ハイデガー『存在と時間』(二)③


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事三つ目。

この記事では第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com



また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第五章B 〈現〉の日常的存在と、現存在の頽落

第五章Aでの分析は現存在の日常的なあり方から離れてしまっていた。

ここからの分析は現存在の日常性という地平に立って行われることになる。

そこで問われるのは日常的に「ひと(das Man)」というあり方をしている世界内存在の開示性はどのような性格を持っているのかということだ。

「ひと」には固有の情態性や固有の解釈、理解の仕方があるのだろうか。

また現存在は「ひと」の公共性のうちに投げ込まれていて、その公共性が「ひと」の特殊な開示性なのではないだろうか。

理解は現存在の存在可能であるから、「ひと」が行う解釈や理解についての分析で明らかにされるべきなのは現存在が自身のどのような可能性を「ひと」として理解し解釈してそこに投企しているかだろう。

第三十五節 空談

空談は現存在の日常的な理解と解釈に関わる積極的な現象である。

語りによって言表されたものは常に了解と解釈によって捉えられているし、言表されたあり方として「言葉」は目の前にあるものではなく現存在はその言葉において存在しているので、言葉には現存在の解釈されたあり方が内蔵されている。

語りによって共同存在から分節化された現存在は常に語られて存在している以上解釈されたあり方をしていて、それによって理解や情態の可能性が制限され割り当てられている。

そしてまたその割り当てによって現存在は世界を理解することができるようになるのだ。

「言表され、また自分を言表する語り(die ausgesprochene und sich aussprechende Rede)」の実存論的な存在の仕方が解き明かされなければならない。

自分を言表する語りは「伝達(mitteilung)」であり、伝達が目的とするのは語ることによって開示された存在に聞く者を「参与」させることである。

自分を言表する語りにおいて語られる言葉には平均的な了解可能性が含まれていて、だから伝達された語りは広く理解可能なのものとなる。

その場合人は語られた存在者(語りの「なにについて」)を理解するのではなく、語られた言葉をそのまま聞いているだけに過ぎない。

ゆえに語られているものを素通りして「聞くこと」と「理解が」繋がっているのだ。

伝達における前提は現存在たちが共同存在として共に存在していることであり、それは共に語ることや共に気づかうことのうちで作動している。

語られた対象が問題とならないから共同存在にとって重要なのは「語られていること」だけであり、既に何度も語られている格言や宣言が重要なものとみなされる。

そしてまた伝達は真似るという様式で行われ、語られていることばは拡散されて権威を持つようになる。

そのようにして「なにについて」という地盤を完全に失った語りが「空談」なのだ。

空談とは、ことがらを先だって領有することなくいっさいを理解する可能性である。*1

この空談は公共性の中に入り込んできて、真正な理解を覆い隠しそれを目指そうという試みも抑圧してしまう。

現存在はさしあたりこのような空談によって物事を見知った気になっている。


現存在は常に解釈されたあり方に入り込んでしまっていて、そのあり方において真正な理解を試みる。

また解釈されたあり方は現存在の情態も決定していて、「ひと」が現存在が世界をどのように見るのかを規定している。

そして空談というあり方のうちに身を置いている現存在は世界、共同現存在や内存在とのつながりを断ち切られている。

しかしその状態にあってなお現存在は世界において他者や自分と関わりながら存在している。

第三十六節 好奇心

「見るはたらき」に向かっていくという存在傾向を「好奇心(Neugier)」と名付ける。

この好奇心は見ることだけでなく世界を認知しようとする傾向全般を表現している。

人間は本質的に好奇心を有していて、見るはたらきに向かっていきながら存在している。

そして見るはたらきというのは視覚だけでなく感覚全てを指している。

世界内存在は目くばりによって導かれた配慮的気づかいの中に没入しているが、その気づかいは中断や完了によって休止することがある。

その際に配慮的気づかいがなくなることはないが、目くばりが配慮的気づかいから解放されている。

その解放された目くばりは手もとにあるものから離れて遠くにあるものに向かっていき、そこで世界を目の前にあるものとして見て取ることとなる。

だから現存在は本質的に遠さを求めて自分や手もとにあるものがから逃れようとする傾向すなわち好奇心を持っているのだ。

現存在は好奇心によって何かを見てもそれを理解することはない。

そして好奇心は常に何かから何かへと飛び移っていてどこかに留まるということがない。

また留まらないことによって「気晴らし」がなされる。

この「滞在しないこと(Unverweilen)」「気晴らし(Zersteuung)」が好奇心の二つの契機であり、滞在しないがゆえに好奇心には特定の所在地がない。

そしてこの「滞在の場所がないこと(Aufenthaltslosigkeit)」が現存在の日常的な存在の仕方の一つなのである。

人が知っておけなければならないものについて語る空談によって好奇心の方向性が調整される。

空談と好奇心は語りと見ることの日常的な様態で、それぞれが互いをを促進している。

この二つが現存在が真正なものと思っている「生き生きとした暮らし」を保証していて、その思い込みによって現存在の日常性に関する第三の現象が明らかにされる。

第三十七節 あいまいさ

誰にとっても接近可能でそれについてあらゆることを語り得るものがあると、何が真正に理解されていて何がそうでないのかがあいまいになってしまう。

そうしたあいまいさは世界についてだけでなく共同相互存在や現存在そのものにも当てはまる。

またあいまいさは「理解」においても生じていて、誰もがこれから起こることを予期し、また何がこれから起こるべきか感知している。

予感や感知されたものが実際に起こるとあいまいさによってそれに対する関心が失われてしまう。

なぜなら予感する可能性としてのこの関心は好奇心や空談としてしか成り立たないからだ*2

空談(予感)は常に最新のものに到達しているが、実際の遂行は常にそれに遅れて行われる。

新たに創造されたものはすでに予感されてしまっていてそれが遂行されるときには遅れたものとみなされてしまうので、その新たに創造されたものが自由になるためにはそれを覆い隠す空談や関心が無くならなければならない。

現存在の解釈されたあり方に属するあいまいさによって、空談において語られたものや好奇心において予感されたものが本来的に生起されたものであり、実際に遂行されたものは遅ればせのつまらないものだと考えられてしまう。

あいまいさは共同現存在の公共的な開示性において存在していて、そのあいまいさによって好奇心が養われ、空談が決定的なものであるかのような見かけが与えられる。

またあいまいさという世界内存在の開示性の存在の仕方は共同相互存在を完全に支配している。

「他者」はその人についての伝聞において「現にそこに」存在しているから、共同相互存在の隙間に空談が挟まれている。

だから「ひと」としての共同相互存在は互いに聞き耳を立て合っているのだ。

次に空談、好奇心、あいまいさの間の連関の存在の仕方が捉えられなければならない。

第三十八節 頽落と被投性

空談、好奇心そしてあいまいさによって特徴づけられれるのは現存在が「現にそこに」存在していいること、すなわち開示性の様式である。

このような性格が示す現存在の日常的な存在の仕方を「頽落(Verfallen)」と名付ける。

頽落は現存在はさしあたり気づかわれた対象の元で存在し没入していることを意味している。

現存在の「非本来性」がこの頽落の解釈を通じてより鮮明になる。

非本来的に存在すること(「自分自身」ではないこと)は現存在が本来的に存在しないということを意味していない。

むしろ非本来性は世界内存在のある一つの際立った存在の仕方を形作っている。

世界内存在は頽落という様式において世界や「ひと」に没入していてそれが現存在が非本来的に存在しているということだが、それは一つの積極的な可能性である。

この自分自身ではないこと(非本来性)が現存在の最も身近な存在の仕方として把握されなければならないのだ。


世界内存在や気づかいについての分析では現存在の存在体制について分析されたが、その存在体制の存在の仕方に目が向けられることはなかった。

そのような世界内存在の実存論的な存在の様態が頽落によって示される。

空談において現存在が真正な理解を持ち合わせないまま世界や自分自身に関わりながら存在していることが示され、好奇心によって現存在が様々な場所にいて同時にどこにもいないということが示されている。

そしてあいまいさによって現存在は真正な理解を持っていないという状態に押さえつけられているということが示されている。

空談、好奇心、あいまいさによって現存在の日常性が見通されて、現存在の根本的な存在体制の構造が解明できるようになる。

それではそのような存在体制である頽落はどのような構造を持っているのだろうか。


空談は共同存在の存在の仕方でありそれを口にする現存在のうちで現前するものに過ぎない。

だから現存在は自分自身の空談というあり方において、自分が「ひと」へと解消され真正な理解を喪失した状態へと頽落する可能性を準備している。

ゆえに世界内存在は自分自身に頽落への誘惑を与えるものなのだ。

そして空談とあいまいさによって全てのものが正しく理解できているという思い込みが与えられて現存在は頽落したあり方のうちで固定されてしまう。

その思い込みによって安心が与えられるから、世界内存在は誘惑を与えるものであると同時に安心を与えるものなのだ。

また頽落した非本来的な在り方で安心していることで静止するのではなく、むしろ様々な活動を行い頽落が促進される。

そこから様々なものに対する好奇心と見せかけの知識によって自分が現存在について理解しているという思い込みが生じる。

しかし理解そのものが現存在の存在可能であることが理解されないままになっている。

このようにあらゆるものを理解していると思い込みながら自分をあらゆるものと比較することで現存在は疎外されている。

だから世界内存在は誘惑し安心を与えるものであると同時に疎外するものなのだ。

この疎外は「性格学」や「類型学」としての自己分析に腐心する現存在のあり方である。

疎外によって現存在の本来性や可能性が閉ざされてしまい、現存在は非本来的なあり方へと追い込まれてそこに囚われる。

以上で見て取られた誘惑、安心、疎外、囚われと言った現象が頽落の存在の仕方を特徴付けている。

現存在が頽落していく「動性」を「転落(Absturz)」と名付ける。

現存在は、じぶん自身からじぶん自身のうちに転落する。*3

転落は「ひと」としての非本来的なあり方や真正な理解を見失った状態への転落を意味している。

このようにして現存在が「ひと」へと転落してそのあり方が本来的だと思い込まされることを「旋回(Wirbel)」と呼ぶ。

旋回によって動かされることとしての現存在の被投性も明らかになる。

頽落において非本来的であっても現存在は世界内存在として存在していて、だからこそ頽落も内存在のあり方の一つなのである。

だから現存在の本来的なあり方とは頽落という日常的な存在体制が変容したものとだけ考えられる。


以上の第五章では「現」について解明することが試みられた。

「現」すなわち現存在の開示性は情態性、理解、語りによって構成され、開示性の日常的な存在は空談、好奇心、あいまいさによって特徴付けられる。

そして空談、好奇心、あいまいさは頽落の動性すなわち誘惑、安心、疎外、囚われること、旋回を示している。

この分析によって現存在を気づかいとして解釈することができるようになる。

第六章 現存在の存在としての気づかい

第三十九節 現存在の構造全体の根源的な全体性への問い

現存在の全体構造の全体性はどのように規定されるべきなのだろうか。

ここまでで示されたように

現存在の日常性は、だから頽落しつつ開示された被投的に投企する世界内存在として規定されうる。この世界内存在にとっては「世界」のもとにあるじぶんの存在において、また他者たちとの共同存在にあって最も固有な存在可能そのものが問題なのである。*4

現存在の日常性のこうした構造を全体性から捉え、これらの構造が等しく根源的であることが理解できる方法はあるのだろうか。

何かを組み上げるために設計図が必要なように現存在の全体構造、現存在の存在そのものを把握するためには一つの根源的で全体的な現象を見通す必要がある。

だからこれまでに判明した現存在の構造契機を寄せ集めることでは現存在の全体構造を解明することはできない。

現存在の存在構造には存在了解すなわち開示性が属していて、開示性の様式は情態と理解によって特徴付けられている。

そこで現存在が自分自身に対して開示されている何らかの際立った様式があるのか探求する必要がある。

実存論的分析論は明晰に現存在の存在を解明するために、現存在の最も広範で根源的な開示可能性を追求しなければならない。

そしてまた現存在の構造全体を見通すために現存在がある様式で単純化されて現れてくるような開示性において現存在自身に接近しなければならない。

そうした要求を満たす情態は「不安(Angst)」である。


また現存在は気づかいとして存在している。

こうして現存在を気づかいとして見る見方は理論的だとの誤解を受けたり、伝統的な人間観を否定するものだとして反対されるかもしれないから、現存在を気づかいとして解釈することを前存在論的に確証しておかなければならない。

ここまでの分析は気づかいとしての現存在にまで至っていてるから存在一般への問いを準備するものとなっている。

しかしこれまでの分析は特殊課題を扱っていたので、そこから存在一般への問いに方向を変えなければならない。

そのためにここまでで解明された手もとにあることや目の前にあること(「実在性」)という現象を振り返りながらそれをより徹底的に見つめ直す必要がある。

存在者はそれについての経験、知識、把握とは無関係に存在しているが、存在は存在了解を持つ存在者の理解のうちで存在している。

だから存在は把握されていないことがありえても、理解されていないことはありえないのである。


存在と真理が同時に問われてきたことが存在と了解の必然的な関係を証明している。

だから存在への問いを行うために真理という現象を解明する必要がある。

第一篇『現存在の予備的な基礎分析』は不安(第四十節)、気づかいとしての現存在(第四十一節)、気づかいとしての現存在の解釈を前存在論的に確証すること(第四十二節)、実在性(第四十三節)、真理(第四十四節)の分析によって締めくくられる。

第四十節 現存在のきわだった開示性である、不安という根本的情態性

現存在の解明は情態性と理解に基づく開示性によってのみ可能となるから、現存在のある情態から現存在を解明しなければならない。

「頽落」を現存在の構造全体を解明する出発点としよう。

頽落において現存在は自分自身と自分の本来性から逃避している。

ここで現存在の開示性は閉ざされているが、それは開示性の欠如したあり方でありそこで逃避して背を向ける対象(「なにから(Wovor)」)として現存在自身が開示される。

現存在が開示性によって現れている時のみそれに背を向けて逃避することができるのだ。

逃避の「なにから」(現存在そのもの)は把握されてはいないが背を向けることで現にそこにあり開示されている。

そして逃避において「向きなおる」ことで現存在が理解され解釈されることが可能となる。


さて、第三十節での「恐れ(Furcht)」についての分析が「不安」についての分析の手がかりとなるだろう。

恐れという情態において現存在は自分を脅かす世界内部的な存在者から身を避けていた。

逃避の「なにから」は「脅かすもの」という性格を持っていて、頽落における逃避の「なにから」である現存在も自身を脅かしている。

現存在は世界内部的な存在者ではないので「恐ろしいもの」としての世界内部的な存在者ではなく、「不安を感じさせるもの」であり頽落は「不安」に基づいているのだ。

そして世界内部的な存在者に頽落していくことで恐れが生じるから、不安があって初めて恐れることが可能となる。

不安の対象(「なにをまえに」)は世界内存在であり世界内部的な存在者ではないから適所性を持っていないし未規定である。

世界内部の手もとにあったり目の前にあったりするものは不安の対象とはならない。

だから不安において世界(適所全体性)は対象とならずそのものとして意義を持たない。

適所全体性は、それ自身の中に崩れ込む。
(Sie sinkt in sich zusammen)
*5

不安の対象は「ひと」としてどこにもいない世界内存在であり、この「ひと」という対象がどこにもいないことが不安を特徴付けている。

この不安の対象は世界内部的には無であり、このことが意味しているのは不安の対象は世界そのものだということだ。

無であることは世界が無いということではなく、世界内部的な存在者が重要性を欠いていながらそれにも続いてなお世界が迫ってくるということだ。

この世界は目の前にあるものの総計ではなく手もとにあるもの一般の可能性の総体である。

日常的な会話で不安が収まると不安に思っていた事柄について「なんでもなかった」と言われるが、このことが不安の「なにをまえに」が無であることを示している。

世界は世界内存在に属しているから不安の対象は世界であると同時に世界内存在自身なのだ。


不安によって世界が初めて根源的かつ直接的に開示されるが、それでも世界が概念的に把握されているわけではない。

また不安には何かの「ための不安(Angst um…)」でもあるが、不安において脅かすものは未規定なのでその脅かしの対象は現存在の特定の情態や可能性ではない。

不安がそのために不安になるものは世界内存在であり、不安にあっては手もとにあるものや他者は沈み込んでしまう。

こうして不安は現存在が頽落する可能性を奪い、現存在を本来的な世界内存在へと「投げ返す(zurükwerfen)」。

そこで現存在は固有な世界内存在へと「単独化(vereinzelt)」されて、さらに様々な可能性へと自分を投企していく可能存在として開示される。

しかもこの可能存在は現存在が唯一それとして単独化されうるものなのである。

不安によって単独化された現存在は自分自身を選択し掴み取る自由に対して開かれている本来的な存在である。

不安の「なにをまえに」と「なにのために」はどちらも同じ世界内存在だが、さらに不安という情態となるのも世界内存在である。

だから開示すること(情態性)と開示されるものが同じく世界内存在であり、その開示されるものにおいて世界が開示され、また世界内存在は単独化された被投的投企を行う存在可能として開示されている。

このことから不安という情態は特別なものとして解釈されなければならないのだ。


また日常的な現存在についての分析や語りが、不安がこのように開示していくことの証拠となる。

情態性において現存在が具体的にどのように存在しているかが開示されるが、不安にあって現存在は「不気味(Unheimlichkeit)」に感じている。

この「不気味」において不安の対象がどこにもなくて無であることが表現されている。

そしてまた「ひと」の元で存在している時の安心や居心地の良さが失われているから、不気味さは居心地の悪さも意味している。

逃避としての頽落は世界内存在から世界内部的な存在者へと逃避していくことであり、不気味さから「ひと」の安心感の中に逃避していくことなのだ。

この不気味さは世界や「ひと」に没入している現存在を不断に追い回して「ひと」としてのあり方を脅かす。

ここでは現存在自身が現存在を襲う脅かしである不気味さとして解釈される。

現存在は日常的には頽落して不気味さから目を背けるという仕方で不安を解釈しているが、このように逃避することで世界内存在という現存在の存在体制には不安という根本的な情態性が属していることが示される。

だから不安はただの情態の一つではなくより根源的な現象なのであり、それがあるからこそ世界内存在は情態を持つ存在として恐れることができる。

あらゆる情態性の本質には世界内存在を開示することが含まれているが、不安は単独化するから他の情態性とは異なった特別な開示性を持っていて、また単独化によって現存在の本来的、非本来的な二つのあり方が可能となる。

さて、ここまでの不安についての実存論的な分析によって現存在の全体性への問いがどこまで準備されたのだろうか。

第四十一節 気づかいとしての現存在の存在

不安という現象と不安によって開示されるものは現存在の全体を等しく根源的に解明させてくれるものなのだろうか。

不安になることは現存在の情態性であり、「なにをまえに」は世界内存在で、「なにのために」は世界内存在することであるから、不安は現存在を実際に存在する世界内存在として開示している。

現存在の基礎的な性格は「実存的なあり方、事実性および頽落したありかた」であり、この三つの間には連関があって全体性を形作っている。

これら三つの統一をどのように捉えるべきなのだろうか。

現存在にとっては自分の存在自身が問題となっているが、「問題となる」ということが明瞭になったのは現存在の「なにのゆえに」へと投企する理解という存在体制においてであった。

理解という被投的投企において現存在は自分の可能性として存在している。

また不安においてもっとも固有な存在可能(「なにのゆえに」)や本来的/非本来的な存在に対して開かれていることが示されている。

自分自身の「なにのゆえに」である存在可能として存在することは、現存在が自分自身に先立っていることである。

この存在構造を「じぶんに先だって存在していること(das Sich-vorweg-sein)」と呼ぶ。

ただ自分に先だって存在しているのは被投性を持つ世界内存在だから、「じぶんに先だって存在していること」は正確には「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること(Sich−vorweg-im-schone-sein-in-einer-Welt)」である。

この統一的な構造によって明らかになるのは有意義性の連関(世界)が現存在の「なにのゆえに」と結びついていたことであった。

現存在の存在体制の全体が「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること」として明示的に現れている。

また現存在が実際に存在していることは投げ出されて世界内存在することだけではなく、不気味さから逃亡して頽落しながら存在していることでもある。

だから「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること」には手もとにあるものに頽落して没入しながら存在することが含まれている。

以上から現存在の存在の全体性は「(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈じぶんに先だって存在していること〉」なのである。

これこそが「気づかい」という用語の実存論的な意義である。


世界内存在は本質的に気づかいであるから、これまでの分析で現存在が配慮的な気づかいや顧慮的な気づかいとして捉えられた。

気づかいは実際に存在していること、頽落、実存的なあり方を包括していて、「自己の気づかい(Selbstsorge)」と言った言い回しが指すような「自我」が自分に関わる振る舞いを意味しているわけではない。

自己は「じぶんに先だっていること」に特徴付けられていて、そのことのうちにすでに気づかいが含まれているのだ。

自分に先だって存在することは自分の「なにのゆえに」である存在可能として存在することであり、それによって現存在が本来的な可能性に対して開かれていることが可能となる。

他方現存在は非本来的に振る舞うことが可能であり、実際大抵は非本来的に存在している。

そこでは現存在の本来的な「なにのゆえに」(存在可能)は掴み取られないままであり、「ひと」が現存在の投企を規定している。

「じぶんに先だって存在していること」の「自分」は現存在が非本来的に存在している場合「ひと」である自己を意味している。

だから非本来的なあり方においても現存在は自分に先だって存在しているのだ。


気づかいは具体的な情態に先だって存在していて、「理論的な」行いに対する「実践的な」行いといったものではない。

したがって分割して考えることのできない全体性である気づかいを「意欲や願望、衝迫や性癖」から組み立てることはできず、これらはむしろ気づかいに基づいているのだ。

現存在の「なにのゆえに」である存在可能は世界内存在であるから、その存在可能は世界内部的な存在者と関わりながら存在している。

「意欲」のうちでは理解された存在者、すなわち現存在がその可能性に向けて投企している存在者が気づかいの対象として掴み取られている。

だから意欲には意欲の対象が常にあって、またその対象はなんらかの「なにのゆえに」によってあり方を規定されている。

意欲の構造には「なにのゆえに」の先だった開示性(「じぶんに先だって存在していること」)、配慮的に気づかわれうる世界内部的な存在者としての開示性(「そのうちで」としての世界)、意欲された存在者の可能性への投企*6がある。

このことから意欲という現象において「(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈じぶんに先だって存在していること〉」という現存在の構造の全体性が見て取られている。

現存在の投企は何らかの世界のもとで行われていて現存在はそうした世界から自分の可能性を得る。

「ひと」という解釈されたあり方によってその可能性は自分にふさわしいものという範囲に制限されていて、これは「水平化」と呼ばれる。

可能性が水平化されることで可能なものが隠されてしまい現存在は現実的なものの中で安らいでいる。

その安らぎはむしろ配慮的な気づかいが忙しく活動することを促進して、その時新しい可能性ではなく何事かが生起しているように見せかけられた「手の届くもの」が意欲される。

「ひと」に水平化された意欲において様々な可能性へと向かっていく存在は「願望(Wünschen)」として現れてくる。

願望においては可能性は配慮的に気づかわれる対象ではなく、それが実現することは期待されず、またそれは了解されていない。

だから世界内存在は願望において手の届く可能性のうちでの支えを失って自分を喪失しているのである。

そして手もとにあるこの可能性は「願望されたもの」と照らし合わせて十分でないものと考えられてしまう。

願望も投企の変様であるけれども、願望することは様々な可能性に「専心(Nachhängen)」することである。

特定の可能性に専心することでその他の可能性が閉ざされてしまう。

また専心においては頽落が「じぶんに先だって存在していること」を変様させてしまっていて、現存在が自分が頽落している世界の中で「生かされ」ようとする「性癖(Hang)」が現れてくる。

その性癖によって現存在の一切の可能性が性癖のために利用される。

これに対して「生きようとする」衝迫は自分自身の側に原動力を持っていて、他の可能性を押しのけようとする。

しかしながら衝迫は気づかいに基づくものなので衝迫においても現存在は単なる衝迫ではなく第一義的に気づかいなのである。

衝迫においては気づかいは自由ではないし、性癖においては気づかいは拘束されている。

だから衝迫と性癖は被投性に根ざしているのだ。

「生きようとする」衝迫と「生かされようとする」性癖をなくしてしまうことはできないが、気づかいによって基礎づけられているがゆえにその気づかいによって変様可能なものとなる。

「気づかい」という実存論的に根本的な現象は多層的だが、存在体制の全体性である以上それを更に根本的な要素に還元することはできない。

また気づかいが「〜のもとでの存在として−〜のうちですでに存在していることにおいて−じぶんに先だって存在している」という構造を持っていることから、気づかいの構造が分肢化していることがわかる。

ならば分肢化した気づかいの統一性と全体性を支えるより根源的な現象を解明するために存在への問いを更に突き詰めなければならない。

第四十二節 現存在の前存在論的自己解釈にもとづいて、気づかいとしての現存在の実存論的解釈を確証すること

現存在が「気づかい」であることについて存在論的探求に先立った証拠を出さなければならない。

その証拠は「歴史的」に気づかいであることを証し立てるものであるけれども、現存在の存在は歴史的なものなのでその証拠にはある特別な重要性がある。

その証拠とはブールダッハによって改めて注目された以下の寓話である。

Cura(気づかい)土塊に形を与えて人間をつくり、ユーピテルがそれに精神(spiritus)を与えた。どちらのなまえ(nomen)を与えるべきかをめぐって両者が争っていると、大地(Tellus)もまた、その身体(corpus)の提供者としての権利を主張する。サルトゥルヌスは、これに対して、ユーピテルに人間の死後の精神を、大地にはその身体を与え、Curaには生きている限りでの人間を占有すること(bestizen)を許した。人間の名前はそれがhumusからつくられたがゆえにhomoと決まった。*7

これは重要なのは現存在が生きている間は気づかいが現存在に属していると述べられているからだけでなく、気づかいが精神と身体の合成としての人間観に対して優位をもっているからでもある。

Cura(気づかい)が人間を作ったということは現存在の起源が気づかいのうちにあることを意味している。

またCuraが「生きている限りでの人間を占有」していることは現存在は世界内で存在している限り気づかいであるということである。

他方サルトゥルヌス(時間)が人間の根源的な存在について判決を下したことからみると、この寓話は人間の前存在論的な本質を「世界内での時間的な変転(zeitliche Wandel in der Welt)」のうちに捉えているのである


Cura(気づかい)の語源の歴史から現存在の存在体制すらも見通すことができる。

またCuraは「不安に満ちた骨折り」や「入念さ」「献身」を意味している。

前者は現存在の投企、後者、特に「献身」は現存在の被投性を示していて、Curaという語の二重の語義は現存在の被投的な投企という存在のし方を指し示しているのだ。


現存在についての実存論的な解釈は存在的な解釈の単なる普遍化ではなく「ア・プリオリな」存在論的普遍化なので、その普遍化では気づかいという根本的な存在体制が指示されている。

「生活の憂い」や「献身」というように人間を存在的に気づかいとみなすことは、存在論的な「気づかい」に基づかなければならない。

存在論的な「気づかい」を含めた実存カテゴリーは広がりを持っていて人間を「生活の憂い」や「献身」というする解釈もその逆の解釈も許容する地盤を提供している。

だから現存在の存在体制の全体は統一的でありながら多層的であり、その構造の分肢化が気づかいの実存論的な概念(「〜のもとでの存在として−〜のうちですでに存在していることにおいて−じぶんに先だって存在している」)によって表現されている。

以上で現存在の前存在論的な自己解釈を気づかいの実存論的な概念へと仕上げていったわけである。

さて、存在への問いを仕上げていくためにここまでで得られた事柄らをさらに明示的にして先鋭化させなければならない。


感想

第一篇第五章Bでは「空談」「好奇心」「あいまいさ」、そして「頽落」という現存在の日常的なあり方が解明された。

「空談」において対象についての真正な理解があるかどうかにかかわりなくただ「語られていること」によって言葉が権威を持ってくる。

ミームというものはそれが真理であるかどうかにかかわりなくただそれ自体として適応的であれば拡散していくから、この「空談」とミームは同じ現象を指しているのではないかと思った。

このような「空談」によって正しい理解はむしろ阻害されてしまうから、ミームは真実を目指す探求を妨げることもあるのだろう。

また「空談」についての第三十五節で現存在が常に解釈されたあり方を免れえないということが述べられている。

これは現存在を現存在として認められるのは解釈を行い世界から現存在を分節化した時だから、現存在は常に解釈されて存在しているということだと思う。

「好奇心」については注解に引かれていたプラトン『国家』の「アグライオンの子レオンティオス」が「見るはたらきへの欲望」から城壁の外の死体を見て「さあ、きみたち、呪われた者どもよ、この美しい見ものを堪能するがよい」と言うという挿話が好きだった。


第六章前半では「不安」と「気づかいとしての現存在」の解明が試みられた。

現存在は自分自身(=世界内存在=世界)に対して「不気味さ」を感じていて、そこから逃避して「ひと」すなわちどこにもいないというあり方の中に転落している。

その逃避が意識されると背を向ける対象として単独化した「現存在」が浮かび上がってくる。

「ひと」として他者たちの中に溶け込んでいるとき現存在は安心していて、単独化した現存在は不安や不気味さを感じている。

普通人間は「自分」というものについて考えず世界に没入して生きていて、「自分とはなんなのか」という疑問が起こってきたりして不安に感じることはない。

逆に一旦内省的思考にはまり込んでしまうと自分についての疑問が次々起こってどんどん不安が募ってきて眠れなくなったりする。

「不安」を卑近に解釈するとそういうことになるのだろうか。

また「ひと」という他者と一体となったあり方をやめた現存在は単「独」化して孤独になってしまうが、不安には孤独に対する感情という側面も含まれているように思う。

疑問が残ったのは解釈による現存在の分節化と「不安」による「単独化」というのはどのような違いがあるのかという点だった。

解釈によっては有意義性の全体(世界)からの分節化が行われるが、「不安」によっては「ひと」からの単独化が行われるというどこから分節化(単独化)が行われるのかの区別なのだろうか。

あとこの辺り(第六章)では「現」という表現が使われなくなり代わりに「事実性」という表現が出てくる。

事実性は現存在が事実として存在していることだから、「現」と同じ意味で使われているものと思って読んでいたが確証がない。


気づかいとしての現存在は「じぶんに先だって存在している」のだがそれは自分自身の存在理由(「なにのゆえに」)である可能性「として」現存在が存在しているかだろう。

可能性として存在するというのは「理解」そして「投企」において被投的に投企が行われることから、現存在は現在それである情態と同時に可能性として存在しているということだった。

ここで自分が存在する理由を理解していくという作用によってその存在理由である可能性(「存在可能」)として現存在が存在しているということが言われているのだと思う。

そして人間が存在する理由を理解するのが世界内存在だから「じぶんに先だって存在していること」と「なんらかの世界のうちですでに存在していること」が結びついてくる。

ところで第四十一節の後半で「生きようとする衝迫」という概念が出てきたがこれはショーペンハウアーの「生への意志」を意識した表現なのだろうか。

衝迫についての記述が簡素すぎてどうとも判断できないので今後また出てきたら検討したい。


最後に本筋から外れるが「理解」と「投企」というものについて考えていて少し理解が深まったので書いておきたい。

世界内部的な「手もとにあるもの」を理解することによってその手もとにあるもののもとで存在している現存在の可能性に投企していくことになる。

例えばスマートフォンという手もとにあるものを理解することでスマートフォンの機能を使って新しく活動していくことができる。

それは同時に「スマートフォンの機能を使う私」という自分の存在の可能性に飛び込んでいくことも意味しているのだ。

重要なのは「私」と気づかわれている手もとにあるものが別の存在者ではなく一体となっているということだ。

手もとにあるものを解釈することで手もとにあるもののもとで存在している現存在も同時に分節化されていて、そしてそれは「有意義性の全体」すなわち世界からの分節化なのである。

また手もとにあるものがそのように解釈されることができるのは現存在がそのもとで存在している時だけ*8で、その意味で

だから意味は現存在の実存カテゴリーであり、現存在だけが有意味であったり無意味であったりする

ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ

と言われるのである。


2017/1/29追記

不安は適所性が欠けていることから発生する。→道具が意識されるのはその適所性が失われている時。

失われている適所性とは現存在自身(=世界内存在)の適所性であり、自身の適所性がわからないのだから現存在は不安に感じる。

そしてその不安によって、道具が意識されるようになったのと同じように個々の現存在が意識される。

(2017/2/19追記)

適所性が見失われることでそこに頽落する可能性も失われる。

不安において単独化されたことで、そこから投企していく可能存在としての現存在が明示的になる。


続きは以下
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.5B.35.478 p294~295

*2:好奇心は「滞在の場所がないこと」をその性質としている。

*3:1.1.5B.38.512 p333

*4:1.1.6.39.521 p342

*5:1.1.6.40.538 p363

*6:意欲されたもののもとで存在して(配慮的気づかい)それを理解することでその存在者が持つ可能性に入り込んでいくことだと思う。

*7:1.1.6.42.574注解 p412 本文の方は長いので注解にまとめられた文章を引いた。

*8:「明るみ」に照らされているとき、ということになるだろうか。

ハイデガー『存在と時間』(二)②


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事二つ目。

この記事では第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com


また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第五章 内存在そのもの

第二十八節 内存在の主題的分析の課題

現存在についての存在論的分析論は現存在の存在様式を根源的に規定している「世界内存在」を主題とする。

ここまででは世界内存在を世界という存在の契機と現存在が「だれ」であるかという問いから特徴付けてきた。

一方第十二節で「内存在そのもの」から世界内存在が素描されていて、続いて第十三節で内存在のあり方の例として「認識作用」が挙げられた。

世界などの現存在の構造契機を先回りして取り上げたのはそれらを構造全体への一貫した見通しの中に組み入れていけるようにするためであった。

それらの契機を分析し終えた今問題となるのは内存在そのものである。

内存在を分析することで世界内存在の構造だけでなく「気づかい」としての現存在の存在も見えてこなければならない。

ここまでで世界内存在について「配慮的気づかい」「顧慮的気づかい」「自己存在(「ひと」)」を提示してきたが、次に探求されるのは配慮的気づかい、顧慮的気づかいのより具体的な特徴である。

またすべての世界内部的存在者についてより詳しく解明していくことで現存在と現存在以外の存在者の間の区別が際立ってくる。

ありとあらゆるものが単一の「根源的根拠」に基づいているというのは勝手な思い込みであり、「情態性」「理解」など複数ある内存在の構造性格はそれぞれが等しく根源的である。

内存在を特徴付けるに際してまず第十二節において明らかになった、内存在が空間的に中にいることを意味していないということを確認しておくのが良い。

内存在は「主観」のカテゴリーではなくその存在の仕方である実存カテゴリーなのだ。

それでは内存在は目の前にあるものとしての主観と客観の「あいだ」の交互作用としての存在なのだろうか。

そのような考えにおいては目の前にある主観と客観という存在者が前提とされてしまっている。

これ出発点として内存在という現象を解明することはできないし、現象を構成するものを把握することもできない。


世界内存在によって構成される存在者は常に「ここに」や「あそこに」という意味での自らの「現(Da)」である*1

現存在は気づかわれる対象の「あそこ」に存在していて、「あそこ」に距たりを取り去りつつ方向を合わせて配慮的に気づかう存在として「ここに」ある自分を把握している。

この「ここに」と「あそこに」はこのような空間性を持った「現」が存在していることによって可能となる。

「あそこに」と「ここに」存在することが可能であることによって現存在は自らの存在の中で鎖されておらず世界と一体となって存在している。

だから「現」には世界の開示性が属していて「現」は「開けていること」、「明るみ」とも表現できる。

そして現存在は自分自身に即して「明るくされて(gelichtet)」いて、現存在の明かりに照らされることで初めて手もとにある存在者は接近可能なものとなる。

また現存在自身もその「現」「明かり」によって接近可能なものとなるから、

現存在とは自分の開示性なのである。
(Das Dasein ist seine Erschlossenheit.)
*2

現存在の本質は実存だから現存在の存在そのものの本質が「現」なのだ。

そしてこの開示性の存在の構造の特徴と、現存在が日常的に自らの「現」であるという存在のし方を解釈することが必要となる。

以下の第五章A「〈現〉の実存論的構成」第五章B「〈現〉の日常的存在と現存在の頽落」において内存在そのもの、すなわち「現」の存在が解明されていくだろう。

第五章A 〈現〉の実存論的構成

第二十九節 情態性としての現−存在

存在論的な「情態性(Befindlichkeit)」とは私たちが日常的に「気分(Stimmung)」と呼んでいるものである*3

そしてこの気分とは心理学的なものではなくて現存在の実存カテゴリーだ。

日常的な配慮的気づかいとしての現存在には「(気づかいが)かき乱されていない落ち着いた気分」「(気づかいが)阻止された不快な気分」がある。

それらは相互に移り変わるし、他にも現存在は不機嫌な気分に「滑り落ちる」こともある。

私たちがしばしば陥る気の抜けた状態は「気分」が無いことではなく現存在が自分に厭きた状態であり、その時「現」が現存在にとって重荷となってくる。

このようにして気分において現存在は自分の「現」に引き合わされている。

仮に高揚した気分が存在の重荷を取り去るとしても、取り去られることで逆説的に「現」の重荷が明らかになってくる。

ゆえに

気分があらわにするのは、「或るものがどのようにあり、またどのようになるか(wie einem ist und wird)」である。この「或るものがどのようにあるか」において気分づけられていることが、存在をその「現」のうちへともたらすことになる。*4

気分づけられていることによって現存在はその気分「である」存在者として開示されていて、しかも現存在はその気分において存在しなければならない。

日常性においてこそ現存在の存在はありのままに開示されることがあるが、現存在が「どこから」来て「どこへ」いくのかは隠されたままである。

また私たちは気分に「屈従」しているわけではないが、それは現存在が気分において開示されていることを反証するものではないし、むしろそれを証拠立てている。

現存在はたいてい気分に屈従せず気分おいて開示された存在を存在的には避けて通っているが、そのことによって存在論的には現存在が「現」である存在者だということが開示される。

「どこから」来て「どこへ」いくのかが隠されたままに開示される「現存在が存在すること」という存在性格を自らの「現」のうちに現存在が「投げ出されていること(Geworfenheit)」と呼ぶ。

この「被投性(投げ出されていること)」は現存在が情態性において存在し、また存在しなければならないことを暗示している。

さらにこの「現存在があり、在らなければならないこと」は目の前にある存在者のカテゴリーではなく世界内存在の実存カテゴリーだから、直感では見て取ることができない。

現存在は情態にあるということ、すなわち被投性において自分の「現」であるがその情態性において現存在は常に開示されていて、自分を情態における存在として見出している。

そして現存在はそのように自らを見出しているというあり方で存在させられてしまっている。

気分は現存在を「現」という重荷に「向かったり、背を向けたりすること(An- und Abkehr)」として開示する。

そして現存在はたいてい「現」の重荷から逃れようとしているという気分(情態)において存在している。

自分が「どこへ」行くのか信仰によって確信していても、自分が「どこから」来たのか科学的に知っていても、それによって気分によって「現」が現存在に提示されていてなぜ「現」があるのかという問いが存在していることが変わることはない*5

目の前にあるものについての理論によって情態性が現存在を明示していくことが低く評価されてはならないし、情態性を非合理的なものと考えてもならない。

現存在が知識と意志によって自分の気分を制御しなければならないにしても、認識や意志に先立って気分において現存在自身が開示されている。

気分を制御するとき先立って気分において存在している私たちは、それと反対の気分を持つことによってそれを制御するのだ。

情動性は現存在をその被投性において開示し、しかもさしあたりたいていは回避しながら背を向けるという様式で(in der Weise der ausweichenden Abkehr)開示するのである。*6

ここまでで明らかになったことだが、情動性は何らかの心的状態を目の前にあるものとして見て取ることではない。

むしろ内的反省が心的体験を発見することができるのも「現」が情動性によって先立って開示されているからなのだ。

反省を伴わない「単なる気分」が反省による思考よりも根源的に「現」を開示し、同時に何も知覚しないことよりも深く「現」を覆い隠してしまう。

このことを示しているのが「不機嫌な気分(Verstimmung)*7」である。

不機嫌な気分において現存在は方向を見失い配慮的に気づかわれる周囲世界を見失って、誤った方向に目くばりしてしまう。

そのような気分は反省している時ではなくむしろ周囲世界に没頭している時に現存在を襲う。

気分は内部から現れるものではないしまた外部の影響で生まれるものでもなく、現存在が世界の内に存在する様式であり、先立って世界内存在を開示している。

そしてまた気分において初めて現存在は何かに向かっていくことができるのである。


以上から情態性は被投性を開示し、その時々の世界内存在を開示するということがわかった。

さらに情態性は内存在に対する世界の先だった開示も構成している。

手もとにあるものが内存在を脅かすことがあるが、世界内部的な存在者に襲われることは内存在が情態性によって「襲われるもの」として規定されているから可能なのだ。

そしてまた恐れたり恐れなかったりという情態において存在できるものだけが手もとにあるものを「脅かすもの」として発見することができる。

このようにして情態性が現存在が世界を発見していくことを基礎づけているのである。

また襲われるものとして情態性に規定されていることで「揺り動かされること」「感受すること」としての「感覚」が存在論的に可能になってくる。

情態性のうちには開示しながら世界へと割り当てられていることが実存論的に存しているのであり、襲撃するものはこの世界の側から出会われうる。*8

私たちは「単なる気分」によってまず「脅かすもの」といったような世界を発見するのであり、直感作用によってそれをするのではない。


情態性において配慮的な気づかいの目くばりが方向を誤ったり錯覚を起こしたりするが、気分の揺らぎによってその時々に手もとにあるものが違って見えることでそれらは自身に特種な世界性を示している。

むしろ目の前にあるものとしてそれを認識することでそれらは一様なあり方に限定されてしまっているのだ。

しかし認識することで規定する作用も現存在の情態性のうちで成り立っている。

「ひと」は「公共性」において気分づけられているだけでなく自ら気分を必要として、演説などによって気分を「かもし出して」いく。

そのような場合気分を作り操るためにその気分を先立って知っていなければならない。


情態性において「現」に直面させられている現存在は自分自身を回避しているが、その存在体制が「頽落」という現象を分析する中で明らかになってくるだろう。

情態性はそれが現存在を明らかにしていくことによって実存論的分析論の方法としても重要である。

実存論的分析論は情態性において先立って開示された現存在をそのままに受け取ることで、現象学的な解釈は開示された現象を概念に高めるというだけのものである。

この後には現存在の根本的な情態性、すなわち「不安(Angst)」についての解釈が行われるが、その前に「恐れ(Furcht)」という具体的な情態を示していくべきだろう。

第三十節 情態性の一様態としての恐れ

恐れという現象は恐れの対象、恐れることそのもの、恐れの原因(なんのゆえに)の三点から考察される。

この三つによって情動性一般の構造も把握することができる。


恐れの対象は手もとにあるもの、目の前にあるもの、共同相互存在という世界内部的に出会われるものである。

恐れられるものは「脅かす」という性質を持っていて、その性質には以下の6つの多層的な事柄が属している。

  1. 有害であるという適所性を持っている。
  2. その有害さは被害を受ける対象の方に向かっていて、また特定の方位からやってくる。
  3. 恐れの対象とその方位は「穏やかでない」ものとして知られている。
  4. 手なずけることができるほどの近くにはまだないが、近づいてきてはいる。
  5. その接近は発見されていなければならないので、有害なものはすでに手もとにあるものとして「近さ」の内にある。
  6. 有害なものは通り過ぎるかもしれないが、それゆえにむしろ恐ろしさが募る。


次に恐れることそのものは有害なものに迫られながらそれを開示して発見することである。

そしてまた恐れという情態が可能であることによって恐ろしいものが接近してくることが可能となるのだ。

また、接近は世界内存在の空間性に基づいて初めて可能になる。


最後に恐れの原因は恐れる現存在自身である。

恐れは常に危険にさらされている現存在自身を開示し、現存在の「現」を提示している。

私たちは配慮的気づかいにおいて対象の元で存在しているから、自分が気づかっている持ち物などの事物が危険にさらされている際にも恐れは起こる。

その場合気づかわれているものの元で存在していることが脅かされているのだ。

さらに恐れは現存在を開示すると同時に、現存在をうろたえさせて自分自身をわからなくさせてしまう。

他にも例えば危険な場所にそれと知らずに近づく他者たちのために恐れることがあるが、それは共に恐れることでも他者の恐れを肩代わりすることでもない。

この場合も配慮的に気づかわれているもののための恐れと同じく他者の元で存在する自分が脅かされているのだ。

ゆえに何かのために恐れることは自分についての恐れが弱くなったものではない。

そしてまた恐れのきっかけは様々にあり、恐れることにも驚愕、戦慄、仰天などの様々なバリエーションがある。

第三十一節 理解としての現−存在

「理解(Verstehen)」は情態性と同じように根源的な形で「現」を構成している。

情態性において現存在は自分の「現」を了解していて、それゆえに理解は常に気分付けられている。

そのようにして現存在の実存を構成する理解は第一次的な理解と呼ばれて、認識の仕方という意味での理解や「説明」とは区別される。

「世界が現にそこにあること」である内存在(「現」)は現存在の「なにのゆえに」でありまたその中で世界内存在の実存が開示されていて、その開示が理解と呼ばれる。

そして「なにのゆえに」を理解するとそれを基礎としている有意義性の連関が理解され、そして個々の道具の有意義性が理解される。

「なにのゆえに」と有意義性は現存在において開示されるから、現存在にとって世界内存在としての自分自身が問題となっている。


「理解」という言葉は「〜が可能である(etwas können)」という意味で用いられることがある。

実存カテゴリーとしての理解は「何か」が可能であることではなくある実存の仕方が可能であるということを意味している。

何かを理解することで何かしらの形での存在ができるようになるから、理解という情態にある現存在は「存在可能(Sein-können)」として存在している。

現存在は「何かが可能であること」を属性として所有しているのではなく、自分の可能性そのもの、「可能存在(Möglichsein)」である。

まだ現実的でなかったりいつまでも必然的でないこととしての可能性ではなく、現存在の存在論的に規定されたあり方である実存カテゴリーとしての可能性を解明する基盤を「開示する存在可能」である「理解」が与えてくれる。


実存カテゴリーとしての可能性は無差別に選択することができるという意味での自由ではない。

すでにある情態のうちにあることで現存在は一つの可能性の中にはまり込んでいて、他の可能性を失ってしまっている。

すなわち現存在は「被投的な可能性(geworfene Möglichkeit)」なのだ。

そして理解とはこのような被投的な存在可能として存在することだ。

その存在可能は「まだ来ない」ということではなく現存在の存在と共に存在している。

そして理解は一つの被投的な情態であるから、現存在はそのつどすでに理解したり理解し損なったりしている。

だから現存在は自分の存在可能において自分を理解するという可能性の中に投げ入れられる。

理解とは現存在自身が有する固有な存在可能の実存論的存在(das existenziale Sein des Seinkönnens des Daseins selbst)であり、しかもこの実存論的存在は、自分自身の存在が〈なにに懸かっているか(das Woran)〉を自分自身に対して開示している。*9

世界内部的な手元にあるものは「役に立ちうるあり方」「有害となりうるあり方」という可能性において発見される。

つまり適所全体性は道具の可能性の全体として発見されるのだ。

一方目の前にあるものの総体つまり「自然」の存在も自然を可能とする条件が開示されていることに基づいてのみ発見されうるものとなる。

しかしなぜそのようにして自然の存在が理解されるのかについては示されないままになっている。


理解は「投企(Entwurf)」という実存論的構造を持っていて、常に可能な存在のありかたに移行していく。

そのような理解は現存在の存在を「なにのゆえに」や世界性そのものである有意義性に向けて投企している*10

そして現存在は被投性によって投企するという存在の仕方に投げ込まれている。

だから投企することは現存在が能動的に計画を持ってある存在となることではなく、現存在はすでに自分を投企してしまっていて投企することで存在している。

すなわち現存在は常に投企によって自分の可能性として存在していて、そこから自分を理解しているのだ。

しかし可能性へと向かっていく理解は自分がそれに基づいて投企する可能性を把握しているわけではない。

もし理解が可能性を最初から把握しているなら投企された現存在の実存は可能性ではなくなり「与えられ、思いなされ、存立していることがら」へと引き下げられる。

だから可能性が把握されないまま現存在の存在が可能性に向けて投企されることによって、可能性は可能性として存在することができる。

投企によって可能性として存在することで現存在は常に実際にある「以上の」ものである。

すなわち、現存在は実存論的にいえば、じぶんの存在可能においてまだそれではないものなのである(was es in seinem Seinkönnen noch nicht ist, ist es existenzial)。*11

理解とその投企という性格によって現存在は現にここに存在していて(「現」が構成されて)、現存在は常に自分がそれになったりならなかったりする可能性として存在している。

投企という性格は世界内存在が先立って開示されていることに常に関わっている。

そして理解はそれ自身存在可能であるから様々な可能性を持っている。

第一次的に理解は世界の開示性として存在していて、その場合現存在は世界の側から自らを理解することができる。

そうでない場合は理解は現存在の「なにのゆえに」を了解する理解であり、その時現存在は自身の「なにのゆえに」を先立って了解する存在者として実存する。

ゆえに理解には固有な自己から現れてくる本来的なものと世界の開示性としての非本来的なものの二種類がある。

しかし世界は世界内存在としての現存在に属しているので、非本来的な理解も本来的な理解と変わらない。

そして存在可能である理解はどちらにせよ正しくも間違ってもありうる。

また理解が本来的、非本来的のどちらの可能性に投げ入れられるにしても、もう一つの可能性が無くなるわけではない。

以上から世界についての理解のうちで内存在が理解されており、逆に実存についての理解は世界についての理解となるのだ。

そして現存在は理解の可能性の一つに投げ入れられて存在を可能としている。


理解は配慮的気づかいにおける目くばり、顧慮的気づかいにおける見かえすことである「見ること」を実存論的に構成する。

これは存在そのものを「見ること」であり「現」の開示性と共に実存論的に存在している。

実存に関係する「見ること」を「見とおすこと(Durchsichtigkeit)」と呼ぶ。

この見とおすことは一個の点としてではなく世界内存在、共同存在としての自己を認識することを意味している。

見とおすことに失敗するのは自己を一点としてみているためだけでなく、世界そのものを見ていないためでもある。


「見ること」は現存在が「現」によって明るくされていることを指している。

見ることは視覚的なことでも目の前にあるものとして非感性的に捉えることでもなく、「存在者をそれ自身に即して出会わせること」である。

そして見ることはすべて第一次的に理解に基づいている。

また「直感」や「思考」は理解から派生してそこから距たったものだ。

「現」が開示されている、すなわち「現」を理解していることは現存在の存在可能のひとつの様式である。

そして理解は「なにのゆえに」や有意義性を理解するという存在様式に向けて現存在の存在を投企しているから、存在一般がそこで開示されている。

だから様々な可能性に向けて現存在の存在が投企されていることのうちで現存在の先立った存在了解が生まれる。

ゆえに理解という実存を構成するものにおいて先立った存在了解が獲得されるのだ。

以上から情態と理解という実存カテゴリーが世界内存在の開示性を説明している。

理解という気分付けられた情態にあって現存在は自分の可能性を見て取っているし、反対に可能性に投企しながら開示することで気分付けられている。

被投的な投企という存在体制は現存在をますます謎めいたものにしてしまう。

まず情態付けられた理解という実存カテゴリーを具体的に解明する必要があるだろう。

第三十二節 理解と解釈

「理解」が持つ投企という作用は自分を完成させる固有な可能性を持っていて、その完成を「解釈(Auslegung)」と名付ける。

現存在に先立って理解されている有意義性の連関としての世界の個々の道具が明示的に「見ること」のうちに入り込んでくることが「解釈」である。

その際手もとにある道具は「〜のために」あるもの「として」了解されていて、つまり「あるものとしてのあるもの」と解釈される。

例えば現存在は手もとにある道具を机、椅子、ラップトップ「として」常に見て取っている。

理解される道具は「〜として」解釈されることの中で有意義性の全体から分節化されて個々の道具となるので、理解と解釈は対象への言明に先立っている。

そして「〜として」見ることから逃れて対象を目の前にあるものして見るものの見方にはこの「理解」が欠如している。

この「解釈」は目の前にあるものに「意義」を投げ入れ価値付けることではなく、世界内部的な存在者から適所性を取り出すことなのだ。

手もとにあるものがそこから理解されている適所全体性は一旦は明示的に解釈されても再び目立たないあり方に戻っていき、目立たないあり方において適所全体性は日常的な解釈の基礎となる。

そのような解釈は適所全体性の先立った理解(「あらかじめ持つこと(Vorhande)」)、適所性を分節化して解釈するのための観点を先立って定めておくこと(「あらかじめ見ること(Vorsicht)」)、さらに道具を概念的に把握しておくこと(「あらかじめ掴むこと(Vorgirff))」)に基づいている。

そうして道具は解釈可能なものとなり、解釈において道具はそのものに基づいた概念やそうではない概念に押し込められてしまっている。

さて、この理解の「あらかじめ構造」と解釈の「として構造」は投企という現象と何か関係があって、それゆえに投企は現存在の存在体制を指し示しているのだろうか。

このことを解き明かすためには理解と解釈の構造として見て取られるものが統一的な現象を示していないか考える必要がある。

世界内部的な存在者が現存在の存在と共に了解されている時その存在者は意味を持っていると言われるが、その場合理解されているのは意味ではなく存在者や存在である。

意味とは理解によって開示される適所全体性の中で分節化可能なものであり、投企がそれに基づいて行われる現存在の存在可能が解釈を通じて構造化されたもので、その意味の側からあるもの「として」理解が可能となる。

また理解と解釈が現存在が現にここににあること(「現」)の実存論的な構造契機なので、意味は現存在の理解が開示していくことの実存論的な基礎でなければならない。

だから意味は現存在の実存カテゴリーであり、現存在だけが有意味であったり無意味であったりする*12

現存在が意味を有するというのは世界内存在が「明るみ」によって出会うものを開示することによって、現存在の存在と出会われる存在者を実際に了解することである。

そして現存在以外の存在者は意味を持たない没意味的なものであり、没意味的なものだけが現存在の存在に衝突する反意味的なものでありうる。

また存在の意味の問いは、意味が存在可能(=現存在の存在)が構造化されたものであることから現存在の先立った了解によってとらえられる存在を問うことである。


解釈は理解の「あらかじめ構造」のうちで行われているから、現存在は解釈する対象を先に理解していなければならない。

このように理解を前提とする限りで解釈には循環があり、この解釈は厳密な認識とは認められないのではないか。

しかし、循環は悪いものだという決めつけも「理解」を誤解しているから生じるのだ。

その場合理解は特定の理念に押し込められてしまっていて、世界内部的に出会われるものは目の前にあるものとして見られ、本質的に理解できないものと勘違いされてしまう。

だから循環を避けるのではなく、正しい仕方で循環の中に入り込まなければならない。

解釈の最初にして最終的な目標は「あらかじめ持つこと」「あらかじめ見ること」「あらかじめ掴むこと」を仕上げる中で学問の対象となるものを決めていくことで、それにより根源的な認識に至ることができる。

その解釈の前提となる理解は現存在の存在可能であるから、解釈に基づく歴史学的な認識の前提は科学の理念よりも豊かであり、数学は歴史学より厳密なのではなく狭隘なのである。

理解における循環は意味の構造に属していて、意味の構造は現存在の解釈しつつ理解するという存在体制に根ざしている。

だから現存在は循環構造を持っているが、循環というのが目の前のものについての概念なので現存在をこれによって存在論的に説明するのは避ける必要がある。

第三十三節 解釈の派生的様態としての言明

言明(判断)は理解に基づいた解釈の派生的な様式であり、その限りで意味を有している。

まずは解釈の派生である言明が解釈の「として構造」をどの様に変様させているか示す必要があるだろう。

そして古代の存在論において「ロゴス」が存在を規定するための概念として用いられていたことから、言明についての分析は基礎的存在論においても重要である。

また真理は言明のうちにあるものとみなされていることから、言明についての分析は真理についての解明を準備するものである。

以下では言明という語に三つの意義を割り当てる。

一つ目は「提示すること(Aufzeignung)」であり、言明された存在者はその存在者の側から開示される。

この場合言明では意味や表象、観察者の心的状態などではなく手もとにある存在者そのものが提示されている。

二つ目は「述語付けること(Prädikation)」であり、主語が述語によって言明され規定される。

述語付けることの基礎には提示することが含まれているから、第二の意義の言明は第一の意義の言明に基礎付けられている。

主語として規定されることで存在者は例えばハンマーといった存在者に限定されるが、述語によって主語は規定されたあり方において明示的に見てとられるようになる。

三つ目の意義は「伝達すること(Mitteilung)」であり、伝達することとは規定されながら提示されたものを共に見えるようにさせることである。

この場合他者と分かち合われる(伝達される)のは提示されたものに関わる存在、世界内存在である。

また言明には「言表されているという性格(Ausgesprochenheit)」があるので、その言明を聞いた人が対象を手もとにあるものとして持っていない場合もあり得て、その場合言明は伝言されたことになる。

以上の言明の三つの意義をまとめると、言明とは「伝達しつつ規定する提示(mitteilend bestimmende Aufzeigung)」である。

そして解釈の変様であるこの言明は解釈と同じ構造を持っている。

まず言明は理解において既に示されている(「あらかじめ持つこと」)ものを提示する。

次に述語付けて規定することにおいて適所性を持った対象に方向を合わせて見やることが先立って行われている(「あらかじめ見ること」)。

そして伝達としての言明には対象を概念的に分節化する働きがあり(「あらかじめ掴むこと」)、その分節化は言語などの一定の概念構成の中で行われている。

さて、言明においては解釈の何が変容しているのだろうか。

論理学の定言的言明「このハンマーは重い」というのはハンマーが重いという属性を持っているということを意味している。

一方解釈においては同じ「このハンマーは重い」においても「このハンマーは重すぎるから別のものを!」ということを意味することができる。

だから解釈は理論的な言明の中で行われるのではなく、手もとにあるものを配慮的に気遣うことの中で行われる。

言明においては「あらかじめ持つこと」で了解される手もとにあるものの「それによって(Womit)」が言明の「それについて(Worüber)」に変様してしまう。

「それによって」とは解釈によって捉えられた、例えばハンマーによって何かをすることで、それは言明される際にその言明の対象として「それについて」に置き換わってしまう。

そして言明において「あらかじめ見ること」は目の前にあるものに焦点を合わせていて、それによって言明の対象は手もとにあるものとしては見えなくなってしまう。

ここで解釈の「として構造」が適所性をつかむことから変様して、目の前にあるものを規定することとなっている。

この様にして言明は目の前にあるものを提示し、規定し、伝達することができるようになる。

以下では解釈における「として」は実存論的−解釈学的な「として」、言明における「として」は命題的な「として」と呼ばれる。

また解釈と言明の間には様々な中間段階がある。

そして解釈から生じた命題を理論的な言明に還元してしまうとその意味が転倒してしまう。


ロゴスは目の前にあるものとして考えられてきて、目の前にある様々な言葉の間の結合が問題となってきた。

アリストテレスによればロゴスは総合であると同時に分解であり、提示はまとめることであり切り離すことでもある。

しかしロゴスの構造内のどんな現象が総合と分解を可能にするのかについてはまだ問題になっていない。

ロゴスの統一において「あるものとしてのあるもの」が言い当てられていたはずであり、その時あるものがあるものと付き合わされて理解される。

そして同時に分節化する解釈によって言葉たちが分解される。

解釈学的な「として」が明確に捉えられていなければ、ロゴスの分析は表象や概念の結合や分離についての形式的な判断論となってしまうだろう。

また総合と分解をさらに形式化して「関連付け」と捉えると、言明(判断)は計算の対象ではあっても解釈の対象ではなくなってしまう。

「繫辞(Copula)」という現象において存在論的な問題系とロゴスについての論理学の関係が示されている。

ロゴスの総合という構造は自明のものとされてきたし、それは解釈の基準ともなってきた。

また言明や存在了解が現存在の実存論的な在り方であるから、「である(ist)」という言葉とそれについての解釈*13も実存論的分析論において問題となってくる。


重要なのは言明が理解しながら解釈することの派生であるという点と、ロゴスについての分析が実存論的分析論に根ざしているという点だ。

古代存在論においてはロゴスの解釈が十分でなく、ロゴスとそれが示すものが目の前にあるものと捉えられ、そうしたあり方が他の存在可能性と区別されることもなかった。

第三十四節 現−存在と語り。ことば

情態性と理解は等根源的に「現」を構成していて、理解に解釈の可能性が含まれていたのと同様に情態性にも了解の可能性が含まれている*14

さて、言明というものの分析において言うことや話すことが問題となった。

ことばという現象は現存在の実存論的な開示性に根ざしていて、ことばの実存論的な基礎は「語り(Rede)」である。

そして「語り」は実存において情態性や理解と等しく根源的である。

世界に対する了解の可能性は解釈に先立って分肢化されていて(「あらかじめ見ること」)、その分肢化こそが語りなのだ。

だから意味とは解釈において語りによって分肢化できるものである。

語りでは意義全体(適所性の全体)が様々な意義に分解されている。

また語りは開示性(「現」)の実存カテゴリーであると同時に、開示性は世界内存在によって構成されているから「世界的」なものでもある。

そして了解可能性の全体つまり意義の全体が「語」として分節化されて現れてくるので、語という目の前にある事物に意義が後から与えられるのではない。

外側に言表された語りがことばであり、語りが世界的であることからことばも手もとにあるものと同様に世界内部的な存在者である。

だからことばは個々のことばとして、手もとにあるものがそうであったように目の前にあるものとして捉えられることもある。

また語りは被投性を持つ世界内存在の開示性を分節化しているから、語りは実存論的には同じく被投性を持つことばなのだ*15


語りつつ発言することには「聞くこと(Hören)」「沈黙すること(Schweigen)」という様態がある。

世界内存在は共同存在なので顧慮的に気づかい合う共同相互存在の特定の情態として存在している。

そして共同相互存在は例えば相談するといったように語りながら存在している。

語りは気づかいながら存在している世界内存在を構成するものであるから、語りには常に「なにについて」という語られる対象が付属している。

語りにおける伝達で、理解し合っている共同相互存在が分節化される。

共同現存在は情態性や理解の開示性において既にあらわになっているから、「伝達(Miteilung)」は一つの主観の内部からもう一つの主観の内部へと体験を伝達することではない。

語りにおける伝達ではむしろ共同存在が明示的に分かち合われる(teilen)のだ。

「現」として開示性を備えていて、気づかわれる対象の元で存在している現存在は語ることによって自分を外に現表する。

語る調子や抑揚によって現存在の気分(情態)が現表されている。

語りを構成するのは「なにについて」、語られているもの、伝達の三つであるが、それらは単なる属性ではなく現存在の存在体制に関わっている。

そして語りの実際の形態である個々のことばはこの性格によって初めて存在論的に可能となる。

語ることの可能性の一つである「聞くこと」から語りが理解や了解可能性と関わっていることが明らかになる。

「聞いていなかった」ということが「理解していなかった」と言い換えられることもこの関係を示している。

何かを聞くことは現存在が他者に対して開かれていることで、聞き取ることで相手に所属して存在している。

だから相互に聞き合うことで共同存在が形成される。

注意して聞くことは理解しながら聞くことであり、私たちは単なる音を聞き取るのではなく「何かの音」ととして受け取っている。

このようにして何かの音として聞くことは現存在が手もとにあるものの元で存在しているということを示している。

他者の語りを聞く時も、現存在は語られているものの所に他者と一緒に存在している。

語りがどのように行われていて、それが相応しいかどうか判断できるのも語られている対象を先立って理解しているからだ。

語ることと聞くことが実存論的に可能となって初めて「注意して聴くこと(horchen)」が可能となる。

すでに理解している者のみが、耳を傾けることができるのだ。*16

互いに語り合うことにおいて沈黙することは、多くを語りすぎることよりも伝えたいことを相手に理解させることができる。

なぜなら多く語ることで常套句によって見せかけの理解や明晰さが得られてしまい、本来的な理解が遠ざかってしまうからだ。

ところで最初から口のきけない人は沈黙することができない。

だから沈黙することができるのは語ることができる存在者、すなわち自分の開示性が手の届くところにある存在者である。

そして沈黙という語りのバリエーションの一つにおいて了解可能性が根源的に分節化され、真正な「聞くこと」が生まれてくる。

語りは「現」すなわち理解と情態性を構成しているから、現存在は常に言葉を有している。

そこからギリシャ人は人間を「ロゴスを持つ動物」と定義していた。

このことが意味しているのは人間が言葉を発する動物であるということではなく、現存在は世界や現存在を発見するという様式で存在しているということだ。

これまでの哲学的省察ではロゴスは言明として考えられ、文法学はロゴスを目の前にあるものとみなす論理学に基づいている。

しかし本来は語りは実存カテゴリーであり、言語学はより存在論的に根源的な基礎の上に構築し直されなければならない。

そのためには語りの構造が明確化されなければならず、そのために現存在の存在についての分析を成功させなければならない。

結局哲学においてはことばがどのように存在しているのかを問わなければならない。

以上でのことばについての探求はことばが現存在の存在体制においてどのような役割を持っているのかについて解き明かすものであった。

次に語りとその他の現象との関連から現存在の日常性をより詳細に明らかにしていく。


感想

第一篇第五章では「現(Da)」という概念が提示された。

ここでの記述が少なくわかりづらいのだが、読んでいる範囲での使われ方を見ると「現存在が現に存在していること」を指しているようだ。

つまり現存在や世界がただ概念としてあるだけでなく、実際に存在していることが「現」なのだろう。

そして「現」は「明るみ」でもある。

これまた難解な概念だが、現存在自身や手もとにあるもの、他者が現存在が現にそこにあること(「現」)によって初めて了解可能となるということだろう。

ハイデガーの言う)現象学的には事柄それ自身が開示性を持っているため、それらは探求によってではなく「現」によって開示されてくる。

共同存在として他者と溶け合って「ひと」として存在している現存在をある一点として捉えて、その周囲にある道具が発見されると主張することはできないが、それでも発見される道具とそうでない道具がある。

だから点ではなく曖昧な明るみとして現存在が存在していて、その明るみに照らされた道具と現存在自身が発見されるということだと思う。


第五章Aではまず情態性という概念が提示された。

これは現存在が実際に存在しているその具体的なあり方のことで通常は気分と理解される。

私たちは何かの気分になろうと思ってなるのではなく、気付いたらその気分になっている。

この受け身の性質が「被投性」と呼ばれるものだろう。

先日教授にショーペンハウアー哲学のハイデガーに対する影響について聞いた時、この「気分」を主題的に扱った点がショーペンハウアーの影響だと言っていた。

カントにおいては感情や気分はあまり扱われないが、ショーペンハウアーは「生への意志」として人間が持つ感情や衝動を中心的な課題として研究していた。

生への意志は全てに先立って存在していて人間はその現象として欲望を「持たされている」にすぎないから、感情に「襲われる」という観点にもショーペンハウアーの影響が見られる。


次に投企という性質を持つ「理解」が登場した。

この理解は存在者の適所性の全体(=世界)の開示性としてあるものだが、理解にはもう一つの意味合いがある。

例えば「自転車の乗り方を理解した」という時、「自転車に乗ることができる」ということも意味されている。

だから理解には何かが可能であるという意味があるとハイデガーはいう。

すると理解することは「何かが可能となること」をも意味している。

投企というのはある可能性が実現されてくる(「現」となる)ことで、自転車の乗り方を理解する時「自転車に乗ることが可能である」という現存在の存在の可能性が実現されている。

だから理解には投企的な性格があり、理解することで現存在は自分自身の存在をある可能性に向けて投げ込んでいる。

この例で見られるように現存在は理解することで何かが可能であるような存在すなわち「可能存在」となっている。

また理解という投企も現存在の「現」として一つの情態であるから、投企は同時に被投性も持っている。

すると現存在は投企するというあり方で既に存在してしまっていることになる。

だから現存在は常に自分の存在を可能性に向けて投企し終えている。

つまりどれが今の現存在でどれが可能性なのかの区別がそもそも不可能であり、それゆえに現存在は可能性として存在していると言われるのだ。

何かが可能である存在が同時にその可能性そのものでもあるというのは明らかな矛盾で、それをハイデガーは踏み越えようとしている。

ハイデガーのすごいところは既存の言語を用いて既存の言語ではどうやっても矛盾をきたす概念を説明しようとしていて、さらに部分的にはそれに成功しているというところだと思う。


そして解釈という行為の構造について分析された。

解釈を行うためには有意義性の全体(=世界)を先立って理解していること(あらかじめ持つこと)が必要であるとハイデガーはいう。

この循環は「観察の理論負荷性(Theory-ladenness of Observation)*17」として科学哲学の文脈で語られる概念を想起させる。

観察の理論負荷性は、何かを観察する際に観察者が先立ってコミットしている理論体系やパラダイムの影響を受けるということである。

ハイデガーはこの循環を悪いものと考えるのではなく、循環に正しく入り込むことが重要だと言っている。

観察の理論負荷性が取り沙汰される文脈では世界内部的な存在者は「目の前にあるもの」とみなされて研究されていて、そこでは循環が悪いものだと考えられている。

現存在は世界を先立って理解しているという議論には納得できるので、私は現段階ではこの循環を受け入れるのがいいと思っている。


第三十四節では「語り」というもの何なのかが提示された。

そもそも有意義性の連関の全体として有機的に一体となっていた世界が語りによって裂け目を入れられて個々の有意義性(意味)が生まれてくる。

私たちが普段想像する「個人」というものも語りによって共同存在(「ひと」)から分節化されたものだ。

だからそもそも根本的に存在しているのは「ひと」で「個人」だとか「主観」というものは語りによってそこから切り出されたものなのだろう。

語りによって「私」が生まれるという論を読んだ時に脳裏をよぎったのが先に読んだデネット『解明される意識』の「物語的重力の中心としての自己」だった*18

この自己は網の目状の発話と行為を紡ぎ出し、それがあまりに高度なので「自己」にあらゆる命令を発する中心的な主体が存在するように思われたのである。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。

ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ

自己が生まれるプロセスについては少し相違があるが、中心的な一点としての自己が語りや行為によって生み出されるという結論は一致している。


(2017/2/19追記)

「現」は「ひと」としてどこにもいない現存在がそれでもある一定の場所において存在しているということ。

どこにもいなければ何も開示されないが、「ここ」にいるなら「ここ」にあるものは開示される。

すなわち「現」=「開示性」。

手もとにある道具のもとで存在している現存在の有意義性を理解する(という形で存在する)=現存在の可能性として存在する。

ただ道具が開示されるだけではなくその有意義性(可能性)が「理解」される。

有意義性の理解として存在する現存在は、道具の可能性として存在する可能存在である。


この記事の続き、第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:この「現(Da)」というのは存在という概念があるだけではなく「現に」実際に現存在が存在していることを言っているんだと思う。

*2:1.1.5.28.370 p145

*3:ここでの「情態」は配慮的気づかいとしての現存在の具体的なあり方のことだろう。「状態」の同義語でもあるので現存在の状態に感情の意味を加えた表現とも受け取れる。

*4:1.1.5A.29.378 p151

*5:ここではなぜ何も無いのではなく何かが存在しているのか、「現」があるのかという存在論的な謎が信仰や科学によっては解き明かせないものとしてあるということを言っているのだと思う。

*6:1.1.5A.29.383 p160

*7:注解によると失調、意気消沈なども意味している。この場合意気消沈の方がわかりやすい気もする。

*8:1.1.5A.29.387 p166

*9:1.1.5A.31.407 p194, 195

*10:「なにのゆえに」や有意義性を理解するという存在の様式に投企していくことだと思う。

*11:1.1.5A.31.410 p201

*12:現存在が手もとにあるものの元で存在している時のみ有意義性の分肢化が行われて意味が生じるということだろう。(2017/2/19追記) 手もとにある道具のもとで存在する現存在が「意味」を文節化されているということ。確かに道具は現存在がそこで存在するときのみ意味を付与されるが、現存在がそのもとで存在していない時の道具はそもそも開示されていない。

*13:AuslegungではなくInterpretation

*14:情態性において「現」が開示されることを言っているのだろう。

*15:了解可能性が語りによって先立って分節化されて、最初からある意義を持ってことばが生まれてくるからことばも世界内存在と同じように被投性を持っていると言われるのだろう。

*16:1.1.5A.34.466 p278

*17:Theory and Observation in Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy) "4. How observational evidence might be theory laden"に詳しく書いてある。

*18:詳しくは以下の記事re-venant.hatenablog.com

2016/3/18のNOUS FMで使った曲

2016/3/18放送のインターネットラジオ番組"sprout's dub 94 on NOUS FM"でのmixで使用した曲について書いていく。


ラジオ放送のアーカイブは以下。


また使った曲をサウンドクラウドでプレイリストとしてまとめてある。



josh pan & X&G - platinum (gill chang remix)

1/29にリリースされたコンピレーション"OWSLA Worldwide Broadcast"の一曲をノースカロライナのGill Changが早速リミックスしたのがこの曲。

原曲よりかなり速度を上げて、硬質なスネアとベースが特徴的なトラップとなっている。

Gill Changは他にもflumeの”never be like you feat. kai”や"smoke and retribution feat. vince staples & kucka"、zedd & aloe blacc & greyの"candyman"を相次いでリミックスしてサウンドクラウド上で公開していて、それぞれ無償でダウンロードできる。

どれもシャープなシンセサイザーの音色とうねるベースラインが心地いいフューチャーベースとして仕上がっているので聴いてみてほしい。



YOGI - SIRI Feat. Elliphant & Pusha T (KRNE remix)

YOGIがElliphantとPusha Tの二人のラッパーとコラボした"SIRI Feat. Elliphant & Pusha T"をインテリジェントなトラップシーンの筆頭格KRNEがリミックス。

KRNEがラップの乗ったトラップを制作するのは珍しいので印象深かった。

不穏なピアノの旋律やベースと一体となって厚みのあるシンセサイザーがElliphant、Pusha T二人のラップ/ボーカルと組み合わさってダークな雰囲気に仕上がっている。

以下のリンク先から無償でダウンロードできる。

https://www.toneden.io/krne/post/yogi-siri-ft-pusha-t-elliphant-krne-remixwww.toneden.io



Masayoshi Iimori - Whirlwind(Blacklolita Bootleg)

OWSLAのサブレーベル"NEST HQ"からリリースされたMasayoshi Iimoriの"Whirlwind"を福岡在住のBlacklolitaがリミックスしたのがこの曲。

Blacklolitaは攻撃的なダブステップを軸として様々なジャンルを融合させたトラックメイクを得意としていて、この曲ではフューチャーベースやジャージークラブを独自解釈して盛り込んでいるようだ。

Lidoの変名義として2013年から2015年初頭にかけて活動していたTrippy Turtleがよく使っていた"fofofadi"や"Turtle"というボイスサンプルやベッドスクイークを多用しているのが、2016年の流行からちょっとハズしている感じがして良い。

曲のキャプション欄にdropboxのリンクがあり、そのリンク先からダウンロードできる。



X&G - Replika ft. Naim Liss

ソルトレイクシティのXianとGasziaの二人組みユニットX&Gのこちらのトラックも紹介した。

この曲自体は半年前から公開されていたが、2016/1/1にX&Gのアルバム"Anomalies"に収録されるという形でリリースされた。

凄まじい重圧を感じさせるバスドラムとベースが特徴的でサウンドシステム映えしそうである。

また前半と後半でビートの組み方がガラッと変わるのもこの曲の面白い点の一つだろう。

余談だが「アノマリ」とはある理論からは説明できないような事象や観測結果のことで、科学哲学者のトーマス・クーンが「パラダイムシフト」の誘因として論じていた*1

11曲+ボーナストラック4曲入りの"Anomalies"は以下のbandcampページで1ドルから購入できる。

xandg.bandcamp.com



Yellow Claw, San Holo - Alright (Original Mix)

2016/1/29にSkrillexのレーベルOWSLAからリリースされた"OWSLA Worldwide Broadcast"から一曲紹介した。

この"OWSLA Worldwide Broadcast"はGetter, Wiwek, Boaz, Louis The Child, DJ Sliink, Nadus, G-Buck, Alvin Riskといった今勢いのあるアーティストが集合していて豪華なコンピレーションとなっている。

トラップやハードスタイルを製作しているYellow Clawとフューチャーベースのシーンで活躍しているSan Holoが合作するのは意外だったが、化学反応によって面白いトラックになっていると思う。

OWSLA Worldwide BroadcastはiTunes StoreBeatportから購入できる。

OWSLA Worldwide Broadcast

OWSLA Worldwide Broadcast

  • Various Artists
  • ダンス
  • ¥1630



Ryan Hemsworth & Lucas - From Grace (Henrik The Artist Remix)

Ryan Hemsworth & Lucasの"From Grace"を謎に包まれたトラックメイカーHenrik The Artistがリミックス。

Ryan Hemsworthが運営しているレーベル"Secret Songs"のサウンドクラウドページで公開されていてフリーダウンロードで入手できる。

壮大で開放感のあるブレイクから小気味良いビートに切り替わっていく規模感のズラしが良い感じ。

原曲の"From Grace"は同じく"Secret Songs"からリリースされたRyan HemsworthとLucasの合作EP"Taking Flight EP"に収録されていて、こちらのEPは作り込まれたエモーショナルで繊細なビートが楽しめる作品集となっている。



ABSRDST & Diveo - We're Beautiful (Maxo Icemix)

ABSRDSTとDiveoのコラボトラック"We're Beautiful"をMaxo, Matra Magic, Foxsky, GRRL, Masayoshi Iimoriがリミックスした"We're Beautiful Remixes"から一曲紹介した。

Maxoはニューヨーク在住のトラックメイカーでオリジナルトラック以外にもブートレグやリミックスを多数製作している。

このリミックスは極度にピッチを上げてカットアップされたボーカルとゆったりしたビートが特徴的で叙情的な仕上がり。

その他のリミックスはこちら。

以下のリンク先から全曲無償でダウンロードできる。

www.toneden.io



Machinedrum - Take Flight (FVLCRVM rmx)

Machinedrumの"Take Flight"リミックスコンテストで400を超える応募の中で優勝したこのトラックはMachinedrumのサウンドクラウドページで公開されていて、フリーダウンロードで入手できる。

ジュークのリズムを取り入れたフューチャーベースで、イントロの一旦キックとベースだけになった後にスネアの連打が入って一気に盛り上がるところが気に入っている。

FVLCRVMという名前はfacebookで"支点 (FVLCRVM)"と表記されていることからラテン語で「支点」を意味する"fulcrum"から取っているのだろう。

このリミックス以外にもオリジナル曲"Jet City"もオススメ。



tofubeats Feat. の子 - おしえて検索 (PARKGOLF Remix)

tofubeatsの"First Album Remixes"が"POSITIVE REMIXES"の初回生産限定盤付属としてCD化されたのでそれに収録されているこの曲を紹介した。

この"おしえて検索 (PARKGOLF Remix)"は跳ね回るシンセサイザーとビートが楽しいリミックスとなっている。

"First Album Remixes"には他にも"Come On Honey! (spazzkid Remix)"や去年各地のクラブでよく耳にした"CAND¥¥¥LAND (Pa's Lam System Remix)"も収録されていて豪華。

"POSITIVE REMIXES"初回限定盤はタワーレコードAmazonなどで販売されている。

tofubeats/POSITIVE REMIXES<初回生産限定盤>

http://www.amazon.co.jp/POSITIVE-REMIXES-%E5%88%9D%E5%9B%9E%E7%94%9F%E7%94%A3%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%9B%A4-tofubeats/dp/B017R4AWF4

"First Album Remixes"はダウンロード販売ならiTunes StoreAmazonで、アナログレコードは売り切れてしまったようだ。



KRNE x Jupe - Quartzz

KRNEが送られてきたデモをもとに合作する"SESSIONS"シリーズ二つ目からマイアミのJupeとコラボレーションしたこのトラックを紹介した。

1:33からの重厚なパッドと爽やかなメロディーが気に入っている。

また"SESSIONS"のサウンドクラウドアカウント上でそれぞれ個性的な合計8曲が公開されているので聴いてみてほしい。

https://soundcloud.com/krnesessions

KRNE x Jupe - Quartzzは以下のリンク先からフリーダウンロードで入手できる。

https://www.toneden.io/krne/post/krne-x-jupe-quartzz-sessions_22www.toneden.io

ハイデガー『存在と時間』(二)①


引き続き熊野純彦訳の『存在と時間』を読んでいて第二分冊に入った。

この記事では第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第四章 共同存在ならびに自己存在としての世界内存在「ひと」

現存在が日常的に世界に没入していることと内存在によって世界内存在という現象は規定されている。

ここでは日常性において現存在なのは「だれ」なのかという問いを手掛かりにその現象の解明に挑戦する。

この「だれ」と問うあり方もまた現存在の実存論的なあり方であり、まずはこの問いに正しく着手する方法を見つけなければならない。

「だれ」という問いによって導かれるのは現存在の構造で、それは世界内存在と同じように根源的な「共同存在と共同現存在(das Mitsein und Mitdasein)」である。

このあり方に「自己存在(Selbstsein)」と「主体(Subjekt)」が基づいている。

以下の三つの節で現存在が「だれ」であるのかを解明していく。

第二十五節 現存在が〈だれ〉であるかへの、実存論的な問いの着手点

第九節で見たように、現存在は常に私であり実存は常に私の存在である。

これは現存在の存在体制を暗示しているという点では正当だが、それだけにとどまっている。

この「私」によって現存在を考える時、現存在は「自我」「主体」「自己」として考えられている。

この場合自己は世界との関わりや態度の変転においても同一なものとして持続しながら、現存在の多様なあり方に関わるものとして了解される。

私たちはこれを目の前にあり根底にある「基体(Subjectum)」として考えるが、これは魂という実体と同じような着手点である。

「だれ」という問いにこの実体によって答えて、現存在を目の前にある実体と捉えるのは間違っている。

「私が現存在である」という言明は存在的には自明かもしれないが存在論的にはそうとは限らない。

だからその言明からではなくて現存在についての現象学的な解釈から「だれ」という問いに答えなければならない。

確かに自分を省みたときに自我が与えられていることを発見するのは妥当なことのように感じられるが、そのやり方は日常的な現存在を開示するものなのだろうか。

内省から発見される自我は惑わしであり、現存在が私のものであるということは実は現存在が現存在自身ではないことを意味しているのだ*1

「自我」という言葉はその反対のものを形式的に暗示するものでしかなく、「非-自我(Nicht-Ich)」は自己の、例えば自己を喪失しているといった存在のしかたを指している。

また、ここまでの世界内存在の解明から世界とは独立に主観が存在しているわけではないとわかったから、世界に先立った「自我」を出発点とすることは間違っていることになる。

自我が孤立しているのでないとしたら現存在は他者と「共に現に存在している(mit da sind)」が、それは存在論的に自明なことではなく解明を必要とする。

また現存在が「だれ」であるかというのは実際には存在論的にだけでなく存在的にも不明なままだ。

そうすると「だれ」という問いへの手がかりがそもそもないように思われるかもしれないが、現存在は本質的に「実存」に基づいているのだからそこを手引きにすればいい。

そしてまた現存在が私であるということが本質的ならば、自我はこの実存から解釈されなければならないのである。

他方人間の実体は心と身体を合体させた「精神(Geist)」ではなく実存だから、現存在を「目の前にあるもの」すなわち事物として見る観点は捨てなければならない。

第二十六節 他者たちの共同現存在と日常的な共同存在

世界の解明において世界内存在の世界以外の契機もすでに視界の中に入っていて、「だれ」という問いへの答えもその中に含まれている。

周囲世界の適所性の連関を考えた際に、仕事や製品の対象として他者に出会った。

道具は同じく現存在である他者の周囲世界において手もとにあって、その他者の周囲世界は私たちの世界でもある。

これら他者は自身が現存在として世界内存在であるのと同時に、自身も世界内部的な存在者として出会われている。

つまり他者「もまた共に現にそこに存在している(es ist auch und mit da)」のである。

この他者たちは「私以外の人々」としてあるわけではなく、現存在がその元で存在している人々なのだ*2

「他者たちと共にまた現にそこに存在していること(Auch-da-sein mit ihnen)」の「共に」は目の前にあるものとして並んでいることではなく、「また」は配慮的に気づかう存在において同等であることである。

だから「共にまた現にそこに存在していること」は現存在の実存カテゴリーとして理解されなければならない。

この「共に」によって私たちは共同世界の中にいて、現存在の存在は共同存在なのである。

この「共に」を帯びた(mithaft)世界内存在にもとづいて、世界はそのつどすでに私が他者たちと分かちあっている世界なのだ。現存在の世界は共同世界(mitwelt)であり、内存在とは他者たちとの共同存在(mitsein)である。他者たちが世界内部的に自体的に存在するとは、ともに現に存在することなのである。*3

他者は配慮的に気づかう現存在がそのもとで存在している周囲世界の側から出会われるので目の前にある事物ではない。

現存在が自分を「ここにいる私」とみなしていても、その「ここ」は周囲世界の道具の場所から遡って考えれられるので、「ここにいる私」は自我の一点を意味しているわけではない。


現存在が出会うのは人格としての他者ではなく、周囲世界において仕事をして手もとにあるものと出会っている世界内存在としての他者である。

そもそもは孤独な現存在が可能な様態として他者と「共に」存在することができるというわけではなく、現存在は先立って本質的に「共同存在」なのである。

現存在の世界内存在は本質からして共同存在によって構成されている。
(das In-der-Welt-sein des Daseins wesenhaft durch das Mitsein konstituiert ist)
*4

この共同存在は他者が目の前にいないときでも現存在を規定している。

むしろ他者の「不在」ということがあり得るのは現存在が共同存在だからである。

そしてまた他者たちが現存在の共同存在において出会われることができるという点で「共同現存在」が他者たちの現存在の特徴となっている。

個々の現存在は共同存在という構造を有しているからこそ、他者と出会うことのできる共同現存在なのである。

共同存在は世界内存在の構成要素なので、それは「気づかい」という点から解釈されなければならない。

しかし他者は道具と同じように配慮的に気づかわれるのではなく、「顧慮的な気づかい(Fürsorge)」の対象である。

この顧慮的な気づかいという現存在のあり方は基本的には欠如していて、それゆえに社会的な諸制度としての顧慮的な気づかいが必要となってくる。

配慮的に気づかわれる道具が目立たないあり方をしているのと同じように顧慮的に気づかわれる他者も日常においては目立たない。

この点から他者が目の前にあり、共に存在することは複数の主体が目の前に並んでいることだという誤った解釈が生まれる。


他者への顧慮的な気づかいには二つの極がある。

一つ目は他者の周囲世界に対する配慮的な気づかいを他者の代わりに引き受ける顧慮的な気づかいだ。

その時他者は自分の周囲世界への気づかいを取り去られて「依存し支配される者」となっている場合がある。

二つ目は他者の道具にではなく他者の実存に対して行われて、他者の存在可能性に「先立って飛ぶ(voraussoringt)」顧慮的な気づかいだ。

そのような顧慮的な気づかいが他者を助けて、自分がその気づかいのうちにあることを見とおさせ、自分の気づかいに向かって自由になること(für sie frei zu werden)を可能とさせるのだ。*5

つまりこの顧慮的気づかいは他者の周囲世界に対する配慮的気づかいを取り去るのではなく、むしろをそれを他者に対して「与えかえす(zurückzugeben)」のである。

このように顧慮的な気づかいは現存在の存在体制でありその存在に深く関わっている。

「共同相互存在(miteinandersein)」は複数の現存在が共通して気づかっている道具や仕事によって基礎づけられる。

第一の極の顧慮的な気づかいにおいて共通の仕事が行われる場合、現存在同士は間隔を持って互いに遠慮している。

しかし第二の極の顧慮的な気づかいにおいて共通の仕事に没入している場合その仕事はそれぞれの現存在によって規定されていて、このとき現存在同士は本来的に結びついている。

このような結びつきというあり方において他者は「自分の気づかいに向かって自由に」なって他者自身を捉えることができるようになる。

この二極の間で相互共同存在は営まれていて、それは多様なあり方を示す。

手元にあるものを気づかう様式として「目くばり」があったのと同じように他者に対する顧慮的な気づかいには「かえり見(Rücksicht)」と「見まもり(Nachsicht)」がある。

そしてそれぞれが欠如的な様態として「かえり見ないこと(Rücksichtslosigkeit)」と「(何もかもを)見てやること(Nachsehen)」に至ることがある。

道具だけではなく共同現存在における他者も周囲世界において出会われ、この存在者は共同世界のうちで内存在である。

第十八節で世界は有意義性の連関だと理解されたが、この有意義性の連関(世界)を先立って了解していることで現存在は手もとにある道具が適所にあることを発見する*6

そしてその有意義性の連関は現存在の存在に「なにのゆえに」という形で行き着く*7

ここまでで見たように現存在の存在には共同存在が含まれているから、現存在は他者たち「のゆえに」存在している。

存在に対する先だった了解と同じく、共同存在において現存在は他者たちを先立って了解している。

その先だった他者の了解とともに有意義性の連関が形成され、世界は現存在の「なにのゆえに」としてある。

そしてこのように構成された世界において手もとにある道具と「共に現に存在している」他者が出会われる。

つまり共同存在に対する先だった了解によって共同現存在としての他者が接近可能となるのだ。

このことが意味するのは現存在の存在了解には他者たちへの了解も含まれているということだ。

これは認識作用から得られる知識ではなく、むしろ認識作用を生み出す基礎である。

現存在どうしの「たがいの知(Sichkennen)」は共同存在に基づき、その知は現存在たちが手もとにあるものを配慮的に気づかいながら理解するとき得られるものとなる。

このようにして他者は「配慮的に気づかう顧慮的な気づかい(besorgende Fürsorge)」において理解されている*8

しかし顧慮的な気づかいは基本的に欠如しているか無差別な様態(無関心)であるので、「たがいの知」は直接面識を得ることで初めて得られる。

ただこの「たがいの知」が目立たなかったり偽られたりして失われると、特別な方法で互いを理解しなければならなくなる。

とは言っても現存在どうしの間で隠し事をしたりや偽ったりすることも共同相互存在のあり方の一つなので、同じように互いに正しく知ることも共同存在に基づいている。

このような相互理解は他者を主題的に開示することではあるが、それは「理論的-心理学的」なものではない。

人は現存在と他者の関わりを「自分の存在についての存在了解」という自己に対する関係と同じものが他者と他者自身の間にも成り立つとして、個々の現存在が他者を理解することだと考えるがそれでは他者は自分の複製となってしまう。

この考えは現存在自身の存在が他者の存在にも関わるということを前提しているが、その前提においてはなぜ現存在の自分自身への関係が他者にも当てはまるのか解明されていない。


「他者へと関わる存在」という存在連関は共同存在として現存在の存在をすでに先だって構成している。

確かに自己理解が他者の理解につながることは否定できないが、自己を理解すると他者を理解できるのはその際に自己を構成する「共同存在」を理解できるからである。

心理学的な「感情移入」は共同存在に基づいて初めて可能となり、感情移入が常に要求されるのは顧慮的な気づかいが普段は欠如しているからなのだ。

さて、現存在が周囲世界に没入しているとき気づかわれる道具の側で存在していたように、現存在は他者たちとの関わりである共同存在に没入しているとき他者の側に存在していて、そのとき現存在は現存在自身ではない。

ならば現存在が「だれ」なのかという問いに対する答えとは一体何なのだろうか。

第二十七節 日常的な自己存在と〈ひと〉

ここまでの分析から他者たちの「主体性格」がある存在様式から規定されていることがわかった。

他者たちは彼らが配慮的に気づかっている対象において存在していて、その対象となっているものとして出会われる。

現存在は「他者たちと共に、他者たちのために、他者たちと対抗して(mit, für und gegen die Anderen)」周囲世界における道具を配慮的に気づかっている。

そのうちには他者からの遅れを取り戻したり遅れている他者を押さえつけたりという形の、他者と自分の間の区別への気づかいが基づいている。

すなわち共同相互存在はこのようにしてそれぞれの間の「間隔(Abstand)」を保っている。

現存在は常に顧慮的に気づかっている他者のもとで存在しているから、他者の意向が他者との間隔を保っている現存在のあり方のすべてを規定してしまう。

だから「間隔を保っていること」には現存在が他者による「支配のもとにあること(in der Botmäßichkeit der Anderen)」も含まれている。

この他者たちは有意義性の連関全体の中にいる他者全てであるため、特定の人物ではなくまた手もとにある道具と同じように目立たないあり方をしている。

そして他者たちこそが共同現存在として「現存在する(da sind)」するものだ。

だから「だれ」という問いの答えは特定の他者ではなく人間自身でもない「ひと(das Man)」なのだ。

現存在たちは交通機関や報道機関を利用することで共通で公共的な周囲世界を一緒に気づかっているから、すべての現存在は他の者と同じように存在して個々の現存在は他者たちの中に解消されていく。

このように現存在が他者の中に溶け込んでいくことでさらに他者たちは目立たないものになっていく。

そして現存在は他者と同じように感情を持ったり判断したりする。

「群衆」とは違うやり方で考えようとしてもその行為すらも「ひと」が規定している。


共同存在の間隔を保とうとする傾向は共同相互存在が「平均的なあり方(Durchschnittlichkeit)」を配慮的に気づかうことに基づいている。

「ひと」は実存論的に平均的であるので、平均的なあり方が気遣われる中でその平均性において人がして良いこととしてはいけない事を予め規定している

この平均性への気づかいは現存在が持つ傾向でもあり、それを存在可能性を「均等化すること(Einebnung)」と呼ぶ。

以上で見てきた「間隔を保つこと」「平均的なあり方」「均等化すること」が「公共性(Öffentlichkeit)」と呼ばれるものを構成していて、その公共性は世界と現存在の本来的な解釈を遠ざけている。

公共性はことがらそれ自身へ立ち入らないことに基づいていて、全てを覆い隠して隠されたものは自明なものだと思い込ませてしまう*9


「ひと」は現存在の決断を全て規定していて、現存在から責任を奪う。

人々は決断に際して「「ひと」がそう言っているから」など「ひと」を引き合いに出すが、その「ひと」は誰でもないので責任を取る者はいない。

「ひと」このようにして現存在から存在することという「重荷を取りさる(entlastet)」。

さらに現存在は軽率に行為しようとする傾向を持っているから「ひと」はそのような現存在の意向を汲み取るものとなるし、その場合「ひと」はますます現存在を支配する。

そして

だれもが他者であり、だれもがじぶん自身ではない。
(Jeder ist der Andere und Keiner er selbst)
*10

だから現存在は「だれ」なのかという問いの答えは誰でもない「ひと」だということになる。

そして共同存在としての現存在は常に誰でもない者、「ひと」に支配されているのだ。


以上から共同現存在は「間隔を保っていること」「平均的なあり方」「均等化すること」「公共性」「重荷を取り去ること」「意を迎えること」という性格を持っていることがわかった。

これらの存在性格の中に現存在の実存に関わる「変わらないあり方(Ständigkeit)」がある。

このあり方をしている時現存在の自己と他者の自己の区別はなされておらず、現存在は非自立的、非本来的に存在している。

誰でもない「ひと」が無ではないのと同じく、現存在が他者の中に解消されても現存在が目の前にあるということ(事実性)がなくなるわけではない。

むしろこの存在様式において現存在はもっとも実在的とも言えるのである。


「ひと」は目の前に存在するわけではないが、存在への問いの中でそれを見ると日常性における「もっとも実在的な主体」としてその姿を表す。

「ひと」は現存在の存在を規定しているので、存在への問いは「ひと」という現象を標準的なものとして進めていかなければならない。

また「ひと」は現存在という存在者の性質(カテゴリー)ではなく実存カテゴリーである。

だから目の前にあるものについての存在論を基礎とする伝統的な論理学は「ひと」という現象の解明には役立たない。

また実存カテゴリーとしての「ひと」は現存在に適合した様々な形で具体化していくことができて、それゆえに「ひと」による現存在の支配やその明示性は時代によって変わっていく。

日常的な現存在の「自己」は「ひと」から考えられた「ひとである自己」で、これは個々の現存在の個別的な自己とは異なっている。

「ひと」の中に分散した現存在の「ひとである自己」は周囲世界を気づかいながら没入している。

現存在が「ひとである自己」を先立って了解しているなら、「ひと」によって現存在や世界についての解釈があらかじめ与えられているということになる。

「ひとである自己」は現存在の存在の源泉である「なにのゆえに」でありそれによって有意義性の指示連関がそれぞれの道具について区分けされている。

日常的な現存在は平均的な解釈によって明らかにされる共同世界の中に存在していて、固有の「私」ではなく「ひと」としての他者たちが存在しているのである。

「ひと」の側から、また「ひと」として、私は私「自身」にさしあたり「与えられて」いる。*11

現存在の本来的なあり方は「ひと」によって現存在自身に対して覆い隠されているので、その隠すものを取り去ることで初めて現存在は自身の本来的な存在を発見して世界に固有な仕方で接近することができる。


日常的な現存在は「ひと」という存在様式から先だった存在了解を得ている。

周囲世界に没入している時世界という現象は見過ごされているので、世界内部的な存在者が目の前にあるものとして現れてくる。

その時共に現に存在している他者も目の前にあるものとして解釈される。

「ひと」という日常的な現存在のあり方が「ひと」自身を自明なものと思い込ませて覆い隠しているのである。

また「ひとである自己」は現存在が本来的に掴み取っている自己からは区別される。

この「本来的な自己存在(Das eigentliche Selbstsein)」は目の前にあるものではないので、「ひと」から分離されたものではなく、「ひと」が実存論的に変容したものなのだ。

そして「本来的に実存する自己が自己自身であること(Selbigkeit des eigentlich existierenden Selbst)」は多様な体験の中での自我の同一性ということも意味していない。


感想

第一篇第四章では現存在が「だれ」なのかという問いが立てられ、それに対する答えが提示された。

私たちは「ここ」という一点にいるのではなく世界内存在として様々な他者のところで存在しているが、その他者も同じように世界内存在だから「そこ」という一点にはいない。

だからそのようにして分散された共同現存在である「ひと」だけが存在しているのである。

第一編第三章ではデカルトの延長実体が批判されていたが、ここではデカルトの思惟実体すなわち「思考する我」とのちの哲学における思惟実体の変形としての主観や主体が批判されているのだと思う。

「だれもが他者であり、だれもがじぶん自身ではない。」というのは「確固たる私」というのが無いということを表明している。

ここで心身二元論はどちらの実体についてもその根底を崩されたことになる。

偶然だが直前に読んでいたデネットデカルト二元論批判という点ではハイデガーのこの辺りの主張と共通している。

デネットの『解明される意識』における「物語的重力の中心としての自己」も「確固たる中心主体としての私」というものを批判して、人が紡ぐ物語の解釈の中に「自己」というものが措定されるという主張だったがこれもデカルト二元論を捨てた上で「自己」を考えるという試みの一つだ*12

そしてまた同じ本で主張される意識の「多元的草稿」理論は中心的な一点としての自己を否定するという点ではハイデガーがここで言っている「分散された現存在」と似通っているとも言える*13

この「物語的重力の中心としての自己」「多元的草稿としての意識」と「「ひと」である自己」という考え方を知って衝撃を受けたし、自分はこれまで主観と客観の枠組みや主体と環境の二元論的区別を掘り下げて批判できていなかったという反省が生まれた。

その意味で自己についての新しい見方を連続して得られたことで思考の枠組みを更新することができてよかったと思える。


ところで現存在が「ひと」によって支配されているというのはなかなかに恐ろしい事実だと感じた。

これはマスメディアなどによって画一化される「大衆」論であるのと同時に、そもそも人は存在の根本のところで他者との間隔を意識して平均的にあろうとしているということも言っている。

そしてその中で「ひと」の意向が現存在の行為を規定していて、責任すらもが現存在から剥奪されている。

また個々の現存在というのは元からないのだから、それぞれが自由な意志の元で行為するということもない。

ここで「中心主体としての私」に基づく倫理学や自由についての議論は役に立たないことがわかる。

以降のハイデガーの考察を読む中でこの「ひと」としての現存在において倫理や当為の問題がどのように解明されていくのか、という点を考えていきたい。


この記事の続き、第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下
re-venant.hatenablog.com

第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)は以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:第二十七節の内容を先取りしている。

*2:

現存在は道具がある場所から遡って自分がいる場所を把握していて、だから現存在は配慮的な気づかいとして道具がある場所に存在しているのである。(第二十三節)

ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ
ここでも同じように「他者」がある場所から遡って自分のいる場所を把握しているということだと思う。

*3:1.1.4.26.324 p81

*4:1.1.4.26.329 p88

*5:1.1.4.26.333 p97

*6:現存在が適所性の連関をあらかじめ知っていることで、道具がどんな適所性を持っていてそれらがどう連関しているかを理解することができるということだろう。

*7:現存在は問いに先立って存在(実存)しているが、その存在は世界(有意義性の連関)があるからこそ可能となるのである。その意味で有意義性の連関が現存在の存在にとって「なにのゆえに」だと言っているのだと思う。

*8:「配慮的に気づかう顧慮的な気づかい」は顧慮的な気づかいの第二の極を指しているのだと思う。

*9:物事を現象的に解明しようとしない公共性が存在への問いを忘却させてしまうということだろう。

*10:1.1.4.27.355 p122

*11:1.1.4.27.360 p130

*12:詳しくは以下の記事に書いている。 re-venant.hatenablog.com

*13:「多元的草稿」については以下の記事。 re-venant.hatenablog.com

ハイデガー『存在と時間』(一)④


存在と時間』第一分冊について記事の四つ目(最後)。

この記事では第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)については以下の記事に
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)については以下の記事にそれぞれ書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第三章B デカルトにおける世界の解釈に対して、世界性の分析を際立たせること

世界内部的な存在者を起点とした思想では世界そのものが見えなくなってしまうが、その成り行きをデカルトにおける存在論を概観することで追いかけていく。

その中でさらにデカルト以降の哲学者が前提としてきたものも浮かび上がってくる。

以下ではデカルト存在論に関して三点が論じられる。

  1. 延長としての世界の規定(第十九節)
  2. その基礎(第二十節)
  3. デカルト存在論についての解釈学的な批判(第二十一節)
第十九節 res extensaとしての世界の規定

デカルトは思考(res cogitans)と物体(res corporea)を区別したが、その二元論はのちの哲学において「自然と精神」として固定化されていく。

その区別はどのようにして行われたのだろうか。

デカルトはそれ自身で存在するものの存在自体を「substantia(実体)」と呼んでいる。

この実体は存在者を意味する場合と存在そのものを意味する場合があるが、この両義性はウーシアーというギリシャ哲学における実体概念にすでに見られるものである。

実体には属性があるが、それぞれの実体は一つの際立った属性を有している。

res corporeaにおけるそれは長さ、幅、深さという「extensio(延長)」で、その延長という属性が物体の本質を規定している。

そして物体における他のすべての属性はこの延長を前提として存在している。

分割、形態、運動はこの延長の様態の一つであり、反対に運動を欠いた延長というものが考えられるとデカルトは主張する。

「硬さ」は手を触れた時に抵抗があることから捉えられているが、その物体が触れようとする手と同じ速度で向こう側へと運動していたら触れることはできず硬さは存在しない。

それでも物体の存在に関して何ら失われるものはないので硬さは物体の本質的な属性ではない。

同じように重さや色などの感覚される性質は物体の本質ではないとデカルトはいう。

延長としての物体は様々に変化しうるもので、そうした中でも変わらずにあり続けるものが本来的に存在するものであり、それによって物体存在は特徴付けられる。

第二十節 「世界」の存在論的規定の基礎

延長という性質によって理解される「実体」は存在するために他の存在者を必要としない存在者を意味している。

そして神ではない存在者はすべて神によって創造されているので、実体として考えられる存在者とは「神」である。

神と被造物の間には「無限の」区別があるが、私たちは神も被造物も同じく「存在している」と言うことができる。

そこでは存在という言葉はそのような区別を包括するほどの広がりを持って使われている。

その意味で被造物の中では他のものの存在を必要としないものも実体であると言うことができる。

この実体の存在が存在論的に解明されるためには、神と「思惟」「延長」という二つの実体に共通な「存在」の意味が解き明かされることが必要だ。

ここでデカルトは「存在」という言葉が存在者をどのように述語付けるのかという中世の存在論以来の問題に触れている。

神と被造物の間で無限の区別があるなら同じように神と被造物が「存在する」と言ってもその存在の意味が違うのではないか。

スコラ学では「存在」という言葉は類比的な意味を持っていて神と被造物の場合で同じものを指しているのではないされている。

デカルトはこの神と被造物に共通な述語の意味をはっきりさせることはできないとしてこの問いを回避していて、存在そのものの意味への問いが見過ごされたままになっている。

それだけでなくデカルトは存在自身が私たちを触発せず目の前に現れてこないから、存在の意味はそれ自身として接近することのできないものだとしている。

ここで存在は存在(実体的なあり方)の意味を前提として考えられる「思考」「延長」といった存在者の属性から理解されるものとなる。

以上から延長としての世界の基礎は接近できないものとされている存在(実体であること)の意味だということがわかった。

ここで実体であることが実体の性質から理解されているわけだから、存在論の基礎に存在者が置かれていることになる。

それゆえに実体という言葉が両義的になって曖昧になってしまうのだ。

存在への問いを正しく導くためにはこのような実体という言葉の多義性を詳細に分析していかなければならない。

第二十一節 「世界」をめぐるデカルト存在論についての解釈学的討議

さて、デカルト存在論は世界という現象を解き明かしているのだろうか。

そして世界内部的な存在者を世界への適合性が理解されるほどに規定しているのだろうか。

答えは否である。

それはデカルトが捉えた延長としての存在者は手もとにあるものとしてではなく目の前にあるものとして捉えられるからだ。

しかし神、自我、世界による存在論が存在への問いを促進しているという可能性がないわけではない。

このことを否定するにはデカルトが世界を存在論的に誤って規定したことと、それにより手もとにある存在者が見過ごされていることが示されなければならない。


さて、デカルトは現存在のどのようなあり方を通路として「延長」という実体に至ったのだろうか。

それは数学的、物理的な認識作用である。

デカルトにおいては数学的な認識において認識可能な「存在」のしかたを満たすようなものが「存在しているもの」だと見なされる。

そうした存在者は常にそのような存在のしかたをしている存在者であるものだから、「常住の永続」という延長の性質が数学的な認識によって認識される。

ここで数学と、それによって捉えられた非明示的で根拠づけられていない「存在」そのものの理念が「世界」の存在の概念を開示することになる。

そしてデカルト存在論を規定しているのは「常に目の前にあること」という存在の捉え方である。

数学はそれを把握する手段でしかない。


伝統的な存在論に支配力の中にいたので、デカルトは世界内部的な存在者と出会うしかたを考察することはなかった。

そのしかたとは「直観(ノエイン)」である。

デカルトはそこから直観しながら存在者に接近する「感覚」への批判へと進んでいく。

デカルトにとって感覚はただ外的な事物が自分にとって有益か否かを知らせるだけで、そこから存在者の存在を知ることはできない。

先ほど見たようにデカルトは「硬さ」(=抵抗)を触覚からではなく二つのものの位置関係によって定義している。

そこで感覚によって出会われる存在者を存在において捉える選択肢は無くなり、何かを受け取るという現存在のあり方が二つの目の前にある延長するものが延長という様態において並んでいることを見て取ることでしかなくなる。

しかし、硬さや抵抗は触れるものが現存在であるか生命を有したものでなければありえない。


こうしてデカルトにおいては存在者と出会うしかたが「永続」という一つの存在理念に支配されることになった。

さらにそこで感性的、知性的認知という世界内存在の一つのあり方を理解することが妨げられていて、デカルトは現存在の存在を延長と同じように実体として捉えている。

さらにデカルトは思惟と延長という二つの実体によって「自我と世界」という問題を設定したばかりでなく、その問題に根本的な解決を求めた。

伝統的な存在論に規定されていることでデカルトは現存在に基づく存在論を行うことができず、世界を延長という一つの実体から説明することになった。

しかし、デカルトを擁護して物質的な自然に「適合する」「美しい」というような価値述語をつけることで価値的な事物を作る、というようして多層的な世界を考えることは正当ではないかと主張する人もいる。

それで「手もとにあるもの」に至ることができるわけだが、しかしそれは「目の前にあるもの」を前提としている。

とはいえ単なる事物以外の価値的な事物を考えることが必要だということは了解されている。

それでも価値を付加していくこうした構築がどのようになされるのかは不明瞭で疑わしいものにとどまっている。

しかも人が価値的な事物を構築するためには前もってその価値的事物の全体を見通していなければならないのではないか。

デカルト存在論は結局「手もとにあるもの」に辿り着くために、そのような存在者の存在について解明されたように見えるがそれは間違っているのだ。

このようにして現存在にとって最も身近な「手もとにあるもの」を見過ごすことは重大な過ちである。

現存在の分析から手もとにあるものと目の前にあるものが存在論的に理解可能になり、その場合初めてデカルト存在論の批判が正当な権利を得られる。

しかし世界内存在の構造として「空間性」というものがあったことを思い出すと、デカルト存在論が全て権利を失うということはない。

それが道具としての存在者、世界内存在、世界の空間性を見失わせるものだとしても、「延長」に立ち返って世界を考えることには一定の「現象的な権利」がある。

第三章C 周囲世界が〈周囲であること〉と、現存在の空間性

第十二節で内存在と内部性の区別が考察された。

内部性とは単に空間の中で目の前にあるものとして隣り合っていることで、反対に内存在である現存在はこのようなあり方をしていない。

しかし現存在に空間性がないというわけではないし、同様に世界内部的な存在者も空間性を持っている。

以下では

  1. 世界内部的に手もとにあるものの空間性(第二十二節)
  2. 世界内存在の空間性(第二十三節)
  3. 現存在の空間性と空間(第二十四節)*1

が考察される。

第二十二節 世界内部的に手もとにあるものの空間性

そのことについて今後詳しく究明されなければいけないとしても、空間は世界を構成している。

まず手もとにある存在者は現存在にとって「近く」に存在している。

この近さは距離的なものではなく配慮的な気づかいにおいて調整されるものだ。

さらに道具は適所性において指示の方向を定められている。

道具は単に空間的な位置にあるのではなく、適所性の全体に規定されて意味を持った「場所」にあるのだ。

そして道具が適所にあることの基礎には「方位」が存している。

ある方位のうちにあることはある方向に向けられていることを意味しているだけでなく、その方向の中にあるあるものとの連関のうちにあること意味している。

道具は方位によって指示の方向を決められていて、それによって周囲世界すなわち「私たちの身の回りであること」が形成される

手もとにあるものの三次元性(位置)が最初から見出されているのではなく、まず見てとられるのは適所の全体性であり場所である。

方位は目の前にある存在者の位置関係によって作られるのではなく、先立って場所の中に存在している。

場所そのものが配慮的な気づかいの中でそれぞれの道具に割り当てられていて、そこにおいて道具は方向付けられている。

例えば太陽は1日の中で日の出、真昼、日の入りなど「際立った場所」にあるが、それらの場所は太陽の光を利用することの中で発見される。

さらに東西南北という方位(方角)は道具の指示方向から得られるものである。

家の例で考えると、太陽の光の当たり方が違うためにその光との連関の中で適所性が生じ、「南側」と「北側」が生まれて間取りが決められその中で調度が配置される。

このように適所全体性によって方位が先立って発見されて、その中で個々の適所性が得られる。

方位は手もとにあるものと同じく基本的には目立たないあり方をしているが、何かがそのあるべき場所にないときに明示的に発見される。

空間は道具の場所として道具に属しているのであって、まず空間があってその中で道具が並べられているのではない。

空間は有意義性の分節に従って分割されているが、適所性の全体によって統一される*2

そして手もとにある道具を周囲世界の中で空間的に出会わせることができるのは、世界内存在としての現存在が空間的だからである。

第二十三節 世界内存在の空間性

現存在の空間性を考えるなら、世界内存在としての現存在の存在のしかたから考えなければならない。

現存在は「目の前にあるもの」としても「手もとにあるもの」としても存在していないから、その空間性は位置や方位からは考えられない。

世界内存在というのは世界内部的な存在者を常に配慮的に気づかっていることだから、現存在の空間性は内存在であることからのみ捉えられうる。

そして現存在の空間性は「距たりを取りさることと方向を合わせること(Ent-fernung und Ausrichtung)」である。

距たりを取りさること(距てを遠ざけること)はあるものと「距たっていること」を無くすことで、つまりは近づけることである。

この距たりを取りさることは単純に目の前にある事物との距離を縮めることではなくて、手もとに持っているという形で現存在が道具を自分に近づけて出会うことだ。

そして距たりを取りさることは現存在の存在体制すなわち実存カテゴリーであり、その意味で現存在は空間的なのである。

距離というカテゴリーは現存在が二つの事物を「目の前にあるもの」として見て計測することで初めて発見される*3

また、対象の認識にも近づけることという性質がある。

現存在のうちには、その本質からする、近さへの傾向が存しているのである。*4

例えばラジオ(現代でいえばインターネット)は速度を上げることで周囲世界を拡大しながら破壊して世界から距たりを取りさっている。


あそこまでひと足だとかいうように距たりを見積もることは現存在の距たりを取りさるというあり方のうちで行われる。

その見積もりは数学的には不正確かもしれないが現存在に対する明確さを持っている。

「あの家まで半時間」と時間という尺度で見積もられた距たりでもそれは見積もられた尺度で、「半時間」は量的な「長さ」を意味しているのではなく「持続」を意味している。

そしてまた道を進んでいくとき現存在は線分上の点として目的地までの残りの距離を減らしていくのではない。

近づけることとはその都度距たりを取りさられたものに対して配慮的に気づかいながら存在していることなのだ。

こういうわけで客観的な距離と私たちが感じる距たりは必ずしも一致しないのである。

このような距たりは「主観的」だと言われるけれども、それでもこの主観性はもっとも実在的に存在者を捉える主観性であって恣意や統把とは関係がない。

現存在の日常性が目くばりによって距たりを取り去ることで、覆いをとって発見されるのは「真の世界」の自体的なありかたであり、つまりは現存在が実存するものとしてそのつどすでにそのもとで存在している(bei dem Dasein als exsitierend je schon ist)、存在者の自体的なありかた(An-sich-sein)なのである。*5

そして距離というものに注目していては世界内存在の空間性は見逃されたままである。

距離的に最も近いものが最も距たりのないものであるとは限らないということが、メガネをかけている人が顔の近くにあるメガネを意識しないことからもわかる。

このような見るための道具であったり聞くための道具は「目立たないあり方」をしていて、距たりを取りさる働きを調整している。


近づけることは物体的な身体に方向付けられているのではなく、世界内存在において出会われる存在者に方向付けられている。

現存在の空間性が身体の位置によるものではないとしても、現存在が何らかの場所を「占めている」とは言われる。

現存在が場所を占めることは道具が方位において適所を得ることとは違い、道具を方位の中に「距てて遠ざけること」なのである。

現存在は道具がある場所から遡って自分がいる場所を把握していて、だから現存在は配慮的な気づかいとして道具がある場所に存在しているのである。

じぶんの〈ここに〉を現存在は、周囲世界的な〈あそこに〉から理解しているのである。
(Sein Hier versteht das Dasein aus dem umweltlichen Dort)
*6

現存在は絶えず距たりを取りさりそのことで手もとにあるものと関わっていて、また距たりを取りさること自体が現存在と道具の間の距たりである。

この距たりは位置的な間隔ではなく、現存在は距たりを「横切る(kreuzen)」すなわち距たりを取りさることをやめて、現存在が手もとにあるものの方へ出向いて距たりを無くしてしまうことはできない。


現存在は距たりを取りさることのほかに方向を合わせるという性格も持っている。

距たりを取りさることは常に先立って方位を念頭に入れていて、道具はこの方位の側から適した場所にあるものとして発見される。

配慮的に気づかうことはそこで出会われる道具と自分の方向を合わせつつ距たりを取りさることなのだ*7

ここで「しるし」が方向を明示するものとして機能して、目くばりに対して方位を開示してくれるものとなる。

このように現存在は自分のあり方において道具と方向を合わせているので、常に自分の方位を持っている。

そして方向を合わせることの中で現存在は左右という方向づけを行っている。

ただ、この方向づけは道具との出会いと適所全体性に基礎付けられているので、内的な左右の感覚とは関係がない。

例えば真っ暗な部屋において気付かないうちに部屋の調度が左右入れ替わっていたら内的な左右の感覚は何の役にも立たない。

この例からカントは方向を定めるためにはア・プリオリな規則が必要だと主張したが、本当にア・プリオリに方向を決定しているのは世界内存在である。

このア・プリオリな世界内存在は世界がある以前に存在している主観が投げ入れる規則とは何の関わりもない*8

第二十四節 現存在の空間性と空間

以上から現存在が距たりを取りさることと方向を合わせることにおいて空間的であることがわかった。

ところで現存在は先立って有意義性を了解しているが、それに基づいて道具は適所をえられて空間的に存在することができる。

このようにして開示された空間は三次元というあり方を備えていない。

そして空間は道具の持つ有意義性の連関によって決められた方位に基づいて成り立ち、さらにその方位を伴った空間的適所性に基づいて現存在は距たりを取りさり方向を合わせることができる。

世界内部的な存在者を出会わせることは「空間を与えること」と言い換えることもできて、ここではそれを「場をあけわたすこと」と呼ぶ。

場をあけわたすことで適所全体性を見通しながら道具に適所を与えることができて、模様替えしたり片付けたりすることが可能となる。

しかしこのとき方位や空間性が明示的に発見されているわけではなく、「目立たないあり方」をしている。

このような空間性を基礎として空間そのものを認識することができるようになる。

空間が主観のうちにあるわけでも、世界が空間のうちにあるのでもない。
(Der Raum ist weder im Subjekt, noch ist die Welt im Raum.)
*9

以上の考察からは空間はむしろ世界の中にあることがわかる。

だからと言って空間が主観の中にあるのではなく、ここでの主観に相当する現存在はそもそも空間的に存在している。

それで空間はア・プリオリなものとして了解されるが、それは主観の中にある空間が世界に向けて投げ入れられているということではなくて、現存在が道具に出会う際に先立って空間に出会っているということだ。

この空間そのものは家を建てたり測量したりする際にそれを眺めやることで目立たないあり方をやめて主題的になるが、そのとき以上で見たような方位に属する空間は放棄されている。

そしてこの眺めやることで方位が中立化されて縦・横・高さという純粋な諸次元が成り立つ。

この純粋な空間においては適所性というものは失われて、周囲世界は自然的世界となる。

そして道具は指示連関を失って延長としての目の前にある事物同士の関係だけが問題となる。


空間自体は道具や事物として存在している必要はなく、また現存在でも延長するものでもない。

そこから空間が物(res)の現象だということが帰結するわけではないし、反対に空間が思考と同一の実体で主観的なものだいうことが帰結するわけでもない。

今日に至るまでの空間の存在についての混乱は、存在そのものについての存在論的に見通しが欠けていたことによるものだ。

だから存在への問いの中で空間というものを解明していかなければならない。

以上の考察で見たように空間は世界そのものに基づいて初めて把握される。

ゆえに空間は世界を構成するものの一つだが、それは世界内存在である現存在が本質的に空間的であることによるのである。


感想

これで第一分冊を読み終わったことになる。

ここまで読んでみて序論は全体の概略のようなもので理解できなくても仕方ないなと思えた。

これから読む方は序論が厳しそうなら流し読みして第一部に入ってしまう方がいい気がする。


第三章B、Cではデカルト批判とそこから空間というものが考察された。

世界内存在、道具とその指向性の連関から世界を理解する視点から、距たりや方位としての空間が説明されている。

第二十三節でラジオが距たりを無くして周囲世界を破壊しながら様々なものを近づけていると書かれていたが、インターネットによってその傾向はどんどん進んでいるように思う。

他に興味深かったのが「方位」が手もとにあるものの指向性の連関から決められてきているという点だった。

左右や東西南北といった概念を定義するのは難しいとよく言われるけれど、このようにして世界内存在という観点から見ると定義可能である。

客観的に方向や方角が存在するのではなく、現存在にとって太陽の光が当たって暖かい方角から南で、また現存在が道具と方向を合わせることにより左右が決められる。

そう考えるとこれまで考えてきた方角は現存在と世界の関わりを見過ごした上での形式的なものだった。

そしてまたここでの周囲世界の空間性の議論を踏まえると、空間という入れ物の中に様々なものがあって世界が作られているのではく様々な方向に指向性を持った道具がパズルのように組み合わさって世界が成り立っているということになる。

ニュートンの絶対空間を引き合いに出すまでもなく私達は中学校の数学でx軸、y軸、z軸の三次元空間を教えられるのだから、空間と入れ物としてみてしまうのは仕方ない。

そのような意味でこの本で空間というものについて別の見方を獲得できたのは良かった。


またハイデガーアプリオリを「先経験的な」という伝統的な意味ではなく、「問いに先立って」という意味で使っているようである。

この意味でのアプリオリ性というのは現存在が既に存在していることや存在や世界についての先だった了解についても当てはまるだろう。

また、問いに先立って言語という思考の枠組みが与えられているということも念頭に入っているように思う。


ところで第十九節でウーシアー(οὐσία)が実体と訳されているが、京都大学の中畑正志先生が去年の西洋哲学史特殊講義でウーシアーを実体と訳すことについての問題を指摘しておられたのを思い出した。

アリストテレスにおけるウーシアーの用法はsubstantiaとはかなり異なっていたようである。

そこからストア派における語の用法の変遷などを得て実体と日本語訳されるに至ったらしい。

*1:1.1.3C..284 p473

*2:個々の道具について位置が考えられるが、それらが一つの三次元的世界を形成するのは適所性全体によってだということだと思う。

*3:だから距離は現存在と「手もとにある」道具の間には認められない。

*4:1.1.3C.23.292 p493

*5:1.1.3C.23.294 p499

*6:1.1.3C.23.296 p504

*7:方向を合わせるというのは、例えば道具を使う時にその道具の用途と現存在の行動の方向性が一致することを言っているのだと思う。

*8:ここでの「世界がある以前に存在している主観」世界内存在として捉えられていない現存在のことで「投げ入れる規則」は超越論的な規則のことだと思う。

*9:1.1.3C.24.306 p522

ハイデガー『存在と時間』(一)③


存在と時間』第一分冊について記事の三つ目。

この記事では第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に、
re-venant.hatenablog.com
第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第三章 世界が世界であること

第十四節 世界一般の世界性の理念

世界内存在を解明するために、まずその構造契機となっている「世界」について考えていかなければならない。

「世界」について考えることが通常意味しているのは、世界の内部で現存在に出会われる存在者たちについて記述することである。

その記述は存在者の見た目や関係性を存在的に物語ることでしかないので、存在そのものを解明することはできない。

「世界」を存在的にではなく存在論的に記述することは、現存在が世界内で出会う存在者の存在そのものを提示してそれをカテゴリー的に規定することだろう。

存在者には自然的事物(実体)と人間が価値を付与した「価値を帯びた事物」の二種類があり、価値を帯びた事物も実体に基づいているのだから、まず実体を存在論的に探求するべきだということになる。

しかし自然や実体といった存在者の存在を解明していくことが「世界」という現象そのものを解明することにつながるのかといえばそうではないし、反対に価値を帯びた事物の存在の解明も「世界」そのものの解明には至らない。

世界内部的な存在者を存在的に描写すること(ontische Abschilderung)も、そうした存在者の存在を存在論的に解釈すること(ontologische Interpretation)も、そのものとしては「世界」という現象に到達しない。*1

すると「世界」を世界内部的な存在者を規定するカテゴリーとして考えることはできないのだろうか。

「世界」がカテゴリーではなく現存在の実存カテゴリーなのだとしたら、それぞれの現存在が固有の世界を持っていることになるのだろうか。

そうすると現存在同士に共通の世界、すなわち世界一般の世界性というのはどのようにして考えられるのだろうか。

ここでいう「世界性」は世界内存在としての現存在を構成する実存カテゴリーである。

しかし「世界」が現存在以外の存在者のカテゴリーではないからと言って、その存在者の存在を解明することが不要になるのかといえばそうではない。

このような論点から、世界を現象学的に解明するというのは一体どういうことなのかを前もって考察しておかなければならないということがわかる。


そもそも「世界」という言葉が多義的で混乱を生み出しているので、以下の四つに分類整理する。

  1. 存在的な意味での「世界」 これは目の前にある存在者の総体として捉えられる。
  2. 存在論的な用語としての世界 これは存在者の存在を意味しているが、数学者のいう「世界」のように存在者の多様なあり方を包括する対象領域を指すこともある。
  3. 現存在が「そのうちで」生きている場所 この場合一般的な世界や周囲世界(Umwelt)を意味することもある。
  4. 世界性という概念

本書では一番目の意味での世界は「世界」と表記され、世界という語は三番目の意味で用いられる*2

また「世界的」という語は現存在のあり方を指していて、他の存在者が世界内にあることは「世界内部的」と表記する。

人は現存在の世界性からでなく、世界内部的な存在者の存在構造をカテゴリー的に総括したものである「自然」から世界を理解しようとしているが、それでは「世界性」を理解することはできない。

逆に自然という概念は現存在を解明して世界性を理解することで初めて存在論的に理解可能になる。

そこでなぜ現存在は世界内存在というあり方と自らの世界性を見過ごしてしまうのか、という点が示される必要がある。

またその見過ごしを防ぐために現存在はもっとも身近な存在のし方である「平均的日常性」から分析されなければならない*3

この日常的な現存在において身近な世界は「周辺世界」であり、世界内部的な存在者の存在論的解釈をすることなしにこの周辺世界の世界性(周辺世界性)を直接解明していくことが必要になってくる。

しかしこの「周辺」という語は空間的に周囲にあることを意味しない。

デカルトの二元論では空間性から世界を延長するもの(res extensa)として解釈し、それは思考するもの(res cogitans)と対立しているが、世界性の分析はそれとは全然違っている。

この二元論とここでの世界性の分析を見分けていくため以下の第三章A「周辺世界性と世界性一般との分析」B「デカルトにおける「世界」の存在論に対して、世界性の分析を例示的にきわだたせること」C「周辺世界に属する〈周囲であること〉と、現存在の「空間性」」という三段階で考察が進んでいく。

第三章A 周辺世界性と世界性一般との分析

第15節 周辺世界のうちで出会われる存在者の存在

日常的な世界内存在は操作したり使用したりすることである「配慮的気づかい」として存在している。

そこでまず現象学的に解明されるべき対象はこの「配慮的気づかい」としての現存在が出会う存在者である。

様々な解釈によってそのような操作され使用される存在者と「配慮的気づかい」というあり方が覆い隠されてしまう。

この誤りについては、どのような存在者が存在を解明する前の予備的な主題となるのかを考察する中で明らかになっていくだろう。


普通、人は主題となるべき存在者は「事物」だと考えるが、事物についての存在論的分析では配慮的気づかいの中で出会われる存在者が見落とされている。

他にも人は事物を「価値を帯びた事物」と特徴付けたりするが、その特徴によって配慮的気づかいにおいて出会われる物の性質を表現できているのだろうか。

ギリシャ語に「事物」を表す適切な用語として「実用品(プラグマタ)」というものがある。

これは「行為(プラクシス)」の対象となるもののことであるが、実用的な意味を曖昧なままにして単に「事物」として用いられていた言葉である*4


本書では配慮的気づかいにおいて出会われる存在者を「道具(Zeug)」と名付ける。

この道具とはどういうもので、どういったあり方で存在していうのだろうか。

まずこの道具は一つの全体の中で存在していて、一個の独立なものとしてあるのではない。

道具は何かのためにあるものであり、その指向性の連関が例えば部屋といった道具全体を形作っている。

そして人はまず「部屋」という住むための道具全体に出会っていて、その中で扉や机などの個々の調度が道具として現れてくる。

個々の道具に合わせて指示の連関を限定した「交渉」の内でのみ道具は全体性から切り離されて現象として現れてくる。

しかし例えばハンマーを振ることでハンマーが事物として現れてくるのではなく、そうした交渉において配慮的な気づかいは道具とその指向性を自分のものとしている。

こうして用いることで現存在は道具と根源的な形で出会うことができるのだ。

このような道具の存在のし方を「手もとにあるありかた(Zuhandenheit)」と名付ける。

事物をただ眺めるだけではこの手元にあるありかたを理解することはできない。

だからと言って道具とのこの交渉は視覚を欠いたものではないし、むしろ固有な〈見ること〉を有している。

現存在が道具の使用においてのその指向性に適応しながら行うこの〈見ること〉が「目くばり(Umsicht)」と呼ばれるものである。

そしてまた観察することも一つの配慮的気づかいなのだから、理論的観察と行為の二分法で考えることは間違っている。

「手もとにあるもの」はこの「目くばり」において主題化されているわけではないし、目立たない形で存在している。

現存在が気遣っているのは道具を用いてなされる仕事であったり作られる製品の方で、それらは道具の指向性の全体を形作っている。

そしてまたそのような仕事や製品も何かのためにあるという指向性を有しているから、現存在は配慮的気づかいにおいてその指示されている対象にも出会っている。

また逆に製品には「材料」としてそれを形作る素材が指向されている。

素材には、そのものは何からも制作されず自分で自分を生成している動物や植物などの存在者も含まれる。

それら「自然産物」としての自然もこの指示の連関の中で現存在に出会われているのだ。

また、制作された製品はそれを使う者として人間を想定しているから、製品とともに現存在は人間という存在者にも出会っている。

現存在はこれとともにその指示された人間が住んでいる世界にも出会っているが、その世界とは自分が住んでいる世界と同じ世界なのである。

そしてまた、例えば屋根のある駅のプラットホームは雨や雪を想定して作られているから、現存在は気づかいにおいて「周辺世界という自然(Umweltnatur)」にも出会っている。

配慮的に気づかいながら、もっとも身近な製品世界にそのときどきに没入することが、覆いをとって発見する機能を有する。その機能の本質にぞくしているのは製品世界のうちに没入していくそのしかたにしたがって、世界内部的な存在者——製品において、すなわちその製品を構成する様々な指示にあって、ともに関与させられている存在者——が、明示性の様々な度合において、つまり目くばりしてすすんでいく多様なひろがりとともに、覆いをとって発見されるものでありつづけていることなのである。*5

こうしたあり方が「手もとにあるありかた」だが、それは事物に主観的に意味づけすることによって生まれるのではない。

仮に主観的に意味づけされたものなら、まず存在者は「目の前にあるもの」として発見されてその上で意味を付与されなければならない。

しかし認識作用は常に配慮的気づかいとして存在者に関わっている世界内存在の様態であり、認識するためには対象との交渉を停止しなければならない。*6

だから現存在は手元にある存在とまず出会っていて、それとの関係を一時中断することで対象を認識することができる。

「目の前にあるもの」まず認識してそれを「手もとにあるもの」として主観的に意味づけすることはこの認識作用の構造に矛盾している。

しかし、「手もとにあるありかた」が世界内部的な存在者の存在体制で、それが「目の前にあるありかた」を基礎づけていることが分かったとしても、それら世界内部的存在の総体としてあるわけではなく、むしろそれらが前提としている世界現象の解明につながっていくのだろうか。

第十六節 世界内部的な存在者にそくしてじぶんを告げる、周囲世界の世界適合性

世界は、それ自身は一箇の世界内部的な存在者ではない。*7

しかし世界は手もとにある存在者や世界内存在を規定しているのだから、現存在は存在についての先だった了解と同じように世界について前現象学的な了解を有しているのではないだろうか。


配慮的な気づかいにおいての世界内部的な存在者との出会いでそれが「世界に適合していること(Weltmäßigkeit)」が発見される。

例えば道具が破損していたり目的に不向きで「利用できない」ことがあると、それは「手もとにないもの」として目立ってくる。

その時道具は「目の前にあるもの」として現れるがそれはあくまで「手もとにあるありかた」を前提としていて、修理されたりすることによってまた「手もとにあるもの」に戻っていく。

また配慮的な気づかいの交渉の中で欠けていて「持ち合わせていない」ものに気づくこともある。

そうすると現状手もとにあっても仕方ないものは「押し付けるようなありかた」で現れてきて、「目の前にあるもの」として捉えられる。

他にも使っている時間がなかったり場違いで邪魔になったりするものも「手に負えないもの」、「手もとにないもの」として現れ、同じように「目の前にあるありかた」をするようになる。

これら「利用できないこと」「押し付けがましいこと」「手に負えないこと」は道具を「目の前にあるもの」として浮かび上がらせる機能を持っている。

しかしそれはただ目の前にある事物なのではなく常に「手もとにあること」に基づいて存在している。

道具は「手もとにあるありかた」を失うのではなくそれに「別れを告げ」ていて、その時それら道具の世界に対する適合性が見えてくる。


道具は存在構造は指示の連関によって規定されていて、道具は配慮的な気づかいの中で出会われる。

その中で利用できないものに出会う時配慮的気づかいは指示が妨げられて連関が欠落していることに気づく。

そこで逆説的に指示そのものが明示的に認識されて、それに伴って指示の連関の全体すなわち世界が見てとられる。

同様に欠けているものに気づくときもその指示連関の「破れ」を見つけていて、そこでも周囲世界が見てとられるようになる。

このようにして「開示(Erschließen)*8」された世界は、存在者の認識や観察に先立ってすでにそこにあるもので、「目の前にあるもの」ではない。

またこの世界は「手もとにあるもの」から構成されているのではない。

指示性の連関としての世界が見てとられる時、道具が手もとにあるものとして了解されることをやめて単に目の前にある事物として捉えられるようになる。

また反対に道具が手もとにあるものとして扱われている時それが持つ指示性は明示的なものとならないのである。


「利用できなくはない」「押し付けがましくない」「手に負えなくはない」という否定形で表されるのが手もとにある道具の性質である。

このように自体的な道具を「目の前にあるもの」に帰属させて考えていては存在論的に十分ではない。

しかし道具について「目の前にあるもの」として語って解釈することが存在論において必要となるのではないかと考えられるかもしれない

その際人はこの存在者を存在的に引き合いに出すが、世界内部的な存在者は世界現象そのものに基づいてのみ解明されうるためそれもまた存在論的に不十分だ。

世界を何らかの仕方で見て取ることができるならそれはあらかじめ開示されているので、現存在はすでにそこにいる世界から出発して存在論的探求を行いそこに帰ってくるのである。

以上から世界内存在というのは道具の指示連関に没入していることを意味していることがわかる。

この世界との親しみの中で現存在は自分を忘れて世界内部的な存在者に気を取られている。

さてそのような指示連関の全体性はどのようなもので、それに適合していることが理解できるのはどうしてなのか。

この問いは世界性の現象と問題を解明することを目指していて、またそれに答えるためにそうした指示連関の中でその問いが問われるという構造についても解き明かされなければならない。

第十七節 指示としるし

ここまでで道具について見てきたが、その中で「指示」というものがその存在構造として現れてきた。

さらにそのような道具の指示構造が世界を構成していることも分かったので、道具とそれが有する指示構造を解明することが世界さらなる理解につながっていくだろう。

道路標識や信号といった「しるし(Zeichen)」という道具においてこの指示構造が多層的に現れてくる。

このしるしの関連様式を形式化していくと、存在者一般の特徴の理解に役立つ手引きが得られる。

さて、そのしるしの形式的な意味とは関連づけることだ。

しかし関連することのすべてが示すことを意味しているわけではないので、指示という現象を関連することに結びつけて考えても得られるところはない。

むしろ指示という現象に関連という概念の存在論的な基礎があることが明かされなければならない。

まずは「指示」と「しるし」を区別して考えることが必要となってくる。

「しるし(Zeichen)」は「兆候、前兆と形跡、標識、目印(Anzeichen, Vor- und Rückzeichen, Merkzeichen, Kennzeichen )」などで、それらは「痕跡、遺物、記念物、記録、証書、象徴、表現、あらわれ、意義(Spur, Überrest, Denkmal, Dokument, Zeugnis, Symbol, Ausdruck, Erscheinung, Bedeutung )」と区別されなければならない。

こうした諸現象を安易に形式化して「関連」から見ていっても何を言ったことにもならない。


しるしの例として車の行き先を示すウィンカーを用いる。

このウィンカーは運転手の配慮的気づかいにおいて操作されているが、それだけでなくその表示を見た人が車の行き先を知るためにウィンカーという道具を使用している。

ウィンカーは「手もとにあるもの」として道具の指示連関の中にあるが、ウィンカーが方向を「示す」ことは道具の存在論的な構造ではない。

何かの役に立つことという意味での「指示」はすべての道具が持つ存在構造だが、「示す」ことは「しるし」という一部の道具が偶然持っている性質である。

だからこの「指示」と「示すこと」は一致していない。

例えばウィンカーにおいてそれが車の部品として自分を点灯させるボタンを「指示」したりするのと、ウィンカーが車の行き先を「示す」ことは異なっている。

さて、そのような「示すこと」とは何を意味しているのだろうか。

ウィンカーを見たときその方向から身をそらしたり立ち止まったりするが、それは常にどこかを向いていて何かをしている世界内存在の本質的なあり方に他ならない。

しるしはこのように空間的にある現存在の配慮的に気づかう交渉の目くばりに向けられていて、その目くばりはしるしに従って周囲世界が「周囲にあること」を見わたすことになる。

この「見わたし」によって「手もとにあるもの」の全体が有する(指示)連関構造を知ることができて、配慮的に気づかう交渉に方向づけがなされる。

(しるしとは)道具全体を明示的に目くばりの中に引きあげて、その結果、それとともに、手もとにあるものが世界に適合していることが告げられるような、一箇の道具なのである。*9


しるしを作り出すことにおいてその性質がさらに明らかになる。

しるしは「あらかじめ見ること(Vorsicht)」において作られ、「あらかじめ見ること」が成り立つためには周囲世界がを目くばりの中に現れてくることが可能でなければならない。

手もとにあるものは普通目立たない形で存在しているから、特別な道具であるしるしがそれを目立たせることが必要となる。

そしてまたしるしの制作においてはしるし自体も目立つものであることも考慮されなければならない。

その場合しるしは単に恣意的に選ばれるのではなく「容易に接近可能となる」ことを意図して設置される。

またしるしは手もとに存在していない道具が新たに制作されることだけでなく、すでに手もとにあるものの中から選ばれることによっても作られる。

しるしとして選ばれたものは手もとにあるあり方を通じて初めて「目の前にあるもの」として接近可能となる。

例えば雨を告げる南風は気象学的に目の前にあってその上で前兆としての機能を与えられるのではなくて、農業の計画(指示連関)の目くばりの中で計算に入れられるという形で初めて発見されるのだ。

しるしとして取り上げられるものはそれに先立って把握されていなければならないが、それは「理解されていない道具」として出会われている。

しかし理解されていなくても手もとにあるものは単なる事物として考えられてはならない。

しるしは単に目立つあり方で制作されているだけでなく、自力で目立たないあり方から目立つあり方を取り出してくる。

例えばハンカチの結び目というしるしは示すものが曖昧だがしるしという性質を失うことはなく、むしろ人はそれをなんとなく気にしてしまって「押し付けがましいもの」として目立ってくる。

以上のしるしの解釈によって以下のことがわかった。

  1. 「示す」ことは道具一般が持つ「指示」に基礎付けられている。
  2. しるしの作用は道具の指示連関の全体に属している。
  3. しるしが手元にあることで周囲世界が接近可能になる。

しるしは一箇の存在的に手もとにあるものであって、そうした特定の道具として同時に、手もとにあること、指示全体性並びに世界性が有する、存在論的な構造を暗示する或るものとして機能している。*10

「指示」は「しるし」の基礎だからしるしから指示を考えることはできない。

「指示」はどのような形で道具の存在論的な前提なのか、さらにそのような「指示」はどこまで世界性一般を構成しているのかが解明されなければならない。

第十八節 適所性と有意義性——世界の世界性

世界は手もとにあるもの全ての前提となっているし、現存在が世界内部的な存在者に出会う時常に同時に出会われている。

さて、世界内部的存在者が配慮的気づかいにおいて出会われることの意味は何であり、それはどのように世界を存在論的に際立たせるのだろうか。

まず世界はどのようにして指示という体制を持った道具を出会わせることができるのか。

道具の存在論的構造を記述する「属性」は道具の具体的なあり方ではなく「何かに向いていること/向いていないこと」である。

道具の存在体制である「指示」はこの「向いていること」を道具の具体的な機能として実現することを可能にする条件に過ぎない。

この「指示」は手もとにあるものが何かに指し向けられているという性質を持っていることを意味している。

指示はある存在者の「〜(それ自身)によって〜のもとで(mit…bei…)」というあり方の関連を暗示していて、その関連によって存在者は適所性を得る。

例えばハンマーという道具は、ハンマーという道具それ自身に「よって」釘を打つこと「のもとで」世界のうちで適所性を得るのだ。

適所性は存在者についての存在論的な言明であり、それに基づいてそのつど存在者は開示されている。

この適所性は同時に役立つあり方であり利用可能なあり方でもある。

例えば、そのことのゆえにハンマーと呼ばれる、この手もとにある存在者によって手にとって振るうことのもとで適所性がえられ、この振るうことによって釘を打つことのもとで適所性がえられ、この釘を打つことによって風雨を防ぐことのもとで適所性がえられる。風雨を防ぐことは、現存在の宿りのために、つまり現存在のひとつの可能性のために「存在して」いる。*11

どのような適所性がえられるかは、適所全体性(指示連関の全体性)において先立って決められている。

この適所全体性は最終的に、世界内存在として世界性をその存在体制のうちに含んでいる現存在に「なんのゆえに」という形でたどり着く*12

道具存在は現存在の存在に関わっているが、現存在においては自分の存在すなわち実存が問題なのである。

この構造についてはさておき、まずは「適所をえさせること」を詳しく解明していく。

適所をえさせるとは、存在的には、或る手もとにあるものを、事実的な配慮的気づかいの内部でそれがいまや存在しているとおりに、またそのことによってそのように存在しているとおりに(wie es nunmehr ist und damit es so ist)、これこれのように存在させることにほかならない(sein lassen)。*13

この「存在させること」は今まで存在していなかったものを製作して新たに存在させることではなく、すでに存在しているものを発見することだ。

これは「ア・プリオリ」に適所をえさせることでそれは現存在が道具に出会うことを可能にする条件であり、その中で現存在は「存在的に」道具の置き場所を変えたりして適所をえさせることができる。

ア・プリオリにすでに道具を適所に配置していることは現存在の存在を特徴付けている。

適所をえさせることを存在論的に捉えると、「なにのもとで」の用途の側からその物自体の存在(「なにによって」)が開示されることである。

道具の適所性は適所全体性が先立って発見されていることの中で発見されるが、この適所全体性は世界への関連を内蔵している。

存在者を適所全体性のうちで開示することのうちでは、「覆いをとって発見されているありかた(Endeckenheit)*14」を取らず、道具が出会われることの前提となる世界があらかじめ開示されている。

このことは先だった存在了解を有している現存在が世界内存在であることから、現存在がすでに関わっている世界を理解していることを意味している。

適所性の全体(世界)は現存在に先立って了解されているが、それによって現存在は「そのゆえに」存在している自身の存在可能性から或るものに「〜のために」という形で指し向けられている。

つまり現存在は最終的に自分へと立ち返ってくる指示連関の「なにのゆえに」から一定の適所性を目指して自分を指示している。

そして現存在は自分を指示することを「そのうちで」行っている世界を先立って理解しているが、その世界が現存在が存在者と出会うことを可能にしている。

そこで、現存在が自分を指示することの連関は存在論的にはどのようなものなのだろうか。

まず指示作用の関連が持っている「関連させる作用」を「有意義的に指示する作用(bedeuten)」と捉える。

このような関連と親しむ中で現存在は自分を有意義的に指示している。

道具に最終的に指示された現存在が何かしらの適所性を得ていく関連は、有意義的に指示されたものであるのでその関連を有意義性と名付ける。

この関連性は入れ子状の構造になっていて、そして世界の構造を形作っている。

現存在は、自分がこの有意義性と親しんでいることで、存在者が覆いをとって発見されることに対して、それを可能にする存在的な条件であって、その場合存在者は、適所性(手もとにあるありかた)という存在の仕方をともなって、何らかの世界のうちで出会われ、かくて自らの自体的なありかたにおいて、自分を告知することができるのだ。*15

現存在は存在していることにおいて既にこの連関を了解して自分を世界へと「割り当てて」しまっていて、このことも現存在の本質である。

この有意義性は「意義」を理解するための存在論的な条件や、適所全体性を発見するための条件でもある。

さて、このように適所性や世界性を有意義性によって捉えると、存在者の実体が関係の体系に還元されたり、関係が思考によって捉えられるものであることから「純粋な思考」に還元されてりしてしまうのではないだろうか。

存在についての研究の中では存在論的な問題系の様々な構造、次元をきっちり区別しておかなければならない。

  1. 世界内部的な存在者(手もとにある道具)の存在
  2. 操作を控えることで現れてくる「目の前のあるもの」の存在
  3. 世界内部的な存在者を発見する条件の存在(世界性)

初めの二つは存在者のカテゴリー、最後の一つは実存カテゴリーだ。

有意義性を形式的に捉えると、存在者の内実が失われてしまう。

有意義性における関係は思考によって生み出されたものではなく、配慮的な気づかいが既にその中にあるもので、世界の世界性に基づく存在者の自体的なあり方において発見される。

その関係が数学的に捉えられるのは、そのような存在者が目の前にあるあり方を取っている時のみであり、そのあり方は常に手もとにあるあり方に基づいている。

さて、世界性をさらに分析していく前にデカルト的な極端な世界性の解釈を取り上げるべきだろう


感想

この部分で最も興味深かったのは道具としての存在者と「配慮的な気づかい」としての私たち現存在の関わりについての考察だった。

現存在を「平均的日常性」から捉えて「配慮的な気づかい」だとするという考え方は(私が知らなかっただけだが)革新的だと思う。

配慮的気づかいとして現存在があるというのは、私たちは常に「何か」をするという形でその対象となる「何か」とセットで存在しているということだろう。

主観や客観がどうとか意志と表象がどうとか考える際に確かに「私たちは常に何かをしている」ということを忘れてしまっていた。

確かにその点を見過ごしていては現存在が実際にどうあるのかは解明できないだろうと思う。


また、現存在以外の存在者が何らかの指向性を持った道具として現存在に出会われるというのは納得できる考え方だった。

存在者は感覚の寄せ集めや表象など単なる事物として捉えられがちだが、それだけではダメで世界全体における連関と現存在との関わりの中で捉えられて初めてその存在がわかってくる。

しかし現存在が道具の指示連関の最終目的であるという点についてはカントを参考にしているということでカントを読んでいない自分にとっては論の進み方がわからなかった。

ただ、道具は例えばドーキンスにおける「延長された表現型効果*16」のように人間の役立つように作られていることは間違いない。

そして自然現象も人間が利用するものとして捉えられる限りでは現存在を指向している。

このようにして世界内存在全てに指向された現存在は、しかし何かをする者としてあるのだからそれ自身指向性を持っている。

だから指向性の全体すなわち世界は円環構造を取っている。


ところで現存在は有意義性の全体を見て取ることである適所性へと差し向けられると書いてあるが、その辺りが具体的にどうなるのかがわからなかった。

そうした連関との親しみの中で現存在は、じぶん自身を「有意義的に指示する」。*17

と書いてあるから現存在は自分のあり方を自分で選んでいくだろうか。

となると現存在はあらかじめ決められた有意義性の連関の中で自身のあり方をすでに決められた存在者ではなく、自由な存在者だということになる。

しかしその自由はどのようにして保証されているのだろうか。

唯物論の観点から見れば私たちの行いは遺伝子やミームによって定められているし、「主体」があり方自由に選び取るということはなさそうに思える。

しかし全てを「目の前にあるもの」として見て存在への問いを見過ごしている唯物論ハイデガー存在論的枠組みにおいて前提から批判されている。

また現存在の分析が主観と客観の二分法を批判している点から、「主体」というものについても今まで通りに考えていてはいけなさそうである。

その辺りを今後の内容から読み取っていければいいなと思う。


第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.3.14.179 p312~313

*2:ただし注解によるとその区別は必ずしも一貫していないらしい。ちゃんとしてほしい。

*3:いわゆる認識論で「認識する私」として捉えられるようなあり方は日常的ではなく、そのような捉え方では現存在の本来的なあり方が解明できないということが言いたいのだろう。

*4:ここから対象を「実用品」ではなく「事物」と捉える傾向が生まれたと言いたいのだと思う。

*5:1.1.3A.15.203 p344

*6:

世界内存在は配慮的気づかいとして世界に気を取られているが、認識するためには対象の制作や操作をやめてそれらのもとで立ち止まらなければならない。

ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ただしこのあたりは自分の解釈である。

*7:1.1.3A.16.206 p349 注解によるとカントやフッサールは世界は独立のものではないと考えていたようだ。

*8:erschließenには「推論する」という意味もあるがここではそれは意味されていない。

*9:1.1.3A.17.229 p381

*10:1.1.3A.17.235 p393

*11:1.1.3A.18.238 p401

*12:注解によるとここの主張はカントの「人間は手段ではなく目的である。(『実践理性批判』)」「自然の究極目標は人間である。(『判断力批判』)」という思想を参考にしているようだ。

*13:1.1.3A.18.239 p404

*14:以降現存在以外の存在者のありかたがこう呼ばれる。

*15:1.1.3A.18.246 p416

*16:利己的な遺伝子』13章など 

*17:1.1.18.246 p416

ハイデガー『存在と時間』(一)②


存在と時間』第一分冊について記事の二つ目。

この記事では第一部第一篇第一章、第二章(第九節〜第十三節)の内容とそれについての感想を書いていく。

序論(第一節〜第八節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。


本文内容

第一部 時間性へと向けた現存在の解釈と、存在への問いの超越論的な地平としての時間の解明

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第一章 現存在の予備的分析の課題の呈示

第九節 現存在の分析論の主題

現存在の分析論において課題となるのは私たち自身であり現存在の存在(実存)は私たちのものである。

存在とは、この存在者にとってそのつど自身それが問題となるものである。
(Das Sein ist es, darum es diesem Seienden je selbst geht.)
*1

そこから二つのことが明らかになる。

一つ目は現存在の本質は「存在しなければならないということ」の中にあるということだ。

現存在を実存によって考えるなら、現存在は「目の前にある存在」を意味するexistentiaとは異なっている。

現存在の「本質」はその実存のうちにある。
(Das "Wesen" des Dasein liegt in seiner Existenz.)
*2

ゆえに現存在の性格を決定するのは目の前に現れてくる現存在以外の存在者が持つような性格(カテゴリー)ではなく、現存在がそのように存在することが可能であるような様式でありその様式はそれぞれが「存在」なのである。

二つ目は現存在の存在において問題となっている「存在(実存)」は私のものであるということだ。

他ならぬ「私が」実存していることから、現存在は他の存在者と同列に扱うことができない。

また現存在のあり方は何らかの仕方ですでに決定されていて、現存在は自らの可能性である存在に常に関わっている*3

ゆえに現存在は自らの実存すなわち可能性において自分自身のあり方を獲得したりしなかったりできる*4

仮に現存在が非本来的なあり方で存在していたとしても、そのあり方は本来的なあり方より劣っていることを意味しない。

以上の二点から現存在は世界の内部にある単なる対象として捉えられるものではないということがわかる。


実存する体制の形式的な意味として現存在が可能性を持つもの、すなわち存在するものとして自らを理解していることが明らかにされたが、現存在の存在論的な解釈についてはその実存的なあり方に基づいてなされなければならない。

そしてまた現存在のあり方は特定の存在様式からではなく日常的なあり方から解明されなければならない。

このような現存在のあり方を「平均的なあり方」と名付ける。

この現存在の平均的なあり方や非本来的なあり方の中にも実存的なあり方の重要な構造があり、それは本来的なあり方をしている現存在が有している構造と同じものである。

現存在を分析して得られた存在性格を「実存カテゴリー」と名付ける。

逆に現存在でない存在者の存在性格は単に「カテゴリー」と呼ばれる。

世界の中で出会われた存在者のカテゴリーはロゴスによって可視化される。

この実存カテゴリーとカテゴリー、現存在と他の存在者の関係は存在の問いが解明されていく中で明らかになっていくだろう。

実存論的な分析論は心理学や人間学、生物学に先立っているが、それらと実存論がどう違うのかを明らかにすることで実存論的存在論のテーマがより鮮明に見えてくる。

第十節 人間学、心理学および生物学に対して、現存在の分析論を境界づけること

デカルトは「cogito sum(私は考える、私は存在する)」ということにすべてを基礎付ける際に「思考すること」については探求していたが、「存在すること」については無視している。

そしてここから出発した自我や主観といった概念は現存在のあり方を捉えそこなっている。

事物の存在を解明することで「主観、精神、心、人格、意識」といった物質に還元されない存在が何なのかわかってくる。

これらの存在自体は現在まで問われてこなかったので、私たちは現存在を特徴付ける際にこれらの用語を使うべきではない。

生の哲学や人格主義といった人間学は生そのものや現存在の存在そのものを問うていないという欠陥を有している。

このように現存在の存在への問いを立てることを妨げているのはギリシア的、キリスト教神学的な人間学の影響である。

まずギリシャにおける哲学以来の伝統的な人間学では人間は「理性(ロゴス)を持つ動物」と解されているが、動物というのは目の前にある存在として捉われているし、ロゴスという言葉の意味も曖昧なままである。

次に神学においては人間は神の似姿として創造されたものであり、また人間が自身を超えていくとする傾向を持っているという考えもキリスト教神学から来ている。

これら二点から現存在の存在への問いは忘却されてきて、その存在は現存在以外の被造物が目の前に存在していることと同じように自明なものと考えられてきた。

同じ問題が心理学にも当てはまる。

心理学を生物学に還元したところで、存在への問いが欠けているという問題が解消されるわけではない。

生命とは現存在の存在の仕方でありそれは現存在を解明することで初めて把握される。

生命は単なる現存在以外の目の前にある存在者ではないが現存在もまた単なる生命ではない。

以上から人間学、心理学、生物学に存在論的基礎が欠けていることがわかったが、だからと言ってそれら諸学の成果が否定されるわけではない。

だがこの存在論的基礎は経験的な探求から得られるものではなく、経験的探求に常に先立っている。

第十一節 実存論的分析論と未開の現存在の解釈 「自然的世界概念」を獲得することのむずかしさ

現存在を日常性において解釈することは、未開な現存在を解釈することではない。

むしろ現存在の日常性というのは、高度な文化の中で現れてくる。

逆に未開な現存在は現象の中から直接的に語りかけてくることもある。

そのような未開の人々についての考察は民俗学によって行われてきたが、その民俗学も他の諸学問と同じように存在論的な基礎の上に成り立っている。


現存在の分析を始める際に出会う困難は、「自然的世界概念(natürlicher Weltbegriff)」を構築するという課題である。

様々な文化や現存在のあり方といった世界像についての知識はたくさん手に入ったけれども、それらをリストアップすることによって本質が見えてくるわけではない。

世界像を秩序付ける際にその秩序の前提となっている世界一般の概念が必要となり、さらにその世界概念が現存在の構成要素でもあるなら現存在の分析においても解明されなければならない。


第二章 現存在の根本体制としての世界内存在一般

第十二節 内存在そのものに方向付けることにもとづいて、世界内存在をあらかじめ素描すること

現存在が実存し、私たち自身であるということによって規定されていることは「世界内存在(In-der-Welt-sein)」という存在のあり方から理解される必要がある。

この世界内存在という表現は三つの意味を持っている。

一つ目は「世界のうちで(Das "in der Welt")」存在しているということ、二つ目は「世界内存在としてある存在者」、三つ目は「内存在そのもの」である。

これら三つの全ては連関していて、一つを分析する際にも他を意識して現象の全体を解明しなければならない。

さて、「内存在(In-Sein)」は何かの中に存在することではない。

この一般的な意味で何かの中に存在するということは空間的なそられの位置関係のことを指していて、そのような仕方で存在する存在者は現存在以外の「目の前にある」存在者のカテゴリーでしかないのである。

これに対して内存在というのは現存在の実存カテゴリーである。

それゆえに内存在という言葉が指しているのは空間的に世界の中に人間身体があるということではない。

前置詞「in」や「an」の語義から考えて内存在とは何かしらのもとに住まっていること、親しんでいることを意味している。

「世界のもとで存在すること(Das "Sein bei" der Welt)*5」はこの内存在に基礎付けられる実存カテゴリーである。

これに関しても普通のカテゴリーとどう違っているのか見ておくことが必要となる。

「世界のもとで存在すること」は現存在が空間的に世界と並んで存在しているということを意味していない。

通常のカテゴリーにおいて一緒に存在していることは「ふれている」と表現されることがあるが、それが可能になるのは二つの存在者が出会うこと*6ができる場合のみである。

そして内存在として世界と親しんでいて、世界を発見している現存在だけが他の存在者に出会い、触れることができる。

それは存在者が自らをあらわにするのは世界の側からその存在者にふれるときのみだからだ。

現存在は単に目の前にある存在者として把握されることも可能だが、現存在の実際のあり方は他の存在者のあり方とは存在論的に異なっている。

現存在のそのような実際の有り様を「事実性(Factizität)」と呼ぶ。

この事実性によって意味されるのは自分に固有な世界の中で他の存在者と運命よって結びつけられた世界内存在である。

以上の考察から現存在は空間性を持たないことになるのかというとそうではなく、現存在は固有の「空間的存在」を持っている。

その現存在が空間的に存在することについての解明は世界内存在一般に基づいた「実存論的分析」によって初めて可能となる。

それに相対するものとして、心身二元論では内存在であることは精神的なことで、他方空間性は身体の性質の一つであると主張される。

このとき精神的実体と物質的実体を単に目の前にある存在者として「存在的に」扱ってしまっていて、それらの合成での人間の理解は曖昧なものにとどまっている。


世界内存在と現存在の事実性とは内存在の多様なあり方に含まれている。

そのような内存在のあり方は「配慮的な気づかい(Besorgen)」というあり方を伴っている。

ここでの存在論的な用語としての「配慮的な気づかい」は実存そのものが気づかいとしてあることを意味している。

配慮的な気づかいは世界内存在であるがゆえに世界と関わる現存在の本質なのだ。

「内存在」は現存在が持っていたり持っていなかったりできて、それがあってもなくても同じように存在できるカテゴリーではない*7

現存在が世界と関わったり他の存在者と出会ったりすることができるのは現存在がまず世界内存在であるからなのだ。


これまでの考察では内存在の消極的な特徴づけのみがなされてきたが、消極的な特徴づけによって現象の特有なあり方が告げられているという意味ではそれは積極的なものだ。

世界内存在という現象は現存在の先だった存在了解において最初から見て取られているのだから、必要なのは偽装や誤解を解いていくことである。

そしてまた世界内存在の了解が現存在の存在の構成要素であるのだから、その誤解もまた現存在の存在のし方に含まれている。

それは現存在は自身からではなく世界の内部で出会う他の存在者とその存在の側から自分を理解しているからである。


世界内存在というあり方を認識しようとする際に、私たちは認識そのものを「世界(客観)」と「こころ(主観)」の関係だと認識してしまう。

その時世界を認識することが世界内存在の存在様式となってしまって、世界内存在自身は「存在論的」には認識されないが「存在的」には世界とこころの関係だと了解される。

そして認識された「世界とこころ」という存在者を手掛かりに存在そのものが(誤って)理解されて、それを前提として世界とこころの関係を探求する試みが生まれる。

ここで現存在自体は不適切に解釈されて、主観と客観という枠組みが自明なこととして探求の前提となっている。

しかしこの主観と客観という考え方も存在論的に基礎付けられない限りは、探求を誤った方向に導くかもしれない危険性を持った前提である。

このようにして認識作用が優位に立つことによって認識という存在のあり方を間違って理解させているので、世界の認識そのものを内存在の実存論的なあり方として解明する必要がある。

第十三節 或る基底づけられた様態による、内存在の範例化 世界認識

世界認識という現象そのものは「主観と客観の関係」として外面的で形式的に理解されしまっている。

しかしながら主観と客観の関係は現存在と世界の関係に妥当しない。

認識作用は目の前にあるものとして「外的に」存在しているわけではないから、現存在の「内的な」ものでなければならない。

すると主観はどのようにして自己の内部から外に出て対象を認識するのかという問題が生じる*8

このような問題が提起される際にはそもそもの主観の存在や、認識作用が内的に存在することについての問いが見過ごされている。

ここで人が見過ごしているのは

認識作用とは世界内存在のひとつの存在のしかたである
(Erkennen ist eine Seinsart des In-der-Welt-seins)
*9

ということだ。

認識作用は現存在が「世界のうちですでに存在していること」によって基礎づけられていて、また認識作用はその現存在の存在の本質も構成している。

世界内存在は配慮的気づかいとして世界に気を取られているが、認識するためには対象の制作や操作をやめてそれらのもとで立ち止まらなければならない。*10

そうすると対象の見かけ(形相)において出会いそれを眺めやることができるようになり、対象を認知することができる。

この眺めやることは対象からひとつの「観点」を取り出して、その対象に焦点を当て続けることである。

そしてまた認知することは語ること(ロゴス)というやり方でも行われうるので、その場合認知することは規定することにもなる。

さらにこうやって語られたものは命題として保存されるが、その保存自身も世界内存在の存在様態の一つであるからそれは主観が表象を得るプロセスではない。

認知しその内容を命題として保存することを表象を得るプロセスと考えてしまうと、現実と表象が一致するのかという問題が生じるのである。

何かを認識するとき現存在は内側から外側に出て行くのではなく、そもそも外側(世界の側)の認識対象のもとで存在している。

他方認識する者も世界内存在としての現存在なのであるから、外側に存在している現存在は同時に内側にも存在している。

世界のうちで出会われる存在者同士の連関を認識する際にもそれは当てはまる。

また忘却、錯覚、誤謬は対象との存在関係が失われることではなく、内存在の存在の仕方が変わっただけである。

つまるところ認識作用とは現存在が発見された世界に関わる存在のし方を新たに獲得することである。

ゆえに認識作用について知るためにはそれに先立って世界内存在が何なのか解明しなければならない。


感想

第一篇第一章、第二章で特に興味深かったのが「主観」と「客観」の関係についての批判の部分だった。

単に空間的に世界の中に存在しているのではなく実存カテゴリーとして「世界内存在」であるというのは、現存在が世界そのものの一部として存在することだと思う。

そこで世界の存在と現存在の実存はつながっていて切り分けることができない。

だから主観と客観を厳密な二分法で考えることができないのだ。

世界という外側から映し出される観念を主観という内側からを認識する観念論と、主観すら物質的な世界の一部であるとする唯物論は互いに矛盾していて、結局どちらが正しいとも言い切れない。

そもそもどこからが外側でどこからが内側なのかはっきりした境界線を引くことも難しい。

ハイデガーはこの二つの矛盾を調停するために世界内存在という観点から認識を見ているのだろうと思われる。


デカルトにおける物心二元論は様々に批判されているが、ここでは結局精神と身体を単なる対象として二つ並べて考えるところが批判されている。

最近読んだデネットにおけるデカルト二元論批判は「別々の実体である思惟と延長がどのようにして関わることができるのか?」という点にあった*11

この批判は唯物論の視点からのものなので思惟も延長も世界の中で出会われる存在者として捉えていて、ハイデガーが「あいまいだ」と言っている思惟も延長の二つの合成者としての自己を、そのあいまいさから批判しているものと考えられる。

ハイデガーの批判はさらに根本的な部分から、すなわちそもそも精神とか身体とかいうのが存在しているのはどういうことなのかという視点から行われている。


ところでハイデガー存在論から脳というものがどう捉えれられるのかという点が疑問に思えてきた。

脳は単純に世界の中の存在者として対象となるのか、それとも思考の源泉として現存在の存在体制に関わるのだろうか。

第十三節の議論から世界内存在としての現存在が脳を認識したり関わったりするとき現存在は脳のもとで存在しているということになるから、脳と現存在が同じ存在であるとも言えるのではないかと思う。

まだ全体を読み通せていない段階なので結論は出せないが、唯物論的な「自己」の解明に少し触れた自分にとってはかなり気になるテーマである。


第一部第一篇第三章、第三章A(第十四節〜第十八節)についての記事は以下に、
re-venant.hatenablog.com

第一部第一篇第三章B、C(第十九節〜第二十四節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.1.9.125 p223 es geht um+(4格)で「〜⁴が問題となる」

*2:1.1.1.9.127 p225

*3:「現存在の可能な存在様式=存在」だから「可能な様式をまとめた可能性=存在」とも言える。

*4:現存在がカテゴリーによって規定されてしまっているのではなく、存在において自由にあり方を決めていけるということだと思う。

*5:先ほど出てきた「世界のうちで(Das "in der Welt")」とどう違うのだろうか。

*6:おそらく存在そのもののレベルで。

*7:この辺りの記述から、現存在の可能な様態が存在であるという点について現存在の様態はそうであってもなくても同じように存在できる属性(カテゴリー)ではないから「存在」そのもの(実存カテゴリー?)なのだと解釈できる。

*8:要するに観念と対象の一致の問題。

*9:1.1.2.13.171 p300

*10:いわゆる観想的な態度のことだろうか。

*11:re-venant.hatenablog.com