ハイデガー『存在と時間』(一)③


存在と時間』第一分冊について記事の三つ目。

この記事では第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第三章 世界が世界であること

第十四節 世界一般の世界性の理念

世界内存在を解明するために、まずその構造契機となっている「世界」について考えていかなければならない。

「世界」について考えることが通常意味しているのは、世界の内部で現存在に出会われる存在者たちについて記述することである。

その記述は存在者の見た目や関係性を存在的に物語ることでしかないので、存在そのものを解明することはできない。

「世界」を存在的にではなく存在論的に記述することは、現存在が世界内で出会う存在者の存在そのものを提示してそれをカテゴリー的に規定することだろう。

存在者には自然的事物(実体)と人間が価値を付与した「価値を帯びた事物」の二種類があり、価値を帯びた事物も実体に基づいているのだから、まず実体を存在論的に探求するべきだということになる。

しかし自然や実体といった存在者の存在を解明していくことが「世界」という現象そのものを解明することにつながるのかといえばそうではないし、反対に価値を帯びた事物の存在の解明も「世界」そのものの解明には至らない。

世界内部的な存在者を存在的に描写すること(ontische Abschilderung)も、そうした存在者の存在を存在論的に解釈すること(ontologische Interpretation)も、そのものとしては「世界」という現象に到達しない。*1

すると「世界」を世界内部的な存在者を規定するカテゴリーとして考えることはできないのだろうか。

「世界」がカテゴリーではなく現存在の実存カテゴリーなのだとしたら、それぞれの現存在が固有の世界を持っていることになるのだろうか。

そうすると現存在同士に共通の世界、すなわち世界一般の世界性というのはどのようにして考えられるのだろうか。

ここでいう「世界性」は世界内存在としての現存在を構成する実存カテゴリーである。

しかし「世界」が現存在以外の存在者のカテゴリーではないからと言って、その存在者の存在を解明することが不要になるのかといえばそうではない。

このような論点から、世界を現象学的に解明するというのは一体どういうことなのかを前もって考察しておかなければならないということがわかる。


そもそも「世界」という言葉が多義的で混乱を生み出しているので、以下の四つに分類整理する。

  1. 存在的な意味での「世界」 これは目の前にある存在者の総体として捉えられる。
  2. 存在論的な用語としての世界 これは存在者の存在を意味しているが、数学者のいう「世界」のように存在者の多様なあり方を包括する対象領域を指すこともある。
  3. 現存在が「そのうちで」生きている場所 この場合一般的な世界や周囲世界(Umwelt)を意味することもある。
  4. 世界性という概念

本書では一番目の意味での世界は「世界」と表記され、世界という語は三番目の意味で用いられる*2

また「世界的」という語は現存在のあり方を指していて、他の存在者が世界内にあることは「世界内部的」と表記する。

人は現存在の世界性からでなく、世界内部的な存在者の存在構造をカテゴリー的に総括したものである「自然」から世界を理解しようとしているが、それでは「世界性」を理解することはできない。

逆に自然という概念は現存在を解明して世界性を理解することで初めて存在論的に理解可能になる。

そこでなぜ現存在は世界内存在というあり方と自らの世界性を見過ごしてしまうのか、という点が示される必要がある。

またその見過ごしを防ぐために現存在はもっとも身近な存在のし方である「平均的日常性」から分析されなければならない*3

この日常的な現存在において身近な世界は「周辺世界」であり、世界内部的な存在者の存在論的解釈をすることなしにこの周辺世界の世界性(周辺世界性)を直接解明していくことが必要になってくる。

しかしこの「周辺」という語は空間的に周囲にあることを意味しない。

デカルトの二元論では空間性から世界を延長するもの(res extensa)として解釈し、それは思考するもの(res cogitans)と対立しているが、世界性の分析はそれとは全然違っている。

この二元論とここでの世界性の分析を見分けていくため以下の第三章A「周辺世界性と世界性一般との分析」B「デカルトにおける「世界」の存在論に対して、世界性の分析を例示的にきわだたせること」C「周辺世界に属する〈周囲であること〉と、現存在の「空間性」」という三段階で考察が進んでいく。

第三章A 周辺世界性と世界性一般との分析

第15節 周辺世界のうちで出会われる存在者の存在

日常的な世界内存在は操作したり使用したりすることである「配慮的気づかい」として存在している。

そこでまず現象学的に解明されるべき対象はこの「配慮的気づかい」としての現存在が出会う存在者である。

様々な解釈によってそのような操作され使用される存在者と「配慮的気づかい」というあり方が覆い隠されてしまう。

この誤りについては、どのような存在者が存在を解明する前の予備的な主題となるのかを考察する中で明らかになっていくだろう。


普通、人は主題となるべき存在者は「事物」だと考えるが、事物についての存在論的分析では配慮的気づかいの中で出会われる存在者が見落とされている。

他にも人は事物を「価値を帯びた事物」と特徴付けたりするが、その特徴によって配慮的気づかいにおいて出会われる物の性質を表現できているのだろうか。

ギリシャ語に「事物」を表す適切な用語として「実用品(プラグマタ)」というものがある。

これは「行為(プラクシス)」の対象となるもののことであるが、実用的な意味を曖昧なままにして単に「事物」として用いられていた言葉である*4


本書では配慮的気づかいにおいて出会われる存在者を「道具(Zeug)」と名付ける。

この道具とはどういうもので、どういったあり方で存在していうのだろうか。

まずこの道具は一つの全体の中で存在していて、一個の独立なものとしてあるのではない。

道具は何かのためにあるものであり、その指向性の連関が例えば部屋といった道具全体を形作っている。

そして人はまず「部屋」という住むための道具全体に出会っていて、その中で扉や机などの個々の調度が道具として現れてくる。

個々の道具に合わせて指示の連関を限定した「交渉」の内でのみ道具は全体性から切り離されて現象として現れてくる。

しかし例えばハンマーを振ることでハンマーが事物として現れてくるのではなく、そうした交渉において配慮的な気づかいは道具とその指向性を自分のものとしている。

こうして用いることで現存在は道具と根源的な形で出会うことができるのだ。

このような道具の存在のし方を「手もとにあるありかた(Zuhandenheit)」と名付ける。

事物をただ眺めるだけではこの手元にあるありかたを理解することはできない。

だからと言って道具とのこの交渉は視覚を欠いたものではないし、むしろ固有な〈見ること〉を有している。

現存在が道具の使用においてのその指向性に適応しながら行うこの〈見ること〉が「目くばり(Umsicht)」と呼ばれるものである。

そしてまた観察することも一つの配慮的気づかいなのだから、理論的観察と行為の二分法で考えることは間違っている。

「手もとにあるもの」はこの「目くばり」において主題化されているわけではないし、目立たない形で存在している。

現存在が気遣っているのは道具を用いてなされる仕事であったり作られる製品の方で、それらは道具の指向性の全体を形作っている。

そしてまたそのような仕事や製品も何かのためにあるという指向性を有しているから、現存在は配慮的気づかいにおいてその指示されている対象にも出会っている。

また逆に製品には「材料」としてそれを形作る素材が指向されている。

素材には、そのものは何からも制作されず自分で自分を生成している動物や植物などの存在者も含まれる。

それら「自然産物」としての自然もこの指示の連関の中で現存在に出会われているのだ。

また、制作された製品はそれを使う者として人間を想定しているから、製品とともに現存在は人間という存在者にも出会っている。

現存在はこれとともにその指示された人間が住んでいる世界にも出会っているが、その世界とは自分が住んでいる世界と同じ世界なのである。

そしてまた、例えば屋根のある駅のプラットホームは雨や雪を想定して作られているから、現存在は気づかいにおいて「周辺世界という自然(Umweltnatur)」にも出会っている。

配慮的に気づかいながら、もっとも身近な製品世界にそのときどきに没入することが、覆いをとって発見する機能を有する。その機能の本質にぞくしているのは製品世界のうちに没入していくそのしかたにしたがって、世界内部的な存在者——製品において、すなわちその製品を構成する様々な指示にあって、ともに関与させられている存在者——が、明示性の様々な度合において、つまり目くばりしてすすんでいく多様なひろがりとともに、覆いをとって発見されるものでありつづけていることなのである。*5

こうしたあり方が「手もとにあるありかた」だが、それは事物に主観的に意味づけすることによって生まれるのではない。

仮に主観的に意味づけされたものなら、まず存在者は「目の前にあるもの」として発見されてその上で意味を付与されなければならない。

しかし認識作用は常に配慮的気づかいとして存在者に関わっている世界内存在の様態であり、認識するためには対象との交渉を停止しなければならない。*6

だから現存在は手元にある存在とまず出会っていて、それとの関係を一時中断することで対象を認識することができる。

「目の前にあるもの」まず認識してそれを「手もとにあるもの」として主観的に意味づけすることはこの認識作用の構造に矛盾している。

しかし、「手もとにあるありかた」が世界内部的な存在者の存在体制で、それが「目の前にあるありかた」を基礎づけていることが分かったとしても、それら世界内部的存在の総体としてあるわけではなく、むしろそれらが前提としている世界現象の解明につながっていくのだろうか。

第十六節 世界内部的な存在者にそくしてじぶんを告げる、周囲世界の世界適合性

世界は、それ自身は一箇の世界内部的な存在者ではない。*7

しかし世界は手もとにある存在者や世界内存在を規定しているのだから、現存在は存在についての先だった了解と同じように世界について前現象学的な了解を有しているのではないだろうか。


配慮的な気づかいにおいての世界内部的な存在者との出会いでそれが「世界に適合していること(Weltmäßigkeit)」が発見される。

例えば道具が破損していたり目的に不向きで「利用できない」ことがあると、それは「手もとにないもの」として目立ってくる。

その時道具は「目の前にあるもの」として現れるがそれはあくまで「手もとにあるありかた」を前提としていて、修理されたりすることによってまた「手もとにあるもの」に戻っていく。

また配慮的な気づかいの交渉の中で欠けていて「持ち合わせていない」ものに気づくこともある。

そうすると現状手もとにあっても仕方ないものは「押し付けるようなありかた」で現れてきて、「目の前にあるもの」として捉えられる。

他にも使っている時間がなかったり場違いで邪魔になったりするものも「手に負えないもの」、「手もとにないもの」として現れ、同じように「目の前にあるありかた」をするようになる。

これら「利用できないこと」「押し付けがましいこと」「手に負えないこと」は道具を「目の前にあるもの」として浮かび上がらせる機能を持っている。

しかしそれはただ目の前にある事物なのではなく常に「手もとにあること」に基づいて存在している。

道具は「手もとにあるありかた」を失うのではなくそれに「別れを告げ」ていて、その時それら道具の世界に対する適合性が見えてくる。


道具は存在構造は指示の連関によって規定されていて、道具は配慮的な気づかいの中で出会われる。

その中で利用できないものに出会う時配慮的気づかいは指示が妨げられて連関が欠落していることに気づく。

そこで逆説的に指示そのものが明示的に認識されて、それに伴って指示の連関の全体すなわち世界が見てとられる。

同様に欠けているものに気づくときもその指示連関の「破れ」を見つけていて、そこでも周囲世界が見てとられるようになる。

このようにして「開示(Erschließen)*8」された世界は、存在者の認識や観察に先立ってすでにそこにあるもので、「目の前にあるもの」ではない。

またこの世界は「手もとにあるもの」から構成されているのではない。

指示性の連関としての世界が見てとられる時、道具が手もとにあるものとして了解されることをやめて単に目の前にある事物として捉えられるようになる。

また反対に道具が手もとにあるものとして扱われている時それが持つ指示性は明示的なものとならないのである。


「利用できなくはない」「押し付けがましくない」「手に負えなくはない」という否定形で表されるのが手もとにある道具の性質である。

このように自体的な道具を「目の前にあるもの」に帰属させて考えていては存在論的に十分ではない。

しかし道具について「目の前にあるもの」として語って解釈することが存在論において必要となるのではないかと考えられるかもしれない

その際人はこの存在者を存在的に引き合いに出すが、世界内部的な存在者は世界現象そのものに基づいてのみ解明されうるためそれもまた存在論的に不十分だ。

世界を何らかの仕方で見て取ることができるならそれはあらかじめ開示されているので、現存在はすでにそこにいる世界から出発して存在論的探求を行いそこに帰ってくるのである。

以上から世界内存在というのは道具の指示連関に没入していることを意味していることがわかる。

この世界との親しみの中で現存在は自分を忘れて世界内部的な存在者に気を取られている。

さてそのような指示連関の全体性はどのようなもので、それに適合していることが理解できるのはどうしてなのか。

この問いは世界性の現象と問題を解明することを目指していて、またそれに答えるためにそうした指示連関の中でその問いが問われるという構造についても解き明かされなければならない。

第十七節 指示としるし

ここまでで道具について見てきたが、その中で「指示」というものがその存在構造として現れてきた。

さらにそのような道具の指示構造が世界を構成していることも分かったので、道具とそれが有する指示構造を解明することが世界さらなる理解につながっていくだろう。

道路標識や信号といった「しるし(Zeichen)」という道具においてこの指示構造が多層的に現れてくる。

このしるしの関連様式を形式化していくと、存在者一般の特徴の理解に役立つ手引きが得られる。

さて、そのしるしの形式的な意味とは関連づけることだ。

しかし関連することのすべてが示すことを意味しているわけではないので、指示という現象を関連することに結びつけて考えても得られるところはない。

むしろ指示という現象に関連という概念の存在論的な基礎があることが明かされなければならない。

まずは「指示」と「しるし」を区別して考えることが必要となってくる。

「しるし(Zeichen)」は「兆候、前兆と形跡、標識、目印(Anzeichen, Vor- und Rückzeichen, Merkzeichen, Kennzeichen )」などで、それらは「痕跡、遺物、記念物、記録、証書、象徴、表現、あらわれ、意義(Spur, Überrest, Denkmal, Dokument, Zeugnis, Symbol, Ausdruck, Erscheinung, Bedeutung )」と区別されなければならない。

こうした諸現象を安易に形式化して「関連」から見ていっても何を言ったことにもならない。


しるしの例として車の行き先を示すウィンカーを用いる。

このウィンカーは運転手の配慮的気づかいにおいて操作されているが、それだけでなくその表示を見た人が車の行き先を知るためにウィンカーという道具を使用している。

ウィンカーは「手もとにあるもの」として道具の指示連関の中にあるが、ウィンカーが方向を「示す」ことは道具の存在論的な構造ではない。

何かの役に立つことという意味での「指示」はすべての道具が持つ存在構造だが、「示す」ことは「しるし」という一部の道具が偶然持っている性質である。

だからこの「指示」と「示すこと」は一致していない。

例えばウィンカーにおいてそれが車の部品として自分を点灯させるボタンを「指示」したりするのと、ウィンカーが車の行き先を「示す」ことは異なっている。

さて、そのような「示すこと」とは何を意味しているのだろうか。

ウィンカーを見たときその方向から身をそらしたり立ち止まったりするが、それは常にどこかを向いていて何かをしている世界内存在の本質的なあり方に他ならない。

しるしはこのように空間的にある現存在の配慮的に気づかう交渉の目くばりに向けられていて、その目くばりはしるしに従って周囲世界が「周囲にあること」を見わたすことになる。

この「見わたし」によって「手もとにあるもの」の全体が有する(指示)連関構造を知ることができて、配慮的に気づかう交渉に方向づけがなされる。

(しるしとは)道具全体を明示的に目くばりの中に引きあげて、その結果、それとともに、手もとにあるものが世界に適合していることが告げられるような、一箇の道具なのである。*9


しるしを作り出すことにおいてその性質がさらに明らかになる。

しるしは「あらかじめ見ること(Vorsicht)」において作られ、「あらかじめ見ること」が成り立つためには周囲世界がを目くばりの中に現れてくることが可能でなければならない。

手もとにあるものは普通目立たない形で存在しているから、特別な道具であるしるしがそれを目立たせることが必要となる。

そしてまたしるしの制作においてはしるし自体も目立つものであることも考慮されなければならない。

その場合しるしは単に恣意的に選ばれるのではなく「容易に接近可能となる」ことを意図して設置される。

またしるしは手もとに存在していない道具が新たに制作されることだけでなく、すでに手もとにあるものの中から選ばれることによっても作られる。

しるしとして選ばれたものは手もとにあるあり方を通じて初めて「目の前にあるもの」として接近可能となる。

例えば雨を告げる南風は気象学的に目の前にあってその上で前兆としての機能を与えられるのではなくて、農業の計画(指示連関)の目くばりの中で計算に入れられるという形で初めて発見されるのだ。

しるしとして取り上げられるものはそれに先立って把握されていなければならないが、それは「理解されていない道具」として出会われている。

しかし理解されていなくても手もとにあるものは単なる事物として考えられてはならない。

しるしは単に目立つあり方で制作されているだけでなく、自力で目立たないあり方から目立つあり方を取り出してくる。

例えばハンカチの結び目というしるしは示すものが曖昧だがしるしという性質を失うことはなく、むしろ人はそれをなんとなく気にしてしまって「押し付けがましいもの」として目立ってくる。

以上のしるしの解釈によって以下のことがわかった。

  1. 「示す」ことは道具一般が持つ「指示」に基礎付けられている。
  2. しるしの作用は道具の指示連関の全体に属している。
  3. しるしが手元にあることで周囲世界が接近可能になる。

しるしは一箇の存在的に手もとにあるものであって、そうした特定の道具として同時に、手もとにあること、指示全体性並びに世界性が有する、存在論的な構造を暗示する或るものとして機能している。*10

「指示」は「しるし」の基礎だからしるしから指示を考えることはできない。

「指示」はどのような形で道具の存在論的な前提なのか、さらにそのような「指示」はどこまで世界性一般を構成しているのかが解明されなければならない。

第十八節 適所性と有意義性——世界の世界性

世界は手もとにあるもの全ての前提となっているし、現存在が世界内部的な存在者に出会う時常に同時に出会われている。

さて、世界内部的存在者が配慮的気づかいにおいて出会われることの意味は何であり、それはどのように世界を存在論的に際立たせるのだろうか。

まず世界はどのようにして指示という体制を持った道具を出会わせることができるのか。

道具の存在論的構造を記述する「属性」は道具の具体的なあり方ではなく「何かに向いていること/向いていないこと」である。

道具の存在体制である「指示」はこの「向いていること」を道具の具体的な機能として実現することを可能にする条件に過ぎない。

この「指示」は手もとにあるものが何かに指し向けられているという性質を持っていることを意味している。

指示はある存在者の「〜(それ自身)によって〜のもとで(mit…bei…)」というあり方の関連を暗示していて、その関連によって存在者は適所性を得る。

例えばハンマーという道具は、ハンマーという道具それ自身に「よって」釘を打つこと「のもとで」世界のうちで適所性を得るのだ。

適所性は存在者についての存在論的な言明であり、それに基づいてそのつど存在者は開示されている。

この適所性は同時に役立つあり方であり利用可能なあり方でもある。

例えば、そのことのゆえにハンマーと呼ばれる、この手もとにある存在者によって手にとって振るうことのもとで適所性がえられ、この振るうことによって釘を打つことのもとで適所性がえられ、この釘を打つことによって風雨を防ぐことのもとで適所性がえられる。風雨を防ぐことは、現存在の宿りのために、つまり現存在のひとつの可能性のために「存在して」いる。*11

どのような適所性がえられるかは、適所全体性(指示連関の全体性)において先立って決められている。

この適所全体性は最終的に、世界内存在として世界性をその存在体制のうちに含んでいる現存在に「なんのゆえに」という形でたどり着く*12

道具存在は現存在の存在に関わっているが、現存在においては自分の存在すなわち実存が問題なのである。

この構造についてはさておき、まずは「適所をえさせること」を詳しく解明していく。

適所をえさせるとは、存在的には、或る手もとにあるものを、事実的な配慮的気づかいの内部でそれがいまや存在しているとおりに、またそのことによってそのように存在しているとおりに(wie es nunmehr ist und damit es so ist)、これこれのように存在させることにほかならない(sein lassen)。*13

この「存在させること」は今まで存在していなかったものを製作して新たに存在させることではなく、すでに存在しているものを発見することだ。

これは「ア・プリオリ」に適所をえさせることでそれは現存在が道具に出会うことを可能にする条件であり、その中で現存在は「存在的に」道具の置き場所を変えたりして適所をえさせることができる。

ア・プリオリにすでに道具を適所に配置していることは現存在の存在を特徴付けている。

適所をえさせることを存在論的に捉えると、「なにのもとで」の用途の側からその物自体の存在(「なにによって」)が開示されることである。

道具の適所性は適所全体性が先立って発見されていることの中で発見されるが、この適所全体性は世界への関連を内蔵している。

存在者を適所全体性のうちで開示することのうちでは、「覆いをとって発見されているありかた(Endeckenheit)*14」を取らず、道具が出会われることの前提となる世界があらかじめ開示されている。

このことは先だった存在了解を有している現存在が世界内存在であることから、現存在がすでに関わっている世界を理解していることを意味している。

適所性の全体(世界)は現存在に先立って了解されているが、それによって現存在は「そのゆえに」存在している自身の存在可能性から或るものに「〜のために」という形で指し向けられている。

つまり現存在は最終的に自分へと立ち返ってくる指示連関の「なにのゆえに」から一定の適所性を目指して自分を指示している。

そして現存在は自分を指示することを「そのうちで」行っている世界を先立って理解しているが、その世界が現存在が存在者と出会うことを可能にしている。

そこで、現存在が自分を指示することの連関は存在論的にはどのようなものなのだろうか。

まず指示作用の関連が持っている「関連させる作用」を「有意義的に指示する作用(bedeuten)」と捉える。

このような関連と親しむ中で現存在は自分を有意義的に指示している。

道具に最終的に指示された現存在が何かしらの適所性を得ていく関連は、有意義的に指示されたものであるのでその関連を有意義性と名付ける。

この関連性は入れ子状の構造になっていて、そして世界の構造を形作っている。

現存在は、自分がこの有意義性と親しんでいることで、存在者が覆いをとって発見されることに対して、それを可能にする存在的な条件であって、その場合存在者は、適所性(手もとにあるありかた)という存在の仕方をともなって、何らかの世界のうちで出会われ、かくて自らの自体的なありかたにおいて、自分を告知することができるのだ。*15

現存在は存在していることにおいて既にこの連関を了解して自分を世界へと「割り当てて」しまっていて、このことも現存在の本質である。

この有意義性は「意義」を理解するための存在論的な条件や、適所全体性を発見するための条件でもある。

さて、このように適所性や世界性を有意義性によって捉えると、存在者の実体が関係の体系に還元されたり、関係が思考によって捉えられるものであることから「純粋な思考」に還元されてりしてしまうのではないだろうか。

存在についての研究の中では存在論的な問題系の様々な構造、次元をきっちり区別しておかなければならない。

  1. 世界内部的な存在者(手もとにある道具)の存在
  2. 操作を控えることで現れてくる「目の前のあるもの」の存在
  3. 世界内部的な存在者を発見する条件の存在(世界性)

初めの二つは存在者のカテゴリー、最後の一つは実存カテゴリーだ。

有意義性を形式的に捉えると、存在者の内実が失われてしまう。

有意義性における関係は思考によって生み出されたものではなく、配慮的な気づかいが既にその中にあるもので、世界の世界性に基づく存在者の自体的なあり方において発見される。

その関係が数学的に捉えられるのは、そのような存在者が目の前にあるあり方を取っている時のみであり、そのあり方は常に手もとにあるあり方に基づいている。

さて、世界性をさらに分析していく前にデカルト的な極端な世界性の解釈を取り上げるべきだろう


感想

この部分で最も興味深かったのは道具としての存在者と「配慮的な気づかい」としての私たち現存在の関わりについての考察だった。

現存在を「平均的日常性」から捉えて「配慮的な気づかい」だとするという考え方は(私が知らなかっただけだが)革新的だと思う。

配慮的気づかいとして現存在があるというのは、私たちは常に「何か」をするという形でその対象となる「何か」とセットで存在しているということだろう。

主観や客観がどうとか意志と表象がどうとか考える際に確かに「私たちは常に何かをしている」ということを忘れてしまっていた。

確かにその点を見過ごしていては現存在が実際にどうあるのかは解明できないだろうと思う。


また、現存在以外の存在者が何らかの指向性を持った道具として現存在に出会われるというのは納得できる考え方だった。

存在者は感覚の寄せ集めや表象など単なる事物として捉えられがちだが、それだけではダメで世界全体における連関と現存在との関わりの中で捉えられて初めてその存在がわかってくる。

しかし現存在が道具の指示連関の最終目的であるという点についてはカントを参考にしているということでカントを読んでいない自分にとっては論の進み方がわからなかった。

ただ、道具は例えばドーキンスにおける「延長された表現型効果*16」のように人間の役立つように作られていることは間違いない。

そして自然現象も人間が利用するものとして捉えられる限りでは現存在を指向している。

このようにして世界内存在全てに指向された現存在は、しかし何かをする者としてあるのだからそれ自身指向性を持っている。

だから指向性の全体すなわち世界は円環構造を取っている。


ところで現存在は有意義性の全体を見て取ることである適所性へと差し向けられると書いてあるが、その辺りが具体的にどうなるのかがわからなかった。

そうした連関との親しみの中で現存在は、じぶん自身を「有意義的に指示する」。*17

と書いてあるから現存在は自分のあり方を自分で選んでいくだろうか。

となると現存在はあらかじめ決められた有意義性の連関の中で自身のあり方をすでに決められた存在者ではなく、自由な存在者だということになる。

しかしその自由はどのようにして保証されているのだろうか。

唯物論の観点から見れば私たちの行いは遺伝子やミームによって定められているし、「主体」があり方自由に選び取るということはなさそうに思える。

しかし全てを「目の前にあるもの」として見て存在への問いを見過ごしている唯物論ハイデガー存在論的枠組みにおいて前提から批判されている。

また現存在の分析が主観と客観の二分法を批判している点から、「主体」というものについても今まで通りに考えていてはいけなさそうである。

その辺りを今後の内容から読み取っていければいいなと思う。


第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.3.14.179 p312~313

*2:ただし注解によるとその区別は必ずしも一貫していないらしい。ちゃんとしてほしい。

*3:いわゆる認識論で「認識する私」として捉えられるようなあり方は日常的ではなく、そのような捉え方では現存在の本来的なあり方が解明できないということが言いたいのだろう。

*4:ここから対象を「実用品」ではなく「事物」と捉える傾向が生まれたと言いたいのだと思う。

*5:1.1.3A.15.203 p344

*6:

世界内存在は配慮的気づかいとして世界に気を取られているが、認識するためには対象の制作や操作をやめてそれらのもとで立ち止まらなければならない。

ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ただしこのあたりは自分の解釈である。

*7:1.1.3A.16.206 p349 注解によるとカントやフッサールは世界は独立のものではないと考えていたようだ。

*8:erschließenには「推論する」という意味もあるがここではそれは意味されていない。

*9:1.1.3A.17.229 p381

*10:1.1.3A.17.235 p393

*11:1.1.3A.18.238 p401

*12:注解によるとここの主張はカントの「人間は手段ではなく目的である。(『実践理性批判』)」「自然の究極目標は人間である。(『判断力批判』)」という思想を参考にしているようだ。

*13:1.1.3A.18.239 p404

*14:以降現存在以外の存在者のありかたがこう呼ばれる。

*15:1.1.3A.18.246 p416

*16:利己的な遺伝子』13章など 

*17:1.1.18.246 p416

ハイデガー『存在と時間』(一)②


存在と時間』第一分冊について記事の二つ目。

この記事では第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。


本文内容

第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第一章 現存在の予備的分析の課題の呈示

第九節 現存在の分析論の主題

現存在の分析論において課題となるのは私たち自身であり現存在の存在(実存)は私たちのものである。

存在とは、この存在者にとってそのつど自身それが問題となるものである。
(Das Sein ist es, darum es diesem Seienden je selbst geht.)
*1

そこから二つのことが明らかになる。

一つ目は現存在の本質は「存在しなければならないということ」の中にあるということだ。

現存在を実存によって考えるなら、現存在は「目の前にある存在」を意味するexistentiaとは異なっている。

現存在の「本質」はその実存のうちにある。
(Das "Wesen" des Dasein liegt in seiner Existenz.)
*2

ゆえに現存在の性格を決定するのは目の前に現れてくる現存在以外の存在者が持つような性格(カテゴリー)ではなく、現存在がそのように存在することが可能であるような様式でありその様式はそれぞれが「存在」なのである。

二つ目は現存在の存在において問題となっている「存在(実存)」は私のものであるということだ。

他ならぬ「私が」実存していることから、現存在は他の存在者と同列に扱うことができない。

また現存在のあり方は何らかの仕方ですでに決定されていて、現存在は自らの可能性である存在に常に関わっている*3

ゆえに現存在は自らの実存すなわち可能性において自分自身のあり方を獲得したりしなかったりできる*4

仮に現存在が非本来的なあり方で存在していたとしても、そのあり方は本来的なあり方より劣っていることを意味しない。

以上の二点から現存在は世界の内部にある単なる対象として捉えられるものではないということがわかる。


実存する体制の形式的な意味として現存在が可能性を持つもの、すなわち存在するものとして自らを理解していることが明らかにされたが、現存在の存在論的な解釈についてはその実存的なあり方に基づいてなされなければならない。

そしてまた現存在のあり方は特定の存在様式からではなく日常的なあり方から解明されなければならない。

このような現存在のあり方を「平均的なあり方」と名付ける。

この現存在の平均的なあり方や非本来的なあり方の中にも実存的なあり方の重要な構造があり、それは本来的なあり方をしている現存在が有している構造と同じものである。

現存在を分析して得られた存在性格を「実存カテゴリー」と名付ける。

逆に現存在でない存在者の存在性格は単に「カテゴリー」と呼ばれる。

世界の中で出会われた存在者のカテゴリーはロゴスによって可視化される。

この実存カテゴリーとカテゴリー、現存在と他の存在者の関係は存在の問いが解明されていく中で明らかになっていくだろう。

実存論的な分析論は心理学や人間学、生物学に先立っているが、それらと実存論がどう違うのかを明らかにすることで実存論的存在論のテーマがより鮮明に見えてくる。

第十節 人間学、心理学および生物学に対して、現存在の分析論を境界づけること

デカルトは「cogito sum(私は考える、私は存在する)」ということにすべてを基礎付ける際に「思考すること」については探求していたが、「存在すること」については無視している。

そしてここから出発した自我や主観といった概念は現存在のあり方を捉えそこなっている。

事物の存在を解明することで「主観、精神、心、人格、意識」といった物質に還元されない存在が何なのかわかってくる。

これらの存在自体は現在まで問われてこなかったので、私たちは現存在を特徴付ける際にこれらの用語を使うべきではない。

生の哲学や人格主義といった人間学は生そのものや現存在の存在そのものを問うていないという欠陥を有している。

このように現存在の存在への問いを立てることを妨げているのはギリシア的、キリスト教神学的な人間学の影響である。

まずギリシャにおける哲学以来の伝統的な人間学では人間は「理性(ロゴス)を持つ動物」と解されているが、動物というのは目の前にある存在として捉われているし、ロゴスという言葉の意味も曖昧なままである。

次に神学においては人間は神の似姿として創造されたものであり、また人間が自身を超えていくとする傾向を持っているという考えもキリスト教神学から来ている。

これら二点から現存在の存在への問いは忘却されてきて、その存在は現存在以外の被造物が目の前に存在していることと同じように自明なものと考えられてきた。

同じ問題が心理学にも当てはまる。

心理学を生物学に還元したところで、存在への問いが欠けているという問題が解消されるわけではない。

生命とは現存在の存在の仕方でありそれは現存在を解明することで初めて把握される。

生命は単なる現存在以外の目の前にある存在者ではないが現存在もまた単なる生命ではない。

以上から人間学、心理学、生物学に存在論的基礎が欠けていることがわかったが、だからと言ってそれら諸学の成果が否定されるわけではない。

だがこの存在論的基礎は経験的な探求から得られるものではなく、経験的探求に常に先立っている。

第十一節 実存論的分析論と未開の現存在の解釈 「自然的世界概念」を獲得することのむずかしさ

現存在を日常性において解釈することは、未開な現存在を解釈することではない。

むしろ現存在の日常性というのは、高度な文化の中で現れてくる。

逆に未開な現存在は現象の中から直接的に語りかけてくることもある。

そのような未開の人々についての考察は民俗学によって行われてきたが、その民俗学も他の諸学問と同じように存在論的な基礎の上に成り立っている。


現存在の分析を始める際に出会う困難は、「自然的世界概念(natürlicher Weltbegriff)」を構築するという課題である。

様々な文化や現存在のあり方といった世界像についての知識はたくさん手に入ったけれども、それらをリストアップすることによって本質が見えてくるわけではない。

世界像を秩序付ける際にその秩序の前提となっている世界一般の概念が必要となり、さらにその世界概念が現存在の構成要素でもあるなら現存在の分析においても解明されなければならない。


第二章 現存在の根本体制としての世界内存在一般

第十二節 内存在そのものに方向付けることにもとづいて、世界内存在をあらかじめ素描すること

現存在が実存し、私たち自身であるということによって規定されていることは「世界内存在(In-der-Welt-sein)」という存在のあり方から理解される必要がある。

この世界内存在という表現は三つの意味を持っている。

一つ目は「世界のうちで(Das "in der Welt")」存在しているということ、二つ目は「世界内存在としてある存在者」、三つ目は「内存在そのもの」である。

これら三つの全ては連関していて、一つを分析する際にも他を意識して現象の全体を解明しなければならない。

さて、「内存在(In-Sein)」は何かの中に存在することではない。

この一般的な意味で何かの中に存在するということは空間的なそられの位置関係のことを指していて、そのような仕方で存在する存在者は現存在以外の「目の前にある」存在者のカテゴリーでしかないのである。

これに対して内存在というのは現存在の実存カテゴリーである。

それゆえに内存在という言葉が指しているのは空間的に世界の中に人間身体があるということではない。

前置詞「in」や「an」の語義から考えて内存在とは何かしらのもとに住まっていること、親しんでいることを意味している。

「世界のもとで存在すること(Das "Sein bei" der Welt)*5」はこの内存在に基礎付けられる実存カテゴリーである。

これに関しても普通のカテゴリーとどう違っているのか見ておくことが必要となる。

「世界のもとで存在すること」は現存在が空間的に世界と並んで存在しているということを意味していない。

通常のカテゴリーにおいて一緒に存在していることは「ふれている」と表現されることがあるが、それが可能になるのは二つの存在者が出会うこと*6ができる場合のみである。

そして内存在として世界と親しんでいて、世界を発見している現存在だけが他の存在者に出会い、触れることができる。

それは存在者が自らをあらわにするのは世界の側からその存在者にふれるときのみだからだ。

現存在は単に目の前にある存在者として把握されることも可能だが、現存在の実際のあり方は他の存在者のあり方とは存在論的に異なっている。

現存在のそのような実際の有り様を「事実性(Factizität)」と呼ぶ。

この事実性によって意味されるのは自分に固有な世界の中で他の存在者と運命よって結びつけられた世界内存在である。

以上の考察から現存在は空間性を持たないことになるのかというとそうではなく、現存在は固有の「空間的存在」を持っている。

その現存在が空間的に存在することについての解明は世界内存在一般に基づいた「実存論的分析」によって初めて可能となる。

それに相対するものとして、心身二元論では内存在であることは精神的なことで、他方空間性は身体の性質の一つであると主張される。

このとき精神的実体と物質的実体を単に目の前にある存在者として「存在的に」扱ってしまっていて、それらの合成での人間の理解は曖昧なものにとどまっている。


世界内存在と現存在の事実性とは内存在の多様なあり方に含まれている。

そのような内存在のあり方は「配慮的な気づかい(Besorgen)」というあり方を伴っている。

ここでの存在論的な用語としての「配慮的な気づかい」は実存そのものが気づかいとしてあることを意味している。

配慮的な気づかいは世界内存在であるがゆえに世界と関わる現存在の本質なのだ。

「内存在」は現存在が持っていたり持っていなかったりできて、それがあってもなくても同じように存在できるカテゴリーではない*7

現存在が世界と関わったり他の存在者と出会ったりすることができるのは現存在がまず世界内存在であるからなのだ。


これまでの考察では内存在の消極的な特徴づけのみがなされてきたが、消極的な特徴づけによって現象の特有なあり方が告げられているという意味ではそれは積極的なものだ。

世界内存在という現象は現存在の先だった存在了解において最初から見て取られているのだから、必要なのは偽装や誤解を解いていくことである。

そしてまた世界内存在の了解が現存在の存在の構成要素であるのだから、その誤解もまた現存在の存在のし方に含まれている。

それは現存在は自身からではなく世界の内部で出会う他の存在者とその存在の側から自分を理解しているからである。


世界内存在というあり方を認識しようとする際に、私たちは認識そのものを「世界(客観)」と「こころ(主観)」の関係だと認識してしまう。

その時世界を認識することが世界内存在の存在様式となってしまって、世界内存在自身は「存在論的」には認識されないが「存在的」には世界とこころの関係だと了解される。

そして認識された「世界とこころ」という存在者を手掛かりに存在そのものが(誤って)理解されて、それを前提として世界とこころの関係を探求する試みが生まれる。

ここで現存在自体は不適切に解釈されて、主観と客観という枠組みが自明なこととして探求の前提となっている。

しかしこの主観と客観という考え方も存在論的に基礎付けられない限りは、探求を誤った方向に導くかもしれない危険性を持った前提である。

このようにして認識作用が優位に立つことによって認識という存在のあり方を間違って理解させているので、世界の認識そのものを内存在の実存論的なあり方として解明する必要がある。

第十三節 或る基底づけられた様態による、内存在の範例化 世界認識

世界認識という現象そのものは「主観と客観の関係」として外面的で形式的に理解されしまっている。

しかしながら主観と客観の関係は現存在と世界の関係に妥当しない。

認識作用は目の前にあるものとして「外的に」存在しているわけではないから、現存在の「内的な」ものでなければならない。

すると主観はどのようにして自己の内部から外に出て対象を認識するのかという問題が生じる*8

このような問題が提起される際にはそもそもの主観の存在や、認識作用が内的に存在することについての問いが見過ごされている。

ここで人が見過ごしているのは

認識作用とは世界内存在のひとつの存在のしかたである
(Erkennen ist eine Seinsart des In-der-Welt-seins)
*9

ということだ。

認識作用は現存在が「世界のうちですでに存在していること」によって基礎づけられていて、また認識作用はその現存在の存在の本質も構成している。

世界内存在は配慮的気づかいとして世界に気を取られているが、認識するためには対象の制作や操作をやめてそれらのもとで立ち止まらなければならない。*10

そうすると対象の見かけ(形相)において出会いそれを眺めやることができるようになり、対象を認知することができる。

この眺めやることは対象からひとつの「観点」を取り出して、その対象に焦点を当て続けることである。

そしてまた認知することは語ること(ロゴス)というやり方でも行われうるので、その場合認知することは規定することにもなる。

さらにこうやって語られたものは命題として保存されるが、その保存自身も世界内存在の存在様態の一つであるからそれは主観が表象を得るプロセスではない。

認知しその内容を命題として保存することを表象を得るプロセスと考えてしまうと、現実と表象が一致するのかという問題が生じるのである。

何かを認識するとき現存在は内側から外側に出て行くのではなく、そもそも外側(世界の側)の認識対象のもとで存在している。

他方認識する者も世界内存在としての現存在なのであるから、外側に存在している現存在は同時に内側にも存在している。

世界のうちで出会われる存在者同士の連関を認識する際にもそれは当てはまる。

また忘却、錯覚、誤謬は対象との存在関係が失われることではなく、内存在の存在の仕方が変わっただけである。

つまるところ認識作用とは現存在が発見された世界に関わる存在のし方を新たに獲得することである。

ゆえに認識作用について知るためにはそれに先立って世界内存在が何なのか解明しなければならない。


感想

第一篇第一章、第二章で特に興味深かったのが「主観」と「客観」の関係についての批判の部分だった。

単に空間的に世界の中に存在しているのではなく実存カテゴリーとして「世界内存在」であるというのは、現存在が世界そのものの一部として存在することだと思う。

そこで世界の存在と現存在の実存はつながっていて切り分けることができない。

だから主観と客観を厳密な二分法で考えることができないのだ。

世界という外側から映し出される観念を主観という内側からを認識する観念論と、主観すら物質的な世界の一部であるとする唯物論は互いに矛盾していて、結局どちらが正しいとも言い切れない。

そもそもどこからが外側でどこからが内側なのかはっきりした境界線を引くことも難しい。

ハイデガーはこの二つの矛盾を調停するために世界内存在という観点から認識を見ているのだろうと思われる。


デカルトにおける物心二元論は様々に批判されているが、ここでは結局精神と身体を単なる対象として二つ並べて考えるところが批判されている。

最近読んだデネットにおけるデカルト二元論批判は「別々の実体である思惟と延長がどのようにして関わることができるのか?」という点にあった*11

この批判は唯物論の視点からのものなので思惟も延長も世界の中で出会われる存在者として捉えていて、ハイデガーが「あいまいだ」と言っている思惟も延長の二つの合成者としての自己を、そのあいまいさから批判しているものと考えられる。

ハイデガーの批判はさらに根本的な部分から、すなわちそもそも精神とか身体とかいうのが存在しているのはどういうことなのかという視点から行われている。


ところでハイデガー存在論から脳というものがどう捉えれられるのかという点が疑問に思えてきた。

脳は単純に世界の中の存在者として対象となるのか、それとも思考の源泉として現存在の存在体制に関わるのだろうか。

第十三節の議論から世界内存在としての現存在が脳を認識したり関わったりするとき現存在は脳のもとで存在しているということになるから、脳と現存在が同じ存在であるとも言えるのではないかと思う。

まだ全体を読み通せていない段階なので結論は出せないが、唯物論的な「自己」の解明に少し触れた自分にとってはかなり気になるテーマである。


第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)についての記事は以下に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.1.9.125 p223 es geht um+(4格)で「〜⁴が問題となる」

*2:1.1.1.9.127 p225

*3:「現存在の可能な存在様式=存在」だから「可能な様式をまとめた可能性=存在」とも言える。

*4:現存在がカテゴリーによって規定されてしまっているのではなく、存在において自由にあり方を決めていけるということだと思う。

*5:先ほど出てきた「世界のうちで(Das "in der Welt")」とどう違うのだろうか。

*6:おそらく存在そのもののレベルで。

*7:この辺りの記述から、現存在の可能な様態が存在であるという点について現存在の様態はそうであってもなくても同じように存在できる属性(カテゴリー)ではないから「存在」そのもの(実存カテゴリー?)なのだと解釈できる。

*8:要するに観念と対象の一致の問題。

*9:1.1.2.13.171 p300

*10:いわゆる観想的な態度のことだろうか。

*11:re-venant.hatenablog.com

ハイデガー『存在と時間』(一)①


2013年に出た熊野純彦訳の岩波文庫版『存在と時間』を読んでいる。

この記事では序論(第一節〜第八節)の内容とそれについての感想を書いていく。

本書冒頭には熊野純彦による梗概が付いているが、読んでもさっぱりわからなかったので自分の理解できる範囲でそれよりも詳しく書こうと思う。

なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

序論 存在の意味への問いの呈示

第一章 存在の問いの必然性と構造、ならびにその優位

第一節 存在への問いを明示的に反復することの必要性

存在への問いは今日では忘却されてしまっている。

その忘却を生み出す先入見が三つある。

一つ目は、存在は最も普遍的な概念であるというものである。

これによって存在の概念は最も明晰で、究明を必要としないものだと考えられているが、実際はもっと曖昧なものである。

二つ目の先入見は存在という概念は定義不可能であるというものだ。

定義が最近類と種差からなされると考えると、確かにそうである。

最近類と種差からなされる定義とは、例えば人間を定義する際に「動物」という最近類と「理性的である」という種差を加えて定義することである。

確かに「存在」に何かしらの存在者を述語付けることはできないが、それは「存在」は存在者ではないということでしかない。*1

ゆえに定義できないからと言って存在の意味への問いが必要なくなるということはない。

三つ目の先入見は存在は自明な概念であるというものである。

確かに日常会話の中で「〜ある」という表現を用いて、それは直ちに理解される。

私たちはそのような存在了解の中で生きているが、同時に存在の意味は暗がりの中である。

このことは存在の意味への問いを反復することの必然性を証明している。

以上三つの先入見を考えることで、存在への問いには答えが見つかっていないことだけでなく「問い」そのものが方向性を見失っていることがわかる。

ゆえにまずは適切に問題を設定しなければならない。

第二節 存在への問いの形式的な構造

何かを問う時、問われる対象が常にある。

そして問うことは「問う者」という存在者の存在様態の一つである。

存在の意味を問う際にその問いは「存在」という対象を前提しているのだから、私たちは存在の意味を問う際に「存在」という対象を先立って知っている。

この「平均的な存在了解」については存在の概念が明確になって初めてその詳しい内容が理解できる。


「存在」はそれを述語付けられる「存在者」とは別のものであるため、存在を理解するためには存在者を理解するのとは別の概念構成が必要になる。

存在者の存在は、それ自身一個の存在者で「ある」のではない。
(Das Sein des Seienden "ist" nicht selbst ein Seiendes.)
*2

「存在」は存在者が存在していることを意味していて、それゆえに存在への問いで問いかけられているのは存在者である。

そうすると、まずどのような存在者に対して存在への問いを行うべきなのだろうか。


存在への問いを問うこと自体が私たち存在者の存在様態の一つなのだから、存在への問いの構造を明確にすることはその「問う存在者」を存在の側から明らかにすることだ。

ゆえに存在の意味への問いは「存在」そのものによって規定されている。

この問うという存在様態が可能である存在者を「現存在(Dasein)」と呼ぶ。

ところで、存在によって規定されている存在者に基づいて存在を探求するこのような試みは循環に陥っているのではないだろうか。

存在者(現存在)が存在によって規定される際に存在について明瞭に知っている必要はないので、ここに命題の証明におけるような循環はない。

そして先立った存在了解が現存在の本質的なあり方に属していることは存在の問いの最も固有で注目すべき点である。

ゆえに存在の問いでまず問われるべき存在者とはこの現存在に他ならない。

第三節 存在の問いの存在論的優位

存在の問いは何の役に立つのだろうか。

存在するもの全ては歴史、自然、言語など様々な事象領域に区分されていて、それらを対象とするそれぞれの学問がある。

その区分は最初大まかで素朴になされているが、学問の進歩とはその学問の対象でとなっている事象領域の根本体制への問いのうちにある。

現在、様々な学問領域の中でその根本を基礎付け直そうという動きが出てきている。

数学、物理学、生物学、歴史学的な精神科学、神学がその例だ。

事象領域を区分していく規則である根本概念が基礎付けられるのは、事象領域そのものが研究され尽くした場合のみである。

それぞれの事象領域は存在するもの全てからカテゴリー分けされてきたものなのだから、そのような研究とは存在者を存在の根本体制に基づいて解釈することである。


プラトンアリストテレスの探求が示しているように、存在の問いは諸学問に先行し得る。

存在論*3」的に問うことは諸学より根本的ではあるが、それが存在一般への見通しを書いているならなお素朴なものでしかない。

なぜならその「存在論」の系譜学的な課題がすでに現存在が持っている先立った平均的存在了解を前提としているからだ。

存在の問いは諸学を基礎付けるアプリオリな条件を探求しているだけではなく、存在論そのものを成り立たせる条件を探求しているのである。

すべての存在論は、どれほど豊かで確立されたカテゴリー体系を取り扱うことができたとしても、まず存在の意味を十分に明瞭にせず、その明瞭化をじぶんの基礎的課題として把握しないままであるなら、根底において方向を見失っており、自分に固有な意図を転倒したままであり続けるのだ。*4

第四節 存在の問いの存在的優位

学問一般は真な命題の連関の全体と捉えれれているがそれは正しくなく、人間の存在の仕方を含んでいる。

現存在は自分の存在においてその存在自体が問題となり、そのことで存在論的に存在していいるため他の存在者からきわだっている。

存在論的に存在していることは存在論を形成することではなく、その存在論的な存在は前存在論的なこととして考えられる。

とはいえ現存在は存在を前もって了解しているという様式で存在しているので、単に存在的に存在しているのではない*5


現存在が常に関わっている自らの存在自体を「実存(Existenz)」と名付ける。

現存在の本質はその都度自らの存在でなければならないということである。

現存在は自分自身を自らの実存から、つまり自分の可能性から理解している。

実存の問いは実存するものによってのみ決着がつけられなくてはならず、この現存在自身による実存の理解が「実存的了解」と呼ばれる。

そして実存の存在論的構造を解明することは、実存を構成するものを解釈的に解明することであり、ここで解明される実存を構成するものの連関を「実存的なありかた」と呼ぶ。

この実存的なありかたの分析は実存論的な理解であり、この現存在についての実存論的分析論は存在を先立って了解しているという現存在の存在体制のうちであらかじめ大まかに告げられている。

実存は現存在を規定しているので、現存在の分析のためには実存的なありかたを究明することが必要である。

そして実存するもの(現存在)の存在体制を解明することで存在一般の解明に至ることができる。


学問は現存在の存在様態の一つでありその中で現存在は他の現存在や存在了解を持っていない存在者に関わっている。

また現存在は本質的に世界の中に存在している。

ゆえに学問の中で接近可能な存在者への理解と世界そのものへの理解は、現存在の存在了解に根ざしている。

このようにして各種の存在論は現存在の存在的な構造に基礎付けられ動機付けられもしている。

この構造は実存による規定の中に内包されているため、すべての基礎的存在論は実存論的分析論の中にあり、その他の存在論はそこから出発しなければならない。

以上から、現存在はその他の存在者に先んじて問いかけられるべきであることを示すいくつかの優位性を持っている。

一つ目は実存によって規定されていること、二つ目はそのあり方によってそれ自身が存在論的であるということ、三つ目は今見たようにすべての存在論を可能にする条件であることである。

また哲学的に存在を問うことそのものが現存在の存在様態の一つとして掴み取られている場合のみ、実存的なありかたを解明し存在論を始めることができる。

この現存在の優位はパルメニデスアリストテレストマス・アクィナスも見て取っていた。

さらに、現存在は存在への問いにおいて問いかけられるものであるだけでなく問われている「存在」に関わる存在者でもある。

ゆえに存在への問いは現存在がすでに持っている前存在論的な存在了解を徹底していくことである。

第二章 存在の問いを仕上げる際の二重の課題 探求の方法とその概略

第五節 存在一般の意味を解釈するための地平を発掘することとしての、現存在の存在論的分析論

存在の問いでまず問いかけられるべき現存在はどのようにして理解することができるのだろうか。

現存在が他の存在者に対して優位にあることは、現存在の存在と存在の仕方が直接把握できるということを意味しない。

私たちがまさにそれである以上現存在は最も身近な存在ではあるが、存在論的には最も遠く隔たっている。

それは現存在が関わっている他の存在者すなわち世界の側から自分の存在を理解しているからである。


現存在の存在体制は存在論的探求に先立ってあるので、一般的な意味での存在論での「カテゴリー論」的な構造としての現存在の存在体制は未だ解明されていない。

現存在に含まれる存在了解は、その時々の存在の仕方に応じて形成されたり崩壊したりするので、様々な学問によって別様に解釈されうるという多様性を生み出している。

それらの学問における探求は実存的には根源的だったかもしれないが、実存論的にそうであったかはわからない。

実存的探求と実存論的探求は一致するとは限らないが、互いを排除することもない。

現存在の根本的な構造が存在そのものへの問いに方向付けられて仕上げられるとき、現存在を様々に解釈してきた諸学問の成果が実存論的に正当化されるだろう。

そしてまた現存在が明らかにされていく方法は、現存在が日常的にそうであるあり方に基づいて存在の本質に即した構造を取り上ることで、現存在自身の側から開示されていくという方法でなければならない*6

そのような現存在の分析論は存在の意味への問いを構築して、存在論の準備をするにとどまる。

また現存在の存在の意味として「時間性」が提示されるが、それもまた存在の意味を探求することの準備をするにとどまる。


現存在は「時間」において存在の様々な変様と派生を漠然と理解しているが、時間が存在を理解するための地平として明らかにされるためには、その時間を現存在自身の存在である時間性から解明する必要がある。

そのようにして解明された時間は通俗的な時間概念*7から区別されるものだが、どちらとも時間性から現れてくるものなので、通俗的な時間概念にも独立な地位が与えられる。

時間は「時間的なもの」と「非時間的なもの」「超時間的(永遠)なもの」をカテゴリー的に切り分ける基準として機能してきた。

このようにして通俗的な時間概念は自明とされている存在論的な概念として扱われていて、改めて探求されることはなかった。

しかし存在の意味への問いにおいては時間を正しく解明し、そこに存在論の問題系が根ざしていることを示さなければならない。

存在への問いにおける「時間的」という言葉は単に「時間の中にある」という意味ではない。

通常の「時間的」という言葉と区別するため時間に基づく存在が持つ根源的な意味に基づくありかたを「有時的に規定されたありかた」と名付ける。

存在は時間からしか捉えられないので、存在の問いへの答えが新しいかどうかは関係がない。

むしろ「古い」答えによって過去の哲学者たちが準備してきた様々な可能性が捉え直されなければならないのである。

そしてその答えは、具体的な存在論の探求における指図であるに過ぎない。

第六節 存在論の歴史の破壊という課題

時間性は現存在の時間的な存在の仕方であり、「生起」という存在体制である「歴史性」を可能にする条件である。

そのような歴史性を持つ現存在の存在様式は過ぎ去ったあり方であり、その存在は未来から生起してくる。

現存在のそれぞれの世代における過去は後に続くのではなく先立っているのだ*8

このように現存在が歴史性によって規定されていることから、私たち現存在が歴史学的なありかたを取って歴史学を行うことが可能となる。

現存在は存在一般の意味を問うことで自己の本質的な歴史性に目覚める。

そして現存在が存在論を成り立たせる条件であったことから、その存在への問い自体が歴史的なものでありかつ歴史学的なものであることがわかる。

このように歴史的な現存在は伝統に頽落して、それが持っている先だった存在了解における固有の問い方を見失ってしまう。

伝統として受け継がれてきたカテゴリーや概念は自明なものとされてしまって、それらの根源的な源泉へ至る道筋を覆い隠してしまうのである。

この時現存在は過ぎ去ったありかたへの積極的な遡行を行うことを可能とする条件を理解しなくなり歴史性を失ってしまう。

ギリシア存在論は中世スコラ哲学を経てヘーゲルに至るまで哲学の概念構成を規定している。

その歴史の経過のうちでデカルトの考える我、主観、自我、理性、精神、人格などの存在圏域が注目されるようになり、その後の問題設定を引っ張ってきた。

そしてこれらの存在圏域の存在そのものについては問われないままになっているのである。

存在の問いを手引きとして、受け継がれてきた存在論的な諸概念を破壊し、伝統によって覆われていた存在の最初の諸規定を発見しなければならない。

その破壊は今日における存在論についての支配的な見方に対して行われて、存在についての根本概念がどこから生まれたのか、それらの限界はどこにあるのかを解明していくことである。

それは存在への問いを構成することの本質に属している。

この破壊において問われるのは過去の哲学者によって存在と時間の現象が共に考えられてきたのかという点である。

カントは図式論において存在と時間の関係への問いから身を引いているが、それはデカルトの立場を無批判に受け入れてしまうことにより主観に先立った存在論的な分析が欠けていたからであり、また通俗的な時間了解をそのまま引き受けてしまっているからだ。

デカルトは「cogito sum(私は考える、私は存在する)」によって全てを基礎づけようとしたが、その存在の仕方に対する問いを持つことができなかった。

これはデカルトが存在者を神による被造物とする中世の存在論を受け継いでしまっているからだ。

そしてまた古代の存在論でも「作り出されること」は存在の契機である。

この古代の存在論を有時性に照らし合わせて分析してみると、存在の了解を時間から獲得していることがわかる。

「οὐσία(ウーシアー)」などの存在を現す表現は「現存していること」を意味していて、存在は「現在」という一つの時間様態から理解されている。

現存在(人間の存在)は語りうることによって規定されていて、語りかけ語り合うことで他の存在者の存在構造を知ることができる*9

そして語ること、思考することは目の前の対象をそのまま受け取ることであり、現在化するという有時的な意味合いを持っている。

ゆえにこのようにして把握されて現在化されるウーシアーという存在者は「現存」するものとして把握されるのである。

このような存在解釈は素朴に時間を存在者の一つとして扱っている。

そしてこのようなものの代表であるアリストテレスの時間論はカントやベルクソンに至るまでの時間の捉え方を規定している。

第七節 探求の現象学的方法

存在論はどのような方法によってなされるべきなのだろうか。

哲学の基礎的な問いである存在への問いの取り扱い方は現象学的なものである。

この現象学という方法は「ことがらそれ自身へ!」という格率を表現している。

「現象」と「学(ロゴス)」という二つの部分からなる現象学という名前の意味を解明するため、以下に「現象」「学」そして合成された「現象学」という言葉について考察していく。

A 現象という概念

現象という述語の語源はギリシア語のファイノメノンであり、それは自分を示すもの、あらわなものを意味している。

ギリシア人はそれを存在者と同一視していた。

それで存在者は時に自分の側から自分自身を示すということがあるが、さらに自分以外に見えるように自分を示すこともありうる。

この他のものであるかのように見える示し方を「仮現する」という。

本書では「現象」という言葉の意味を自身を示すものという意味の方で用いて仮現とは区別する。

この現象は私たちが単に「あらわれ」と呼んでいるものとは異なっている。

例えば風邪をひいて熱が出た時、その熱は熱自身を示しながらも「風邪のあらわれ」として風邪という身体の変調を指標している。

風邪自身は自分を示さないが、熱という兆候(あらわれ)を通じてその存在を告げている。

こうした「あらわれ」は自分を指示しないので現象とも仮象とも異なっていて指標、表示、兆候、象徴と呼ばれる。

しかしこの「あらわれ」が自身を示している(熱が熱自身を示している)と考えたとき、「あらわれ」は自分自身を示すものつまり現象でもある。

ゆえにこの「あらわれ」という概念は多義的で曖昧なものなのだ。

さらに「あらわれ」は何かが兆候を通じて自らをあらわすことという意味も持っている。

そしてまたカントのいう現象という意味での「あらわれ」はその背後にあり私たちには認識しえない「物自体」から生み出されてそれを覆い隠すものという意味も持つ。

「あらわれ」は例えば赤い照明の下で顔が赤く見えるのを熱、そして風邪の兆候と勘違いしてしまうという場合に仮象に転じることもある。

このように諸現象は現象、仮象、「あらわれ」と多義的で混乱を生むので、「現象」は「自分を自分自身に即して示すもの」という意味で一義的に理解されなければならない。

どのような存在者が現象であるかが規定されない場合の現象の概念は形式的なものにとどまっている。

現象学の上での現象概念を見通すためには、この形式的な現象概念とそれが一般的な「あらわれ」という意味で使われる場合の意味を見とおさなければならない。

そしてさらに現象学について知る前に「学(ロゴス)」というのがどんな意味を持っている言葉なのか知らなければならない。

B ロゴスという概念

ロゴスの意味をギリシャ語の語源に即して解釈するとそれは「語り」であり、またそれは「語られて」いるものをあらわにしていくことと同義である。

アリストテレスの分析によれば語りは語られているものの側から見えるようにさせて、それが他者から接近可能なものにしていくということである。

この語ることが具体的に行われるとき、それは声に出すことという性格を有している。

ロゴスには総合という機能が属していて、それはあるものをあるものと一緒にして提示するという意味である。

さらにロゴスは真でも偽でもありうる。

ここでの真であることとは隠されたあり方から隠れていないあり方へと覆いをとって発見することで、偽であることとはあるものを別のものとして語って隠すことである。

だからと言ってまず第一にロゴスにおいて真理が成り立つというわけではない。

ロゴスより根源的に真であるのは「感性」であり物事を感性的に受け取ることである。

感覚には固有の対象があり、例えば見ることは色を目指していてその感覚は常に真である。

そこでありうる間違いはただ受け取らないことだけだ。

ロゴスの機能は対象を感覚によって受け取らせることであるからときに「理性」を意味する。

また語られるものとしてのロゴスは対象の基体(ヒュポケイメノン)としてあるから「根拠」という意味を持つこともある。

そして語られるものとしてのロゴスがあるものとの関係の中で見て取られるものであることもあり、その場合「関係」「比例」を意味する。

C 現象学の予備的概念

以上のように「現象」と「学」の意味を見たことで「現象学」の意味が明らかになった。

それは

じぶんを示すものを、それがじぶんをじぶん自身の側から示す通りに、じぶん自身の側から見えるようにさせること
(Das was sich zeigt, so wie es sich von ihm selbst her zeigt, von ihm selbst her sehen lassen)
*10

である。

そしてそれはすなわちさきに述べた「ことがらそれ自身へ!」と同じことを意味している。

また現象学という名前は論じられることがらをどのように提示するかという点に関する方法論の名前でしかない。

ゆえに存在者を提示するすべての試みが現象学と名付けられるのである。

存在論現象学としてのみ可能である。
(Ontologie ist nur als Phänomenologie möglich.)
*11

この現象学の主題となるのは隠され、覆われている「存在」である。

ここでいう存在(現象)はそれ自身を示しているのでその背後に「物自体」といったものがあるということはない。

しかし現象が覆われていることはありえて、それは発見されていない時、一度発見されたが埋もれている時、そして偽装されている時である。

偽装された存在は学問がそこに基礎づけられることがあり危険である。

また現象学的言明はそれが伝えられる中で変質して、一度明らかにされた存在を再び覆い隠してしまうことがありうる。


存在をつかみ取るためには直感的に見るだけでなくその方法としての現象学の整備が不可欠である。

さて、存在論を行う上でまず第一に探求されるべきなのは現存在であった。

現象学の方法は「解釈」であり、この現存在の現象学における「学(ロゴス)」には「解釈すること」という意味が含まれている。

すなわち現存在の現象学は解釈学なのである。

そしてまた現存在が歴史性を持っているために、解釈学は歴史学的な精神科学における方法論と同じ意味で解釈学である。

存在は類として述語付けられるものではなく、存在者の一切のあり方を超えた超越概念である。

その存在が現存在の個体化の可能性と必然性を担っているから、存在という超越概念の認識は超越論的な認識である*12

哲学とは現象学的な存在論であり、現存在の解釈学はすべての哲学的な問いの出発点であり到達点なのだ。

第八節 論述の構図

以降の論述の方向性を予言しているだけなので省略。

感想

「存在とはなんだろうか。」と問うのは簡単だがそれに答えることがどれほど込み入っているのかがよくわかった。

七割くらいは理解できたと思うが、現存在の時間性や歴史性という部分についてはあまり理解できていないと思う。

岩波文庫版のこの翻訳は注解にドイツ語の表現や場合によっては文そのものが追記されているので、自力で原語に当たってみることもできるし何よりドイツ語の勉強になっていいと思う。

またそれぞれの用語(「存在的」と「存在論的」など)が厳密に訳し分けられていて、読む上での混乱が少ないのもいい。


序盤からアリストテレスなどのカテゴリー論を何の説明もなく使っているその辺りを知らない人にはかなり厳しい気がする。

簡単に書いておくと、アリストテレスの『カテゴリー論』に端を発する考え方で、カテゴリーは実体である主語に述語として付けられる性質などのことを指している。

例えば「ソクラテスは人間である。」という命題においてソクラテスという主語に対して「人間」というカテゴリーが述語付けられている*13

そしてこれらカテゴリーは事物の性質としてそれらを規定している。


「実存」という言葉は様々な人が様々に使うので意味がよくわかっていなかったが、ハイデガーにおいての現存在が存在していることとしての実存という言葉の意味を知れて物事の見通しが良くなった気がする。

また現象学というのも、超越論哲学での物自体(ショーペンハウアーでは「意志」)に対する意味で、認識されたものとしての「現象」についての分析としか理解していなかったのでハイデガーにおける現象学の用法を知れてよかった。

デネットが『解明される意識』の初めの方で現象学には間主観性がないと言って批判していた*14が、ハイデガーの用法での現象学は事物の側から自分を開示していくので主観に縛られていない。

ハイデガーはカントやフッサールから現象学を受け継ぐ中で間主観性の問題に気づいて、それを克服するためにこんなややこしい主張しているとも考えられる。


直前に『解明される意識』を読んでいたこともあって、存在についてであるような形而上学唯物論の関わりについて考えているが、基本的には別レイヤーの問題だと思う。

しかしハイデガーが言っているように存在の問いが諸学の対象カテゴリーを基礎づけていくなら、物理的な対象を扱う学問にしても存在の問いの上に立たざるをえないのではないか。

その辺りの関係性も今後読み進める中で考えていければいいなと思っている。


第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)は以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:例えば「人間」という存在者については「人間は存在する。」という命題が作れて、「存在」を述語につけることができる。しかし「存在は人間である。」などとは言えず、「存在」に存在者を述語付けることはできない。

*2:序.0.1.2.17 p89 存在が存在者に述語付けられないということのほかにも「存在は存在する。」と言って「存在」に「存在」を述語付けてしまうと無限退行が起こるからだとも考えられる。「存在」を述語付けられないということはすなわち「存在者」ではないということになる。

*3:ここでの「存在論」はカテゴリー論のような「何であるのか」という問いに答えて事象領域を区別していく探求のことを指しているのだと思う。それは存在そのものへの探求ではないのでハイデガーが言う「存在への問い」とは区別される。

*4:序.0.1.3.10 p109~110

*5:第三節29-31段落の注解1に「 「存在的 ontisch」と「存在論的 ontologisch」は本書における主要な区別の一つ。前者は「存在者」とその属性、関係等々にかかわり、後者は(存在者の)存在に関係する。」とある。

*6:のちに述べられる現象学存在論を先取りしている。

*7:ベルクソンが空間化された時間と呼んでいるものを意識している。

*8:何のことやらわからない。

*9:第七節Bでのロゴスの分析を先取りしている。

*10:序.0.2.7C.102 p201

*11:序.0.2.7C.106 p205

*12:ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で時間、空間、因果という超越論的な形式を「個体化の原理」と呼んでいるが、そのあたりを踏まえて個体化の源泉となる存在の認識が超越論的だと言っているのだと思う。

*13:参考 Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*14:詳しくは以下の記事に書いた。re-venant.hatenablog.com

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部

re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com


一部読むごとにまとめていくシリーズ三つ目。

第Ⅲ部のタイトルは「意識についての哲学的問題」で、意識の「多元的草稿」モデルを使って様々な哲学的問題への回答が試みられる。

なお本文引用の際は脚注に「章番号.節番号.段落番号 ページ数」を付記した。

本文内容

10. 「見せる」と「告げる」

まず心の中でのイメージの問題が扱われる。

複雑な図形を提示されて次にそれを回転させたものを見せられた時、私たちは自分の中のイメージ上の図形を回転させてそれらが同じ図形であると認識することができる。

これは一見「カルテジアン劇場」の発見であるように思われる。

しかしこれはより複雑な例を考えれば間違いであることがわかる。

立体の正面に開いた四角い穴から立体のある部分に付けられた×印が見えるかどうか、頭の中のイメージを回転させて確かめよと言われると、どうにもできそうにない。

これはイメージが全て「見せる」ことによって認識されているのではなく、諸々の空間的特性を「告げる」ことによっても認識されているからである。

そしてその空間特性はわざわざ「カルテジアン劇場」を見ているホムンクルスのために画像の形に再構成される必要はないし、再構成はあまりにも手間がかかる。

しかしながら、完全ではないにせよ心の中に何らかのイメージを表象する機能があり、それは脳のパターン認識プロセスを内側から刺激して認識をより深めるために存在している。


私たちは交通ルールやプログラミング言語民法などの新しい抽象的構造に出会うと、その構造を自分のコントロールシステムの中に組み込んでしまう。

そのような抽象的構造の中でも最も強力に私たちの心を規定しているのは自然言語の文法構造であろう。

この文法構造は脳の中のデータベースから要求されている知識を引き出す方法を定めている。

ジャスティン・ライバーはこの自然言語が脳のプログラミング言語として私たちの心的生活を形成していると主張するが、自然言語の文法構造は高次のプログラミング言語である仮想機械を構成する「アセンブリー言語」に過ぎない。


次に「カルテジアン劇場」を素朴に信じた結果生まれる「民間心理学」の内容を見て、その問題点を指摘する。

我々は発話行為を行う際、その発話内容を前もって吟味する「内なる私」があると考えるが、実際には発話が生じて思考から行為へ導くプロセスについて何ら知り得るところはない。

おそらくそれは発話がパンデモニアム構造によって行われるからであろう。

しかし、自分の意識状態を述べるときには、その意識状態を内的に了解していなければならないのではないだろうか。

私たちの日常的な考えの前提には「私たちは行為によって自分の信念を表明する」というものがある。

そして誰かに向かって何かを言うことはその信念の報告である。

内的な意識現象を報告する際にそれを了解していなければならないのだとしたら、意識現象について何かを述べるときその意識現象についての信念を表明することになる。

意識と無意識をそれが報告されることが可能か否かという点で分けるとするなら、意識現象はすべて報告されることが可能でなければならない。

すると自分の何らかの意識的な考えを報告する際に生じるそれについての二次的信念が意識的であるためには、またそれについて報告できなければいけないわけだから三次的な信念が発生しなければならず、以下無限退行が生じる。

しかし「民間心理学」では二次的信念は無意識的で構わないとされて、この退行が断ち切られる。


8章で見た発話行為のパンデモニアムモデルでは私たちは「哲学的ゾンビ」と同じように、自分の発話行為に際してそれをどうして言いたいのか認識できない。

この哲学的ゾンビについて自分の内的活動を(無意識的に)反省できるもっと複雑なバージョンを考えることができ、デネットはそれを「ジンボ(Zimbo)*1」と名付ける。

先ほどの民間心理学の帰結に従えばこの反省は人間においても無意識的に起こるわけだから、ジンボがチューリングテストをクリアする可能性は人間と変わらないだろう。

そしてジンボ自身も自分が意識的存在だと了解した上で作業を続けるが、この時仮想機械の「利用者錯覚(ユーザー・イリュージョン)」に囚われることになる。

この利用者錯覚は例えばコンピューターのGUI*2における諸々の視覚的メタファーのように、私たちが意識の働きを仮想機械のメタファーを通して見ることである。

しかし、この利用者と仮想機械の二元的で明白な分離を主張するとカルテジアン劇場に後退してしまう。

この章の最初の節で見たように脳の部分同士で交流する際にある一箇所で全てを「上映」するのは非合理的である。

しかし脳の諸部分同士でフォーマットが異なるためにそれらの間での交流にはインターフェースが必要となってくる。

そのような諸部分間のインターフェース上で利用者錯覚が起こるのである。

ここで利用者そのものが仮想機械の中に取り込まれている。

さて、無意識的反省が意識の要件だとするなら哲学的ゾンビは意識的存在ということになり、哲学的ゾンビの思考実験は失敗する。

なぜならゾンビやコンピューターが発話行為を行う際に、それを生み出すプロセスは無意識的であるにせよ発話内容の反省であるはずだからだ*3

こうなると哲学的ゾンビは意識を持っていて私たちとゾンビに違いはないとしてしまうか、意識を持たない哲学的ゾンビは存在すると主張し続けて民間心理学の方を捨ててしまうかの二択である。


民間心理学では何らかの考えの報告にはその内容についての信念が必要不可欠であると主張されるが、我々が8章で見たパンデモニアムモデルではそのような信念はむしろデーモン同士の競合である発話行為によって初めて作られる。

7章で見たように私たちは自分に向かって話しかけるプロセスを自己モニタリングという厄介な機能の代わりにしたと考えられる。

自分に向かって話すことができないかぎり、自分が何を考えていたのかを知る道はないだろう。*4

ただし、自分に向けての発話はイメージなど言語の形を取らないこともある。

さて、民間心理学での一時的思考と二次的信念の区別を突き詰めていくと、主体的体験、それについての信念、その信念から生まれる思考、それを伝えようという意図、現実の表出行為というようにさらに細かい文節が生まれる。

すると、それらそれぞれの間で間違いが起こる可能性が生じて、意識体験への主観的な馴染み深さ、揺るぎなさを失ってしまう。

以上の点からデネットは民間心理学での信念やメタ信念の区別をやめて、情報産出とその表明行為をフィットさせるプロセス*5に注目すればよいと主張する。

11. 証人保護プログラムの解除

脳の視覚皮質にダメージを受けると、「盲視」という現象が起こることがある。

盲視とは、特定の部位(暗点)が目の盲点のように見えなくなるにもかかわらず、そこで起こった変化に気づくことのできる現象である。

これは無意識的に視覚情報を受容していることによって起こると解釈されている。

さらに盲視患者は自分の発話行為などからフィードバックを受けて、暗点内の視覚についての意識的な戦略を得ることも可能である。

しかしこのような「気づき」からは、通常対象を意識する際にある指向性が欠けているのではないだろうか。


何かを見ていることとその特定の対象に気づくことは異なっている。

例えばピアノの調律師見習いは初めは音同士の干渉による「うなり」を聞けと言われても、何か響きの悪さや調子外れを認識できても「うなり」という言葉に対応するものには気づけない。

しかし訓練を積んでいくとその「うなり」に対して意識的に気づくことができるようになる。

盲視者が暗点内の物を認識する仕方もこの「うなり」の認識と同じで、巧みな質問によってそれについて答えることも可能だが、それ自体としては認識できていない。

そして盲視者も調律師見習いと同じように訓練によって暗点内の対象に意識的に気づくことが可能であるはずだ。

それでも盲視者の視覚に欠けているものがあるのではないかと主張する人がいて、それは「クオリア*6」と呼ばれる。

クオリアは感覚から得られる情報の量が増えれば生まれるものではなく、例えば視覚情報が独自に持つ「質」である。


多くの人はデカルト的二元論の影響から盲点内の対象やノイズの中の人の声、焦点の外のテキストを脳が「補填」してしまうのだと考える。

しかしながらカルテジアン劇場などはないわけだから、いちいち補填する必要もまたない。

例えば人物の顔が連続的に印刷された壁紙を見る際に、見たものをそれと認識できる網膜の中心窩に入る顔が一つか二つしかないにもかかわらず、壁中にその顔が印刷されていることをはっきりと見てとる。

これは脳が見えていない部分を補填するのではなく、脳がその他の部分に「同じ顔が続いている」というレッテルを張ることによって起こる。

脳はそのレッテルに矛盾した情報が入ってこない限りそのレッテルで認識を満足させてしまうのである。

二元論からは脳が時間的空隙をも補填して「意識は連続的である」という主張が生み出されるが、実際には意識は不連続的でそれに気づかないだけである。


しかし、このレッテルによって私たちに見えるようになったものは脳の中になくても「心」の中にあって、またしても二元論に戻ってしまうのではないか、という疑問が生まれる。

これについての反論としてデネットは眼球の動き(サッカード)についての実験を挙げる。

パソコンでテキストを読んでいる時に中心窩には入ってきて正確に認識できる単語はせいぜい2、3個であり、中心窩に入らずぼんやりとしか見えていない単語を入れ替えてもテキストを読んでいる人は気付かない。

ゆえにレッテルによって補完されている部分について、補完内容の詳しい知識を得ることは不可能で、それは経験を左右し得るという意味においては心の中にはない。

12. 資格を失うクオリア

色彩はどこにあるのだろうか。

物理学の世界では波長によって色彩が説明されるが、では私たちが見る「赤色」は実際にはどこにもなくて、ただそれが「赤色」であるという私たちの判断だけがあることになる。

しかし私たちは二つの対象の色を比較するときなどに心の中に実際に「赤色」が現れてくるように感じられる。

ゆえに哲学者たちは「赤色」を自らの心のなかに「クオリア」として存在しているのだと主張してきた。

だが、このような色の比較の際に行われるのは色を認識する機械と質的には同じプロセスであり、クオリアが存在するように思われるだけだとデネットは主張する。


私たちの色彩感覚は自然環境と同時並行で進化してきたものである。

リンゴの実が赤いのは、熟したリンゴを食べてその種を運ぶ者がそれを見分けやすいように進化したからであり、逆にリンゴを食べる者の色彩感覚も赤いリンゴを見分けられるように進化してきた。

その他の生存に直接関係しない色彩感覚はそのような進化によって得られた感覚の副産物に過ぎない。

では空はどうして青いのだろう。それは、リンゴが赤くてブドウが紫色だからであり、その逆ではない。*7

色彩はある特定のクラスの観察者と結びついて相対的に存在していて、その観察者がいなければ意味をなさない。

結局のところ、私たちが「赤色」だと判断するということは何かが私たちが「赤色」だと呼ぶ特性を持っていると判断することであり、その特性とは私たちが「赤色」だと判断する特性のことでしかない。


色彩だけでなく香りや味も進化の過程の中で生まれた感覚システムである。

それら感覚システムは自分の利益になるものを好み不利益になるものを嫌悪するように進化してきた。

さらにこれらのシステムは多数のミームから形成されたより複雑な組織の中に取り込まれていき、生物的に嫌悪するものをあえて好むという新たな性向を生み出すことも可能になる。

クオリアをこのような好悪の原因だと主張しても、クオリアがなぜ好悪の感情を引き起こすのかという点についての説明にはならない。

むしろ人が享受する質感を伴った体験は、進化の中で身につけた性向と学習された性向の総体から得られるものでしかない。

時代や場所の隔たった人の体験を再現しようとするなら、その人が持っている性向をリストアップしてそれらを自分の中に再現すれば事足りるのである。

しかし、クオリアを信じる人々はそのような性向の総体では説明できない残余があり、それがクオリアだと主張する。

するとこのクオリアは私たちの振る舞いについて何らの働きもしないことになる。

そして彼らはクオリアは私たちの性向や反応を全く変えないままに別のものに入れ替わることができるし、その逆も可能なのだと主張する。


この説を支持する証拠としてクオリア論者は外科的手術によって脳の配線が繋ぎ変えられて、クオリアが入れ替わってもそれに対する反応は元のクオリアに対するものと変わらない場合という思考実験を持ち出す。

これはクオリアが上映されてそれを見たホムンクルスによって反応が引き起こされるという直列的なプロセスを前提としていて、明らかにカルテジアン劇場が思考の前提として残っている。

別バージョンとして反応が外科的手術によって入れ替わるのではなく単に適応によって入れ替わる場合も論拠として提出される。

その場合でも多元的草稿モデルに基づけばクオリアが入れ替わったのか、それともクオリアが生み出す反応の方が入れ替わったのかを明確に区別することはできない。

さらに現時点で得ているクオリアが過去に得たものと同じであると内在的に知る方法はない。

ゆえにクオリア「だけが」入れ替わったと明確に分かる場合など存在しないのである。


フランク・ジャクソンが提出している思考実験に、「メアリーの部屋(Mary's Room)*8」というものがある。

生まれてからずっと白黒の部屋で白黒のモニターを使って外界を探索している神経生理学者のメアリーは、色と実際に経験したことはないが視覚に関する物理的情報の全てを知っている。

このメアリーが初めて外界に出た時、何かを学ぶのだろうか。

物理的情報をすべて持っているのだから、部屋を出た時に真っ青なバナナを見せられてもメアリーはそれが青色だと答えることができる。

ゆえにこの思考実験からはメアリーが部屋を出た時に何かを学ぶことは証明されない。

またジャクソンはこの例から視覚現象は付帯現象的なクオリアを持っているのだと結論づける。

哲学においてある現象Xが付帯現象であることの意味とは、「Xは一つの結果として生じた作用であるが、物理的世界では作用を持たない」ということである。

この付帯現象は経験的に検証できないし何らの経験的意味も持っていない。

また付帯現象的クオリアが二元論的な心的世界において意味を持つとしても、それについての信念も経験的に検証できない心的世界においてのものとなり、その信念を経験的に正当化することができなくなる。

その場合クオリア論者は物理的世界との繋がりを絶たれた世界に引きこもるしかなくなる。

13. 自己の実態

自己というものは実在的なものなのだろうか、それとも抽象的なものなのだろうか。

7章で「理由」が誕生すると同時に自己と世界の境界が誕生するということを見た。

この自己は抽象的な「内側」でしかなく、その境界も曖昧なものである。

リチャード・ドーキンスが言うビーバーのダムやオーストラリア・ニワシドリの閨房などの「延長された表現型効果*9」は自己と世界の境界を外側に押し広げるものだ。

そしてこのような構造物と同じようにして人間は「自己」を作り上げる。

この自己は網の目状の発話と行為を紡ぎ出し、それがあまりに高度なので「自己」にあらゆる命令を発する中心的な主体が存在するように思われたのである。

私たちの自己は蜘蛛が巣を作るように言葉を用いて「物語」を紡ぎ出して環境を形成していく。

そして言葉(ミーム)たちは私たちの脳の中で仮想機械としての意識を形成していく。

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

私たちのお話は紡ぎ出されるものであるが、概して言えば、私たちがお話を紡ぎ出すのではない。私たち人間の意識は、そしてまた私たちの物語的自己性は、私たちのお話の所産ではあっても、私たちのお話の源泉ではないのである。*10


このような自己は厳密に「一人に一つ」備わっていなければならないわけではない。

多重人格障害の人や、「一人」として行動する双子といった例からもこのことがわかる。

そして11章で見たように意識というものは非連続的であるから、自己の時間的な同一性もはっきりしない。

結局のところ異なった自己であるということはそれらが異なった物語を生み出すということである。

二つの自己を持つように考えられてきた分離脳の患者についても、左脳と右脳がそれぞれに一時独自の物語を紡いで物語的重力の中心を生み出すことがあっても、リソースの不足からそれは少しの間しか持たないためしっかりとした二つ自己を持つことはない。


すべての行為主体は自己を認識する必要がある。

私たちは自分の体の動きなどの外的な指標を確認して外的な状態を確認するだけでなく、内的な状態も認識しなければならない。

この内的状態の確認のためには自分の心的状態を色々に変化させてそれを追跡するのが手っ取り早い。

そのために私たちは自分というものを定義していく様々な物語を作り、自らそれを点検する。

自己が物語的重力の中心であるなら自己は単なるフィクションの登場人物と同じ存在でしかない。

すると行為の主体であり責任者としての自己はどうなるのだろうか。

確かにその点は問題になるが魂という矛盾を抱えたもので説明を試みるよりは、自己についての自然主義的な理解の上で新たにそれについて考える方が良い。

そして物語的重力の中心としての自己は、物語が存在する限り存在し続けるし物語が伝播し続ける限りで伝播していく。

14. 想像された意識

もし自己が物語的重力の中心でしかなく意識現象が仮想機械の働きでしかないとするなら、ロボットに正しいプログラムを入れればそれは意識と自己を持つということになる。

「意識を持つロボットを想像することは難しい」とよく言われるが、本当は「ロボットがいかにして意識を持つようになるのか想像することが難しい」だけだ。

この難しさは神経回路でしかない人間の脳がいかにして意識を持つようになるのかを想像することの難しさと同じである。

本書では脳から意識が生まれるプロセスの現象学的でも機械的でもない説明が試みられたが、そのプロセスを思い描くことは不可能だとする哲学者もいる。

そのような哲学者にジョン・サールがいて、「中国語部屋(Chinese Room)*11」という思考実験が有名である。

ある部屋に閉じ込められた中国語を全く理解していない人が、チューリングテストにパスするくらい自然に中国語を用いて受け答えをするプログラムに基づいて部屋の外の人とやりとりをする。

その時中国語部屋の中にいる人は本当の意味で中国語を理解しているのだろうか。

ここからサールは正しい入力に正しい出力が返されるからといってそこに心があるわけではないと結論する。

しかし、自然な会話を行うプロセスはサールが思い描いたものよりずっと複雑である。

心身二元論から言えばどれほど複雑なシステムからも心は生み出されないため中国語部屋の中に心はないが、唯物論の観点からは脳も中国語部屋も同じように複雑なプロセスの積み重ねから心を生み出す。

中にいる人を含めた中国語部屋のシステム自体が物語を紡ぎ出して「物語的重力の中心」としての自己を生み出すのだから、この場合中にいる人ではなくシステムそのものという新たな自己が理解を生み出すのである。


トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか?(What is it like to be a bat?)*12」という思考実験は意識に関する最も有名な実験である。

ネーゲルはそれを想像することは不可能だと結論付けていて、多くの科学者や哲学者もその結論を受け入れている。

しかし12章で見たようにクオリアは存在しないし、別の主体の体験を自分のうちに生じさせるためにはそれが持っている性向や記憶をリストアップしてそれを再現すればいいのである。

これはコウモリの体験について考える時にも当てはまり、コウモリの認識についての三人称的な知識を集めて、コウモリが(非言語的に)紡ぐヘテロ現象学的テキストと照らし合わせればコウモリであるとはどのようなことか知ることができる。

ただ、言語というものが私たちの意識を構成するのに重大な役割を持っている以上、言語を持たない動物の意識は私たちのものと大きく違っているはずだ。

ここで気をつけなければならないのは、意識というのは「有るか無いか」できっぱり二つのカテゴリーに分かれるものでは無いということである。

しかし、このようにして唯物論的に意識を解き明かしてしまうことを恐れる人は、動物を玩具のように扱ったりロボットを人間扱いしたりするといった事態が起こって私たちの道徳的感覚が失われてしまうのではないかと危惧している。


ベンサムなどによって、道徳的に尊重されるべき動物は「苦しむ能力」持つものであるという主張がなされている。

その苦しむ能力とは自分の心的状態を高度な識別力を備えたものとして体験する機能の一部であり、そこに意識があるかどうかは問題にならない。

そしてまた、苦しみから逃れる手段を持たない者は苦しむ能力を進化させることもない。

こうして苦しみの存在について客観的にわかったとしても、意識が機械論的に説明されてしまうことへの道徳的感情がなくなるわけではない。

死体をないがしろにすることは強い反発を起こすが、それは死体にまだ魂が宿っているという神話的理由からではなく物語的重力の中心を生み出している我々の信念の環境を保存するためである。

信念はミームとして文化の中に行き渡って、それが重要であるべきかに関わらず重要であったりそうでなかったりする。

なら魂などの神話に基づく道徳の信念の環境が脅かされるからといって、その環境の根本を破壊する理論の提出を差し控えるべきなのだろうか。

デネットの答えは否である。

例えば死刑や堕胎や肉食や動物実験などの問題をめぐる〈両刃の剣〉でもあるような道徳的議論は、私たちがどのみち護りきることのできないような神話をきっぱりと捨てたとき、もっと適切でもっと高い水準にまで高められるのである。*13

感想

本書の主張を要約すると以下のようになる。

カルテジアン劇場は無く、意識は相互に編集し続ける「多元的草稿」で、遺伝子とミームが作るノイマン型の仮想機械としてユーザーインターフェースを持っている。

そして我々は皆ゾンビであり、クオリアは無く、〈私〉はその「私」という言葉とそれにまつわる物語が作る「物語的重力の中心」である。


「物語的重力の中心」として自己を生み出されてくるという主張を読んで、伊藤計劃円城塔の『屍者の帝国*14』で魂を持たない屍者である「フライデー」が意識を持つようになるくだりを思い出した。

ぼくの中に蓄えられた「ウィクターの手記」。今語るのはその手記だ。いや、それこそがぼくであるのかも知れない。あるいはこれはぼくが書き連ねてきた数多の文字を拾い集めて並べ直した文章だ。ぼくがこれまで不器用になんとか試みようとしてきたように。*15

フライデーが記録したワトソンについての物語に登場する、〈この私、フライデー〉といった文章/物語の重力の中心としてフライデーの自己が生まれたと考えられる。

円城塔は度々「物語」が〈私〉を生み出すというモチーフで小説を書いているが、これもやはり『エピローグ』でのストーリーラインの構造と多元的草稿と同じくデネットの主張を参考にしているのではないだろうか。


さて、唯物論の問題はそこから「生きる意味」であったり「我々は何をすべきなのか」という当為の問題にどう答えていくかということだ。

本書では14章でその点について触れられているが、具体的な答えは書かれていない。

私個人としての現在の問題意識もそこにあって卒業論文でその辺りを書きたいと思っている(書けるかどうかわからないが)。

人間という存在の全てを遺伝子とミームが決定してしまうなら人生はあまりに自動的で、そこに積極的な意志を持って生きる意味があるようには思えない。

しかし唯物論的な世界に生の意味が無いという考え自体が間違っている可能性もあるし、人間の意志そのものが唯物論的に説明されてしまうなら「意志を持つこと」についての自由もまた無いのかもしれない。

なんにせよこの本を読んで人間の意識の唯物論的分析について様々に学べたので良かったと思う。

*1:Zombi→Zimbo

*2:グラフィカルユーザインタフェース - Wikipedia

*3:哲学的ゾンビは「無意識的に」受け答えをするが、受け答えが成立するためには聞かれた内容について何かを答えるプロセスが必要で、そのプロセスには聞かれた内容と答える内容が反省的に組み込まれていなければならない、ということだと思う。

*4:10.5.5 p376

*5:よくわからなかったがおそらくパンデモニアムモデルのことだと思う。

*6:Qualia (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*7:12.2.9 p448

*8:Knowledge argument - Wikipedia この思考実験についてのデネットの反応も掲載されている。

*9:リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』第13章「遺伝子の長い腕」や『延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子』(未読)などに登場する概念。生存機械が遺伝子の生存のために外界に及ぼす作用も遺伝子の表現型効果に含めるという主張で、例えば人間が作った服などが延長された表現型効果と呼ばれる。

*10:13.1.17 p495

*11:The Chinese Room Argument (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*12:What Is It Like to Be a Bat? - Wikipedia こちらにもデネットの反論が少し掲載されている。

*13:14.3.15 p540

*14:

*15:伊藤計劃, 円城塔屍者の帝国』p457

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅱ部

re-venant.hatenablog.com



一部読むごとに内容をまとめていくシリーズ二つ目。

第Ⅱ部のタイトルは「心についての一つの経験的理論」である。

なお本文引用の際は脚注に「章番号.節番号.段落番号 ページ数」を付記した。


本文内容

5. 多元的草稿 対 カルテジアン劇場

デカルト松果体において精神と肉体が結びついていると考えたが、その考え方の名残は現在も残っている。

カルテジアン劇場」とは様々な感覚刺激によって引き起こされた信号が脳内の一点に集約されて、そこで考えるもの(res cogitance)に対して劇場のようにして上映されているのだという考え方である。

これに反論するためにデネットはある実験を持ち出す。

暗い部屋で視野内の少し離れたところに置かれた赤い玉と緑の玉に、赤い玉、緑の玉という順に交互に光をあてると、被験者には赤い玉が緑の玉の方に動いてその途中で色が赤から緑に変わるように見える。

カルテジアン劇場」を前提として考えると、記憶の改竄や意識に上る以前の感覚内容の改竄によってこの事象を説明しなければならない。

なぜなら知覚から生まれた信号が一点に集約されると考えると、まだ緑の玉を見てもいない途中の段階で(見かけ上)動く玉の色が赤かから緑に変わることが説明できないからだ。

意識に上った後の記憶の改竄や意識に上る以前の感覚内容の改竄という説明はどちらが正しいか決定できないため、デネットは新たに「多元的草稿」というモデルを提唱する。

多元的草稿とは、意識は統一された一つの因果的な流れ(最終稿)ではなく、様々な草稿としての流れであり、それらの流れは常に改訂、編集され続けているのだという考え方である。

これによると意識にのぼってくるものは客観的な時系列に従っているのではなく、主観的に編集された時系列に従う。

緑の玉を見て、次に見る玉の色が緑だということを知るのが玉の色が変化する時点より客観的には後でも、それを認識する意識の草稿が編集されて主観的には先に緑という色を知っていることができる。

それは緑の色を知った意識の流れ(草稿)が、玉の運動を錯覚する意識の流れ(また別の草稿)に働きかけて、それを編集してしまうことによる。


6. 時間と体験

この章では前章で提出された「多元的草稿」モデルによって、心理学、神経学上の幾つかの問題の説明が試みられる。

まず挙がるのが「メタコントラスト」と呼ばれる現象である。

これは例えば色つきの円盤を見せられてすぐ後にそれに代わってその円盤をぴったりと囲むような色つきの輪が見せられると、被験者は二番目に見せられたものだけがあったと報告する、という現象である。

最初の円盤は意識されなかったのだろうか、それとも意識はされたが記憶が消去されたのだろうか。

「多元的草稿」では、最初の刺激と二番目の刺激についての意識はそもそも別々の草稿であり、第一の草稿は被験者が現象を報告する際にはすでに第二の刺激によって改訂されて残らないのだと説明される。


次に「ピョンピョンうさぎ現象(cutaneous rabbit illusion)」と呼ばれる現象について考察される。

これは手首の部分を数回叩いた後に前腕部をまた数回、次に上腕部を数回というように叩いていくと、被験者は刺激が同じ間隔で規則的に駆け上がってきたと感じる現象である。

「多元的草稿」では、脳はそれぞれの刺激の空間的位置をしっかり把握しているのだが、手首に対する刺激の後に来る前腕、上腕への刺激によってそれぞれの刺激が等間隔に並んでいると単純化して解釈するのだ、と考えられる。

そしてその解釈によって最初に把握された正しい解釈が改訂されて、消えてしまうのである。


次に出来事の時系列というものがどのようにして把握されるのかという問題が扱われる。

神経パルスが脳に到達するには幾らかの時間が必要であるから、足に対する刺激と顔に対する刺激が同時に起こったとしてもそれが同時に脳にたどり着くわけではない。

ここで時間を表象する媒体(神経パルス)と内容(実際に出来事が起こった時間)の区別が重要となってくる。

なぜなら表象媒体が到着した順に出来事を並べると現実の出来事の順番と間に相違が出てくるからだ。

しかし、「多元的草稿」では「カルテジアン劇場」と違って出来事が時系列順に並べられて「上映」される必要はなく、例えば映画の映像とサウンドトラックを同期するように、表象内容の上で一致するようにそれぞれの草稿で捉えられた時系列を同期すればいい。

7.意識の進化

私たちの意識は三つの段階を経て進化してきた。

  1. 遺伝子の自然淘汰による神経回路の進化
  2. 可塑性を持った脳が自己を作り変えることによる進化
  3. ミームによる進化

というのがそれである。

まず遺伝子の自然淘汰による神経回路の進化について、自己複製子*1が自己をコピーする中で自己と世界の境界を定めると、「理由」が生じる。

自己複製子は、自分の複製のために利益となるものを求め、不利益となるものを避ける。そしてそれらを認識する必要がある。

しかし、この認識には免疫機構などを見ればわかるように中央司令室のようなものは必要なく、単純な作業によってなすことが可能である。

認識によっては既に得られたものが善いか悪いか判別することしかできない。

積極的に善いものを求め、悪いものを避ける移動性の生物は常に「私は何をするのか?」という問いを持ち、自分の身体をコントロールしようとする。

そのコントロールのためには神経システムが必要であり、またそのコントロールの鍵となるのは状況の追跡と予想である。

このようにして私たちの脳は情報を集めてそれを自己の生存に有利なように利用しようとする。


脳がある時点で学習などによる可塑性を持つと、それは環境の適応に対して圧倒的な効果を持つ。

そのことを説明する理論に「ボールドウィン効果」というものがある。

例えばある神経回路によって実現される特定のある戦略があり、それを持った個体は生存に対してかなり有利になるとする。

可塑性のない脳を持った生物なら、その戦略を実現する回路に近いものを持って生まれても、生涯それにたどり着くことはない。

しかし、可塑性を持った脳がそれに近い回路を持っていると、回路の組み替えによってその戦略にたどり着くことができる。

より詳しく言えば、その戦略を実現する回路に近ければ近いほど、回路がその戦略を実現するような形に組み変わる可能性が高くなり、生存の確率も高まる。

すると、特定の戦略を実現する回路に近いものも生存に有利な形質として保存され、次の世代では有利な回路やそれに近い回路を持った生物が多くなる。

それに対して神経回路に可塑性の無い生物は特定の回路を持った個体だけが生存に有利で、それに近い回路を持った個体はその他大勢と同じ生存の可能性しか持たないので、次世代においても生存に有利な回路を持った個体はそれほど増えない。

以上のようにして可塑性のある脳を持った生物群は、可塑性のない脳を持った生物群より早いスピードで最適な戦略にたどり着く。

これが進化の2段階目、可塑性を持った脳が自己を作り変えることによる進化である。


最後にミームによる進化であるが、ミームが存在するためには表象することのできる脳同士の間でコミュニケーションすることが必要である。

そのようなコミュニケーションが発達するためには、発話行為によって他者を刺激することで自己によって有益な情報が引き出されなければならない。

それゆえにコミュニケーションが発達する社会ではそれぞれの個体が他者の呼びかけに対して何かしらの有益な応答をするものと考えられる。

その呼びかけと応答は二つの個体の間に限定されず、自分と自分の間になされることも可能である。

自分に対して呼びかけることで応答の機能が発動して、脳の内部でのアクセス関係が成立していない部分から情報を引き出すことができる。

そこから自己刺激の様々な習慣が生み出されたのである。


ミームとは観念や情報の形をとった自己複製子で、文章や絵などの文化的媒体を人が認識することや模倣を通して広がっていく。

さて、遺伝子が一世代伝わるのに数十年かかり何かを学習することに数時間から数年かかるのに対して、ミームは最高で光の速度で伝わっていく。

それゆえにミームの伝播による文化の進化は今あげた三つの進化の段階の中で最も速い。


さらにこのミームはそれが媒体とする脳自身も作り変えていく。

例えば、中国語を母語とする人と英語を母語とする人で脳の機能自体が違っていることが知られている。

しかし、これを意識についての説明として用いる際に神経回路を顕微鏡的な視点から見ていてはミームによって生み出される機能を捉えられない。

そこでデネットはコンピューターソフトウェアとミームが実現する機能の類似性からこれを説明しようとする。

ソフトウェアは回路の配線ではなく、メモリー(記憶)に蓄えられ回路上でその都度実現されるパターンである。

そのようなソフトウェアは仮想機械(ヴァーチャル・マシーン)と呼ばれる。

この仮想機械は先天的に脳に備わったものではなく、文化を通じて後天的に実装された機能である。

脳はコンピューターと違って並列的だが、並列的プロセスによって直列的なノイマン型コンピューターをシュミレートすることは可能である。

アラン・チューリングが自分の思考プロセスを見つめることでチューリングマシーンを生み出したように、実際に私たちの意識プロセスにはチューリングマシーンのような直列的な仮想機械が備わっている。

この直列的プロセスが脳内で実現されるためのプログラムは「習慣」であり、その習慣はミームとして伝わってきたり自分で発見したりして脳に定着する。

脳内の仮想機械のプログラム自体がミームというひとつの自己複製子であるから、意識には当然ミーム自身の複製にのみ寄与して人間の活動に寄与しない部分もある。

しかし、習慣の集合が人間の活動に寄与する部分もあり、この章でデネットは以下のようなものを挙げている。

  • 長期的作業を行うための、自己への勧告や催促の能力
  • 自己のシステムを修正するための監視機能
  • 知識の想起

以上からデネット

人間の意識とは〈それ自体〉が一つの巨大なミーム複合体であって、これは、もともとそういう活動のためにデザインされたわけではない脳の〈パラレル構造〉に〈インプリンメント(実装)〉される、〈フォン・ノイマン型の〉ヴァーチャルマシーンの働きのことだとみなした時に最もよく理解できる。*2

と主張する。

8. 言葉は私たちにどのように働きかけてくるのか?

「多元的草稿」でありミーム複合体として仮想機械である意識はどのようにして発話行為を行うのだろうか。

デネットはこの章で二つのモデルを取り上げる。

一つはピム・レヴェルトが提唱するモデルでデネットは「官僚政治」と呼ぶ。

このモデルでは、発話行為はまず「概念化器」が前言語的メッセージを「定式化器」送り、そこで意識主体が持つ意図が言語として組み上げられて発話に至る。

ここで「概念化器」は「カルテジアン劇場」におけるホムンクルスと相似のすべての意味を司る主体である。

しかし「概念化器」が「定式化器」に前言語的メッセージを送るとすると、それは脳内語による一種の発話行為である。

すると、「概念化器」がいかにして脳内語を発話するのかという問題が生じてしまい、それゆえにこのモデルは無限に退行してしまう。


もう一つのモデルは「百鬼夜行(パンデモニアム)」と呼ばれる。

このモデルでは意味の主体は無く、それぞれの単語やフレーズ(「デーモン」と呼ばれる)が発話されようと競争しながら文法構造に入り込んでいく。

ここでコミュニケーションの意図は「官僚政治」モデルのように一つの主体から発せられるのではなく、これらのデーモンの競合の産物として生まれる。

このデーモン一つ一つがミームであり、それらは発話されることで自己の複製を行うことができる。

このモデルを支持する証拠として、スラングの普及やトミー・マーセルによる盲視症患者に対する実験、失語症の「ジャルゴン失語」が挙がっている。

またこのような競合のモデルは発話行為のみならず意図的行為全般に当てはまる。

9. 心のアーキテクチャ

この章はまずここまでのまとめから入る。

単一で決定的な「意識の流れ」などどこにも存在しないが、それは、意識の流れがその一点に集まって「中心の意味主体」となるような「中心の参謀本部」や「カルテジアン劇場」が、どこにも存在しないからである。

存在するのは、そのような単一の流れではなく、むしろ多元的なチャンネルなのであって、そこでは様々な専門回路が百鬼夜行状態を呈しながら様々な仕事を並列的に試みるうちに、「多元的草稿」が生み出されていく。

「物語」のこうした断片的草稿のほどんどは当座の活動の調整に束の間の役割をはたして消えていくが、中には、脳に潜んだ仮想機械の活動によって、目まぐるしいバトンタッチを通してさらなる機能的役割をはたすよう促されるものもある。

この機械の直列的性格は「ハードウェアに組み込まれた」デザイン特性ではなく、むしろそうした専門家たちの連携プレーの帰結なのである。
(中略)
(専門家たちの活動を取り込む流れを生み出す)このデザインの一部は先天的なもので、他の動物と共通のものであるが、そうした先天的デザインは、個人のかで自己探求の特異的結果として育まれたり、デザイン済みの文化的贈与として育てられたりする思考の微小習性によって、さらにいっそう重要なものになることもあれば、重要性をすっかり奪われてしまうこともある。

主として言葉によって伝えられ、言葉を欠いたイメージやその他のデータ構造などによっても伝えられる、何千という数のミームは、個人の脳を棲み処と定め、脳の傾向を様々な形に作りあげていくことで脳を一つの心に変えていく。*3 [()内は引用者補足]

次に心のアーキテクチャーに迫るために、認知操作のより現実的なモデルとして、ノイマン型コンピューターを発展させた「プロダクション・システム」や「コネクショニズム・システム」が紹介される。

「プロダクション・システム」とは、ノイマン型コンピューターで一度に一つのことしかできなかった作業スペースを黒板のように拡張して、誰にでも読めるように様々なメッセージを書き込めるようにしたものである。

このモデルでは、次に起こることは黒板の上のメッセージの読み取りと書き込みの結果として現れる。

またメモリーに蓄えられたパターン認識の〈プロダクション〉である「もしも - そのとき」という操作の条件文が黒板上のデータに反応して発動する。

このようなプロダクションを実装する様子を示すモデルの一つが「コネクショニズム・システム」である。

これは個々の専門的領域を「ブロック」として結びつけるモデルであるが、それによって意識が生じるのかについてはまだ議論が分かれている。

実際の脳内では作業スペースが確固として領域を持っているわけではなくそれは脳全体によって実現されている。

それゆえに例えば作業スペースを司るものと記憶装置を司るものがネットワーク構造を共有しているのである。

そうすると、個々の専門的領域は、自分の機能的同一性を保ちながらも「何でも屋」としても機能しなければならない。

このような様子を定式化するモデルは未だに発見されていない。


ディヴィッド・マーは心的現象を「計算のレベル」「アルゴリズムのレベル」「物理的レベル」の三つから分析しなければならないと言っている。

そこでデネットは心のアーキテクチャーの分析の最後に「ジョイス流の機械」としての意識を「〈問題〉を一種の情報処理の仕事として」分析する「計算のレベル」での分析を行う。

意識の機能としてまず挙がるのが自己抑制である。

この自己抑制によって集中して外界を探求して、他の動物にはできない仕方で自らを管理することが可能になる。

また、仮定的に考える能力によってこれから起こることをシミュレートすることができる。

そしてシミュレーションによって自分が現状にどうやってたどり着いたかの記憶(エピソード記憶)が発達する。

さらにこの記憶保存の習慣によって、それがなければ意識上の出来事が意味をなさなくなる「全体の脈略(コンテクスト)」を作り出すことが可能になる。

感想

まず「多元的草稿」モデルについてだが、確かに「カルテジアン劇場」を認めて記憶の改竄や意識に上る以前の感覚内容の改竄によって事象を説明するのよりはいいと思うが、「多元的草稿」を採用しなけらばならないという必然性はないように思う。

ただ、進化の考え方から見てわざわざ記憶のや感覚内容を改竄してまで「カルテジアン劇場」を作る必要はないというのは納得できるし、「多元的草稿」の方が合理的だとは考えられる。

少し話が逸れるが、「多元的草稿」について読んで思い浮かんだのが円城塔の小説『エピローグ』だった。

『エピローグ』では「多元的草稿」でのそれぞれの意識の草稿のタイムラインのように物語の筋(作中では「ストーリーライン」)が相互に改訂しながら進行していく。*4

円城塔は理系とはいえ博学なのでこのあたりの議論を踏まえていてもおかしくはないと思う。

「多元的草稿」理論を小説に応用するというのが『エピローグ』の着想の一つだというのは十分に考えられる。

また主観時間を並び替えて記述されてる小説である柴田勝家の『ニルヤの島』*5を以前に読んだが、未来から過去が改変されていて矛盾している点がどうしても納得できないでいた。

しかし主観時間ということは意識の流れであり、「多元的草稿」モデルを採用するなら主観時間上で未来から過去が改変されても問題ない。

このあたりの小説の読書と『解明される意識』の内容がリンクしてかなり楽しかった。


次に意識の進化についてだが、「ボールドウィン効果*6」は知らなかったので面白かった。

ミームについてはリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子*7を読んでいたので前持って了解していたが、デネットの記述を理解するには予備知識がないと厳しそうだと感じた。

ミームが作り出す仮想機械が意識であるという主張は、確かに推論などは直列的なプロセスに従っているし納得はできるが、そこに至る議論に不備があるように思う。

自分の意識現象を見つめて直列的プロセスがあると認識してそれを誰かに説明したとしても、それはデネットの立場から言えば「ヘテロ現象学」的な言明として中立的に受け止められる。

そして、ヘテロ現象学的言明は客観的事実に基づかなくては単にフィクションとしか捉えられないはずだ。

デネットはここでは意識プロセスが直列的であることについて事実的な説明をしていないように見える。

ゆえにどれだけ仮想機械のアナロジーによって意識現象が説明できたとしてもそれは単なる現象学的な説明の域を出ない。

また仮想機械としての意識のインストラクションがミームの形を取った習慣である点はわかったが、CPUなどのノイマン型コンピューター、もしくはプロダクション・システムの他の部位が脳内でどのように実現されているのかがわからなかった。



第Ⅲ部のまとめと感想は以下。
re-venant.hatenablog.com

*1:Self-replicator, Self-replicating machineなど。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』の中で用いた用語で、自分のコピーを作成できる何らかの存在を指す。遺伝子やミームは自己複製子の一種だとされる。

*2:7.6.1 p250

*3:9.1.2 p302, 303

*4:詳しくは以下の記事に書いた。 re-venant.hatenablog.com

*5:

*6:Baldwin effect - Wikipedia

*7:

舞城王太郎『深夜百太郎 入口/出口』



舞城王太郎の新刊は短編を100個積み重ねた百物語。

前作『淵の王』からの流れのままにがっつりホラーだった。

百篇それぞれが物足りなさを感じさせない短篇として完成されたものでとても面白く、そして怖かった。


初期の(メタ)ミステリ(『ディスコ探偵水曜日』『九十九十九』など)から純文学(『好き好き大好き超愛してる』など)に移行してきた舞城だが、『短篇五芒星』や『キミトピア』あたりからだんだんと怪談の要素が入ってきて今回はほぼ全編にわたってホラーである。

ミステリにおける舞城では「謎」は「解かれるもの」もしくは単に物語を進める舞台装置として在ったが、怪談における舞城では「謎」は「解かれるもの」としてではなく純粋に理不尽として人々に襲いかかる。

怪談として書かれた小説群でも純文の時期の舞城から一貫して母と子、妻と夫などの人間関係やその中で生まれる心情に焦点が当たっていて、それら怪談の中では「謎」は今度は物語を進めるためではなく人間の様々な心情を引き出すための装置として存在している。

単純にテーマ性/興味の移り変わりから「謎」の扱いが変わったとも考えられるし、舞城の中で「謎」は解かれるためのものだという考えから「謎」を解くことが本質ではないという考え方に移る契機となる事件があったのかもしれない。

テーマ性の変遷からの作風の変化なのだとしたら、フィクションにおいて人間の心理を描く上で自分が過去描いてきた「謎」をどう使えるかと考えた結果「怪談」というフォーマットが採用されたとも考えられる。


以下は『深夜百太郎』の中で印象的だった短篇それぞれについて書く。

それぞれの結末にも触れるので未読の方は先に本編を読んでほしい。

続きを読む

2016/1/22のNOUS FMで使った曲

今回はいつも通りの感じに加えて最近っぽい各種ハウスを中心に選曲した。


NOUS FM - sprout's dub 94 (Revenant & kina-kmt) - 2016年1月23日放送分 by Nous Fm on Mixcloud





Manila Killa - All That's Left (feat. Joni Fatora)


Future Bass初期から活動しシーンに大きな影響を与えているレーベル"Moving Castle"のメンバーであり、最近ではCandle Weatherとのユニット"Hotel Garuda"としても活躍しているManila Killaの新曲。

本曲はややテンポの遅いGarage/Houseを意識したリズム構成で最近の彼らしいトラックとなった。

ボーカルに迎えたJoni Fatoraの哀切な歌声がManila Killaのトラックによく合っている。

購入はbeatportiTunes Storeから。

https://pro.beatport.com/release/all-thats-left/1677837

All That's Left (feat. Joni Fatora)

All That's Left (feat. Joni Fatora)

  • Manila Killa
  • エレクトロニック
  • ¥255




Diveo - Fever Dreams (feat. Taylor Fernandez)


Ryan Hemsworthの主催する"Secret Songs"やCarpainter等も曲を出している"Activia Benz"からリリースを重ねているマンハッタン在住のDiveoの新曲。

今回はニューヨークに住んでいる19歳のシンガーTaylor Fernandezとコラボしている。

Diveoの過去のトラックより音色の数が控えられR&Bの雰囲気が強く出ているが、ところどころ彼らしいギラギラしたシンセサイザーと激しい展開が織り交ぜられていて面白い。

Diveoのこういった音使いにはUKのハードコアテクノなどの影響があるのではないかと勝手に思っているが、どうなのだろうか。

このトラックは彼のbandcampページ上で販売されている。

diveo.bandcamp.com




Basenji - Can't Get Enough


2015年9月にFuture ClassicからリリースされたオーストラリアのBasenjiによるデビューEP"Trackpad"から一曲セレクト。

この"Can't Get Enough"で使われているホーンの演奏はBrasstracksが担当しているらしく、実質この二人のコラボレーションである。

Basenjiは2014年から同じくオーストラリアのWave RacerなどとともにFuture Bass黎明期のシーンを担っていたが、散発的なリリースしかなく本EPにてデビューということになるようだ。

beatportなどから購入できる。

https://pro.beatport.com/release/trackpad/1615245




in the blue shirt - Secret crush (Quarta330 Remix)


学部は違うが大学の先輩であるin the blue shirtによるMaltine Recordsからのリリース、"Cyanotype"に収録されたQuarta330によるリミックス。

リリースの説明には

京都新世代の神こと「in the blue shirt」によるカットアップ・ポップスの最先端を開拓する渾身のマルチネ初リリースがようやく!!! Soleil SoleilとQuarta330による渋めなリミックスもいい感じですよ。

と書かれており、一緒に鍋を食べたりしたあの人はいつの間にか神になったらしい。

Quarta330によるリミックスは過密ながら滑らかなリズム隊と彼のトラックに特有のベースラインが心地いい。

Maltine Recordsのサイトから無償でダウンロードできる。

[MARU-151] in the blue shirt - Cyanotype




Louis The Child, K.Flay - It's Strange feat. K.Flay (Jailo Remix)


2016/1/15に発売された"Louis The Child - It's Strange FT. K.Flay (Remixes)"に収録されたJailoのリミックス。

オランダのJailoは先ほど紹介したManila Killaと同じくMoving Castleのメンバーである。

こちらのリミックスはFuture Bassの雰囲気がうまくハウスに落とし込まれている。

このリミックス盤にはCRNKN、Melvv、その他様々なアーティストが参加していて20曲という非常に気合の入ったボリュームとなっている。

下のサウンドクラウドのプレイリストには非公式のリミックスも並べられていてさらにボリュームが多いが、InodiやChet Porterのリミックスがオススメなので是非チェックしてほしい。



購入はbeatportなどから。

https://pro.beatport.com/release/its-strange-remixes/1676885




GoldLink - Spectrum (GEOTHEORY Remix)


Louie LasticがプロデュースしているGoldLinkのSpectrumをGEOTHEORYがリミックスしたこちらのトラックも使用した。

GEOTHEORYはハウスを作ってもビートミュージックを作ってもかっこいいのでズルいと思う。

ロサンゼルスの根拠地とするビートシーンのトップレーベル"Soulection"からのリリースもあるLouie Lasticが手がける原曲も非常にいい。



GEOTHEORYによるリミックスは以下のリンク先から無償でダウンロードできる。

www.toneden.io




Loud Luxury - Who's the Boss

https://itunes.apple.com/jp/album/whos-the-boss/id1060002098?i=1060003798&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog


ロンドンを拠点とするテックハウスの名門レーベル"Black Butter Records"から度々リリースされているコンピレーション"Spread Love"シリーズの6枚目"Spread Love Vol. 6"から一曲紹介した。

ソリッドなベースと音の隙間が心地いいテックハウスで、2小節目の4拍目で鳴っているアタック感の強いボイスサンプルはVogue(音楽)の影響だろうか。

コンピレーションに収録された他の曲も地味過ぎず上げ過ぎない良い塩梅のテックハウスなので、このトラックが気に入った人はチェックしてみてほしい。

https://www.wasabeat.jp/tracks/1140001-loud-luxury-who-s-the-boss-originalwww.wasabeat.jp



Malaa - Notorious


Future Houseと呼ばれるムーブメントの創始者であるTchamiが最近スタートさせたレーベル"CONFESSION"から一曲。

このレーベルからは本曲のようにTchamiの影響を受けたディープハウスをよりアグレッシブにしたFuture HouseとかBass House*1とか呼ばれるトラックがリリースされている。

さらに最近ではTchami自身も"After Life EP"をリリースしている。



Malaa - Notoriousは以下のリンク先から無償でダウンロードできる。

www.hive.co




Carpainter - Fancy Night Step (2016 Tech House VIP)


Carpainterが自身のMaltine Recordsからのリリース"Double Rainbow"に収録された"Fancy Night Step"をテックハウスに作り直したトラック。

シンプルなリズムとベースの構成ながら何度聴いても飽きず、彼の職人技がうかがい知れる。

この曲は以下のリンク先から無償でダウンロードできる。

https://www.tunebula.com/carpainter/fancy-night-step-2016-tech-house-vip-free-dl


ところでCarpainterといえばLuckyMe Recordsの毎年の恒例行事で1日一曲ずつ出していく"Advent Calendar"に参加して"Joseph Marinetti - Jumpstyle is Low Art (Carpainter Remix)"をリリースしたことが(個人的に)記憶に新しい。



余談だがこの曲が出た時ちょうどCarpainterや友人とスカイプをしながら一晩中「ワンナイト人狼」に興じていた。

その最中ツイッターをちらっと見たらこのリリースが報じられていて、知っている人間がLuckyMe Recordsからリリースしたことによる驚きと曲自体の素晴らしさからスカイプ越しにすごい勢いで彼を褒めちぎっていたが、まんざらでもない様子だった。

*1:Bass Houseという呼ばれ方はかなり対象が広いのでこの場合はあまり適切ではないかもしれない。