心身二元論史

院試のために哲学史を勉強したのでついでに思ったことを書き留めておこうと思う。

哲学史は見方によって様々な面を切り取ることができるが、ここでは心身二元論の起源と発展、批判に注目してみたい。

基本的に私は心身問題に対してデネットの物理主義的立場に共感しているので、二元論に対してはかなり批判的な書き方となるだろう。

参考にしたのは以下の二冊である。

岩崎武雄『西洋哲学史』はミレトス学派からハイデガーや日常言語学派までを一貫したクリアな見地から概観することができる。

伊藤邦武『物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために』は「魂」「意識」「言語」そして「生」という四局面の移り変わりとして哲学史を捉えた面白い本だった。

1. 古代 — 心身二元論の発生

ソクラテス以前の哲学者は自然を「アルケー」から捉えようとしたとされる。

そこでは自然世界と人間を区別する観点はなく、自然はそれ自体として生きて動いているという物活論が取られていた。

しかしデモクリトスによる完全な唯物論が出てくると、それに対する反省としてソクラテスは人間に独自な「魂」と言うものを問題とした。

人間の行動や思考は機械的な自然世界と同じ原理では説明できないのではないかというのがその根底にある問題意識である。

しかし、今まで生きたものと考えられており、したがって人間と本質的に異ならないとされていた自然というものが生命のないものとして把握し直されてくるとともに、人間と自然との対立を意識し、人間についての原理を自然学的な原理に求めず他に求めようとする傾向が生じてくることは、容易に理解されることであろう。(岩崎 p29)

ここに心身二元論の起源を見ることができるだろう。

すなわち、「生きた」人間の振る舞いを機械的な原理から説明できそうにもないという「思い込み」こそが心身二元論を生み出したのである。

さて、そのようにして自然と区別される魂にはそれに対応した能力やその対象が必要となる。

その能力こそが「理性」であり、その理性の対象となるのがプラトンなら「イデア」、アリストテレスなら「形相」なのである。

また後に見るように、自然と区別された存在者として魂には実体性が付与されることになる。

2. 近世 — 二元論の前景化

中世の哲学は「神」が中心であり「魂」は二の次であったため近世まで飛ばすことにする。

心身二元論を哲学の中心に据えた哲学者として最も有名なのがデカルトだろう。

デカルトは「思惟」と「延長」を精神と物体世界を構成するそれぞれ別の実体と考え、そこから自然学を基礎づけようとした。

当然その際に問題となるのがその二つの実体の間にどのようにして相互関係が成り立つのかということだ。

デカルトの後のゲーリンクスやマルブランシュは「機会因論」といって神を媒介としてその関係が成り立つと考えた。

他にスピノザは二つの実体が「神」の属性に過ぎないとしてそれらが並行関係にあると考えることでその問題を回避しようとした。

またライプニッツにおいては実体は「モナド」であり精神も世界もその集合に過ぎない。

そしてモナドの振る舞いは神によってあらかじめ予定されているので、それによって精神と世界の間の調和が達成される。

このように近世では心身二元論が中心的に論じられるようになったが、依然として「神」という道具立てでしか解決を図ることはできなかったと言えるだろう。

このような解決しか図れないという点で心身二元論には根本的な欠陥があると言わざるをえない。

なぜなら現代においてたとえ道具としてであっても「神」を持ち出す哲学思想が受け入られることはないだろうからである。

3. カント — 純粋理性の誤謬推理

カントは魂について「超越論的仮象」であるとしてその実体性を(『純粋理性批判』の枠内では)否定している。

その経緯を簡単に述べると以下のようになるだろう。

すなわちすべての表象に伴う「私は考える」という表象が常に伴い、そのことで思考が成り立っている。

しかしその「私は考える」という命題の主語は論理定な主体に過ぎないのに、人間の理性はそれを形而上学的な実体として考える「誤謬推理」を行ってしまう。

そこから形而上学的な主体、「魂」という実体が生み出されてしまうのである。

カントにとって実体性を持つものは直観において与えられていなければならないから、この推理は仮象を生み出すだけの誤りでしかない。

つまりここで、心身二元論の起源について「誤謬推理」というものが設定されている。

元は人間の振る舞いには自然とは別種の説明原理を必要とする(気がする)から区別しようという考えから出発して、「魂」に実体性が付与されるに至る事情にはこのような経緯があったのである。

4. 現代 — 心の哲学

さて、現代の心の哲学においても心身二元論の残滓は存在している。

例えばクオリアという感覚の質は物理的な説明を寄せ付けないとされている。

人間の精神に自然世界から独立な実体性を認めるという考え方は誤謬推理から生まれた仮象なのだから、これは不合理だと言わざるをえないだろう。

なぜなら人間の精神が実体ではないならそれは自然世界と同じ存在者のはずであり、同じ原理によって説明されることが可能なはずだからである。

結局クオリアのような思想は古代ギリシャにおける、人間は自然と同じ原理から説明できないという(当時の科学レベルからすれば当然の)思い込みを引きずっているだけだと言えるだろう。

人間の脳や振る舞いに対する経験的な知見がはるかに豊富になった2500年後の現代でそのような思い込みを引きずるのは適切だとは思えない。

5. 結論

ここで私が示したかったのは、心身二元論には正当な根拠などなくただ人間の精神が驚くほど巧妙にできていることによる思い込みが起こした幻想だということだ。

そして魂はカントのいう誤謬推理を通じて実体性を与えられることでさらに神秘的なものと考えられるようになった。

確かに人間の精神は自然界で見出される他のものとは比べ物にならないほど多くのことを為すことができる。

だからと言ってそれが自然世界と独立な実体であり、別の説明原理を要求するものであるということは証明されない。

しかし、魂が実体でないとしても精神的なものについて内側から語ることがすべて否定されてしまうわけではないと私は考える。

自然科学と精神についての分析は、全く別の原理による説明なのではなくそれぞれが別のレベルでの説明なのだ。

例えば生物学が物理学に還元可能であってもそうされないように、超越論哲学や現象学は自然科学に還元可能であっても還元されることはない。

なぜならそのような還元は生物の振る舞いをいちいち物理法則から説明するように、説明の直感性を著しく損なってしまうからである。

ゆえにそのような哲学は自然科学と地続きのものでありながらも別のレベルの説明原理として存在し続けるべきなのだ。