最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』


この記事では最近『アリス・イン・カレイドスピア 1』を解釈していく。

『アリス・イン・カレイドスピア 1』(以下、本作)は以下のリンク先で最後まで読むことができるので未読の方は是非先に読んでほしい。

sai-zen-sen.jp


1. はじめに

この記事ではいわゆる「心の哲学」と呼ばれる分野の知識を背景とし、特に哲学者ダニエル・デネットの立場から『アリス・イン・カレイドスピア 1』の解釈を試みる。

そのためまずは前提となるいくつかの概念について説明したのち、それらが本作の世界観とどう関係するのかについて考察していく。

次にその視点に立って本作の具体的なストーリー展開を解釈する。

2. 物理主義と「地底」の人々

本作の主要な対立軸となっているのは地上と地底、すなわち魂の実在を認める心身二元論と物理的なものしか認めない物理主義*1の世界の対立である。

そして魂を持たない「地底」の人々は「哲学的ゾンビ*2と呼ばれる。

さらに本作後半では登場人物の一人「ミラ」が情報システムの索引としての擬似人格であったり、本作のヒロイン「アリス」が物語の登場人物としての存在であることが明かされる。

「私は、あらゆる普遍的な物語類型を参照し続けながら『私という物語』を自動生成する、お話の妖精。そのあり方は典型的な物語に影響を受けます」
(7章 p282)

ミラは心の哲学での主要な争点の一つである人工知能の問題を意識したキャラクターだと思われる*3

この人工知能の実現可能性について、人間の意識を物理的なものから説明できないとする心身二元論者は否定し、物理主義者は肯定している。

ダニエル・デネットは物理主義の主要論客であり、人工知能についても一貫して肯定的な立場を取っている。

さて、そのようなデネットの物理主義的な見方から「哲学的ゾンビ」「人工知能」そして「物語的重力の中心としての自己」というものについて説明したい。

まずデネット心身二元論は理論的に行き詰まっていると主張する。

もし意識が物理法則から完全に自由な魂だとすると、その魂はどうやっても物理的な世界と関わることができない。

それゆえに私たちの意識は物理的世界になんらの影響も及ぼさないものだということになってしまう。

この結論は私たちの直感と明らかに相容れないものであり(私たちは意識が物理的な身体を動かしていると確信している)、デネットはこの点から心身二元論を退ける*4

心身二元論が否定されたことで、私たちはすべて非物理的な魂を持たず物理法則に支配された「哲学的ゾンビ」であると考えられる。

またデネットは進化論を自身の理論の主要な位置に据えていて、意識は進化のプロセスから生まれてきたと主張する。

進化のプロセスとは単純なアルゴリズムの集積が様々なデザインを生み出していくことだから、人間の複雑な意識活動は部分では単純な脳神経回路から生み出されることが可能である*5

それゆえに人間の知能と同じ能力を持つ人工知能もまた単純な機械の集積から構成可能であるとデネットは考える。

また、脳の神経の活動は並列的なプロセスであるためその産物である人間の意識には中心的な視座(カルテジアン劇場)が認められなくなる*6

それゆえに意識は並列的な脳のプロセスそれぞれがお互いに編集し合う中で生み出される「多元的草稿」なのである。

ならば「私」や「自己」とは一体なんなのだろうか。

それは「物語的重力の中心」であるとデネットは言う。

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

平たく言うと脳の並列的な活動の結果として出力された物語(この文章もそれに当たる)における一人称こそが「自己」というものの正体なのだ。

そして物語は因果関係による文脈によって構成されているから並列的な脳の活動から直列的な「自己」が生まれるのである。

このように考えると、物語の登場人物であるアリス(正確に言うと「物語の登場人物」としての本作の登場人物)が単なる作中でのフィクションではなく、現実に存在する私たちの「自己」と同様の存在者であると考えることができる。

3. ミーム論から見た呪術

次に進化論における思考ツールの一つ「ミーム」というものと作中の主要なガジェットである「呪術」の関係を考察したい。

ミームとは遺伝子のような自己複製子の一種であり、情報の形をとって私たちの脳から脳へとコピーされることで飛び移っている*7

デネットによるとこのミームは私たちの脳内で複雑に組み合わさって、脳というハードウェアに対するソフトウェアとしての意識を形成している。

さらに意識を構成するミームたちはそれぞれが自身の複製という目的を達成するために互いに競合していて、その勝者が意識にのぼって他者に伝達される。

さて、そのようなミームの伝播が呪力を生み出すということが本作での呪術観であるが、それはどういうことなのだろうか。

まず重要なのが『アリス・イン・カレイドスピア』という物語自体が一つのミーム複合体であるということだ。

本作、そして『幻想再帰のアリュージョニスト』が沢山のオマージュから構成されているのは物語=ミーム複合体であるという点を強調するためだとも考えられる。

そしてその物語を生み出すのは作者である「最近」という人間の脳であり、それは競合するミームたちの巣である。

ゆえに作者の脳内においてあるミームが影響力を強めるということは、それが脳から出力される物語を自分の都合のいいように改変していくということを意味する。

何故ならそのようにしてミームが出力されることが自然淘汰を勝ち抜いたということであり、そのようなミームだけが生き残ってきたからだ*8


では呪術の4系統それぞれについてこのような観点から考察してみよう。

呪術の4系統とは以下のようなものである。

  • 邪視:世界観の拡張
  • 呪文:言語の拡張
  • 使い魔:関係性の拡張
  • 杖:身体性の拡張

邪視者はメタ的なレベルから直接的に物語世界(ミーム環境)を改変するが、彼らは作者の脳内に存在するミーム群だと考えられる。

なぜなら先ほど述べたように物語(=作者の意識)はミーム群が競合し編集しあう中で生み出されるからだ。

そして邪視者が認識するということは物語世界においてそれが言葉によって記述されるということであり、記述されることは物語を直接形成していく。

このようにして邪視者の認識は物語世界を改変するに至るのである。

次に呪文は言葉の呪術だが、これは直接的にミームの表現であるだろう。

物語が小説という形を取る以上それは言葉によって構成されていて、言葉(ミーム)を操ることは物語世界を操ることと同義である。

そして使い魔は関係性の呪術だが、この関係性とはミーム同士の関係性のことを指す。

ミームは相互にただ争っているだけでなく、時に共生したり、さらには一つのユニットとして脳内の自然選択を生き抜いている*9

そのようなミーム同士の関係はやはり物語世界に直接表現されていくだろう。

最後に杖は身体性の呪術であり自然科学に対応するが、それはミームたちの活動基盤である物理世界を意味している。

「『杖』が底辺であるのは、それが万物の基礎であるから。『邪視』が頂点であるのは抽象度が高いから。土台が無ければ、天井は支えを失って崩れてしまうでしょう」
(三章 p64)

いかに物語世界で自由に振舞えるミームといえどもそれを実装している作者の脳神経、小説が書かれる紙やインクといった物理的なもの、すなわち物理法則に規定されている。

それゆえに自然科学は現実世界と同じように物語世界の基盤となるのだ。

さて、呪術は類推によって生まれるとされているが、以上の議論から考えると類推とはミーム同士を結合させる脳の働き一般を指すと言えるだろう。

杖=自然科学も呪術と考えられている以上、自然科学を構成する因果関係の思考も類推の一種であると見做されていると言える*10

このようなミーム同士をつなぎ合わせる類推という脳の働きがミーム複合体である物語世界を作り出し、それを動かす呪術として捉えられるに至るのだ。

さらに意識は脳が多元的草稿の相互編集の中からミーム(言語)を編んで作り出した物語であるから、この類推という呪術は意識そのものを構成している。

そしてもし世界を思考の対象として存在する現象界だと考えるなら、私たちの世界自体が本作と同様に類推(呪術)によってミームをつなぎ合わせることでできていると考えられるだろう。

だから、呪術は本作の単なる作中ガジェットではなく、私たちの世界に実際に存在する力なのだ。

以上のような呪術の考察をもとに、次は本作の具体的な内容を解釈していこう。

4. 魂が無いとはどのようなことか?

本作で対立軸となるのが地上と地底、すなわち心身二元論と物理主義である。

地上の人々は魂を持ち邪視の呪術を用いて自由に世界を改変することができる。

対して地底の人々は魂を持たず物理法則に支配された杖の呪術によって地上と戦争している。

主人公である『 』は魂を持った邪視者から魂を持たない哲学的ゾンビへと立場を変え、地底の人びとに対して徹底して拒絶の態度をとる。

これは二元論的立場にあった人間にとっていかに物理主義の世界観が受け入れ難いかということの表現だろう。

「魂は実在する」それを認めないということは、あらゆる生き物は哲学的ゾンビという冷たい機械と認めることになる。そんな寒々しい世界はとうてい受け入れることはできなかった。
(五章 p185)

しかし『 』はアリスや他の哲学的ゾンビたちと関わる中で魂を持たない人々を邪視者の間に違いはないのではないかという考えに至る。

事実、魂の有無が(それが非物理的な実体である以上は)周囲の物理的世界に影響を及ぼすことはない。

「あなたは勘違いしています。私にとって振る舞いや周囲の目にどのように映るのかこそが重要なのです。内面や心といった形のないものに人の本質はありません」
(5章 p159)

地底の世界観を受け入れた『 』は今まで拒絶するだけだったアリスに対しても新しい関係を結ぶことができるようになった。

このアリスは前述の通り物語の登場人物として存在しているのだが、それはどのようなことを意味しているのだろうか。

まず重要なのはアリス自体が一つのミームであるという点だ。

「だって、退屈は辛いこと。それは死と同じくらいひどい仕打ち。楽しくないと嫌。私は、死にたくない」
(4章 p120)

「楽しくないと死ぬ」というのは、快楽を以って受け入れられないミームは自身のコピーを多く残すことができないということを意味する。

誰にも見向きもされないということはすなわちミームの死であり、それゆえにアリスは自身が登場する物語が退屈なものとなれば死んでしまう。

「必要とされること。読まれること。感じてもらうこと。それが私の願い。物語の喜び」
(7章 p286)

さて、デネットの考え方によると私たちの「自己」もアリスと同じように物語中の一人称として存在するのであった。

そして一元的な視座=魂を持たない『 』も、同じように魂を持たない物理主義的な世界での人間の表現である。

それゆえにアリスたち自身の存在の問題は私たちの実存の問題に直結してくるのである。

だからアリスと魂を取り戻してもあえてそれを捨てて「スワンプマン」として戦う『 』の出す結論がどのようなものかが注目すべきポイントとなる*11

そしてその結論とは、魂は混沌から生まれるというものである。

心身二元論でも物理的な還元論でもない、複雑性の雲の中に魂の息吹は存在している」
(7章 p316)

これは作中のクライマックスで展開される部分で、スピード感のためにやや明瞭ではないので詳しく説明したい。

物理主義と進化論を組み合わせるデネットの思想では、人間の精神的能力は世界が単純なものから複雑なものへと発展していく中で獲得される*12

それならば私たちが魂と呼んでいるものも同様の進化のプロセスの中から生み出されてもいいのではないか。

心身二元論では魂は物理的世界と完全に独立しているのでこのようなことはありえない。

反対に物理的なもの以外を否定する単なる物理主義的な還元論においては魂の存在そのものが否定されてしまう。

そういう意味でアリスたちがたどり着いた結論は「心身二元論でも物理的な還元論でもない」のだ。

それならば魂とは一体なんなのかというと、それは複雑系の予測不可能性から私たちが見いだすものだ。

比較的単純な原理で記述されるニュートン物理学においても、物理的世界の未来を予測することは実際上ほぼ不可能であることが知られている。

それならば原理的には物理法則で記述可能な哲学的ゾンビやAIの振る舞いを予測することもまた不可能である。

だからそこに物理法則から自由な魂を見出しても何の問題もないのだ*13

そのようにして、魂を否定するのではなく魂という言葉の意味そのものを書き換えてしまうことがアリス達が出した結論だと言えるだろう。

言うまでもないがここにも予測不可能性と魂という二つのミームを類推によって結びつける呪術の力学が働いている。

ミームによって構成される物語世界だからこの類推は世界を更新し得るし、同様に言語で記述された物語でしかない私たちの世界においてもそれは可能だ。

だから物語の登場人物や哲学的ゾンビは新しい意味で魂を持つことができる。

ところで、二元論的な魂は物理法則から完全に自由だがそれゆえに物理世界に干渉できないという理論的な欠陥を持っている。

しかし私たちの予想を超えるところに見出される新しい意味での魂にはそのような理論的瑕疵がない。

ゆえにアリスたち「偽物」の魂は邪視者の「本物」の魂を超えることができる。

「本物を超えたと証明することだけが私が作り出された価値だと教わりました」
(7章 p282)

以上のように物語の登場人物であるアリスに魂が認められるということは何を意味しているのだろうか。

5. 自由な物語

アリスは本作のクライマックスで以下のように言っている。

「私は物語の住人。そして神(さくしゃ)を殺すもの。私を縛るものは何もない。世界はもう、開かれている!」
(7章 p318)

魂を持たない一元論的な存在者の振る舞いは物理法則に完全に決定されているがゆえに、自由を持たないと二元論者は主張する。

同様に物語の登場人物も、その振る舞いは既に作者によって書き終えられているのだから自由を持たないように思われる。

しかし私たちの予想を超える複雑系に魂を見出すということによって、哲学的ゾンビも物語の登場人物も私たちの予想持つかない振る舞いをするという意味で自由だと認めることができる。

そのような意味で既にその振る舞いを作者(=神)に書き終えられているアリスたち本作の登場人物は自由を獲得する。

すなわち物語の世界は予測不可能な未来へと開かれたのだ。

以上の点から本作を物語という環境の中にあるミームたちが自己の自由を勝ち取るための戦いだと読むこともできる。

地底の人々(登場人物たち)と邪視者たち(作者の脳内ミーム)との戦いは、まさに登場人物たちによる自分を作り出した神に対する自己の実存をかけた戦いなのだ。


そしてこのことはそのまま私たち人間の自由についての議論と並行関係にある。

なぜなら物理主義を認めると、人間もまた物理法則によってその振る舞いを決定されているということが帰結してしまうからだ*14

そのような人間にも振る舞いの予測不可能性から魂=自由を認められるなら、アリスたち同様私たちも物理法則(=汎神論的な神、または神の創造したもの)から自由となる。

さらにこのことは「物語的重力の中心」として考えられる私たちの「自己」の自由とも関係する。

「『私という物語』を自動生成する、お話の妖精」であるアリスが自由を獲得するなら、脳が出力する物語の一人称でしかない私たちもまた自由であるといえるからだ。

6. おわりに

以上が私の本作の解釈となる。

ここで提示した『アリス・イン・カレイドスピア 1』の読解そのものが一つの物語(=呪術)であり、今あなたが認識する世界を改変している。

呪術は意識対象としてのこの世界に現に存在しているし、「物語的重力の中心」でしかない「私」たちはアリスたちと同じ戦いを現在進行形で戦っているのだ。



この記事は「ゆらぎの神話・アリュージョニスト・アリスピ Advent Calendar 2016」の12/22分の記事となる。

www.adventar.org


本作の作者最近は「小説家になろう」サイト上で『幻想再帰のアリュージョニスト』を連載している。

本作と世界観を共有しているので興味がある方は読んでみてほしい。

http://ncode.syosetu.com/n9073ca/ncode.syosetu.com

*1:作中では「唯物論」(materialism)とされるが現行の心の哲学では物理主義(physicalism)と呼ばれるのでそちらに習う。

*2:哲学的ゾンビ - Wikipedia

*3:また「コウモリであるとはどのようなことか?」という有名な思考実験のオマージュでもある。  コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia

*4:詳しくは『解明される意識』第一部 

re-venant.hatenablog.com

*5:詳しくは『ダーウィンの危険な思想』第三部 

*6:カルテジアン劇場 - Wikipedia

*7:自己複製子について詳しくはリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』、ミームについては同書第11章。

ミーム - Wikipedia

*8:このミーム群の競合から行為が生まれてくる過程をデネットは「パンデモニアム(百鬼夜行)モデル」と呼んでいる。

*9:本作では直接関係しないが『幻想再帰のアリュージョニスト』での「融血呪」はミーム同士の融合(すなわち登場人物たちの融合)を描いているものだろう。

*10:ヒュームの懐疑論やカントの超越論的哲学に近いものがある。

*11:スワンプマン - Wikipedia

*12:進化が複雑なものを「目指して」いるわけではないことに注意。進化論は徹底して目的論を否定する。

*13:予想不可能性と自由の関係については デネット"Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting"第6章に関連する話題がある。re-venant.hatenablog.com

*14:このことについて有名な思考実験として「ラプラスの悪魔」がある。 ラプラスの悪魔 - Wikipedia