア認知神経科学者でなければ、それについてなんらの信念も持っていないものだからだ。彼は疑いようもなくエルドラドについての彼の「観念」、それに対する熱望、そしてエルドラドの想像図についての多くの信念を持っていた。彼がこれらの「観念」全てに対するアクセスを有していたと主張することは、広範なアマチュア認知神経学なしに彼がそれらを非常に安定したやり方で区別したり、報告したり、記述することができたと主張することになる。それは彼が自身の次なる行動を導きうる、それら(これらの信念の表現)についての報告を含んだ明らかに内的な出来事についての信念を持っていたということである。これらの信念はもちろん独自の志向的な対象を持っていて、彼はその志向的な対象が「持っていた」性質について間違い得ない(究極の権威者である)が、彼はどの志向的な対象が実在するのか、またどれが(彼がそうであると期待したものでは全くない)原因を持っているのかについて間違い得ないわけではない。

2.クオリアとは何か?

 クオリアは自身の精神状態について持ちうる内省的または内観的な信念の志向的対象である。これ以上明白なことがあるだろうか?志向的対象についてそのような言い方をすると、人々が彼らのクオリアについて実際に考えたり、語ったり、迷ったり、喜んだりできることは明白である。それはウォルター・ローリー卿がエルドラドを探していたという事実と同じくらい否定し難い事実だ。明白でないのは、クオリアが実在のものであること、つまりクオリアが存在することだ。それらが実在しないなら、ローリーのエルドラドと同じように現代の科学に対してなんら問題を提起するものではない。ハード・プロブレム(チャーマーズ 1995, 1996)は問題ではないと判明するか、むしろそれは(私が長い間主張してきたように)どのようにして人々がクオリアが実在するという考えに誘惑されたのかについての多くの「簡単な」問題へと崩壊するだろう。その問題は私たちに人々がクオリアを信じる際にその脳の中では実際には何が起こってそうさせているのかについての多くの問題を提起し、そしてそれに答えることを要求するだろう。
 これは「行動主義的」ではないだろうか?そう、当たり障りなくイデオロギー的でない意味であらゆる科学は行動主義的だ。気象学もこの意味で行動主義的である。一旦気象学的な振る舞いの全てを説明してしまえば、あらゆる現象を説明したことになる。この定式化での「振る舞い」には、自身に対するものであれ他者に対するものであれ、完全に実際の言葉として発音されるか半分しか具体化されないにせよ、言語的な反応を生み出させるあらゆるプロセスに伴うあらゆる階層で記述され、有用な、情緒を生み出したり、嗜好を形成したり、域値を高めたり低めたり、条件づけられた反応を引き出したり、記憶を喚起したり、判断を調整したり、痛みを鈍くしたり、注意を散漫にさせたり、性欲や攻撃性や従順な反応を高めたりするあらゆるものを含んだ脳内でのあらゆる出来事が含まれている。
 私が気に入っている意識の比喩的な描写、ブラックによるものだと彼が考えている絵をみている人を描いたソール・スタインベルクのニューヨーカーの表紙*1を考えてみてほしい。この巧みな思考の風船は、彼が絵を見るために立ち止まった数秒に起こったかもしれない一連の振る舞いの不完全な目録である。それらは筋肉と骨の振る舞いではなく、内的な、目に見えない振る舞いである。そしてそれらが共有する、彼の骨の内側で起こっている他の全ての認知的、情緒的、代謝的な振る舞いによる競合を制してその目録へ登記されるための性質は、(私たちにとっては間接的にせよ)ヘテロ現象学的テキストに従って(デネット 1991)彼がそれらを報告、説明、記述、その他できるためにそれらがその人にとって「アクセス可能」であることなのだ。
 ここが足元が滑りやすい場所なのである。これら内的な振る舞い、脳内で起こる物事がアクセス可能だという地位を占めるために、それらは彼がその時どのように感じたかを私たちに伝える際に表明する信念の信頼できる原因、形成するもの、生み出すものでなければならない。しかしこれらの内的なものはこれらの信念の志向的対象と同一視されるべきではない。なぜならその志向的対象はサンタクロース(それは存在しないという性質を持っているために、誰かの信念の原因であるわけではない)のように架空のものかもしれないからだ。これが「錯覚主義」の核心である。(フランキッシュ2016, デネット2016)今そこに赤く丸い林檎があるという私の信念を引き起こす赤く丸い林檎を末端の原因、そしてその信念の志向的対象と同一視することと、丸いクオリアと結びつけられた赤いクオリアを経験しているという私の信念を引き起こす内的な神経の状態を志向的対象、そしてその信念の近接的な原因と同一視することは別である。なぜなら、私たちが確かに言えることとして、その[近接的な]原因は赤くも丸くもないからである。
 もし、ある作者の小説の悪魔的な女性キャラクターが、彼が否定しようとも実際に作者の母親であるというフロイト的な批判のような特定の偏向した態度を取りたいならこの同一性を主張することもできる。そのように批判する人は架空のキャラクターと筆者の母親が様々な性質を共有しているのは偶然ではなく、そのことがその小説に現れる内容のいくつかをどうにかして(因果的に)説明すると考える。事実、信念の内的な神経の原因をその信念の志向的対象と同一視することは、精神分析されている小説家の事例より魅力的である。なぜなら性質の大きな違いにも関わらず多くの状況証拠がその同一性を支持するだろうからだ。一つ例として、黒い背景に明るい青色の大文字のAが描かれているのを想像してほしい。私があなたにその「A」について伝えるとあなたは私に(それはセリフ体で、青さは10月の空のようで、淡い青ではないのだが)それは実際にはこのワードのファイルにおける描写と同じように青色ではないと言う。しかしそれは本当に(もしあなたがよく目を凝らして脳鏡のいい位置でそれを見たら)Aの形なのかもしれない!この、大文字のAの内的な神経の表象(あなたが大文字のAを想像しているという内観の表象の実際の近接的な原因)は実際にレチノトピックマップ上に並んだ、視覚野のある部分における実際の刺激の本当にAに似た形をしたパターンを含んでいるかもしれないものを利用しているかもしれない!空間的な性質を表象するのに空間的な性質を使うことは時折非常に良い手法であることがあるが、その手法があなたの脳で使われているかどうかは、それについてあなたがなんらの特権的なアクセスも有していない開かれた、経験的な問いである。それについては例えばシェパード/コスリン/ピリシンの精神イメージについての論争を見てほしい。ピリシン(2002)(そのコメンタリーを含む)は良い概観である。そして何がその青を神経的に表象しているのだろうか?Aの形の表象を多くの性向、記憶、嗜好、情動的反応を結びつけるいくつかの発火パターンがその空のように青い影のあなたの神経上の表象として集まった。そんな感じのものが私たちがデカルト劇場のディスプレイに映し出されていると想像する青いクオリアという二元論的な幻影の自然主義的な代替物である。(デネット 1991)しかしどのようにしてこんな非人格的な、神経の発火の退屈なパターンが、輝かしく、人生を肯定し、鮮やかで、胸が張り裂けるほど素晴らしい主観的な青のひとかけらの代わりになることができるだろうか?それは肯定的な情動的反応、詩的で、自信を強めるものを増やす性向などを引き出すトリガーの多くを備えることによってである。(青い影を想像することと実際に青い影を見ることの違いは程度の問題であり、種類の違いではない。これについてさらには以下に)その情動は組み込まれた、つまりそれに関わる単なる表層的な性質の同一性に伴う進化によってデザインされた表象の特徴なのだ。(進化は表象にジャムを塗って美味しくする必要はないし、酢を塗って不味くする必要もない。それらの後遺症は彼らが表象する美味しいまたは不味い性質に反応する傾向を持った人々である。)

3.ニコラス・ハンフリーの発明

 今や私たちはハンフリーがどのようにこの辺りを主張したかを見る準備ができた。なぜなら彼は、私の言い方には賛成しないかもしれないが、私がちょうど今言った内容のほとんど全てに同意するだろうと考えられるからだ。彼は「発明(invention)」という言葉の二つの異なった意味、すなわち発明やプロセス、または「偽り、気に入られたり説得するために設計されたもの」を記すことから始める。彼は次に「意識はこの二つの意味で「発明」である」と主張する。(ハンフリー 2017)

すなわち、意識は
1.自然選択によって進化し、自身とその周囲を理解するために設計された認知的能力
だがしかし、別のレベルでは
2.私たちの存在の評価方法を変えるために設計された、脳によって作り出された空想
である。

 まさしく両者とも重要である。私が述べたように(デネット 1991,2016,2017)意識はユーザーイリュージョンであり、変化し続ける困難な世界で脳が大きく複雑な身体を制御する仕事を果たすために慎重にかつ素早くサンプリングされる必要がある、(例えば分子や細胞のレベルにおいての)因果と相互作用の乱雑な喧騒の優れた単純化である、脳それ自体のユーザーイリュージョンなのだ。さらに詳しく言えば、意識は脳の様々な構成要素がそれぞれに異なった判別や制御の仕事をこなすためのユーザーイリュージョンの多様体の全体である。私たちがデカルト劇場からホムンクルスを消去して劇場自体も取り去ってしまうと、その全ての仕事を行う分散され撒き散らされた主体は情報や影響を回送する必要がある。これは情報的な出来事(お好みなら信号)を別の媒体、想像された意識の私-媒体(MEdium)へ送信することを含まないが、信号を表象のユーザーに彼らが求めるものを引き出させるのによく適した神経上の表象へと翻訳や変形することは含んでいる。(初期のロボット、シェーキーの翻訳プロセスについてのまとまりのある記述と議論についてはデネット1991を見よ)
 しかし、さらに吟味してみると、二つめの意味はどうなのだろうか?ハンフリーはどの空想のことを言っているのだろうか?彼は私たちの人生に存在している志向的対象、すなわち私たちが考えたり、味わったり、熱望したり、拒絶したりする「もの」の群れを指していると考えるられるかもしれない。これら志向的対象のうちいくつかは世界にある完全な実在物、例えば赤い林檎や恐ろしい虎や素晴らしい夕暮れであり、またいくつかは単なる想像の産物である。それら想像の産物はシャーロックホームズが「虚構霊体」で出来ているわけではないように、「作り物」で出来ているわけではない。しかし彼が言っているのは志向的対象のより制限された集合、すなわち私たちが内面に注意を向け、それについて信念を持ったり予感したり、特定の感覚を熱望したりするとき私たちが「より直接的に」味わったり忌避したりする「もの」、私たちの知覚信念や願望の全てではないにせよその多くに伴い、それらを修正し、豊かにする内的な出来事である。ハンフリーは言う。

私が言っている空想とは、主観的な感覚の世界を構成し、そしてそれ以外の何物にも関わらないクオリアまみれの志向的対象の家庭菜園である。知覚はクオリア次元を持っていない。それは赤い林檎があることを知覚するものに似ていない。しかし感覚はほとんど常にそれを持っている。それは私の網膜で赤い光が感覚するものに似ているのだ。(個人的会話で 2017)

 私はこれがプラグマティックな、ビジネスライクな認知とそれが有益でなかろうが存在し続けてきた熱狂的で感情を伴った情動の区別を復活させると思う。ハンフリーは彼のエッセイで「私はクオリアが認知的能力にほとんど貢献しないということを論じようと思う。それらが空想のどれだけ中核に位置していようとも」と言っている。私は、それとは対照的に、(ハンフリーが快く受け入れるであろう意味における)クオリアは「正当な」認知において大きな役割を果たしていると考える。私たちは(視覚システムの能力と色の区別に対する貪欲さを利用した)ダイアグラムでの色分けや、(聴覚パターンを判別し飽くことなく求める聴覚システムの能力を利用した)押韻による記憶術における有用性といった小さな現象においてもそれらが行う様々な貢献を見て取ることができる。私はハンフリーの、A+やB−に位置付けられた刺激を承認し、一方たかだかD−などの他のいくつかを混ぜ合わせ、さらにその他を無視することによる、脳のほとんど全ての入力に対する慢性的なバランス化に対する賞賛に同意する。実際、この視点に目を開かせてくれたのはハンフリーが初めてなのだ。私たちが脳がその内部で起こっていることに常に無関心だと見なすと、実際に起こっている精神的生活のコントロールの仕方がわかり始める。それは誘発された(「感情の」)神経活動同士の競合と協働によるのである。脳には次に何を考えるべきなのかを理解している司令官は存在しない。そこにはいくつかの思考を抑圧し他に集中しようと熱心に働く仮想の司令官いるだけであるが、私たちの皆が知っているように、これは成熟した、また間欠的な業績であり、下層にある心のオペレーティングシステムの部分ではない。
 しかし私がクオリアがこれらの重要な因果的役割を果たしたいると言うとき、もちろん私は内観を行う人がそれがどんなものかを私たちに伝える際に表明される信念の内的な、近接的な原因のことを言っている。感覚はエルドラドが黄金でできていたのと同じようにクオリアを持っている。そしてこれはハンフリーがクオリアは認知的能力にほとんど何の貢献もしないと述べる際におそらく彼が言っていることなのだ。認知に関わる貢献のほとんどは物語が劇へと分節化される前に為される(または少くとも引き起こされる)。寝ている間に襲ってくる「感じられない痛み」はそれでも関節のダメージを避けるために私たちの手足を良い位置に保つし、手足が脅威を判別することによって生まれるアドレナリンの奔流はその脅威の志向的対象が主体の意識経験に現れる前に起こる。
 さて、問題の段落へとたどり着いた。

誰もクオリアが存在しなくなることを望まないだろう。実際、意識的経験がその他についてほとんど関わらないなら、私たち皆にいくらかの機会が与えられるだろう。クオリアを無視する意識についての科学は部屋の中の像を無視しているのではなく、部屋「である」像を無視しているのだ。(ハンフリー 2017)

 しかしもちろん、私はクオリアが存在しないことを望んでいる!これは、クオリアに対する私の態度がシャーロック・ホームズネス湖の怪獣、雪男に対する態度とちょうど同じであるということだ。私はこれら志向的対象が、ワクワクするし、様々な用途において示唆的な伝承の話題であることが嬉しい。しかし私は誰かがそれらを実在のものだと信じることを全く望まない。もし彼らがそう信じるなら、彼らは有害な妄想に襲われている。(クオリアを信じることはそれとは対照的に差し障りがないか、悪くともその人がクオリアがするりと逃げ、捉えられず定式化できなず、それによって彼のモデルに恐ろしい穴が残ると考えている認知科学者なら困った妄想である)
 私が世界にある物体の感覚上の性質、すなわち色、音、香り、手触り、液体性や固体性などの存在を否定しているわけではないことを注記しておこう。それは私がドル、ポンド、スターリング、ユーロの存在を否定していないのと同じである。これらは可能な限り実在的な世界内の実在物であり、またそれらは精神上の出来事の性質ではなく、精神上の出来事によって表象される性質なのだ。そして(大雑把に言って、ボイルとロックが一次性質と呼んだ)他の多くの性質とは違ってこれら「二次」性質はそれら自身の存在と精神上の出来事によって表象されたものとの同一性を有している。ヒュームは心の「外的対象に自身を広げていく強い傾向」(人間本性論 1739)に注意を向けさせがちであるが、この素晴らしい表現はその比喩的な意図を露骨に匂わせている。ヒュームは心が、例えば灯台の光線のようにして対象の近しい表面に色をどうにかして投射しているという馬鹿げた提案をしていたわけではない。ヒュームの知見のより同情的な読み方は心が世界内の対象が心の所有者の需要や好みによく適した性質、ギブソン(1966, 1979)ならアフォーダンスと呼ぶものを持っているものとして扱う傾向を持っているということだ。アフォーダンスは実在する性質であり、世界のどこでも具体化されており、心はそれらを探知するのに適している。(さらに幅広い議論についてはデネット2015, 2017を見よ)しかしそれらは一つの種、または他の、普通は私たちホモ・サピエンスの(通常の)心の嗜好という言葉で特定され定義されているために、私たちの進化したユーザーイリュージョンの親切な幻想の例だと認識されうる。
 ここに謎がある。赤いものはどのように機会に似ているのだろうか?そしてその答えは、機会はもし私たちの頭の中で起こる物事でなければ機会ではないが、頭の中で起こるそれらが機会ではないように、世界内の赤いものはその赤さを私たちの頭の中で起こっている物事に依存しているが、赤いものが私たちの頭の中で起こっているわけではないということだ!(素晴らしくまた疑わしい性質についてはデネット1991, pp. 379-380を見よ)
 ハンフリーはクオリアについて実在論者になりたくないが、錯覚主義に対して不安を抱いている。「錯覚主義は人間の経験の謎を台無しにし、多くの人にとっては切り下げと映ってしまう」(ハンフリー2017)これは重要な反論ではないと私は考える。私はそこでは聖なる嘘、すなわち私が父親的態度で普及させたいと思う神聖で人生を救う(少なくとも人生を豊かにする)偽りを保存したいと思う環境を提示することができるが、クオリア非実在という衝撃的な真実を受け入れることはナッシーや雪男や人魚を信じることをやめることと同じように人を不安にさせるものではないだろうと思う。結局、「クオリア」は哲学者たちが発明した「テクニカルターム」であり、それを明らかにすることはエーテルや求心的な力を失うことと同じように人を悩ませるものではない。色はそれでも実在的で非常に美しいだろうし、香りはそれでも私たちの記憶に付きまとうだろし、痛みはそれでも忌まわしいだろう。そしてどこにでもある絶頂への探求はウォルター・ローリー卿の有名な強迫観念を矮小化するだろう。
 ハンフリーはスタン・ドゥアンヌは十分奇妙なことに「クオリア否定者」であるとついでに言った後何も言わずに、自身では巧みにクオリア実在論を回避している。

もし私たちが赤い光が網膜に触れ、主体が赤いクオリアについて主張するまでのそれぞれのニューロンから意識経験がどのように作り出されるか詳細に知っていたとしても、私たちはそれが何の役に立つのかを知らないだろう。(ハンフリー2017)

 ここで彼は網膜から報告までの道筋を媒介する(実在の)変数としてのクオリアにコメントすることなく飛ばしている。これは彼がクオリア-信念が私たちの心に引き起こされることの進化上の理由は何なのかを正しく探求するためにクオリアが脳(または心)内の出来事の実在の性質であることを必要としないことの認識の良い兆候である。そこで彼はクオリア実在論者であるという定義上の誤りを犯しているフォーダーとサールの両者に鋭く釘を刺している。彼らはウォルター・ローリー卿(想像上の)批判者であり、ローリーがそんなにも長い間存在しない何ものか、つまりエルドラドに突き動かされていたことに驚くだろう。これは不思議なことではない。しかしここで最初私を当惑させたハンフリーの主張に向き直る時が来た。

クオリアに晒されることがどのように人々の心理を変化させるのだろうか?どんな信念や態度が生み出されるのだろうか?それは自分たちが何者で、どんな世界に生きているのかについての人々の観念にどのように影響するのだろうか?

 彼の用語「クオリアに晒されること」は注意深く分析されなければならない。フランキッシュ(2016, p. 29)はハンフリーがが是認する読み方を見つける。

ハンフリーは刺激に対する内面化された評価反応が複雑なフィードバック・ループを形成するために入力される感覚信号と相互作用するとき、感覚が起こると主張しているのだ。それは内的に監視されたとき、この世のものとは思えないほど現象的な性質を持つように見えるのである。

 これらのフィードバック・ループの内的な監視こそが、素晴らしい志向的な対象を生産する、自分の内部で何が起こっているのかについての高次の信念を作り出している。「感覚経験をそのような謎めいていて、非物理的な高地へと押し上げることで、クオリアはあなた自身の表れの感覚を深め、豊かにする。あなたは厚みのある時間を生きていると知る(ハンフリー2017)」
 私はこれに納得していない。ハンフリーは不当なステップを組み込んだように思う。それはおそらくクオリアについての標準的で素朴な考え方の改善ではあるが、それでも1ステップ過剰である。ウォルター・ローリー卿は明らかに、彼の探求に深く豊かな意味を持って厚みのある時間を生きていたし、それは彼がエルドラドが妖精の国だとかエクトプラズムで出来ているという信念を持っていなかったことによるのでは決してない。彼はそれが実在で本当の黄金で出来ていると思っていた。人間の黄金に対する執着はそれ自体研究に値する話題で、例えば蜂蜜への愛着とは違ってその執着には直接的で明白な進化上の理由がない。しかし私は黄金の心理学的な重要性において非物質性の教説が何らの役割も果たしていないと考える。またそれと同様にハンフリーに従って、非物質性への信念、または逆説的な「不可能性」が自分たちの人生やそれをどう生きるのかに注意を向けさせるために一役買っていることに納得していない。彼は以下のように言っている。

クオリアを作り出すのがあなた自身の脳だとしても、あなたは感覚の特別な質を外的な世界の知覚対象に投射することはできない。そうすることであなたはある種の妖精の粉を撒き散らすことになる。あなたは世界を魔法にかける。この魔法の絵の具を取り去ると、世界はその重要性の多くを失うだろう。あなたはそこがあまり素晴らしい場所ではなく、またそこがあまり楽し苦なく、楽しみでないと理解するだろう。(ハンフリー2017)

私たちは感覚が「特別な質」を持っていると考えるかもしれないが、私が主張しているのは、事実私たちの感覚は(脳内の出来事と考えると)世界内のアフォーダンスという特別な質を表象すること(持つことではなく)としてより良く見えるということだ。感覚における私たちの信念の原因ではなく志向的対象と考えられた感覚は、非常に便利な錯覚である。これらの質を「投射すること」は世界内の物に、私たちにとっての使いやすさのために歪められたこれらの性質を与えることを意味しなければならない。世界内の物は実際にこれらの素晴らしい(または恐ろしい、退屈な、ワクワクさせる……)質を持っており、それはそれらについての事実であるのと同様に私たちについての事実でもある。これらの性質は意識的状態の性質ではなく、私たちがそれについて意識を持っている世界内の物の性質である。私たちがより内観的になり自身の中で起こる「物」(ハンフリーの言う感覚)へ注意を向けたなら、「それら」がクオリアを持った感覚であり、求心的な力と言う錯覚をなしで済ませるようにそれなしで済ませることを学ぶことができる便利な錯覚だと理解する。
 最後にイーノック・ランベルトが私の志向的対象についての考え方が人々を説得することの難しさについて鋭い診断を下しているのを見てみよう。

「全ての志向席対象が等しく作り出されるわけではない」…ローリーのエルドラドを見つける意図の表明によって表象される志向的対象と、ローリーの大変な旅の最後に谷の下にエルドラドを見たという幻覚を区別することは難しい。人々はそこには明白な心理学的差異があると考え、それらを表象の性質によって説明しようと望む。(個人的な会話で 2017)

 そう、そして人々が表象の性質を見ようとするのは間違っていない。しかし彼らは概ねその性質を間違った場所に見るのだ!この大きく明白な違いを説明する性質は、脳の神経上の表象に埋め込まれた機能的/因果的な性質であって、クオリアという魔法のような性質ではない。私たちは単純な事例を初めに見ることから初めてランベルトのローリーの幻覚という良い事例に這い上がっていくことができる。黒い背景の上の青い大文字のAを考えること、わざわざそれを想像すること、その幻覚を見ること、そして実際にそれを見ることの間の違いはなんなのだろうか?それぞれの場合に私たちは志向的対象を持っているが、それらを認知神経科学者の助けを借りずに区別する大雑把ですぐ使える方法も持っている。単なるAについての考えは非常に大雑把であり、それを一つのフォントや特定の青色に固定することに煩わされずとも実際に黒い背景の上の青い大文字のAについて考えていると心から主張することができる。想像されたAは、なんらかの努力を伴って意図的に主張されなければならないが、「意志の働き」(それについて私たちは深い知識を持っていないのだが)によってその色や形を容易に変えることができる。幻覚のAは非常に持続的だが、真面目な探求の元では離れていく傾向にある。(トマスが自分が何をしていたのか知っていなかったのではないかと疑うこと)見られたAはさらなる調査のあらゆる条件の元で頑強である。重要なことは、そこでは人はいくらかの間どのカテゴリーの志向的対象を見ているのか確信できないような境界線上の事例がありえるということだ。それは私たちが「内側から」知っていることの重要な部分であり、その知識には私たちが考えている志向的対象の非魔術的な性質を除いたクオリアについての何物も含まれない。
 このことは人間の脳は再生可能で「アクセス可能な」量の詳細においてそれらが喚起する表象を生み出すよう刺激されうるということを強く示唆する。赤く丸い林檎以外のものが原理的には可能な、その情報を求めた調査を持続させることはほとんど不可能に近く、私たちはびっくりハウスや他の奇妙な環境にいるのでない限りは、その証言を額面通り受け取る。幻覚はそれが珍しいから機能する。LSDを日常的に使用してトリップする人は、それがどれほど魅力的だろうと幻覚に騙されないだろう。想像と幻覚の境界性もまた曖昧で、パーティでのおしゃべりを聞いていると彼が騒々しいロバに似ていることに突然釘付けにされて、その確信を振り落すことができずに会話についていくのを妨げられるのは、厳密には幻覚ではないが近いものである。そして細部が乏しいレベルにおいても、そのような表象は情動的な効果を持ちうるし、その効果はそれらが現実から消えることで鈍くなるのではなく増幅される。環境について含んでいる情報が多すぎるかもしれない実際のセックスに関わることよりもポルノグラフティによってより欲望を喚起される人もいる。ゆえに私が今あなたにセックスについて考えさせたが、その文章について思考することはあなたの欲望を喚起しないだろう。その文章によって性的な空想に引き込まれることは思考することとは別物なのである。
 ランベルトの例に戻る時が来た。ローリーがエルドラドを信じたりそれを探したり、それに言及する問いや主張や命令を発すことその他は、志向的対象のたくさんの根拠である。ローリーのエルドラドは、他の人のエルドラドとはかなり異なっているかもしれない(サンタクロースがペールノエルと異なっているように)。長い日の終わりにローリーが彼の探求の幻覚を見たとしたら、彼はエルドラドについての思いもよらなかったことを発見するかもしれない。その街は彼が想像したよりも小さく、屋根は黄金ではなくテラ・コッタで覆われており、中央広場にエリザベス女王一世の巨大な像が立っている!しかしそのとき何が起こるのだろうか?彼が急いで彼のベースキャンプに戻り、彼の幻覚を疑ったり、エルドラドという志向的対象の内容に「目で見た証拠」を付け加えることは決して疑い得ないだろう。もしくは彼はその新しい細部に驚いて立ち止まるが、いざ日誌の記録しようとしたときにはその詳細は霧に消えるか、数秒前にそうであった様子からは変わったように見えるだろう。彼は自分が幻覚を見ていた、または見ていることを発見するだろうが、このことによって彼は新しく異なったエルドラド、すなわち南アメリカのジャングルに幻視したエルドラドを志向的対象として得る。この志向的対象は彼を探索へと駆り立てた志向的対象とは全く異なっているが、それは前の志向的対象が持っていなかったクオリアを持っていることによるわけではない。
 ハンフリーの主張に潜んでいる、白日のもとに晒したいと思っているが解決しようとは思わないもう一つのテーマがある。私たちの内観への嗜好、すなわち人生のいくつかの時点で私たちが自分たちが何者なのかを考えそれについて悩むであろう可能性が高いことは、生き残ったり繁殖するために必要な要素なのだろうか?ハンフリーはそうだと主張しているように見えるが、動物や昆虫が私たちが自身の人生を愛するように彼らの人生を愛するかどうか、彼らの自己保存と自己複製の本能は私たちのものより重いものであるように私には思える。

コメント

 この記事はDaniel C. Dennettの論文"A History of Qualia"(2017)を和訳してコメントをつけようというものである。原文で7ページくらいの論文なのでそんなに長くならないかと思いきやすでに17000字もあるがご容赦願いたい。内容としては冒頭の要約にあるようにクオリアの存在の否定が趣旨となっている。このクオリアの存在の否定という論点はデネットが長年主張してきたことだが、2017年にもなってまた新たな論文が出るということはなかなか浸透していないらしい。例えば今年出た『心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』という本でもクオリア論や表象主義といった見方にかなり好意的に書かれている。
 さて、この論文の冒頭二段落ほどは本筋にほとんど関わらないので無視して構わない。その後にはクオリアが哲学的な問題を引き起こしていて、デネット自身が80年台からそれに反論していた事情が述べられている。クオリアは人が自分の感覚や意識について考えるとき主観的に、またなんの媒介もなく直接知られる感覚質(例えば「赤さ」や「痛み」)だと考えられている。これは信念(「〜と思う」などの形で記述される思考)の直接的な内容であり、それを引き起こす原因でもある。そしてそのようなクオリアは普通に林檎を見ている時と林檎の幻覚を見ている時に現れる信念に共通した対象である。この意味でのクオリアは信念の対象の精神における非物理的な現れ、つまり「現象」と呼ばれるものだと考えられる。またクオリアの特徴として物理的な説明を拒否するというものがある。例えば「メアリーの部屋」という思考実験ではクオリアは「物理的な知識の全て」以外にメアリーが得る知識だとされているのだ。それゆえにこのクオリアは物理主義に対してチャーマーズが「意識のハードプロブレム」と呼ぶ問題を突きつけるのである。
 「1. 志向的対象は何でできているのか?」ではエルドラド(黄金郷)というものに例えながら「志向的対象」というものが分析されている。志向的対象とは、簡単に言えば言葉や考えが指している対象のことだ。例えば「林檎」という言葉は赤くて丸い果実を志向している。さて、エルドラドは存在しないが、ローリーが「エルドラド」と口にしたり考えたりするときその言葉の志向的対象ではある。そしてその志向的対象は例えば黄金で出来ているといった性質を持っている。ローリーが探し求めたのがエルドラドのイメージではなく実際のエルドラドであるように、信念の志向的対象はクオリアではなく実際の対象(例えば林檎)である、ということが言いたいらしい。このような志向的対象と信念が生まれる直接の原因(実際には脳神経の発火)の混同がクオリア問題を起こしているのだとデネットはいう。つまりローリーはエルドラドについての信念を持っていたし、エルドラドは実際にその信念の志向的対象だが、彼はそのクオリアを持っていたわけではない。というより実在しないエルドラドについてのクオリアなど持ちようがない。そしてローリーのエルドラドについての信念は小説がキャラクターを表象するようにエルドラドを表象している。つまりローリーは言語としての思考を持っていて、エルドラドは単にその言語的思考の対象なのである*2
 「2.クオリアとは何か?」では、クオリア論の起源が信念の志向的対象と信念の近接的原因を同一視することだという中心的なテーゼが詳しく展開される。「近接的な」というのは信念を引き起こす原因の系列のうちで直近のもの、つまり信念を直接引き起こすものを指している。これは例えば脳神経の相互作用などで、実在の林檎に光が反射することなどは直接の原因ではないのでそこに含まれない。ここでデネットはこの原因が「行動主義的」に、つまり自然科学によって記述可能な形で明らかにできると述べている。そしてまた信念の志向的対象が実在物ではなく架空のものかもしれないと扱う自身の立場を「錯覚主義」と呼んでいる。クオリア論では信念の志向的対象は必ず存在しなければならないと考えられ、幻覚の可能性などを加味してその志向的対象が外界にではなく私たちの意識の中に求めている。なぜなら幻覚の場合信念の志向的対象は存在しないことになるが、脳内のクオリアだとしておけばその場合でも志向的対象が存在するからだ。ここでデネットが提案している代案は、その志向的対象は実在しなくてもよいというものなのだ。その例がまさしくエルドラドである。
 さて、次の論点はクオリアは情動を引き起こすものだという点である。クオリア論者はそれらが人生を豊かにしていると主張するが、それが実在しないというデネットはそのような情動的な世界すら存在しないと主張するのだろうか。すなわち世界は物理学の方程式で記述される無味乾燥な世界なのだろうか。答えはもちろん否である。この点を詳しく見るために、デネットは次の節でハンフリーの議論を引き合いに出しながら自説を展開していく。
 「3.ニコラス・ハンフリーの発明」ではまずハンフリーの論文の一節が引き合いに出され、意識が二つの意味で「発明(invention)」であることが述べられる。一つには便利なものとして、もう一つにはでっち上げられた空想として意識は考えられる。前者に関してはデネットの意識についての見解と完全に一致している。意識は進化の過程で獲得された、我々の適応度を上げるための発明であるというのがデネットの基本的な姿勢だ。意識は自分や世界の状態を単純化して見るが、それは複雑な世界を複雑なまま認識していては素早く判断して行動できないからである。そして私たちの思考活動にはデカルトが考えたように中心点があるわけではなく脳内で分散処理されているから、脳内のモジュール間のインターフェースとして意識が存在している。
 二つ目の意味での「発明」についてはデネットは同意しかねているようである。この空想というのはクオリアのことであり、意識は実際には存在しないクオリアを「でっち上げた」ものでもあるのだとハンフリーは言う。この言い方だと実際上の有益さ、つまり適応度を高める価値を持った認識とそうでない情動を区別しているのではないかとデネットは懸念している。デネットにとってクオリア(この場合は単に質感)を伴った感覚もまた生存上の有益さを持っている。ここで言われる有益なクオリアは単に内的な信念の原因であるに過ぎず、実在物ではない。
 しかしながら次にデネットは現金の存在を否定しないのと同じように「感覚上の性質」の存在を否定しているわけではないと言う。これはかなり微妙なポイントであるように思われる。つまりここで言われているクオリアは感覚の質が誤って非物理的かつ実在的な現象に変化させられてしまったものなのだろう。それゆえに正しい意味での感覚の質は存在していると言える。この現金や感覚の質はロックが「二次性質」と呼んだもののことだと説明される。二次性質は物体に付属した性質(一次性質)ではなく私たちの側からそこに付与する性質のことを指す。この性質はなんらかの非物理的なものを指しているのではなく、ギブソンアフォーダンス*3と呼ぶような私たちにとっての有用さという側面で切り出された(表象された)性質のことだ。これら二次性質は実際にその性質(例えば赤色)として私たちの脳内に「現れて」いるわけではない。それは単に(見かけ上は言語という形で*4)表象されているだけに過ぎないのである。ここで言えるだろうことは、表象の志向的対象は物理的な物体として存在するし、表象もまた存在するが、それらは別のものであってそれを混同することがクオリアという問題を発生させるということだ。そしておそらくデネットはここで、クオリアの持つ情動を喚起させるような特徴はアフォーダンスという形で説明できると想定しているのだと思われる。脳神経の作用でしかない痛みがこんなにも「痛い」、つまり特別なものであるのはクオリアとして非物理的に与えられているからではなく、それが意味を持ったアフォーダンスとして表象されているからなのだ。
 ハンフリーは感覚内容が非物理的なクオリアと考えられることでそれらが人生に対する有意義性を獲得すると述べている。しかしデネットはそこに同意しない。なぜならウォルター・ローリーはエルドラドの非物理的なクオリアを持ってはいなかったが、それでもそのエルドラドは彼の人生に対して大きな意義を有していた。その人生に対する有意義性とはアフォーダンスのことであり、それは完全に物理的な性質なのだ。それゆえにクオリアが存在せず、意識が自然主義的に説明されたとしても今私たちが感じている世界の有意義性が失われるわけではない。
 最後にデネットは自分の理論において、対象の思考、知覚や幻覚などをどう区別できるのかを述べる。なぜこれが問題となるのかというと、デネットが「錯覚主義」として信念の志向的対象が実在しなくてもよいと述べてしまった段階で、実在する対象としない対象を区別する必要が生じるからである。しかし普通考えられるようにその違いは信念の原因となるクオリアからではなく、他の状況証拠などの背景知識との整合性によって判断される。セラーズは知識を感覚内容自体から正当化することを否定し、それを支持する背景知識による正当化の枠組みを主張したが、おそらくそのような全体論的な認識論を意識しているのだろう。
 
 この論文はアブストラクトで書いてあることとは違ってクオリアの存在否定はやや薄味に終わり、むしろその後、クオリア無しの世界観がどんなものかを説明することに主眼が置かれているように思われる。クオリア論の論駁については長年やっているのでもう飽きているのかもしれない。注目すべきは最近デネットが気に入っている概念「アフォーダンス」を用いてクオリア無しに感覚の情動性を説明している点だろう。これは以前のクオリア論批判にはなかった観点だと(私が見た限りでは)思われる。クオリア論者たちがクオリアにこだわる理由はまさにそこ、感覚の情動性にあるとデネットは見ているので彼としては重要な点なのだろう。例えば哲学的ゾンビの思考実験がこんなにも不気味に見えるのは、クオリアを欠いた人間が私たちと同じように世界の中で人生を生きていると思えないところから来ている。そのような不気味さを取り去ることができれば、この思考実験に対して「ゾンビだから何?」と返答することができるだろう。デネットはそのような情動的な感覚質が物理的に説明可能な性質であることを示して、その不安を取り去ろうとしているのだと考えられる。
 クオリア論の原理的な批判のパートには短くまとめられているからこそ凝縮された論証となっていて感心させられる。言ってしまえばクオリア論の誤謬とは「信念の志向的対象と信念の直接原因の混同」なのである。信念の志向的対象は実在する林檎かもしれないし、実在しないエルドラドかもしれない。そして信念の直接原因はもちろん脳神経に入力される信号であり、それがその志向的対象によって引き起こされたものであるかどうかは問題ではない。(エルドラドの場合例えば言い伝えなどによってその信念は引き起こされる)その信念が真実であるかどうかは、背景知識や状況証拠によって判断されるのであって、なんらかのクオリアを直接与えられることによるのではないのである。このことが可能となるためにエルドラドという架空の対象についての信念を持ったローリーという人物を引き合いに出して、信念の志向的対象が存在しなくてもよいという論証を行なったのだろう。またこの辺りの話は何度か触れたようにセラーズ的な認識論を継承したものだと思っている。その視点で見ると、私たちの持つ意識や信念は志向的対象とアナロジーの関係で結ばれているに過ぎない。すなわち、林檎という対象についての信念は当然林檎の形や色をしているわけではなく、それとアナロジカルな神経回路の興奮なのである。この説を持ち込むと、デネットが小説とそのキャラクターを引き合いに出している意図も見えてくる。小説は単に文字列であって、登場する人間それ自体を完璧に記述しているわけではない。それでも小説はキャラクターを描いているのであり、それと同じように意識は世界を表象している。
 最後に参考としてだいぶ前に書いたデネット『解明される意識』のレビューも貼っておく。『解明される意識』は本文で(デネット1991)と指示されていた文献である。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:https://mitpress.mit.edu/sites/default/files/9780262541916.jpg

*2:こういった考え方はセラーズが「心理的唯名論」と呼んだものから来ていると思われる。またこうしたクオリア論批判はセラーズが「与件の神話」と呼んだものの批判と似ている。セラーズの意図は観察によって知識を基礎づけるという考え方がうまくいかないことを示すことだったが、その過程で知覚システムに直接与えられる「感覚与件」というものが批判される。詳しくは以下。

*3:アフォーダンス - Wikipedia

*4:「言語という形で」と言い切れないのは実際には神経回路の興奮という形で表象されているからだ。表象は世界と同型であり、その表象と同型な言語によって私たちの意識は働いている。つまり意識的思考は世界を二回類推しているのである。その辺りはセラーズ"Science, Perception and Reality"の三つめの論文"Being and Being Known"で述べられている。