Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第7章
この記事ではDennettの"Elbow Room"の第7章「なぜ私たちは自由意志を求めるのか?(Why Do We Want Free Will?)」の本文要約とコメントを書いていく。
第1章〜第6章については以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com
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本文要約
7 なぜ私たちは自由意志を求めるのか?(Why Do We Want Free Will?)
1 無視されたニヒリズム(Nihilism Neglected)
私たちが求めるに値すると考える自由意志は私たちの尊厳と責任を確保してくれるものだ。
「反因果的自由」や「行為者原因」を求めるのはそれらがそのような自由意志の必要条件であると信じてしまうからである。
人々がこのような条件が存在しないことを罪についての古い教義から解放されるチャンスと考えず、責任を持つことを望むのはなぜだろうか?
それはおそらく責任のある行為者でないことによって私たちの尊厳が脅かされるからだろう。
しかしこの特別な尊厳というものはいったい何で、私たちはなぜそれを気にするのだろうか?
私たちは科学の時代には道徳はもはや擁護できないという時代遅れの世界観にとらわれているのだろうか?
そしてなぜ私たちは他者が責任を持っていることを望むのだろうか?
これは理性化され道徳規則によって表象可能となった復讐心なのだろうか?
ニーチェの「道徳の系譜学」によると、私たちは道徳概念や罰を貸借りの法の概念から得ている。
その法概念によると貸した者は借りた者に侮辱や拷問を加えることが可能である。
先人たちが認識した借りは先祖に対する感謝であり、先祖に対する負債が増加すると先祖=債権者は神へと変わる。
そして神への負債は耐えられない重荷となり、神自身が債務者への愛のためにその負債の埋め合わせとして犠牲となる。
これはすべて間違っているとは言い難い説得力を持っているが、それによって私たちが持っている概念構成を擁護することにはならない。
誤った思考から正しい結論が導からることはあるし、不合理な活動からいい考えが浮かぶこともある。
私たちの「道徳概念の世界」を保護したいという願望の整った擁護が存在すると私は考えている。
責任のある道徳的行為者と責任のない者の区別は一貫していて、本物で、重要だ。
それは適用できない例がたくさんあるとしても、私たちの全員が片側に当てはまることがなく、私たちの生活の意味や質に大きな影響を及ぼすような経験的な線を引く。
私がこの見方に対して行う主張は、自由意志を尊重し責任を望むことが理性的であるという効果についてのものだ。
これらの概念を擁護するようなこれ以外の主張はありえない。
なぜならこのような主張は聴衆の理性的判断に訴えかける際に不可避的に疑問を投げかけるように見えるものだからである。
私は著者と読者が私の主張を支持してくれる自由で責任のある行為者だと仮定していないだろうか?
さらに、私の主張は何かが問題となる、すなわち何かが良くて何かが悪いということを仮定しているだろう。
私はこの本を通してあなたのものと同じように私自身の理性を当然のものと扱ってきたし、それを活動させることの明白さも問題としてこなかった。
自由意志の実在を否定する本や論文の著者は、アドバイスすることが意味をなさない読者にアドバイスをするという困った状況に置かれることになる。
しかし選択肢はもう一つあり、それは沈黙と自殺である。
そして私たちが最も深く恐ろしい見方から目をそらしているのではないかという疑いは未だに根深い。
この疑いを精査してみよう。
私の理性が活動しているという仮定は、その一部が意味をなさないほど欠陥を持っているので間違いかもしれない。
しかし意味を持つ理性の活動が一つもないという考え方はニヒリズムであり、それによると何物も意味をなさない。
確かに私はこのニヒリズムを無視してきたが、それに対して言うべきことは特にない。
なぜならもしニヒリズムが正しいなら私たちはその可能性を真剣に検討するべきであるが、そうするとニヒリズムは間違っているということになるからだ。
というのももし私たちが何かをすべきなら、すべての価値判断が幻想だとするニヒリズムは間違っていることになる。
しかしそれが間違っていてもそうでなくても何も問題とならないため、私たちはそれが間違っていると仮定した方が良い。
ゆえにニヒリズムは無視できる立場なのだ。
ただ、良いものと悪いものがあり希望と後悔の余地があると仮定することと、道徳概念がよく整備されていると仮定することはまた別である。
例えば西洋の伝統における個人の責任の概念は少し首尾一貫していないところがあり、私たちはその周辺の概念、特に罰(punishment)の概念を改訂したり捨てたりしなければならない。
2 責任軽減と忍び寄る無罪の幽霊(Diminished Responsibility and the Specter of Creeping Exculpation)
第2章では完全にカント的な意志が不可能であることを、第4章では百パーセント自身の性格に責任を持つことができないことを見た。
しかし私たち有限で不完全な存在はそれら絶対的存在の近似であることがわかった。
私たちは道徳的責任についても同じような休憩所を探すべきだろう。
私たちは自身と他者が責任を持つことを望むが、特定の他者がその欠点や悲惨な状況のために「責任軽減(diminished responsibility)」を持っていることを認識している。
しかし私たちは皆多かれ少なかれ不完全なのだから、それら全てを言い訳にした後で責任を持つとされる人が残るのだろうか?
カントは私たちは正しい行為だけに責任を持つという。
このテーマはソクラテスの誰も間違ったことをしたいとは願わないという奇妙な主張において最初に現れている。
私たちが恐れているのは社会が割りあてる罰に本当に値する人が誰もいなかったということだろう。
課題となるのは無罪となる病的状態と非難に値する手落ちの間の境界線を引きそれを守ることだ。
すなわち私たちは成人と怪物の間に罪人のための余地(elbow room)を探しているのである*1。
形而上学的で絶対の責任を求めても、私たちは天使ではなく環境や過去の影響を受けるのでそれより控えめで減衰した責任を持っていると気づかざるをえない*2。
人々はいつ悪い行為に対して責任を持つのかという問いに答えるために、私たちは人々を責任のある状態にしておく点を考えなければならない。
責任についての判断はその責任のある行為者の悪事に対してどのような反応をすべきなのかということを考える地平を設定する。
ゆえに罰を与えることの根拠には私たちの責任のある道徳的行為者としての地位を理解するための重要な考え方が埋め込まれている。
この考え方に焦点を当てるため、施行と罰の複雑なシステムを持つ刑法の規則という伝統的な正当化の「理性的な再構築(rational reconstruction)」を行う。
私たちはなぜ「罪を犯した」人々を罰したいと思うのだろうか?
社会には最小化したい害悪があり、もしそれを禁止したいなら罰によって脅すことでその頻度を減らすことができる。
このことを信じる理由は以下のようなものである。
第一に私たちの理性についての考えから社会の構成員が近似的に理性的なら彼らは禁止された行為を行うことで罰を受けることを望まずそれを差し控えるだろう、ということが帰結する。
そして市民がそのような規則を正しく知っているということについての経験的な証拠は多くある。
しかしこのような法の効果は理想を下回ったものである。
理想的な世界では誰もがただ理性によって正しいことを行い、それゆえに法や罰の体系は必要ない。
だがこのような法のシステムは(私たちと違って)全員が理性的なので完全に悪事を控えさせる。
実際にそうはならない理由の一つは、私たちはこの施行の規則に手を抜いていて、人々が特定の状況では犯罪がリスクに見合うリターンを得られると知っているからである。
24時間監視したり罰を無期懲役にすれば信号無視はなくなるだろうが、そうまでして信号無視をなくすのはコストに見合わない。
ゆえに法整備に手を抜くこと自体も理性的なのだ。
法の施行に対するさらなる投資に対する見返りが減衰していくことから、最善の規則とはある程度の法律違反、逮捕、そして有罪判決を「許容する」ものであるだろう。
しかし法律違反と罰のコストを最小化することの価値を認識すると、要求される法の改善が存在することがわかる。
犯罪の抑止にはいくつかの要素があり、その一つは「広報」だ。
抑止は法を知り罰の条件を理解している人々に対してのみ成功するので、法規則のコストの一部は公教育なのである。
そして広報を成功させる効果的な方法は「法に対して無知であることは言い訳にならない」という法を定めることだ。
無知であることが言い訳にならないため、人々は法とその変更を知りたがるだろう。
そしてそうすることが法についての情報が利用可能となる条件の一部なら、人々にそれを知る責任を求めてもやりすぎではないだろう。
しかし法に対する無知は言い訳にならないという法が自身の独断性に限界を持っていることに言及しておくことが重要である。
それは無知が言い訳となるという弁解の妥当な根拠が直感的に存在しえないと言っているのではなく、通常そのような弁解が考慮されることがないだろうと主要しているに過ぎないのだ。
これらのことを考慮してもまだ、その人に対して法が理想的に機能しないような人が存在することがわかる。
どれほど理解しやすいように法を作ってもそれが理解できない人間は存在するのだ。
このような人は抑止の最低条件をクリアしていないので、私たちはこのような人に犯罪の責任を問わないし、その人を教育して理解の閾値まで高めることは無駄かコストの掛かりすぎる試みだろう。
彼らを責任のある市民として罰することは罰の規則の正当性を損なってしまう。
これらの人々を責任のないものとした扱うのを拒否する法は、秘密の法を作り施行しながら「無知は言い訳にならない」と言うルールを維持する法と同じくらい非道で、市民の合理性を攻撃するものだろう。
ゆえにシステムの信頼性と擁護可能性を保つために、私たちは様々なタイプの人々を法的責任から排除する条項を加えるのである。
これは罰に値する人間の数を減らすが、私たちはこの区別は大雑把なものだと認識し、より細かい区別によって法の信頼性と受容可能性(つまりは正しさ)を向上させられないかと問う。
しかしこの時、犯罪が行われる時法はあらゆる犯罪者を抑止しなかったのだから彼らを赦してもいいのではないか、という全てを転覆させると問いが生まれてくる。
この問いによってシステム全体を崩壊させてしまうと自然状態の害悪が再び戻ってくるので、私たちはまた恣意的に線を引かなければならない。
すなわち私たちは効果的に決定可能な法的能力の閾値を定めなければならない。
それは直感的に説得力のある「反例」が存在しないような区別を目指すものではないが、前もってそのような弁解は考慮されないと宣言するものである。
私たちは非難される者の環境の特定の細かいディテールにこだわるのではなく、その場合に抑止されなかったとしても一般的にこの行為者が抑止可能であることを確証しようとするだけである。
このように原因や環境に深く立ち入らないことは、それが本当に平等なのかという疑いを招くだろう。
しかし好機は平均化されてしまうことを思い出してほしい。
法を犯す賭けを行いその掛金を失うことは非理性的に見えるが、非理性的に賭けたからと言う理由で賭け金が失われるわけではない。
ゆえに法律違反の結果を完全に知りながらリスクを負ったなら、その結果として不平等に罰を課されても文句を言うことはできない。
このような規則は法的に罰することのできる行為者を作る(構成する)という効果を持っている。
そしてこの規則を維持したいなら恣意的な閾値を細かく調整しなければならない。
最適よりも高い閾値は抑止力の低いものとなるし、最適よりも低い閾値は抑止の見返りを減らし他にどうしようもなかった人々も罰してしまう。
ここまでで抑止力としての法規則を見てきたが、それはより基礎的な「規則」である個人の責任の「道徳概念の世界(moral conceptual world)」の正当化を明るみに出す。
私たちはなぜ自分と他者が道徳的に責任を持つとするのだろうか?
おそらくその問いと私たちが実際に責任を持っているかどうかという問いを区別できるだろう。
ある誤りに責任のない人がその責任を取る事例を考えることができるし、その逆もあり得るからだ。
しかし形而上学的な地位として考えて責任がどちらであっても、それが認識可能な社会的に望ましいものと結びつけることができない限りは、私たちの尊厳に関して理性的な主張を行わないだろう。
責任を求めることで、それが彼が作った性質かどうかにかかわりなく彼に望ましくない性質を捨てるように促すことができる。
特定の性質がその人が作ったものかどうかについての終わらない探求を行う代わりに、すなわち特定の自己が自作のものかどうかを分析する代わりに、私たちは人々の行為について彼らに責任を求めるのだ。
そしてそれによって教え込まれた「責任のある」振る舞いの一部としてその戦略を採用することで私たちは報酬を得るのである。
この考え方の自身の個人的な罪や無罪ついての問いに対する示唆を考えてみよう。
私たちが悪事の責任を受け入れるとき、私たちは自分を騙しているのだろうか?
人が持っているか排除されているの二択であるような絶対的な責任が存在すると考えるなら、誤って責任を受け入れたり拒絶したりすることは解くことのできない問題となってくる。
さらに悪いことにカントの言うように私たちは完全に道徳的な行動にしか責任を持ちえないのなら、本当の意味で罰することは丸い四角形のように不可能となるだろう。
これは決定論において責任が生じるのはすべきことをしたときだけで、間違った行動は正しく決定されていないのでそれに責任を持たないということも意味する。
この考えは道徳的に間違った行為への思考の道筋の設計において何か誤った点があるはずだ。
しかし私たちにはそれを探す必要もない。
記憶組織の「ハードウェア」レベルから社会規則のデザインのレベルまで、どのレベルにおいても最良の可能なデザインは、有限性の制約を考えると幾らかの恣意性とリスクを冒すことを含んでいるのだ。
あらゆる有限なコントロールシステムは常に間違った意思決定を行ってしまう可能性を持っている。
それは人間の不可避の特徴であり、自然化された原罪なのだ。
しかしその悪い影響を最小化するために方策を用意することが賢明である。
そしてこの修正を行うためのフィードバックは私たちがここまでで見てきた法における罰の正当化とアナロジーの関係にある。
いくらか恣意的に人々に責任を求めることで、彼らの性格を設計(再設計)するリスクを負うことを強制し、その中で人が間違った行為を行うなら彼は単に賭けに負けたというだけで、罰を受けることに反対するべきではない。
3 否定された「恐ろしい秘密」(The Dread Secret Denied)
自身の欠陥に対する反応として後悔したり自己非難したりするのは、自分の行いをやり直したいという願望と同じくらい非論理的ではないだろうか?
私たちはここまでで社会における自由意志の神話の活用を見てきたのだから、今度はそれ以外にもその規則を受け入れなければならない理由があるのかどうか、そしてプライベートな領域において自身に責任を求めなければならないのかどうか問うのは当然の流れだ。
そしてその時私たちが取るべき態度はどのようなものなのだろうか?
罪という概念が「神の眼前の罪」という絶対的な概念なら、怪物や狂人以外にその意味での罪人は存在しえないので絶対主義者が使う他の概念と同じように退けることができる。
法的な意味や個人に道徳的な責任を求めることの中で非難されるべき罪は存在する。
そうすると後悔や自責という概念が存在する余地はあるのだろうか?
後悔の苦しみにおいてのみ回顧的に現れるが、将来の予想の中では基礎的な欲望に打ち勝つことのない意識は、性格の魅力のない特徴であり、そしてそれなしではどの道徳的世界もうまくいかないものだ。
この後悔は人々に責任を求める規則が達成するために存在している態度である。
ゆえにこの種の後悔は罪の自然化された規則において全く適切な位置を占めている。
自分が行ったことを後悔することなく今までもこれからも悪人であり続けるだろう人を想像してみよう。
私たちはその人を軽蔑すべきだろうか?
彼は自身の軽蔑された状況から脱することは今はできないだろう。
彼が自分の魂を救済したかったならどんな方法であってもやり方を変えて汚名を返上するよう努力しようとできたのである。
反対にもし彼が惨めな状態を目指していたなら彼は自身の完全な不名誉と救いようのなさを想像し無気力と運命論的な態度を促進することができた。
私たちは先のことを考える代わりに落ち込んで自滅的に傍観者の態度をとったりして時間を無駄にするが、幸いなことにこのような抑鬱はすぐに過ぎ去って建設的な思考に戻ってくる。
この気分を知っているので私たちは自由意志は不可能だという証拠だと称する凶兆を正しく評価することができる。
自由意志を求めることの正当な理由があることは自由意志を持っていることを信じる正当な理由があることではないだろうが、それを持っていると信じようとすることの正当な理由があることにはなるようだ。
そして自由意志を持っていると信じることは自由意志を持つことの必要条件でもある。
なぜなら自分が自由意志を持っていないと信じている人は他のどんな条件が揃っていても自由に、責任を持って行為を選択できないだろうからである。
このことによって自由意志のための他のすべての条件が満たされているかまだ確信できない不可知論者は微妙は立場に置かれる。
もし彼が疑いを乗り越えて自由意志を信じることができるようになったなら、彼は(a)本当の自由意志、(b)自由意志の幻想の二つどちらかの状態に至るだろう*3。
本書での私の結論は自由意志は幻想ではなく実際に存在するものだというものだった。
私たちが自由意志を求める際に欲しているのは自身の行動を決定すること、それを賢く、私たちの予想と願望に照らされた中で決めることだ。
私たちは自分を制御し、計画と行動に責任を持つ行為者でありることを望む。
これらはすべて私たちがそれであるところのもので、私が示そうとしたのは自然の産物としての生物学的能力と同じように社会への加入によって延長され強化されたものだということだ。
私たちはさらに、これらの能力を使うときそれが常に願望を満たすための唯一の方法で我慢することとならないように世界に余地(elbow room)を望む。
この余地もまた私たちが持ち得るもので、そのために努力するに値するものだが、保障されているわけではない。
私たちは科学が自由は存在しないと示すのではないかと恐れているが、この恐怖は決定論によるものではない(物理学者たちはこの世界が非決定論的だということに同意しているようだ)。
この恐怖は科学が私たちやその他の宇宙、因果関係、時間、そして可能性について教えてくれることを過剰に単純化することで促進される。
科学的イメージの詳細をよく見ることを拒否する限り自由と科学は共存しないのではないかというこの疑いは存在し続けるだろう。
哲学や科学の方法の消し去りがたい一部には、何が可能で何が不可能かを人が何を想像できて何を想像できないかで判断してしまうというものがある。
想像できないものは不可能であるという主張に対して私がとった戦略は「もっとがんばれ」というものだった*4。
私が使った直感ポンプは今まで想像できなかったものを想像することを助けるように設計されている。
私たちは今や理性の声に耳を傾けながらも因果的な環境から排除されない者を、コントロールできない現状と環境によって意思決定が引き起こされながらも自分を制御し、環境に制御されない者を、自分の性格に責任のない行為者において始まる自己創造のプロセスを、理性的で決定論的だが開かれた者として未来を見ても騙されない者を、別のやり方で行為できなかったとしても責任を持ち自由な行為者を想像することができる。
このことによってさらに、理性、自己制御、自己根源性、機会、回避、そして自己改善などの概念をより明晰に見ることができるようになった。
コメント
第7章では ここまでの章での自由や責任の概念をそもそもなぜ求めるのかについての考察と、社会や法規則への適用が試みられている。
また最終章らしくこれまでの内容の振り返りとまとめで締めくくられている。
第1節ではそもそも著者に自由意志がないのだから何を書いても意味がないというニヒリズムに対する反論が展開されていた。
結局はニヒリズム自身が理論的欠陥を持っているので無視しても構わないというのがデネットの結論のようである。
第2節ではそこから進んで、法規則の構成を見る中で自由意志や責任を持つことの効果が具体的に説明されている。
それは責任を求めることでその人に自身の性格を改善させることができるというものだ。
また罰によるフィードバックは発見学習的な意思決定における誤りを修正する効果も持っている。
第3節では法的な場面だけでなく個人的な内省における後悔=自罰について検討された後、本書全体の成果が確認された。
ここで述べられているのは後悔することがなければ自身の性格を改善する機会もまた与えられないため、後悔は責任を求める法規則の目的(性格の改善)を達成する条件だということだろう。
この章で面白かったのが法規則が完全でないのは完全にする努力がコストに見合わないからだという点だった。
これはこの本で繰り返し登場した、人間は時間的期限があることによって常に不完全な意思決定を行わなければならないという論点とつながっている。
このことを指して「自然化された原罪(Original Sin, naturalized)」という表現が出てきてかっこよかった。
あとは第1節でのニーチェからの引用が後の文脈にどうつながってくるのかがよくわからなかったので、時間があれば『道徳の系譜学』にも当たってみたい。
以上で"Elbow Room"は終わりだが、未だに言語化できないモヤモヤが残る部分はあるので各章を見返しながらより深く解釈していきたいと思う。
というより提示された考え方が新しすぎて脳の構造というか考え方の構造が追いついていないという感じもする。
『解明される意識』の時も内容が馴染んでくるのに時間がかかったので自分で書いた要約を何周かしてみて馴染むのを待つのがいいのかもしれない。