J.S.ミル『自由論』 / パターナリズム

2年ほど前(学部一回生の頃)に書いたJ.S.ミル『自由論』についてのレビューとそれを踏まえた「パターナリズム*1」についての論考が発掘されたので多少手直しして掲載しておく。

1.初めに

私たちは何かを判断する際に、自分で考えてそれをするか自分より賢い(と考えられる)人間の判断を仰ぐか悩むものである。

パターナリズムというのは要するに自分ではなく何らかの権威者や政府に判断に任せた方が人生がより良くなるのではないかという考え方である。

これは自由主義の思想と真っ向から対立する。

権威者や政府が個人の行動全てを決めてしまうなら、そこに個人の自由は存在しない。

J.S.ミル『自由論』は個人が自由に判断して行動することの重要性を説いた著作であり、それを踏まえながらパターナリズムに反論していくというのが本稿の趣旨である。

2.基本原則

パターナリズムについてのJ.S.ミルの議論を確認していくにあたって、まず前提として必要なのは「より多様な個性があり、より多様な生活の実験があることが社会にとって利益となる」という原理と「人は自ら判断することによって初めて自らの理性をよりよいものとすることができ、個人の理性の質の向上によっても社会は利益を得る」という原理であろう。

前者についてミルは

人間が不完全である間は、異なった意見の存在していることが有益であるのと同様に、異なった生活の実験の存在していることもまた有益なのである。*2

と述べている。

その根拠は、ある人の生活様式が絶対的に正しいなどということは原理的にありえず、現状「正しい」と考えられている生活様式が、他者の異なった生活様式によって絶えず批判されることが有益だということである。

また、後者の原理について

知覚、判断、識別する感情、心的活動、更に進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行うことによってのみ練磨されるのである。*3

と述べている。

これをパターナリズムについての議論に当てはめよう。

人々が権威者や専門家の判断に従ってばかりいて自ら判断をすることがなくなってしまうと、彼らの理性の能力は成長せず、さらに専門家の意見への依存度を上げることとなるだろう。

これが前者の原理に照らし合わせて、社会にとって不利益になることは明らかである。

というのも全ての個人が指導に従って生活するなら、多様な生活の実験は起こらない。

以下ではこの2つの原理を踏まえ、社会と専門家、もしくは指導的な立場にある人物の指導に従って生きることの弊害を見ていく。
 

3.社会によるパターナリズム

まず社会を指導者とするパターナリズムをミルが退け個人の自由を養護する根拠としてあげているものは、社会が一個人に対して抱いている関心は個人が自分に対して抱いている関心よりもすっと薄いという点である。

そして次に個人は自分の境遇、感情について他の人では決してありえないほど深く知りうるので、社会が彼になすよりもより適した方法で自分の利益となるような行動を選びとることが出来るという点である。

前者の根拠については、社会が関心を持たねばならない項目の多さと個人のそれの数を比較すれば自明であろう。

そして後者についてもミルは自明のものとして扱っている。

仮に社会が個人に対してその人の利益になると推定される行為を強制するとすれば、その理想を導き出した推論は社会の構成員もしくは権威者がただの一人の一般的人間としての彼の境遇を想像して行う「一般的推論」の域を出ることは決して無い。

それゆえに

彼自身の感情と境遇とに関しては、他のいかなる人のもちうる理解の手段よりも、量り知れないほどまさった理解の手段を持っている。*4

つまり、個人が自分の今後の行動について為す推論のほうがよりよい結論を導き出す可能性が高いのである。

しかし、個人の行為が明らかに誤った彼自身の身を滅ぼすもの、そして間接的に社会の損害となるようなもののように見えても、社会は彼に行為を改めるよう強制するべきではないのだろうか。

これについてミルは、これらの行為が他者に対する危害を生み出したりそれらの行為で身を滅ぼしたために、子どもの養育、教育といった道徳的義務に違反するならば

その事件は、自己配慮の〔自己にのみ関わる〕行為にはもはや属しないで、本来の意味における道徳的非難を受け無くてはならないものとなるのである。*5

と述べている。

しかし、

公衆に対する明確な義務に違反することなく、また自己自身以外の、誰それと名指すことの出来る個人に対して明白な損害を与えることもないような行為によって、社会に及ぼす単に偶然的な―或いは推定的とも呼ばれうるような―損害に関しては、社会は、この迷惑を、人間の自由という一層重大な利益のために、耐え忍ぶことができないわけではない。*6

とも述べているのである。

つまり、他者に直接の危害を加えるような行為以外が自由に行われることで社会が得られる利益は、間接的に社会が被るかもしれない不利益よりも大きい、とミルは考えているのである。

その上でミルは、社会の統制について

その(社会が個人に対して絶対的に支配する資格を持つものとしての)原理とは、人類がそのいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠を持つとされる唯一の根拠は、自己防衛であるというにある。また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされる唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある。*7

というように結論づけている。

これがいわゆる有名な「危害原則」と呼ばれるものである。
 

4.個人によるパターナリズム

次に一部の個人を指導者とするパターナリズムについてであるが、これについては少々込み入っている。

主権者である多数者が、自分から、より高い天賦と教育とを備えた一人または少数者の忠言と感化とによって指導されるのでない限りは(多数者が最良の政治を行っていた時代には彼らは常にそのような指導に服していたのであった)、民主制または多数貴族制による政治は、その政治活動においても、またそれの育成する思想や資質や精神状態においても、凡庸以上に出たことは一度もなかったし、また出ることができなかった。*8

と述べられている点からわかるように、ミルはある突出した能力や見識を持つ個人、または少数からなる集団が民衆に対して指導的立場にあることの有用性については、これを全面的に認めている。

しかし、これがこのような指導的な人物に足して至上の命令権を与え、全世界の民衆をそれに服従せしめるような状況については容認していない。

他の人々を強制して、その道を行かせるような権力は、他のすべての人々の自由や発展と相容れないのみでなく、強者自身も墜落させることとなる。*9

つまり、指導的な立場にある人間が「指導」することは認められ、「命令」することは認められていないのである。

もし仮に彼らが大衆に命令して彼らに服従させるならば、大衆に属する個人個人の自由を阻害することで生活の実験の多様性が失われるという点から見ても弊害があり、また権威者自身の思想や行動様式が批判にさらされないことによって、それ自身も時代に合わない物となってしまうおそれがあるのである。

5.結論

以上より、ミルがパターナリズムに対して懐疑的であり、むしろ判断というものが(あくまで他者に危害を加えない限りでは)個人に任されるべきであると考えていることが示された。

6.補足

『自由論』において重要なのは「多様性」と「批判」の存在である。

私個人としても多様性と批判が存在することの意義には大いに同意できるし、この本を読んでかなり影響を受けた。

またこの思想は進化論における「適者生存」の思想と似通っているようにも考えられる。

『自由論』が出版された1859年はチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が出版された年と同じだが、その両者で展開される思想に類似点が見出されるのはかなり興味深い。

思えばリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』を読んだのもこのころ(学部一回生)だったし、ミルの思想に深く納得したのはこの本に原因があるのかもしれない。

                               

参考文献

リベラリズム聖典として名高い本著だが、今読んでも全然面白い。
個人的にP139あたりで1850年代のイギリスの裁判での陪審員や法律家に対してミルがブチ切れて貶しまくるところが一番面白いと思う。

*1:Paternalism (Stanford Encyclopedia of Philosophy) など

*2:『自由論』P.115

*3:同P.109

*4:同P.154

*5:同P.164

*6:同P.166

*7:同P.24()内は筆者補足

*8:同P.134

*9:同P.134

2015年のベストリリース

2015年に出たEPやアルバムで良かったものを挙げていく。作曲者のA-Z順に書いているので必ずしもこの順で良いということではない。

 

Canblaster - Continue?

Continue?

Continue?

  • CanBlaster
  • エレクトロニック
  • ¥1050

 

10/23にベルギーのレーベル"Pelican Fly"からリリースされたフランスのプロデューサーCanblasterのアルバム。

Canblaster個人でのリリースは2013年にフランスのレーベル"Marble"から出た"Infinite"以来である。

Beat Music/Future Bass/Jersey Club/Techno/Trap/Vogueなど流行の音やエッセンスをジャンル横断的に取り入れていきながら独自の色を失わないセンスは驚嘆に値する。

特に3曲目の"Attention! 8 Way!"はオーケストラヒットの大胆な連打と日本語(?)サンプル使いが衝撃的で、soundcloudに試聴音源がアップロードされた途端に話題となった。

他にも7曲目"Rev Tower"の自由なリズムとベースラインのうねりが気に入っている。

ちなみにこのアルバムに収録されている曲はそれぞれの末尾と冒頭が曲順の通りにシームレスにつなげて聴けるように構成されており、また最後の"Rev Tower"から最初の"Continue"につながる。

つまりこのアルバムは最後が最初につながる円環をなしていて何度でも"Continue"することが可能であり、聴き終えるたびに"Continue?"と問いかけてくるのである。

 

 

 

Chrome Sparks - Parallelsim

Parallelism - Single

Parallelism - Single

  • Chrome Sparks
  • エレクトロニック
  • ¥600

 

2014年の"Goddess"以来となるChrome SparksのEPで、前作と同じくオーストラリアの先進的音楽レーベル"Future Classic"からリリースされている。

やはりハードシンセによる作品で、収録されている"Moonraker"の説明欄を見ていると

'moonraker' was made using the following instruments: minimoog model d, roland juno-60, a custom modular synthesizer, & field recordings taken in machu picchu, september '14. vocal samples are from karlie bruce.

と使用したシンセサイザーや音源の名前が列挙してある。

他にもマチュピチュでフィールドレコーディングした音を使っているらしい。旅行好きなのだろうか。

 

Chrome Sparksのトラックに共通するのは独特の深い叙情性である。

今回のリリースもそれが全面に押し出されており、一曲あたり平均8分と長いのだがドラマチックな展開と相まって通して聴くのが全然苦にならないどころか、あっという間に終わってしまう。 

また低音の鳴りも良いのでダンストラックとしてのクラブでの使用にも十分耐えるだろう。

3曲目"Ride The White Lightning"はなんと9分30秒にわたる長大で劇的なトラックだが、Chrome Sparksのこれまでの作品の中で一番気に入っている。

 

 

Gallant - Weight In Gold (The Remixes)

Weight In Gold (The Remixes)

Weight In Gold (The Remixes)

  • Gallant
  • エレクトロニック
  • ¥750

ロサンゼルスを拠点とするSTINTがプロデュースする"Gallant - Weight In Gold"をBrasstracks、Ta-ku、ATTLAS、Louis Futon、Ekail、emwhy.、Point Pointという今年ビートシーンで活躍した豪華なプロデューサーたちがリミックスしたこちらのアルバムも今年のベストとして挙げたい。

すべて同じボーカルトラックを用いていながらリミキサーのそれぞれが自分の個性を遺憾なく表現しており、どのリミックスも必聴の出来栄えである。

特に吹奏楽器の音色を前面に押し出したトラックメイクで2015年初頭から話題となり1年で独自の地位を築き上げたBrasstracksによるリミックスが秀逸だと思う。

また、このリミックス盤に収録されたもの以外にもoshi、Sweater Beats、Electric Mantisなどによるリミックスがsoundcloud上で公開されておりそのどれもが非常に高いクオリティを誇っている。

 

 

Lido / Canblaster - Superspeed

Superspeed - EP

Superspeed - EP

上でも紹介したフランスのCanblasterとノルウェーのLidoの合作EPである"Superspeed"は"Continue?"と同じくPelican Flyからのリリースである。

注目の若手二人の初のコラボレーションということで2015年上半期の話題をかっさらっていった。

LidoもCanblasterもピアノの演奏が上手いこともあって随所に流麗なピアノの旋律が使われていて美しい。

 

スタジオでのこのEPの制作風景を収めた映像がYouTubeに上がっていてそちらも面白い。


Lido & Canblaster - Superspeed EP (Behind The Scenes)

 

また2015年にはLidoが自身の曲をオーケストラとともに演奏する映像がいくつかアップロードされて話題となった。

右上の"nrk"というロゴから察するにノルウェーの国営放送"Norsk Rikskringkasting(ノルウェー放送協会)"で放送されたものと思われる。すごい。


Lido performing Drowning (Remix) by BANKS with KORK Orchestra

 

 

Rustie - EVENIFUDONTBELIEVE

EVENIFUDONTBELIEVE

EVENIFUDONTBELIEVE

  • Rustie
  • エレクトロニック
  • ¥1500


Rustie - First Mythz (Official Video)

イギリスの名門"Warp Records"からリリースされたグラスゴー出身のRustieによるアルバム。

Happy Hardcore/Rave/Rock/Techno/Trance/Trapを貪欲に飲み込んだ彼の音楽の最新アップデート版。

とにかく全曲音が割れている。

PVも目がチカチカしそうだが、Rustieがこのトラックやアルバム全体に対して抱いている視覚的イメージがよく表現されていると思う。

以前訳したインタビュー記事によると"EVENIFUDONTBELIEVE"というタイトルの意味は、

Even if you don’t believe in anything, just the fact that we exist and there’s existence, that’s enough in itself to be amazing.

(もしあなたが何も信じられないとしても、ただ我々が存在していて、「存在」があるという事実はそれ自体十分に驚くべきことなんです。)[()内は拙訳]

 ということらしい。

re-venant.hatenablog.com

  

 

Ta-Ku - Songs To Make Up To 

Songs To Make Up To

Songs To Make Up To

  • Ta-ku
  • エレクトロニック
  • ¥900

オーストラリアのTa-kuがFuture ClassicからリリースしたR&B/Hiphopのアルバム。

前作"Songs To Break Up To"(失恋した時に聞く曲)から一転して、新しい恋に進んでいこうというようなタイトルで、個々の曲名も"Hopeful"や"Love Again"と希望に満ちた感じである。

曲の内容も全体的に悲劇的な曲調の前作と違って、哀切さを残しながらも前向きな意志を感じられる。

2曲目"Love Again feat. JMSN & Sango"や5曲目"Sunrise / Beautiful feat. Jordan Rakei"では曲の前半と後半でボーカルの乗ったR&Bテイストの強いパートと低音が全面に押し出されたベースミュージックとしての色の濃いパートが大胆に切り替わり、彼の多才さを示している。

個人的には7曲目のノンビートトラック"Work In Progress"の情感豊かなピアノが気に入っている。

 

 

Vindata - Through Time And Space...

Skrillexのレーベル"OWSLA"からリリースされたロサンゼルスの二人組みユニットVindataによるEP。

Vindata単体によるリリースは2014年にSymbols Recordingsから出た"For One To Follow"以来であり、個人的に待望のリリースだった。

Vindataはビートの組み方やボーカルの使い方が同時代に"Future Bass"と呼ばれたアーティストの中で頭一つ抜けて知的で、このEPでもその実力が存分に発揮されている。

"Jack Ü - Take Ü There (feat. Kiesza) (Vindata Remix)"や"OWSLA Spring Compilation 2015"に収録された"Continuum"はOWSLAというレーベルの色やTrapの流行に押されてそちら方面の寄っていたが、このEPではFor One To Followでの"All I Really Need (Featuring Kenzie May)"などの初期Future Bassの方向性に回帰していて嬉しかった。(一応断っておくがどちらが望ましいという話ではなくて個人的な好みの問題である)

ただ、For One To Followに収録されていた"Recognize (Featuring Ebonique & Xavi)"や"Expose"のようなシンプルにベースとビートを押し出したトラックがなかったのが少し残念な気はする。("Wide Awake (feat. Kenzie May)"がややそれに近いか)

 

 

以上2015年良かったと思うリリース7個である。良いお年を。

心理の矛盾を許容する

1.矛盾許容論理

矛盾許容論理(Paraconsistent Logic)というものが存在する。

それが何なのかと言うと、いわゆる「嘘つきのパラドックス(Lier Paradox)」などの直感的にもっともらしい矛盾を認めた上でも、論理の体系が成り立つようになんとか頑張ろうという試みである。


ある命題Aは真であり同時に偽でもあるという矛盾は、アリストテレス以来守られてきた伝統ある「矛盾律(the Law of Non-Contradiciton(LNC))」によって偽であるとされてきた。

矛盾律を形式的に書くと「⊨ ¬(A ∧ ¬A)」となる。


なぜその矛盾律を守る必要があるか少し説明しておく。

古典論理上で例えば命題Aが真でありかつ偽であるとすると、Bを任意の命題として「A , ¬A ⊨ B」という推論が成り立つ*1

これは「爆発律(ex contradictione quodlibet (ECQ))と呼ばれる。

矛盾律を認めないとこの爆発律によってあらゆる命題(B)が証明されてしまう。

これが何を意味するのは、「私は嘘つきである」「私は嘘つきでない」という二つの命題が真であると認めた瞬間、「ニーチェスクランブルエッグである」という命題も真であると認めざるをえないということである。


任意の命題すべてが真であるなら論理の体系に意味があるとは思えない*2

しかし何がしかの矛盾はどうしたって存在するように思われる。

ということでこの爆発律による論理の爆発を何とかして食い止めて、矛盾をその体系内に取り込んだ上で有意味な論理体系を作ろうというのがParaconsistent Logicの試みである。

(この爆発律による爆発を防ぐための手立ては込み入ってテクニカルなので割愛する。
また、Paraconsistent Logicの多くの体系は爆発律を排するだけで矛盾律は保持している。)

2.心理の矛盾

以上のようなことを講義で聞いていて、論理だけでなく私たちの心理もまた矛盾しているとよく言われるな、と思った。

基本的には私たちの心理における矛盾は対立(コンフリクト)として扱われる。

その対立はどちらかの欲求が勝利することで解消され、私たちは何がしかの行為に移る。


例えば、「Xという場所に行きたい」「Xという場所に行きたくない」という欲求がそれぞれあるとする。

最終的にどちらかの欲求に基づいて行動するわけだが、選択されなかった欲求は間違っていたということになるのだろうか。

古典論理のように矛盾を許容しない考え方でいると、やはりどちらかが間違っていたことになる。

しかし上記のParaconsistent Logicの考え方を採用してみると事態は一変する。

「Xという場所に行きたい」「Xという場所に行きたくない」という欲求がどちらも正しいということが可能となってくるのである。


確かに、どちらの欲求にももっともな理由があり間違ってはいないという状況はありうる。

それは例えば、Xという場所に会いたい人と会いたくない人が同時にいるといった場合だ。

その場合に無理やりどちらかの欲求が間違っていると決めて行動するより、どちらの欲求も正しいが正しさ以外の何らかの原因によって行為が選択されると考えた方が気が楽そうである。


意識とはたくさんの流れの中から偶然スポットライトを当てられた一つの流れであるという考え方を見ていると、現在意識にのぼっている欲求も広大な無意識の中から偶然浮かび上がってきたものという風に考えられる。

それならば、矛盾する欲求の中からひとつが選ばれて行動に移るというのも単にそれらのうちの一つがその時偶然意識上にあったからに過ぎないのではないか。

要するに、「Xという場所に行きたい」と言う欲望が勝つのは単に偶然によってしかないということである。


偶然によってどちらかの欲求が選ばれるのだとしたら、二つ矛盾する欲求は真偽の上では依然として矛盾している。

だからと言って行為がなされないわけではないし、その行為が必ずしも間違っているというわけでもない。

だから、矛盾を認めたままでも私たちは今まで通り生活できるのだ。

そもそも、私たちが常に正しく選択できるわけがないではないか。

3.矛盾を許容する生き方

矛盾する欲求を抱えている時、どちらかが間違っているはずだと考えて理由や動機の粗を探すのは大変である。

さらに言うと、そんな粗が見つかるという保証もどこにもない。

それならば、心理の矛盾を許容して「まあそんなものか」と泰然としているのが楽な生き方であるように思われる。

矛盾していたとして、自分の心理についての信念体系が崩壊して何もわからなくなり何もできなくなるというような心配はないのだから、無理をして矛盾を解消する必要はない。

論理も矛盾して、欲望も矛盾して、信念も矛盾して、それでも一向に構わないのである。

参考

いつものスタンフォード哲学辞典。
無料で読めて充実の内容。リファレンスも豊富。

矛盾許容論理の第一人者の一人とされるGraham Priestの"One"という本を教授に紹介されて挑戦したが最初の数章で力尽きた。

いかにして部分が全体になるのか、という点についての「ブラッドレイの退行」と呼ばれる退行をgluonという対象であり対象でない矛盾した存在を用いて打ち破る、といった試みであるらしい。

「多値論理」というものを用いるので、「真」「偽」以外の第3、第4の真理値が登場して見たこともない記号が乱舞してめまいがする。

上記のStanford Encyclopedia of Philosophyの”Paraconsistent Logic”の一部や”Dialetheism”の項もよく見るとPriestが書いている。

*1:これが成り立つのは古典論理の公理と推論規則を採用した場合である。

*2:この爆発を認めて任意の命題すべてが真であるとする立場があり、Trivialismと呼ばれる。

2015/12/11のNOUS FMで使った曲

 

 

今回のsprout's dub 94 on NOUS FMでは2015年振り返り特集ということでトピックに沿って2015年を代表する曲を選曲した。

 

NOUS FM - sprout's dub 94 (Revenant & Batsu) - 11th December 2015 by Nous Fm on Mixcloud

 

 

 

 

Nömak & L'homme aux 4 lettres - Horsequake

"2015年ヘビーユーズした楽曲"というトピックでこの曲をチョイス。

NömakもL'homme aux 4 lettres(現在はLH4Lという名義で活動中)もフランスのトラックメイカーで、Point Pointというクルーのメンバーである。

LH4Lは現在OWSLAやMad Decentなどトップレーベルからのリリースを重ねており、要注目のプロデューサーの一人だと思う。

このトラックはリズムの面ではBmore/Jersey Clubに影響されているのだが、キック、ベース、クラップ等々全ての音が極限までソリッドになっており元のゲットーミュージックとしてのJersey Clubの面影は全くない。

サブベースで揺らすのではなく音域の広いキックやベースの打撃で乗らせるタイプのトラックなので、概ねどんなタイプの音響でも期待する鳴りが得られて使いやすい。

また個人的にこういった枠にはまらない曲が好きなので、sprout's dub 94クルーでの出演時だけでなく個人でDJする際にもよく使った。

彼らが所属するフランスのインターネットレーベル"Record Record"が主催するコンピレーション"Filet Mignon - Volume II"に収録されており、以下のサイトから無償でダウンロードできる。

www.recordrecord.paris

ちなみにこのトラックの冒頭から鳴っている特徴的なパーカッションはSeductive - Underground Soundからのサンプリングだと思う。


Seductive- Underground Sound (Original Mix)

 

Porter Robinson - Goodbye To A World (Chrome Sparks Remix)


Porter Robinson - Goodbye To A World (Chrome Sparks Remix / Audio)

"2015年個人的ベストトラック"というトピックでこの曲を選んだ。

この曲はPorter Robinsonの"Worlds (Remixed)"というアルバムに収録されている。

このアルバムはPorter Robinsonの"Worlds"というアルバムのリミックス盤で、Deon Custom、Mat Zo、San Holo、Galimatias、SLUMBERJACK、Point Pointなどがリミキサーとして参加している。

Chrome Sparksと言えばハードシンセを用いた音作りが特徴的だが、原曲の合成音声のようなボーカルと機械的であると同時に深い情緒を感じさせるシンセサイザーの音色がよく調和していて素晴らしいリミックスワークだと思う。

以下のリンク先で販売されている。

pro.beatport.com

 

K BoW x VDIDVS - B Who I Want 2 B

"今聴いている楽曲"というトピックではこの曲を紹介した。

このトラックは安室奈美恵 - B Who I Want 2 B feat. HATSUNE MIKUをJersey Club/Future Bassにリミックスしたもので、上記のsoundcloudのBuyリンクから無償でダウンロードできる。

K BoWとVDIDVSはどちらも日本在住のプロデューサーで、主にJersey Clubのトラックメイクをしている。

彼ら二人はアメリカの現地で活動するJersey Clubプロデューサーに近い音作りやサンプル使いを志向していて、彼らのトラックは例えばDJ SliinkやDJ R3llといったアーティストのトラックとミックスしても違和感がない。

この曲はそんな彼らの普段のトラックメイクから少し外れてよりFuture Bassを意識した方面に変化しているように思うが、そんな点がむしろ気に入っていてよく聴いている。

ちなみに、原曲の方もPC Music周辺で活躍しているSOPHIEがプロデュースしているということで話題となった。


安室奈美恵 / 「B Who I Want 2 B feat. HATSUNE MIKU」

 

Galimatias, Alina Baraz - Fantasy (Original Mix)

 "今年のジャンル"という話題ではこの曲をチョイスした。

2015年は2014年に流行したFuture Bassがルーツの一つであるR&Bに回帰していく流れが強く、もともとBeat MusicとしてR&Bを基調としたトラックメイクをしていた人々と合流して大きな流れになっていたように思う。

この曲のプロデューサーのGalimatiasは後者の流れに属す人物でR&Bを洗練させたトラックを多く制作していて、この"Fantasy"はそのような作品を集めた"Urban Flora EP"に収録されている。

またそのEPのリミックス盤"Urban Flora Remix EP"にはVicesやGEOTHEORYといったFuture Bassのシーンで活躍しているアーティストもリミキサーとして参加していて、上記の合流を裏付けるものになっているだろう。

pro.beatport.com

 

Tchami - After Life feat. Stacy Barthe (Point Point Remix)

"次来るかなと思うジャンル"というトピックではこの曲を選んでいたが、時間の関係上放送はできなかった。

先ほど挙げたR&Bの流れとはまた別に、フランス在住のトラックメイカーによるクルーであるPoint Pointやその周辺でBPM80~100の範囲でのトラックが2015年後半から多く作られている。

現行このBPM帯で流行しているTwerkやMoombahtonの影響は感じられないので、これもFuture Bassの進化系の一つでそれが発展し先鋭化していく複数の流れのうちの一つだと考えられる。

2016年に入ってからもおそらく、Point Pointや彼らが主宰するレーベルである"Record Record"に関わるプロデューサーたちからこのような音楽が多く出てくるだろうと思う。

ところで、このトラックはやはりフランス在住で"Future House"と呼ばれるジャンルの創始者であるTchamiのAfter Life Remixesに収録されている。

このリミックス盤はJauz、San Holo、DJ Snake & Mercerなどが参加しておりかなり豪華。

pro.beatport.com

 

Moglebaum - You & Me (Live In The Shop)

 "プッシュアーティスト"のトピックではこのアーティストを選んだ。

Moglebaumはドイツ在住のトラックメイカーや楽器演奏者からなるバンドで、上のPVのようにラップトップやドラムマシンとバイオリンなどの楽器が共存したライブを行っている。

soundcloud上でのフォロワーは2000人弱しかいないのだが、Beat Musicに生演奏のバイオリンやサックスを取り入れる手法は斬新だし、曲自体のクオリティも高いのでNOUS FMでも度々彼らの曲をプレイしている。

この曲のPVはタイトルのLive In The Shopの通り農村の食料品店で演奏する様子が撮影されており、店に来る客たちに奇異の目線を投げかけられている。

曲自体は上のbandcampのページから0ユーロから購入できる。

 

Rustie - Coral Castlez

Coral Castlez

Coral Castlez

  • Rustie
  • エレクトロニック
  • ¥200

"2015年印象に残ったニュース"としてはRustieの新アルバム"EVENIFUDONTBELIEVE"が突然発売されたことを挙げた。

Rustieのツイッターをフォローしているのだが、ある日それを見ていたら「明日出すアルバムの曲だよ!」と言ってsoundcloudに曲をアップロードしており「ほんまかいな」と思っていたら本当に翌日アルバムが出た。

このアルバムについてのRustieに対するインタビュー記事を翻訳しているのでそちらも合わせて読んでみてほしい。

日本からアルバムを購入するならwasabeatがいいと思う。

www.wasabeat.jp

 

Taquwami - Napoli

"注目国内アーティスト"というトピックではこの曲を紹介する予定だったがこれも時間の都合上割愛した。

Taquwamiは神奈川県川崎市在住(らしい)の日本のアーティストで素性が全くの謎に包まれている。

このトラックはそんな彼(?)の新作EP"Moyas"に収録されていて、bandcamp上で1ドルから販売されている。

とにかく音作りも展開の作り方も国内だけでなく海外で同じような音楽を製作しているプロデューサーたちと一線どころか三線くらい画しているので一聴の価値があると思う。

taquwami.bandcamp.com

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅰ部

ダニエル・C・デネットの『解明される意識』を読んでいる。

この記事では第Ⅰ部の内容で、関心がある項目についてのまとめと読んで思ったことを書く。

なお本文引用の際は脚注に「章番号.節番号.段落番号 ページ数」を付記した。

本文要約

1.はじめに:いかにして幻覚は可能であるか?

まずいわゆる「水槽の中の脳」の問題が扱われる。

脳に偽物の信号を与えて偽りの世界を知覚させることは原理的には可能だが、現在考えられる技術では事実上不可能であるということが示される。

哲学では原理上可能なことを対象として良いが、科学の立場からは事実上不可能なことは扱わない。

デネットはこの世界そのものの幻覚を「強い幻覚」と呼び、幽霊など世界の一部をなす幻覚を「弱い幻覚」と呼んでいる。

科学の立場から論を展開するデネットにとって強い幻覚は事実上不可能であるためにそれついて考える必要はない。

しかし弱い幻覚は現に存在していることが科学的観察からも認められるので考察の対象となる。


そして次に弱い幻覚の発生プロセスが説明される。

我々は先に主体的に世界についての「仮説」を作っており、それを感覚刺激によってテストして正しいかどうか検証する、と言った仕方で認識を行っている。

そして、感覚刺激によるテストが何らかの形で狂った時幻覚や夢が生まれるのである。

夢や幻覚が願望や不安を実現する形で現れることもこの説で説明できる。

2.意識を説明すること

この章ではまず二元論者によって神秘とみなされている意識の性質が確認される。

それは

  1. イメージが描き出される時の仲だちや手段であること。
  2. 考える主体であること。
  3. 感覚を得たり、感情を持ったり、価値判断基準を持つ主体であること。
  4. 行為の責任を持つこと。

である。


そして次に唯物論の立場からの心身二元論に対する論駁が行われる。

まず心身二元論では心(魂)と身体は別の実体であるとされるが、我々の行為や認識が行われるためには心と体の間で何らかの交流がなければならない。

しかし物質と別種の実体である心は物理的エネルギーや質量を持たない。

ゆえに心は、物質からなり物理的エネルギーによって動く身体を動かせないのである。

もし動かせるのだとしたら、エネルギー保存の法則に反してしまう。

それで、二元論的立場に立つと、意識は科学的には全く説明できない神秘ということになってしまう。

それゆえに二元論者は、科学者は意識に対してどんな理論も持ちえず、いかなる理解もありえないと主張する。

デネットはこのような二元論者の思考停止を認めず、意識を唯物論的に説明することに挑戦する。

3.現象学の園探訪

この章では内観的に意識現象を探求する方法の一つとして現象学が紹介され、その現象学で扱われる現象の内容が概観される。

ここで現象は

  1. 外的な世界の体験
  2. 内的な世界の体験
  3. 情動体験

に大別される。

外的世界の経験とは五感によって知覚されて脳の中に現れる諸々の現象のことである。

それら五感はすべて無意識的な統合作用の働きを受けている。

その統合作用は五感それぞれの内部でも、また五感同士でも働く。

例えば私たちが一枚の絵のように知覚していると思っている視覚像も、実は小さい焦点の素早い移り変わりによって得られたデータの統合の結果なのである。


内的世界の経験とは文章を読んで想起されるイメージや、空想、夢などといったものだ。

違う人間が同じ文章を読んでもそこから思い浮かべるイメージは千差万別である。

このような心的イメージは視覚的な現象に限定されるわけではない。

また、内的経験は外的世界の経験と同じように様々な感情を呼び起こすことが可能である。


情動的体験については「痛み」や「笑い」が取り上げられる。

我々が痛みを感じたり笑ったりすることの進化論上の意義を論じても「痛み」に固有の「凄まじさ」や「笑い」に特有の「おかしさ」を説明することができない。

それにしても、痛みはどうしてこんなに〈痛く〉なくてはいけないのだろう。*1

以上の現象学では、私たちが自らが得る現象に対して特権的に接することができ、それらを自明のものとして了解しているという点と、いわゆるクオリア問題を唯物論の点からは説明できない点が注目されてきた。

4.現象学に代わる方法

この章ではここからデネットが用いていく「ヘテロ現象学」と呼ばれる方法論について解説される。

まずこれまでに現象学者が採用してきた「一人称複数」での考え方が批判される。

現象学者は自分が接している現象についての考察が、他人においても相違なく成立すると信じて「私たち」という人称を使って議論している。

しかし自分が見て感じている現象と他人が見て感じる現象が同じであるという保証はどこにもない。

さらに前章で見たように、自分が得ている現象についても自分が思ってもいないようなプロセスで成立していることがある。

確かに主体は現象的な体験そのものについては権威者であり続けるが、現象の原因については権威者でもなんでもないのである。


そこでデネットはこのような問題をクリアした上で3人称視点から現象を解明するために「ヘテロ現象学」という方法論を採用する。

ヘテロ現象学では、まず一人称視点からの現象学的言明を全てフィクションとして扱う。

その上で、小説が作者にとっての虚構でない真実を表現していると考えるのと同じ思考を用いてその現象学的言明の真実性を考える。

具体的には、現象学的言明が表しているものと客観的な観察結果を比較して、その中に類似性や因果関係が認められれば、一旦フィクションとされた言明も真実として認められるのである。


この方法は一人称視点での現象学を他者に伝えられないという問題や、自分の意識プロセスを内観的に把握できていないという問題をクリアしている。

ヘテロ現象学は誰でも読めるテキストを対象として扱う事で現象学を三人称的に扱うことを可能としている。

また現象学的言明の真実性を一旦保留することで主体の自己の現象の原因に対する特権性を制限して、意識プロセスについての科学的アプローチを議論に入れ込む余地を生み出してもいる。

感想

1章での「水槽の中の脳」の問題についてだが、自分は事実上不可能だからといってその思考実験が意味をなさないとは思わない。

事実上不可能であることの根拠が「現在考えられる技術において不可能」ということなら、我々の考え付きもしないような技術なら事実上不可能ではないということになる。

要するにこの辺りが原理的には可能ということなのだろうし、とすれば自分の思考はどうにも哲学者寄りであるようだ。

そもそも「科学的アプローチによって意識を解明する」という本書の趣旨からすれば現行の科学の枠を超えるような技術について紙面を割くのは無駄だろうし、ここでは事実上不可能ということで構わないと思う。


4章での現象学批判はとても面白く、目を覚まされる思いだった。

自分もどこかで一人称的に行う現象学が他者の現象についてもそっくりそのまま当てはまると思い込んでいたところがある。

また、ヘテロ現象学での主観的に現象を記述したものを一旦全てフィクションとしてしまう態度は小説がフィクションである必然性をも説明しているように思う。

主観的考えを間主観的に表明することはフィクションを創作することでしかありえないのではないか。

その点についてはまた別に掘り下げてみたい。


第Ⅱ部、第Ⅲ部のまとめと感想は以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:3.4.4 p82

帰結主義とフレーム問題

1.帰結主義

ベンサム、J.S.ミルに端を発する功利主義は現在「帰結主義」として倫理学上の主要学説の一つとなっている。
功利主義とはつまり「ある行為が倫理的であること」の定義をその行為が結果として多くの人間を幸福にするかどうかに求める考え方である。
このように倫理性を行為の帰結によって定義する点から、徳倫理学や義務論といった他の倫理学説と区別して「帰結主義」と呼ばれる。

有名な「そのまま進んでいくとm人轢き殺してしまう電車の進路を変更させてn人を轢き殺すべきか?(m>n)」という問いに、帰結主義なら進路を変更してn人を轢き殺すべきだと答える。
これは進路を変更させるという「行為」により、m人を轢き殺すよりn人を轢き殺すことになりより多くの人間を幸福にしているからだ。

しかしここで同じ帰結主義から別の回答が引き出せる。
仮にこの行為にコミットすることで、この考え方が広まって多くの人間を救うために比較的少数の人間を積極的に犠牲にすることが容認される社会が成立したとするとどうだろうか。
そのような社会ではいつなん時自分が多数者が幸福になるための犠牲にされてしまうかわからない。
例えば臓器移植しなければ生きられない多くの人を救うために自分が殺されて臓器を全て売られてしまうかもしれない。
そのような行為も上記の結論から間接的に正当化されてしまうのである。

そこで帰結主義者は「長い目で見て(in a long span)」どのような行為が倫理的なのか決定するべきである、と主張する。
長い目で見るとは、そのような行為を容認するような社会を考えた時結局人々は幸せに生きられるのか考えるということである。
いつ自分が殺されて臓器を売りさばかれてしまうかも分からないような社会では安心して生きられないだろうし、そのような社会で生きても幸福とは言い難いであろう。
つまりここで帰結主義が目指す「多数者の幸福」が損なわれてしまっている。
ゆえに帰結主義ではこのような行為は容認できない、と結論するのである。
すると最初の問いに戻って、電車の進路を変更しないことが倫理的な行動とされる。
しかしながらここには問題がないだろうか。

2.フレーム問題

コンピューター研究における有名な問題に「フレーム問題」というものがある。
コンピューターがある問題について考える際に、その思考範囲をどこまでに設定するか決められないという問題である。
例えば、ロボットに搭載された人工知能がロボットの腕を動かすかどうか決める際に、腕を動かす目的だけ考慮に入れて計算すべきなのか、腕を動かして周りにいる人にぶつかってしまわないよう周りにいる人間の様子も含めて計算すべきなのか、さらにそれらの人間がロボットの腕が動くことで取る反応とそれぞれの人の動きまで考慮に入れるべきなのか、コンピューターは決定できない。
これは計算の対象となる可能性が無限にあり、どの可能性までを思考の枠組みに入れるか決定することが難しいためである。

人間が普段このようなフレーム問題に囚われることはない。
それは無意識的にこの思考フレーム、つまり「どこで考えるのをやめるべきか」を決定できるからだ。
それがどう言ったシステムでどう働いているのかわからないが、我々人間がフレーム問題にぶち当たった人工知能のように考え込んで生存に必要な行動を取れないと言ったことはまずない。
生物は近眼視的に目の前にあるものを高く価値評価するというが、その辺りも関係しているのかもしれない。

3.帰結主義とフレーム問題

先ほどの帰結主義から導かれる「長い目で見て」の結論にはこのフレーム問題で起こるような問題があるのではないだろうか。
「少数者を犠牲にして多数者を救った方が全体の幸福量は多い。」「少数者の犠牲で成り立つ社会ができてしまったら幸福が損なわれる。」という二つの結論は、結局のところ思考のフレームの広さに違いからくるものだ。

ならばもっと思考のフレームを広げてみるとどうだろうか。
多数者のために少数者を犠牲にしない社会が徹底されると、今度は誰かを助けるために何の犠牲も払わない社会が出来上がるかもしれない。
誰かが誰かを助けるとき、助けられた人に生じる幸福の量が助けた人に生じる不幸の量を上回っていても、それはどんな形であれ犠牲なので容認できないとそのような社会に暮らす人は考えるであろう。
そのようにして相互扶助が消失した社会で果たして人間は以前より幸福に生きられるのだろうか。
ここで結局全体の幸福度が下がってしまうと結論付けられたら、最初の問いでの電車の進路は変えるべきだという結論に戻ってしまう。

このように思考のフレームを広げたり縮めたりするだけで帰結主義における「倫理的な行動」が二転三転してしまう。
ここで帰結主義者は無限にある可能性のどこまでを思考の枠組みとして制限して「倫理的行動」を定めるのかというフレーム問題に突き当たるのである。
人工知能研究においてフレーム問題の解決が見られていないように、帰結主義でもこの問題に対処するのは難しいであろう。
これを解決しない限り、帰結主義者は何かの選択肢にぶつかるたびにフレーム問題にぶつかった人工知能のように考え込まなければならないだろうし、そんなことをしている間に電車は通り過ぎてしまう。

4.結論

帰結主義者がフレーム問題を回避できないということは、純粋に行為の帰結のみによって行為の倫理性を決定することができないということだ。
ゆえに、我々は行為決定の際にいくらかの規則を受け入れなければならないだろう。
そのような規則は行為の帰結から正当化されるものではなく、数学の公理のように論証を受け付けない全ての前提となるものである。
それはいわゆる「道徳」として親や先生から教えられたものであったり、宗教的もしくは政治的権威者が定めた「規範」であるだろう。

しかし、功利主義的考え方がすべて間違っているというわけではない。
確かに厳密に帰結を計算して行為することは不可能であるが、規則によってある程度の範囲まで思考のフレームを制限すれば帰結主義の考え方は生き残れる。
そのフレームは家族であったり、地域共同体であったり、国家であったりするだろう。
「家族を大事にせよ」といった規則で定められた行為は家族以外の他人については無視している。
このように規則によって帰結のフレームが制限され、その内部では帰結主義的思考が可能になる。

以上から私は、幾つかの道徳規則を受け入れながらも自分の思考が及ぶ範囲で功利主義的に「それで人々は幸福になるのか?」と考え続ける態度が妥当であると思う。

映画『ハーモニー』

project-itoh.com

以下に書くのは映画の感想や解釈ではなく、個人的な妄想や心情の吐露である。

伊藤計劃の小説『虐殺器官』の文庫版の巻末に付された解説に、2009年7月の星雲賞授賞式に亡くなった本人に代わって登壇した伊藤計劃の母の述懐が掲載されている。
曰く、死の直前彼は「書きたいことがまだいっぱいある」と語り、『ハーモニー』は抗癌剤放射線治療中に書き上げられたものだという。

そんな『ハーモニー』は、いわば作者が死に瀕しながらも「書きたい」という自らの願いを叶えるために生命を振り絞って書かれた作品だ。
未だ書かれていない多くの「書きたいこと」が永遠に損なわれる中で、ギリギリで残された作品なのだ。
この映画はそんな作品を映画化したものである。

人は、個体は死を避けられない。
それでも人は遺伝子や自らの考えを残すため生きていく。
なぜならそれこそが、いつか死ぬとしても生きることの意味だからだ。

彼は自らの死が近づく中で、生きることの意味に、何かを伝えることに極限まで忠実であった。
癌に侵され病床に着いてなお、彼は自らの中にある「書きたいこと」を表現することを止めなかった。
その「書きたいこと」を書くことが苦しみを受け入れて静かに死ぬことよりも重大なことだと知っていたからだ。
それは自らの身体の死と、生きることの意味の追求が対立した極限の状況だ。
そんな極限から生み出された作品が彼の死後多くの人の手によって映像化され、さらに多くの人の元に届けられている。

ところでこの映画の主題歌はEGOISTの『Ghost of a smile』、幽霊が歌う生前の恋人へのラブソングだ。
すでに死んでしまった彼女(彼)は恋人に向けて、伝わるはずのない想いを歌う。
映画館でこの曲を聴いた時、僕はこの「伝えたかった想いを死後歌う誰か」と「書きたかったことを死後映画の形で伝える伊藤計劃」を重ね合わせずにいられなかった。

この曲を聴いて彼のことを考えながら、映画を製作した人々の名前がエンドロールとして流れてくるのを見て、そして同じスクリーンで映画を見ているたくさんの人の姿を見た時、僕は涙を止めることができなかった。
伊藤計劃が苦しみの中で何とか書き記した「書きたかったこと」が映画製作という形で多くの人に語り継がれて、それによってさらに多くに人に伝えられている現場を僕は見たのだ。

彼が癌に侵されながら抱き続けた「書きたい、伝えたい」という想いがここで報われている。
自らの身体が死を迎えようとしていても、それに抗って生きることの意味を追い続けることに、何かを伝えるのを諦めなかったことに意味があったのだと示されているのだ。
だからこれは人が自らの死後にも何かを残すことができて、それを多くの人々が語り継いでくれることの証明だ。

僕はきっと彼ほどのものを何も残せないだろう。
それでも人が死んだ後にも何かが受け継がれていくことを示されて、死を運命付けられてなお生きる意味を果たそうとする足掻きが報われることを示されて、死すべき人間の一人として感動せずにいられなかった。

僕たち個人は死んだ後に世界がどうなっていくか知ることはできない。
それは主観的な世界の消滅をも意味する。
いつか死によってすべてが消えてしまうとしたら、生きることはあまりに無意味ではないだろうか?
それでも人は生きる。自らの死後、自らが知りえないとしても何かが残され、受け継がれることを信じて。
『ハーモニー』のエンドロールを見た時、僕はそのことを信じるに足る証拠が得られたように思った。
そしてその時、この生きるという悲劇を初めて自分の運命として引き受けられたような気がしたのだ。


以上のことを納得してもらおうとは思わない。
死者は何も語らない。死者の想いの代弁はすべて妄想だ。
しかしこの妄想を抱いて初めて、僕は彼の死を受け入れることができたように思う。
だからこれは僕の個人的な妄想と、追悼の文章である。

https://itunes.apple.com/jp/album/ghost-of-a-smile/id1044539541?i=1044539550&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog

トピック「ハーモニー」について