Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第2章
この記事ではDennettの"Elbow Room"第2章「理性を実践的にする(Making Reason Practical)」の本文要約とコメントを書いていく。
第1章については以下の記事に書いている。
本文要約
⒉ 理性を実践的にする(Making Reason Practical)
1 理由はどこから来たのか?(Where Do Reasons Come From?)
一般的に言われるところでは、意志の自由とは意志が理性の指導(dictates of reason)に全面的に従うことであるという。
カントはこの主張を彼の哲学の中心に据えた。
この章ではその見解の魅力の強さを再吟味し、私たちが現実的にそのような合理性にどう引き込まれるのかを示そうと思う。
どのようにして理性は物質的、機械的な世界に生まれてくるのだろうか?
始まりにおいては原因だけがあり、理性も、目的も、機能も存在しなかった。
それは何者も「関心(interests)」を持っていなかったからである。
複製子(replicator)*1が生まれると、私たちはそれらに「自己複製」という関心を認めることができる。
そして関心を持った自己複製子は生存し自己を複製するために「悪い」ものを避け「良い」ものを探すようになる。
自己複製子は自己の関心を守る未熟な守護者となるのである。
そして進化によってその「関心」はより明確になっていく。
アナバチが上手く自分の関心を達成できないのは、関心を持っていてもそれを知ってはいないからだ。
生き物が関心を持つようになると出来事は好ましいもの、好ましくないもの、中立なものに切り分けられ、世界とその出来事はそれに対する「理由(reason)」を生み出す。
最初に生まれたこの理由(理性)はプラトンの形相、純粋に抽象的な存在に似ている。
というのもそれは認識されていたり表象されているかにかかわらず存在しているからだ。
アナバチなどの低級の動物は自分の行為の理由に気づかないが、それはCIAやMI5がいうところの「必知事項(Need to Know)」原則における情報統制に似たところがある。
「必知事項」原則とはそれぞれの人間に自分の役割を果たすのに必要な情報しか与えないという原則のことだ。
母なる自然はそれと同じように理解力の配分において出し惜しみをしているのである。
しかし私たちはそれに反して私たちに関わるすべての理由に気付くことができる。
常に理性の指示に従って自らの行為の方向を選択することができるというのはこういうことなのだろう。
カントは単に理性が指示するすることを行うことと「理性が指示したから」理性が指示することを行うことを区別した。
それは偶然「正しいこと」をするのと理性に駆り立てられてそれを行うことの区別である。
その両者の中間に、行為者がそのようにデザインされたことで正しい行いをする傾向にある(tend to do)が、無意識にそれを行うという場合がある。
以前例に出したアナバチがその例で、アナバチは理性が指示することを行うがそれは理性が指示したからなのではなく、そのようにデザインされているからなのだ。
より発展しているであろう生き物である私たちはどのようにして理性に直接応じることができるのであろうか?
カントの問いを言い換えれば、どのようにして真の合理性は可能となるのだろうか?
2 意味論機関、永久機関、欠陥のある直観ポンプ(Semantic Engines, Perpetual Motion Machines, and a Defective Intuition Pump)
どの反二元論的な連続主義者も「盲目的な」で「機械的な」行為と人間の理性に従い、意味を「掴み(grasp)」、真の「志向性(intentionality)」を持つ能力の間の橋渡しをしていないようだ。
意味が物理的な性質でないなら、どのようにして物理的な機構によって意味を扱うことができるのだろうか?
もしそれが不可能なら私たちは単なる物理的な識別機関ではないということになる。
そして理性もまた物理的な条件ではないから、どの私の行為もが物理的な条件によって引き起こされるならそれは理性によって引き起こされたものではない。
だから理性的でありたいという願いのためには、精神活動が物理的な因果性から解放されていなければならない。
カントは「意志を持つことは自然の原因ではなく理性に動かされることができるということを意味する」と言っている。
しかし精神、意志についてのこの見解は心身二元論の袋小路に行き着く*2。
脳の純粋に物理的な能力によって精神活動を説明できるようになったならば、私たちは心身二元論を論破しなければならない。
脳とはなんなのだろうか?
脳は意味を操るもの、情報を処理するもの、そして私の言うところでは意味論機関(semantic engines)*3なのだ。
しかし同時に脳は物理的な器官でもあり、それならば構造的で形式的な性質にしか反応しない構文論機関(syntactic engines)でしかないはずだ。
命題の意味と構文は別のものであるのに、脳はどのようにして構文から意味を得てくるのだろうか?
構文論機関でも憎しみや愛、危険や懐疑論が現れていることを感知することはできるだろう。
しかし機械的に感知されうる構造の連関のどんな性質でも憎しみや愛、危険や懐疑論そのものであることは不可能なように思われる。
意味論機関は永久機関のように不可能なものなのだ!
それならば脳はなんのためにあるのか?
答えは次のようになるに違いない。
すなわち脳は(純粋な)意味論機関の振る舞いの近似に過ぎないのである。
しかし私たちの脳は意味論機関の非常に良い代替であり、それらはあいまいに意味上の変化を感じ取り実際上アナバチ性に脅かされることがないよう巧妙に設計されている。
さらに生物が、アナバチのように環境のパターンを感知するだけでなく、それに対する自己の反応のパターンを感知できるようになると彼らは大きな前進を遂げる。
ある生物は、メタ言語(meta-language)の言明を生み出すことで言語によってそのパターンを構文論的にも意味論的にも記述した*4。
進化の過程の中で、脳というシステムの中に実際に意味に直接反応しているかのような錯覚が生み出されるに至ったのである*5。
そのシステムは自己改良ができるのでどんどん完全な意味論機械に近づいていく。
しかし自分自身を完全に把握できるシステムは存在しない。
計算機理論における「停止性問題(halting problem)*6」が解決法を持たないことがその証拠である。
私たちは完全でないので少しだけアナバチ的であり、「原理上は」私たちが理性的でないことを示すような馬鹿げた状況に置かれうる。
だからといって衝撃を受けたり落胆することはありえないだろう。
誰が物理的な有限性と計算機理論によって私たちが完全な意味抽出機関であると証明されることを必要とするのだろうか?
哲学者たちはアナバチと私たちは全くの別物で、単に何かをすることと理性に従って何かをすることを対比させてきた。
脳内の因果性は「心理学的」と呼ばれ、その語が自由意志を妨げる「心理学的な決定要因(phychological determinants)」といったように使われる時、その用法はアメリカの子供達が使う「精神病の(mental)」という用法と同じように病的なニュアンスを想像させる。
哲学者たちは時折、行為や決断がある原因によって引き起こされたことからそれが(良い)理由からも引き起こされたものであることが帰結しないという事実を利用する。
しかしながら「全てを知ることは全てを許すことだ(tout comprendre c'est tout pardonner)*7」という格言はこれが間違いだと示している。
これは本当なのだろうか?
私たちが一目で理解出来る因果系列はあまりにも単純なので、因果を理解すること*8で理性的な価値判断と責任の割り当てが排除されるという直観を持つようになってしまう。
これは明白な直観ポンプの誤用の事例である。
私たちが因果律についてアナロジーによって考える時に想定するのは試験管やヒュームが使ったような球だが、それらは高等な動物と違って耳が聞こえないし目も見えないということを見落としがちだ。
実際上、一瞬一瞬周囲のほぼ全てを感じ取り続けている人間が別の場合に全く同じ「認知的状況」に置かれることは不可能である。
3 反省、言語、意識(Reflection, Language, and Consciousness)
私たちが擬似的な意味論機関であるとしても絶対論者たちからするとそれはただの模倣で本当のものではない。
我々が本当のものであると主張するためのどんな理由を人は持ちうるのだろうか?
もし私たちが非常に良い擬似物であるなら、どんな経験的リトマス試験も混同してしまうだろう。
先にアナバチと私たちの違いを述べた際に、意識と無意識の間の断裂をうっかり踏み越えてしまったのではないか?
ここまでで述べられてきた認識や理解は単に「振る舞い上の理解(behavioral comprehension)」とでも呼べるものに過ぎず、これは人間が持つ真の意識的な理解とは別のもののように思われる。
しかし、意識のどんな性質が振る舞い上の理解に付け加わるのか明白ではない。
この明らかな質的な違いは、極端な例に気を取られそれらの間の複雑な違いを無視することで生じたもう一つの幻想ではないだろうか?
意識についての探求において哲学者たちは内観的な方法を採用してきたが、生物学者や計算機科学者は純粋に工学的な、三人称的な方法を取ってきた。
ロックはメタレベルでの意識活動の重要性を知っていて、大切なのは対象についての思考ではなく対象を願っていることについての思考なのだと述べている。
私たちは自身の信念について考えることができるし、それらが望ましいものかどうか考えることもできるのだ。
この反省、メタ思考は意識的な思考なのか、それとも単なる振る舞い上の「思考」、例えば計算機でも遂行できる「情報処理」でありうるのだろうか?
直観的に、動機を意識的に認識する能力は真の自由の必要条件であるように見える。
無意識的な自己意識は可能だろうか?
単なる振る舞い上の擬似理解が意識的な理解や真の指向性に付け加わることはないという人もいるだろう。
しかし私を含めた他の人々は「真の意識」や「本当の指向性」は到達しうる物理的なプロセスの頂上にあるに違いないと考えている。
私自身の直観ポンプを使ってこの見方をより魅力的にしてみたいと思う。
大雑把に言って、進化の戦略には「マジノ線*9」と「ゲリラ戦」の二種類があり、ゲリラ戦略を採用した生物は認識の軍拡競争を繰り広げる。
不完全であっても自身の認識的、意志的状況を「評価」できることは大きな違いを生む。
自由意志について論じたものの中でよく用いられる思考実験では、被験者はその状況を操作するものについての認識を封じられている。
もし被験者が自分を騙している者に気づいたなら、幻想が続いていてもそれを無視することを学んだり、幻想そのものを経験できなくなったりすることでその偽装を打ち消してしまう。
さらに被験者が自分の信念や願望の出自や一貫性について反省する習慣を持つようになると、そのような偽装はほとんど不可能となってしまうのである。
しかし、このような自己観察や自己批判の能力はどのようにして発展するのだろうか?
その詳細は科学の発展を待つとして、ここではもっともらしい「ただそれだけの物語(Just So Story)*10」があれば十分だろう。
ある時、周囲の状況を完全に感知することができるが無意識的な生き物がいた。
その生活はとても複雑なので、「知る必要(Need to Know)」原則を適応すると彼らは自身の活動についても多くを知っている必要がある。
特に種の他のメンバーと協調するために「コミュニケーション」の能力が必要となる。
そして彼らはそのコミュニケーション相手を、双方が何を知っていて何を信じていて何を望んでいるかに基づいて、場合に応じて区別することでより良い結果が得られることに気づく。
さらに相互の助け合いのために、ある個体が助けを求められた時に「役立つ」発言を返す振る舞い上の能力が進化してくるだろう。
ある日、彼らの一個体が自分以外誰もいない場所で誤って助けを求めると、他者の要求に反応する能力が刺激されて、自身が直面する問いに対する答えを見つけ出したのである。
この自己刺激は直接結線されていない認知システムの部分同士の不完全な内的コミュニケーションである。
さて、この「ただそれだけの物語」において生き物は自分自身に対して話しかける習慣を得た。
特に小声の独り言という効果的なショートカットはのちに完全に無言の独り言へと繋がっていった。
こうして様々な無言で私的な独り言という振る舞いが相互に有益なコミュニケーションが発生している社会において進化してきた。
この認識プロセスは社会的なコミュニケーションのように直列的(一度に一つのことしかできない)で社会的な慣習を構成する公的な言葉に依存している。
さて、この単に振る舞い上の活動は意識と呼べるものなのだろうか?
見かけ上この内的な情報処理活動と私たちが考える意識はほとんど見分けがつかない。
私の直観ポンプがうまく動作しているなら、あなたはこの生き物が意識的であると判断したい誘惑に駆られているだろう。
しかしあなたの直感がこの想像された生き物がまだ意識的でないというなら、Strawsonの精神分析家の例を考えてみるとよい。
精神分析の施術者は被験者に彼の行動の意識的な意図について知らせることで被験者の自由を取り戻した。
私たちが今想像した生き物は言語的で反省的な情報操作ができるようになると、被験者と同じように確信し理性的な自己評価ができる。
また理性を表象した時にそれに適切に反応することができる。
これは自由が意識へと達するかどうかがかかっているポイントではなかっただろうか?
4 共同体、コミュニケーション、超越(Community, Communication, and Transcendence)
アナバチとカントが理性的なものとして考えた私たちの間には、自己観察や自己評価以外にもう一つ重要なステップがある。
言語によるコミュニケーションの発生によってもう一つのいかにもな物語、「道徳の起源」が得られるのだ。
ホッブスによるとかつては正しさも間違いもなく、万人の万人に対する闘争が行われていた。
あるとき人々は契約して社会を作り始め、そこで道徳的な正しさと間違いそのものが存在するようになった。
自己複製子の誕生が初めて行為の理由を生み出したのと同じように、この契約によって行為の新しい理由が生まれた。
ホッブスのいかにもな物語は歴史的には間違っていて、社会秩序や言語、意識、道徳の誕生を単純化しすぎている。
しかしこの物語は社会的なコミュニケーションが考慮に値する新しい理由を生み出すことを可能にするということを示してくれる。
理由を表象することによって私たちは、認知システムが遺伝的にコントロールされていない目標を得ることで「自分たちの生物学を超越」することができる。
そして私たち相互の社会的活動こそが、祖先から受け継いだ未熟な関心に優先する価値を作り出すのである。
私たちは他人を説得するだけでなくそれを道徳規定や原理に体系化して、これらの道徳を倫理学的な諸理論に反映させる。
そして「メタ倫理学」を始めてそこでアナバチ性からの自由という問題に対する影響を考え続ける。
しかし、メタ倫理学において価値そのものの価値というものをどのように考えることができるのか?
悲観的な者は、決定論がストローソンが他者や自己に対する「参加者態度」と呼ぶものを損なう恐れがあると主張する。
しかしそれは実践的には想像できない。
私たちがアナバチにとってそうであるような「上位の」観察者が存在するか、存在することができるように考えられても、私たちがたどりついた結論は必ずしも自分たちを貶め困惑させるものではない。
なぜなら想像できないものは不可能なものであり、この上位者を想像することは不可能性を考えることができないということから帰結させる伝統的な推論に反するからである。
自然が私たちに与えた理性は実践的なものだが、それを生み出す生物学的な目的に奉仕することに結びつけられてもいる。
ここまでで見てきたように、理性の特に強力な部分は私たちの言語能力によって生み出された。
一度言語が生まれると、噂話、なぞなぞ、詩、哲学といった生物学的には取りに足らず見当違いな試みが生じる余地ができる。
私たちは進化がどのように理性を実践的にするのかを見る中で、進化がどのようにして非実践的な理性を生み出すのかを見たのである。
我々は自身が物理的な存在であるということと理性的であるということのどちらについても信じるに足る理由をたくさん持っているのだから、必要なのはどのようにしてそうなったのかを理解することである。
完全にカント的な意志は不可能だが、だからと言ってアナバチの苦境に立たされるわけではない。
もしそれで十分でなく自由意志と責任のためにアナバチ性からの完全な自由が要求されるなら、私たちは科学的知見をすべて捨て去るか、敗北を認めなければならない。
コメント
私が思うに、自由意志の問題というのは「理由をもって自由に行為すること」を目標にしている。
理由なしの自由な行為はランダムなものに過ぎず、物理的な理由だけに従うならその行為は機械的である。
これを解決するためには「理由」を物理的な性質とみなさず二元論的に考える必要が出てくる。
それに対してデネットは(二元論が大嫌いなので)唯物論の枠内で「理由をもって自由に行為すること」を可能にしようとしているのだろう。
その方法が脳を擬似的な意味論機関とみなすというもので、それについては2章の2節で説明されている。
擬似的な意味論機関とは見かけ上は二元論(意味論)的に振る舞うことができるがそれを実現するメカニズムは唯物論(構文論)的であるということであり、対立する立場をうまく折衷しているように思う。
ただ、何と言っても究極的な観点からは唯物論であるので二元論を信奉する人々からは反対意見もあるだろう。
しかしながらそのあとで述べられる「全てを知ることは全てを許すことだ」ということわざの間違いという論点を見ると、唯物論的に考えることによって二元論者が考えるように何かが失われるということもないのだろう。
というよりそもそもすべての因果系列を把握することが実際上不可能なのだから、見かけ上意味論的に振る舞えるということで納得する他にないように思う*11。
2章1節での、自己複製子の誕生と同時に「関心」が生まれたという論点はデネット『解明される意識』第2部第7章でも述べられている。
また2章3節でのコミュニケーションによって反省的意識が生まれるという論点は、同じく『解明される意識』第2部第7章でも展開されている。
この辺りについては以下の記事にまとめてある。
re-venant.hatenablog.com
英語の原書に徒手空拳で挑むよりはある程度論点を知っておいたほうが読みやすかったと思うので、『解明される意識』を読んでおいてよかった。
以降の章については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
*1:ドーキンス以降の進化論において頻出する「自己複製子」のことで、ここでは遺伝子の祖先のことを言っている。
*2:「心身二元論の袋小路」とは心と身体に別のプロパティを設定すると両者の関わりが不可能になる問題のことだろう。『解明される意識』第一部第2章で詳しく説明されている。 re-venant.hatenablog.com
*3:のちに出てくる「構文論機関(semantic engines)」と合わせて、論理学における意味論(semantics)と構文論(syntactics)に対応しているものと思われる。意味論は真理値などの命題の意味を扱い、構文論は推論の形式などを扱う。
*4:メタ言語による言明とは第4章で登場する自己評価のことだろう。 re-venant.hatenablog.com
*5:利用者錯覚(ユーザーインターフェース)としての意識という見方が『解明される意識』第10章で登場している。 re-venant.hatenablog.com
*6:ここでのデネットの説明によれば「どんなプログラムでも監視でき、またそれが無限ループを含むかどうかを決定できるプログラムは存在しない」という問題であるらしい。 停止性問題 - Wikipedia
*7:フランス語のことわざらしい。英語なら"to understand all is to forgive all"。
*8:心理学のこと?
*10:Just-so story - Wikipedia 証明も反証もできない説明のこと。進化論における説明について言われる蔑称でもあるらしい。
Daniel C. Dennett "Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting" 第1章
Daniel C. Dennettの"Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting"(new edition)の第1章「お化けを育てないで(Please Don't Feed the Bugbears)」を読んだので、本文の内容の要約を書いていく。
本書では哲学史上で古くから争点となっている「自由意志」についてのデネットの見解が展開されている。
『解明される意識』や『ダーウィンの危険な思想』と違って和訳が出ていないので、日本語で論点を確認したい人にも役立つかもしれない。
本文要約
⒈ お化けを育てないで(Please Don't Feed the Bugbears)
1 終わらない、しかし魅力的な問題(The Perennial, Gripping Problem)
「運命」という概念は哲学自身より古い。
私たちは運命に従ってではなく自分で行為を選択していくのだということを証明するのは非常に重要なことだと考えられてきた。
物理的因果的なプロセスが私たちの行為を決定しているのではないか、という問題("determinisim"「決定論」)には古代ギリシャ哲学においてもすでに焦点が当たっている。
エピクロス派の人々は原子が「ランダムな逸脱」をするという説明によって決定論から逃れようとした。
しかしランダムな逸脱をするからといって私たちが欲している自由意志が可能となるわけではない。
なぜなら私たちの行為は原子のランダムな動きによって規定されて、行為の理由を持ち得ないからである。
行為に理由がなく盲目的であることは決定論よりも望ましくない。
ゆえに自由意志と決定論の別の融和(このような考え方は"reconciliationism"「融和主義」や"compatibilism"「両立主義」と呼ばれる)を目指さなければならない。
例えばストア派の人々は、ある種の自由は人が環境に応じて自分の欲望を制限すること(アパテイア)において見出されると考えた。
彼らによると私たちのそれぞれは人生の悲劇の役をアドリブの余地なく割り当てられている。
運命に抗ったところでそちらに引きずられていくが、そのことによってある種の自由が得られるのである。
このようにして哲学者は二千年以上自由意志の問題に取り組んできたが、それでもほとんど進歩が得られていないことを恥じるべきだろう。
哲学の困難は科学と芸術の両方が望むものを目指し、両方の方法論を用いなければならない点にある。
「私たちは自由意志を持っているのか?」というのは無視できない哲学的な問いだが、これをどのような方法で解決すればいいのかについては意見の一致を見ていない。
本書では科学を深刻に受け止め、一方で芸術の方法論により近い戦略を採用する。
その戦略とは製図家のように正しい線を一気に引くのではなく、彫刻家のように石を少しずつ削り出すことで正しい線を描いていく方法である。
この本で主に行われるのは哲学者たちが注意を払わず通り過ぎてしまう部分の形を素描することだ。
他の点に関しては哲学に無関心な人々も自由意志の問題には関心を持つが、それはなぜだろうか?
それはこの問題が宇宙における私たちの立ち位置についての問いに深く関連しているからだ。
哲学者たちは様々なお化け(bagbears)*1が存在するかどうかという点が自由意志ついての問題であるかのように見せかけて(思い込んで)きたが、これがこの問題における進歩を遅らせているのである。
そして自由意志は西洋世界でしか問題となっていないことから、それが本当に重大な問題なのかという点にも疑問が残る。
もし自由意志が問題となるとして、私たちは自由意志を持たないことを恐れるが、本当は何を恐れているのだろうか?
人が自由意志を持たないという展望を恐れる人は、その恐ろしい状況がどんなものなのか感づいていなければならない。
その状況とは「監獄に閉じ込められている」「催眠状態にある」「麻痺させられている」「人形である」といったように表現されてきた。
これらのアナロジーは単に便利なだけの説明であり、私はこれが自由意志の問題を困難にしている原因だと考えている。
このように捉えられた「古典的」、「伝統的」な自由意志の問題は、認識されている以上に哲学者たちが採用してきた方法論の産物なのだ。
さて、以下では「自由意志問題」を作り出すこれらの「お化け(bagbears)」の役割を解明し、それらのうちいくつかを解消していく。
2 小鬼(The Bogeymen)
最初のお化けは小鬼(Bogeymen)*2で、それらは私たちに代わって私たちの体をコントロールする「行為者(agent)」だと考えられている。
- 不可視の看守(The Invisible Jailer)
あなたは本当に監獄の中にいないと言い切れるだろうか?
例えば見えない看守が窓の縦仕切りに鉄の棒を隠し、壁に偽のドアを据え付けているとしたらどうだろうか?
私たちは望む望まないに関わらず何らかの範囲のうちで生活しているが、そのことが問題なのではなく、私たちの生活の様式が不可視の看守によって制限されていることが問題なのである。
- 邪悪な脳外科手術(The Nefarious Neurosurgeon)
あなたが眠っている間に誰かがあなたの脳に電極を刺してあなたを操っているとしたらどうだろうか?
この「邪悪な脳外科手術」の思考実験のバリエーションとして「恐ろしい催眠術士(the Hideous Hypnotist)」や「横柄な傀儡士(the Peremptory Puppeteer)」がある。
私たちが催眠術で操られていたり、傀儡士によって意思に反して動かされたりしているということも考えられるのだ。
- 宇宙子供の人形(The Cosmic Child Whose Dolls We Are)
私たちは何らかの外的な力に操られる玩具であり、自由意志を持って行動しているわけではないとも考えられる。
- 悪意ある読心術者(The Malevolent Mindreader)
この行為者はあなたの行動を引き起こしたり操作したりはしないが、あなたの行動を先読みして妨げる。
これらの小鬼(Bogeymen)が一つも存在しないと証明することはできないが、これらが存在すると信じるに足る証拠はないと示すつもりである。
3 アナバチ性とその他の心配(Sphexishness and Other Worries)
もし決定論が正しいなら私たちの意思決定のプロセスには「機械的」なものがなければならない。
私たちが自由な行為者ではなく、例えばアナバチの一種Sphex ichneumoneus*3といった昆虫のような自由意志を持たないオートマトンであるということである。
Sphex ichneumoneusは卵から孵化した子供の餌のためコオロギを麻痺させて巣穴に置いておくが、そのコオロギが動かされるとそれを穴の入り口まで運んで穴の中に入れることはない。
これはコオロギを何度動かしても同じ結果となり、Sphex ichneumoneusは目的を果たすことができない。
Douglas Hofstadterはその著書"Can Creativity be Mechanized?"でこのように機械的に行動することアナバチ性(Sphexishness)と呼んでいる。
私たちはアナバチより賢いが、だからと言って私たちの行為が(アナバチと違って)自動的でないとは言い切れない。
ここで本書で吟味される哲学者の想像の過度な単純化の危険性について言及しようと思う。
それはすなわち私が「直観ポンプ(intuition pump)」と呼ぶ思考実験のことだ。
直観ポンプは前提から帰結を導く論証ではなく、読者に「重要な」特徴に目を向けさせて直観を汲み出すだけのものである。
私たちがアナバチ性が恐ろしいものだと感じるのはその行動が自動的に引き起こされるからではなく、「単純に」引き起こされるからではないだろうか?
もしそうなら行為の原因の複雑さに違いのあるアナバチと私たちの間には差異があり、人間にアナバチ性の問題は起こらなくなる。
しかし正気でない人、発達の遅れた人や脳にダメージを受けた人はアナバチ的である例ではないだろうか。
この点は第2章で主題となる。
アナバチの例に潜むもう一つの問題は「消失する自己(The Dissappearing Self)」である。
ハチやアリは自分が何をしているか理解することはないし、理解する自己も存在していない。
これが「消失する自己」という恐怖である。
私たちは自己を見つけることができるのだろうか?
それとも科学によって自己は幻想であると示されてしまうのだろうか?
「恐ろしい秘密(The Dread Secret)」:科学はパンドラの箱を開けて自己や自由がないという恐ろしい秘密を開示し、私たちを無気力にさせてしまうように思われる。
決定論が正しいなら精神的活動や決断は、ゴルファーがスイングの後に球の軌跡を変えようとして身をよじること(body English)と同じく無意味なのではないだろうか。
この点については5章と7章で詳しく検討するつもりである。
伝統的な哲学においては自由意志を持つことは「別様にも行動できたこと」であるということが「明白な」前提として扱われている。
すると興味深くも「物理的に同じ状態において別の行動を取ることができる」ということが望まれる様になる。
しかしこの前提はなぜか疑われることはなかった。
4 概観(Overview)
直観ポンプは自由意志についての議論だけでなく様々な場所で威力を発揮している。
プラトンの洞窟、メノンが奴隷の少年に幾何学を教えたこと、デカルトの悪霊、ホッブスの自然状態、クワインの「ガヴァガイ」の翻訳、グッドマンのグルーのパラドックス*4、ロールズの原初状態*5、ファーレルの「コウモリであるとはどのようなことか?」という問い、パトナムの双子地球説、サールの中国語部屋などが直観ポンプの例である。
直観ポンプは強力であり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」は広く受け入れられてきた。
直観ポンプが哲学において主要な役割を占めていることは哲学が科学ではないことを示しているし、そのことによって哲学は科学と共存しうるのである。
哲学の目的とは思考の悪習慣を打破することであり、その際に直観ポンプは理想的なツールたりうる。
その使命のためには、厳密な論証は直観をチェックする保険のようなものに過ぎない。
以下の章では自由意志の問題がこの章で素描された不安の仲間であると主張していく。
私の方法はそれらと、それらを肥大化するアナロジーや直観ポンプを調べて、実際には何が問題なのかを見て取ることだ。
第2章では理性的動物としての私たちの生物学的状態についての問いを扱い、アナバチ性の恐怖の根源を探る。
第3章では「自己制御」について検討する。
そこでの主要な問いは「あるものはどのようにして他のものを制御するのか?」もしくは「どのようなものが制御者たりうるのか?」ということである。
第4章では「自己」「行為者」という概念を主に扱う。
第5章ではカントの私たちは「自由の観念の元で行為」しなければならないという主張を検討する。
第6章では「できる(can)」「別様にできた(could have done otherwise)」ということの意味を研究する。
第7章では私たちはなぜ自由意志を求めるのかを問う。
私の結論は中庸なもので、革新的なものでも悲観的なものでもない。
私たちは自由意志を持っているし、それは科学と両立しうるのである。
以降の章については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
re-venant.hatenablog.com
*1:"bugbear"は「お化け」。ここでは過度に決定論を恐れる人たちの恐怖の対象を戯画化したものとして用いられている。
*2:プログレッシブ英和中辞典では「悪い子供をさらっていく小鬼」、オックスフォード新英英辞典では"an imaginary evil spirit, used to frighten children"と出ている。
*3:Sphex ichneumoneus - Wikipedia 和名が見つからなかった。
2016/5/13のNOUS FMで使った曲
2016/5/13放送のインターネットラジオ番組"sprout's dub 94 on NOUS FM"でのmixで使用した曲について書いていく。
ラジオ放送のアーカイブは以下から聴くことができる。
また使った曲をサウンドクラウドでプレイリストとしてまとめてある。
Flybear - The Hook
こちらのトラックは昨年の12/11にフランスのインターネットレーベル"Record Record"からリリースされた。
リズムのズレと太いビート、跳ねるベースがが心地いい。
Flybearは19歳のアーティストで、Record Recordが主催するコンピレーション"Filet Mignon Ⅲ"にも参加していた。
'No, the human heart is unknowable.
But in my birthplace, the flowers still smell
The same as always'
—Tsurayuki
となぜか紀貫之の和歌(「人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」)が引用されている。
こちらのトラックはiTunes Storeやbeatportで販売されている。
https://itunes.apple.com/jp/album/the-hook/id1062652548?i=1062652730&uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog
Kenzie May - Never Find Another (Vindata Remix)
Vindataの第一リリース"For One to Follow"に収録された"All I Really Need"や第二リリース"Through Time And Space..."に収録された"Wide Awake"で起用されたシンガー、kenzie mayの"Never Find Another"をVindataがリミックスしたこちらのトラックを紹介した。
Vindataには珍しくBPMの遅いリミックスだが、煌びやかなシンセサイザーとボーカルのカットアップが彼ららしい仕上がりとなっている。
この曲は以下のリンク先から無償でダウンロードできる。
ところでこの放送の終わった後、5/13にVindataがMijaと合作した新曲"Better"をリリースした。
このトラックのボーカルネタはUKハードコアテクノのアンセム"Darren Styles - Getting Better"のものと同じである。
Darren Styles - Getting Better
Mijaは過去に"Darren Styles - Come Running"(こちらもUKハードコアを聴いている人間なら誰でも知っているレベルの名曲である)のブートレグをサウンドクラウドで公開していて、今回も影響関係があるものと思われる。
個人的な話になるが、高校生の頃一番聴いていた音楽(UKハードコア)とVindataなどのアーティストによる今一番聴いている音楽がこうしてリンクしてくるのはとても面白い。
Porter Robinson - Sad Machine (Deon Custom Remix)
Porter Robinson - Sad Machine (Deon Custom Remix / Audio)
6月に来日ツアーを行い、東京/大阪の2公演が予定されているDeon Customによる、Porter Robinson - Sad Machineのリミックスを紹介した。
Deon Customはオランダ在住でFuture Bass初期から活躍しているアーティストである。
彼の来日ツアーには、私もsprout's dub 94クルーで大阪公演に出演する。
このトラックが収録されている"Worlds (Remixed)"はiTunes Storeやbeatportで購入できる。
https://itunes.apple.com/jp/album/worlds-remixed/id1037298239?uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog
https://pro.beatport.com/release/worlds/1616010
Baauer - Temple feat. M.I.A. & G-Dragon
2016/3/18にLuckyMeからリリースされたBaauerのアルバム"Aa"からM.I.A.とG-Dragonをフィーチャーしたこの曲を紹介した。
東洋風のメロディとボーカリスト二人のラップがよくマッチしていてかっこいい。
"Aa"に収録された他の曲としては"Body"や"Make it Bang feat. TT the Artist"も非常に良かったのでこの曲が気に入った方は聴いてみるとといいかもしれない。
アルバム"Aa"はiTunes StoreやBleepで購入できる。
Madeaux - Kill For Me (Robokid Remix)
4/15Fool's Gold Recordsからリリースされた"New Wav Remixes"に収録されたMadeaux - Kill For MeのRobokidによるリミックスを紹介した。
RobokidはBoston出身でレーベル"Moving Castle"に所属してFuture Bassシーン初期から活躍していた。
このリミックスは浮遊感のあるシンセサイザーと重いビート/ベースが面白いトラックとなっている。
こちらのリミックス盤にはLH4LやDZZによるリミックスも収録されていて、そちらも非常に良い仕上がりとなっている。
"New Wav Remixes"はiTunes Storeやbeatportから購入できる。
https://itunes.apple.com/jp/album/new-wav-remixes-ep/id1093539454?uo=4&at=10l8JW&ct=hatenablog
https://pro.beatport.com/release/new-wav-remixes/1736858
アニメ『放課後のプレアデス』
友人の勧めでアニメ『放課後のプレアデス』を見た。
面白いテーマ性を持った作品であり、現在の自分の関心ともリンクする部分があったので本編についての解釈とその前提知識を書いていく。
Ⅰ.前提
1. 量子力学におけるコペンハーゲン解釈と「魔法少女」
量子力学における様々な現象の解釈の一つとして「コペンハーゲン解釈*1」というものがある。
詳しくは書かないが、この解釈では誰にも見られていないところでの世界や事物は実際に一様に存在するわけではなく、様々な可能性が重なり合ったものとして考えられる。
そしてこの可能性たちは観測されることで一つの可能性に収束して、私たちが知る実際の世界が確定する。
プレアデス星人は「任意の可能性を収束させることができる」がこれが途方も無い技術であることがわかる。
なぜなら現状私たちにはそもそもなぜ観察することで可能性が収束するのかすらわかっていないのに、プレアデス星人はその可能性の収束を自由に操るというのだから。
そしてすばるたち「魔法少女」は可能性が重なり合った「まだ何者でもない者」と語られるがこれはコペンハーゲン解釈における「重ね合わせの状態」を意識しているのだろう。
また「魔法少女」が「まだ何者でもない者」なのは中学生の少女という存在がまだ何者にもなっていないということの隠喩でもあるだろう。
さらに言えば本当の姿では病院のベッドで昏睡状態にある「みなと」と「角マント」としてすばるたち5人の前に立つ者は、コペンハーゲン解釈によるなら二人とも同時に可能性として重なり合って両立することができる。
ところで第10話『キラキラな夜』でみなとが集めていた「可能性の結晶」は「選ばれなかった可能性たち」だが、これは観測されて確定したある状態以外の実現されることのなかった可能性たちだと考えられる。
そして可能性の結晶と一緒に眠りについたみなとが作り出した「温室」の花がすべて蕾なのは、蕾がまだ実現していない可能性の象徴だからだ。
このように作中を通して蕾は実現していない可能性の、開いた花は実現した可能性の隠喩となっている。
2. 「被投的投企」を行う現存在
ハイデガーは『存在と時間』の中で私たち人間の存在の仕方を「被投的投企」と特徴付けている*2。
「被投」とは私たちがすでにある一つの可能性の中に投げ込まれて存在していること、「投企」とは逆に私たちが可能性の中に飛び込んでそれを実現していくことを言っている。
私たちは自分の意志とは関係なくすでにここに居て「しまっている」。
そして同時に私たちは自分がなしうること、すなわち自分という存在の可能性を自分の意志のもとに追い求め実現し続けている。
ところでこの「被投的投企」において人間存在はコペンハーゲン解釈と同様に「可能性」として存在していると語られている*3。
このことからこの作品をハイデガー哲学の観点からも解釈することもできると私は考えている。
すばるたちは作中で「成長」していくが、それは自分のある可能性への投企である。
だから成長していくことが可能性を実現することであり、同時にある可能性を選び他の可能性を捨てることと繋がっている。
反対に昏睡状態のみなとはいかなる可能性に投企していくこともできない行き止まりに「投げ込まれている」。
だからこそみなとはのちに述べる「自己の現状の否定」=「自分への呪い」へと至るのである。
ところでオープニングテーマ『Stella-rium』の歌詞に
わたしよ わたしになれ!
という一節があるが、ハイデガーは『存在と時間』第三十一節において
きみが在るところのものに成れ!(werde, was du bist!)*4
Ⅱ.内容解釈
1.現状の肯定と否定
前述の通り現存在はある特定の可能性の中に投げ込まれているが(もしくは観察されることである可能性に収束しているが)、その可能性に対する肯定と否定がこの作品の主要なテーマとなっている。
すばるやあおいは第7話『タカラモノフタツ 或いは イチゴノカオリ』において「相手に置いていかれた自分」という自己評価を改めて自分自身の現状を肯定することができるようになる。
「私たち、置いて行かれた訳じゃないんだ」「そうだよ、私たち二人とも、大切な友達から宝物をもらったんだよ」
それに対して第10話『キラキラな夜』で明かされるようにみなとは昏睡状態にあり可能性の閉ざされた自分の現状を否定していて、この自己否定こそが「呪い」であると語られる。
すばるとみなとのこの対比が本作後半の物語を動かしていく要素となっている。
現在の自分を肯定しそこから次の可能性へと投企していけることを希望と呼ぶなら、可能性の行き詰まりにたどり着いて(投げ込まれて)現在の自分と過去を否定することはまさしく絶望と呼べるだろう。
その絶望に立ち向かうためみなとは「別の宇宙に向かう」という選択肢を取る。
つまり現在の世界とは別の運命の中に入って、自分の可能性を拓くという解決法だ。
その別の宇宙では選ばれなかった(すなわち他の可能性が選ばれることで廃棄された)可能性にも実現のチャンスがある。
だからこそみなとは「可能性の結晶」たちを別の宇宙に連れて行こうとするのだ。
そしてまた温室にいたりすばるたちの前に立ちふさがっているみなとも自体も「選ばれなかった可能性」であるから(実際のみなとは昏睡状態にある)、このキャラクターは「選ばれなかった可能性」の象徴であると考えられる。
反対にすばるたち5人は「何者でもない者」からある可能性に飛び込んでいく存在者の象徴として描かれているのだろう。
この対立を整理すると「何者でもない者でありこれから可能性に投企していく」すばるたちと「何者にもなれないという可能性の袋小路に投げ込まれた」みなと、ということになる。
2.変化すること
変化することはコペンハーゲン解釈の言葉で言えば「ある可能性を観測して確定させること」、ハイデガーの言葉で言えば「ある可能性に自分の存在を投企すること」である。
第6話『目覚めの花』においてすばるはあおいに守られるだけではなく、むしろあおいを守れる自分へと変化していくことを望む。
その変化への望みに呼応して、「選ばれなかった可能性」の温室にいるみなとは「可能性の結晶」の力を使ってその変化を後押しする。
ここで温室の蕾が花開くのはすばるの(そして温室にいるみなとの)可能性が実現され変化が起こったことを象徴しているのだろう。
そしてたくさんあった温室の蕾が花開いた後全て散って無くなり、一株の花だけが残ったのはたくさんの可能性の中から一つの可能性に収束した(一つの可能性だけが実現した)ことを示している。
まだ何者でもない魔法少女とは変化を保留して可能性が重なり合った状態だから、それはモラトリアムの象徴でありそこからの変化はモラトリアムの終了すなわち大人になることを意味している。
だから第11話『最後の光と彼の名前』においてすばる以外の四人の中で最後の「エンジンの欠片」を捕まえたいという感情と捕まえずに魔法少女のままでありたいという感情がせめぎ合うのは、モラトリアムから留まりたいという気持ちとそこから脱して大人になりたいという気持ちの葛藤の表現でもある。
ただ、彼女たちが変化することをためらったり肯定したりできるのもそのような「変化する可能性」が与えられているからだ。
そこでその可能性すらも与えられていない存在者を描かないのは物語として不誠実ですらある。
だからこそみなとという変化する可能性のないキャラクターが設定されて、両者の対立が物語の主軸となる。
3.傍らに立つこと
すばるたちとみなとの違いは他にもある。
それはすばるたちが五人であることに対してみなとは一人だということだ。
モラトリアムから卒業してある自分として確定してしまうことには「本当にこの可能性に自分を賭けていいのか?」と問いが常に伴う。
だからこそ可能性への投企には不安や恐れが付きまとうのだ。
しかしすばるたちは魔法少女(モラトリアム)であることを終えて新しい自分に変化していくことを恐れなくなる。
そのことを示すように『Stella-rium』の歌詞にも
不思議だね 今なら怖くない
とある。
なぜすばるたちは変化を恐れなくなったのだろうか?
それは同じように恐れ、迷いながらも未来へと向かおうとする仲間を見つけたからだ。
オープニングの映像を見ると真っ暗な扉の前にすばるが立ち止まって不安げに辺りを見渡すカットがある。
その扉に飛び込んでいくことは自分の可能性に飛び込むことを象徴しているのだろう。
次のカットですばるが扉に飛び込むことができたのは、辺りを見渡して同じような扉の前に立つ他の四人を見つけたからであり、その後5人は同時に扉に飛び込んでいく。
そしてまた他者との関わりの中で自分一人では見つけられない自分の可能性を見つけることができるようになる。
すばるたちとは対照的にみなとは一人であり、そもそも飛び込んでいく可能性も存在しないと思って自らを呪っている。
それは一人であることで、隠されている自分の可能性を見つけられていないだけかもしれないのだ。
だからこそ可能性への投企における仲間の重要さを知ったすばるは、第12話『渚にて』でみなとの傍に立って彼の可能性を拓いていこうとするのである。
「私がみなと君といっしょにいたい、私がみなと君を幸せにする!」
ところでこの辺りについてハイデガーなら「現存在はすでに投企するという仕方で存在してしまっている」と言うだろう。
つまり私たちは「変化する存在」として存在しているので変化を止めることは根本からして不可能なのだ。
だから恐れる恐れないに関わらず変化は起こっていくので、その見方からはこの章での私の分析は的外れということになるかもしれない。
4.『渚にて』と運命愛
第12話『渚にて』においてすばるたちはプレアデス星人の力で宇宙を最初からやり直して自分の好きな可能性を選び取る権利を得るが、それでも自分たちが元いた可能世界に戻ることを選択する。
これはすばるたちがエンジンのかけら集めにおいて自分自身と運命すらも許容して愛することができるようになったことを表している。
ここで考えられるのはこのような運命愛とニーチェの思想の関連である。
ニーチェは『ツァラトゥストラはこう言った(Also Sprach Zarathustra)』において同じ運命が無限にループするという「永劫回帰」とそれに対する肯定である「運命愛」の思想を展開している。
それが端的に表れているのが第3部の「幻影と謎(Von Gesicht und Räthsel)」での以下の一文である。
「これが生きるということであったのか? よし! もう一度!」
(„War das das Leben? Wohlan! Noch Ein Mal!“)」*5
このセリフに何度繰り返したとしてもまた同じ人生を生きようという意志が表れている。
すばるたちも同じ人生を繰り返してまた同じ自分になろうという選択をした時この境地に達したのだろうと考えられる。
運命を愛することができるのは、すばるたちが物語の中で描かれた様々な出来事の中で自分自身とその変化に自信を持つことができたからだ。
そしてニーチェが教えるのは、何度繰り返すとしても運命を愛することができるほどに自分に自信を持てるよう全力で可能性を選びとれということなのだ。
参考文献
本編はdアニメストアで見た。
本編制作前に作られたYouTube版のショートムービー(全5話)も良い。
本としてはこの辺りを参考にした。
『放課後のプレアデス』のレビューではこの辺りの記事も参考にさせていただいた。
n-method.hatenablog.com
*1:Copenhagen interpretation - Wikipedia など 物理学をやっている友人曰く現在も主流の解釈であるらしい。
*2:「被投的投企」については以下の記事の「第三十一節 理解としての現−存在」や「感想」のセクションに詳しく書いている。 re-venant.hatenablog.com
*3:この点については非常に込み入った議論が必要となるし、本筋から外れてしまうのでのでここでは割愛させていただく。
*5:訳は岩波文庫版の氷上英廣による翻訳から取っている。原文はここ(http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/Za-III-Gesicht-1)から 。
ハイデガー『存在と時間』(二)③
この記事では第一篇第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)の内容のまとめと感想を書いていく。
第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に
第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)については以下の記事に書いている。
また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。
ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ
なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。
本文内容
第一篇 現存在の予備的な基礎分析
第五章B 〈現〉の日常的存在と、現存在の頽落
第五章Aでの分析は現存在の日常的なあり方から離れてしまっていた。
ここからの分析は現存在の日常性という地平に立って行われることになる。
そこで問われるのは日常的に「ひと(das Man)」というあり方をしている世界内存在の開示性はどのような性格を持っているのかということだ。
「ひと」には固有の情態性や固有の解釈、理解の仕方があるのだろうか。
また現存在は「ひと」の公共性のうちに投げ込まれていて、その公共性が「ひと」の特殊な開示性なのではないだろうか。
理解は現存在の存在可能であるから、「ひと」が行う解釈や理解についての分析で明らかにされるべきなのは現存在が自身のどのような可能性を「ひと」として理解し解釈してそこに投企しているかだろう。
第三十五節 空談
空談は現存在の日常的な理解と解釈に関わる積極的な現象である。
語りによって言表されたものは常に了解と解釈によって捉えられているし、言表されたあり方として「言葉」は目の前にあるものではなく現存在はその言葉において存在しているので、言葉には現存在の解釈されたあり方が内蔵されている。
語りによって共同存在から分節化された現存在は常に語られて存在している以上解釈されたあり方をしていて、それによって理解や情態の可能性が制限され割り当てられている。
そしてまたその割り当てによって現存在は世界を理解することができるようになるのだ。
「言表され、また自分を言表する語り(die ausgesprochene und sich aussprechende Rede)」の実存論的な存在の仕方が解き明かされなければならない。
自分を言表する語りは「伝達(mitteilung)」であり、伝達が目的とするのは語ることによって開示された存在に聞く者を「参与」させることである。
自分を言表する語りにおいて語られる言葉には平均的な了解可能性が含まれていて、だから伝達された語りは広く理解可能なのものとなる。
その場合人は語られた存在者(語りの「なにについて」)を理解するのではなく、語られた言葉をそのまま聞いているだけに過ぎない。
ゆえに語られているものを素通りして「聞くこと」と「理解が」繋がっているのだ。
伝達における前提は現存在たちが共同存在として共に存在していることであり、それは共に語ることや共に気づかうことのうちで作動している。
語られた対象が問題とならないから共同存在にとって重要なのは「語られていること」だけであり、既に何度も語られている格言や宣言が重要なものとみなされる。
そしてまた伝達は真似るという様式で行われ、語られていることばは拡散されて権威を持つようになる。
そのようにして「なにについて」という地盤を完全に失った語りが「空談」なのだ。
空談とは、ことがらを先だって領有することなくいっさいを理解する可能性である。*1
この空談は公共性の中に入り込んできて、真正な理解を覆い隠しそれを目指そうという試みも抑圧してしまう。
現存在はさしあたりこのような空談によって物事を見知った気になっている。
現存在は常に解釈されたあり方に入り込んでしまっていて、そのあり方において真正な理解を試みる。
また解釈されたあり方は現存在の情態も決定していて、「ひと」が現存在が世界をどのように見るのかを規定している。
そして空談というあり方のうちに身を置いている現存在は世界、共同現存在や内存在とのつながりを断ち切られている。
しかしその状態にあってなお現存在は世界において他者や自分と関わりながら存在している。
第三十六節 好奇心
「見るはたらき」に向かっていくという存在傾向を「好奇心(Neugier)」と名付ける。
この好奇心は見ることだけでなく世界を認知しようとする傾向全般を表現している。
人間は本質的に好奇心を有していて、見るはたらきに向かっていきながら存在している。
そして見るはたらきというのは視覚だけでなく感覚全てを指している。
世界内存在は目くばりによって導かれた配慮的気づかいの中に没入しているが、その気づかいは中断や完了によって休止することがある。
その際に配慮的気づかいがなくなることはないが、目くばりが配慮的気づかいから解放されている。
その解放された目くばりは手もとにあるものから離れて遠くにあるものに向かっていき、そこで世界を目の前にあるものとして見て取ることとなる。
だから現存在は本質的に遠さを求めて自分や手もとにあるものがから逃れようとする傾向すなわち好奇心を持っているのだ。
現存在は好奇心によって何かを見てもそれを理解することはない。
そして好奇心は常に何かから何かへと飛び移っていてどこかに留まるということがない。
また留まらないことによって「気晴らし」がなされる。
この「滞在しないこと(Unverweilen)」「気晴らし(Zersteuung)」が好奇心の二つの契機であり、滞在しないがゆえに好奇心には特定の所在地がない。
そしてこの「滞在の場所がないこと(Aufenthaltslosigkeit)」が現存在の日常的な存在の仕方の一つなのである。
人が知っておけなければならないものについて語る空談によって好奇心の方向性が調整される。
空談と好奇心は語りと見ることの日常的な様態で、それぞれが互いをを促進している。
この二つが現存在が真正なものと思っている「生き生きとした暮らし」を保証していて、その思い込みによって現存在の日常性に関する第三の現象が明らかにされる。
第三十七節 あいまいさ
誰にとっても接近可能でそれについてあらゆることを語り得るものがあると、何が真正に理解されていて何がそうでないのかがあいまいになってしまう。
そうしたあいまいさは世界についてだけでなく共同相互存在や現存在そのものにも当てはまる。
またあいまいさは「理解」においても生じていて、誰もがこれから起こることを予期し、また何がこれから起こるべきか感知している。
予感や感知されたものが実際に起こるとあいまいさによってそれに対する関心が失われてしまう。
なぜなら予感する可能性としてのこの関心は好奇心や空談としてしか成り立たないからだ*2。
空談(予感)は常に最新のものに到達しているが、実際の遂行は常にそれに遅れて行われる。
新たに創造されたものはすでに予感されてしまっていてそれが遂行されるときには遅れたものとみなされてしまうので、その新たに創造されたものが自由になるためにはそれを覆い隠す空談や関心が無くならなければならない。
現存在の解釈されたあり方に属するあいまいさによって、空談において語られたものや好奇心において予感されたものが本来的に生起されたものであり、実際に遂行されたものは遅ればせのつまらないものだと考えられてしまう。
あいまいさは共同現存在の公共的な開示性において存在していて、そのあいまいさによって好奇心が養われ、空談が決定的なものであるかのような見かけが与えられる。
またあいまいさという世界内存在の開示性の存在の仕方は共同相互存在を完全に支配している。
「他者」はその人についての伝聞において「現にそこに」存在しているから、共同相互存在の隙間に空談が挟まれている。
だから「ひと」としての共同相互存在は互いに聞き耳を立て合っているのだ。
次に空談、好奇心、あいまいさの間の連関の存在の仕方が捉えられなければならない。
第三十八節 頽落と被投性
空談、好奇心そしてあいまいさによって特徴づけられれるのは現存在が「現にそこに」存在していいること、すなわち開示性の様式である。
このような性格が示す現存在の日常的な存在の仕方を「頽落(Verfallen)」と名付ける。
頽落は現存在はさしあたり気づかわれた対象の元で存在し没入していることを意味している。
現存在の「非本来性」がこの頽落の解釈を通じてより鮮明になる。
非本来的に存在すること(「自分自身」ではないこと)は現存在が本来的に存在しないということを意味していない。
むしろ非本来性は世界内存在のある一つの際立った存在の仕方を形作っている。
世界内存在は頽落という様式において世界や「ひと」に没入していてそれが現存在が非本来的に存在しているということだが、それは一つの積極的な可能性である。
この自分自身ではないこと(非本来性)が現存在の最も身近な存在の仕方として把握されなければならないのだ。
世界内存在や気づかいについての分析では現存在の存在体制について分析されたが、その存在体制の存在の仕方に目が向けられることはなかった。
そのような世界内存在の実存論的な存在の様態が頽落によって示される。
空談において現存在が真正な理解を持ち合わせないまま世界や自分自身に関わりながら存在していることが示され、好奇心によって現存在が様々な場所にいて同時にどこにもいないということが示されている。
そしてあいまいさによって現存在は真正な理解を持っていないという状態に押さえつけられているということが示されている。
空談、好奇心、あいまいさによって現存在の日常性が見通されて、現存在の根本的な存在体制の構造が解明できるようになる。
それではそのような存在体制である頽落はどのような構造を持っているのだろうか。
空談は共同存在の存在の仕方でありそれを口にする現存在のうちで現前するものに過ぎない。
だから現存在は自分自身の空談というあり方において、自分が「ひと」へと解消され真正な理解を喪失した状態へと頽落する可能性を準備している。
ゆえに世界内存在は自分自身に頽落への誘惑を与えるものなのだ。
そして空談とあいまいさによって全てのものが正しく理解できているという思い込みが与えられて現存在は頽落したあり方のうちで固定されてしまう。
その思い込みによって安心が与えられるから、世界内存在は誘惑を与えるものであると同時に安心を与えるものなのだ。
また頽落した非本来的な在り方で安心していることで静止するのではなく、むしろ様々な活動を行い頽落が促進される。
そこから様々なものに対する好奇心と見せかけの知識によって自分が現存在について理解しているという思い込みが生じる。
しかし理解そのものが現存在の存在可能であることが理解されないままになっている。
このようにあらゆるものを理解していると思い込みながら自分をあらゆるものと比較することで現存在は疎外されている。
だから世界内存在は誘惑し安心を与えるものであると同時に疎外するものなのだ。
この疎外は「性格学」や「類型学」としての自己分析に腐心する現存在のあり方である。
疎外によって現存在の本来性や可能性が閉ざされてしまい、現存在は非本来的なあり方へと追い込まれてそこに囚われる。
以上で見て取られた誘惑、安心、疎外、囚われと言った現象が頽落の存在の仕方を特徴付けている。
現存在が頽落していく「動性」を「転落(Absturz)」と名付ける。
現存在は、じぶん自身からじぶん自身のうちに転落する。*3
転落は「ひと」としての非本来的なあり方や真正な理解を見失った状態への転落を意味している。
このようにして現存在が「ひと」へと転落してそのあり方が本来的だと思い込まされることを「旋回(Wirbel)」と呼ぶ。
旋回によって動かされることとしての現存在の被投性も明らかになる。
頽落において非本来的であっても現存在は世界内存在として存在していて、だからこそ頽落も内存在のあり方の一つなのである。
だから現存在の本来的なあり方とは頽落という日常的な存在体制が変容したものとだけ考えられる。
以上の第五章では「現」について解明することが試みられた。
「現」すなわち現存在の開示性は情態性、理解、語りによって構成され、開示性の日常的な存在は空談、好奇心、あいまいさによって特徴付けられる。
そして空談、好奇心、あいまいさは頽落の動性すなわち誘惑、安心、疎外、囚われること、旋回を示している。
この分析によって現存在を気づかいとして解釈することができるようになる。
第六章 現存在の存在としての気づかい
第三十九節 現存在の構造全体の根源的な全体性への問い
現存在の全体構造の全体性はどのように規定されるべきなのだろうか。
ここまでで示されたように
現存在の日常性は、だから頽落しつつ開示された被投的に投企する世界内存在として規定されうる。この世界内存在にとっては「世界」のもとにあるじぶんの存在において、また他者たちとの共同存在にあって最も固有な存在可能そのものが問題なのである。*4
現存在の日常性のこうした構造を全体性から捉え、これらの構造が等しく根源的であることが理解できる方法はあるのだろうか。
何かを組み上げるために設計図が必要なように現存在の全体構造、現存在の存在そのものを把握するためには一つの根源的で全体的な現象を見通す必要がある。
だからこれまでに判明した現存在の構造契機を寄せ集めることでは現存在の全体構造を解明することはできない。
現存在の存在構造には存在了解すなわち開示性が属していて、開示性の様式は情態と理解によって特徴付けられている。
そこで現存在が自分自身に対して開示されている何らかの際立った様式があるのか探求する必要がある。
実存論的分析論は明晰に現存在の存在を解明するために、現存在の最も広範で根源的な開示可能性を追求しなければならない。
そしてまた現存在の構造全体を見通すために現存在がある様式で単純化されて現れてくるような開示性において現存在自身に接近しなければならない。
そうした要求を満たす情態は「不安(Angst)」である。
また現存在は気づかいとして存在している。
こうして現存在を気づかいとして見る見方は理論的だとの誤解を受けたり、伝統的な人間観を否定するものだとして反対されるかもしれないから、現存在を気づかいとして解釈することを前存在論的に確証しておかなければならない。
ここまでの分析は気づかいとしての現存在にまで至っていてるから存在一般への問いを準備するものとなっている。
しかしこれまでの分析は特殊課題を扱っていたので、そこから存在一般への問いに方向を変えなければならない。
そのためにここまでで解明された手もとにあることや目の前にあること(「実在性」)という現象を振り返りながらそれをより徹底的に見つめ直す必要がある。
存在者はそれについての経験、知識、把握とは無関係に存在しているが、存在は存在了解を持つ存在者の理解のうちで存在している。
だから存在は把握されていないことがありえても、理解されていないことはありえないのである。
存在と真理が同時に問われてきたことが存在と了解の必然的な関係を証明している。
だから存在への問いを行うために真理という現象を解明する必要がある。
第一篇『現存在の予備的な基礎分析』は不安(第四十節)、気づかいとしての現存在(第四十一節)、気づかいとしての現存在の解釈を前存在論的に確証すること(第四十二節)、実在性(第四十三節)、真理(第四十四節)の分析によって締めくくられる。
第四十節 現存在のきわだった開示性である、不安という根本的情態性
現存在の解明は情態性と理解に基づく開示性によってのみ可能となるから、現存在のある情態から現存在を解明しなければならない。
「頽落」を現存在の構造全体を解明する出発点としよう。
頽落において現存在は自分自身と自分の本来性から逃避している。
ここで現存在の開示性は閉ざされているが、それは開示性の欠如したあり方でありそこで逃避して背を向ける対象(「なにから(Wovor)」)として現存在自身が開示される。
現存在が開示性によって現れている時のみそれに背を向けて逃避することができるのだ。
逃避の「なにから」(現存在そのもの)は把握されてはいないが背を向けることで現にそこにあり開示されている。
そして逃避において「向きなおる」ことで現存在が理解され解釈されることが可能となる。
さて、第三十節での「恐れ(Furcht)」についての分析が「不安」についての分析の手がかりとなるだろう。
恐れという情態において現存在は自分を脅かす世界内部的な存在者から身を避けていた。
逃避の「なにから」は「脅かすもの」という性格を持っていて、頽落における逃避の「なにから」である現存在も自身を脅かしている。
現存在は世界内部的な存在者ではないので「恐ろしいもの」としての世界内部的な存在者ではなく、「不安を感じさせるもの」であり頽落は「不安」に基づいているのだ。
そして世界内部的な存在者に頽落していくことで恐れが生じるから、不安があって初めて恐れることが可能となる。
不安の対象(「なにをまえに」)は世界内存在であり世界内部的な存在者ではないから適所性を持っていないし未規定である。
世界内部の手もとにあったり目の前にあったりするものは不安の対象とはならない。
だから不安において世界(適所全体性)は対象とならずそのものとして意義を持たない。
適所全体性は、それ自身の中に崩れ込む。
(Sie sinkt in sich zusammen)*5
不安の対象は「ひと」としてどこにもいない世界内存在であり、この「ひと」という対象がどこにもいないことが不安を特徴付けている。
この不安の対象は世界内部的には無であり、このことが意味しているのは不安の対象は世界そのものだということだ。
無であることは世界が無いということではなく、世界内部的な存在者が重要性を欠いていながらそれにも続いてなお世界が迫ってくるということだ。
この世界は目の前にあるものの総計ではなく手もとにあるもの一般の可能性の総体である。
日常的な会話で不安が収まると不安に思っていた事柄について「なんでもなかった」と言われるが、このことが不安の「なにをまえに」が無であることを示している。
世界は世界内存在に属しているから不安の対象は世界であると同時に世界内存在自身なのだ。
不安によって世界が初めて根源的かつ直接的に開示されるが、それでも世界が概念的に把握されているわけではない。
また不安には何かの「ための不安(Angst um…)」でもあるが、不安において脅かすものは未規定なのでその脅かしの対象は現存在の特定の情態や可能性ではない。
不安がそのために不安になるものは世界内存在であり、不安にあっては手もとにあるものや他者は沈み込んでしまう。
こうして不安は現存在が頽落する可能性を奪い、現存在を本来的な世界内存在へと「投げ返す(zurükwerfen)」。
そこで現存在は固有な世界内存在へと「単独化(vereinzelt)」されて、さらに様々な可能性へと自分を投企していく可能存在として開示される。
しかもこの可能存在は現存在が唯一それとして単独化されうるものなのである。
不安によって単独化された現存在は自分自身を選択し掴み取る自由に対して開かれている本来的な存在である。
不安の「なにをまえに」と「なにのために」はどちらも同じ世界内存在だが、さらに不安という情態となるのも世界内存在である。
だから開示すること(情態性)と開示されるものが同じく世界内存在であり、その開示されるものにおいて世界が開示され、また世界内存在は単独化された被投的投企を行う存在可能として開示されている。
このことから不安という情態は特別なものとして解釈されなければならないのだ。
また日常的な現存在についての分析や語りが、不安がこのように開示していくことの証拠となる。
情態性において現存在が具体的にどのように存在しているかが開示されるが、不安にあって現存在は「不気味(Unheimlichkeit)」に感じている。
この「不気味」において不安の対象がどこにもなくて無であることが表現されている。
そしてまた「ひと」の元で存在している時の安心や居心地の良さが失われているから、不気味さは居心地の悪さも意味している。
逃避としての頽落は世界内存在から世界内部的な存在者へと逃避していくことであり、不気味さから「ひと」の安心感の中に逃避していくことなのだ。
この不気味さは世界や「ひと」に没入している現存在を不断に追い回して「ひと」としてのあり方を脅かす。
ここでは現存在自身が現存在を襲う脅かしである不気味さとして解釈される。
現存在は日常的には頽落して不気味さから目を背けるという仕方で不安を解釈しているが、このように逃避することで世界内存在という現存在の存在体制には不安という根本的な情態性が属していることが示される。
だから不安はただの情態の一つではなくより根源的な現象なのであり、それがあるからこそ世界内存在は情態を持つ存在として恐れることができる。
あらゆる情態性の本質には世界内存在を開示することが含まれているが、不安は単独化するから他の情態性とは異なった特別な開示性を持っていて、また単独化によって現存在の本来的、非本来的な二つのあり方が可能となる。
さて、ここまでの不安についての実存論的な分析によって現存在の全体性への問いがどこまで準備されたのだろうか。
第四十一節 気づかいとしての現存在の存在
不安という現象と不安によって開示されるものは現存在の全体を等しく根源的に解明させてくれるものなのだろうか。
不安になることは現存在の情態性であり、「なにをまえに」は世界内存在で、「なにのために」は世界内存在することであるから、不安は現存在を実際に存在する世界内存在として開示している。
現存在の基礎的な性格は「実存的なあり方、事実性および頽落したありかた」であり、この三つの間には連関があって全体性を形作っている。
これら三つの統一をどのように捉えるべきなのだろうか。
現存在にとっては自分の存在自身が問題となっているが、「問題となる」ということが明瞭になったのは現存在の「なにのゆえに」へと投企する理解という存在体制においてであった。
理解という被投的投企において現存在は自分の可能性として存在している。
また不安においてもっとも固有な存在可能(「なにのゆえに」)や本来的/非本来的な存在に対して開かれていることが示されている。
自分自身の「なにのゆえに」である存在可能として存在することは、現存在が自分自身に先立っていることである。
この存在構造を「じぶんに先だって存在していること(das Sich-vorweg-sein)」と呼ぶ。
ただ自分に先だって存在しているのは被投性を持つ世界内存在だから、「じぶんに先だって存在していること」は正確には「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること(Sich−vorweg-im-schone-sein-in-einer-Welt)」である。
この統一的な構造によって明らかになるのは有意義性の連関(世界)が現存在の「なにのゆえに」と結びついていたことであった。
現存在の存在体制の全体が「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること」として明示的に現れている。
また現存在が実際に存在していることは投げ出されて世界内存在することだけではなく、不気味さから逃亡して頽落しながら存在していることでもある。
だから「なんらかの世界のうちですでに存在していることにおいてじぶんに先だっていること」には手もとにあるものに頽落して没入しながら存在することが含まれている。
以上から現存在の存在の全体性は「(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈じぶんに先だって存在していること〉」なのである。
これこそが「気づかい」という用語の実存論的な意義である。
世界内存在は本質的に気づかいであるから、これまでの分析で現存在が配慮的な気づかいや顧慮的な気づかいとして捉えられた。
気づかいは実際に存在していること、頽落、実存的なあり方を包括していて、「自己の気づかい(Selbstsorge)」と言った言い回しが指すような「自我」が自分に関わる振る舞いを意味しているわけではない。
自己は「じぶんに先だっていること」に特徴付けられていて、そのことのうちにすでに気づかいが含まれているのだ。
自分に先だって存在することは自分の「なにのゆえに」である存在可能として存在することであり、それによって現存在が本来的な可能性に対して開かれていることが可能となる。
他方現存在は非本来的に振る舞うことが可能であり、実際大抵は非本来的に存在している。
そこでは現存在の本来的な「なにのゆえに」(存在可能)は掴み取られないままであり、「ひと」が現存在の投企を規定している。
「じぶんに先だって存在していること」の「自分」は現存在が非本来的に存在している場合「ひと」である自己を意味している。
だから非本来的なあり方においても現存在は自分に先だって存在しているのだ。
気づかいは具体的な情態に先だって存在していて、「理論的な」行いに対する「実践的な」行いといったものではない。
したがって分割して考えることのできない全体性である気づかいを「意欲や願望、衝迫や性癖」から組み立てることはできず、これらはむしろ気づかいに基づいているのだ。
現存在の「なにのゆえに」である存在可能は世界内存在であるから、その存在可能は世界内部的な存在者と関わりながら存在している。
「意欲」のうちでは理解された存在者、すなわち現存在がその可能性に向けて投企している存在者が気づかいの対象として掴み取られている。
だから意欲には意欲の対象が常にあって、またその対象はなんらかの「なにのゆえに」によってあり方を規定されている。
意欲の構造には「なにのゆえに」の先だった開示性(「じぶんに先だって存在していること」)、配慮的に気づかわれうる世界内部的な存在者としての開示性(「そのうちで」としての世界)、意欲された存在者の可能性への投企*6がある。
このことから意欲という現象において「(世界内部的に出会われる存在者)〈のもとで存在していること〉として(世界)のうちですでに〈じぶんに先だって存在していること〉」という現存在の構造の全体性が見て取られている。
現存在の投企は何らかの世界のもとで行われていて現存在はそうした世界から自分の可能性を得る。
「ひと」という解釈されたあり方によってその可能性は自分にふさわしいものという範囲に制限されていて、これは「水平化」と呼ばれる。
可能性が水平化されることで可能なものが隠されてしまい現存在は現実的なものの中で安らいでいる。
その安らぎはむしろ配慮的な気づかいが忙しく活動することを促進して、その時新しい可能性ではなく何事かが生起しているように見せかけられた「手の届くもの」が意欲される。
「ひと」に水平化された意欲において様々な可能性へと向かっていく存在は「願望(Wünschen)」として現れてくる。
願望においては可能性は配慮的に気づかわれる対象ではなく、それが実現することは期待されず、またそれは了解されていない。
だから世界内存在は願望において手の届く可能性のうちでの支えを失って自分を喪失しているのである。
そして手もとにあるこの可能性は「願望されたもの」と照らし合わせて十分でないものと考えられてしまう。
願望も投企の変様であるけれども、願望することは様々な可能性に「専心(Nachhängen)」することである。
特定の可能性に専心することでその他の可能性が閉ざされてしまう。
また専心においては頽落が「じぶんに先だって存在していること」を変様させてしまっていて、現存在が自分が頽落している世界の中で「生かされ」ようとする「性癖(Hang)」が現れてくる。
その性癖によって現存在の一切の可能性が性癖のために利用される。
これに対して「生きようとする」衝迫は自分自身の側に原動力を持っていて、他の可能性を押しのけようとする。
しかしながら衝迫は気づかいに基づくものなので衝迫においても現存在は単なる衝迫ではなく第一義的に気づかいなのである。
衝迫においては気づかいは自由ではないし、性癖においては気づかいは拘束されている。
だから衝迫と性癖は被投性に根ざしているのだ。
「生きようとする」衝迫と「生かされようとする」性癖をなくしてしまうことはできないが、気づかいによって基礎づけられているがゆえにその気づかいによって変様可能なものとなる。
「気づかい」という実存論的に根本的な現象は多層的だが、存在体制の全体性である以上それを更に根本的な要素に還元することはできない。
また気づかいが「〜のもとでの存在として−〜のうちですでに存在していることにおいて−じぶんに先だって存在している」という構造を持っていることから、気づかいの構造が分肢化していることがわかる。
ならば分肢化した気づかいの統一性と全体性を支えるより根源的な現象を解明するために存在への問いを更に突き詰めなければならない。
第四十二節 現存在の前存在論的自己解釈にもとづいて、気づかいとしての現存在の実存論的解釈を確証すること
現存在が「気づかい」であることについて存在論的探求に先立った証拠を出さなければならない。
その証拠は「歴史的」に気づかいであることを証し立てるものであるけれども、現存在の存在は歴史的なものなのでその証拠にはある特別な重要性がある。
その証拠とはブールダッハによって改めて注目された以下の寓話である。
Cura(気づかい)土塊に形を与えて人間をつくり、ユーピテルがそれに精神(spiritus)を与えた。どちらのなまえ(nomen)を与えるべきかをめぐって両者が争っていると、大地(Tellus)もまた、その身体(corpus)の提供者としての権利を主張する。サルトゥルヌスは、これに対して、ユーピテルに人間の死後の精神を、大地にはその身体を与え、Curaには生きている限りでの人間を占有すること(bestizen)を許した。人間の名前はそれがhumusからつくられたがゆえにhomoと決まった。*7
これは重要なのは現存在が生きている間は気づかいが現存在に属していると述べられているからだけでなく、気づかいが精神と身体の合成としての人間観に対して優位をもっているからでもある。
Cura(気づかい)が人間を作ったということは現存在の起源が気づかいのうちにあることを意味している。
またCuraが「生きている限りでの人間を占有」していることは現存在は世界内で存在している限り気づかいであるということである。
他方サルトゥルヌス(時間)が人間の根源的な存在について判決を下したことからみると、この寓話は人間の前存在論的な本質を「世界内での時間的な変転(zeitliche Wandel in der Welt)」のうちに捉えているのである
Cura(気づかい)の語源の歴史から現存在の存在体制すらも見通すことができる。
またCuraは「不安に満ちた骨折り」や「入念さ」「献身」を意味している。
前者は現存在の投企、後者、特に「献身」は現存在の被投性を示していて、Curaという語の二重の語義は現存在の被投的な投企という存在のし方を指し示しているのだ。
現存在についての実存論的な解釈は存在的な解釈の単なる普遍化ではなく「ア・プリオリな」存在論的普遍化なので、その普遍化では気づかいという根本的な存在体制が指示されている。
「生活の憂い」や「献身」というように人間を存在的に気づかいとみなすことは、存在論的な「気づかい」に基づかなければならない。
存在論的な「気づかい」を含めた実存カテゴリーは広がりを持っていて人間を「生活の憂い」や「献身」というする解釈もその逆の解釈も許容する地盤を提供している。
だから現存在の存在体制の全体は統一的でありながら多層的であり、その構造の分肢化が気づかいの実存論的な概念(「〜のもとでの存在として−〜のうちですでに存在していることにおいて−じぶんに先だって存在している」)によって表現されている。
以上で現存在の前存在論的な自己解釈を気づかいの実存論的な概念へと仕上げていったわけである。
さて、存在への問いを仕上げていくためにここまでで得られた事柄らをさらに明示的にして先鋭化させなければならない。
感想
第一篇第五章Bでは「空談」「好奇心」「あいまいさ」、そして「頽落」という現存在の日常的なあり方が解明された。
「空談」において対象についての真正な理解があるかどうかにかかわりなくただ「語られていること」によって言葉が権威を持ってくる。
ミームというものはそれが真理であるかどうかにかかわりなくただそれ自体として適応的であれば拡散していくから、この「空談」とミームは同じ現象を指しているのではないかと思った。
このような「空談」によって正しい理解はむしろ阻害されてしまうから、ミームは真実を目指す探求を妨げることもあるのだろう。
また「空談」についての第三十五節で現存在が常に解釈されたあり方を免れえないということが述べられている。
これは現存在を現存在として認められるのは解釈を行い世界から現存在を分節化した時だから、現存在は常に解釈されて存在しているということだと思う。
「好奇心」については注解に引かれていたプラトン『国家』の「アグライオンの子レオンティオス」が「見るはたらきへの欲望」から城壁の外の死体を見て「さあ、きみたち、呪われた者どもよ、この美しい見ものを堪能するがよい」と言うという挿話が好きだった。
第六章前半では「不安」と「気づかいとしての現存在」の解明が試みられた。
現存在は自分自身(=世界内存在=世界)に対して「不気味さ」を感じていて、そこから逃避して「ひと」すなわちどこにもいないというあり方の中に転落している。
その逃避が意識されると背を向ける対象として単独化した「現存在」が浮かび上がってくる。
「ひと」として他者たちの中に溶け込んでいるとき現存在は安心していて、単独化した現存在は不安や不気味さを感じている。
普通人間は「自分」というものについて考えず世界に没入して生きていて、「自分とはなんなのか」という疑問が起こってきたりして不安に感じることはない。
逆に一旦内省的思考にはまり込んでしまうと自分についての疑問が次々起こってどんどん不安が募ってきて眠れなくなったりする。
「不安」を卑近に解釈するとそういうことになるのだろうか。
また「ひと」という他者と一体となったあり方をやめた現存在は単「独」化して孤独になってしまうが、不安には孤独に対する感情という側面も含まれているように思う。
疑問が残ったのは解釈による現存在の分節化と「不安」による「単独化」というのはどのような違いがあるのかという点だった。
解釈によっては有意義性の全体(世界)からの分節化が行われるが、「不安」によっては「ひと」からの単独化が行われるというどこから分節化(単独化)が行われるのかの区別なのだろうか。
あとこの辺り(第六章)では「現」という表現が使われなくなり代わりに「事実性」という表現が出てくる。
事実性は現存在が事実として存在していることだから、「現」と同じ意味で使われているものと思って読んでいたが確証がない。
気づかいとしての現存在は「じぶんに先だって存在している」のだがそれは自分自身の存在理由(「なにのゆえに」)である可能性「として」現存在が存在しているかだろう。
可能性として存在するというのは「理解」そして「投企」において被投的に投企が行われることから、現存在は現在それである情態と同時に可能性として存在しているということだった。
ここで自分が存在する理由を理解していくという作用によってその存在理由である可能性(「存在可能」)として現存在が存在しているということが言われているのだと思う。
そして人間が存在する理由を理解するのが世界内存在だから「じぶんに先だって存在していること」と「なんらかの世界のうちですでに存在していること」が結びついてくる。
ところで第四十一節の後半で「生きようとする衝迫」という概念が出てきたがこれはショーペンハウアーの「生への意志」を意識した表現なのだろうか。
衝迫についての記述が簡素すぎてどうとも判断できないので今後また出てきたら検討したい。
最後に本筋から外れるが「理解」と「投企」というものについて考えていて少し理解が深まったので書いておきたい。
世界内部的な「手もとにあるもの」を理解することによってその手もとにあるもののもとで存在している現存在の可能性に投企していくことになる。
例えばスマートフォンという手もとにあるものを理解することでスマートフォンの機能を使って新しく活動していくことができる。
それは同時に「スマートフォンの機能を使う私」という自分の存在の可能性に飛び込んでいくことも意味しているのだ。
重要なのは「私」と気づかわれている手もとにあるものが別の存在者ではなく一体となっているということだ。
手もとにあるものを解釈することで手もとにあるもののもとで存在している現存在も同時に分節化されていて、そしてそれは「有意義性の全体」すなわち世界からの分節化なのである。
また手もとにあるものがそのように解釈されることができるのは現存在がそのもとで存在している時だけ*8で、その意味で
だから意味は現存在の実存カテゴリーであり、現存在だけが有意味であったり無意味であったりする
ハイデガー『存在と時間』(二)② - Revenantのブログ
と言われるのである。
2017/1/29追記
不安は適所性が欠けていることから発生する。→道具が意識されるのはその適所性が失われている時。
失われている適所性とは現存在自身(=世界内存在)の適所性であり、自身の適所性がわからないのだから現存在は不安に感じる。
そしてその不安によって、道具が意識されるようになったのと同じように個々の現存在が意識される。
(2017/2/19追記)
適所性が見失われることでそこに頽落する可能性も失われる。
不安において単独化されたことで、そこから投企していく可能存在としての現存在が明示的になる。
続きは以下
re-venant.hatenablog.com
ハイデガー『存在と時間』(二)②
この記事では第一篇第五章、第五章A(第二十八節〜第三十四節)の内容のまとめと感想を書いていく。
第一篇第四章(第二十五節〜第二十七節)については以下の記事に書いている。
また第一分冊については以下の四つの記事に分けて書いている。
ハイデガー『存在と時間』(一)① - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)② - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)③ - Revenantのブログ
ハイデガー『存在と時間』(一)④ - Revenantのブログ
なお本文引用の際は脚注に「部.篇.章.節.段落 ページ数」を付記した。
本文内容
第一篇 現存在の予備的な基礎分析
第五章 内存在そのもの
第二十八節 内存在の主題的分析の課題
現存在についての存在論的分析論は現存在の存在様式を根源的に規定している「世界内存在」を主題とする。
ここまででは世界内存在を世界という存在の契機と現存在が「だれ」であるかという問いから特徴付けてきた。
一方第十二節で「内存在そのもの」から世界内存在が素描されていて、続いて第十三節で内存在のあり方の例として「認識作用」が挙げられた。
世界などの現存在の構造契機を先回りして取り上げたのはそれらを構造全体への一貫した見通しの中に組み入れていけるようにするためであった。
それらの契機を分析し終えた今問題となるのは内存在そのものである。
内存在を分析することで世界内存在の構造だけでなく「気づかい」としての現存在の存在も見えてこなければならない。
ここまでで世界内存在について「配慮的気づかい」「顧慮的気づかい」「自己存在(「ひと」)」を提示してきたが、次に探求されるのは配慮的気づかい、顧慮的気づかいのより具体的な特徴である。
またすべての世界内部的存在者についてより詳しく解明していくことで現存在と現存在以外の存在者の間の区別が際立ってくる。
ありとあらゆるものが単一の「根源的根拠」に基づいているというのは勝手な思い込みであり、「情態性」「理解」など複数ある内存在の構造性格はそれぞれが等しく根源的である。
内存在を特徴付けるに際してまず第十二節において明らかになった、内存在が空間的に中にいることを意味していないということを確認しておくのが良い。
内存在は「主観」のカテゴリーではなくその存在の仕方である実存カテゴリーなのだ。
それでは内存在は目の前にあるものとしての主観と客観の「あいだ」の交互作用としての存在なのだろうか。
そのような考えにおいては目の前にある主観と客観という存在者が前提とされてしまっている。
これ出発点として内存在という現象を解明することはできないし、現象を構成するものを把握することもできない。
世界内存在によって構成される存在者は常に「ここに」や「あそこに」という意味での自らの「現(Da)」である*1。
現存在は気づかわれる対象の「あそこ」に存在していて、「あそこ」に距たりを取り去りつつ方向を合わせて配慮的に気づかう存在として「ここに」ある自分を把握している。
この「ここに」と「あそこに」はこのような空間性を持った「現」が存在していることによって可能となる。
「あそこに」と「ここに」存在することが可能であることによって現存在は自らの存在の中で鎖されておらず世界と一体となって存在している。
だから「現」には世界の開示性が属していて「現」は「開けていること」、「明るみ」とも表現できる。
そして現存在は自分自身に即して「明るくされて(gelichtet)」いて、現存在の明かりに照らされることで初めて手もとにある存在者は接近可能なものとなる。
また現存在自身もその「現」「明かり」によって接近可能なものとなるから、
現存在の本質は実存だから現存在の存在そのものの本質が「現」なのだ。
そしてこの開示性の存在の構造の特徴と、現存在が日常的に自らの「現」であるという存在のし方を解釈することが必要となる。
以下の第五章A「〈現〉の実存論的構成」第五章B「〈現〉の日常的存在と現存在の頽落」において内存在そのもの、すなわち「現」の存在が解明されていくだろう。
第五章A 〈現〉の実存論的構成
第二十九節 情態性としての現−存在
存在論的な「情態性(Befindlichkeit)」とは私たちが日常的に「気分(Stimmung)」と呼んでいるものである*3。
そしてこの気分とは心理学的なものではなくて現存在の実存カテゴリーだ。
日常的な配慮的気づかいとしての現存在には「(気づかいが)かき乱されていない落ち着いた気分」「(気づかいが)阻止された不快な気分」がある。
それらは相互に移り変わるし、他にも現存在は不機嫌な気分に「滑り落ちる」こともある。
私たちがしばしば陥る気の抜けた状態は「気分」が無いことではなく現存在が自分に厭きた状態であり、その時「現」が現存在にとって重荷となってくる。
このようにして気分において現存在は自分の「現」に引き合わされている。
仮に高揚した気分が存在の重荷を取り去るとしても、取り去られることで逆説的に「現」の重荷が明らかになってくる。
ゆえに
気分があらわにするのは、「或るものがどのようにあり、またどのようになるか(wie einem ist und wird)」である。この「或るものがどのようにあるか」において気分づけられていることが、存在をその「現」のうちへともたらすことになる。*4
気分づけられていることによって現存在はその気分「である」存在者として開示されていて、しかも現存在はその気分において存在しなければならない。
日常性においてこそ現存在の存在はありのままに開示されることがあるが、現存在が「どこから」来て「どこへ」いくのかは隠されたままである。
また私たちは気分に「屈従」しているわけではないが、それは現存在が気分において開示されていることを反証するものではないし、むしろそれを証拠立てている。
現存在はたいてい気分に屈従せず気分おいて開示された存在を存在的には避けて通っているが、そのことによって存在論的には現存在が「現」である存在者だということが開示される。
「どこから」来て「どこへ」いくのかが隠されたままに開示される「現存在が存在すること」という存在性格を自らの「現」のうちに現存在が「投げ出されていること(Geworfenheit)」と呼ぶ。
この「被投性(投げ出されていること)」は現存在が情態性において存在し、また存在しなければならないことを暗示している。
さらにこの「現存在があり、在らなければならないこと」は目の前にある存在者のカテゴリーではなく世界内存在の実存カテゴリーだから、直感では見て取ることができない。
現存在は情態にあるということ、すなわち被投性において自分の「現」であるがその情態性において現存在は常に開示されていて、自分を情態における存在として見出している。
そして現存在はそのように自らを見出しているというあり方で存在させられてしまっている。
気分は現存在を「現」という重荷に「向かったり、背を向けたりすること(An- und Abkehr)」として開示する。
そして現存在はたいてい「現」の重荷から逃れようとしているという気分(情態)において存在している。
自分が「どこへ」行くのか信仰によって確信していても、自分が「どこから」来たのか科学的に知っていても、それによって気分によって「現」が現存在に提示されていてなぜ「現」があるのかという問いが存在していることが変わることはない*5。
目の前にあるものについての理論によって情態性が現存在を明示していくことが低く評価されてはならないし、情態性を非合理的なものと考えてもならない。
現存在が知識と意志によって自分の気分を制御しなければならないにしても、認識や意志に先立って気分において現存在自身が開示されている。
気分を制御するとき先立って気分において存在している私たちは、それと反対の気分を持つことによってそれを制御するのだ。
情動性は現存在をその被投性において開示し、しかもさしあたりたいていは回避しながら背を向けるという様式で(in der Weise der ausweichenden Abkehr)開示するのである。*6
ここまでで明らかになったことだが、情動性は何らかの心的状態を目の前にあるものとして見て取ることではない。
むしろ内的反省が心的体験を発見することができるのも「現」が情動性によって先立って開示されているからなのだ。
反省を伴わない「単なる気分」が反省による思考よりも根源的に「現」を開示し、同時に何も知覚しないことよりも深く「現」を覆い隠してしまう。
このことを示しているのが「不機嫌な気分(Verstimmung)*7」である。
不機嫌な気分において現存在は方向を見失い配慮的に気づかわれる周囲世界を見失って、誤った方向に目くばりしてしまう。
そのような気分は反省している時ではなくむしろ周囲世界に没頭している時に現存在を襲う。
気分は内部から現れるものではないしまた外部の影響で生まれるものでもなく、現存在が世界の内に存在する様式であり、先立って世界内存在を開示している。
そしてまた気分において初めて現存在は何かに向かっていくことができるのである。
以上から情態性は被投性を開示し、その時々の世界内存在を開示するということがわかった。
さらに情態性は内存在に対する世界の先だった開示も構成している。
手もとにあるものが内存在を脅かすことがあるが、世界内部的な存在者に襲われることは内存在が情態性によって「襲われるもの」として規定されているから可能なのだ。
そしてまた恐れたり恐れなかったりという情態において存在できるものだけが手もとにあるものを「脅かすもの」として発見することができる。
このようにして情態性が現存在が世界を発見していくことを基礎づけているのである。
また襲われるものとして情態性に規定されていることで「揺り動かされること」「感受すること」としての「感覚」が存在論的に可能になってくる。
情態性のうちには開示しながら世界へと割り当てられていることが実存論的に存しているのであり、襲撃するものはこの世界の側から出会われうる。*8
私たちは「単なる気分」によってまず「脅かすもの」といったような世界を発見するのであり、直感作用によってそれをするのではない。
情態性において配慮的な気づかいの目くばりが方向を誤ったり錯覚を起こしたりするが、気分の揺らぎによってその時々に手もとにあるものが違って見えることでそれらは自身に特種な世界性を示している。
むしろ目の前にあるものとしてそれを認識することでそれらは一様なあり方に限定されてしまっているのだ。
しかし認識することで規定する作用も現存在の情態性のうちで成り立っている。
「ひと」は「公共性」において気分づけられているだけでなく自ら気分を必要として、演説などによって気分を「かもし出して」いく。
そのような場合気分を作り操るためにその気分を先立って知っていなければならない。
情態性において「現」に直面させられている現存在は自分自身を回避しているが、その存在体制が「頽落」という現象を分析する中で明らかになってくるだろう。
情態性はそれが現存在を明らかにしていくことによって実存論的分析論の方法としても重要である。
実存論的分析論は情態性において先立って開示された現存在をそのままに受け取ることで、現象学的な解釈は開示された現象を概念に高めるというだけのものである。
この後には現存在の根本的な情態性、すなわち「不安(Angst)」についての解釈が行われるが、その前に「恐れ(Furcht)」という具体的な情態を示していくべきだろう。
第三十節 情態性の一様態としての恐れ
恐れという現象は恐れの対象、恐れることそのもの、恐れの原因(なんのゆえに)の三点から考察される。
この三つによって情動性一般の構造も把握することができる。
恐れの対象は手もとにあるもの、目の前にあるもの、共同相互存在という世界内部的に出会われるものである。
恐れられるものは「脅かす」という性質を持っていて、その性質には以下の6つの多層的な事柄が属している。
- 有害であるという適所性を持っている。
- その有害さは被害を受ける対象の方に向かっていて、また特定の方位からやってくる。
- 恐れの対象とその方位は「穏やかでない」ものとして知られている。
- 手なずけることができるほどの近くにはまだないが、近づいてきてはいる。
- その接近は発見されていなければならないので、有害なものはすでに手もとにあるものとして「近さ」の内にある。
- 有害なものは通り過ぎるかもしれないが、それゆえにむしろ恐ろしさが募る。
次に恐れることそのものは有害なものに迫られながらそれを開示して発見することである。
そしてまた恐れという情態が可能であることによって恐ろしいものが接近してくることが可能となるのだ。
また、接近は世界内存在の空間性に基づいて初めて可能になる。
最後に恐れの原因は恐れる現存在自身である。
恐れは常に危険にさらされている現存在自身を開示し、現存在の「現」を提示している。
私たちは配慮的気づかいにおいて対象の元で存在しているから、自分が気づかっている持ち物などの事物が危険にさらされている際にも恐れは起こる。
その場合気づかわれているものの元で存在していることが脅かされているのだ。
さらに恐れは現存在を開示すると同時に、現存在をうろたえさせて自分自身をわからなくさせてしまう。
他にも例えば危険な場所にそれと知らずに近づく他者たちのために恐れることがあるが、それは共に恐れることでも他者の恐れを肩代わりすることでもない。
この場合も配慮的に気づかわれているもののための恐れと同じく他者の元で存在する自分が脅かされているのだ。
ゆえに何かのために恐れることは自分についての恐れが弱くなったものではない。
そしてまた恐れのきっかけは様々にあり、恐れることにも驚愕、戦慄、仰天などの様々なバリエーションがある。
第三十一節 理解としての現−存在
「理解(Verstehen)」は情態性と同じように根源的な形で「現」を構成している。
情態性において現存在は自分の「現」を了解していて、それゆえに理解は常に気分付けられている。
そのようにして現存在の実存を構成する理解は第一次的な理解と呼ばれて、認識の仕方という意味での理解や「説明」とは区別される。
「世界が現にそこにあること」である内存在(「現」)は現存在の「なにのゆえに」でありまたその中で世界内存在の実存が開示されていて、その開示が理解と呼ばれる。
そして「なにのゆえに」を理解するとそれを基礎としている有意義性の連関が理解され、そして個々の道具の有意義性が理解される。
「なにのゆえに」と有意義性は現存在において開示されるから、現存在にとって世界内存在としての自分自身が問題となっている。
「理解」という言葉は「〜が可能である(etwas können)」という意味で用いられることがある。
実存カテゴリーとしての理解は「何か」が可能であることではなくある実存の仕方が可能であるということを意味している。
何かを理解することで何かしらの形での存在ができるようになるから、理解という情態にある現存在は「存在可能(Sein-können)」として存在している。
現存在は「何かが可能であること」を属性として所有しているのではなく、自分の可能性そのもの、「可能存在(Möglichsein)」である。
まだ現実的でなかったりいつまでも必然的でないこととしての可能性ではなく、現存在の存在論的に規定されたあり方である実存カテゴリーとしての可能性を解明する基盤を「開示する存在可能」である「理解」が与えてくれる。
実存カテゴリーとしての可能性は無差別に選択することができるという意味での自由ではない。
すでにある情態のうちにあることで現存在は一つの可能性の中にはまり込んでいて、他の可能性を失ってしまっている。
すなわち現存在は「被投的な可能性(geworfene Möglichkeit)」なのだ。
そして理解とはこのような被投的な存在可能として存在することだ。
その存在可能は「まだ来ない」ということではなく現存在の存在と共に存在している。
そして理解は一つの被投的な情態であるから、現存在はそのつどすでに理解したり理解し損なったりしている。
だから現存在は自分の存在可能において自分を理解するという可能性の中に投げ入れられる。
理解とは現存在自身が有する固有な存在可能の実存論的存在(das existenziale Sein des Seinkönnens des Daseins selbst)であり、しかもこの実存論的存在は、自分自身の存在が〈なにに懸かっているか(das Woran)〉を自分自身に対して開示している。*9
世界内部的な手元にあるものは「役に立ちうるあり方」「有害となりうるあり方」という可能性において発見される。
つまり適所全体性は道具の可能性の全体として発見されるのだ。
一方目の前にあるものの総体つまり「自然」の存在も自然を可能とする条件が開示されていることに基づいてのみ発見されうるものとなる。
しかしなぜそのようにして自然の存在が理解されるのかについては示されないままになっている。
理解は「投企(Entwurf)」という実存論的構造を持っていて、常に可能な存在のありかたに移行していく。
そのような理解は現存在の存在を「なにのゆえに」や世界性そのものである有意義性に向けて投企している*10。
そして現存在は被投性によって投企するという存在の仕方に投げ込まれている。
だから投企することは現存在が能動的に計画を持ってある存在となることではなく、現存在はすでに自分を投企してしまっていて投企することで存在している。
すなわち現存在は常に投企によって自分の可能性として存在していて、そこから自分を理解しているのだ。
しかし可能性へと向かっていく理解は自分がそれに基づいて投企する可能性を把握しているわけではない。
もし理解が可能性を最初から把握しているなら投企された現存在の実存は可能性ではなくなり「与えられ、思いなされ、存立していることがら」へと引き下げられる。
だから可能性が把握されないまま現存在の存在が可能性に向けて投企されることによって、可能性は可能性として存在することができる。
投企によって可能性として存在することで現存在は常に実際にある「以上の」ものである。
すなわち、現存在は実存論的にいえば、じぶんの存在可能においてまだそれではないものなのである(was es in seinem Seinkönnen noch nicht ist, ist es existenzial)。*11
理解とその投企という性格によって現存在は現にここに存在していて(「現」が構成されて)、現存在は常に自分がそれになったりならなかったりする可能性として存在している。
投企という性格は世界内存在が先立って開示されていることに常に関わっている。
そして理解はそれ自身存在可能であるから様々な可能性を持っている。
第一次的に理解は世界の開示性として存在していて、その場合現存在は世界の側から自らを理解することができる。
そうでない場合は理解は現存在の「なにのゆえに」を了解する理解であり、その時現存在は自身の「なにのゆえに」を先立って了解する存在者として実存する。
ゆえに理解には固有な自己から現れてくる本来的なものと世界の開示性としての非本来的なものの二種類がある。
しかし世界は世界内存在としての現存在に属しているので、非本来的な理解も本来的な理解と変わらない。
そして存在可能である理解はどちらにせよ正しくも間違ってもありうる。
また理解が本来的、非本来的のどちらの可能性に投げ入れられるにしても、もう一つの可能性が無くなるわけではない。
以上から世界についての理解のうちで内存在が理解されており、逆に実存についての理解は世界についての理解となるのだ。
そして現存在は理解の可能性の一つに投げ入れられて存在を可能としている。
理解は配慮的気づかいにおける目くばり、顧慮的気づかいにおける見かえすことである「見ること」を実存論的に構成する。
これは存在そのものを「見ること」であり「現」の開示性と共に実存論的に存在している。
実存に関係する「見ること」を「見とおすこと(Durchsichtigkeit)」と呼ぶ。
この見とおすことは一個の点としてではなく世界内存在、共同存在としての自己を認識することを意味している。
見とおすことに失敗するのは自己を一点としてみているためだけでなく、世界そのものを見ていないためでもある。
「見ること」は現存在が「現」によって明るくされていることを指している。
見ることは視覚的なことでも目の前にあるものとして非感性的に捉えることでもなく、「存在者をそれ自身に即して出会わせること」である。
そして見ることはすべて第一次的に理解に基づいている。
また「直感」や「思考」は理解から派生してそこから距たったものだ。
「現」が開示されている、すなわち「現」を理解していることは現存在の存在可能のひとつの様式である。
そして理解は「なにのゆえに」や有意義性を理解するという存在様式に向けて現存在の存在を投企しているから、存在一般がそこで開示されている。
だから様々な可能性に向けて現存在の存在が投企されていることのうちで現存在の先立った存在了解が生まれる。
ゆえに理解という実存を構成するものにおいて先立った存在了解が獲得されるのだ。
以上から情態と理解という実存カテゴリーが世界内存在の開示性を説明している。
理解という気分付けられた情態にあって現存在は自分の可能性を見て取っているし、反対に可能性に投企しながら開示することで気分付けられている。
被投的な投企という存在体制は現存在をますます謎めいたものにしてしまう。
まず情態付けられた理解という実存カテゴリーを具体的に解明する必要があるだろう。
第三十二節 理解と解釈
「理解」が持つ投企という作用は自分を完成させる固有な可能性を持っていて、その完成を「解釈(Auslegung)」と名付ける。
現存在に先立って理解されている有意義性の連関としての世界の個々の道具が明示的に「見ること」のうちに入り込んでくることが「解釈」である。
その際手もとにある道具は「〜のために」あるもの「として」了解されていて、つまり「あるものとしてのあるもの」と解釈される。
例えば現存在は手もとにある道具を机、椅子、ラップトップ「として」常に見て取っている。
理解される道具は「〜として」解釈されることの中で有意義性の全体から分節化されて個々の道具となるので、理解と解釈は対象への言明に先立っている。
そして「〜として」見ることから逃れて対象を目の前にあるものして見るものの見方にはこの「理解」が欠如している。
この「解釈」は目の前にあるものに「意義」を投げ入れ価値付けることではなく、世界内部的な存在者から適所性を取り出すことなのだ。
手もとにあるものがそこから理解されている適所全体性は一旦は明示的に解釈されても再び目立たないあり方に戻っていき、目立たないあり方において適所全体性は日常的な解釈の基礎となる。
そのような解釈は適所全体性の先立った理解(「あらかじめ持つこと(Vorhande)」)、適所性を分節化して解釈するのための観点を先立って定めておくこと(「あらかじめ見ること(Vorsicht)」)、さらに道具を概念的に把握しておくこと(「あらかじめ掴むこと(Vorgirff))」)に基づいている。
そうして道具は解釈可能なものとなり、解釈において道具はそのものに基づいた概念やそうではない概念に押し込められてしまっている。
さて、この理解の「あらかじめ構造」と解釈の「として構造」は投企という現象と何か関係があって、それゆえに投企は現存在の存在体制を指し示しているのだろうか。
このことを解き明かすためには理解と解釈の構造として見て取られるものが統一的な現象を示していないか考える必要がある。
世界内部的な存在者が現存在の存在と共に了解されている時その存在者は意味を持っていると言われるが、その場合理解されているのは意味ではなく存在者や存在である。
意味とは理解によって開示される適所全体性の中で分節化可能なものであり、投企がそれに基づいて行われる現存在の存在可能が解釈を通じて構造化されたもので、その意味の側からあるもの「として」理解が可能となる。
また理解と解釈が現存在が現にここににあること(「現」)の実存論的な構造契機なので、意味は現存在の理解が開示していくことの実存論的な基礎でなければならない。
だから意味は現存在の実存カテゴリーであり、現存在だけが有意味であったり無意味であったりする*12。
現存在が意味を有するというのは世界内存在が「明るみ」によって出会うものを開示することによって、現存在の存在と出会われる存在者を実際に了解することである。
そして現存在以外の存在者は意味を持たない没意味的なものであり、没意味的なものだけが現存在の存在に衝突する反意味的なものでありうる。
また存在の意味の問いは、意味が存在可能(=現存在の存在)が構造化されたものであることから現存在の先立った了解によってとらえられる存在を問うことである。
解釈は理解の「あらかじめ構造」のうちで行われているから、現存在は解釈する対象を先に理解していなければならない。
このように理解を前提とする限りで解釈には循環があり、この解釈は厳密な認識とは認められないのではないか。
しかし、循環は悪いものだという決めつけも「理解」を誤解しているから生じるのだ。
その場合理解は特定の理念に押し込められてしまっていて、世界内部的に出会われるものは目の前にあるものとして見られ、本質的に理解できないものと勘違いされてしまう。
だから循環を避けるのではなく、正しい仕方で循環の中に入り込まなければならない。
解釈の最初にして最終的な目標は「あらかじめ持つこと」「あらかじめ見ること」「あらかじめ掴むこと」を仕上げる中で学問の対象となるものを決めていくことで、それにより根源的な認識に至ることができる。
その解釈の前提となる理解は現存在の存在可能であるから、解釈に基づく歴史学的な認識の前提は科学の理念よりも豊かであり、数学は歴史学より厳密なのではなく狭隘なのである。
理解における循環は意味の構造に属していて、意味の構造は現存在の解釈しつつ理解するという存在体制に根ざしている。
だから現存在は循環構造を持っているが、循環というのが目の前のものについての概念なので現存在をこれによって存在論的に説明するのは避ける必要がある。
第三十三節 解釈の派生的様態としての言明
言明(判断)は理解に基づいた解釈の派生的な様式であり、その限りで意味を有している。
まずは解釈の派生である言明が解釈の「として構造」をどの様に変様させているか示す必要があるだろう。
そして古代の存在論において「ロゴス」が存在を規定するための概念として用いられていたことから、言明についての分析は基礎的存在論においても重要である。
また真理は言明のうちにあるものとみなされていることから、言明についての分析は真理についての解明を準備するものである。
以下では言明という語に三つの意義を割り当てる。
一つ目は「提示すること(Aufzeignung)」であり、言明された存在者はその存在者の側から開示される。
この場合言明では意味や表象、観察者の心的状態などではなく手もとにある存在者そのものが提示されている。
二つ目は「述語付けること(Prädikation)」であり、主語が述語によって言明され規定される。
述語付けることの基礎には提示することが含まれているから、第二の意義の言明は第一の意義の言明に基礎付けられている。
主語として規定されることで存在者は例えばハンマーといった存在者に限定されるが、述語によって主語は規定されたあり方において明示的に見てとられるようになる。
三つ目の意義は「伝達すること(Mitteilung)」であり、伝達することとは規定されながら提示されたものを共に見えるようにさせることである。
この場合他者と分かち合われる(伝達される)のは提示されたものに関わる存在、世界内存在である。
また言明には「言表されているという性格(Ausgesprochenheit)」があるので、その言明を聞いた人が対象を手もとにあるものとして持っていない場合もあり得て、その場合言明は伝言されたことになる。
以上の言明の三つの意義をまとめると、言明とは「伝達しつつ規定する提示(mitteilend bestimmende Aufzeigung)」である。
そして解釈の変様であるこの言明は解釈と同じ構造を持っている。
まず言明は理解において既に示されている(「あらかじめ持つこと」)ものを提示する。
次に述語付けて規定することにおいて適所性を持った対象に方向を合わせて見やることが先立って行われている(「あらかじめ見ること」)。
そして伝達としての言明には対象を概念的に分節化する働きがあり(「あらかじめ掴むこと」)、その分節化は言語などの一定の概念構成の中で行われている。
さて、言明においては解釈の何が変容しているのだろうか。
論理学の定言的言明「このハンマーは重い」というのはハンマーが重いという属性を持っているということを意味している。
一方解釈においては同じ「このハンマーは重い」においても「このハンマーは重すぎるから別のものを!」ということを意味することができる。
だから解釈は理論的な言明の中で行われるのではなく、手もとにあるものを配慮的に気遣うことの中で行われる。
言明においては「あらかじめ持つこと」で了解される手もとにあるものの「それによって(Womit)」が言明の「それについて(Worüber)」に変様してしまう。
「それによって」とは解釈によって捉えられた、例えばハンマーによって何かをすることで、それは言明される際にその言明の対象として「それについて」に置き換わってしまう。
そして言明において「あらかじめ見ること」は目の前にあるものに焦点を合わせていて、それによって言明の対象は手もとにあるものとしては見えなくなってしまう。
ここで解釈の「として構造」が適所性をつかむことから変様して、目の前にあるものを規定することとなっている。
この様にして言明は目の前にあるものを提示し、規定し、伝達することができるようになる。
以下では解釈における「として」は実存論的−解釈学的な「として」、言明における「として」は命題的な「として」と呼ばれる。
また解釈と言明の間には様々な中間段階がある。
そして解釈から生じた命題を理論的な言明に還元してしまうとその意味が転倒してしまう。
ロゴスは目の前にあるものとして考えられてきて、目の前にある様々な言葉の間の結合が問題となってきた。
アリストテレスによればロゴスは総合であると同時に分解であり、提示はまとめることであり切り離すことでもある。
しかしロゴスの構造内のどんな現象が総合と分解を可能にするのかについてはまだ問題になっていない。
ロゴスの統一において「あるものとしてのあるもの」が言い当てられていたはずであり、その時あるものがあるものと付き合わされて理解される。
そして同時に分節化する解釈によって言葉たちが分解される。
解釈学的な「として」が明確に捉えられていなければ、ロゴスの分析は表象や概念の結合や分離についての形式的な判断論となってしまうだろう。
また総合と分解をさらに形式化して「関連付け」と捉えると、言明(判断)は計算の対象ではあっても解釈の対象ではなくなってしまう。
「繫辞(Copula)」という現象において存在論的な問題系とロゴスについての論理学の関係が示されている。
ロゴスの総合という構造は自明のものとされてきたし、それは解釈の基準ともなってきた。
また言明や存在了解が現存在の実存論的な在り方であるから、「である(ist)」という言葉とそれについての解釈*13も実存論的分析論において問題となってくる。
重要なのは言明が理解しながら解釈することの派生であるという点と、ロゴスについての分析が実存論的分析論に根ざしているという点だ。
古代存在論においてはロゴスの解釈が十分でなく、ロゴスとそれが示すものが目の前にあるものと捉えられ、そうしたあり方が他の存在可能性と区別されることもなかった。
第三十四節 現−存在と語り。ことば
情態性と理解は等根源的に「現」を構成していて、理解に解釈の可能性が含まれていたのと同様に情態性にも了解の可能性が含まれている*14。
さて、言明というものの分析において言うことや話すことが問題となった。
ことばという現象は現存在の実存論的な開示性に根ざしていて、ことばの実存論的な基礎は「語り(Rede)」である。
そして「語り」は実存において情態性や理解と等しく根源的である。
世界に対する了解の可能性は解釈に先立って分肢化されていて(「あらかじめ見ること」)、その分肢化こそが語りなのだ。
だから意味とは解釈において語りによって分肢化できるものである。
語りでは意義全体(適所性の全体)が様々な意義に分解されている。
また語りは開示性(「現」)の実存カテゴリーであると同時に、開示性は世界内存在によって構成されているから「世界的」なものでもある。
そして了解可能性の全体つまり意義の全体が「語」として分節化されて現れてくるので、語という目の前にある事物に意義が後から与えられるのではない。
外側に言表された語りがことばであり、語りが世界的であることからことばも手もとにあるものと同様に世界内部的な存在者である。
だからことばは個々のことばとして、手もとにあるものがそうであったように目の前にあるものとして捉えられることもある。
また語りは被投性を持つ世界内存在の開示性を分節化しているから、語りは実存論的には同じく被投性を持つことばなのだ*15。
語りつつ発言することには「聞くこと(Hören)」「沈黙すること(Schweigen)」という様態がある。
世界内存在は共同存在なので顧慮的に気づかい合う共同相互存在の特定の情態として存在している。
そして共同相互存在は例えば相談するといったように語りながら存在している。
語りは気づかいながら存在している世界内存在を構成するものであるから、語りには常に「なにについて」という語られる対象が付属している。
語りにおける伝達で、理解し合っている共同相互存在が分節化される。
共同現存在は情態性や理解の開示性において既にあらわになっているから、「伝達(Miteilung)」は一つの主観の内部からもう一つの主観の内部へと体験を伝達することではない。
語りにおける伝達ではむしろ共同存在が明示的に分かち合われる(teilen)のだ。
「現」として開示性を備えていて、気づかわれる対象の元で存在している現存在は語ることによって自分を外に現表する。
語る調子や抑揚によって現存在の気分(情態)が現表されている。
語りを構成するのは「なにについて」、語られているもの、伝達の三つであるが、それらは単なる属性ではなく現存在の存在体制に関わっている。
そして語りの実際の形態である個々のことばはこの性格によって初めて存在論的に可能となる。
語ることの可能性の一つである「聞くこと」から語りが理解や了解可能性と関わっていることが明らかになる。
「聞いていなかった」ということが「理解していなかった」と言い換えられることもこの関係を示している。
何かを聞くことは現存在が他者に対して開かれていることで、聞き取ることで相手に所属して存在している。
だから相互に聞き合うことで共同存在が形成される。
注意して聞くことは理解しながら聞くことであり、私たちは単なる音を聞き取るのではなく「何かの音」ととして受け取っている。
このようにして何かの音として聞くことは現存在が手もとにあるものの元で存在しているということを示している。
他者の語りを聞く時も、現存在は語られているものの所に他者と一緒に存在している。
語りがどのように行われていて、それが相応しいかどうか判断できるのも語られている対象を先立って理解しているからだ。
語ることと聞くことが実存論的に可能となって初めて「注意して聴くこと(horchen)」が可能となる。
すでに理解している者のみが、耳を傾けることができるのだ。*16
互いに語り合うことにおいて沈黙することは、多くを語りすぎることよりも伝えたいことを相手に理解させることができる。
なぜなら多く語ることで常套句によって見せかけの理解や明晰さが得られてしまい、本来的な理解が遠ざかってしまうからだ。
ところで最初から口のきけない人は沈黙することができない。
だから沈黙することができるのは語ることができる存在者、すなわち自分の開示性が手の届くところにある存在者である。
そして沈黙という語りのバリエーションの一つにおいて了解可能性が根源的に分節化され、真正な「聞くこと」が生まれてくる。
語りは「現」すなわち理解と情態性を構成しているから、現存在は常に言葉を有している。
そこからギリシャ人は人間を「ロゴスを持つ動物」と定義していた。
このことが意味しているのは人間が言葉を発する動物であるということではなく、現存在は世界や現存在を発見するという様式で存在しているということだ。
これまでの哲学的省察ではロゴスは言明として考えられ、文法学はロゴスを目の前にあるものとみなす論理学に基づいている。
しかし本来は語りは実存カテゴリーであり、言語学はより存在論的に根源的な基礎の上に構築し直されなければならない。
そのためには語りの構造が明確化されなければならず、そのために現存在の存在についての分析を成功させなければならない。
結局哲学においてはことばがどのように存在しているのかを問わなければならない。
以上でのことばについての探求はことばが現存在の存在体制においてどのような役割を持っているのかについて解き明かすものであった。
次に語りとその他の現象との関連から現存在の日常性をより詳細に明らかにしていく。
感想
第一篇第五章では「現(Da)」という概念が提示された。
ここでの記述が少なくわかりづらいのだが、読んでいる範囲での使われ方を見ると「現存在が現に存在していること」を指しているようだ。
つまり現存在や世界がただ概念としてあるだけでなく、実際に存在していることが「現」なのだろう。
そして「現」は「明るみ」でもある。
これまた難解な概念だが、現存在自身や手もとにあるもの、他者が現存在が現にそこにあること(「現」)によって初めて了解可能となるということだろう。
(ハイデガーの言う)現象学的には事柄それ自身が開示性を持っているため、それらは探求によってではなく「現」によって開示されてくる。
共同存在として他者と溶け合って「ひと」として存在している現存在をある一点として捉えて、その周囲にある道具が発見されると主張することはできないが、それでも発見される道具とそうでない道具がある。
だから点ではなく曖昧な明るみとして現存在が存在していて、その明るみに照らされた道具と現存在自身が発見されるということだと思う。
第五章Aではまず情態性という概念が提示された。
これは現存在が実際に存在しているその具体的なあり方のことで通常は気分と理解される。
私たちは何かの気分になろうと思ってなるのではなく、気付いたらその気分になっている。
この受け身の性質が「被投性」と呼ばれるものだろう。
先日教授にショーペンハウアー哲学のハイデガーに対する影響について聞いた時、この「気分」を主題的に扱った点がショーペンハウアーの影響だと言っていた。
カントにおいては感情や気分はあまり扱われないが、ショーペンハウアーは「生への意志」として人間が持つ感情や衝動を中心的な課題として研究していた。
生への意志は全てに先立って存在していて人間はその現象として欲望を「持たされている」にすぎないから、感情に「襲われる」という観点にもショーペンハウアーの影響が見られる。
次に投企という性質を持つ「理解」が登場した。
この理解は存在者の適所性の全体(=世界)の開示性としてあるものだが、理解にはもう一つの意味合いがある。
例えば「自転車の乗り方を理解した」という時、「自転車に乗ることができる」ということも意味されている。
だから理解には何かが可能であるという意味があるとハイデガーはいう。
すると理解することは「何かが可能となること」をも意味している。
投企というのはある可能性が実現されてくる(「現」となる)ことで、自転車の乗り方を理解する時「自転車に乗ることが可能である」という現存在の存在の可能性が実現されている。
だから理解には投企的な性格があり、理解することで現存在は自分自身の存在をある可能性に向けて投げ込んでいる。
この例で見られるように現存在は理解することで何かが可能であるような存在すなわち「可能存在」となっている。
また理解という投企も現存在の「現」として一つの情態であるから、投企は同時に被投性も持っている。
すると現存在は投企するというあり方で既に存在してしまっていることになる。
だから現存在は常に自分の存在を可能性に向けて投企し終えている。
つまりどれが今の現存在でどれが可能性なのかの区別がそもそも不可能であり、それゆえに現存在は可能性として存在していると言われるのだ。
何かが可能である存在が同時にその可能性そのものでもあるというのは明らかな矛盾で、それをハイデガーは踏み越えようとしている。
ハイデガーのすごいところは既存の言語を用いて既存の言語ではどうやっても矛盾をきたす概念を説明しようとしていて、さらに部分的にはそれに成功しているというところだと思う。
そして解釈という行為の構造について分析された。
解釈を行うためには有意義性の全体(=世界)を先立って理解していること(あらかじめ持つこと)が必要であるとハイデガーはいう。
この循環は「観察の理論負荷性(Theory-ladenness of Observation)*17」として科学哲学の文脈で語られる概念を想起させる。
観察の理論負荷性は、何かを観察する際に観察者が先立ってコミットしている理論体系やパラダイムの影響を受けるということである。
ハイデガーはこの循環を悪いものと考えるのではなく、循環に正しく入り込むことが重要だと言っている。
観察の理論負荷性が取り沙汰される文脈では世界内部的な存在者は「目の前にあるもの」とみなされて研究されていて、そこでは循環が悪いものだと考えられている。
現存在は世界を先立って理解しているという議論には納得できるので、私は現段階ではこの循環を受け入れるのがいいと思っている。
第三十四節では「語り」というもの何なのかが提示された。
そもそも有意義性の連関の全体として有機的に一体となっていた世界が語りによって裂け目を入れられて個々の有意義性(意味)が生まれてくる。
私たちが普段想像する「個人」というものも語りによって共同存在(「ひと」)から分節化されたものだ。
だからそもそも根本的に存在しているのは「ひと」で「個人」だとか「主観」というものは語りによってそこから切り出されたものなのだろう。
語りによって「私」が生まれるという論を読んだ時に脳裏をよぎったのが先に読んだデネット『解明される意識』の「物語的重力の中心としての自己」だった*18。
この自己は網の目状の発話と行為を紡ぎ出し、それがあまりに高度なので「自己」にあらゆる命令を発する中心的な主体が存在するように思われたのである。
ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ
自己から紡ぎ出された物語はあたかも単一の源泉から流れ出すようにして生み出されて、受け取った者に「物語的重力」の中心であるような、物語の主人公である統一的な行為者の存在を措定させる。
ダニエル・C・デネット『解明される意識』第Ⅲ部 - Revenantのブログ
自己が生まれるプロセスについては少し相違があるが、中心的な一点としての自己が語りや行為によって生み出されるという結論は一致している。
(2017/2/19追記)
「現」は「ひと」としてどこにもいない現存在がそれでもある一定の場所において存在しているということ。
どこにもいなければ何も開示されないが、「ここ」にいるなら「ここ」にあるものは開示される。
すなわち「現」=「開示性」。
手もとにある道具のもとで存在している現存在の有意義性を理解する(という形で存在する)=現存在の可能性として存在する。
ただ道具が開示されるだけではなくその有意義性(可能性)が「理解」される。
有意義性の理解として存在する現存在は、道具の可能性として存在する可能存在である。
この記事の続き、第五章B、第六章前半(第三十五節〜第四十二節)については以下の記事に書いた。
re-venant.hatenablog.com
*1:この「現(Da)」というのは存在という概念があるだけではなく「現に」実際に現存在が存在していることを言っているんだと思う。
*2:1.1.5.28.370 p145
*3:ここでの「情態」は配慮的気づかいとしての現存在の具体的なあり方のことだろう。「状態」の同義語でもあるので現存在の状態に感情の意味を加えた表現とも受け取れる。
*4:1.1.5A.29.378 p151
*5:ここではなぜ何も無いのではなく何かが存在しているのか、「現」があるのかという存在論的な謎が信仰や科学によっては解き明かせないものとしてあるということを言っているのだと思う。
*6:1.1.5A.29.383 p160
*7:注解によると失調、意気消沈なども意味している。この場合意気消沈の方がわかりやすい気もする。
*8:1.1.5A.29.387 p166
*9:1.1.5A.31.407 p194, 195
*10:「なにのゆえに」や有意義性を理解するという存在の様式に投企していくことだと思う。
*11:1.1.5A.31.410 p201
*12:現存在が手もとにあるものの元で存在している時のみ有意義性の分肢化が行われて意味が生じるということだろう。(2017/2/19追記) 手もとにある道具のもとで存在する現存在が「意味」を文節化されているということ。確かに道具は現存在がそこで存在するときのみ意味を付与されるが、現存在がそのもとで存在していない時の道具はそもそも開示されていない。
*13:AuslegungではなくInterpretation
*14:情態性において「現」が開示されることを言っているのだろう。
*15:了解可能性が語りによって先立って分節化されて、最初からある意義を持ってことばが生まれてくるからことばも世界内存在と同じように被投性を持っていると言われるのだろう。
*16:1.1.5A.34.466 p278
*17:Theory and Observation in Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy) "4. How observational evidence might be theory laden"に詳しく書いてある。
*18:詳しくは以下の記事re-venant.hatenablog.com
2016/3/18のNOUS FMで使った曲
2016/3/18放送のインターネットラジオ番組"sprout's dub 94 on NOUS FM"でのmixで使用した曲について書いていく。
ラジオ放送のアーカイブは以下。
また使った曲をサウンドクラウドでプレイリストとしてまとめてある。
josh pan & X&G - platinum (gill chang remix)
1/29にリリースされたコンピレーション"OWSLA Worldwide Broadcast"の一曲をノースカロライナのGill Changが早速リミックスしたのがこの曲。
原曲よりかなり速度を上げて、硬質なスネアとベースが特徴的なトラップとなっている。
Gill Changは他にもflumeの”never be like you feat. kai”や"smoke and retribution feat. vince staples & kucka"、zedd & aloe blacc & greyの"candyman"を相次いでリミックスしてサウンドクラウド上で公開していて、それぞれ無償でダウンロードできる。
どれもシャープなシンセサイザーの音色とうねるベースラインが心地いいフューチャーベースとして仕上がっているので聴いてみてほしい。
YOGI - SIRI Feat. Elliphant & Pusha T (KRNE remix)
YOGIがElliphantとPusha Tの二人のラッパーとコラボした"SIRI Feat. Elliphant & Pusha T"をインテリジェントなトラップシーンの筆頭格KRNEがリミックス。
KRNEがラップの乗ったトラップを制作するのは珍しいので印象深かった。
不穏なピアノの旋律やベースと一体となって厚みのあるシンセサイザーがElliphant、Pusha T二人のラップ/ボーカルと組み合わさってダークな雰囲気に仕上がっている。
以下のリンク先から無償でダウンロードできる。
https://www.toneden.io/krne/post/yogi-siri-ft-pusha-t-elliphant-krne-remixwww.toneden.io
Masayoshi Iimori - Whirlwind(Blacklolita Bootleg)
OWSLAのサブレーベル"NEST HQ"からリリースされたMasayoshi Iimoriの"Whirlwind"を福岡在住のBlacklolitaがリミックスしたのがこの曲。
Blacklolitaは攻撃的なダブステップを軸として様々なジャンルを融合させたトラックメイクを得意としていて、この曲ではフューチャーベースやジャージークラブを独自解釈して盛り込んでいるようだ。
Lidoの変名義として2013年から2015年初頭にかけて活動していたTrippy Turtleがよく使っていた"fofofadi"や"Turtle"というボイスサンプルやベッドスクイークを多用しているのが、2016年の流行からちょっとハズしている感じがして良い。
曲のキャプション欄にdropboxのリンクがあり、そのリンク先からダウンロードできる。
X&G - Replika ft. Naim Liss
ソルトレイクシティのXianとGasziaの二人組みユニットX&Gのこちらのトラックも紹介した。
この曲自体は半年前から公開されていたが、2016/1/1にX&Gのアルバム"Anomalies"に収録されるという形でリリースされた。
凄まじい重圧を感じさせるバスドラムとベースが特徴的でサウンドシステム映えしそうである。
また前半と後半でビートの組み方がガラッと変わるのもこの曲の面白い点の一つだろう。
余談だが「アノマリ」とはある理論からは説明できないような事象や観測結果のことで、科学哲学者のトーマス・クーンが「パラダイムシフト」の誘因として論じていた*1。
11曲+ボーナストラック4曲入りの"Anomalies"は以下のbandcampページで1ドルから購入できる。
Yellow Claw, San Holo - Alright (Original Mix)
2016/1/29にSkrillexのレーベルOWSLAからリリースされた"OWSLA Worldwide Broadcast"から一曲紹介した。
この"OWSLA Worldwide Broadcast"はGetter, Wiwek, Boaz, Louis The Child, DJ Sliink, Nadus, G-Buck, Alvin Riskといった今勢いのあるアーティストが集合していて豪華なコンピレーションとなっている。
トラップやハードスタイルを製作しているYellow Clawとフューチャーベースのシーンで活躍しているSan Holoが合作するのは意外だったが、化学反応によって面白いトラックになっていると思う。
OWSLA Worldwide BroadcastはiTunes StoreやBeatportから購入できる。
Ryan Hemsworth & Lucas - From Grace (Henrik The Artist Remix)
Ryan Hemsworth & Lucasの"From Grace"を謎に包まれたトラックメイカーHenrik The Artistがリミックス。
Ryan Hemsworthが運営しているレーベル"Secret Songs"のサウンドクラウドページで公開されていてフリーダウンロードで入手できる。
壮大で開放感のあるブレイクから小気味良いビートに切り替わっていく規模感のズラしが良い感じ。
原曲の"From Grace"は同じく"Secret Songs"からリリースされたRyan HemsworthとLucasの合作EP"Taking Flight EP"に収録されていて、こちらのEPは作り込まれたエモーショナルで繊細なビートが楽しめる作品集となっている。
ABSRDST & Diveo - We're Beautiful (Maxo Icemix)
ABSRDSTとDiveoのコラボトラック"We're Beautiful"をMaxo, Matra Magic, Foxsky, GRRL, Masayoshi Iimoriがリミックスした"We're Beautiful Remixes"から一曲紹介した。
Maxoはニューヨーク在住のトラックメイカーでオリジナルトラック以外にもブートレグやリミックスを多数製作している。
このリミックスは極度にピッチを上げてカットアップされたボーカルとゆったりしたビートが特徴的で叙情的な仕上がり。
その他のリミックスはこちら。
以下のリンク先から全曲無償でダウンロードできる。
Machinedrum - Take Flight (FVLCRVM rmx)
Machinedrumの"Take Flight"リミックスコンテストで400を超える応募の中で優勝したこのトラックはMachinedrumのサウンドクラウドページで公開されていて、フリーダウンロードで入手できる。
ジュークのリズムを取り入れたフューチャーベースで、イントロの一旦キックとベースだけになった後にスネアの連打が入って一気に盛り上がるところが気に入っている。
FVLCRVMという名前はfacebookで"支点 (FVLCRVM)"と表記されていることからラテン語で「支点」を意味する"fulcrum"から取っているのだろう。
このリミックス以外にもオリジナル曲"Jet City"もオススメ。
tofubeats Feat. の子 - おしえて検索 (PARKGOLF Remix)
tofubeatsの"First Album Remixes"が"POSITIVE REMIXES"の初回生産限定盤付属としてCD化されたのでそれに収録されているこの曲を紹介した。
この"おしえて検索 (PARKGOLF Remix)"は跳ね回るシンセサイザーとビートが楽しいリミックスとなっている。
"First Album Remixes"には他にも"Come On Honey! (spazzkid Remix)"や去年各地のクラブでよく耳にした"CAND¥¥¥LAND (Pa's Lam System Remix)"も収録されていて豪華。
"POSITIVE REMIXES"初回限定盤はタワーレコードやAmazonなどで販売されている。
tofubeats/POSITIVE REMIXES<初回生産限定盤>
"First Album Remixes"はダウンロード販売ならiTunes StoreやAmazonで、アナログレコードは売り切れてしまったようだ。
KRNE x Jupe - Quartzz
KRNEが送られてきたデモをもとに合作する"SESSIONS"シリーズ二つ目からマイアミのJupeとコラボレーションしたこのトラックを紹介した。
1:33からの重厚なパッドと爽やかなメロディーが気に入っている。
また"SESSIONS"のサウンドクラウドアカウント上でそれぞれ個性的な合計8曲が公開されているので聴いてみてほしい。
https://soundcloud.com/krnesessions
KRNE x Jupe - Quartzzは以下のリンク先からフリーダウンロードで入手できる。
https://www.toneden.io/krne/post/krne-x-jupe-quartzz-sessions_22www.toneden.io