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ハイデガー『存在と時間』(三)③

 



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事三つ目。

この記事では第二篇第三章(第六十一節〜第六十六節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に
re-venant.hatenablog.com

第二編第二章(第五十四節〜第六十節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com



なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第三章 現存在の本来的な全体的存在可能と、気づかいの存在論的意味としての時間性

第六十一節 現存在の本来的な全体的存在の劃定から、時間性の現象的な発掘へと至る方法的な歩みをあらかじめ素描すること

死へとかかわる本来的な存在は「先駆すること」として明らかになり、現存在の本来的な存在可能は「決意性」として提示された。

この二つの現象はどのように結合されるべきなのだろうか。

決意性が実存的な存在可能において「あかし」を与えられていたことから、決意性が自身の存在傾向において「先駆的決意性」をその本来的な可能性として提示するかどうかが問われなければならない。

決意性は身近な可能性に投企するのではなく、「もっとも極端な可能性」に投企する。

その場合にこそ決意性は本来性を得るのならどうだろうか。

また決意性は現存在の本来的な真理だから、それが死へと先駆することで本来性を獲得するならばどういうことになるのだろうか。

死への先駆によって決意性が持つ事実的な「先駆する性格」が本来的に理解されるならどうなるのだろうか。

実存論的解釈は現存在の存在に基づかなければならないから、先駆と決意性を「実存的な可能性」において理解し、その可能性を「おわりまで思考する」ことが必要となる。

このことによって初めて実存的に可能な本来的な全体的存在可能としての「先駆的決意性」が恣意的な構築でないことが明らかになる。

以上のようなプロセスによって実存論的解釈の方法論が提示されることになる。

その正しい方法には対象の根本体制をあらかじめ適切に把握することが含まれる。

このような方法論的思考は気づかいの存在意味の解釈を準備するものである。

他方この解釈はここでで分析された現存在の実存論的構造を「再現前化」しながら遂行されなければならない。

現存在は目の前にあるものではなく、気づかいとして存在する「自己」である。

気づかいのうちに含まれる自己は「ひと」と根源的かつ本来的に区別されなければならない。

そしてこのことによって初めて、どのような問いが「自己」に向けられうるのかが明らかになる。

このようにして十分理解された気づかいという現象に対して、次にその存在論的意味を探求する。

ここでさらに「時間性」が発見されるだろう。

この時間性は「先駆的決意性」に基づいて経験されることになる。

先駆的決意性に基づく時間性はその際立った様態であり、この時間性が「時間化」することによって現存在の本来的、非本来的存在が可能となる。

時間性という根源的な現象の提示は、ここまでで分析された現存在の構造の全てが時間的であり時間化の様態であることを示すことで遂行される。

第六十二節 先駆的決意性としての、現存在の実存的に本来的な全体的可能性

決意性は負い目のある存在へと投企していくが、この「負い目」を引き受けることを本来的に遂行するためには、決意性において現存在が不断に負い目のある存在として開示されるほどに、決意性が明瞭に理解できることが必要である。

このことはまた現存在の存在可能の全体が開示されることによって可能となる。

そして現存在の存在可能の全体が明らかになることは「おわりへと関わって存在している」こと、つまり死への先駆を意味する。

だから、決意性が本来的なものとなるのは、それが死への先駆としてある時なのだ。

決意性は、死へとかかわる本来的存在を、みずからに固有の本来性にぞくする可能な実存的様相としてじぶんのうちに蔵している。*1

決意性が投企していく負い目のある存在は現存在の存在だが、それは第一義的に「存在可能」として特徴付けられた。

だから、負い目のある存在は「負い目のある存在可能」なのである。

自身の存在可能へとかかわる存在の根源的なものは、死、すなわち現存在の際立った可能性へとかかわる存在である。

そして先駆においてこの死が可能性として開示される。

だから負い目のある「存在可能」に投企する決意性は「先駆的」決意性であって初めて根源的なものとなる。

負い目のある存在とは被投性と投企の「無-性」であったが、このことは現存在が「自身の無-性の無的な根拠である」と言い換えられる。

また死は現存在の実存の「不可能性」の可能性であるから、現存在の際立った「無-性」なのである。

そして気づかいとしての現存在はその時々にこの死(無-性)の被投的(無的)根拠なのだ。

だから死への先駆においてこのような現存在の根源的な無-性、すなわち負い目のある存在が開示されているのだ。

ゆえに先駆的決意性のみが負い目のある存在可能を本来的かつ全体的に理解する。

決意性によって「ひと」から呼び戻された「もっとも固有な存在可能」が本来的なものとなるのは、それが「もっとも固有な可能性」である死へと先駆する時である。

良心の呼び声行う現存在の単独化は「容赦のなさ」「先鋭さ」が伴うが、それらは死という関連を欠いた可能性が示すものである。

負い目のある存在はあらゆる罪や過失に先行している。

このことが明示的になるのは、追い越すことのできない可能性である死へとこのあり方が組み込まれる時である。

決意性が先駆することで死の可能性をみずからの存在可能へと取り戻したとき、現存在の本来的実存はなにものによってももはや追いこされることができない。*2

真理には、真とみなして保持すること、すなわち確信が属していたが、決意性における本来的真理にもそれに対応する確信がある。

この確信の確実性は、決意性が開示するもののうちで自分を保持することを意味する。*3

決意性は事実的な「状況」を現存在にもたらす。

この状況は目の前にあるものではないから未規定的だが、可能性を規定していく自由な決意において開示される。

このような決意性に帰属する確実性は、決意性によって開示された状況だけでなく、決意によって開示された事実的な可能性において自分を保持することであるべきだ。

だからこの確実性は現存在が決意における諸可能性に対して自由なあり方で保持されていることを意味するのだ。*4

決意の確実性は個別的な自己から世界内存在として投企し直すこと、すなわち「つかみ直し」に対して自由な状態で保持されることなのだ。

このことは非決意性への逆戻りではなく、「みずから自身を反復しようとする本来的な決意性」なのである。*5

これはさらに現存在の全体的な存在可能へと向かって自由に保持される傾向を不断に持っている。

このような不断の確実性が保証されるのは、決意性が現存在の最も確実な可能性、つまり死へと関わる場合である。

なぜなら死において個別化された現存在は自らをつかみ直さなければならないからである。*6

ゆえに死へと先駆することで決意性の確実性が獲得されるのだ。

しかし現存在は非真理のうちでも存在してもいる。

だから先駆的決意性が現存在を自由に保持するのは「ひと」という非決意性へと頽落する可能性に対してなのである。

明瞭となった決意性においては、現存在は存在可能のこのように未規定的なありかたから決意によって規定されていく。

決意によって確実になるとしてもこの存在可能は未規定的であり続ける。

このことが全体的に明らかになるのは、未規定的な可能性である死へと先駆することにおいてである。

すなわち本来的な決意性における未規定的な存在可能は死なのだ。

死が未規定的であることは不安という情態性において開示されている。

そして決意性はこの不安からの良心の呼び声に答えることなのだ。

不安は現存在の根拠における無-性、すなわち死への被投性を開示している。


以上から先駆的決意性が本来的かつ全体的な決意性であることがわかった。

反対にこのことによって先駆が完全に実存論的に了解されたことになる。

それは現存在そのものにおいて「あかし」を与えられた存在可能の様態であり、決意性の本来性の可能性なのだ。

また先駆は実存的に「あかし」を与えられた決意性のうちに隠され、そのうちでそれとともに正当化されたものである。

だから

本来的に「死を思うこと」は実存的にみずからを見とおすにいたった〈良心をもとうと意志すること〉なのだ。*7

そして実存によって正当化された決意性によって、先駆を経由して「現存在の本来的な全体的存在可能」が共に正当化されたことになる。

だから「現存在の本来的な全体的存在可能」が現象的に示されたのである。

以上のように現存在の実存の存在論的解釈が行われてきたが、この根底には実存についての一つの理想があったのかもしれない。

このことは積極的な必然性において把握されなければならない。

哲学はその前提をただ否定したり肯定したりするだけでなく、前提を把握してそれが何のためにあるのかを探求していくものである。

その機能を持っているのが前節で述べられた「方法論的な省察」なのだ。

第六十三節 気づかいの存在意味を解釈するために獲得された解釈学的状況と、実存論的分析論一般の方法的な性格

先駆的決意性によって現存在を現象的に見ることができるようになり、その全体的存在可能を解釈が「あらかじめ持つこと」にもたらされた。

そしてその解釈を導く理念である「あらかじめ見ること」も規定されたのである。

また目の前にあるものに対置される現存在の構造が具体化されたことで、解釈の分節化「あらかじめ掴むこと」が十分に遂行された。

ここまでの分析は「私たちがそのつど自身それである存在者は、存在論的にはもっとも距たっているものである*8」というテーゼを具体的に論証してきた。

このテーゼは現存在が日常的には「ひと」へと頽落している事に根拠づけられている。

だから現存在の根源的な存在は「ひと」に方向付けられた解釈傾向に「逆行して」、「奪い取られ」なければならない。

またそれゆえに実存論的分析は日常的な解釈に対して常に「暴力的」なのだ。

しかしこの暴力性はどのような解釈にも伴っている。

なぜなら解釈のうちで理解が形成され、理解は投企という構造を持っているからだ。

存在論的な解釈は固有な存在に向けて投企(理解)しその構造を概念化する。

この投企には従うべき道標があるのだろうか。

さらに現存在が自分の存在する仕方に従って自分の存在を隠すとすればどうだろうか。*9

このことを考えるために「現存在の分析論」そのものが明瞭にされなければならない。

現存在には自己解釈が属していて、配慮的に気づかうことで世界を覆いをとって発見しながら、「配慮的気づかいそのもの」も発見されている。

すなわち現存在は自分の存在を一定の可能性の中で理解しているのだ。

だから現存在の存在への問いは現存在のあり方を通じて準備されていたことになる。

しかし現存在の本来的な実存は何を以って非本来的なものと区別されるのだろうか。

ここまでの分析には「存在的」な前提があったのではないか。

しかし現存在は第一に事実的な(「存在的」)存在可能や頽落した「ひと」として存在していて、存在論的解釈によって固有な可能性(先駆的決意性)にもたらされる。

だから存在論的な解釈は「存在的な」諸可能性、すなわち様々な事実的存在可能の様式を根底に置き、その可能性を実存論的な可能性へと投企することでしかない。

ゆえに日常的なあり方に逆行した「暴力的な」解釈の傾向は、それが開示する現存在に適合したものなのである。

現存在は死以上の「審級」を持たないから、死への先駆的決意性は恣意的な可能性ではない。

しかしそれが恣意的な可能性ではないとしても、ここまでの実存論的分析はそれによって正当化されるのだろうか。

この分析の正当性が基づいている理念はどこからその権利を得てきたのだろうか。

この理念は現存在が前存在論的に持っている存在了解によって暗示されている。

この存在了解によって提示されているのは、現存在は存在可能として私たち自身であり、その存在可能においてはその存在者であることが問題なのだ、ということだ。

だから現存在はどのような解釈においても「じぶんをそのつどすでに理解してしまっている」のである。

ゆえの先に述べた実存理念は現存在自身が持つ存在了解をあらかじめ素描するものであったのだ。

この理念に導かれて気づかいという構造が解釈され、そこで実存と実在性を区別するための基礎が与えられた。

そのような実存理念は、実存と実在性という二つの「存在」の区別を行うために「存在一般」の何らかの理念を前提としているはずである。

しかしこの「存在一般の理念」は現存在の存在了解を明晰にすることで得られるということであった。

そうならばこの分析は一つの循環のうちにあることになる。

この循環とはすなわち、「実存並びに存在の理念が「前提とされた」うえで、「そののちに」現存在が解釈され、そこから存在の理念が獲得されようとしている*10」ということだ。

しかし存在論的分析は前提から帰結を推論形式にしたがって導く演繹ではない。

そして理念を「あらかじめ定立すること」は理解しながら投企するという性格を備えていて、そこでなされる解釈によって現存在が初めて言葉として現れてくる。

ゆえにこの循環は避けることのできないものなのだ。

循環を批判する考え方は、頽落している「ひと」にとって投企することが理解できないということにも基づいている。

理解についての循環を問題とするのは、理解が現存在の存在体制であること、そして現存在が気づかいという在り方をしていることを理解していないことの証拠である。

以上で根源的な実存論的分析における解釈学的状況の意味が明らかになった。

先駆的決意性の分析によって本来的な真理という概念に到達したが、さしあたりの存在了解は存在を「目の前にあること」として考えてこの真理を覆い隠している。

しかし真理が存在する限りで存在が与えられ、真理のあり方に従って存在了解も変容する。

ならば本来的な真理は現存在の存在とその存在一般の了解を保証するものでなければならない。

すなわち存在論的な「真理」は「根源的な実存的真理」に基づいているのである。

この「もっとも根源的で、かつ基礎となる実存的真理」こそが「気づかいの存在意味が有する開示性」なのだ。

これを明らかにするために、気づかいの構造をくまなく分析しておく必要がある。

第六十四節 気づかいと自己性

気づかいという構造はここまでの分析で分節化(解釈)されてきた。

そこで気づかいの構造の全体性の統一への実存論的な問いが持ち上がってくることになる。

現存在はそのつど自分自身「である」というあり方において統一的に実存している。

ここで実体と考えられてきた「自我」というものが構造全体を統一しているように見えるかもしれない。

他方、ここまでの分析でも現存在は「誰」なのかという問いが持ち上がっていて、その答えは「ひと」だということだった。

現存在の本質が「実存」にあるなら、この「自己」が実存論的に把握されなければならない。

現存在は気づかいという構造を持っているから、この気づかいと自己の関係が明らかにされる必要がある。

出発点として設定される日常的な自己解釈は、現存在が自分に言及するのは「私と語ること(Ich-sagen)」においてであるということだ。

この「私」は単純で、決して述語にならない主語だと見なされている。

しかし「単純性」「実体性」「人格性」といったカテゴリーにおいて実存論的な分析を行うことはできない。

カントは「純粋理性の誤謬推理」で「自己」に実体性を与えられないこと、そして「自我」は「私は考える」であることを示した。

しかし不適切な存在論的基礎に基づいたために、自己を目の前にある主観と捉えてしまったのである。

自我は「私は考える」ではなく「私はなにごとか考える」である。*11

この「なにごとか」が世界内部的な存在者を指しているなら、これは世界を前提においている。

そして世界によって自我の存在体制は規定されているのだ。

すなわち、「私と語ること」は何らかの仕方で世界のうちにすでに存在している存在者、つまり世界内存在を指しているのである。

しかし、頽落することで日常的な自己解釈では自己は配慮的に気づかわれた世界の側から理解される。

ここでの自己は「不断に自同的でありながら未規定的で空虚で単純なもの」である。

本来的な自己性は気づかいの本来性に即してのみ読み取られる。

そしてこの本来性によって「不断に自己であること(Ständigkeit des Selbst)」が明らかになる。

このことが日常的には自己という実体が永続することと捉えられているのだ。

そして本来的な存在可能によって「立場を獲得している」という意味での「不断に自己であること」が見てとられるようになる。

この立場の堅固さは、頽落した「ひと」の非自立性の反対の概念である。

そして自立性は先駆的決意性に他ならない。

沈黙し、不安を要求する決意性が本来的な「自己」を形作るなら、それは「私」とは語らない沈黙した存在である。

このような沈黙した自己こそが自我の問題への現象学的な地盤となるのだ。

気づかいの構成要素としての本来的実存が現存在が自己であり続けるような存在体制を与えている。

ゆえに気づかいが何らかの「自己」によって基礎づけられる必要はない。

そしてこのように自己であり続けることには、気づかいの構造に即して、自己でないことに頽落することが付随している。

このように気づかいの構造に含まれた自己性を明らかにすることが、気づかいの「意味」の解釈なのである。

第六十五節 気づかいの存在論的意味としての時間性

気づかいと自己性の連関の分析は、現存在の構造全体をとらえるための最後の準備でもあった。

気づかいの意味、そして「意味」とはなんなのだろうか。

以前に(第三十二節)分析されたことだが、意味とは理解という投企の対象である可能性、すなわち「それにもとづいて」であり、この「それにもとづいて」においてあるものがその可能性から理解される。*12

だから気づかいの意味を明らかにすることは、現存在の根源的解釈において作動している理解を詳しく見て、その理解によって理解の「それにもとづいて」を明らかにすることだ。

また理解されるものは先駆的決意性のうちで開示されている現存在の存在である。

この気づかいの意味は、現存在の存在を気づかいとして構成することを可能とするものだ。

だから問われているものは、分肢化した気づかいの構造全体を統一的に可能にするものは何なのかということである。

厳密には意味は「存在」を理解する際の第一次的な「それにもとづいて」を意味する。

世界内存在は自身の存在と共に気づかわれる世界内部的な存在者の存在を理解している。

存在者の存在が意味を持つのは、その「それにもとづいて」(可能性)へと現存在が投企(理解)している場合のみである。

存在を理解するという第一次的な投企が意味を「与える」。*13

だから存在の意味の探求は、存在理解の「それにもとづいて」を主題にするのであり、その存在理解はすべての存在の根底にある。*14

現存在は実存することで自らの存在を理解しているが、その理解は事実的な存在を形成している。

このような事実的な実存を可能にするものは何なのだろうか。

根源的な投企によって投企(理解)されるものは先駆的決意性であった。

この本来的な全体的存在を統一的に可能にするのは何なのだろうか。

先駆的決意性はもっとも固有な可能性へと関わることであり、それが可能になるのはそのもっとも固有な可能性が「到来」することが可能であり、それを可能性として開示することができることによる。

もっとも固有な可能性に先駆しながらそのうちで自身を「到来」させることが「将来(die Zukunft)」という現象なのである。

それはまだ実現していない未来ではなく、「まさに来ようとしているもの」なのだ。

そして先駆が本来的な将来的存在を可能にし、さらに先駆は現存在の存在が将来的なものであることによって可能となる。

先駆的決意性は現存在を負い目のある存在として理解する。

負い目のある存在とは「無-性」の無的な根拠「として存在していること」だ。

被投性とは「みずからがそのつど存在していたがままに本来的に現存在として存在していること*15」だ。

このことが可能となるのは「将来的な」現存在が「既在(Gewesen)」として存在することができる場合のみである。

現存在は既在としてある時だけ「回帰的に」将来的なものとして自身に到来することができる。

死へと先駆することは、既在へと回帰しながら到来することなのである。

そして決意において周囲世界的に存在するものを開示することは、この存在者を「現在化」することによって可能となる。

このような「既在しつつある現在化する将来」という統一的な現象を「時間性」と名付ける。*16

この時間性は本来的な気づかいの意味なのだ。

そしてこの時間性からは「未来」「現在」「過去」という通俗的な時間概念は取り除かれなければならない。

それらの時間概念は非本来的な時間性から出現する派生的なものにすぎないからである。

先に問われた気づかいの構造の統一は、時間性のうちに存している。

気づかいの構造の、〈じぶんに先だって〉は「将来」に〈内ですでに存在していること〉は「既在」に、〈のもとでの存在〉は現在化に対応する。

この「先」を通俗的な時間観念からくる前後関係と捉えてはならない。

そうしてしまうと、現存在が「時間の中で」通過していく目の前にあるものとなってしまうからだ。

この「先」は将来を意味し、現存在が将来的に存在しうるのはそれが存在可能だからだ。

投企は将来に基づき、また投企は実存することの本質的性格の一つだから、「実存的なありかたの第一次的な意味は将来なのである」。

同様に既在も現存在の実存論的な意味であるから、現存在はそれが存在する限りにおいて被投的なのだ。

しかしそれは目の前にあるもののように過ぎ去ってしまっていることを意味しない。

現存在は常に既在として存在しているのである。

だから事実性の第一次的な意味は既在なのである。

ゆえに気づかいの被投的投企という構造は「先」「すでに」という表現によって、実存的なあり方と事実性の時間的な意味を示していたのである。

このような暗示は気づかいの第三の契機〈のもとでの存在〉にはない。

これは頽落が第一次的にもとづく「現在化」が将来と既在とによって「鎖されて」いることを示している。

現存在は決意において頽落から個別化され、開示された状況で「現」として存在する。

このようにして時間性によって実存、事実性、頽落が統一されて気づかいの構造全体が把握される。

時間性は存在するのでなく時間化するものだが、それが気づかいの意味「である」などと言わなければならなかった。

そのことは存在一般の理念が明らかになって初めて理解可能となる。

時間性は様々な様式で時間化を行い、そのことによって本来的、もしくは非本来的に存在することができる。

「将来」「既在」「現在化」によって示されるのは「じぶんへ向かって」「の方へと回帰して」「を出会わせる」という性格である。

さらにこれらは「脱自」としての時間性を示している。

時間性とは、根源的な「じぶんの外にあること」それ自体そのものなのである。*17

このことから「将来」「既在」「現在化」を時間の「脱自的なあり方(Extasen)」と名付ける。

通俗的な時間領海においては時間は「いま」の連続と考えられるが、その考え方ではこの脱自的な性格が水平化されてしまう。

時間性の脱字的な統一においては「将来」が優位性を持っている。

本来的な時間性は、「将来的に既在しながら、そのことではじめて現在を喚起する」ことで時間化を行う。

このことは非本来的な時間性にも現れてくる。

死へと関わる現存在は「自分が終焉する終わり」を持っているのではなく、有限的に実存する。

このことは本来的な将来が有限的な将来として提示されることから明らかになるだろう。

しかし、自身の死後も時間は流れていき、将来には無限の事柄が含まれているのではないだろうか。

これらはその通りであるが、しかし根源的な時間性についてあてはまる議論ではない。

問題となるのは「自分へと到来させること」自体がどのように規定されているかである。

「到来」の有限性は終焉ではなく時間化そのものの性格であり、その性格は現存在が投企(理解)することの可能なもののうちで示されている。

なぜなら本来的な将来は追い越しえない可能へと投企することで「じぶんへ向かって」いることだからである。

有限的で本来的な時間性が、どのようにして無限的で非本来的な時間性へと派生するのかが問題である。

「現存在の意味は時間性である」というテーゼは、これまでの分析の土台から離れて現存在の具体的な根本体制に即して確証される必要がある。

第六十六節 現存在の時間性、ならびにその時間性から発現する、実存論的分析のより根源的な反復という課題

時間性に基づいて現存在の存在体制を示すことを「時間的」な解釈と名付ける。

そこでの課題は、現存在の本来的な全体的存在可能を時間性に基づいて分析し、さらには非本来的なあり方も視野に収めることである。

すなわち、これまでの実存論的分析を時間性という観点から反復することで、日常性の時間的な意味が明らかにされなければならない。

しかしそれは単なる反復ではなく、考察の関連性を明確にし、偶然や恣意を取り除くものである。

「自己性」が気づかいの構造、そして時間性の構造の中で分析されたので、自己であることや自己でないことの時間的な解釈に特別な重要性が生じている。

さらにその解釈によって「歴史性(Geschichtlichkeit)」としての「時間化構造」が根源的に捉えられるのである。

そして日常性と歴史性の時間的解釈によって「根源的時間」の分析が準備されたことになる。

現存在は第一次的に自分を自身のために役立てる。

自分を使用し尽くすことで、現存在は時間を使用し、それによって時間を計算するのである。

さらに時間を計算に入れることが世界内存在を構成する。

覆いをとって発見することが時間を計算しつつ行われることで、発見されたものと時間の中で出会うことになる。

すなわち世界内部的な存在者は時間の中に存在するのである。

このように時間に規定されたあり方を「時間内部性」と名付けることにする。

この時間内部性は根源的時間に属する時間化の一つの様態として現れる。

以上のような分析によって、現存在の存在論の「錯綜したありかた」に対する見通しが与えられるようになるだろう。

コメント

存在と時間』第三分冊はこれで終わりになる。

この章では「死への先駆」と「決意性」という二つの現象の間にどのような関係があるのかということが考察された。

その結論とは、決意性の本来的なものが死への先駆への決意性、すなわち先駆的決意性なのだ、というものだ。

そしてこの先駆的決意性が「自己」を与えることや、気づかいの意味としての時間性の分析の導入もなされている。

時間性については第四分冊の主題となりさらなる考察が行われるだろう。


第六十二節の「決意の確実性」の部分がなかなか難解だった。

現存在は気づかわれるものと一体のものとして開示され、その開示性が「真理」と呼ばれている。

「決意性が開示するもののうちで自分を保持すること」といった書き方は、自分(現存在)と開示されるものが区別されないことから読みづらくなっているのだと思う。

他に第六十五節での「意味」が「投企の「それにもとづいて」」であるといった記述も最初何のことだかわからなかった。

意味は解釈によって分節化された有意義性、すなわち世界の可能性の一部分である。

理解は可能性へと投企することと定義されていて、解釈は理解を「あらかじめ持つこと」としてその契機に含んでいる。

つまり意味を解釈することは理解という形で可能性へと投企することなのだ。

ゆえにこの「それにもとづいて」を理解され投企される対象となる可能性と考えるなら、それが意味であるというのにも一応の納得はいく。

そして解釈することで世界が分節化されて意味が生み出されるので、存在の意味を解釈することで初めて存在に意味が与えられると言われるのだろう。


決意性によって「つかみ直」される自己、存在論の分析の循環、時間性における回帰という性格、以上のようにここでの論考にはループする構造が幾つか登場する。

現状ではこれらは別々のものだがそれらが統一的な現象として示されてくるのかが気になっている。

特に統一されなくても複数のループが絡み合う構造として現存在を考えるのも面白そうだ。

*1:1.2.3.62.917 p372

*2:1.2.3.62.922 p379

*3:現存在=開示性。開示されるというのはそこで存在すること。

*4:状況と決意における可能性の両方で保持されること?

*5:時間性において現存在が自分に回帰するという議論と関係があるかも。

*6:決意が開示する「状況」の本来的なもの=「死」であるということが言いたいのだろう。

*7:1.2.3.62.926 p387

*8:1.2.3.63.932 p394

*9:現存在自身が頽落への道標を与えているということ?

*10:1.2.3.63.943 p408

*11:フッサールの影響が感じられる。

*12:理解するものとされるものの区別はないので、「それにもとづいて」は現存在の存在可能でもあり、ゆえに理解は投企である。

*13:1.2.3.65.966 p450

*14:存在することと開示は一致するから?もしくは存在に常に存在了解が備わっているから?

*15:1.2.3.65.969 p454,455

*16:死への先駆(既在へと回帰しながら到来すること)→決意(現在化)の流れ。

*17:1.2.3.65.978 p469