ダニエル・デネット『クオリアの歴史(2017)』和訳とコメント

原文:http://ase.tufts.edu/cogstud/dennett/papers/History_of_Qualia.pdf

要旨

 クオリアという哲学者たちの概念は悪い理論化、特に(例えば)信念の志向的対象とその信念の原因の区別を認識し損ねるのことの遺物である。クオリアは、サンタクロースやイースターのうさぎのように歴史を持っているが、そのことによってそれらが実在のものとなるわけではない。例えば幻覚の原因は幻覚の志向的対象とは全く似ていないだろうし、脳内の表象は特別に主観的な性質(クオリア)に変換されはしない。

本文

 何人かの著作家が神の歴史について本を書いている。彼らは神の存在を主張しているのだろうか。それとも神の観念や概念について語っているのだろうか。それとも他の何か?かつて尼僧だったカレン・アームストロングは1993年に『神の歴史:ユダヤ教キリスト教そしてイスラム教の4000年の探求』という本を出版した。彼女は無心論者のように見えるが、彼女自身がそう言っているわけではない。宗教社会学者のロドニー・スタークは2001年の彼の著書『一つの真なる神:一神教の歴史的な帰結』という本を同じような曖昧さを示す以下のような段落から始めている。

あらゆる偉大な一神教はそれらの神が歴史を通して働いており、これから示す予定だが、少なくとも社会学的にはそれらは極めて正しいといことを提示している。すなわち歴史の大部分は—偉業と同時に災害もまた—一つの真なる神によって作られたのである。これ以上明白なことがあるだろうか?[2001, p. 1]

 極めて明白に彼らがしていることは、「社会学的」または「人類学的」ではなく「文学的」な親しみやすい書き方を用いているということだ。オデュッセウス、ポール・バニヤンまたはサンタクロースの歴史は完全に学問に値する仕事で、それについて大変よく知っている人によって書かれた説明であり、そして幸いなことにその話題が実在の人物ではなく架空のキャラクターについてのものであることが知られている。しかし、神が話題となると、誠実な不可知論(いくつかの事例において)や外交、村八分への恐怖からよく知ることを控えるという長く確立された伝統がある。私たちはこの原理で親しみ深い沈黙を、ドーキンス(2006)の旧約聖書における神を「あらゆるフィクションのうちでもっとも不快なキャラクター」とする歯に衣着せぬ—そして多くの人にとっては衝撃的な—記述と対比することで照らし出すことができる。私たちはドーキンスがどこに立っているか知っている。ヤハウエは単に架空のキャラクターであり、実在する超自然的な主君や主人ではない。
 クオリアについての著述においても似たような曖昧さがあり、私はそれをずっと前から白日のもとに晒そうとしてきた。しかし「クオリアクワインする」(1984)という冗談じみたタイトルが、どうやら多くの人を私がクオリアがレプラカーン(もちろんそれについても本が書けるのだが)と同じような架空のものだとは実際には言っていないか、もしくは実際にそう言っていて、明白な間違いを犯している(「これ以上明白なことがあるだろうか?」)と勘違いさせたようである。30年以上にわたって哲学者たちと認知科学者たちは、クオリアについて語るときに自身が語っているのが何なのか知っているし、それらが完璧に実在物だと知っていると主張し続けてきた。実際、彼らは「ハードプロブレム」を解決困難にしているのはクオリアの否定不可能な存在なのだ!としばしば主張する。このように考える人々によると、私は1991年には意識を説明しておらず、むしろそれを言い抜けようとしていたのだ。(笑)。冗談はそこまでにして、この話し方を真面目に取りそれが非常に優れた思想家(またはその読者)をいかにして騙して意識についての本当の進歩を成す機会を失わせることができるのかを見てみよう。
 私はニコラス・ハンフリーの『意識の発明』というエッセイを使って私が何を言わんとしているのか示そうと思う。私はハンフリーがこのエッセイで言っていることの大半に同意しているか、または教授されている。私は事実、誤解を招くと思われる過度に外交的で、彼が実際に精力的に転覆させようとしていると見る人々に偽りの安心感を与えると思われる彼の説明戦略や言葉の選択のいくつかを除いた全てに同意するだろう。

1. 志向的対象は何でできているのか?

 アームストロングやスタークに例示される差し障りのない言い方はブレンターノ(1874)が「志向的対象」と呼んだものを語る際には必要不可欠である。言い伝えによるとポンセ・デ・レオンは若さの泉—存在しないものを探していた。その言い伝えにはなんらの事実的な証拠も知られていないので、もう少し有名でないが歴史的に申し分ない事例、ウォルター・ローリー卿が南アメリカでエルドラド、黄金の街を探して何度か遠征を行なった事例を考えてみよう。エルドラドについて学問的な真実に満ちていて、読者にそれが存在しないと知らせないような本を書くことができるかもしれない。その本は実在物について、すなわち実在する人、実在する脳(もしお好みなら心)、実在する旅、実在する本や会話、実在する地図、実在する詐欺師やぺてん師、実在する落胆についてのものになるだろう。そしてローリーが実際にエルドラドの観念を彼の心に抱いていたこと(大雑把にはそう言えるだろう)が真実である一方で、その精神状態は彼の探求の対象ではない。彼はすでにそれを持っていた!彼は自分の心の中にある観念を追い求めていたわけではない。彼は街を探していたのだ。そしてエルドラドは何でできていたのか?大理石?金?煉瓦?それ、すなわち志向的対象は何物でもできていない。架空の対象は多くの性質、本当の性質を持っていると正しく言うことができる。サンタの外套は赤く、彼の髭は白く、そして彼のお腹は大きく丸い(赤い外套を除いて私もその性質を持っている)。エルドラドはローリーが持っていると信じていたどんな性質も持っていた。それは存在しなかったが、ローリーはそれを見つけるためい彼の人生の大半を費やす用意があるほどにそれが存在すると信じていた。この存在しない(志向的に非存在の)エルドラドはウォルター・ローリー卿のもっとも重要な信念や願望のうちいくつかの志向的対象であった。
 さて、通常の正しい信念や知覚の志向的対象についてはなんと言うべきなのだろうか。通常、私の前のテーブルの上に赤い林檎があることを信じているなら、目の前にある赤いりんごによってその信念は引き起こされている。その林檎は存在し、そして赤色であり、私の信念の間接的で末端の原因である(それは最終的に目の前に林檎があることを信じると言う精神状態に導く、私の目と視覚野における出来事を引き起こす)。その信念は赤くも丸くも美味しそうでもない。それは赤くて丸くて美味しそうなもの「について」の信念なのだ。またそれらは赤さや丸さや美味しそうさの信念の近接的な原因でもない。その信念の志向的対象は私の目の前にある赤い林檎であり、私の心の中の観念ではない。そしてこれは私がその林檎について話したり手を伸ばしたりそれを掴んでかじったり(その側の熟していない林檎を無視したりしながら)することで表現できる信念なのだ。志向的対象が架空の、非実在の、幻覚や想像上のものであることを忘れない限りで、日常的な実践においては真なる信念、知覚もしくは他の精神状態の志向的対象を、その精神状態の創造と維持において(普通は間接的に)因果的役割を担っている実在する対象と単純に同一視することによる害はほとんどない。代替的な実在物、「全く同じ性質を持った」内的な実在的対象にはその精神状態のより近接的な原因としての役割は存在しない。内的な表象を安定させるシステムには役割があるが、それらは小説の文章が架空のキャラクターを表象するのとだいたい同じやり方で架空の対象の性質を表象しているのである。実在の赤い林檎を実在するものだと見なすことは一つの果実と信念の間に介在する「直接見られた」現象的/主観的な赤い林檎を脳が生み出すことを要求しない。赤い林檎の幻覚を持つこともまた、内的な表現を要求しない。
 私はこれがほとんどの人にとって受け入れがたいほどに直観に反する考え方だと言うことを学んだ。人が赤い林檎の幻覚を見るとき、そこには何か(おそらくは何か特別な、主観的な意味で)赤くて丸いもの、それが幻覚を生むかどうかに関わらず心によって作り出された(物理的でないかもしれないある「次元」や「領域」における)実在が伴わなければならないようだということは確からしい。人が意識的な経験について語る際に語っているのはその対象、その現象なのである。私はこれは間違いであり内観と内省の疑い得ない帰結などではないと主張しているのだ。人がこの間違いを犯すときにしていることは信念の志向的対象と信念の近接的な原因を混同することである。小説家が彼女の小説の登場人物の権威であるのと同じように、人はその人の信念の志向的対象についての「権威」である。しかしそれらの信念の近接的な原因についてはほとんど権利も知識も持っていない。
 なぜ目の前に赤い林檎があると言うのかを問われたら、私はそれを自分の目でちょうど今見たからだ、と心から答えることができる。これは原因についての主張だ。もし私が正しければ、目の前に「素晴らしい」赤色の性質(デネット 1991)、通常のクラスの観察者に相対的にのみ定義できる性向的性質を含んだこれこれの物理的性質を備えた物理的な対象がある。しかし私は間違っているかもしれない。例えば私は幻覚を見ているか、放物線状の鏡、またはその林檎に手を差し伸べた際に気付くであろう何者かに欺かれているかもしれない。私たちは普通何がその他の信念(そして信念についての信念、その他)を引き起こしたかについての正しい信念を持っているにも関わらず、原因についてのそのような信念が真実であること保証するなんらの「特権的アクセス」も持ち合わせていない。そしてもし人が目の前に赤い林檎があるという信念が視覚システムによって信念の直接的な源泉として生産された「現象的な」赤い林檎の表象によって近接的に引き起こされたと信じているなら、それはおそらく間違っている。(私はそうであることを確信しているが、しかしこの論文での目標は私が正しいだろうことを示すことにあり、それゆえ最初から私が正しいと想定しないことにする)ウォルター・ローリー卿の安定した、高度に発達して心を奪われていたエルドラドについての信念は黄金でできた実在の街によって引き起こされたわけではない。私たちはそれについて強く確信することができる。民話、偽証、希望的観測、そして消化不全のもつれたネットワークが何を意味しているのか誰が知っているるだろうか?[~]
 ローリーの頭の中にあった、エルドラドについて持っていた信念や願望に錨を下ろし、近接的に引き起こし、促進するものはなんだったのだろうか?ここで私たちは慎重に歩を進めなければならない。なぜなら実際に物理的、因果的に彼の脳で起こっていることはローリーが、もし彼が当時では抜きん出たアマチュア認知神経科学者でなければ、それについてなんらの信念も持っていないものだからだ。彼は疑いようもなくエルドラドについての彼の「観念」、それに対する熱望、そしてエルドラドの想像図についての多くの信念を持っていた。彼がこれらの「観念」全てに対するアクセスを有していたと主張することは、広範なアマチュア認知神経学なしに彼がそれらを非常に安定したやり方で区別したり、報告したり、記述することができたと主張することになる。それは彼が自身の次なる行動を導きうる、それら(これらの信念の表現)についての報告を含んだ明らかに内的な出来事についての信念を持っていたということである。これらの信念はもちろん独自の志向的な対象を持っていて、彼はその志向的な対象が「持っていた」性質について間違い得ない(究極の権威者である)が、彼はどの志向的な対象が実在するのか、またどれが(彼がそうであると期待したものでは全くない)原因を持っているのかについて間違い得ないわけではない。

2.クオリアとは何か?

 クオリアは自身の精神状態について持ちうる内省的または内観的な信念の志向的対象である。これ以上明白なことがあるだろうか?志向的対象についてそのような言い方をすると、人々が彼らのクオリアについて実際に考えたり、語ったり、迷ったり、喜んだりできることは明白である。それはウォルター・ローリー卿がエルドラドを探していたという事実と同じくらい否定し難い事実だ。明白でないのは、クオリアが実在のものであること、つまりクオリアが存在することだ。それらが実在しないなら、ローリーのエルドラドと同じように現代の科学に対してなんら問題を提起するものではない。ハード・プロブレム(チャーマーズ 1995, 1996)は問題ではないと判明するか、むしろそれは(私が長い間主張してきたように)どのようにして人々がクオリアが実在するという考えに誘惑されたのかについての多くの「簡単な」問題へと崩壊するだろう。その問題は私たちに人々がクオリアを信じる際にその脳の中では実際には何が起こってそうさせているのかについての多くの問題を提起し、そしてそれに答えることを要求するだろう。
 これは「行動主義的」ではないだろうか?そう、当たり障りなくイデオロギー的でない意味であらゆる科学は行動主義的だ。気象学もこの意味で行動主義的である。一旦気象学的な振る舞いの全てを説明してしまえば、あらゆる現象を説明したことになる。この定式化での「振る舞い」には、自身に対するものであれ他者に対するものであれ、完全に実際の言葉として発音されるか半分しか具体化されないにせよ、言語的な反応を生み出させるあらゆるプロセスに伴うあらゆる階層で記述され、有用な、情緒を生み出したり、嗜好を形成したり、域値を高めたり低めたり、条件づけられた反応を引き出したり、記憶を喚起したり、判断を調整したり、痛みを鈍くしたり、注意を散漫にさせたり、性欲や攻撃性や従順な反応を高めたりするあらゆるものを含んだ脳内でのあらゆる出来事が含まれている。
 私が気に入っている意識の比喩的な描写、ブラックによるものだと彼が考えている絵をみている人を描いたソール・スタインベルクのニューヨーカーの表紙*1を考えてみてほしい。この巧みな思考の風船は、彼が絵を見るために立ち止まった数秒に起こったかもしれない一連の振る舞いの不完全な目録である。それらは筋肉と骨の振る舞いではなく、内的な、目に見えない振る舞いである。そしてそれらが共有する、彼の骨の内側で起こっている他の全ての認知的、情緒的、代謝的な振る舞いによる競合を制してその目録へ登記されるための性質は、(私たちにとっては間接的にせよ)ヘテロ現象学的テキストに従って(デネット 1991)彼がそれらを報告、説明、記述、その他できるためにそれらがその人にとって「アクセス可能」であることなのだ。
 ここが足元が滑りやすい場所なのである。これら内的な振る舞い、脳内で起こる物事がアクセス可能だという地位を占めるために、それらは彼がその時どのように感じたかを私たちに伝える際に表明する信念の信頼できる原因、形成するもの、生み出すものでなければならない。しかしこれらの内的なものはこれらの信念の志向的対象と同一視されるべきではない。なぜならその志向的対象はサンタクロース(それは存在しないという性質を持っているために、誰かの信念の原因であるわけではない)のように架空のものかもしれないからだ。これが「錯覚主義」の核心である。(フランキッシュ2016, デネット2016)今そこに赤く丸い林檎があるという私の信念を引き起こす赤く丸い林檎を末端の原因、そしてその信念の志向的対象と同一視することと、丸いクオリアと結びつけられた赤いクオリアを経験しているという私の信念を引き起こす内的な神経の状態を志向的対象、そしてその信念の近接的な原因と同一視することは別である。なぜなら、私たちが確かに言えることとして、その[近接的な]原因は赤くも丸くもないからである。
 もし、ある作者の小説の悪魔的な女性キャラクターが、彼が否定しようとも実際に作者の母親であるというフロイト的な批判のような特定の偏向した態度を取りたいならこの同一性を主張することもできる。そのように批判する人は架空のキャラクターと筆者の母親が様々な性質を共有しているのは偶然ではなく、そのことがその小説に現れる内容のいくつかをどうにかして(因果的に)説明すると考える。事実、信念の内的な神経の原因をその信念の志向的対象と同一視することは、精神分析されている小説家の事例より魅力的である。なぜなら性質の大きな違いにも関わらず多くの状況証拠がその同一性を支持するだろうからだ。一つ例として、黒い背景に明るい青色の大文字のAが描かれているのを想像してほしい。私があなたにその「A」について伝えるとあなたは私に(それはセリフ体で、青さは10月の空のようで、淡い青ではないのだが)それは実際にはこのワードのファイルにおける描写と同じように青色ではないと言う。しかしそれは本当に(もしあなたがよく目を凝らして脳鏡のいい位置でそれを見たら)Aの形なのかもしれない!この、大文字のAの内的な神経の表象(あなたが大文字のAを想像しているという内観の表象の実際の近接的な原因)は実際にレチノトピックマップ上に並んだ、視覚野のある部分における実際の刺激の本当にAに似た形をしたパターンを含んでいるかもしれないものを利用しているかもしれない!空間的な性質を表象するのに空間的な性質を使うことは時折非常に良い手法であることがあるが、その手法があなたの脳で使われているかどうかは、それについてあなたがなんらの特権的なアクセスも有していない開かれた、経験的な問いである。それについては例えばシェパード/コスリン/ピリシンの精神イメージについての論争を見てほしい。ピリシン(2002)(そのコメンタリーを含む)は良い概観である。そして何がその青を神経的に表象しているのだろうか?Aの形の表象を多くの性向、記憶、嗜好、情動的反応を結びつけるいくつかの発火パターンがその空のように青い影のあなたの神経上の表象として集まった。そんな感じのものが私たちがデカルト劇場のディスプレイに映し出されていると想像する青いクオリアという二元論的な幻影の自然主義的な代替物である。(デネット 1991)しかしどのようにしてこんな非人格的な、神経の発火の退屈なパターンが、輝かしく、人生を肯定し、鮮やかで、胸が張り裂けるほど素晴らしい主観的な青のひとかけらの代わりになることができるだろうか?それは肯定的な情動的反応、詩的で、自信を強めるものを増やす性向などを引き出すトリガーの多くを備えることによってである。(青い影を想像することと実際に青い影を見ることの違いは程度の問題であり、種類の違いではない。これについてさらには以下に)その情動は組み込まれた、つまりそれに関わる単なる表層的な性質の同一性に伴う進化によってデザインされた表象の特徴なのだ。(進化は表象にジャムを塗って美味しくする必要はないし、酢を塗って不味くする必要もない。それらの後遺症は彼らが表象する美味しいまたは不味い性質に反応する傾向を持った人々である。)

3.ニコラス・ハンフリーの発明

 今や私たちはハンフリーがどのようにこの辺りを主張したかを見る準備ができた。なぜなら彼は、私の言い方には賛成しないかもしれないが、私がちょうど今言った内容のほとんど全てに同意するだろうと考えられるからだ。彼は「発明(invention)」という言葉の二つの異なった意味、すなわち発明やプロセス、または「偽り、気に入られたり説得するために設計されたもの」を記すことから始める。彼は次に「意識はこの二つの意味で「発明」である」と主張する。(ハンフリー 2017)

すなわち、意識は
1.自然選択によって進化し、自身とその周囲を理解するために設計された認知的能力
だがしかし、別のレベルでは
2.私たちの存在の評価方法を変えるために設計された、脳によって作り出された空想
である。

 まさしく両者とも重要である。私が述べたように(デネット 1991,2016,2017)意識はユーザーイリュージョンであり、変化し続ける困難な世界で脳が大きく複雑な身体を制御する仕事を果たすために慎重にかつ素早くサンプリングされる必要がある、(例えば分子や細胞のレベルにおいての)因果と相互作用の乱雑な喧騒の優れた単純化である、脳それ自体のユーザーイリュージョンなのだ。さらに詳しく言えば、意識は脳の様々な構成要素がそれぞれに異なった判別や制御の仕事をこなすためのユーザーイリュージョンの多様体の全体である。私たちがデカルト劇場からホムンクルスを消去して劇場自体も取り去ってしまうと、その全ての仕事を行う分散され撒き散らされた主体は情報や影響を回送する必要がある。これは情報的な出来事(お好みなら信号)を別の媒体、想像された意識の私-媒体(MEdium)へ送信することを含まないが、信号を表象のユーザーに彼らが求めるものを引き出させるのによく適した神経上の表象へと翻訳や変形することは含んでいる。(初期のロボット、シェーキーの翻訳プロセスについてのまとまりのある記述と議論についてはデネット1991を見よ)
 しかし、さらに吟味してみると、二つめの意味はどうなのだろうか?ハンフリーはどの空想のことを言っているのだろうか?彼は私たちの人生に存在している志向的対象、すなわち私たちが考えたり、味わったり、熱望したり、拒絶したりする「もの」の群れを指していると考えるられるかもしれない。これら志向的対象のうちいくつかは世界にある完全な実在物、例えば赤い林檎や恐ろしい虎や素晴らしい夕暮れであり、またいくつかは単なる想像の産物である。それら想像の産物はシャーロックホームズが「虚構霊体」で出来ているわけではないように、「作り物」で出来ているわけではない。しかし彼が言っているのは志向的対象のより制限された集合、すなわち私たちが内面に注意を向け、それについて信念を持ったり予感したり、特定の感覚を熱望したりするとき私たちが「より直接的に」味わったり忌避したりする「もの」、私たちの知覚信念や願望の全てではないにせよその多くに伴い、それらを修正し、豊かにする内的な出来事である。ハンフリーは言う。

私が言っている空想とは、主観的な感覚の世界を構成し、そしてそれ以外の何物にも関わらないクオリアまみれの志向的対象の家庭菜園である。知覚はクオリア次元を持っていない。それは赤い林檎があることを知覚するものに似ていない。しかし感覚はほとんど常にそれを持っている。それは私の網膜で赤い光が感覚するものに似ているのだ。(個人的会話で 2017)

 私はこれがプラグマティックな、ビジネスライクな認知とそれが有益でなかろうが存在し続けてきた熱狂的で感情を伴った情動の区別を復活させると思う。ハンフリーは彼のエッセイで「私はクオリアが認知的能力にほとんど貢献しないということを論じようと思う。それらが空想のどれだけ中核に位置していようとも」と言っている。私は、それとは対照的に、(ハンフリーが快く受け入れるであろう意味における)クオリアは「正当な」認知において大きな役割を果たしていると考える。私たちは(視覚システムの能力と色の区別に対する貪欲さを利用した)ダイアグラムでの色分けや、(聴覚パターンを判別し飽くことなく求める聴覚システムの能力を利用した)押韻による記憶術における有用性といった小さな現象においてもそれらが行う様々な貢献を見て取ることができる。私はハンフリーの、A+やB−に位置付けられた刺激を承認し、一方たかだかD−などの他のいくつかを混ぜ合わせ、さらにその他を無視することによる、脳のほとんど全ての入力に対する慢性的なバランス化に対する賞賛に同意する。実際、この視点に目を開かせてくれたのはハンフリーが初めてなのだ。私たちが脳がその内部で起こっていることに常に無関心だと見なすと、実際に起こっている精神的生活のコントロールの仕方がわかり始める。それは誘発された(「感情の」)神経活動同士の競合と協働によるのである。脳には次に何を考えるべきなのかを理解している司令官は存在しない。そこにはいくつかの思考を抑圧し他に集中しようと熱心に働く仮想の司令官いるだけであるが、私たちの皆が知っているように、これは成熟した、また間欠的な業績であり、下層にある心のオペレーティングシステムの部分ではない。
 しかし私がクオリアがこれらの重要な因果的役割を果たしたいると言うとき、もちろん私は内観を行う人がそれがどんなものかを私たちに伝える際に表明される信念の内的な、近接的な原因のことを言っている。感覚はエルドラドが黄金でできていたのと同じようにクオリアを持っている。そしてこれはハンフリーがクオリアは認知的能力にほとんど何の貢献もしないと述べる際におそらく彼が言っていることなのだ。認知に関わる貢献のほとんどは物語が劇へと分節化される前に為される(または少くとも引き起こされる)。寝ている間に襲ってくる「感じられない痛み」はそれでも関節のダメージを避けるために私たちの手足を良い位置に保つし、手足が脅威を判別することによって生まれるアドレナリンの奔流はその脅威の志向的対象が主体の意識経験に現れる前に起こる。
 さて、問題の段落へとたどり着いた。

誰もクオリアが存在しなくなることを望まないだろう。実際、意識的経験がその他についてほとんど関わらないなら、私たち皆にいくらかの機会が与えられるだろう。クオリアを無視する意識についての科学は部屋の中の像を無視しているのではなく、部屋「である」像を無視しているのだ。(ハンフリー 2017)

 しかしもちろん、私はクオリアが存在しないことを望んでいる!これは、クオリアに対する私の態度がシャーロック・ホームズネス湖の怪獣、雪男に対する態度とちょうど同じであるということだ。私はこれら志向的対象が、ワクワクするし、様々な用途において示唆的な伝承の話題であることが嬉しい。しかし私は誰かがそれらを実在のものだと信じることを全く望まない。もし彼らがそう信じるなら、彼らは有害な妄想に襲われている。(クオリアを信じることはそれとは対照的に差し障りがないか、悪くともその人がクオリアがするりと逃げ、捉えられず定式化できなず、それによって彼のモデルに恐ろしい穴が残ると考えている認知科学者なら困った妄想である)
 私が世界にある物体の感覚上の性質、すなわち色、音、香り、手触り、液体性や固体性などの存在を否定しているわけではないことを注記しておこう。それは私がドル、ポンド、スターリング、ユーロの存在を否定していないのと同じである。これらは可能な限り実在的な世界内の実在物であり、またそれらは精神上の出来事の性質ではなく、精神上の出来事によって表象される性質なのだ。そして(大雑把に言って、ボイルとロックが一次性質と呼んだ)他の多くの性質とは違ってこれら「二次」性質はそれら自身の存在と精神上の出来事によって表象されたものとの同一性を有している。ヒュームは心の「外的対象に自身を広げていく強い傾向」(人間本性論 1739)に注意を向けさせがちであるが、この素晴らしい表現はその比喩的な意図を露骨に匂わせている。ヒュームは心が、例えば灯台の光線のようにして対象の近しい表面に色をどうにかして投射しているという馬鹿げた提案をしていたわけではない。ヒュームの知見のより同情的な読み方は心が世界内の対象が心の所有者の需要や好みによく適した性質、ギブソン(1966, 1979)ならアフォーダンスと呼ぶものを持っているものとして扱う傾向を持っているということだ。アフォーダンスは実在する性質であり、世界のどこでも具体化されており、心はそれらを探知するのに適している。(さらに幅広い議論についてはデネット2015, 2017を見よ)しかしそれらは一つの種、または他の、普通は私たちホモ・サピエンスの(通常の)心の嗜好という言葉で特定され定義されているために、私たちの進化したユーザーイリュージョンの親切な幻想の例だと認識されうる。
 ここに謎がある。赤いものはどのように機会に似ているのだろうか?そしてその答えは、機会はもし私たちの頭の中で起こる物事でなければ機会ではないが、頭の中で起こるそれらが機会ではないように、世界内の赤いものはその赤さを私たちの頭の中で起こっている物事に依存しているが、赤いものが私たちの頭の中で起こっているわけではないということだ!(素晴らしくまた疑わしい性質についてはデネット1991, pp. 379-380を見よ)
 ハンフリーはクオリアについて実在論者になりたくないが、錯覚主義に対して不安を抱いている。「錯覚主義は人間の経験の謎を台無しにし、多くの人にとっては切り下げと映ってしまう」(ハンフリー2017)これは重要な反論ではないと私は考える。私はそこでは聖なる嘘、すなわち私が父親的態度で普及させたいと思う神聖で人生を救う(少なくとも人生を豊かにする)偽りを保存したいと思う環境を提示することができるが、クオリア非実在という衝撃的な真実を受け入れることはナッシーや雪男や人魚を信じることをやめることと同じように人を不安にさせるものではないだろうと思う。結局、「クオリア」は哲学者たちが発明した「テクニカルターム」であり、それを明らかにすることはエーテルや求心的な力を失うことと同じように人を悩ませるものではない。色はそれでも実在的で非常に美しいだろうし、香りはそれでも私たちの記憶に付きまとうだろし、痛みはそれでも忌まわしいだろう。そしてどこにでもある絶頂への探求はウォルター・ローリー卿の有名な強迫観念を矮小化するだろう。
 ハンフリーはスタン・ドゥアンヌは十分奇妙なことに「クオリア否定者」であるとついでに言った後何も言わずに、自身では巧みにクオリア実在論を回避している。

もし私たちが赤い光が網膜に触れ、主体が赤いクオリアについて主張するまでのそれぞれのニューロンから意識経験がどのように作り出されるか詳細に知っていたとしても、私たちはそれが何の役に立つのかを知らないだろう。(ハンフリー2017)

 ここで彼は網膜から報告までの道筋を媒介する(実在の)変数としてのクオリアにコメントすることなく飛ばしている。これは彼がクオリア-信念が私たちの心に引き起こされることの進化上の理由は何なのかを正しく探求するためにクオリアが脳(または心)内の出来事の実在の性質であることを必要としないことの認識の良い兆候である。そこで彼はクオリア実在論者であるという定義上の誤りを犯しているフォーダーとサールの両者に鋭く釘を刺している。彼らはウォルター・ローリー卿(想像上の)批判者であり、ローリーがそんなにも長い間存在しない何ものか、つまりエルドラドに突き動かされていたことに驚くだろう。これは不思議なことではない。しかしここで最初私を当惑させたハンフリーの主張に向き直る時が来た。

クオリアに晒されることがどのように人々の心理を変化させるのだろうか?どんな信念や態度が生み出されるのだろうか?それは自分たちが何者で、どんな世界に生きているのかについての人々の観念にどのように影響するのだろうか?

 彼の用語「クオリアに晒されること」は注意深く分析されなければならない。フランキッシュ(2016, p. 29)はハンフリーがが是認する読み方を見つける。

ハンフリーは刺激に対する内面化された評価反応が複雑なフィードバック・ループを形成するために入力される感覚信号と相互作用するとき、感覚が起こると主張しているのだ。それは内的に監視されたとき、この世のものとは思えないほど現象的な性質を持つように見えるのである。

 これらのフィードバック・ループの内的な監視こそが、素晴らしい志向的な対象を生産する、自分の内部で何が起こっているのかについての高次の信念を作り出している。「感覚経験をそのような謎めいていて、非物理的な高地へと押し上げることで、クオリアはあなた自身の表れの感覚を深め、豊かにする。あなたは厚みのある時間を生きていると知る(ハンフリー2017)」
 私はこれに納得していない。ハンフリーは不当なステップを組み込んだように思う。それはおそらくクオリアについての標準的で素朴な考え方の改善ではあるが、それでも1ステップ過剰である。ウォルター・ローリー卿は明らかに、彼の探求に深く豊かな意味を持って厚みのある時間を生きていたし、それは彼がエルドラドが妖精の国だとかエクトプラズムで出来ているという信念を持っていなかったことによるのでは決してない。彼はそれが実在で本当の黄金で出来ていると思っていた。人間の黄金に対する執着はそれ自体研究に値する話題で、例えば蜂蜜への愛着とは違ってその執着には直接的で明白な進化上の理由がない。しかし私は黄金の心理学的な重要性において非物質性の教説が何らの役割も果たしていないと考える。またそれと同様にハンフリーに従って、非物質性への信念、または逆説的な「不可能性」が自分たちの人生やそれをどう生きるのかに注意を向けさせるために一役買っていることに納得していない。彼は以下のように言っている。

クオリアを作り出すのがあなた自身の脳だとしても、あなたは感覚の特別な質を外的な世界の知覚対象に投射することはできない。そうすることであなたはある種の妖精の粉を撒き散らすことになる。あなたは世界を魔法にかける。この魔法の絵の具を取り去ると、世界はその重要性の多くを失うだろう。あなたはそこがあまり素晴らしい場所ではなく、またそこがあまり楽し苦なく、楽しみでないと理解するだろう。(ハンフリー2017)

私たちは感覚が「特別な質」を持っていると考えるかもしれないが、私が主張しているのは、事実私たちの感覚は(脳内の出来事と考えると)世界内のアフォーダンスという特別な質を表象すること(持つことではなく)としてより良く見えるということだ。感覚における私たちの信念の原因ではなく志向的対象と考えられた感覚は、非常に便利な錯覚である。これらの質を「投射すること」は世界内の物に、私たちにとっての使いやすさのために歪められたこれらの性質を与えることを意味しなければならない。世界内の物は実際にこれらの素晴らしい(または恐ろしい、退屈な、ワクワクさせる……)質を持っており、それはそれらについての事実であるのと同様に私たちについての事実でもある。これらの性質は意識的状態の性質ではなく、私たちがそれについて意識を持っている世界内の物の性質である。私たちがより内観的になり自身の中で起こる「物」(ハンフリーの言う感覚)へ注意を向けたなら、「それら」がクオリアを持った感覚であり、求心的な力と言う錯覚をなしで済ませるようにそれなしで済ませることを学ぶことができる便利な錯覚だと理解する。
 最後にイーノック・ランベルトが私の志向的対象についての考え方が人々を説得することの難しさについて鋭い診断を下しているのを見てみよう。

「全ての志向席対象が等しく作り出されるわけではない」…ローリーのエルドラドを見つける意図の表明によって表象される志向的対象と、ローリーの大変な旅の最後に谷の下にエルドラドを見たという幻覚を区別することは難しい。人々はそこには明白な心理学的差異があると考え、それらを表象の性質によって説明しようと望む。(個人的な会話で 2017)

 そう、そして人々が表象の性質を見ようとするのは間違っていない。しかし彼らは概ねその性質を間違った場所に見るのだ!この大きく明白な違いを説明する性質は、脳の神経上の表象に埋め込まれた機能的/因果的な性質であって、クオリアという魔法のような性質ではない。私たちは単純な事例を初めに見ることから初めてランベルトのローリーの幻覚という良い事例に這い上がっていくことができる。黒い背景の上の青い大文字のAを考えること、わざわざそれを想像すること、その幻覚を見ること、そして実際にそれを見ることの間の違いはなんなのだろうか?それぞれの場合に私たちは志向的対象を持っているが、それらを認知神経科学者の助けを借りずに区別する大雑把ですぐ使える方法も持っている。単なるAについての考えは非常に大雑把であり、それを一つのフォントや特定の青色に固定することに煩わされずとも実際に黒い背景の上の青い大文字のAについて考えていると心から主張することができる。想像されたAは、なんらかの努力を伴って意図的に主張されなければならないが、「意志の働き」(それについて私たちは深い知識を持っていないのだが)によってその色や形を容易に変えることができる。幻覚のAは非常に持続的だが、真面目な探求の元では離れていく傾向にある。(トマスが自分が何をしていたのか知っていなかったのではないかと疑うこと)見られたAはさらなる調査のあらゆる条件の元で頑強である。重要なことは、そこでは人はいくらかの間どのカテゴリーの志向的対象を見ているのか確信できないような境界線上の事例がありえるということだ。それは私たちが「内側から」知っていることの重要な部分であり、その知識には私たちが考えている志向的対象の非魔術的な性質を除いたクオリアについての何物も含まれない。
 このことは人間の脳は再生可能で「アクセス可能な」量の詳細においてそれらが喚起する表象を生み出すよう刺激されうるということを強く示唆する。赤く丸い林檎以外のものが原理的には可能な、その情報を求めた調査を持続させることはほとんど不可能に近く、私たちはびっくりハウスや他の奇妙な環境にいるのでない限りは、その証言を額面通り受け取る。幻覚はそれが珍しいから機能する。LSDを日常的に使用してトリップする人は、それがどれほど魅力的だろうと幻覚に騙されないだろう。想像と幻覚の境界性もまた曖昧で、パーティでのおしゃべりを聞いていると彼が騒々しいロバに似ていることに突然釘付けにされて、その確信を振り落すことができずに会話についていくのを妨げられるのは、厳密には幻覚ではないが近いものである。そして細部が乏しいレベルにおいても、そのような表象は情動的な効果を持ちうるし、その効果はそれらが現実から消えることで鈍くなるのではなく増幅される。環境について含んでいる情報が多すぎるかもしれない実際のセックスに関わることよりもポルノグラフティによってより欲望を喚起される人もいる。ゆえに私が今あなたにセックスについて考えさせたが、その文章について思考することはあなたの欲望を喚起しないだろう。その文章によって性的な空想に引き込まれることは思考することとは別物なのである。
 ランベルトの例に戻る時が来た。ローリーがエルドラドを信じたりそれを探したり、それに言及する問いや主張や命令を発すことその他は、志向的対象のたくさんの根拠である。ローリーのエルドラドは、他の人のエルドラドとはかなり異なっているかもしれない(サンタクロースがペールノエルと異なっているように)。長い日の終わりにローリーが彼の探求の幻覚を見たとしたら、彼はエルドラドについての思いもよらなかったことを発見するかもしれない。その街は彼が想像したよりも小さく、屋根は黄金ではなくテラ・コッタで覆われており、中央広場にエリザベス女王一世の巨大な像が立っている!しかしそのとき何が起こるのだろうか?彼が急いで彼のベースキャンプに戻り、彼の幻覚を疑ったり、エルドラドという志向的対象の内容に「目で見た証拠」を付け加えることは決して疑い得ないだろう。もしくは彼はその新しい細部に驚いて立ち止まるが、いざ日誌の記録しようとしたときにはその詳細は霧に消えるか、数秒前にそうであった様子からは変わったように見えるだろう。彼は自分が幻覚を見ていた、または見ていることを発見するだろうが、このことによって彼は新しく異なったエルドラド、すなわち南アメリカのジャングルに幻視したエルドラドを志向的対象として得る。この志向的対象は彼を探索へと駆り立てた志向的対象とは全く異なっているが、それは前の志向的対象が持っていなかったクオリアを持っていることによるわけではない。
 ハンフリーの主張に潜んでいる、白日のもとに晒したいと思っているが解決しようとは思わないもう一つのテーマがある。私たちの内観への嗜好、すなわち人生のいくつかの時点で私たちが自分たちが何者なのかを考えそれについて悩むであろう可能性が高いことは、生き残ったり繁殖するために必要な要素なのだろうか?ハンフリーはそうだと主張しているように見えるが、動物や昆虫が私たちが自身の人生を愛するように彼らの人生を愛するかどうか、彼らの自己保存と自己複製の本能は私たちのものより重いものであるように私には思える。

コメント

 この記事はDaniel C. Dennettの論文"A History of Qualia"(2017)を和訳してコメントをつけようというものである。原文で7ページくらいの論文なのでそんなに長くならないかと思いきやすでに17000字もあるがご容赦願いたい。内容としては冒頭の要約にあるようにクオリアの存在の否定が趣旨となっている。このクオリアの存在の否定という論点はデネットが長年主張してきたことだが、2017年にもなってまた新たな論文が出るということはなかなか浸透していないらしい。例えば今年出た『心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』という本でもクオリア論や表象主義といった見方にかなり好意的に書かれている。
 さて、この論文の冒頭二段落ほどは本筋にほとんど関わらないので無視して構わない。その後にはクオリアが哲学的な問題を引き起こしていて、デネット自身が80年台からそれに反論していた事情が述べられている。クオリアは人が自分の感覚や意識について考えるとき主観的に、またなんの媒介もなく直接知られる感覚質(例えば「赤さ」や「痛み」)だと考えられている。これは信念(「〜と思う」などの形で記述される思考)の直接的な内容であり、それを引き起こす原因でもある。そしてそのようなクオリアは普通に林檎を見ている時と林檎の幻覚を見ている時に現れる信念に共通した対象である。この意味でのクオリアは信念の対象の精神における非物理的な現れ、つまり「現象」と呼ばれるものだと考えられる。またクオリアの特徴として物理的な説明を拒否するというものがある。例えば「メアリーの部屋」という思考実験ではクオリアは「物理的な知識の全て」以外にメアリーが得る知識だとされているのだ。それゆえにこのクオリアは物理主義に対してチャーマーズが「意識のハードプロブレム」と呼ぶ問題を突きつけるのである。
 「1. 志向的対象は何でできているのか?」ではエルドラド(黄金郷)というものに例えながら「志向的対象」というものが分析されている。志向的対象とは、簡単に言えば言葉や考えが指している対象のことだ。例えば「林檎」という言葉は赤くて丸い果実を志向している。さて、エルドラドは存在しないが、ローリーが「エルドラド」と口にしたり考えたりするときその言葉の志向的対象ではある。そしてその志向的対象は例えば黄金で出来ているといった性質を持っている。ローリーが探し求めたのがエルドラドのイメージではなく実際のエルドラドであるように、信念の志向的対象はクオリアではなく実際の対象(例えば林檎)である、ということが言いたいらしい。このような志向的対象と信念が生まれる直接の原因(実際には脳神経の発火)の混同がクオリア問題を起こしているのだとデネットはいう。つまりローリーはエルドラドについての信念を持っていたし、エルドラドは実際にその信念の志向的対象だが、彼はそのクオリアを持っていたわけではない。というより実在しないエルドラドについてのクオリアなど持ちようがない。そしてローリーのエルドラドについての信念は小説がキャラクターを表象するようにエルドラドを表象している。つまりローリーは言語としての思考を持っていて、エルドラドは単にその言語的思考の対象なのである*2
 「2.クオリアとは何か?」では、クオリア論の起源が信念の志向的対象と信念の近接的原因を同一視することだという中心的なテーゼが詳しく展開される。「近接的な」というのは信念を引き起こす原因の系列のうちで直近のもの、つまり信念を直接引き起こすものを指している。これは例えば脳神経の相互作用などで、実在の林檎に光が反射することなどは直接の原因ではないのでそこに含まれない。ここでデネットはこの原因が「行動主義的」に、つまり自然科学によって記述可能な形で明らかにできると述べている。そしてまた信念の志向的対象が実在物ではなく架空のものかもしれないと扱う自身の立場を「錯覚主義」と呼んでいる。クオリア論では信念の志向的対象は必ず存在しなければならないと考えられ、幻覚の可能性などを加味してその志向的対象が外界にではなく私たちの意識の中に求めている。なぜなら幻覚の場合信念の志向的対象は存在しないことになるが、脳内のクオリアだとしておけばその場合でも志向的対象が存在するからだ。ここでデネットが提案している代案は、その志向的対象は実在しなくてもよいというものなのだ。その例がまさしくエルドラドである。
 さて、次の論点はクオリアは情動を引き起こすものだという点である。クオリア論者はそれらが人生を豊かにしていると主張するが、それが実在しないというデネットはそのような情動的な世界すら存在しないと主張するのだろうか。すなわち世界は物理学の方程式で記述される無味乾燥な世界なのだろうか。答えはもちろん否である。この点を詳しく見るために、デネットは次の節でハンフリーの議論を引き合いに出しながら自説を展開していく。
 「3.ニコラス・ハンフリーの発明」ではまずハンフリーの論文の一節が引き合いに出され、意識が二つの意味で「発明(invention)」であることが述べられる。一つには便利なものとして、もう一つにはでっち上げられた空想として意識は考えられる。前者に関してはデネットの意識についての見解と完全に一致している。意識は進化の過程で獲得された、我々の適応度を上げるための発明であるというのがデネットの基本的な姿勢だ。意識は自分や世界の状態を単純化して見るが、それは複雑な世界を複雑なまま認識していては素早く判断して行動できないからである。そして私たちの思考活動にはデカルトが考えたように中心点があるわけではなく脳内で分散処理されているから、脳内のモジュール間のインターフェースとして意識が存在している。
 二つ目の意味での「発明」についてはデネットは同意しかねているようである。この空想というのはクオリアのことであり、意識は実際には存在しないクオリアを「でっち上げた」ものでもあるのだとハンフリーは言う。この言い方だと実際上の有益さ、つまり適応度を高める価値を持った認識とそうでない情動を区別しているのではないかとデネットは懸念している。デネットにとってクオリア(この場合は単に質感)を伴った感覚もまた生存上の有益さを持っている。ここで言われる有益なクオリアは単に内的な信念の原因であるに過ぎず、実在物ではない。
 しかしながら次にデネットは現金の存在を否定しないのと同じように「感覚上の性質」の存在を否定しているわけではないと言う。これはかなり微妙なポイントであるように思われる。つまりここで言われているクオリアは感覚の質が誤って非物理的かつ実在的な現象に変化させられてしまったものなのだろう。それゆえに正しい意味での感覚の質は存在していると言える。この現金や感覚の質はロックが「二次性質」と呼んだもののことだと説明される。二次性質は物体に付属した性質(一次性質)ではなく私たちの側からそこに付与する性質のことを指す。この性質はなんらかの非物理的なものを指しているのではなく、ギブソンアフォーダンス*3と呼ぶような私たちにとっての有用さという側面で切り出された(表象された)性質のことだ。これら二次性質は実際にその性質(例えば赤色)として私たちの脳内に「現れて」いるわけではない。それは単に(見かけ上は言語という形で*4)表象されているだけに過ぎないのである。ここで言えるだろうことは、表象の志向的対象は物理的な物体として存在するし、表象もまた存在するが、それらは別のものであってそれを混同することがクオリアという問題を発生させるということだ。そしておそらくデネットはここで、クオリアの持つ情動を喚起させるような特徴はアフォーダンスという形で説明できると想定しているのだと思われる。脳神経の作用でしかない痛みがこんなにも「痛い」、つまり特別なものであるのはクオリアとして非物理的に与えられているからではなく、それが意味を持ったアフォーダンスとして表象されているからなのだ。
 ハンフリーは感覚内容が非物理的なクオリアと考えられることでそれらが人生に対する有意義性を獲得すると述べている。しかしデネットはそこに同意しない。なぜならウォルター・ローリーはエルドラドの非物理的なクオリアを持ってはいなかったが、それでもそのエルドラドは彼の人生に対して大きな意義を有していた。その人生に対する有意義性とはアフォーダンスのことであり、それは完全に物理的な性質なのだ。それゆえにクオリアが存在せず、意識が自然主義的に説明されたとしても今私たちが感じている世界の有意義性が失われるわけではない。
 最後にデネットは自分の理論において、対象の思考、知覚や幻覚などをどう区別できるのかを述べる。なぜこれが問題となるのかというと、デネットが「錯覚主義」として信念の志向的対象が実在しなくてもよいと述べてしまった段階で、実在する対象としない対象を区別する必要が生じるからである。しかし普通考えられるようにその違いは信念の原因となるクオリアからではなく、他の状況証拠などの背景知識との整合性によって判断される。セラーズは知識を感覚内容自体から正当化することを否定し、それを支持する背景知識による正当化の枠組みを主張したが、おそらくそのような全体論的な認識論を意識しているのだろう。
 
 この論文はアブストラクトで書いてあることとは違ってクオリアの存在否定はやや薄味に終わり、むしろその後、クオリア無しの世界観がどんなものかを説明することに主眼が置かれているように思われる。クオリア論の論駁については長年やっているのでもう飽きているのかもしれない。注目すべきは最近デネットが気に入っている概念「アフォーダンス」を用いてクオリア無しに感覚の情動性を説明している点だろう。これは以前のクオリア論批判にはなかった観点だと(私が見た限りでは)思われる。クオリア論者たちがクオリアにこだわる理由はまさにそこ、感覚の情動性にあるとデネットは見ているので彼としては重要な点なのだろう。例えば哲学的ゾンビの思考実験がこんなにも不気味に見えるのは、クオリアを欠いた人間が私たちと同じように世界の中で人生を生きていると思えないところから来ている。そのような不気味さを取り去ることができれば、この思考実験に対して「ゾンビだから何?」と返答することができるだろう。デネットはそのような情動的な感覚質が物理的に説明可能な性質であることを示して、その不安を取り去ろうとしているのだと考えられる。
 クオリア論の原理的な批判のパートには短くまとめられているからこそ凝縮された論証となっていて感心させられる。言ってしまえばクオリア論の誤謬とは「信念の志向的対象と信念の直接原因の混同」なのである。信念の志向的対象は実在する林檎かもしれないし、実在しないエルドラドかもしれない。そして信念の直接原因はもちろん脳神経に入力される信号であり、それがその志向的対象によって引き起こされたものであるかどうかは問題ではない。(エルドラドの場合例えば言い伝えなどによってその信念は引き起こされる)その信念が真実であるかどうかは、背景知識や状況証拠によって判断されるのであって、なんらかのクオリアを直接与えられることによるのではないのである。このことが可能となるためにエルドラドという架空の対象についての信念を持ったローリーという人物を引き合いに出して、信念の志向的対象が存在しなくてもよいという論証を行なったのだろう。またこの辺りの話は何度か触れたようにセラーズ的な認識論を継承したものだと思っている。その視点で見ると、私たちの持つ意識や信念は志向的対象とアナロジーの関係で結ばれているに過ぎない。すなわち、林檎という対象についての信念は当然林檎の形や色をしているわけではなく、それとアナロジカルな神経回路の興奮なのである。この説を持ち込むと、デネットが小説とそのキャラクターを引き合いに出している意図も見えてくる。小説は単に文字列であって、登場する人間それ自体を完璧に記述しているわけではない。それでも小説はキャラクターを描いているのであり、それと同じように意識は世界を表象している。
 最後に参考としてだいぶ前に書いたデネット『解明される意識』のレビューも貼っておく。『解明される意識』は本文で(デネット1991)と指示されていた文献である。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com

*1:https://mitpress.mit.edu/sites/default/files/9780262541916.jpg

*2:こういった考え方はセラーズが「心理的唯名論」と呼んだものから来ていると思われる。またこうしたクオリア論批判はセラーズが「与件の神話」と呼んだものの批判と似ている。セラーズの意図は観察によって知識を基礎づけるという考え方がうまくいかないことを示すことだったが、その過程で知覚システムに直接与えられる「感覚与件」というものが批判される。詳しくは以下。

*3:アフォーダンス - Wikipedia

*4:「言語という形で」と言い切れないのは実際には神経回路の興奮という形で表象されているからだ。表象は世界と同型であり、その表象と同型な言語によって私たちの意識は働いている。つまり意識的思考は世界を二回類推しているのである。その辺りはセラーズ"Science, Perception and Reality"の三つめの論文"Being and Being Known"で述べられている。

夏季合宿での発表『アナログ的な世界について』

大学院の夏季合宿で『アナログ的な世界について(About the Analog World)』という題で発表をした。先生方からいろいろとコメントをいただいたのでそれを思い出したり検討したりするついでに原稿とスライドを丸上げしておこうと思う。原稿はこの記事にそのまま載せ、スライドは以下のリンク先にアップロードしてある。
www.academia.edu

1. はじめに

 本稿での私の中心的主張は「世界はアナログ的だ」というものである。そのことを以下のような根拠から主張したい。すなわち、世界をアナログ的だと考えることにはいくつかの問題を解決できるというメリットがある。そしてメリットがあるならその理論を受け入れて良い。ゆえに私は世界はアナログ的だと考える。この主張を明確化するために、まずデネットの三つの「姿勢(stances)」「デジタル化(digitization)」などの議論を参考にデジタル/アナログという用語法について明確化する。次にアナログな世界が存在すると想定するメリットについて説明する。そのメリットとは生物学の哲学における「粒度問題(grain problem)」と呼ばれる問題を解決できる点と、デネットのいう「明示的イメージ(manifest image)」上での存在論を洗練することができるという点である。

2. 「リアルパターン」と「デジタル化」

2.1 リアルパターン(Real patterns)

 ”Real patterns”(1991)でデネットコンウェイの「ライフゲーム」を用いて三つの「姿勢」を説明している。ライフゲームとは以下の四つのルールに基づいてマス目(セル)が黒くなったり白くなったりするゲームである。

誕生 : 死んでいるセルに隣接する生きたセルがちょうど3つあれば、次の世代が誕生する。
生存 : 生きているセルに隣接する生きたセルが2つか3つならば、次の世代でも生存する。
過疎 : 生きているセルに隣接する生きたセルが1つ以下ならば、過疎により死滅する。
過密 : 生きているセルに隣接する生きたセルが4つ以上ならば、過密により死滅する。
ライフゲーム - Wikipedia

以上のライフゲームを支配する法則を見る視点は「物理姿勢」である。またその法則によって生み出される「イーター」「グライダー」「グライダー銃」などの様々な周期的パターンを見る視点は「デザイン姿勢」である。

f:id:Re_venant:20170807140236g:plain
(ゴスパーのグライダー銃 https://ja.wikipedia.org/wiki/ライフゲーム

そしてチューリング完全であるライフゲームによって実装されるチューリングマシンによってチェス対戦のプログラムを書き、その振る舞いを予想しようとするとき私たちは「志向姿勢」をとっている。
 そしてこのことはライフゲームに限らず私たちの認識対象全てに当てはまるものである。例えば生物の器官や有機体は一つのデザインのパターン、つまり「デザイン姿勢」において私たちに見出されるパターンとして存在している。他にも動物や人間の意図的な振る舞いは「志向姿勢」によって予想され、それが「民間心理学」として普及しているのだ。これらの姿勢はそれぞれのレベルでの対象の振る舞いを予想する上で役に立つ。仮に人間の振る舞いを脳神経の発火の様子から予想しようとすると、計算的なコストがかかりすぎそもそも予想が終わる前に行動が始まってしまう。だから大きなスケールの現象は適切なレベルのパターンによって説明、予想することが合理的なのである。それゆえにこれら諸姿勢は進化のプロセスの中で身についたものであるとデネットは主張する。またそれらはセラーズ(1963)のいう「明示的イメージ(manifest image)」を構成するものでもある。

このデザインの進化プロセスの産物はウィルフリッド・セラーズが私たちの「明示的イメージ(manifest image)」と呼んだものである。(中略)したがって明示的イメージによって生み出される存在論は深くプラグマティックな源泉を有しているのだ。(Dennett 1991)

 そしてデネットは「明示的イメージ」上にあるこれらのパターンが存在論的に存在する「リアルパターン」であると主張している。

私の見方はこれらの[明示的イメージにおける]存在論が現実を切り分ける方法であり、単なる虚構ではなく実際に存在するもの:リアルパターンの異なったバージョンであることを承認する意欲を持っているという点でのみ異なっている。(Dennett 2017)

 この考え方はすなわち、志向姿勢において見出される信念や志向性というものがプラグマティカルに想定されるだけでなく、実在物であるということを意味する。しかし私はこの考え方には多少の問題点があると考えている。この点についてはのちに説明する。

2.2 デジタル化(Digitization)

 “From bacteria to Bach and Back”(2017)においてデネットは「デジタル化」という概念を導入している。これは例えば個々の言葉のトークンから抽象的な言葉のタイプを抽出することである。トークンは言葉の場合ならフォントや発音などの連続的な差異を含んでいて、一つとして同じものはないアナログ的なものである。反対にタイプは繰り返し可能なパターンとして現れてくる。

連続的な現象を非連続的な、全か無かの現象へ強制的に整理すること、これはデジタル化の核心である。[~]チューリングが述べたように、自然の何物も本当にデジタルなわけではなく、連続的な種差が存在する[~]。(Dennett 2017)

 三つの姿勢を持つことは小さいスケールから大きいスケールへと垂直的なレベルの差異を設定することである。それに対して「デジタル化」では同じサイズのトークンからタイプが抽出されるので水平的だと言える。しかし三つの姿勢によって見出されるパターン同士もアナログに連関していると考えることができる。つまりパターン認識についても本来無限の中間段階が存在して連続的な差異が考えられるのに、物理、デザイン、志向の三つの非連続的レベルが認識されているのである。それゆえこれも同様にデジタル化と呼ぶことができ、区別のため前者を垂直的デジタル化、後者を水平的デジタル化と呼ぶことにする。
 デジタル化される以前の世界、つまりデジタルなパターンの背後にある世界はアナログ的だと考えられる。トークンはそれぞれが無限の差異を持っていて同じものは存在しない。また三つの姿勢で見出されるパターンはそれぞれのスケール間に連続的な中間段階を含んでいると考えられる。しかしこのアナログに連関した世界を直接経験できるかどうかは定かでない。それでも私はここであえて世界はアナログ的であり、個的対象はデジタル的に考えることは誤りであると主張したい。なぜならデジタルな対象が非連続的で固定的だと考える立場では以下に見るような「粒度問題」といった問題が生じるからである。

3. 粒度問題(grain problem)

3.1 生物体/相互作用子

 生物個体とはなんだろうか。生物の進化という文脈において個体を定義することは難しい。例えば蜂などの社会性昆虫は個体ではなく群れのレベルで選択される。そのためこの群れを選択の単位、つまり生物学的な個体と呼ぶことも可能である。しかし蜂や蟻などの個々の生物体を個体と呼ぶこともできる。反対に群れよりもさらに大きな生態系そのものが選択と単位と考えることもできるかもしれない。つまり個体(選択の単位)は視点に相対的なのである。
 それでは遺伝子の塩基配列に対する「相互作用子(interactor)」から選択の単位を定義することができるのではないだろうか。しかしドーキンスの言う「延長された表現型」を考えるなら、遺伝子の表現型は生物体のみとは限らない。例えばビーバーの作るダムなども遺伝子の表現型として考えられる。それならばダムを含めたビーバーの生活全体が選択の単位(個体)となるのだろうか。これは直感に反するように思われる。結局はSterelny & Griffiths1999で述べられるように、相互作用子は視点、つまり「デザイン姿勢」に相対的に設定されるものに過ぎない。

デネット的な見方は生物学的なシステムはどれも、予想上または発見上有益であるようなそれについての「相互作用子姿勢」であるという限りにおいて相互作用子である、ということを提案している。(Sterelny & Griffiths 1999)

3.2 粒度/パターン

 ゆえに生物個体を有機体や遺伝子/相互作用子の対応から定義することは難しい。SterelnyとGriffithsは”Sex and Death”(1999)においてこれらの問題を「粒度問題(grain problem)」と呼んでいる。見方によって単位の大小は変動するが、どの大きさの単位が正当なものであるか決定することは難しい。そして私はこの粒度問題はデネットにおける「リアルパターン」の相対性から生じる問題であると考える。
 また生物個体という単位は「デザイン姿勢」を投影されることで見出されるものである。様々なスケールの「姿勢」を持つことができるために、私たちは様々なスケールの「粒度」を設定することができる。例えば細胞という単位、臓器という単位、個体という単位、個体群という単位、さらには生態系という単位などが考えられる。
 世界がアナログ的であると主張することは、これらのパターンが大きいレベルから小さいレベルまで連続的だと考えることである。確かに私たちが持ちうる視点は限られていて、これらの諸パターンが離散的に、別々のものとして存在しているように感じられるかもしれない。しかしそう考えるとレベルの間で還元や統一ができなくなる。だからアナログ的に繋がっているものを視点の違いによって離散的に解釈しているのだと考えるのである。
 デジタル化されたパターンが固定的な単位であると考えると、生物個体とは何かという問いに対して一意的な答えを用意しなければならなくなる。しかしそのパターンは相対的な視点によって見出されるものであることを認めれば、粒度問題に対して一つの答えを出す必要がないということになる。そして視点に相対的な諸パターンの内どれを説明に用いるのかについては、有用性という観点から決定される。例えば人間などの複雑なシステムの振る舞いを「志向姿勢」によって解釈することが適切なのは、それが人間の振る舞いを予測する上で有用だからである。

4. 漸進主義としてのダーウィニズム(Darwinism as Gradualism)

 “Darwin’s Dangerous Idea”(1995)においてデネットダーウィニズムは漸進的プロセスであると述べている。

どれほど唐突に断絶が発生して私たちの祖先が突然デザイン空間に現れようとも、奇跡や「期待される怪物」でない限りそれは自然淘汰圧のもとでの漸進的なデザインの発達である。(Dennett 1995)

デネットダーウィニズムアルゴリズムの集積であると考えている。またその上で我々が語るデザインを二つに分類している。それは「スカイフック」と「クレーン」であり、まずスカイフックは以下のように定式化される。

スカイフックは「精神が先行した」力やプロセスであり、あらゆるデザインやデザインに見えるものは究極的には精神を欠き、動機を持たない機構の産物だという原理の例外である。(Dennett 1995)

反対にクレーンはこの「精神を欠き、動機を持たない機構」つまりアルゴリズムによって構成されるものである。
 ダーウィニズム上で考えられるデザインはすべてクレーンであり、そしてクレーンはアルゴリズムに還元可能でなければならない。これは自然界に現れるすべてのデザイン、単細胞生物から私たち人間に至るまでが連続的、つまりアナログなスペクトラムの中に置かれるということだ。そして私たちはそのアナログな世界から三つの姿勢を用いて様々なパターンを見出している。 
スカイフックは段階主義としてのダーウィニズム上では認められないデザインである。しかしこのスカイフック、例えばある種のデザインを意図的に設計する神であったり、物質とは別の実体である(つまり物質と同じようにアルゴリズムに還元できない)魂が明示的イメージ上に存在していると主張することができるかもしれない。この場合、明示的イメージ上のものが実在すると主張するデネットはこれらスカイフックも実在物と認めなければならなくなるのだろうか。デネットは明らかに無神論者であり反二元論者であるから、物理的に還元できないこれらスカイフックの実在を認めるとは考えられない。ならばどのようにしてデネット存在論からこれらスカイフックを排除することができるのだろうか。
 私は「世界はアナログ的である」と主張している。つまり私たちの明示的イメージ上にあるパターンがどれほど離散的に見えてもそれらはアナログ的に連関しているのだ。スカイフックはそれ以外の世界とデジタル的に断絶している。この事実から、段階主義としてのダーウィニズム上ではスカイフックの存在は認められないのだ。ここで世界がアナログ的だという想定によって明示的イメージ上の存在論を制限する。つまりデジタル的に見えても実際はアナログ的であるようなもの以外に実在性を認めないのである。このことによって明示的イメージ上の存在論からスカイフック、つまり純粋にデジタル的なものを排除することができる。

5. 結論

 本発表では「世界がアナログ的である」と考えることの二つのメリットを紹介した。それは第一に「粒度問題」を解決(ないし回避)することができるという点と、第二にからスカイフックを明示的イメージから排除することでデネット存在論の問題を解決できるという点である。しかし依然としてアナログ的な世界に対する認識論は不足している。ゆえに私はここでは「世界がアナログ的である」と単に想定するにとどめている。

頂いたコメントとその検討

  • 量子論で考えられるような世界はデジタル的である

量子論にそこまで詳しくないのでこの点に関してはさらに調べてみる必要があると思う。ただしここで世界がアナログ的であると言っているのは形而上学的な想定であり、それと量子論の世界観は果たして一致するのかという問題もある。量子論で考えられる世界観が即形而上学的な世界観を構成するというのは物理主義に偏重している気もする。量子論というか物理学はこの発表でいう「物理姿勢」が投影されて見出されるパターンであるから、それはすでに「デジタル化」されてしまった物であるとも考えられる。

  • 個体のスケールの問題と心身問題は別

つまり個体のスケールの問題は「デザイン姿勢」ないでのスケールの問題で、心身問題、つまり「物理/デザイン姿勢」と「志向姿勢」の連絡はまた別の問題である。この点についてはいろいろなことを大雑把に語りすぎてしまったという反省がある。もう少し論点を絞ったほうが良かっただろう。

  • スカイフックの例としての人間のデザイン

魂や神というものは世界がアナログ的だということで排除できるかもしれないが、人間が作るデザインはどうだろうかというコメントである。しかしデネットは"From Bacteria to Bach and Back"で人間の「知的デザイン」もダーウィニズム的な、アルゴリズムに還元可能なプロセスとして扱っているから、これがスカイフックだとは一概には言えないと思う。ただこの点にもっと焦点を当てて議論するとより良いかもしれない。

  • 遺伝子がデジタルなものだと考えるから進化が可能となる

確かに遺伝子がアナログにつながっていると考えると自然淘汰の単位として機能しないだろう。そして種というものも(大部分は)相互に交配不可能なデジタルな単位である。つまりダーウィニズムの本質としての「漸進主義」と世界がアナログ的であることは別の話なのである。おそらくデネットがここで重要だと考えているのはレベル間の還元可能性であり、そこに世界が垂直的にアナログ的だという想定は必要ない。だからこの還元可能性の方に焦点を当てた方がいいかもしれない。私が念頭に置いていた「線引き問題」、つまりデザインと志向性などの間の境界線を決めることが難しいことは、世界がアナログ的であることを含意しないとも考えられる。なぜなら実際に世界はデジタル的に様々なレベルを持っているが、それを私たちが認識できないだけかもしれないからだ。この場合世界がデジタル的でもそれらが相互に還元可能ならデネット的には問題ないだろう。

  • デジタルな認識がなぜうまくいくのかを検討した方がいいのではないか

この発表ではデジタルな認識は単にプラグマティカルに有用であると述べるにとどめていたが、確かにその点を持って掘り下げてもいいかもしれない。今後の指針としていきたい。

参考文献

  • Richard Dawkins

The Selfish Gene 30th anniversary edition (Oxford University Press) 2006

  • Daniel C. Dennett

Real Patterns (The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.) 1991
http://ruccs.rutgers.edu/images/personal-zenon-pylyshyn/class-info/FP2012/FP2012_readings/Dennett_RealPatterns.pdf

Darwin’s Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life (Simon & Schuster) 1995

From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (Allen Lane) 2017

  • Kim Sterelny, Paul E. Griffiths

Sex and Death: An Introduction to Philosophy of Biology (Science and Its Conceptual Foundations series) 1995
[asin:0226773043:detail]

  • Wilfrid Sellars

Science, Perception, and Reality (Ridgeview Publishing Digital) 1963

Daniel C. Dennett "The Singularity—an Urban Legend?" 和訳

"Edge"という評論系のサイトに哲学者ダニエル・デネットが「シンギュラリティ」*1について語った記事が載っているのを見つけた。

https://www.edge.org/response-detail/26035

2015年のものだが面白い内容なので人に勧めたところ日本語で読みたいとのことだったので和訳してみようと思う。

シンギュラリティ—都市伝説?(The Singularity—an Urban Legend?)

シンギュラリティ—AIが知性においてその創造者を凌駕し、世界の支配を受け継ぐ決定的な瞬間—は思案に値するミームである。それは都市伝説の特徴、つまり心底ぞっとさせるようなパンチライン(「ロボットに支配される!」)を伴った一定の科学的説得力(「あー、原理的には可能だと思うよ!」)を持っている。もしもくしゃみ、げっぷ、おならを同時にしたら死んでしまうのは知っているかな?(笑)。数十年に渡るAIの過大広告に伴って、シンギュラリティはパロディや冗談であるかのように考えられるかもしれない。しかしそれは顕著な説得力の増加を見せている。イーロン・マスクスティーヴン・ホーキングデイヴィッド・チャーマーズやその他の人々といった何人かの著名な転向者たちが出現して、私たちはどうしてそれを真剣に考えずにいられるだろう?この途方も無い出来事が発生するのが10年だったり100年だったり1000年後だったとしても、今から計画を始め、必要な障壁を準備して破局の兆候を凝視し続けるのが賢明なことなのだろうか?

反対に、私はこれらの警笛はより差し迫った問題、ムーアの法則や転換点*2に到達するための理論上のさらなる突破口を必要としない切迫した災害から私たちの目をそらさせてしまうと考えている。他の生物では得難い自然に対する理解を持ち、歴史上初めて自身の運命の多くの局面をコントロールすることができる数世紀にわたる時代の後に、私たちは思考できない人工的なエージェントのコントロールを失う瀬戸際に立たされ、早まって文明を自動操縦化しようとしている。そのプロセスは知らない間に進行している。なぜならそれぞれのステップは局所的に合理的であり、その申し出を拒むことができないからである。大きな数の計算を鉛筆と紙で行うのは、電卓がより早く計算を行いさらにほぼ完璧に信頼できる(切り捨て誤差はあるものの)今日では愚かなことであり、スマートフォンですぐに見られるのに電車の時刻表を記憶する理由があるだろうか?地図を見ることと道案内をGPSシステムに任せよう。GPSシステムは意識的ではない。つまりどのような意味においても思考していないが、あなたよりも現在地から行きたいところへの道を辿ることに秀でている。

さらに段階を上げて、医師たちはさらにおそらく人間の診断者の誰よりも信頼できる診察システムにますます依存している。命に関わる治療の選択をする際に、医師に機械の判断を無視して欲しいと考えるだろうか?これはIBMのワトソン*3を支える技術のもっとも成功して、現在もっとも有用な適用だろう。ワトソンが考える(もしくは意識を持つ)と正当に言えるかというのはまた別の話題である。もしワトソンが利用可能な情報から診断を下す際に人間の専門家よりも優れているとわかったなら、その診断を私たちに役立てる道徳的な義務が発生するだろう。機械の診断を無視する医師は医療ミスの訴訟を起こされるだろう。人間の営為のあらゆる領域がそのようなパフォーマンスを増幅させる補綴の機械の侵入を明確に禁止できない。そしてそれら自身が証明するかどうかにかかわらず、いつもそうであったように強制された選択は人間味を超えて信頼できる結果となるだろう。手作りの法律や科学でさえもが職人の陶芸や手編みのセーターと隣接したニッチを占めることになるかもしれない。

AIの黎明期においては、人工知能と認知シミュレーションの間に明確な線引きを強く主張する試みが存在した。前者は工学の一分野であり、それが効果的な方法だと判明したとき以外は人間の思考プロセスを真似ることなくどうにかこうにか開発されてきた。反対に、認知シミュレーションはコンピューターによるモデリングによって為される心理学や神経科学だとされてきた。人間のミスや混乱を認識可能な形で示すことのできる認知シミュレーションモデルは成功例であり、失敗例ではないだろう。野心における区別は生き残っているが、大衆の意識からは大部分が消去された。一般人にとってAIはチューリングテストに合格した、人間そっくりなものを意味する。最近のAIにおける躍進は人間の思考プロセス(私たちが自身が理解すると考えているもの)から関心を移し、彼ら自身に何をしているのか理解させようとせずにデータを掘り起こして重要なつながりやパターンを咀嚼して取り出すスーパーコンピューターの素晴らしい力を用いた結果である。皮肉にも、印象的な結果の数々は多くの認知科学者に再考を促した。脳がどのようにして未来を作り出すという素晴らしい仕事をデータマイニング機械学習の技術を適用することによってなし遂げるかについて学ぶべきことがたくさんあるとわかったのである。

しかし大衆は(最新のAIならどれでも遂行できる)それが可能などのブラックボックスも、実際にその箱の中にあるものが、気の散りやすさ、心配、感情的コミットメント、記憶、忠誠を伴う人間精神一般を付け加えることなしにその力を増加させる奇妙に不完全な、二次元の網目であっても、それは人間に似た知性的なエージェントに違いないと想像し続けるだろう。それは決して人間に似たロボットではなく精神のない奴隷であり、自動操縦の最近の進歩なのである。

思考の骨折り仕事をこのようなハイテク機器に任せることにどんな問題があるのだろうか?(1)私たちが自身を欺かず、(2)また私たちがなんとかして自分たちの認知的技術を萎縮させないようにすれば、何の問題もない。

(1)このように価値のあるアシスタントとなりうるものの限界を想像する(そして心に留める)ことはとても、とても難しく、1970年代初期のジョセフ・ワイゼンバウムの悪名高いイライザ*4以来知られるように人間はいつも過度に「理解」という能力を認める傾向を持っている。これは巨大な危険である。なぜなら私たちは常に彼らAIが実際に遂行することのできる以上のものを要求し、そうすべきでない時にその結果を信用してしまうという誘惑にかられるだろうからである。

(2)「使わなければ駄目になる」。私たちがこれらの認知的補綴器官により頼るようになるほどに、それらがシャットダウンしてしまったなら無力になるという危険性が高まる。インターネットは知性的なエージェントではない(えーと、幾つかの考え方ではそうである)がしかし私たちはそれがもしクラッシュしたらパニックになって社会が数日で崩壊してしまい得るほどにそれに依存している。それは私たちが今努力をして回避すべき出来事である。なぜならそれはいつか起こりうるのだから。

本当に危険なのは私たちより賢く私たちの運命の船長としての役割を奪い取る機械ではなく、それらの能力をはるかに超えた権威を譲渡される基本的には愚かな機械なのである。

コメント

今年2月に出たデネットの新刊"From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds"*5の最終章"The Age of Post-Intelligent Design"でこれと似た論点が展開されている。上に訳した記事では話題になっていないが、それ以前の「トップダウン」式のAIと違って機械学習など「ボトムアップ」式のAIはその動作の詳細に至るまで理解することのできるような機械ではない。社会が「自動運転」になっていくというのは技術的な知識を持たない一般人にとってだけではなく、科学者や技術者を含めた人類全体にとってそうなのである。そのような技術を指してデネットは"Post-Intelligent Design"と呼んでいる。ややファジーな言い方をすれば「魔法と区別のつかない科学」の時代とも言えるかもしれない。

創造できないものは理解できないということが真であり続けているにしても、創造することはもはやかつてのようにそれを理解することを保証しない。
While it may still be true that what you cannot create you cannot understand, creating something is no longer the guarantee of understanding that it used to be.
*6

この"Post-Intelligent Design"の時代において、機械の動作を理解する努力は放棄されて良いのだろうか?もちろん否である。もしスマートフォンが壊れて、それを修理するべき手段を知らないとしても買い換えれば事足りる。しかし、"Post-Intelligent Design"で満たされた文明が故障した時に修理の方法がわからないからといって、文明全体を取り替えてしまうことはできない。

他の論点として機械に対して過度の「理解」を認めてしまうという問題がある。これは人間が他者に対して"intentional stance"を見出すというデネットが長年してきた主張とつながっている。

コンピューターと関わるとき、コンピューターと関わっていることを知っているべきだ。
When you are interacting with a computer, you should know you are interacting with a computer.*7

つまり、機械が適切な情報の入力に対して適切な出力をしたとき、その機械が実際にはアルゴリズムに従って動作していてもそれが人間と同じように理解して動作していると誤解してしまう傾向を私たちは持っている。そのことに無自覚なまま"Post-Intelligent Design"の時代を生きると、機械を過度に信頼して重要な局面で間違った選択をしてしまいかねないとデネットは警鐘を鳴らしているのだ。

ちなみにこのようなAIが「理解」をしているかどうか、そもそも人間的な理解となんなのかという議論も"From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds"で展開されているので気になる方は読んでみてほしい。

*1:技術的特異点 - Wikipedia

*2:シンギュラリティのこと

*3:ワトソン (コンピュータ) - Wikipedia

*4:ELIZA - Wikipedia

*5:

*6:Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.385). Penguin Books Ltd. Kindle 版.

*7:Dennett, Daniel C. From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (p.403). Penguin Books Ltd. Kindle 版.

ハイデガー『存在と時間』(三)③

 



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事三つ目。

この記事では第二篇第三章(第六十一節〜第六十六節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に
re-venant.hatenablog.com

第二編第二章(第五十四節〜第六十節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com



なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第三章 現存在の本来的な全体的存在可能と、気づかいの存在論的意味としての時間性

第六十一節 現存在の本来的な全体的存在の劃定から、時間性の現象的な発掘へと至る方法的な歩みをあらかじめ素描すること

死へとかかわる本来的な存在は「先駆すること」として明らかになり、現存在の本来的な存在可能は「決意性」として提示された。

この二つの現象はどのように結合されるべきなのだろうか。

決意性が実存的な存在可能において「あかし」を与えられていたことから、決意性が自身の存在傾向において「先駆的決意性」をその本来的な可能性として提示するかどうかが問われなければならない。

決意性は身近な可能性に投企するのではなく、「もっとも極端な可能性」に投企する。

その場合にこそ決意性は本来性を得るのならどうだろうか。

また決意性は現存在の本来的な真理だから、それが死へと先駆することで本来性を獲得するならばどういうことになるのだろうか。

死への先駆によって決意性が持つ事実的な「先駆する性格」が本来的に理解されるならどうなるのだろうか。

実存論的解釈は現存在の存在に基づかなければならないから、先駆と決意性を「実存的な可能性」において理解し、その可能性を「おわりまで思考する」ことが必要となる。

このことによって初めて実存的に可能な本来的な全体的存在可能としての「先駆的決意性」が恣意的な構築でないことが明らかになる。

以上のようなプロセスによって実存論的解釈の方法論が提示されることになる。

その正しい方法には対象の根本体制をあらかじめ適切に把握することが含まれる。

このような方法論的思考は気づかいの存在意味の解釈を準備するものである。

他方この解釈はここでで分析された現存在の実存論的構造を「再現前化」しながら遂行されなければならない。

現存在は目の前にあるものではなく、気づかいとして存在する「自己」である。

気づかいのうちに含まれる自己は「ひと」と根源的かつ本来的に区別されなければならない。

そしてこのことによって初めて、どのような問いが「自己」に向けられうるのかが明らかになる。

このようにして十分理解された気づかいという現象に対して、次にその存在論的意味を探求する。

ここでさらに「時間性」が発見されるだろう。

この時間性は「先駆的決意性」に基づいて経験されることになる。

先駆的決意性に基づく時間性はその際立った様態であり、この時間性が「時間化」することによって現存在の本来的、非本来的存在が可能となる。

時間性という根源的な現象の提示は、ここまでで分析された現存在の構造の全てが時間的であり時間化の様態であることを示すことで遂行される。

第六十二節 先駆的決意性としての、現存在の実存的に本来的な全体的可能性

決意性は負い目のある存在へと投企していくが、この「負い目」を引き受けることを本来的に遂行するためには、決意性において現存在が不断に負い目のある存在として開示されるほどに、決意性が明瞭に理解できることが必要である。

このことはまた現存在の存在可能の全体が開示されることによって可能となる。

そして現存在の存在可能の全体が明らかになることは「おわりへと関わって存在している」こと、つまり死への先駆を意味する。

だから、決意性が本来的なものとなるのは、それが死への先駆としてある時なのだ。

決意性は、死へとかかわる本来的存在を、みずからに固有の本来性にぞくする可能な実存的様相としてじぶんのうちに蔵している。*1

決意性が投企していく負い目のある存在は現存在の存在だが、それは第一義的に「存在可能」として特徴付けられた。

だから、負い目のある存在は「負い目のある存在可能」なのである。

自身の存在可能へとかかわる存在の根源的なものは、死、すなわち現存在の際立った可能性へとかかわる存在である。

そして先駆においてこの死が可能性として開示される。

だから負い目のある「存在可能」に投企する決意性は「先駆的」決意性であって初めて根源的なものとなる。

負い目のある存在とは被投性と投企の「無-性」であったが、このことは現存在が「自身の無-性の無的な根拠である」と言い換えられる。

また死は現存在の実存の「不可能性」の可能性であるから、現存在の際立った「無-性」なのである。

そして気づかいとしての現存在はその時々にこの死(無-性)の被投的(無的)根拠なのだ。

だから死への先駆においてこのような現存在の根源的な無-性、すなわち負い目のある存在が開示されているのだ。

ゆえに先駆的決意性のみが負い目のある存在可能を本来的かつ全体的に理解する。

決意性によって「ひと」から呼び戻された「もっとも固有な存在可能」が本来的なものとなるのは、それが「もっとも固有な可能性」である死へと先駆する時である。

良心の呼び声行う現存在の単独化は「容赦のなさ」「先鋭さ」が伴うが、それらは死という関連を欠いた可能性が示すものである。

負い目のある存在はあらゆる罪や過失に先行している。

このことが明示的になるのは、追い越すことのできない可能性である死へとこのあり方が組み込まれる時である。

決意性が先駆することで死の可能性をみずからの存在可能へと取り戻したとき、現存在の本来的実存はなにものによってももはや追いこされることができない。*2

真理には、真とみなして保持すること、すなわち確信が属していたが、決意性における本来的真理にもそれに対応する確信がある。

この確信の確実性は、決意性が開示するもののうちで自分を保持することを意味する。*3

決意性は事実的な「状況」を現存在にもたらす。

この状況は目の前にあるものではないから未規定的だが、可能性を規定していく自由な決意において開示される。

このような決意性に帰属する確実性は、決意性によって開示された状況だけでなく、決意によって開示された事実的な可能性において自分を保持することであるべきだ。

だからこの確実性は現存在が決意における諸可能性に対して自由なあり方で保持されていることを意味するのだ。*4

決意の確実性は個別的な自己から世界内存在として投企し直すこと、すなわち「つかみ直し」に対して自由な状態で保持されることなのだ。

このことは非決意性への逆戻りではなく、「みずから自身を反復しようとする本来的な決意性」なのである。*5

これはさらに現存在の全体的な存在可能へと向かって自由に保持される傾向を不断に持っている。

このような不断の確実性が保証されるのは、決意性が現存在の最も確実な可能性、つまり死へと関わる場合である。

なぜなら死において個別化された現存在は自らをつかみ直さなければならないからである。*6

ゆえに死へと先駆することで決意性の確実性が獲得されるのだ。

しかし現存在は非真理のうちでも存在してもいる。

だから先駆的決意性が現存在を自由に保持するのは「ひと」という非決意性へと頽落する可能性に対してなのである。

明瞭となった決意性においては、現存在は存在可能のこのように未規定的なありかたから決意によって規定されていく。

決意によって確実になるとしてもこの存在可能は未規定的であり続ける。

このことが全体的に明らかになるのは、未規定的な可能性である死へと先駆することにおいてである。

すなわち本来的な決意性における未規定的な存在可能は死なのだ。

死が未規定的であることは不安という情態性において開示されている。

そして決意性はこの不安からの良心の呼び声に答えることなのだ。

不安は現存在の根拠における無-性、すなわち死への被投性を開示している。


以上から先駆的決意性が本来的かつ全体的な決意性であることがわかった。

反対にこのことによって先駆が完全に実存論的に了解されたことになる。

それは現存在そのものにおいて「あかし」を与えられた存在可能の様態であり、決意性の本来性の可能性なのだ。

また先駆は実存的に「あかし」を与えられた決意性のうちに隠され、そのうちでそれとともに正当化されたものである。

だから

本来的に「死を思うこと」は実存的にみずからを見とおすにいたった〈良心をもとうと意志すること〉なのだ。*7

そして実存によって正当化された決意性によって、先駆を経由して「現存在の本来的な全体的存在可能」が共に正当化されたことになる。

だから「現存在の本来的な全体的存在可能」が現象的に示されたのである。

以上のように現存在の実存の存在論的解釈が行われてきたが、この根底には実存についての一つの理想があったのかもしれない。

このことは積極的な必然性において把握されなければならない。

哲学はその前提をただ否定したり肯定したりするだけでなく、前提を把握してそれが何のためにあるのかを探求していくものである。

その機能を持っているのが前節で述べられた「方法論的な省察」なのだ。

第六十三節 気づかいの存在意味を解釈するために獲得された解釈学的状況と、実存論的分析論一般の方法的な性格

先駆的決意性によって現存在を現象的に見ることができるようになり、その全体的存在可能を解釈が「あらかじめ持つこと」にもたらされた。

そしてその解釈を導く理念である「あらかじめ見ること」も規定されたのである。

また目の前にあるものに対置される現存在の構造が具体化されたことで、解釈の分節化「あらかじめ掴むこと」が十分に遂行された。

ここまでの分析は「私たちがそのつど自身それである存在者は、存在論的にはもっとも距たっているものである*8」というテーゼを具体的に論証してきた。

このテーゼは現存在が日常的には「ひと」へと頽落している事に根拠づけられている。

だから現存在の根源的な存在は「ひと」に方向付けられた解釈傾向に「逆行して」、「奪い取られ」なければならない。

またそれゆえに実存論的分析は日常的な解釈に対して常に「暴力的」なのだ。

しかしこの暴力性はどのような解釈にも伴っている。

なぜなら解釈のうちで理解が形成され、理解は投企という構造を持っているからだ。

存在論的な解釈は固有な存在に向けて投企(理解)しその構造を概念化する。

この投企には従うべき道標があるのだろうか。

さらに現存在が自分の存在する仕方に従って自分の存在を隠すとすればどうだろうか。*9

このことを考えるために「現存在の分析論」そのものが明瞭にされなければならない。

現存在には自己解釈が属していて、配慮的に気づかうことで世界を覆いをとって発見しながら、「配慮的気づかいそのもの」も発見されている。

すなわち現存在は自分の存在を一定の可能性の中で理解しているのだ。

だから現存在の存在への問いは現存在のあり方を通じて準備されていたことになる。

しかし現存在の本来的な実存は何を以って非本来的なものと区別されるのだろうか。

ここまでの分析には「存在的」な前提があったのではないか。

しかし現存在は第一に事実的な(「存在的」)存在可能や頽落した「ひと」として存在していて、存在論的解釈によって固有な可能性(先駆的決意性)にもたらされる。

だから存在論的な解釈は「存在的な」諸可能性、すなわち様々な事実的存在可能の様式を根底に置き、その可能性を実存論的な可能性へと投企することでしかない。

ゆえに日常的なあり方に逆行した「暴力的な」解釈の傾向は、それが開示する現存在に適合したものなのである。

現存在は死以上の「審級」を持たないから、死への先駆的決意性は恣意的な可能性ではない。

しかしそれが恣意的な可能性ではないとしても、ここまでの実存論的分析はそれによって正当化されるのだろうか。

この分析の正当性が基づいている理念はどこからその権利を得てきたのだろうか。

この理念は現存在が前存在論的に持っている存在了解によって暗示されている。

この存在了解によって提示されているのは、現存在は存在可能として私たち自身であり、その存在可能においてはその存在者であることが問題なのだ、ということだ。

だから現存在はどのような解釈においても「じぶんをそのつどすでに理解してしまっている」のである。

ゆえの先に述べた実存理念は現存在自身が持つ存在了解をあらかじめ素描するものであったのだ。

この理念に導かれて気づかいという構造が解釈され、そこで実存と実在性を区別するための基礎が与えられた。

そのような実存理念は、実存と実在性という二つの「存在」の区別を行うために「存在一般」の何らかの理念を前提としているはずである。

しかしこの「存在一般の理念」は現存在の存在了解を明晰にすることで得られるということであった。

そうならばこの分析は一つの循環のうちにあることになる。

この循環とはすなわち、「実存並びに存在の理念が「前提とされた」うえで、「そののちに」現存在が解釈され、そこから存在の理念が獲得されようとしている*10」ということだ。

しかし存在論的分析は前提から帰結を推論形式にしたがって導く演繹ではない。

そして理念を「あらかじめ定立すること」は理解しながら投企するという性格を備えていて、そこでなされる解釈によって現存在が初めて言葉として現れてくる。

ゆえにこの循環は避けることのできないものなのだ。

循環を批判する考え方は、頽落している「ひと」にとって投企することが理解できないということにも基づいている。

理解についての循環を問題とするのは、理解が現存在の存在体制であること、そして現存在が気づかいという在り方をしていることを理解していないことの証拠である。

以上で根源的な実存論的分析における解釈学的状況の意味が明らかになった。

先駆的決意性の分析によって本来的な真理という概念に到達したが、さしあたりの存在了解は存在を「目の前にあること」として考えてこの真理を覆い隠している。

しかし真理が存在する限りで存在が与えられ、真理のあり方に従って存在了解も変容する。

ならば本来的な真理は現存在の存在とその存在一般の了解を保証するものでなければならない。

すなわち存在論的な「真理」は「根源的な実存的真理」に基づいているのである。

この「もっとも根源的で、かつ基礎となる実存的真理」こそが「気づかいの存在意味が有する開示性」なのだ。

これを明らかにするために、気づかいの構造をくまなく分析しておく必要がある。

第六十四節 気づかいと自己性

気づかいという構造はここまでの分析で分節化(解釈)されてきた。

そこで気づかいの構造の全体性の統一への実存論的な問いが持ち上がってくることになる。

現存在はそのつど自分自身「である」というあり方において統一的に実存している。

ここで実体と考えられてきた「自我」というものが構造全体を統一しているように見えるかもしれない。

他方、ここまでの分析でも現存在は「誰」なのかという問いが持ち上がっていて、その答えは「ひと」だということだった。

現存在の本質が「実存」にあるなら、この「自己」が実存論的に把握されなければならない。

現存在は気づかいという構造を持っているから、この気づかいと自己の関係が明らかにされる必要がある。

出発点として設定される日常的な自己解釈は、現存在が自分に言及するのは「私と語ること(Ich-sagen)」においてであるということだ。

この「私」は単純で、決して述語にならない主語だと見なされている。

しかし「単純性」「実体性」「人格性」といったカテゴリーにおいて実存論的な分析を行うことはできない。

カントは「純粋理性の誤謬推理」で「自己」に実体性を与えられないこと、そして「自我」は「私は考える」であることを示した。

しかし不適切な存在論的基礎に基づいたために、自己を目の前にある主観と捉えてしまったのである。

自我は「私は考える」ではなく「私はなにごとか考える」である。*11

この「なにごとか」が世界内部的な存在者を指しているなら、これは世界を前提においている。

そして世界によって自我の存在体制は規定されているのだ。

すなわち、「私と語ること」は何らかの仕方で世界のうちにすでに存在している存在者、つまり世界内存在を指しているのである。

しかし、頽落することで日常的な自己解釈では自己は配慮的に気づかわれた世界の側から理解される。

ここでの自己は「不断に自同的でありながら未規定的で空虚で単純なもの」である。

本来的な自己性は気づかいの本来性に即してのみ読み取られる。

そしてこの本来性によって「不断に自己であること(Ständigkeit des Selbst)」が明らかになる。

このことが日常的には自己という実体が永続することと捉えられているのだ。

そして本来的な存在可能によって「立場を獲得している」という意味での「不断に自己であること」が見てとられるようになる。

この立場の堅固さは、頽落した「ひと」の非自立性の反対の概念である。

そして自立性は先駆的決意性に他ならない。

沈黙し、不安を要求する決意性が本来的な「自己」を形作るなら、それは「私」とは語らない沈黙した存在である。

このような沈黙した自己こそが自我の問題への現象学的な地盤となるのだ。

気づかいの構成要素としての本来的実存が現存在が自己であり続けるような存在体制を与えている。

ゆえに気づかいが何らかの「自己」によって基礎づけられる必要はない。

そしてこのように自己であり続けることには、気づかいの構造に即して、自己でないことに頽落することが付随している。

このように気づかいの構造に含まれた自己性を明らかにすることが、気づかいの「意味」の解釈なのである。

第六十五節 気づかいの存在論的意味としての時間性

気づかいと自己性の連関の分析は、現存在の構造全体をとらえるための最後の準備でもあった。

気づかいの意味、そして「意味」とはなんなのだろうか。

以前に(第三十二節)分析されたことだが、意味とは理解という投企の対象である可能性、すなわち「それにもとづいて」であり、この「それにもとづいて」においてあるものがその可能性から理解される。*12

だから気づかいの意味を明らかにすることは、現存在の根源的解釈において作動している理解を詳しく見て、その理解によって理解の「それにもとづいて」を明らかにすることだ。

また理解されるものは先駆的決意性のうちで開示されている現存在の存在である。

この気づかいの意味は、現存在の存在を気づかいとして構成することを可能とするものだ。

だから問われているものは、分肢化した気づかいの構造全体を統一的に可能にするものは何なのかということである。

厳密には意味は「存在」を理解する際の第一次的な「それにもとづいて」を意味する。

世界内存在は自身の存在と共に気づかわれる世界内部的な存在者の存在を理解している。

存在者の存在が意味を持つのは、その「それにもとづいて」(可能性)へと現存在が投企(理解)している場合のみである。

存在を理解するという第一次的な投企が意味を「与える」。*13

だから存在の意味の探求は、存在理解の「それにもとづいて」を主題にするのであり、その存在理解はすべての存在の根底にある。*14

現存在は実存することで自らの存在を理解しているが、その理解は事実的な存在を形成している。

このような事実的な実存を可能にするものは何なのだろうか。

根源的な投企によって投企(理解)されるものは先駆的決意性であった。

この本来的な全体的存在を統一的に可能にするのは何なのだろうか。

先駆的決意性はもっとも固有な可能性へと関わることであり、それが可能になるのはそのもっとも固有な可能性が「到来」することが可能であり、それを可能性として開示することができることによる。

もっとも固有な可能性に先駆しながらそのうちで自身を「到来」させることが「将来(die Zukunft)」という現象なのである。

それはまだ実現していない未来ではなく、「まさに来ようとしているもの」なのだ。

そして先駆が本来的な将来的存在を可能にし、さらに先駆は現存在の存在が将来的なものであることによって可能となる。

先駆的決意性は現存在を負い目のある存在として理解する。

負い目のある存在とは「無-性」の無的な根拠「として存在していること」だ。

被投性とは「みずからがそのつど存在していたがままに本来的に現存在として存在していること*15」だ。

このことが可能となるのは「将来的な」現存在が「既在(Gewesen)」として存在することができる場合のみである。

現存在は既在としてある時だけ「回帰的に」将来的なものとして自身に到来することができる。

死へと先駆することは、既在へと回帰しながら到来することなのである。

そして決意において周囲世界的に存在するものを開示することは、この存在者を「現在化」することによって可能となる。

このような「既在しつつある現在化する将来」という統一的な現象を「時間性」と名付ける。*16

この時間性は本来的な気づかいの意味なのだ。

そしてこの時間性からは「未来」「現在」「過去」という通俗的な時間概念は取り除かれなければならない。

それらの時間概念は非本来的な時間性から出現する派生的なものにすぎないからである。

先に問われた気づかいの構造の統一は、時間性のうちに存している。

気づかいの構造の、〈じぶんに先だって〉は「将来」に〈内ですでに存在していること〉は「既在」に、〈のもとでの存在〉は現在化に対応する。

この「先」を通俗的な時間観念からくる前後関係と捉えてはならない。

そうしてしまうと、現存在が「時間の中で」通過していく目の前にあるものとなってしまうからだ。

この「先」は将来を意味し、現存在が将来的に存在しうるのはそれが存在可能だからだ。

投企は将来に基づき、また投企は実存することの本質的性格の一つだから、「実存的なありかたの第一次的な意味は将来なのである」。

同様に既在も現存在の実存論的な意味であるから、現存在はそれが存在する限りにおいて被投的なのだ。

しかしそれは目の前にあるもののように過ぎ去ってしまっていることを意味しない。

現存在は常に既在として存在しているのである。

だから事実性の第一次的な意味は既在なのである。

ゆえに気づかいの被投的投企という構造は「先」「すでに」という表現によって、実存的なあり方と事実性の時間的な意味を示していたのである。

このような暗示は気づかいの第三の契機〈のもとでの存在〉にはない。

これは頽落が第一次的にもとづく「現在化」が将来と既在とによって「鎖されて」いることを示している。

現存在は決意において頽落から個別化され、開示された状況で「現」として存在する。

このようにして時間性によって実存、事実性、頽落が統一されて気づかいの構造全体が把握される。

時間性は存在するのでなく時間化するものだが、それが気づかいの意味「である」などと言わなければならなかった。

そのことは存在一般の理念が明らかになって初めて理解可能となる。

時間性は様々な様式で時間化を行い、そのことによって本来的、もしくは非本来的に存在することができる。

「将来」「既在」「現在化」によって示されるのは「じぶんへ向かって」「の方へと回帰して」「を出会わせる」という性格である。

さらにこれらは「脱自」としての時間性を示している。

時間性とは、根源的な「じぶんの外にあること」それ自体そのものなのである。*17

このことから「将来」「既在」「現在化」を時間の「脱自的なあり方(Extasen)」と名付ける。

通俗的な時間領海においては時間は「いま」の連続と考えられるが、その考え方ではこの脱自的な性格が水平化されてしまう。

時間性の脱字的な統一においては「将来」が優位性を持っている。

本来的な時間性は、「将来的に既在しながら、そのことではじめて現在を喚起する」ことで時間化を行う。

このことは非本来的な時間性にも現れてくる。

死へと関わる現存在は「自分が終焉する終わり」を持っているのではなく、有限的に実存する。

このことは本来的な将来が有限的な将来として提示されることから明らかになるだろう。

しかし、自身の死後も時間は流れていき、将来には無限の事柄が含まれているのではないだろうか。

これらはその通りであるが、しかし根源的な時間性についてあてはまる議論ではない。

問題となるのは「自分へと到来させること」自体がどのように規定されているかである。

「到来」の有限性は終焉ではなく時間化そのものの性格であり、その性格は現存在が投企(理解)することの可能なもののうちで示されている。

なぜなら本来的な将来は追い越しえない可能へと投企することで「じぶんへ向かって」いることだからである。

有限的で本来的な時間性が、どのようにして無限的で非本来的な時間性へと派生するのかが問題である。

「現存在の意味は時間性である」というテーゼは、これまでの分析の土台から離れて現存在の具体的な根本体制に即して確証される必要がある。

第六十六節 現存在の時間性、ならびにその時間性から発現する、実存論的分析のより根源的な反復という課題

時間性に基づいて現存在の存在体制を示すことを「時間的」な解釈と名付ける。

そこでの課題は、現存在の本来的な全体的存在可能を時間性に基づいて分析し、さらには非本来的なあり方も視野に収めることである。

すなわち、これまでの実存論的分析を時間性という観点から反復することで、日常性の時間的な意味が明らかにされなければならない。

しかしそれは単なる反復ではなく、考察の関連性を明確にし、偶然や恣意を取り除くものである。

「自己性」が気づかいの構造、そして時間性の構造の中で分析されたので、自己であることや自己でないことの時間的な解釈に特別な重要性が生じている。

さらにその解釈によって「歴史性(Geschichtlichkeit)」としての「時間化構造」が根源的に捉えられるのである。

そして日常性と歴史性の時間的解釈によって「根源的時間」の分析が準備されたことになる。

現存在は第一次的に自分を自身のために役立てる。

自分を使用し尽くすことで、現存在は時間を使用し、それによって時間を計算するのである。

さらに時間を計算に入れることが世界内存在を構成する。

覆いをとって発見することが時間を計算しつつ行われることで、発見されたものと時間の中で出会うことになる。

すなわち世界内部的な存在者は時間の中に存在するのである。

このように時間に規定されたあり方を「時間内部性」と名付けることにする。

この時間内部性は根源的時間に属する時間化の一つの様態として現れる。

以上のような分析によって、現存在の存在論の「錯綜したありかた」に対する見通しが与えられるようになるだろう。

コメント

存在と時間』第三分冊はこれで終わりになる。

この章では「死への先駆」と「決意性」という二つの現象の間にどのような関係があるのかということが考察された。

その結論とは、決意性の本来的なものが死への先駆への決意性、すなわち先駆的決意性なのだ、というものだ。

そしてこの先駆的決意性が「自己」を与えることや、気づかいの意味としての時間性の分析の導入もなされている。

時間性については第四分冊の主題となりさらなる考察が行われるだろう。


第六十二節の「決意の確実性」の部分がなかなか難解だった。

現存在は気づかわれるものと一体のものとして開示され、その開示性が「真理」と呼ばれている。

「決意性が開示するもののうちで自分を保持すること」といった書き方は、自分(現存在)と開示されるものが区別されないことから読みづらくなっているのだと思う。

他に第六十五節での「意味」が「投企の「それにもとづいて」」であるといった記述も最初何のことだかわからなかった。

意味は解釈によって分節化された有意義性、すなわち世界の可能性の一部分である。

理解は可能性へと投企することと定義されていて、解釈は理解を「あらかじめ持つこと」としてその契機に含んでいる。

つまり意味を解釈することは理解という形で可能性へと投企することなのだ。

ゆえにこの「それにもとづいて」を理解され投企される対象となる可能性と考えるなら、それが意味であるというのにも一応の納得はいく。

そして解釈することで世界が分節化されて意味が生み出されるので、存在の意味を解釈することで初めて存在に意味が与えられると言われるのだろう。


決意性によって「つかみ直」される自己、存在論の分析の循環、時間性における回帰という性格、以上のようにここでの論考にはループする構造が幾つか登場する。

現状ではこれらは別々のものだがそれらが統一的な現象として示されてくるのかが気になっている。

特に統一されなくても複数のループが絡み合う構造として現存在を考えるのも面白そうだ。

*1:1.2.3.62.917 p372

*2:1.2.3.62.922 p379

*3:現存在=開示性。開示されるというのはそこで存在すること。

*4:状況と決意における可能性の両方で保持されること?

*5:時間性において現存在が自分に回帰するという議論と関係があるかも。

*6:決意が開示する「状況」の本来的なもの=「死」であるということが言いたいのだろう。

*7:1.2.3.62.926 p387

*8:1.2.3.63.932 p394

*9:現存在自身が頽落への道標を与えているということ?

*10:1.2.3.63.943 p408

*11:フッサールの影響が感じられる。

*12:理解するものとされるものの区別はないので、「それにもとづいて」は現存在の存在可能でもあり、ゆえに理解は投企である。

*13:1.2.3.65.966 p450

*14:存在することと開示は一致するから?もしくは存在に常に存在了解が備わっているから?

*15:1.2.3.65.969 p454,455

*16:死への先駆(既在へと回帰しながら到来すること)→決意(現在化)の流れ。

*17:1.2.3.65.978 p469

ハイデガー『存在と時間』(三)②



熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事二つ目。

この記事では第二篇第二章(第五十四節〜第六十節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に、
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ

第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)は以下の記事に書いている。
re-venant.hatenablog.com


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第二章 本来的な存在可能の現存在によるあかしと、決意性

第五十四節 本来的な実存可能性のあかしという問題

前章で確認された通り、現存在自身によって「あかし」を与えられている本来的な存在可能が求められている。

そしてそのためにはその「あかし」が見出されなければならない。

そのあかしは現存在の本来的な実存において自身を理解させるものである以上、その根源は現存在の存在体制にあるだろう。

またこのあかしは「ひと」として頽落している現存在に本来的な「自己」を理解させるものである。

この本来的な自己は「ひと」の変様としての規定されるが、その変様はどんなもので何がそれを可能にするのか明らかにしなければならない。

「ひと」に頽落することで現存在の様々な存在可能がすでに決定されてしまっている。

さらに「ひと」はその存在可能を選択することという重荷を奪い、それを隠している。

選択する主体は誰でもない「ひと」であり、選択することなく生きていくことで現存在は非本来的に存在することになってしまう。

このことを元に戻す、すなわち本来的なあり方へと変様することは、一つの選択を取り戻すことである。

これはまた選択を選択することであり、個別的な自己に基づいて決断することを意味する。

以上のことによって初めて現存在の本来的な存在可能が可能となる。

現存在が「ひと」ではなく自己でありうることのあかしは、「良心の声(Stimme des Gewissens)」として知られるものである。

以下の分析では純粋に実存論的に「良心(Gewissen)」を解釈の「あらかじめ持つこと」の中へと設定する。

この良心は目の前にあるものではなく、現存在の存在の仕方である。

また良心は何事かを理解させるものであるから、それは現存在の開示性から分析される。

そして良心は「呼び声(Ruf)」であるり、それは現存在を「呼び覚ます(Anruf)」ものであることが明らかとなる。*1

この呼び声に反応するためにはそれに対応する「聞くこと」が必要である。

また呼び声を理解することは「良心を持とうと意志すること(Gewissenhabenwollen)」であることが明らかにされるだろう。

そしてこの現象には個別的な存在を選択するという「決意性(Entschlossenheit)」がある。

第五十五節 良心の実存論的 — 存在論的な諸基礎

良心は何かを開示し、それゆえに「現」を構成する実存論的現象である。

この良心の解釈は情態性、理解、語り、頽落といった「現」の開示性について分析をさらに根源的に遂行することとなる。

「ひと」に頽落する現存在が「公共的に解釈されたあり方」でありうるのは、現存在が他者たちの語りを「聞き」うるからである。

そこで現存在は固有な自己を「聞き落とす」。

「ひと」の語りを「傾聴」することを中断する可能性が現存在に与えられなければならない。

それは「呼び声」によって媒介なく呼びかけられることのうちにふくまれている。

この「呼び声」、つまり良心はあいまいな空談や好奇心とは反対の性質、すなわち「物音も立てず、あいまいにではなく、好奇心に対しては何の手がかりも与えず*2」理解させると言う性質を持っている。

呼ぶことは「語り」の様態である。

この「語り」は「沈黙」という派生形を持ち、声に出すことを必ずしも必要とはしない。

そして良心は「語り」の開示性に基づいて理解されるものだから、悟性などの心的能力やその混合によっては説明されない。

第五十六節 良心の呼び声の性格

「語り」には話題の対象が属しているが、その変様である「良心の呼び声」の対象はなんなのだろうか。

それは現存在であり、またその日常的なあり方である「ひと」が射当て(trifft)られている。

そして「ひと」は固有の自己に向かって呼びかけられている。

ここでは世間的に理解された「ひと」としての現存在は「とおり過ぎられる」。

個別的な自己が呼びかけを聞いて自分自身に引き戻されるから、「ひと」として頽落したあり方は崩れ落ちることになる。

呼びかけられる自己は「外界」から「内界」に閉じこもるようなものではなく、それにもかかわらず世界内存在している自己である。

良心の呼び声は、言葉として発声され何かを伝達するものではない。

それはただ現存在を自分自身、もっとも固有な存在可能へと「呼び覚ます(aufgerufen)」ものなのである。

そして呼ばれた自己を「審理」するのではなく、固有な自己で「ありうること」へ呼び覚まし、固有な可能性へと「(前に)呼びだす(Vor- Rufen)」ものなのだ。

この呼び声が開示するものは一つであり、「錯覚」はその呼び声が本来的に理解されないことで生じる。

良心の存在論的な解釈を十分なものとするために、「呼んでいる者」が誰なのか、呼ばれる者と呼ぶ者はどのように関わるのか、この関わりは存在論的にどのように捉えられるのかを明らかにしなければならない。

第五十七節 気づかいの呼び声としての良心

良心の呼び声を呼ぶ者は規定されていないあり方、規定されえないあり方をしている。

しかし実存論的な分析においては呼ぶ者を問うことが必要となる。

この問いの答えは現存在にとってはすでに与えられている。

すなわち「現存在が良心において自分自身を呼ぶ*3」のである。

しかしこの答えはまだ十分なものではない。

なぜなら呼ばれる現存在と呼ぶ現存在が別の仕方で存在しているかもしれず、また呼び声は私たちの意志とは関係なく起こるからだ。

呼び声は私のうちから到来し、しかも私を超えて到来するのだ。*4

呼ぶ者を神と捉えたり、良心を生物学的に説明することは、このような現象学的な見方を飛び越えてしまっている。

現存在の実存論的体制が呼ぶ者のあり方を解釈する唯一の手引きなのだ。

現存在は不気味さにおいて被投性から「ひと」へと逃避していて、この不気味さは単独化された現存在を規定している。

さらにこの不気味さは「不安」という情態性において開示されている。

この不気味さのうちで情態づけられて存在している現存在が「良心の呼び声」の「呼ぶ者」なのではないだろうか。

不安における現存在はそこで開示された存在可能以外の何物も持っていないから、良心の呼び声はそのような固有の存在可能へと呼び覚ますものなのだ。

ゆえに良心は何事かを報告するものではないから、「沈黙」という不気味な様態で語りかける。

また呼び声が現存在自身を射当てるのは、不安における現存在が固有のものであることに基づいている。

不安において規定された呼び声が、現存在がもっとも固有な存在可能へと投企することを可能にする。*5

このことは不気味さが現存在の頽落したあり方を脅かすということを証明してもいる。

呼ぶ者は被投性によって(〈のもとでの存在〉)不安に思っていて、呼ばれる者は「ひと」へと頽落したあり方(〈内ですでに存在していること〉)からもっとも固有な存在可能(〈じぶんに先だって〉)へと呼び覚まされる。*6

ゆえに良心は現存在が気づかいであるということのうちに存在論的可能性を持っている。

だから、現存在以外に良心の「威力」を求める必要はない。

このような良心の通俗的な説明が逸脱してしまうのは、現存在を主観や意識を備えたものとして前提にしてしまうことによる。

そこでは良心の威力は客観的なものに求められ、その「普遍的な」良心は「世界良心」にまで高められる。

しかしこの「世界良心」は「ひと」の声なのではないだろうか。

反対に良心の声を現存在が把握しうるのは、それが自分自身から到来するからである。

以上のような解釈によって良心が主観的なものになったり、その威力が減衰することはない。

むしろその「仮借なさ」と「一義性」が開示される。

つまり良心の「客観性」が得られるのはその「主観性」を認めてこそであり、その主観性において「ひと」の支配を無化することができるのだ。

このような解釈に対して、良心は「叱責しかつ警告するものに過ぎない」という批判があるかもしれない。

ここで解釈された良心の呼び声は具体性を欠いている。

以上の良心についての解釈は現存在の実存論的体制に基づくものであり、このような課題を準備するものであったと言える。

また良心が何を開示しているのかが明らかになるためには、それと対応する「聴くこと」を分析しなければならない。

呼びかけられるものもまた現存在だから、自分の呼び声を聞き違えることもまた現存在の一つの存在体制なのだ。

呼びかけに対する理解を分析することで、「呼び声は何を理解させるように告知するのか」が明らかになる。

また以上の解釈によって良心に呼ばれる「負い目のあるあり方」を理解することができるようになっている。

第五十八節 呼びかけの理解と負い目

呼び声が呼び覚ますものを実存論的に解釈することは、具体的な実存可能性を定義することではなく、そのような存在可能を可能とする条件を確定することである。

呼びかけを理解することが本来的となるのは、聞くものが関連を欠いた個別的な存在である場合である。

このような本来的なあり方には何が含まれていて、呼び声のうちで理解されるよう告知されているのは何なのだろうか。

呼び声は具体的な知識を与えず、固有な存在可能へと向かうよう指示する。

そして呼び声は単独化された「不気味さ」から呼んでいて、その不気味さが呼び声とともに開示されている。

呼び声は、「そのときどきの現存在にぞくする、そのときどきに単独化された存在可能」を開示する。

このように呼び声を解釈して初めて、呼び声が何を理解させようとしているのかという問いが立てられるようになる。


良心の経験や解釈においては「負い目がある」ことが一致して経験されている。

しかしこの「負い目がある」ということが実存論的に明らかにされているわけではない。

ここで問われるのは以下のことである。

私たちはどのようなしかたで負い目あるものであり、また負い目とはなにを意味するのか。このことを語るのは誰なのか。*7

死や良心といった現象と同じく、負い目も日常的な現存在解釈がそれについて「語って」いることから分析を始めなければならない。

さて、負い目があることは日常的には「借りがある」「何か責任がある」「誘因である」といったことを意味する。

さらにこれらが一緒になって「罪を犯すこと」という意味を持つことがある。

このことは「他者に対して負い目を負うことになる」という意味を伴うことがありうる。

この意味での負い目があることは「ある他者の現存在における、何らかの欠如の根拠となっていること」と規定される。

さらにこの根拠自体が、共同存在に対する要求を満たさない欠如的なものとして規定される。*8

このような「負い目のある存在」は現存在のあり方の一つである。

ゆえにそのあり方を今度は存在論的に捉えなおさなければならない。

そのために目の前にあるものの欠如といった通俗的な現象は、「負い目があること」という概念から排除されなければならない。

しかしながら、それでもこの概念には「ない」という性格が属しているのである。

さらに、何らかの根拠であることも属しているから、負い目のあることは「ないことの根拠であること」と規定できる。

一般に言われる罪や過失はこの「負い目のある存在」という根拠に基づいて可能となる。

現存在は気づかいであり、それは被投性、投企、頽落によって構成されている。

被投性において、現存在は自身によって自分になったのでは「ない」。

しかしそれでも現存在は自らの存在可能に対する「根拠」なのである。

存在可能の根拠であることは、現存在が投企を行うことによる。

そして存在可能の根拠としての現存在は最も固有な存在を手にしてい「ない」。

以上が被投性に属する実存論的な「ない」、すなわち「無-性(Nichtigkeit)」である。*9

また、投企においてもある存在可能に投企することは他の存在可能に投企し「ない」ことである。

この「無-性」は現存在が諸可能性に対して開かれていて自由であることに属している。

以上から被投性と投企には「ない」「無-性」が含まれていることがわかった。

この「ない」は頽落における非本来的な「無-性」を可能とするものでもある。

気づかいそのものが、その本質において徹底して「無-性」によって侵されている。*10

それゆえに気づかいである現存在はそのものが負い目のある存在なのである。

しかしこの「ない」の実存論的な意味は明らかになっていない。

負い目のある存在は道徳を可能にする存在論的な条件である。

また負い目のある存在は頽落の中で開示されていない状態にある。

だからこそ、呼び声がこの負い目のある存在を理解するよう告げているために、良心が可能となる。

不気味さからの呼び声によって現存在は「ない」を理解させられ、そこで最も固有な存在可能が可能となる。

良心は被投的な現存在を存在可能へと「呼び出し」、その被投性を理解させるために被投性へと「呼び返す」。

このことによって良心は、現存在が自分を「ひと」から個別の自分自身へと連れ戻すべきである、すなわち自分は負い目のある存在であるということを理解させる。

このような良心の機能は知識を与えたり負い目のある邪悪な存在へと呼び覚ますことではない。

それならば、負い目のある存在へと呼び覚ますことの意味は何なのだろうか。

呼び声を正しく聴くことは、最も固有な負い目のある存在可能へと自分を投企していくことに等しい。

つまりここで現存在は呼び声が呼びかけることに対して準備し、呼び声に対して自由に開かれている。

このようにして現存在は固有な自分自身を選択しているのである。

この固有で負い目のある存在は「ひと」に対しては閉ざされたままである。

他方その「ひと」が固有で負い目のある存在へと呼びかけられている。

この呼び声を理解することは、「良心を持つこと」を選択することを意味する。

そして良心を持つことは固有で負い目のある存在に対して自由に開かれていることなのだ。

呼びかけを理解することとは、良心をもとうと意志することを意味するのである。*11

このように意志することは「事実的に」負い目のあるものとして存在することの実存論的条件である。

すなわち、呼び声を理解することによって現存在は初めて責任のあるものとなるのだ。

現存在は事実的な道徳的過失を免れず、被投性と投企の「無-性」のために共同存在において他者たちに負い目があるため、必然的に良心を欠いている。*12

良心を持とうと意志することは、このように良心を欠いたあり方を受け入れることである。

そしてそのようなあり方においてのみ「善く」存在することが可能となるのだ。

呼び声が負い目のある存在を開示する、という以上の分析によって良心が「本来的な存在可能」の「あかし」であることが明らかとなった。

さて、このような良心の解釈においては現実的(通俗的)な良心の概念はどのように捉えられるのだろうか。

第五十九節 良心の実存論的解釈と通俗的な良心解釈

前節で規定された良心は「ひと」がそれに従ったり従わなかったりする通俗的な良心と一致しないどころか矛盾するようにも見える。

しかし実存論的な良心と通俗的な良心は一致しなければならないのだろうか。

通俗的な良心は現存在の頽落したあり方から解釈されるものだから、存在論的に疑わしいものである。

しかしそのような良心解釈も前存在論的に良心という現象を射当てているはずだから、実存論的解釈はそれを無視していいわけではない。

さて、呼び声としての良心に対して通俗的な解釈が提示する問題は以下の四つである。

  1. 良心は批判的機能を持つ。
  2. 良心はすでに行われた行為に関わる。
  3. 良心の声は現存在の存在に関わるわけではない。
  4. 呼び声としての良心解釈は「やましい」良心や「やましくない」良心を射程に収めていない。

四つ目から分析を始める。

通俗的な良心解釈では「やましい」良心、すなわち「とがめる」良心である。

その良心の体験は行為の後から生じてくる。

これは負い目のある存在へと呼び覚ますことではなく、負い目を想起させそれを指示することである。

この解釈は現存在を目の前にある体験が継起する連関だと捉える着手点に基づいている。

実存論的には負い目のある存在が良心の呼び声に後続するから、この捉え方は根源的な現象に到達していない。

同様のことが「やましくない」良心にも当てはまる。

自分が善であることがが告知されることは不可能だから、「やましくない」良心は「やましい」良心の欠如だと捉えられる。

このような欠如の経験だと思われているのは、行いが現存在によって行われていない、現存在には負い目がないと自己確証することなのだ。

この確証は良心を忘却すること、最も固有で負い目のある存在を抑圧することに他ならない。

「やましくない」良心に方向付けられているために、「とがめる」良心も良心という現象を正しく指し示すものではない。

行為を先取りして「警告する」良心という解釈は、呼び覚ますことという性格を共有しているように見えるが、それは見せかけに過ぎない。

なぜなら「警告する」良心は意志された行為に方向付けられているからだ。

しかし意志された行為は負い目のある存在においてのみ防止されるので、その良心は行為を抑制する機能を持っていない。*13

結局は「警告する」良心も「ひと」が解釈した範囲で良心を考えたものに過ぎないのだ。

第三の疑いは日常的には実存論的な良心概念が明らかになっていないということに基づいている。

しかし通俗的な良心概念が存在論的に正しく行われているということは保証されていない。

さしあたっては配慮的な気づかいにおいて自分を理解し、存在を目の前にあることとして規定していることで二重の隠蔽が生じる。

すなわち、第一にこのような良心概念においては存在的に未規定な体験や心理的な出来事が問題とされ、第二に計算において取引される良心が問題となる。

このような日常的な良心体験が引き合いに出されることが正当化されるのは、日常性において良心が接近可能な時だけである。

このことから第二の疑問も効力を失うことになる。

呼び声が行為に関係して経験されるということを否定することはできない。

しかしそれは呼び声が開示する射程をあらかじめ制限してしまっているのである。

このように「警告する」良心などが良心の根源的な機能を表現していないなら、第一の疑問も基礎を失っていることになる。

良心が批判的機能を持つという見方も、良心が積極的に何かを語りかけることがないという点では正しい。

しかしこのことは良心が消極的であることを意味しない。

良心に積極性を期待するのは、良心が行為の可能性を指示してくれると期待することに基づいている。

このような期待は配慮的気づかいにおける解釈に従って現存在が存在することを「統制可能な仕事の進行」に押し込める。

またこれはメタ倫理学に対して規範倫理学的な要求を行う根底にもある。

しかし良心は最も固有な存在可能へと現存在を呼び覚ますから、この期待は達成されない。

すなわち、良心は配慮的に気づかわれるものに関しては積極的でも消極的でもない。

しかし実存論的には「もっとも積極的なもの」つまりもっとも固有な可能性を開示するのである。

以上の分析で通俗的な良心解釈も存在論的に見られたなら実存論的な良心を指示していること、またその解釈が気づかいに属する頽落から生じる以上自明であり偶然的なものではないことが示された。

このような分析は日常的な現存在の「道徳的質」について何らかの判断を下すものではない。

良心の理解が不十分であることで実存が損なわれるわけではないし、反対に実存論的に良心を理解したから呼び声を正しく理解することが保証されるわけでもない。

「真摯さ」と「不誠実」はそれらの解釈とは関わらず可能なのである。

しかし実存論的解釈が経験から切り離されていな限り、その解釈は良心の呼び声をより根源的に理解する可能性を開示するのである。

第六十節 良心にあってあかしを与えられた本来的な存在可能の実存論的構造

良心の呼び声を呼ぶ者が現存在であることから、最も固有な存在可能の「あかし」が現存在のうちに存在していることがわかった。

そして呼び声を現存在の存在様態だと理解することで、「あかし」を与えられた本来的な存在可能の現象的な成り立ちが与えられることになる。

本来的に良心の呼び声を理解することは、良心を持とうと意志することであると規定された。

このことは最も固有の自己を、負い目のある存在において行為させることである。

そしてこれは現存在自身においてあかしを与えられた本来的な存在可能を示している。

このような本来的な存在可能の実存論的な構造を発掘し、現存在自身において開示される「本来性」の根本体制を明らかにしよう。

良心を持とうと意志することは最も固有な存在可能に対する自己理解(=投企)であるから開示性の一つの様態である。

開示性は理解の他に情態性と語りによって構成されているから、この理解に対応して気分や語りがあるはずだ。

まず気分については、「不安」が対応する。

それは呼び声を理解することで現存在が単独化されて不気味さを感じるからだ。

「語り」についてであるが、良心の呼び声には返答が存在しない。

良心の呼び声によって現存在は「ひと」の空談から連れ戻されるから、良心を持とうと意志することは沈黙という様態を持っているのである。

以上のように特徴付けられた開示性は本来的なものであり、

もっとも固有な負い目ある存在へと向けて、沈黙したままで、不安に耐えつつ自己投企すること*14

である。

このことを「決意性(Entschlossenheit)」と名付けることにする。

さて、開示性は「根源的真理」であることがわかっている。

この真理は世界内存在の構成要素であり、実存カテゴリーであるから、現存在の根源的開示性は実存の真理として示されている。

現存在の本来性の分析は、この実存の真理を非真理から境界づけるために要求されていたのである。

決意性という概念を手に入れたことで、本来的で根源的な真理が獲得されている。

良心の呼びかけが決意性によって理解される時、その本来的な開示性によって世界の覆いをとって発見されたあり方と共同現存在の開示性が変容する。

つまり、「手もとにあるものへと配慮的に気づかいながらかかわる存在」「他者たちと共にある顧慮的に気づかう共同存在」がもっとも固有な自己でありうること(存在可能)から規定されるのである。

決意性は固有な自己として現存在を世界から引き離すのではなく、「手もとにあるものへと配慮的に気づかいながらかかわる存在」「他者たちと共にある顧慮的に気づかう共同存在」へと押し戻す。

なぜなら決意性もまた世界内存在としてしか存在としてしか存在できないからである。

ここで初めて他者たちをそれぞのに固有な存在可能において存在させ、その他者たちの存在可能を顧慮的な気づかいにおいて開示することが可能となる。

すなわち、決意性を持った現存在は他者たちにとっての良心となりうるのである。

つまり、本来的な自己存在である決意性によって本来的な共同相互性が成立するのだ。

決意性はその時々の事実的な現存在において実現されていて、それは理解しながら投企する「決意」として実存している。

そこで現存在は何に基づいて、何に向けて決意するのだろうか。

その答えは決意のみが与えうる。

なぜなら決意は事実的な可能性を開示しながら投企し、それを規定することだからである。

決意性には規定されていないあり方が属しているが、それはその時々の決意によって規定されることになる。*15

現存在が「現」において開示されていることは、現存在が真理と非真理のうちに身を置いていることを意味した。

同じことが決意性についても当てはまる。

すなわち、現存在は「ひと」によって解釈されたあり方で存在することという「非決意性」のうちで存在しているのだ。

「ひと」は決意性によって呼び覚まされた現存在をまだ支配しているが、決意を取り消させることはできない。

決意性と同様に決意も「気づかいながらかかわる存在」「共同存在」に向かっているから、決意によって事実的に可能なものが開示される。

しかしそれは単に事実的なのではなく、もっとも固有な存在可能として可能であると開示するのである。


このように決意した現存在の実存論的に規定されたあり方は、「状況(Situation)」と名付けられる現象の契機を含んでいる

状況という語には空間的な意味が含まれているが、それは「現」にも含まれるものなので除去する必要はない。

「現」の空間性が「距たりを取り去り方向を合わせること」として世界内存在の開示性に基づいているように、状況は決意性に基づいている。

状況とは、決意性において開示される「現」なのである。

「現」に向かって決意することでその時々の事実的な適所性が開示される。

すなわち決意というあり方においてのみ「偶然」的な事象が共同世界や周囲世界から現存在に降りかかることが可能となるのである。

このような状況は「ひと」においてはありえない。

決意性は「良心を持とうと意志すること」の実存論的構造を確定している。

良心の呼び声は「状況」へと呼び出すものなのである。

良心はこのように実存論的には積極的な意義を持っているので、良心が批判的にしか作用しないという解釈は表面的なものに過ぎない。

以上のように良心の呼び声を決意性と解釈することで、それが現存在の「根拠」のうちにある存在の仕方であることが明らかになる。

そしてそのようなあり方において現存在は最も固有な存在可能に「あかし」を与えながら、決意することで事実的な実存を可能とするのだ。

上のように決意性を定義することで現存在の「本来的な全体的存在可能」の意味が決定できるようになった。

そして死へとかかわる現存在の本来的存在は空虚な理念ではないことも示された。

しかしその本来的存在は純粋に実存論的な投企に過ぎず、それが現存在に適合的であるというあかしが欠けている。

そのあかしが与えられて初めて現存在の「本来的な全体的存在可能」が提示され、現存在の存在の意味への問いが準備されることとなる。

コメント

第二篇第二章では、第一章で論じられた「死に関わる本来的な存在可能」が可能なのかどうか、それが現存在の構造から正当化されるかどうかが議論される。

そのような正当化が「良心」「負い目のある存在」「決意性」といった道具立てによって行われることになる次第は本文要約を参照してほしい。

疑問に思ったのが「自由」という概念の扱いである。

現存在は良心の呼び声に対して自由に開かれていて、固有の自己を選択すると記述されているが、それは可能なのだろうか。

これについてはその可能性自体がこの章の争点であったように思う。

現存在が頽落して状態すなわち「ひと」の支配から脱しうるのは「良心」が呼んでいるからであり、その良心は現存在の構造そのものから生じてくる。

そして現存在がその本質からして良心の声を聞きうる「負い目のある存在」であることも確認されている。

良心と負い目のある存在はどちらも現存在の構造から導かれたものだから、それらが対応しているというのも納得できる。


さて、自由については他に投企の「無-性」というところで現存在が諸可能性に開かれて自由であることが述べられている。

この場合被投性がある以上現存在はすでに投企してしまっているわけだから、自由だと言えないと思える。

しかしその投企が固有な現存在における「決意」なら、そこにおいては一旦全ての関連が途絶えているので自由だと言えるかもしれない。

ここで思うのはこのような自由とか決意は「行為者原因」、つまり不動の動者としての人間精神へと帰ってくる理念ではないかということだ。

世界内存在というものを基礎に据えながら、結局は世界と独立な自己を設定してしまっているのではないか。

そもそもハイデガーが固有な本来的存在を世界と独立な自己と考えていない可能性もあるので、その辺りはさらに読み込みたい。


他にここで明らかになるハイデガーの真理観が面白かった。

先に真理は現存在の開示性であると述べられたが、その現存在の本来性はここでの特徴付けを待たなければならなかった。

現存在が本来的であって初めてその開示性としての真理も本来的になるのである。

そして本来的な現存在は死に先駆したり負い目があったりする固有な存在であり、そこにおいてもまた決意という形で世界の中へと投企している。

だから本来的な真理(改めて見ると変な表現だが)は一旦このような本来的なあり方を経由することで可能となるのである。

世界の真実を知るために自分の死を意識したり負い目を感じたりする必要があるというのはかなり面白い帰結だろうと思う。

*1:普段使う言葉で言えば良心によって「我に帰る」ということだろう。

*2:1.2.2.55.807. p223

*3:1.2.2.57.820 p240

*4:1.2.2.57.821 p241

*5:「本来的な存在可能」の可能性というテーマから読もう。

*6:

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

ハイデガー『存在と時間』(三)① - Revenantのブログ

*7:1.2.2.58.842 p266

*8:他者における欠如と根拠における欠如の二重性に注意。のちの被投性と投企それぞれの「ない」につながる。

*9:Nichtigkeitを「無-性」と訳すのはわかりづらい気がする。「否定性」とかでいいのでは。

*10:1.2.2.58.855 p287

*11:1.2.2.58.866 p300

*12:これは「事実的な」良心なのか?

*13:負い目のある存在=固有な現存在=死=関連をもたない存在

*14:1.2.2.60894 p338

*15:決意性が規定されていないのは死が規定されていないから?

ハイデガー『存在と時間』(三)①


熊野純彦訳『存在と時間』第三分冊についての記事一つ目。

この記事では第二篇第一章(第四十五節〜第五十三節)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一分冊については以下の四つの記事に、

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ

第二分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。
ハイデガー『存在と時間』(二)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(二)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第二篇 現存在と時間

第四十五節 現存在の予備的な基礎分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的解釈の課題

第一篇において「気づかい」として現存在を特徴付けたが、それは根源的な解釈なのだろうか。

存在論的探究もまたひとつの「解釈」であり、その解釈とは理解された有意義性の全体を個々の存在者へと分節化することであった。

さらにそのような解釈が個々の存在者の全体を適切に分節化しているか確認されなければならない。*1


これまでの現存在の解釈は日常性から出発するものであったから、それは「本来性」を問う根源性が欠けていた。

また現存在の全体は「気づかい」として見て取られたけれど、日常的な現存在は「誕生と死」の間にある存在である。

そして「存在可能」として存在している限り、現存在はまだ現実的な何者でもない。

ゆえに現存在を全体的に解釈すること(個々の存在者として分節化すること)は失敗する運命にあるのではないか。


以上のことからわかるのは、ここまでの現存在の解釈は根源的なものではなかったということだ。

それを根源的にするために、現存在の存在の本来性と全体性に光をあてなければならない。

このようにして現存在の全体を解釈の「あらかじめ持つこと」において捉えなければならないことになるが、このことは現存在の存在可能の全体を問うことを意味する。

存在可能としての現存在は常に可能性として存在しているが、しかしその可能性には「死」というおわりが属している。

このおわりによって現存在の全体性は境界付けられているため、現存在の全体を解釈するために「死」を実存論的に究明する必要がある。

また現存在が「本来的」に存在していることの基準がなければならないが、それを明らかにするのは「良心」である。

さらに現存在の存在根拠は「時間性」である。

この時間性から現存在が「歴史的」であること、また気づかいが時間を計算に入れなければならないことが示される。

また「時間」の根源である「時間内部性」を解明することで明らかになる「時間化可能性」によって「時間化」に対する了解が準備される。

この時間化に現存在の「存在了解」が基づいているのである。

第一章 現存在の可能な全体的存在と、死へと関わる存在

第四十六節 現存在に適合的な全体的な存在を存在論的に把握し、規定することの見かけ上の不可能性

現存在は全体的に解釈されうるものなのだろうか。

気づかいには「自分に先立って」という契機を持っているため、現存在は常に存在可能として、すなわち「可能性」として存在している。

だから現存在は「未完結」であり、存在可能に対して「未済」なのである。

現存在の「未済」が失われたとき可能存在としての現存在はもはや存在していない。

だから現存在の全体を経験することは不可能である。

そうであるならば現存在の全体を解釈しようという試みは不可能ということになるのではないか。

ここで疑問となるのは、ここまでの論証で「先立って」ということが実存論的な意味で捉えられていたかということだ。

「おわり」や「死」を改めて実存論的に分析しなければならないだろう。

第四十七節 他者たちの死の経験可能性と、全体的な現存在の把握可能性

現存在は他者との共同存在だから、他者たちの死は一見客観的に接近可能なもののように見える。

しかし他者たちが死んで世界に存在しないことは、それも一つの存在の仕方なのである。

他者は死によって現存在から目の前にあるものに「反転(Umschlag)」する。

それでも死者は葬式などにおいて配慮的な気づかいの対象であるから、死者が立ち去った世界の側では故人とともに存在することができる。

私たちは他者の死を経験することはできず、ただその場に居合わせることができるに過ぎない。

そこでは死の存在論的な意味は解明されないのである。

まずもって現存在の死について他者の死を主題にするという考えは、現存在は他者と代替可能であるという前提に基づいている。

確かに共同相互存在の配慮的気づかいは代替可能である。*2

またこの代替可能性は世界に共に没入していること、現存在同士が相互に頽落していることに基づいている。

しかしこの代替可能性は現存在の全体を問題とした時には成り立たない。

だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。(Keiner kann dem Anderen sein Sterben abnehmen)*3

誰かが代わりに犠牲になることはあり得るが、それは気づかいの「何かについて」犠牲になるというだけのことであり、他者の死を免除することにならない。

だから死はそれぞれの現存在に固有のものであり、そこでは現存在に固有の存在(実存)が問題となっている。

ゆえに死は実存論的に分析されなければならない現象なのだ。

現存在の死は生きているものが世界から立ち去ること(「生きおわること」)とは区別される。

この区別を明確にし、また「全体性」や「おわり」という現象を規定しなければならない。

第四十八節 未済、おわり、および全体性

本節で見るように「おわり」「全体性」についてのさしあたり得られる概念は現存在を存在論的に特徴づけるものとしては不適切である。

現存在がおわりに到達することの意味は現存在そのものから取り出され、また「おわり」が現存在の全体的存在をどのように構成するのかが示されなければならない。

ここまでで「死」についてわかったことは以下の三つである。

  1. 現存在には常に「なお〜ない(Noch-nicht)」、つまり「未済」が属している。*4
  2. その未済が除去されたとき、もはや現存在は存在しない。
  3. おわりに到達することは他の現存在によって代替不可能である。

さて、現存在が「なお〜ない」ということは「未済」と理解していいものなのだろうか。

未済というのはあるものが「属している」が欠落している状態のことである。

例えば貸金が返ってきていないとき、未済の金は貸した人に属しているがまだ手に入ってはいない。

ゆえに未済の金は「手もとにないもの」であり、それ対してすでに返ってきている金は「手もとにあるもの」として存在している。

このような欠落によっては手もとにあるものとしては存在しない現存在の「なお〜ない」を規定することはできない。

現存在の「なお〜ない」が補充されることによって現存在が完成するのではない。

それどころか現存在は常に「なお〜ない」が属するしかたで存在しているのだ。

他にも月が欠けているとき「なお〜ない」と語られるかもしれない。

その場合月は初めから全体として目の前にあり、ただ欠けている部分が認識されないというだけである。

しかし現存在の「なお〜ない」は認識不可能であるだけでなくまだ存在していない。

それならば「ない〜ない」とは生成変化ということを意味するのだろうか。

生成変化するものとして例えば未熟な果実が挙げられる。

成熟へと「みずからをもたらす」ことによって未熟な果実は特徴付けられる。

しかし成熟と現存在の死は異なったものである。

なぜなら、果実は成熟において自分を完成されるが、完成した現存在が死ぬというわけではないからだ。

さて、それでは死はどのような意味で現存在の「おわり」として理解されなければならないのだろうか。

さしあたり「おわること」は止むことや仕上がることを意味するが、それらは手もとにあるものや目の前にあるものの規定である。

ゆえにそのような意味の「おわり」が現存在に妥当することはない。

現存在が常に自分の「なお〜ない」であるのと同様に、現存在は常に自分の「おわり」なのである。

おわることとしての死は現存在がおわりに達することではなくて、おわりに関わっていることを示している。

死は現存在が誕生した時から常に伴っている存在可能、存在する様式なのだ。

このことが実存論的に解明されなければならず、またそれによって「なお〜ない」という存在可能が理解できるようになるだろう。

そして死によって構成される現存在の全体性について語ることの意味も明らかにされるはずである。

死とおわりを実存論的に分析するならそれは現存在の根本体制である「気づかい」を手引きとして行われるだろう。

第四十九節 死の実存論的分析を、当の現象について他に可能な解釈に対して境界づけること

死についての存在論的な解釈はなにを問うことができず、またそこからなにを得ることができないかを明らかにしておかなければならない。

死を生命現象として見る生物学的—生理学的な研究の根底には死についての存在論的な問題系がある。

現存在は単に「生きおわる」わけではないが、生命としての死を持ってもいる。

この中間現象を「生をはなれること」と呼ぶことにしよう。

それに対して「死ぬこと」は現存在が死に関わり続けている存在様式である。

「死ぬこと」がある限りで現存在は生をはなれることができる。

同様に死の実存論的な解釈は死についての伝記的—歴史的研究や民俗学的—心理学的探究を基礎づけている。

また死後の世界などの「彼岸」について問われうるのは、「此岸」すなわち現存在の中に立ち現れてくる死という現象が把握された時である。

他に「死どのようにして現れたのか」、「死はどのような意味を持っているのか」というような「死の形而上学」も実存論的分析の外にある。

第五十節 死の実存論的—存在論的構造をあらかじめ素描すること

死という現象は現存在の根本体制に基づいて解釈することが必要であるとわかったが、その根本体制とは「気づかい」である。

さて、気づかいは「(世界内部的に)出会われる存在者〈のもとでの存在〉として、〈じぶんに先だって〉(世界の)〈内ですでに存在していること〉*5」と定義された。

この三つの契機はそれぞれ頽落、実存、事実性と言い換えられる。

これらが死という現象に即してどのように提示されてくるかを明らかにしなければならない。

おわりは「未済」ということではなく、現存在は常におわりに関わって存在している。

だからおわりは現存在に「さし迫っている(Bevorstand)」。

しかし目の前にあるものも世界内存在にさし迫ることができるので、さし迫ることだけで死を特徴づけることはできない。

一方、他者と対決することといった共同存在に基づいた存在可能も現存在にさし迫ることができる。

死は自らの最も固有な存在可能として現存在にさし迫っている。

そして死はもはや存在できないという存在可能であり、死において現存在は他者への全ての連関を断ち切られている。

このようにして死は際立って特徴付けられた「さし迫っていること」なのである。

このことが可能なのは現存在が〈じぶんに先だって〉開示されていることに基づいている。*6

そして現存在は常に死という可能性に投げ込まれている。

この事態はまた「不安」という情態性において露呈されている。*7

多くの人は死について無知でいるが、それは現存在が死という存在可能から逃避していることを示している。

気づかわれた世界に頽落していることが、ここでは死、そして死への不安からの逃避として提示されたことになる。

以上から〈のもとでの存在〉〈じぶんに先だって〉〈内ですでに存在していること〉という気づかいの契機が死の実存論的概念を構成していることが明らかとなった。

死が現存在の全体を分節化するものであるなら、それと関連する気づかいは現存在の構造全体の全体性を表現する名称となるだろう。

しかしこの死と気づかいの連関は、さらに現存在の日常性に即して正当化されるべきである。

第五十一節 死へとかかわる存在と、現存在の日常性

日常性において現存在は「ひと」として頽落していて、そのあり方は「空談」によって特徴付けられている。

その空談のなかにある情態的な理解によって、死へと関わる存在がどのように開示されているかが問題となる。

「ひと」において「死」は他者の「死亡事例」として語られ、それは自分には関係ないことだと捉えられる。

「ひと」の死は誰でもない者の死なのである。

空談に属するあいまいさによって「死」についての語りはあいまいなものとなる。

すなわち、死が現実的な事例であると語られることで死が可能性であること、そしてそこにおいて現存在は関連を欠きそれ以上存在できないという死の性格が覆い隠される。

このような逃避にあって、人は死にゆく者に死を免れて配慮的気づかいの日常に帰れるという慰めの言葉をかける。

これは関連を欠いた存在可能である「死」を覆い隠すことなのだ。

この隠蔽は死にゆく者にとっても周りの現存在にとっても慰めである。

また「ひと」の公共性は「生をはなれること」によってかき乱されてはならないから、他者の死に「社交的な不愉快さ」が見出される。

「ひと」は現存在が「死」に対してどのように関わるべきかということも規定している。*8

「ひと」は死への「不安」を到来しつつある出来事についての「恐れ」に転倒させてしまう。

「恐れ」となった死への「不安」は弱さであり、それに無関心でなければならないとされてしまう。*9

このことによって現存在は「死」から疎外されてしまう。

しかし、頽落して死から逃避することで現存在は「ひと」そのものが死へと関わる存在であることを開示してしまう。

つまり現存在にとっては「ひと」という日常的なあり方においても、死に対して無関心という形で気づかうことで死が問題となっている。

この死から逃避している日常的な現存在を解釈することで「おわりへとかかわる存在」が完全に実存論的に分析されるだろう。

第五十二節 おわりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念

前節とは反対に、おわりにかかわる日常的な存在から死の完全な実存論的な概念が獲得されなければならない。

日常性において、「死なない人間はいない」という形で「ひと」は死の確実性を認めている。

しかしその死は現存在固有の存在可能としては認識されていない。

だから日常性においては死の確実性は曖昧に承認されるにとどまり、「死のうちへの被投性」は軽減されることになる。

本来的な「死の確実性」はどのようなものなのだろうか。

ある存在者に確実性を認めることは、その存在者を真なるものとして保存することである。

すなわち、確実性は覆いをとって発見することである真理に属している。

真理が根源的には現存在の開示性であったように、確実性も「確実であるとする」という現存在の存在の仕方である。

そしてそこから導出された意義によって存在者が確実であると言われることになる。

この確実性の一様態として「確信」がある。

確信において現存在は覆いをとって発見された現象そのものに基づいてのみ、その事象と関わる存在となる。

真なるものとして保存することが、真理のうちで存在すること(真理内存在)となるのは、そのような現象に関わり、またそれに適合したものとして自分を見通している場合のみである。

この真なるものとして保存することが十分であるかどうかは、開示される存在者の存在の仕方や開示に方向によって正当化される「真理要求」によって測られる。

なぜなら、存在者やその開示の方向の差異に応じて真理であるあり方や確実性も変化するからである。

当面の考察は死の確実性についてのものだが、この考察によって現存在の際立って特徴付けられた確実性が示されることになる。

現存在が日常性に置いて死を覆い隠していることは、現存在が非真理のうちで存在している(非真理内存在)を確証している。

ゆえにこの隠蔽に帰属する確実性は、適切でない形で真理を保存することであるはずだ。

「ひと」は死を出会われる出来事だと見ているから、そこにおける確実性では死へと関わる存在が隠蔽されたままである。

だから「ひと」が死は確実だと語るとき、個々の現存在が死を自身の存在可能としてそのつど確実だと認識しなければならないことが見過ごされている。

日常的な「ひと」による確実性の根拠はどこにあるのだろうか。

それは「ひと」が他者の死を常に経験し続けていることである。

この場合死に帰属させうるのは経験的な確実性、つまり蓋然性だ。

しかしこのことによっては死の確実性について何の決定も下されていない。

だが「ひと」が死の経験的な確実性についてしか語らないとしても、現存在はそれとは別の仕方で死を確実なものとしている。

頽落した現存在は死の本来的な確実性を見知っていながら、それでも死を確実なものとすることを回避している。

そしてこの回避によってその対象として死が「確実な可能性として把握されなければならない」ということが明らかになるのである。

人は「死は確実だが、当分まだやってこない」と言うが、それは「ひと」の自己解釈でありそれによって配慮的気づかいが可能なものへと自分を指示している。*10

配慮的に気づかうものに頽落することで現存在は死という存在可能を忘れているのだ。

こうして〈ひと〉は死の確実性の特有なことがら、つまり死はあらゆる瞬間に可能であることを覆い隠してしまう。*11

また死の確実性には死がいつ訪れるのか決まっていないことが属している。

このことをまた「ひと」は直近の気づかいの対象の背後に覆い隠してしまう。

以上から死の確実であるが規定されていない、つまりどの瞬間でも可能であるという性格が「ひと」によって隠蔽されることがわかった。

そしてこの考察で死の実存論的概念は以下のようなものであることがわかった。

すなわち、現存在のおわりとしての死とは、現存在が有する、もっとも固有で、関連を欠いた、確実な、しかもそのようなものとして規定されていない、追いこすことのできない可能性である。死は現存在のおわりとして、おわりへとかかわる現存在という存在者の存在のうちで存在しているのである。*12

この死の概念は現存在の全体性を解釈するために役立つ。

日常的な現存在も常に死にかかわって存在しているから、死は現存在が生を離れる際に達成されるものではない。

気づかいの「なお〜ない」という「自分に先立っていること」から、現存在を全体として解釈することができないということは帰結しない。

むしろこの「自分に先立って」こそがおわりへとかかわる現存在を可能とするのだ。

すなわち現存在の全体を問題として取り上げることができるのは、その根本体制である気づかいが死と「連関する」場合のみなのである。

しかしこの問題はまだ完全に仕上げられているわけではない。

死から頽落して回避することは死に関わる非本来的な存在であるが、現存在は常にその非本来的なあり方をしていなければならないわけではない。

現存在は実存しているからこそ、自分が理解しまたそれ自身であるところの可能性から自身を規定している。

しかし現存在はこの節で特徴付けられたような死を理解しうるのだろうか。

すなわち、死へとかかわる本来的なあり方を獲得できるのだろうか。

この本来的なあり方が存在論的に規定されない限り、死の実存論的な分析は不完全である。

死へとかかわる本来的なあり方もまた存在可能であるが、この可能性の実存論的な条件、またそれがどのようにして接近可能であるかを問わなければならない。

第五十三節 死へとかかわる本来的な存在の実存論的投企

死へとかかわる本来的なあり方へと投企することは本当に可能なのだろうか。

現存在はこの本来的なあり方の存在論的な可能性を客観的に特徴付けてくれるのだろうか。

死の実存論的概念が解明されることで死へとかかわるあり方が関係すべきものが明らかになり、また非本来的なあり方が解明されることで本来的なあり方がそうでないはずのものが明らかにされた。*13

そこから死へとかかわる本来的な存在が実存論的に構築されなければならない。

現存在は開示性、すなわち情態的な理解によって構成されているから、死へとかかわる本来的な存在においては死を前にして回避したり、隠蔽したり、転釈することはできない。

死へとかかわる本来的な存在への投企によってその存在を構成するこれらの契機が取り出されなければならない。

まず問題となるのは、死へとかかわる存在を「ひとつの可能性へとかかわる存在」として特徴づけることだ。


手もとにあるものや目の前にあるものの可能性を現実化するあり方は何かを探して外にいることを意味する。

しかし現実化されたものも適所性を持っていて〜のために可能的なものであるから、その区分は相対的である。

この何かを探して外にいることは可能的なものから「目くばり」によって「何のために可能的か」ということに目を移していることなのだ。

それは死へとかかわる存在ではありえない。

なぜなら死は手もとにあるものや目の前にあるものではないし、死を現実化すれば現存在は存在できなくなってしまうからだ。

死へとかかわる存在がそれを現実化することではないのなら、それは「死のことを考えること」なのだろうか。

しかしそこにおいては死の可能性は最小にすべきだと考えられて、可能性という死の性格が弱められてしまう。

死へとかかわる存在において死をそのままに開示しなければならないとしたら、それも不適当だろう。

可能的なものを可能性として扱うあり方は「期待」である。

しかし期待は可能性の現実化を待ち受けていることであり、結局は現実的なものが期待されている。

一方死へとかかわる存在は死を可能性として開示しなければならない。

そのように可能性へとかかわる存在を「可能性へと先駆すること(Vorlaufen in die Möglichkeit)」と呼ぶことにする。

先駆することによる接近は可能性を配慮的に気づかいながら現実化することではなく、むしろ可能性を「より大きく」する。

可能性としての死へとかかわる存在の示すもっとも身近な近さは、現実的なものから可能な限り遠いのだ。*14

死という可能性に先駆することでその可能性が大きくなるとは、死がどのような尺度も持たない現存在の不可能性という可能性として開示されることを意味する。

死へとかかわる存在は先駆することとしての現存在が「有する」存在可能への先駆である。

このように先駆することで現存在は自分自身に対して自分を開示する。

その時もっとも固有で極端な存在可能を理解すること、すなわち本来的に実存することが可能となる。

この本来的実存の構造は、死への先駆の具体的構造をその諸性格を規定することによって特徴づけることで見て取られるだろう。

なぜなら「先駆しながら開示すること」が純粋に理解されるのは死という存在可能によってだからだ。

注意すべきことは、理解は投企によって開示される存在可能において自分を理解することだということだ。

死は最も固有な存在可能でありそこで現存在は「ひと」から引き離されることが可能である。

同時に死は関連を欠いているから、現存在は頽落することなくそれを「自分の側から」引き受けなければならない。

すなわち、死において現存在は「単独化」される。

同時にこれは「現」を開示するひとつの様式なのだ。

しかしこの時気づかいが現存在から切り離されているわけではない。

現存在が本来的に存在するのは、気づかいとして死に投企しながら「ひと」の可能性には投企しないときなのである。

先駆は追い越すことのできない死にむかって自分を明け渡す。

死に向かって先駆しながら自由になることで偶然的に迫ってくる可能性から解放され、死の手前に広がっている可能性が理解され、選択される。

死への先駆によって「自己放棄」が開示されて、そのつど到達された実存に固執することを防ぐ。

おわりによって規定される有限的なものとして理解された可能性に自由に開かれている現存在は、他人の可能性を自分のものと混同したり、それによってもっとも固有な実存を捨ててしまう危険性を回避している。

また死への先駆によって有限的となることで、全体的な現存在を先取りする、すなわち「全体的存在可能」として存在する可能性が開かれる。

現存在が死を確実な可能性として開示するのは、先駆によって死が開示され可能となることによる。

だから開示されたものを確実にすることのためには先駆することが必要である。

そしてその確実性は目の前にあるものの確実性とは全く異なり、またより根源的なものなのだ。

なぜなら先駆することによって初めて現存在は自分の固有な可能性を自分の全体性において確信できるからである。

死は未規定的だが先駆はこの性格をどのように開示するのだろうか。

未規定的な死に先駆することにおいて現存在は常に脅かされている。

この脅かしを開示する情態的な理解とは「不安」なのである。*15

すなわち未規定的な死を前にして現存在は不安という情態にありそれを理解している。

このことから先駆によって現存在の全体を開示することには不安という情態が属していることがわかる。*16

以上から死へとかかわる本来的な存在は以下のような特徴を持っていることがわかる。

先駆することで「ひと」から解放された個別の現存在としてありうる可能性の前に置かれ、またこの個別の現存在とは不安にとらわれている死へとかかわる自由を持つ存在なのだ。

このような死へとかかわる本来的な存在は実存論的には可能だが、それが現存在そのものから証明されていない限り一個の空想的なものにとどまる。

現存在はこの本来的な存在可能を自分の固有な存在の根拠から要求するものなのだろうか。

この問いに答えるため、現存在が実存の可能な本来性について自身の本来的な存在可能から証拠を与えているのか、またそれを要求しているのかを解明しなければならない。

これまではたんにその存在論的可能性において投企されてきたにすぎない死への先駆は、はたして、あかしを与えられた本来的な存在可能と、その本質からする連関のうちに置かれるのだろうか。*17

コメント

存在と時間』の読解も第三分冊に入った。

この第二篇第一章で問題となるのは「死」である。

そもそもなぜ死が問題となるのかというと、その死をもって初めて現存在が一つの個別として完結するからである。

「魂」や「思惟」という実体から現存在の考察を始めないことによって、まずさしあたって存在するのは無差別的に溶け合った世界ということになる。

だからその世界から個別の現存在を切り出すという課題が生じるのである。

個別のものを切り出すというのは第一篇において「解釈」や「語り」として分析された現象である。

ゆえにまず「解釈」という概念からこの第三分冊はスタートすることになる。


第一章ではこの「死」について、その性格やそれと現存在の関わり方が考察された。

概ねすんなりと読めたが、第五十三章での「死」と「自由」の関わりがうまく飲み込めなかった印象がある。

死への先駆によって自由が得られるというというということが記述されているが、それは具体的にどういうことなのだろうか。

そもそも問題なのが、ハイデガーが「自由」という概念をどのように捉えているのかがここでは明瞭でないというところだ。

「選択」という言葉は登場するのでとりあえずは選択の自由をもっていることだと解釈してみよう。

それならば、現存在は可能存在として複数の可能性を持っていて(可能性として存在していて)そこから選択することが可能となるのだろうか。

しかし死によってそれが可能となるというのがよくわからない。

他に「ひと」の支配を受けないことが自由なのだと解釈することもできそうである。

その場合死によって現存在が「ひと」に頽落することができなくなって単独化することと繋がるだろう。

「ひと」は現存在のあるべきあり方をすでに決定しているから、そこから解放されることは「〜すべき」からの自由を意味することができそうである。

なんにせよ記述が少なくここだけでの読解は難しそうなので、のちに自由について記述があるならそこを参照しながら考えたい。


疑問点以外に面白かったのは現存在が常に死の可能性「であり」、それを隠蔽して生きているというところだ。

考えてみれば私たちが次の瞬間も生きているという保証はどこにもない。

しかしそれを考え続けて生きることは本当に可能なのだろうか。

そういった点が「死へとかかわる本来的な存在」が可能なのかどうかという問題意識になったのだろうと思う。

ここについてのハイデガーの記述もまた抽象的なので、これを具体的な生活に即して考えてみる必要があるだろう。

*1:分節化とは初めと終わりを境界づけることだが、誤った範囲での境界付けもありうる。

*2:例えば道具を他者の代わりに使うなどのことができる。

*3:1.2.1.47.713 p92

*4:「なお〜ない」は現存在が可能存在として存在していることだろう。

*5:1.2.1.50.745 p131

*6:死への先駆による開示(第五十三節の内容)を意識しているのだろう。

*7:有意義性を見失う情態が「不安」であるという解釈に沿うだろう。死においてあらゆる有意義性は存在しない。

*8:この辺りの話で思うのだが、おそらく倫理や道徳についてこの「ひと」が規定しているという形でハイデガーは考えているのだろう。

*9:恐れには、何かを脅かすものとして適所性がある。しかし不安には一切の適所性がない。

*10:死はまだやってこないのだから何か(気づかい)をしていようということ。

*11:1.2.1.52.711 p168

*12:1.2.1.52.773 p170

*13:前々節、前節の内容

*14:1.2.1.53.785 p186

*15:情態的な理解≒被投的な投企。

*16:第五十一節の内容を参照。

*17:1.2.1.53.796 p207

ハイデガー『存在と時間』(二)④


熊野純彦訳『存在と時間』第二分冊についての記事四つ目。

この記事では第一篇第六章後半(第四十三節〜第四十四節c)の内容のまとめと感想を書いていく。


第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に

re-venant.hatenablog.com

第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いている。

re-venant.hatenablog.com




また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。

ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ


なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。

本文内容

第一篇 現存在の予備的な基礎分析

第六章 現存在の存在としての気づかい

第四十三節 現存在、世界性、および実在性

存在の意味を問うことができるのは存在了解があるからであり、現存在の存在体制に存在了解が含まれているから、現存在の解明に成功するほどに基礎存在論的な問いは目標へと近づいていく。

現存在の開示性の中で世界内部的な存在者が発見されているから、現存在の存在了解は全ての存在者を包括しているが、それは様々な存在様態に即して分節化されているわけではない。

理解においても現存在は頽落して世界の側で存在しているから、存在了解は基本的に世界内部的な存在者の方に向かっている。

そしてその際に手もとにあるものは飛び越えられて目の前にある「事物の連関」として捉えられ、存在していることは「実体であること」と考えられる。

そこで現存在も同じように目の前にある「もの」として考えられて、こうして一般的に存在するということが「ものであること(Realität)」という意味を帯びることになる。

こうして存在論的探求において「実在性(Realität)」が主要な問題となってくるのだ。

この実在性の優位は現存在の正しい構造や手もとにあるものの分析を妨げてしまい、最後には存在論そのものの方向を逸らせてしまう。

だから存在への問いを正しく行う際には実在性への方向づけを脱しなければならない。

そのためには実在性が現存在、世界、手もとにあるあり方によって基礎づけられていること、そして実在性についての問題の「条件と限界」を示さなければならない。

「実在性の問い」は以下の四つが入り混じっている。

1「意識を超越している」と思いなされている存在者はそもそも存在しているのか、2「外界」のこうした実在性ははたして十分に証明されうるのか、3この存在者は、それが実在的であるなら、どこまでその自体存在において認識されうるのか、4この存在者の意味すなわち実在性とは、そもそも何を意味しているのか、がそれである。*1

実在性をめぐる探求では

a「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性、b存在論的問題としての実在性、c実在性と気づかい*2

が論じられる。

a 「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性

「実在性」への問いはまず第一に「実在性とは何を意味するのか」というものだが、それは外界の実在という問題と結びついている。

そして外界の実在性の分析は「直感的な認識作用」すなわち意識という通路に基づいている。

実在するものはこの意識に依存しないことが可能なのかどうか、反対にそれが超えていく意識とはどのようなものなのかが解明されなければならない。

この認識作用はここまでで見てきた通り気づかいという体制を備えた世界内存在に基底付けられている。

ゆえに実在的なものは世界内部的な存在者としてのみ接近可能なのだ。

外界が存在するかどうか、その存在が証明されるかどうかという問いは、世界内存在としての現存在を考えるなら無意味である。

なぜなら世界は現存在の存在と共に常に開示されているからである。

人々はそれを無視して外界の実在性への問いを設定しようとしている。

カントのいう「哲学の醜聞」は私たちの外側にある存在に対する証明が今までなされていないことではなく、そのような証明が要求されるということにある。

このような要求は現存在についての把握が不十分であることから生じている。

それなら外界は信念において想定されるべきであると考えても、この問題の転倒は解消されない。

なぜならその場合でも外界の実在に対する証明の要求は依然として存在しているからである。

また人は外界の存在を無意識的に前提としているという主張についても、世界内存在ではなく孤立化された主観という出発点が設定されていると言えるだろう。

現存在についてのあらゆる前提よりも「気づかい」という存在様態が先立っている。

以上から、提示されるべきことは現存在がなぜ外界を一旦見えなくして、その上で証明によって示そうとするのかということである。

その理由は「頽落」と、それに動機付けられて存在了解が目の前にあることとしての存在に向け変えられていることにある。


世界内存在とともに世界が開示されているという言明は、外界が実在しているという「実在論」と一致しているように見えるかもしれない。

しかし実在論は世界の実在について証明が必要でありまた可能であると捉えるという点が異なっている。

それに対して観念論は、存在や実在性は意識の内でのみ可能であると主張するならある点で優位を持っている。

その優位とは存在は存在者によっては説明されえないという了解である。

ただ観念論では現存在の存在了解やそれが存在体制に属していることが解明されないので、存在への適正な問題設定とはなりえない。

そのような解明を行う実存論的な分析においても、「意識の存在の分析」は不可避的な課題である。

存在は現存在によって理解可能である、すなわち意識の内にあるから、現存在は実在性という存在性格を理解できる。

そしてこのことによって非依存的な「実体」も「目くばり」において接近可能となるのである。

主観と客観の二項対立によって実在性の問題を考えることも可能だが、第一に世界内存在を考えるならその二項は事後的に認識されるものに過ぎない。

実在性への問いの認識論的な解決法の暗黙の前提を検討すると、この問いを実存論的分析論にうちに引き戻さなければならないことがわかる。

b 存在論的問題としての実在性

世界内部的な存在者は、世界という現象、それが属する現存在の存在体制が解明されて初めて分析が可能となる。

すなわち、世界内存在や現存在は実在性を解明するための基盤なのだ。

このような土台を書いた分析においても実在的なものの現象学的な特徴を与えることはできる。

それはディルタイの言うように、衝動や意志に対する抵抗や抵抗しているあり方である。

しかしディルタイはこのあり方について存在論的な分析を行えていない。

この抵抗は意志や衝動が狙っているもの、「それにもとづいているもの」に向かうことを妨げられることにおいて現れてくる。

それと同時に意志が「それにもとづいているもの」も開示されている。

さらにこの「〜にもとづいて狙っていること」、すなわち意志の働きは適所全体性の中に組み入れられている。

抵抗の経験、すなわち抵抗するものを努力によって覆いをとって発見することは、存在論的には世界の開示性にもとづいてのみ可能である。*3

抵抗という世界内部的な存在者の特徴によって、そのあり方がどこまで及び、どこを向いているのかが発見される。

しかしながらこの抵抗の総計として世界が開示されるのではなく、抵抗は適所全体性としての世界、そして世界内存在の開示に基づいている。

そして抵抗は独立な意志や衝動において経験されるものではない。

意志や衝動は気づかいとしての現存在の一つの様態だから、気づかいという存在の仕方を備えているものだけが抵抗に出会うことができるのだ。

実在性を抵抗によって規定する場合には、それが実在性の特徴の一つにすぎないこと、抵抗は世界全体の開示を前提とすることに注意しなければならない。

実在性を意識することは世界内存在の一つの存在様式だから、外界の実在性の問題は世界内存在という根本現象への回帰するのである。

"cogito sum"(私は考える、私は存在する)という命題は「私は存在する、私は考える」と逆転されなければならず、さらにその内容が存在論的に検証されなければならない。

「私は存在する」というのはその場合何らかの世界のうちで存在していることであり、それゆえに様々な態度に関わる存在可能性として存在している。

それに対してデカルトは思惟作用が目の前に存在しており、その上で思考する私が無世界的に目の前に存在していると主張しているのだ。

c 実在性と気づかい

実在性は世界内部的な存在者の存在様態の中で特権的なものではなく、世界や現存在を適切に特徴づけるものでもない。

現存在が存在し、存在了解があって初めて、実在的なものの非依存性やそれ自身の存在も与えられる。

それがなければ世界内部的な存在者とそのあり方は理解可能でも理解不可能でもありえない。

存在者ではなく存在そのもの、つまり実在するものではなく実在性そのものが気づかいとしての現存在に依存している。

この点に注意することで、現存在や「意識」「生」を実在性という基礎から分析することが防がれる。

このように現存在が実在性から把握されないことは「人間の実体は実存である*4」という命題によって表現される。

現存在を気づかいとして解釈することで実存論的な分析が終わるのではなく、様々な問題の錯綜が明確になることとなった。

その問題とは以下のようなものだ。

すなわち、存在了解が存在する場合にのみ存在者は存在者として接近可能となり、存在者が現存在という存在の仕方を備えている場合にだけ存在了解は存在者として可能なのである。*5

第四十四節 現存在、開示性、および真理

哲学では古来から真理と存在することが併置されてきた。

例えばパルメニデスは「存在者の存在」と「受け取りながら理解すること」を同一化し、アリストテレスに取って哲学は「真理についての学」であると同時に「存在について考察する学」でもある。

ここでの「真理」は認識論的に主題とされているのではなく、「ことがら」「自分自身を示すもの」として捉えられている。

その場合、存在者もしくは存在として使用される「真理」という語は何を意味しているのだろうか。

この「真理」は現存在、そして存在了解とどのように関わるのだろうか。

また存在了解からなぜ真理が存在を伴うのかが明らかにされるのだろうか。

この探求は伝統的な真理概念の発掘(a)、そこから明らかにされた根源的な真理概念から伝統的なそれが派生的であることの提示(b)、「真理が与えられている」と語ることの存在論的な意味の解明(c)という流れで進んでいく。

a 伝統的な真理概念とその存在論的な基礎

真理概念の伝統的な捉え方は以下の三つのデーゼによって特徴付けられる。

  1. 真理の場所は言明(判断)である。
  2. 真理の本質は判断とその対象との「一致」のうちに存する。
  3. 論理学の父であるアリストテレスは真理をその根源的な場所としての判断に割りあてるとともに、また「一致」としての真理の定義を軌道に乗せた。*6

この真理を一致によって特徴づけようという考え方はカントも言うように空虚であるけれども、それでも一貫されて維持されている以上は何らかの権利を有しているのだろう。

そこでこの一致という「関係」の存在論的な基礎を問うことにしよう。

この判断と対象の一致において非明示的にともに定立されているものは何であり、それはどのような存在論的性質を持っているのだろうか。

「一致」という術語には何かから何かへの関係という形式的な性格がある。

あらゆる一致、「真理」が関係なのであるが、全ての関係が一致なのではない。

例えばしるしは示されたものと関係しているが、一致しているわけではない。

6という数は「16−10」と一致するが、それは数の「どれだけ」という観点において同等だからである。

このように一致には「その観点において」という条件が付随しているのである。

さて、判断とその対象はどのような観点において一致するのだろうか。

判断と対象には同種性がないので同等性は成り立たないが、それでも認識はことがらをそのままに与えるべきではないだろうか。

その場合一致は「そのまま—そのとおり」という性格を持っているが、それはいかにして判断と対象の関係に当てはまるのだろうか。

このような問いから明確になるのは、真理概念は一致などの関係を前提としては解明できないということであり、この関係全体をになう存在連関へと遡って探求しなければならないということである。

認識作用そのものの存在の仕方の解明に必要な分析は、真理という現象を同時に視界に収めるようなものでなければならない。

認識作用において真理が明示的になるのは、認識作用自身が自分を「真なる認識」として「証示」する時である。

この自己証示によって認識作用の真理性が保証されるため、この連関において「一致」の関係が解明されるはずである。

例えば壁を背にしながら「壁にかかっている絵が曲がっている」と言明したとしよう。

この言明(判断)はその人が振り返って絵を知覚したときに証示されるが、そのとき証示されているものは何なのだろうか。

知覚することは表象することではなくて、存在する事物そのものへと関わる存在様式である。

ゆえに知覚することで証示されるのは、言明されたものが表象ではなく存在者そのものであること、そして言明する存在者(現存在)が言明された存在者を「覆いをとって発見する」ということである。

このとき認識作用は存在者そのものに関連付けられ、言明されたものは自分自身に即して自分を示す。

証示されているのは認識作用と対象の一致や意識内容の一致ではなく、存在者そのものが発見されていることであり、その存在者そのものなのである。

この証示が確証されるのは存在者が自分と等しいあり方において自分を示す時だ。

このことは認識作用が存在者そのものへと関わる「覆いをとって発見する存在」の一つである時のみ可能である。

言明が真であること(真理)とは、覆いをとって発見しつつあることと解されなければならない。*7

このことはまた、世界内存在に基づいてのみ可能となる。

真理の根源的現象であるこの世界内存在という現存在の根本体制が追求されるべきである。

b 真理の根源的現象、ならびに伝統的真理概念が派生的であるということ

このような「真理」の定義は恣意的なものではなく伝統に根ざしたものである。

ギリシャ語の語源を見ても「真理」すなわち「アレーテイア(ἀλήθεια)」は「ἀ(否定辞)—λήθεια(隠されている、忘れられている)」、つまり「隠されていないあり方」なのである。

覆いをとって発見することとして真であるとは現存在の様態だが、さらにその基礎を問うことによって真理の根源的な現象が示されるだろう。

気づかいによって覆いをとって発見される存在者は二次的に「真」であり、一次的に「真」であるのは発見する現存在である。

なぜなら存在者の発見されたあり方は世界や現存在の開示性にその根拠を持っているからである。

「自分に先立って何らかの世界のうちですでに存在している」という気づかいの構造自体が開示性を自らのうちに持っているのであった。

この開示性によって存在者は発見され、「真理のもっとも根源的な現象」が可能となる。

現存在が開示性であり、また開示するために現存在は本質からして「真」であり、それゆえに「現存在は「真理の内で」存在している*8」のである。

このことは以下のような規定によって表現される。

  1. 現存在の存在体制には気づかいという現象によってあらわになる、(世界内部的な存在者も含めた)存在構造の全体を包括する開示性一般が属している。
  2. 現存在の存在体制には開示性の構成要素として「被投性」が属している。
  3. 現存在の存在体制には「投企」が属しているため、自身の存在可能を開示していく。*9
  4. 現存在の存在体制には「頽落」が属している。だから存在者は覆いをとって発見されているけれども、空談、好奇心、あいまいさによって「すり替え」られている。

第四の規定に関してはさらに、

現存在はその本質からして頽落するものであるがゆえに、その存在体制の面から言えば「非真理」のうちで存在している。*10

現存在は真理のうちに存在していると同時に、非真理のうちで存在している。

現存在や存在者が開示されているからこそ、それらは隠されたりすり替えられたりすることが可能なのだ。

したがって現存在はすでに発見されたものについても隠蔽やすり替えに対抗して繰り返し確認しなければならない。

その探求は隠されたあり方から出発するのではなく、見せかけという様態で発見されたものから出発する。

存在者は何らかの様式ですでに覆いをとって発見されていながら、それでもなおすり替えられているのだ。*11

だから真理は常に隠されたあり方から戦いとられなければならない。

世界内存在は「真理」と「非真理」によって規定されているが、その条件は被投的投企という存在体制のうちにある。

以上のことは「一致」としての真理が開示性に由来していながら変容していることと、開示性は真理の構造の解明を導いていくということが示されたとき完全に見とおされる。

現存在の開示性には「語り」が属していて、現存在は覆いをとって発見する自分を言表する。

そのように言表する言明は発見される存在者についてのものである。

言明は存在者がどのように発見されたかを伝達し、さらに伝達された現存在は話題となっている存在者に関わる存在として発見される、

存在者の発見されたあり方は言明において保存されていて、それは存在者への連関を持つ手もとにあるものとしてのあり方である。

覆いをとって発見されたあり方は、語られたり聞き伝えられることで把握される。

言明のうちで発見された存在者がそのあり方について明示的に把握されるべきであるなら、それは言明が覆いをとって発見するものとして証示されるべきであるということである。

言明は存在者の手もとにあるあり方を保存するものだから、それは言明が存在者へと関連することを証示することを意味する。

またこの言明はそれ自身が手もとにあるものとして、「〜(存在者)についての覆いをとって発見されたあり方」を持っている。

しかしこの言明と存在者の連関が目の前にあるものの間の関係に切り替わることで、それら(判断と対象)同時の適合性(「一致」)という真理概念を導き出してしまうのである。*12

以上で伝統的な真理概念が派生的なものであることが示された。

一般に考えられるように言明は真理の第一の場所なのではなくて、覆いをとって発見されたあり方を把握する現存在の様態である。

そしてそれは現存在の開示性に基づいているから、その開示性こそが最も根源的な真理である。

だから真理はひとつの実存カテゴリーなのだ。

c 真理が存在するしかたと、真理の前提

開示性は現存在が存在するときのみ発生するから、以下のことが帰結する。

真理が「与えられている」のは、ただ現存在が存在しているかぎりにおいてであり、またそのあいだのみである。*13

このことは、例えばニュートンの諸法則が発見される以前は偽であったということを意味するのではない。

そのような諸法則は発見される以前には真でも偽でもなかったのである。

法則の発見によって、その法則とともに存在者は接近可能となる。

そして覆いをとって発見された存在者はそれ以前にも既に存在していたものとして自分を示す。

そのようにして発見することが真理が存在するしかたなのである。

以上から真理は現存在に相対的であることになるが、それは真理が「主観的」であることを意味しているのではない。

なぜなら覆いをとって発見することは恣意的なものでなく、現存在は存在者そのものと出会うからである。

存在者が自身に即して発見されるからこそ「普遍妥当性」が確保される。


このようにして真理の存在の仕方が解明されたが、ここでさらに真理を前提することの意味も把握される。

私たちは真理を前提するのは私たち現存在が「真理のうちに」存在しているからなのである*14

このことからわかるのは、私たちが真理を前提しているのではなく、真理が「私たちが何かを前提して存在すること」を可能にするということだ。

つまり真理は「前提」というものを可能にする条件なのである。

前提することは、あるものを他の存在者の存在の根拠として理解することであり、このような存在の連関は開示性に基づいてのみ可能である。

このとき真理を前提にすることは現存在の存在の根拠として真理を理解するということである。

また現存在は世界に投げ込まれたものとして常に自分に先行している。

このように存在が先行していることが最も根源的な「前提すること」なのである。

現存在の存在体制に「前提すること」が属しているから、現存在は自分を開示性(真理)によって規定されているものとして前提しなければならない。

このことは現存在の被投性に基づいているが、それゆえにこそどのような存在者が発見されるべきで、なぜ真理と現存在が存在しなければならないのかは見通されないままである。

存在が与えられるのは真理(開示性)が存在する限りであり、反対に真理が与えられるのは現存在が存在するあいだのみである。

それゆえに真理と存在は等根源的なものなのだ。

存在と時間』第一篇における分析においては「存在の意味」への問いは未だに答えられていない。

次に問題となるのは全体としての(als Ganzes)現存在である。

コメント

第四十三節は「実在性」というものが問題となった。

哲学の伝統において認識論的な問題が意識されるにつれて「外界の実在」というものが疑問視されるようになる。

経験において与えられているものは幻覚かもしれず、そこでは実在性は保証されない。

ハイデガーが批判するのはこのような問題の立て方そのものである。

そこでは認識する「主観」と認識される「客観」の二項対立が前提されているが、ハイデガー存在論的に見てそのようなあり方は適切ではない。

現存在はまず第一に「気づかい」として、気づかわれる対象の元で存在しているから、そのような二項対立は事後的なものに過ぎないのである。

つまり主観と客観の存在は同じものであり、「私」は実在しているが「世界」は実在していないという事態はありえない。


次に第四十四節では「真理」というものが問題となった。

伝統的には真理は例えば信念と事実の適切な対応といった「一致」のことを指すものと考えられてきた。

それに対してハイデガーにとっての真理は現存在が存在することと等しく根源的な「開示性」そのものなのだ。

なぜなら「一致」というのは発見された存在者を「言明」によって把握する際に起こる真理の副次的な捉え方だからである。

この「開示性」というのがどのようなものか少し補足したい。

私が例えば目の前のラップトップのキーボードを見るとき、そこで「見る私」、「見られるキーボード」という二項の対立をなくすとどうなるだろうか。

そこにあるのはキーボード自身が「現われてくること」だけなのである。

このようにして現れることが開示であり、同時に「気づかい」としてキーボードの元で存在しているということでもある。

だから「存在と真理は等根源的」なのだ。


第四十三節〜第四十四節で興味深かったのはやはりハイデガーが認識論という問題系に切り込んできたことだ。

ここでは第一篇で用意した手札(「気づかい」「被投的投企」「頽落」など)を用いて既存の伝統的哲学を批判している。

気づかいという現存在、世界の捉え方が根本的なものであったのに対応してここでの批判も哲学の伝統を根本から問い直すものであった。

疑問点としてあるのは、ハイデガーの真理観では例えばニュートン物理学から相対性理論へのパラダイムシフトといった現象はどう説明されるのかという点である。

真理が存在者をそのままに開示することならば、一度発見されたそのあり方が覆るということが可能なのだろうか。

それともそれらの理論は単に空談などによってすり替えられる可能性のある「言明」であって、科学理論は開示性そのものへは到達していないのだろうか。

これらの点はもう少し吟味しながら再読する必要があるだろう。


第三分冊の記事は以下
re-venant.hatenablog.com

*1:1.1.6.43.586 p424,425

*2:ibid

*3:1.1.6.43b.610 p459

*4:1.1.6.43c.617 p466

*5:1.1.6.43c.617 p467

*6:1.1.6.44a.623 p474

*7:1.1.6.44a.636 p493

*8:1.1.6.44b.644 p501

*9:「現存在の最も固有な存在可能」について言及されているが、後の話となるだろうし省略する。ただしその話が出てきたら参照すること。

*10:1.1.6.44b.649 p505

*11:1.1.6.44b.650 p507

*12:「言明」において目の前にあるものの連関が問題となる次第は第三十三節参照。 re-venant.hatenablog.com

*13:1.1.6.44c.666 p524

*14:証明はそれ以上遡れない仮定から出発する。それを「真理」だと前提することで初めて学問が可能であるということを意識しているのだろう。 ミュンヒハウゼンのトリレンマ - Wikipedia